照手(天)姫の伝説(姫小島跡)


 小栗判官と照手姫の物語は古くから芝居や浄瑠璃にとりあげられ、浄瑠
璃義太夫節では近松門左衛門の「当流小栗判官」を経て、文耕堂らの「小栗
判官車街道」に書き換えられました。
 歌舞伎では1687年市村座初演の「二人照手姫」ののち、1703年正月に市村
座で「小栗鹿目石」が、同7月には森田座で「小栗十二段」が上演されました。
 小説では仮名草子「おぐり物語」、黒本「小栗判官」、読本「小栗外伝」があり
幕末期には説教源氏節にも入りました。
 神奈川県藤沢市の、時宗本山「遊行寺(清浄光寺)」には1429年に照手姫が
建てたというお堂と小栗・照天姫の墓があります。
 かねさはにも照手姫にまつわる伝説とゆかりの旧跡がいくつか伝えられ
ています。
     
姫小島跡(瀬戸橋付近)
松林に囲まれた姫小島跡には“その昔 照天姫がこの島にて 松葉いぶしの難に 遭いたるを 土地の人は哀れみ 呼んで 姫小島という”とあります。 次 へ かねさはの民話と伝説へ トップページへ

 ー照天姫伝説ー
 昔、常陸国で戦いに敗れた小栗判官満重が落ちのびていく途中、藤沢の
山中で泊った宿で、満重を助けようとした照手姫が朝比奈峠を越えて、六
浦港に出ようとする所で追手に捕らえられ、身ぐるみはがれて千光寺(現
在は東朝比奈に移転)の近くの油堤というところで川に投げ込まれてし
まいました。 
 それから数日後、照手姫の乳母の「侍従」が姫を探して油堤まで来ました
が、姫が川に投げ込まれたと聞くと悲しみのあまり、姫の化粧道具をその
場におくと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいまし
た。このときからこの川は「侍従川」と呼ばれるようになりました。
 また乳母が飛び込んだ川の土手を化粧道具にちなんで油堤(包)といわ
れるようになったともいわれます。
 侍従側に投げ込まれた照手姫は千光寺の観音様に救い出され野島の漁
師の家につれていかれました。川のほとりにあった千光寺の本尊、千手観
音の胎内仏=腹に納められた小さな仏像、はこのときの姫の身代わり仏だ
と伝えられています。
 野島の漁師の妻は嫉妬深い女だったので照手姫を松の木にしばりつけ
て、松の青葉でいぶり殺そうとしました。しかし姫はまたも観音様に助け
られ美濃国に落ちていきましたが、その後小栗判官と再会、夫婦となって
幸せな日々を過ごしました。
 瀬戸橋近くの「姫小島跡」がその松葉いぶしの場所といわれます。

現在の千光寺(金沢区東朝比奈町)