コトバ表現研究所
はなしがい159号
1999.10.1 

 前号の内容について、読者のAさんからお便りをいただきました。読んだとたんに、ああ、やはりと思い当たりました。というのは、指摘された部分は、わたし自身、こう言いきってしまっていいものだろうかと迷って書いた部分だからです。
 Aさんは小学校の先生で、三十代の男性です。ご指摘の中心は次のことです。(改行はすべてつなぎました)
《知明さんが本文で述べている「教員の質が下がってきているのは確かです。」というのは、どのような根拠に基づくものでしょうか? 知りたいなぁと思いました。わたしは、(自分が現在教員をしているから職場内の仲間を守るという視点で見ているだけかもしれませんが)、教員の質は下がってきていないと思っています。しかし、これは、「思っている」「感じている」というだけであって、証拠、資料はありません。ですので、知明さんが「なるほど」と言わせる資料をお持ちならば、ぜひ、教えていただきたいと思いました。》
 残念ながら、わたしの判断には、Aさんの求めるような資料があるわけではありませんでした。この号では、わたしの判断の根拠について、もっと具体的にお話する必要がありそうです。

「昔の先生」と「今の先生」

 また、Aさんの次のような指摘にも、はっとさせられて、ありがたく思いました。
《たしかに、世の中の風潮として「教員の質が下がっている」といえば、納得するだろうなぁという風潮があると思います。でも、それは「風潮」であって危険だと思うのです。》
 世の中の「風潮」の危険については、これまで、わたし自身がしばしば警告を発していたことでした。都合のいい「風潮」をつくって、政策が受け入れられるように押し進めるのは政治の常道でした。
 わたしはすぐにAさんに返事を書きました。第一に、わたしの判断の根拠には、いわゆる調査資料のようなものがないこと、第二に、わたしが考えている変化は、数十年の単位の考えだということを説明しました。そして、この変化が国や政府の教育政策の大きな流れの到達点であるところへ視野を広げることが目的であったと書きました。
 わたしには、「昔の先生」と「今の先生」についての漠然としたイメージがあります。そこには、わたしが生徒であったときの先生に対する思い込みもあるかもしれません。考えてみれば、尊敬できるような先生は、そう多くはありませんでした。
 しかし、今になってみると、授業のやり方や指導の仕方などへの不満はあっても、人間として先生の存在が、今のわたしにとってはありがたい人との出会いだったと思えます。先生の存在自体に価値があったようです。ふつうの社会では、人間はさまざまに装って接するものですが、先生たちは、それぞれ人間としての姿を生徒たちにさらしていました。
 わたしが前号で「教員の質が下がってきている」と書いたとき、わたしの心には、現代の人間そのものの関わりが薄くなっていることや、教員ばかりではなく、人間そのものが貧しくなっているように思える現代社会への不満の表明だったようです。

●判断の四つの根拠

 あらためて考えてみると、教員の質の変化についてわたしが判断した根拠は四つになります。
 第一に、たしかにAさんの指摘するように最近のマスコミの報道がきっかけです。しかし、それほどうのみにしているわけではありませんし、わたしが、「最近」というのは、数年間の単位ではなく、数十年の単位で考えています。
 第二に、わたしの周辺の人たちのいわゆる「口コミ」の情報です。ありがたいことに、わたしが教育に関する「通信」を発行しているのを知って、いろいろな話をしてくれます。以前には、喫茶店でPTAの役員の婦人たちの話を材料にしたこともあります。マスコミの報道を見ても、自分の直接の見聞から感じていることと合致するときに、その報道を事実として受け入れているつもりです。
 第三は、わたしが知っている教育団体や教育関係の出版社で見たり聞いたりしたことです。とくに、出版の仕事はビジネスですから、採算をとることについてはシビアです。そこでは、執筆者である教師や教育団体について、とくにきびしい批評の声を聞くことが多くなっています。
 第四には、わたしが直接に交流のある教師たちです。わたしは専門学校の講師になったとき、それまで知っていた教師とのちがいにおどろかされました。わたしの知っていた教師たちには、どこか社会人として欠けた面を感じていました。最近読んだ、佐高信『親と子と教師への手紙』(1989/教養文庫)には教師たちのそんな欠点が的確に述べられていました。
 専門学校の講師たちは、一般の企業や職場でも働く人たちですから、あいさつひとつとっても、交際の仕方にしても、学校の先生とはまるでちがっていました。わたしがこれまでの「通信」で繰り返し書いた「先生になってはいけない」という自分への戒めも考えも、専門学校での経験なしには身につかなかったと思います。

●交流と対話の必要性

 今回のAさんのお便りは、わたしにとっては、あらためて、基本的な問題を考えなおすいいシゲキになりました。情報と判断、教師そのものに対する考えなどは今後も考えるべきことだと思います。
 そもそも、わたしたちの認識の範囲は限られています。世の中についての判断も、限られた情報や材料をもとに行っています。それでも、人間の直観というものはふしぎなもので、その限られた材料からかなり正確な判断ができます。もちろん、まちがうこともあるわけですから、教育においては、教員と生徒と父母など、立場のちがう人との対話が必要なのだと思います。わたしとAさんの資料不足を補うためには、相互の交流が大切なのだと思います。
 わたしが何よりもうれしかったのは、Aさんのお便りで、教師の具体的な状況がわかったことです。教育の問題は、うっかりすると、それぞれの場だけで考えられがちです。教師の世界と外部とが互いに理解されないまま、牽制し合うような関係もよくおこります。お互いの間には、コミュニケーションをはばむ壁があるようです。わたしは、今回のAさんとのやりとりは、その壁に穴を開けるひとつの例になるだろうと思っています。


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