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2003年2月のお嬢



 2月24日

 また中央線が人身事故で止まったらしい。
 なにゆえ、そんなに中央線に飛び込みたいのか。
 まぁ、快速だからひと思いに…ということなんだろうが、それにしても迷惑な話。
 東京では荻窪のイトコ宅に泊まるのだが、最近はほとんど毎回、事故による遅れに遭う。
 ちなみに今日の事故は、荻窪駅構内で起きたそうな。
 あの、馴染みのホームで……。
 荻窪は、普通の快速はとまるから、特快にでも飛び込んだろうか。
 おぉ、なんだか、やや吐き気。
 春だしなぁ。
 イトコたちが現場を見ていなけりゃいいけどな。
 ちょっと、荻窪鬱な夜。
 話は違うけど、職場でも、皆なんとなく不穏だ。
 春だしなぁ。



 2月23日

 月日はあっという間に過ぎて行く。
 しばらく書いていないな、と思っていたら、2週間もサボっていたのか。
 たまに人に会うと、最近更新してないね、と声をかけられてしまう。
 でも、楽しみにしている、と言われると、やはり嬉しい。

 それにしても、体調がすぐれない。
 肩と首のコリが猛烈にひどく、人に揉んでもらったり、低周波治療器をかけたり、
 風呂に入ったり、湿布薬を貼ったりしたところで、5分としないうちにもとのコリが戻ってしまい、
 結局先日貰った薬をのんで横になっているしかない。あくびさえ、つらい。
 くたびれているのか、とも思うが、実のところくたびれるような仕事はしていないのだ。
 何となく仕事をしているような気にはなっているが、大したことはしていないはずで、
 そのくせ体だけが異常に反応していると言う感じ。
 こんなことで弱音を吐いていても仕方がないのだが。

 たぶん、こんな毎日だから、更新できないのだ。
 きっと毎日感じていることがあるはずなのに、それをここに書き記すことができないのが、
 我ながらなんともはがゆいとしか言いようがない。
 しかし、それにしても、最近の自分はこらえ性がなくなっているなぁ。
 何がいけないのだろう。



 2月8日

 臨月に入った友人と食事。
 妊婦の腹を初めて触り、何やら興奮する。
 これまでずっと、妊婦たるもの、
 「あたしってこれから子供産むのよ、大変なのよ、神秘でしょ、偉いでしょ」的な嫌味を
 持った人種と思っていたが、親しい人間が妊婦になるという初めての事態に、
 そんな憎しみなんぞどこへやら、溺愛おばちゃんぶりを遺憾なく発揮してしまった。
 名前決めてあげる、と言うと、あっさり断られた。
 当たり前か。

 最近色々しんどかったので、クリニックで話を聞いてもらう。
 言いたかったことが全部上手に言えたわけではなかったが、思ったよりも沢山聞いてくれて、
 少し助かった。先生、ありがとう。

 夜、ハンセン病の勉強会に出かけた。
 内容は特に濃いというわけでもなかったが(失礼)、その後の質疑応答やら何やらで、
 結局いろんな問題の根っこは一緒だね、ということになり、やっぱり、という感を強くする。
 金大の助教授や、Y紙、T紙などの記者と知り合いになる。
 ある記者に、いわゆるフツーの金沢の人とはまったく違う人ですね、と言われた。
 今までだと、結構喜ばしく聞いた台詞だけれど、今はそれでさほど喜ぶわけでもないのは、
 自分が「フツーの金沢人」たる存在をいくらも分析できてないからだ。
 
 それから、某新聞のとあるコーナーでエッセイを書いてくれませんか、と声をかけられ、
 これには結構いい気分になった。
 それは要するに、私がずっとずっと入社(合格)できなかった新聞社という組織から、
 頭を下げてお願いされる、というこの事態を、ざまぁみろ、と思っている卑しい私が、
 いっひっひ、うっしっし、と笑っているということだ。
 リベンジ、と言えば格好いいけれど、我ながらなんとも醜い姿だなぁ、と思った。

 明日からスキーに出かける。
 友人は山に行けば私の気持ちもきっと晴れるだろうと言う。
 疲れているから、滑りに行くというよりも、ボケーと山を眺めているだけになるかも知れない。
 しかし、それもまた、いいだろう。
 

 2月5日

 何の信仰も持たない私だが、一時期プロテスタントの教会に通ったことがある。
 高校時代のことだ。
 当時仲のよかった男友達がクリスチャンだった、というのが主たる理由ではあるが、
 実際キリスト教信仰に興味があったというのも事実だ。
 中学時代、確か、18歳になったら洗礼を受けるのだ、などと宣言をした覚えもある。
 それにしても「18歳」というのが、まるで「タバコは20歳になってから」みたいで滑稽だが。

 さて、何の信仰も持たない、と書いたが、「何やらよくわからない大きな力」というのは、
 実は結構信じている。それをキリスト教では神というのか?よくわからないが。
 最近も、件の『二十歳の原点』を薦めてくれた人と、私が通っていた教会の奥さんが、
 学生時代の無二の親友だった、という話を聞いてひっくり返った。
 どちらも金沢の人、というのならまだしも、県外のとある街で同級生だった二人が、
 何かの縁でともに金沢で暮らすことになり、そして私はその二人の共通の知人だった。
 先日、私のことを教会の奥さんが覚えているかどうかを尋ねてもらったらば、
 なんでもこの正月に私と教会に行っていた男友達が久方ぶりに訪ねてきたそうで、
 そのついでに私のことも思い出していたところだ、と話していたと言うではないか。
 こういうのを単なる偶然と捉えるか、「何やらよく〜(以下略)」によると捉えるか、
 それとも神のお導きと捉えるかが、よく言うところの「価値観」というものなのだろう。

 今日はとてもくたびれた。(最近ずっとそうだけど)
 穴を掘って、そしてその土で穴を埋めて、また穴を掘って、穴を埋めて…、というのが、
 人間にとってもっとも過酷な使役であると言われる。
 精神を患って、終わりのない迷路をさまよっている人たちは、
 まさにその使役の真っ只中にあるように思える。
 今日はセンターの利用者の中でも最強(?)の一人に何時間も捕まり、
 さらにその合間合間にこれまた最強の一人からとめどなく電話が鳴り続け、
 心底くたびれ果ててしまった。
 久しぶりに、あの、首を絞められるような症状が出た。
 私の仕事はその使役を手伝うことではなくて、それを終わりに導くことではなかったか。



 2月4日

 国家試験が終わり、ようやく本を読みたいという気になってきた。
 一方で、体はかなり参っているらしく、先日のじんましんといい、長引く疲労といい、
 もう何をどうやっても体が元に戻らないのではないかという、大げさなほどの不安が
 頭にこびりついて離れない。
 ちょっと普段より疲れているところに飲み会やら温泉やらが重なっただけなのに、
 というまっとうな理屈も、こういうときにはどうしても認められない(認めたくない?)ようだ。
 まぁ、そのうちなんとかなるだろう、と思いつつ。

 突然ながら、高野悦子の『二十歳の原点』を読み始める。
 ある人に、私という人間が高野悦子のような人(だったの)ではないか、
 と言われたからだ。
 高野悦子とはどんな人なのですかと尋ねると、
 「ガラスのように繊細で壊れやすくて、しかも周囲に対する強烈な破壊力を持つ人」
 だという。
 そんなそんな、恐れ多い、滅相もございません、むしろ私は過適応、などと思いつつ、
 読み始めた瞬間に、涙はどこからともなく沸いてきた。
 そして次のページからは涙はカラリと乾き、まるで自分の日記を読み返すように、
 (というのは我ながら言い過ぎだ)淡々と読み進めている。
 かつてこれだけ、自分とシンクロした本があっただろうか。
 思い出そうとしても見つかりそうもない。
 それはそうと、私が二十歳の頃に書いていた日記はどこに消えたのだろう。
 うっかり突然死したときに、見つけられるとかなりまずいのだが。
 本当にどこにいったか、わからない。
 ひょっとすると、何かの拍子に捨ててしまったのかもしれない。

 この本のことを教えてくれた人に、私が学生時代、五木寛之の『青春の門』にはまったのだ、
 という話をしたら、なんとその人もそうだったと言っていた。
 違う時間を生きてきた20も歳の離れた人なのに、いま同じ時間を過ごし、
 同じ感覚を共有できると言うことはなんと素晴らしいことだろう、と素直に思える。

 もうひとつ思ったのは、このサイトを立ち上げる前に『二十歳の原点』を読まなくてよかった、
 ということだ。
 あんな本の存在を知っていたら、私はこんな戯言など3年も書き綴れなかっただろう。



 2月3日

 選挙が近い。
 この時期、候補者のビラと後援会入会申し込みを求められることが多い。
 驚いたのは、初めて行ったヨガのクラスで、見ず知らずのおばさんから、
 「投票する人、決まってる?」と声をかけられたことだ。
 思わず、宗教かと思いました。失礼。

 今日もある人にしおりを貰ったのだけれど、後援会の入会はお断りしておいた。
 真面目なんだね、と言われたけれど、実のところ、大した思想信条があるわけでもない。
 ただ、こういった、ちょっとした瞬間にとったいい加減な行動が、
 後々の自分をつまらない人間にしてしまうのではないか、という恐怖心があるだけだ。

 いつのことだったか自分でも忘れてしまったけれど、ここで銀の指輪の話を書いたかと思う。
 父親に「左の中指に指輪をすると、金が出て行く」と言われて以来、
 つける指こそ右の薬指に変わったけれど(それしか同じ太さの指がなかったから)、
 今もその指輪は、時を経るに従ってその厚みを失い続けている。
 果たしてこれが擦り切れる日が来るのだろうか。
 指輪が擦り切れちゃって、なんて話、まだ誰からも聞いたことがないし、
 だいたいこの私はどんなことであれ、そんな長期にわたって続けられた事などないわけで、
 これはある種、自分に課した実験であり、タスクなのだろうと思う。
 なんてちっぽけな事だろう、と自ら笑いたくもなるほど、子供じみているとも思うのだが。
 指輪の後に、私は私に何を課すつもりなのだろう。



 2月2日

 全身のじんましんで、寝込んだ。



 2月1日

 職場の地域生活支援センターを利用するメンバーたちが温泉旅行を企画した。
 6人の職員のうち、施設長とソーシャルワーカー3人が便乗参加。
 昨晩から、志賀町にある「いこいの村」に出かけていた。
 原発建設と引き換えに、どれだけの補助金が下りたのだか知らないけれど、
 とにかくなーーーんにもない町のごくわずかな一角に、場違いなくらい立派な
 保養施設や原子力センターといった啓発(洗脳?)施設が並んでいる。
 一緒に行った先輩が言うには、何か行事を開こうとするときに、
 電力会社のホールなどを会場候補に挙げた途端に、
 「原発作るような会社の施設など使えません!!!」という金切り声が上がるのだとか。
 まぁ、その気持ちはわからないでもないが、いかんせん物事にあまりこだわることなく、
 適当に生きている私などは、んなもんなどーでもええやないか、などと思ってしまう。
 だから、たとえそこが原発銀座であるとわかっていても、存分に楽しめてしまうのだ。

 出発前、祖母が「今日はお医者たちと一緒かい?」と聞いてきた。
 どうやら、私が精神病院に就職した以上、この先は医者との結婚を狙っているらしい。
 「医者ではないです。患者です」。
 (普段は「患者」とは言わないけれど、婆さんにはややこしいのでつい使ってしまう)
 「そんな人らが温泉なんて、行けるんか」
 「予約から何から、全部彼らがしましたよ。私ら職員はただ便乗するだけです」

 婆さんはまた「???」の世界に入ってしまったようだ。
 昔の「精神病患者」からは想像もつかない、といった表情で呆気にとられている。
 しかし翻ってみれば、私には婆さんが思い描いている昔の風景がまるで浮かばない。
 婆さんと私はまるでかみ合わない言語の中で会話をしてるようなものだ。
 忙しい毎日の中では、ついつい、今の常識や今のものさし、今のソーシャルワーク、
 支援センターのソーシャルワーク、といった限られた自分の世界で物事を図ろうと
 してしまうことがある。
 それで問題が解決しないことなど、百も承知しているというのに。
 そういう意味でも、ソーシャルワーカーとはどこまでも自律が求められている仕事だと思う。

 志賀町からの帰りに、「原発で地域振興を」という看板と「脱原発の地域づくりを」
 という看板を見た。
 どちらにだって、言い分はある。
 どちらにだって、矛盾もある。
 要は、どれだけ相手のことをわかった上で、あえて自分の立場の主張ができるかどうか、
 そこにかかっているような気がする。