コトバ表現研究所
はなしがい158号
1999.9.1 
この号をお読みの方はかならず159号もあわせてお読みください。

 九月三日、東京新聞の一面トップで、文部省が「指導力不足」の教師をどうするかなどについて研究を始めると報道されました。  二十六都道府県・政令指定都市に委嘱して研究する三項目は、(1)「指導力不足」の教員の人事管理、(2)心の問題を考える教員の人事管理、(3)採用期間など教員の採用選考に関する人事管理です。(1)には、生徒をうまくまとめられないケースだけでなく、体罰を行ったり、児童生徒に暴言を吐くような場合も含まれています。

 二人の教育者の談話もありました。一つは「日本子どもを守る会」名誉会長・太田尭氏で「教師の抑圧につながりかねない」というものです。もう一つは教育評論家・尾木直樹氏で「教師の資格の評価は(中略)親や教師など子どもたちに近い立場の人間が判断し、長期的に取り組むべき問題」だといいます。

今の学校の先生は……

 先日、高校生の子どもをもつ母親から、ここ十年ほどの小中学校の先生についてきびしい声を聞きました。この人は大学を卒業して二年ほど、中学校で国語の先生をしたことがあります。教育にも関心が高く、時間的にも余裕があったので、小中学校のPTAの役員をずっとつとめてきました。

 「学級崩壊」の原因のひとつは、先生が子どもと人間として接する基本ができていないからではないかというのです。それは一歩ゆずるとしても、最近の教師が専門の知識にさえ欠けていることにおどろくそうです。PTAの仕事で学校へ行って、たまたま通りかかった教室の先生の話を耳にして、自分が代わって授業をした方がましだと思ったといいます。それも、自分が勉強した国語だけではなく、ほかの社会や理科でも、そうだったというのです。

 わたしが「通信」をはじめてから、もう十三年以上たちます。その間に教育についていろいろな声を聞いてきましたが、教員の質が下がってきているのは確かです。どうしてそんなことになったのでしょうか。単純に答えの出る問題ではありませんが、わたしなりに考えることをあげてみましょう。

 第一は、教員の知識や指導力の質の低下が、単に教員だけのことではなく、現代日本の全体的な問題だということです。日本文化全体の質が低下していると言いたいほどです。今の大学生の知的レベルはかつての高校生で、今の大学院生がかつての大学生のレベルだとも聞きます。そんな時代ですから、教員だけに成長を要求しても酷な気もしますが、未来の人間を育てる重要な仕事であるからこそ、すぐれた人であってほしいと望むのは当然のことです。

 第二は、「日教組」の弱体化と並行して、教育の教育に対する意識の低下もあるようです。戦後の日教組の運動は「教え子を再び戦場に送るな」という反戦と民主主義のスローガンで出発しました。いつか戦後が遠くなり、高度経済成長のなかで、親や子どもたちがより豊かな生活を求めるようになったころ、何のための教育なのか、その根本が揺れ始めていたのではないでしょうか。日教組の運動は、一般の労働運動とはちがって、教育研究集会に見られるように教育内容を高める運動でもあったのです。かつて先生というと、たくさん本を読む人というイメージがありましたが、今は、先生でさえ本を読まないと本屋さんが嘆いているような時代です。

 第三は、教師になろうとする人たちの意識の変化です。これまでに行われた教育採用の制度が、今のような教員の質をつくり上げたとも言えそうです。今から三十年近く前、わたしの仲間が教員を目指していたころには、学生自治会やサークル運動の経験者は、教員には採用されないという差別が問題になっていました。それがいつか問題にならないほど常識化されたようです。「学級崩壊」について聞いたとき、わたしがまず思い浮かべたのは、多くの先生が自治会運動やサークル活動の経験者だったら、そんなことは起らないだろうということでした。

 第四に、長くつづいた保守政権のもとで、ほぼ望みどおりの方向に、日本の社会と人間がつくられてきた結果だと思います。極端な言い方をするなら、いわゆる「愚民政策」の成功です。たとえば、小中学校における学習時間がどんどん減ってきたこと、勉学に付きものの努力や苦労を安易に回避することで、今は学問そのものを拒否するような風潮も生まれています。その一方で、人間がアタマを使うのではなく、情報を集約すれば知識が獲得できるような錯覚が教育政策の根本にうかがわれるのです。

基礎・基本としての言語能力

 グチばかり言うのでなく、どうしたらいいのかについても考えてみましょう。かつて、貧しいものにこそ学問が必要だといわれたように、不景気で先行きの分からない不安な時代には、一人ひとりが確かな能力を身につけることこそ必要だと思います。

 最新の文部省の学習指導要領の話題の中心は「総合教育」と「情報教育」です。総合学習とは、科目のワク組みを越えて、子どもたちに何かを体験させて、そこから学ばせるというものです。しかし、教育テレビなどで紹介される実践を見るかぎり、「学習」ではなく「体験」どまりのものです。まるで、終戦直後に実践されたものの、学力低下を招いて悪評をよんだ「生活単元学習」の再来のようです。情報教育も、コンピュータを使ってインターネットから情報を集めるというような教育で、コンピュータの操作技術の習得くらいで終わりそうな気がします。

 これらの教育は、教師がよほど意識的な工夫をしないと、子どもたちのアタマをはたらかせることにはなりません。おまけに、前回の指導要領で強調された音声言語の教育は影がうすくなりました。そして、一時はブームとなったディベート教育の声もほとんど聞かれなくなりました。せっかくの提案が十年足らずで、定着しないまま消えてしまいそうです。

 時代がどんなに複雑であろうと、経済がどんなに不況であっても、政治が乱れようと、その社会をあらためる力をもつのは一人ひとりの人間です。人間が人間と交流して社会を変えていくしかありません。そのときの力となるのは、人間としての基本的な能力です。その中心となるのは、他の動物とちがって人間だけがもつ言語の能力です。人間の高度な交流は言語で行われます。「読み・書き・ソロバン」に、さらに「話し・聞き」の能力を加えておきましょう。コトバの能力は、子どもだけが学ぶものではなく、おとなたちも一生かかって磨きつづけるべきものです。わたしは、あらためて、自ら学びつづけることの大切さを感じています。


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