へそ薬師と範頼伝説(太寧寺)


 源範頼の墓や位牌などを安置し範頼公ゆかりの寺として知られる太寧寺
は戦時中瀬ヶ崎から片吹へ移転しましたが本尊の薬師如来は「へそ薬師」
と呼ばれています。
ーへそ薬師ー
 昔、この村に貧乏な少女がおりましたが、両親に早く死に
別れてしまい、父母の命日が来てもお供えするだんご一つ
買うことも出来ません。
 お金をためて父母の供養をしようと思い立ち、朝早くか
ら夜遅くまで、一生懸命に糸を紡ぎ、それを「くりへそ」
(紡いだ麻糸を織機にかけやすいように巻きつけたおへそ
のような形をした糸玉のこと)に丸めました。それを機織
りの人に買ってもらおうとしましたが、なかなか思うよう
に売れません。
 ある日のこと“今日も売れなかった”と「くりへそ」をい
っぱい抱えて日暮れの道をとぼとぼと帰る途中、疲れ果て
道ばたにしゃがみこんでしまいました。
 そのとき近づいて来たお坊さんに訳を話すと、お坊さん
がその場で全部買ってくれました。
少女はおかげで立派に父母の供養ができました。
 数日後、太寧寺の薬師如来の前に行ってみると、その時の
「くりへそ」がそっくりそのまま残っていました。お坊さん
は孝心の篤い少女を助けるため薬師如来さまが姿を変え
たものだったのです。それ以来この如来さまには『へそ薬
師』という名前がついたいうことです。
薬師如来立像 (金沢区片吹・太寧寺蔵)


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ー範頼伝説ー
 源範頼は兄頼朝に疑われてい伊豆の修善寺に幽閉され、北条の討手によ
り最後を遂げたとされ、範頼の墓は修善寺にもあります。
 しかし範頼の死については「吾妻鏡」にも記述がなく、このため異説が多
くあります。
 一説では範頼はひそかに修善寺を逃れ、主従十数人と共に上総を目指し
ましたが、途中で海が荒れたので追浜の上陸しました。「追浜」の名は範頼
一行が敵に追われるように上陸した浜なのでそのように呼ばれるように
なりました。
 また範頼主従をかくまった土地の平兵衛という漁師が鉈(なた)をふるっ
て追っ手の兵を切り倒したところが「鉈切」という地名になったとの説も
あります。範頼主従は瀬ヶ崎の薬師寺まで逃れたものの、もはや逃げきれ
ないことを悟り、枕を並べて自害しました。薬師寺は範頼の法名「太寧寺
殿道悟大禅定門」にちなんで太寧寺と名づけられました。
 死を覚悟した範頼は平兵衛の功労に対して“蒲”の一字を名乗ることを
許したため、それが追浜や金沢地方に多い蒲谷性の由来と伝えらています。

伝 源範頼墓(金沢区片吹・太寧寺境内)