塩なめ地蔵(十二所・光触寺境内)


 その昔、金沢の塩の行商人は塩を籠に入れ天秤棒で肩に担いで朝比奈切
り通しを越え、鎌倉へ商いに行きました。途中鎌倉十二所の光触寺橋のた
もとのお地蔵さまに“今日も商いがうまくゆきますように”と一つまみ
の塩を供えてお願いしました。
 ところが行く時にお供えした塩が帰りにはいつのまにか無くなってい
ます。仲間の塩売りたちに聞くと、みな同じようにお供えした塩が無くな
っており“お地蔵さまがなめてしまうしまうのではないか”といつしか
「塩なめ地蔵」と呼ばれるようになりました。
 いま、このお地蔵さまは、光触寺境内にありますが、、光触寺に伝わる
「塩嘗地蔵伝来記」には

 “六浦の浜辺に夜な夜な不思議な光りを発するものがあり、 汐汲み
   の人たちが   掘り上げたところ、波に洗われた地蔵さまだった。
   さっそく手厚く供養し、十二所に移し、地蔵堂を建てて祀った。
    それ以来、六浦の塩売りはお初穂の塩をお供えしている”
  
 と書かれています。
 今でも毎年、金沢の海の公園で昔ながらの方法で塩を作り、朝比奈切り
通しを越えて十二所の光触寺まで歩き、塩なめ地蔵に供えるイベントが
行われています
塩なめ地蔵・光触寺境内

ー金沢の製塩ー
 源頼朝が幕府を開くと鎌倉の人口は急増し、生活に欠かせない塩の需要
は高まり、鎌倉に近い金沢の製塩は重要な産業となりました。
 金沢の奥深く入った入江では塩の満ち干を利用した塩田が作られ鎌倉人
の生活必需品となり、金沢の海に面した釜利谷、州崎、町屋、六浦、野島など
金沢の殆どの村に塩焼場があり、六浦には「塩場」の地名が残っています。
 金沢と鎌倉を結ぶ道は「塩の道」とよばれ塩商人たちの往来で賑わったと
いわれます。
 江戸時代になると、六浦の塩は江戸まで運ばれて売却されるようになり
ました。慶応元年(1865)の村々物産書上帳には、平均見積もりとして泥亀
新田塩七千俵、町屋村塩千五百俵と記されています。
 明治十六年(1883)、永島段右衛門は泥亀新田の塩を水産博覧会に出品し
て入賞しました。その後もたびたび産業博覧会に出品して、金沢の塩は、
有名な産地と比較しても劣らないといわれるまでになりました。
 しかし、明治政府は明治三十八年に塩専売法を施行し、これにより、金沢
の塩は第一次産業整備(明治四十三〜四年)の対象になり、姿を消すことに
なりました。 

歌川広重・内川暮雪
画面の右手、六浦あたりの村落に続いて、雪に埋もれた塩田 の中に点在しているのは塩焼き小屋で、現在の六浦町塩場付 近と考えられています 次 へ かねさはの民話と伝説へ トップページへ