第十番 海蔵山 太寧寺(臨済宗建長寺派)〜案内図はこちら

金沢区片吹町61−5


 うちかはの めぐみはふかき こうでんじ
         ごごのうちまも  ひかりすぐれて  
新編武蔵風土記稿には 太寧寺 境内除地二畝、小名瀬ケ崎にあり、禪宗臨濟派 鎌倉建長寺末、古は薬師寺と號し 真言宗なりしが 何の頃か改宗せりと云、海 蔵山と號す、・・・・ ……開山は千光国師なり【元亨釋書】云、国師名は栄西明菴と號す 備の中州の人 其先賀陽氏、薩州刺吏貞政の曾孫なり、永治元年四月二十日生まれ、建保元年七 月寂云云、開基は三河守源範頼にて【鎌倉誌】範頼菩提寺也と云……

 とありますが、太寧寺は昭和18年、軍の命令により現在の片吹町に急拠移
転しました。太寧寺の旧地は室の木第二住宅前、関東学院六浦小学校のグ
ラウンド辺りで寺域はかなり広い面積であったと伝えられています。
 太寧寺の本尊は「へそ薬師」と呼ばれる薬師如来像で、源範頼公ゆかりの
寺として知られています。(参考サイト・へそ薬師と範頼伝説
 
 太寧寺については、風土記稿には札所・観音については記載がありません
が安永4年(1775)版では札所十番となっています。この時の観音様
は寺の焼失などでいつの間にか無くなったようで、そのお姿を見ることは
できません。
 一方昭和6年(1931)の金子隆英著「金沢巡礼」では札所十番は(安
永版では札所に入っていない)光伝寺に代わっています。
 また安永版の十三番は嶺松寺となっていますが、嶺松寺は明治維新後の廃
仏毀釈により廃寺となったため、嶺松寺の聖観音(嶺松観音)が同じ臨済宗
建長寺派の太寧寺に移され(この時点で十番の太寧寺の観音様が失われてい
たとみられます)、太寧寺の札所も十三番になり、それにより札所十番は光
伝寺となった考えられています。
 札所十番のご詠歌がこうでんじ(光伝寺)となっているのはこういった事
情によるものです。
十三番札所お札 太寧寺の観音はもと 嶺松寺の嶺松観音 になっている

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「金沢巡礼」の第十番光伝寺にはご詠歌に続いて次のように記
 されており

    ″そも此寺の由来には 昔は瀬戸の日輪山
      円通寺なる御本尊 今は迎えて此所にあり
      願いもまろく叶ぞと 円満具足の活すがた
      拝みて後生を願ひなば 無上菩提に至りなん″

 
  円通寺(円通寺跡はこちらの観音が光伝寺に移されて札所の観
 音になっていたことがわかります。
  先に述べたような何らかの理由で太寧寺の観音が失われ、か
 わりに廃寺となった嶺松寺の聖観音が同じ六浦の太寧寺に移さ
 れ、札所十三番の観音となり、ほぼ時を同じくして、廃寺とな
 った円通寺から光伝寺に迎えられた観音が「金沢巡礼」の札所
 十番の本尊観音になったと考えられています。
 
太寧寺(金沢区片吹町)