金光教教団史覚書

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金光教の立教

(こんこうきょうのりっきょう)

金光教の教祖金光大神が、1859年(安政6)旧暦10月21日〈新暦11月15日〉に天地金乃神から「農業をやめて、難儀な人々を取次ぎ助けてやってくれぬか」との頼みをうけ、この時から、専ら神前にあつて取次の業に奉仕することに、その生涯を貫いた。この取次の業が、信仰の中心生命・一教依立の本源として、教団本部の神前において、金光宅吉(金光四神)、金光摂胤、金光鑑太郎へと伝承され、現教主金光平輝にいたる。また各地の教会の神前に於いても取次が行なわれ、教会活動の中核となってきた。従って、金光教の一切は、教祖金光大神がこの神の頼みを承けたときに始まる。

 しかし金光教祖の立教について、過去においては、これとは異なる見解もあった。例えば、『金光教別派独立願書』の冒頭に「金光教ハ教祖金光大陣(戸籍名)天保十二年ヲ以テ開創シタルモノニシテ…」と記述している。ところが天保十二年(1841)を立教とすべき金光教祖の事績は全くなく、翌天保十三年(1842)には長男亀太郎が4才で死去している。また『神道金光教会規約緒言』には、「本会講社ヲ結収スル所以タルヤ、教祖金光大神三拾余年間誠ヲ凝ラシ、真正ヲ以テ天地神慮ノ隋々、下ニ掲ル条々ノ教旨ヲ立ラレ以テ教諭セラレ…」とあり、さらに『神道金光教会大意』にも「吾金光教祖三拾余年間ノ星霜一日ノ如ク…」とあって、何れも三拾余年間を教祖の取次の期間と述べている。その根拠となる事績を推察すれば、1853年(嘉永6)以前に遡る事績が考えられる。として挙げるならば、1850年(嘉永3)8月に家屋(後に教祖広前となる)を買い取り普請をして、初めて金神を奉祀した事であろう。しかしながら、このことは、金光大神個人の信仰の初めではあっても、人を助けるという宗教行為には必ずしも繋がらない。

 要するに金光大神が、独自の信仰・教義に基づいて、世俗の生活から専ら人間救済の生活へと変革したのは、1859年(安政6)10月21日の神の頼みに承服された時であって、ここに取次の業に専従する最初の救済者が出現したのである。したがって、この事実を以て金光教の立教としている。

 但し、宗教の開宗を教義成立の意味に解して、その成立の時期を天地金乃神≠ニいう神名が確定した1873年(明治6)4月の「天地書附」の時点、又は、同年10月10日の御神伝開示の事績をもって妥当とし、この時を金光教の立教と考える意見もある。  


 参照事項 ⇒ 立教神伝   金光大神の生涯 U