貝鳥貝塚(蝦島貝塚)

(No.10)岩手県西磐井郡花泉町油島
垂飾品(オオカミの下顎)

 東北本線が走る岩手県南端の油島駅からさらに数キロ南、貝鳥貝塚は岩手、宮城の県境に程近い。 ちょうど北から流れる磯田川と西から流れる夏川の合流する地点で、西方から張り出した丘陵の先端にあたる。 貝鳥貝塚のある丘陵は低いが周囲が水田地帯であるため四方見通が効く。
道路に面した土手には「縄文の精水」と名ずけた小さな石碑がおかれ湧き水が流れおちていた。 何千年もの間枯れることなく流れ続けているのだ。
貝鳥貝塚は珍しい淡水産からなる内陸性の貝塚で、宮城県迫川流域に群跡の北端に位置する。
 この丘陵から貝殻とともにおびただしい人骨が発見されたのは昭和31年のことであった。
「岩手大学学芸学部研究年報第15巻」1959年草間俊一薯と「貝鳥貝塚第4次調査報告書」1971年金子浩昌薯は共に貴重な遺跡であることを報告している。
最初の調査は昭和31年10月に東北大学伊東信雄教授の協力を得て行なわれた。 また翌年の昭和32年8月には二度目の調査が東京大学理学部人類学教室によって行なわれている。 発掘には地元の中学生が参加するなど話題に事欠かず、地元の人々にとっては前代未聞の出来事だったに違いない。
 発掘は当初からおもわぬ展開をみせた。 おびただしい人骨が出てきたのである。 その数20数体分というから、まさに墓場を堀当てた観がする。 今にしろ、まとまった縄文人骨の出土は希少である。そのことが翌年の東京大学の調査へと引き継がれる。 遺跡範囲は丘陵突端全域にわたると見られ貝層部は北斜面に見られた。調査は貝層部である北側斜面で行なわれた。 今日の発掘に比べるとその面積はわずかなものであったが、貴重な発見が相次いだ。
報告書はその時代を縄文中期から晩期と位置ずけている。 貝層は淡水産のタニシ類タガイを主とし、後期に最も多くの遺物を積層する。 注目されたのは、海との交易を示す鹹水遺物の出土であった。 発掘された鹹水遺物は僅かだがベンケイガイ・アカガイ・サルボウ・ユキノカサ・ハマグリ・ミルクイ・アサリ・マガキ・アカニシなどである。 全体量的にみて食用ではなく装飾加工用に搬入されたものと推測された。 実際、ベンケイガイ・アカガイ・サルボウ・ユキノカサを加工した腕輪等の貝製品が多数発見されている。 これらはどのような搬入経路を経たものか想像をかき立てるものがある。 貝塚が形成される背景には、湖沼からなる低湿地帯の広がりが想像され、早期における海進の影響を色濃く残したものとおもわれる。南20キロメートル程には鹹水産の認められる長根貝塚、また南東10キロメートル程には浅部貝塚が位置する。
 後の昭和41年と44年の調査と合わせ、貝鳥貝塚からは89体の人骨が発見されるとともに、様々な魚類、鳥類、哺乳類の遺物が出土した。 その多くはマグロ・カジキ・マダイ、カモ・マガン・ヒシクイ、ニホンジカ・イノシシ・タヌキ・イヌが占めているが、マダイにいたっては前額骨に穿孔したもの、オオカミの下顎に穿孔した垂飾品、オオカミの頭部を彫刻した鹿角の棒、クマの犬歯に穿孔した垂飾品などの優れた骨角牙製装身具が含まれていた。
 伊豆沼周辺は現在もなお渡り鳥の飛来が見られ豊かな自然環境を残している。
■参考文献■
「岩手大学学芸学部研究年報第15巻」1959年草間俊一薯
「貝鳥貝塚第4次調査報告書」1971年金子浩昌・草間俊一薯
「宮城の研究1」
「貝塚の獸骨の知識」金子浩昌薯/東京美術