ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典          P 4
 ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                            参考文献日本の宗教(村上重良)
                                             
     神道の成立(高取正男)
                                             
        日本の神々と社(読売新聞社)
                                                               神道事典(弘文堂)
  ほか 

 

・・・近世(安土桃山時代〜江戸時代)の神道(T)・・・


 キリスト教伝来と禁教政策
 
 天文18(1549)年フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は急速に日本に広がりましたが秀吉は外国による日本の植民地支配をおそれて、キリシタンの禁止を命令しました。
 つづく江戸幕府もキリシタンを弾圧して根絶やしにするとともに仏教、神道を完全に政治権力に従属させて統制支配する政策を推進します。
 
 幕府は神道にたいしても仏教につぐものとして、神道家元として公認した吉田家をつうじて統制を加えるとともに社領を保障して保護を与えました。
 仏教の国教化政策により神社のほとんどは仏教に従属する地位におかれ、有力な神社では別当寺(本地垂迹説にもとずいて神社に設けられたお寺)が実権を握っていました。
 
 江戸後期には神社の主導権をめぐって神職と僧侶の抗争が続発するようになりますが、神社の大半を占める氏神、鎮守、産土(うぶすな)などとよばれる土地の守り神とされた小神社は村の宗教として集落の祭りを行い、祖霊をまつる家の宗教として定着した寺院と、それぞれ役割を分担して共存していました。


 マリア十五玄義図(京都大学付属図書館蔵)
 
1930(昭和5)年大阪府茨木市の民家の屋根裏から発見されました。江戸幕府の厳しい弾圧により信者たちは聖画像などを屋根裏や納戸に隠しましたが、戦災などにより多くは散逸したとみられています。

 
 儒家神道の展開
 
 江戸幕府は士農工商の身分秩序、忠孝の倫理、家父長性の家族道徳をささえる教えとして儒教を政治の指導原理としたことから、儒教はさかんになり、儒学者と神道家によってつぎつぎと神儒習合の神道説が唱えられれるようになります。これを儒家神道といいます。

 儒教の一学派である朱子学(*1)が幕府により官学とされ儒官(教官)となった林羅山はキリシタンと仏教をしりぞけて、神道は王道であるとし自然法則そのものが神であるという独自の神道を唱え、林家によって代々受けつがれました。
 民間からも陽明学(*2)などがあらわれ熊沢蕃山は神の本体は王陽明のいう良知であるとする神道説をたてました。

 
*1)朱子学
 
道教や仏教の影響を受けて宗の朱子(1130〜1200)が大成した儒教の一つ。
 朱子は宇宙は「理(法則)」と「気(万物の根元)」から成り立ち「気」によって起こる欲望をおさえ天理(自然の法則)のままにたちかえる修養を強調しました。
 日本には鎌倉時代に伝えられ禅僧の間で学ばれ、神道、仏教と一体としてみられましたが、藤原惺窩(1561〜1619)によって仏教からの独立を唱えました。

*2)陽明学
 
明の時代に王陽明(1472〜1528)のよって唱えられた儒教の一派。 王陽明は人間の自然の心情には良知(是非善悪を知る心のはたらき)がそなわっているが凡人は欲におおわれているため良知が曇るのでつとめて知行合一(知識と行動を一致させること)を図らなければならないと説きました。
 日本では江戸時代に中江藤樹(1608〜48)や熊沢蕃山(1619〜91)によってひろめられました。

 神道家の中からは神儒習合の神道説として渡会、吉川、垂加などの諸流が起こりました。
 度会神道は江戸中期に伊勢神宮外宮の出口(度会)延佳が唱えた神道説で伊勢神道から仏教を排除して神の心と自己が一体となる道を説き、新しい伊勢神道として民衆の間にひろめました。
 吉田神道から出た吉川惟足は君臣の道として儒教倫理のもとづく「忠」を説き有力な大名の信任をえて幕府の神道方に登用されました。
 朱子学から神道家となった山崎闇斎(1618〜82)は儒家神道の集大成とされる垂加神道を開き神道界に大きな影響をおよぼしました。
 垂加とは「神垂冥加」のことで神は人の祈祷や正直に対して恵みを垂れ加えるという意味で闇斎は天皇崇拝を強調し大義名分
(*1)と忠の倫理を説きました。




湯島聖堂(東京都文京区)
 江戸時代に昌平坂学問所として儒学教育の中心となりました


林羅山肖像(探庵守時筆・東京林璋氏蔵)

(*1)大義名分
 大義とは臣下(家来・人々)が君主(主人・国)に対する忠誠の義務で名分とは必ずまもらねばならない道徳上のきまりのことで大義を明らかにし名分を尽くすことを大義名分といいますが、現在ではある行為が正当であることの論拠としても使われています。


 現世利益信仰の流行
 
 江戸時代は仏教とともに神道は幕府と諸藩のきびしい統制とひきかえに、国教として保護され民衆の間では、開運、商売繁盛、家内安全、病気なおし、厄除けなど現世での利得や幸せを求める信仰が流行します。

「稲荷」
 稲荷は奈良時代にはじまる京都の伏見稲荷の祭神ウカノミタマノカミと仏教の茶枳尼天が習合した神で平安後期にはその本体はキツネと同じと信じられるようになりやがてキツネは稲荷の神使とされました。
 江戸時代には町々に赤い鳥居と社殿をそなえ「正一位稲荷大明神」ののぼりを立てた稲荷の社が沢山つくられるようになりました。

「金毘羅」
 
金毘羅とはインドのガンジス河に住むワニを神格化した神で平安時代金刀比羅宮(香川県琴平町)にあった天台宗松尾寺の守護神とされ中世には船乗りたちから海上守護、海難救助の神として信仰されるようになります。江戸時代には農民、商工業者の間で団体で金毘羅詣りが流行しました。
 ♪金毘羅ふねふね・・・・・・は金毘羅詣りの人たちを運ぶ船で歌われたのがはじめともいわれています。

「不動」
 不動はインドの神で密教にとりいれられ大日如来の化身・使者とされましたが、日本ではお不動さんとして親しまれ独立して信仰の対象となりました。種々の煩悩を焼き尽くし悪魔を降伏させるものとして各地に有名な霊場ができ下総国(千葉県)新勝寺は成田山の不動として江戸の町民の間で広く信仰されました。

「福神信仰」
 福神とは人々に幸福をさずける神々のことで弁財天、大黒天、恵比寿、毘沙門天、布袋、福禄寿、寿老人の七神を一組にしたものが
七福神です。
 七福神は海の彼方から宝船にのりあわせて訪れてくると信じられ、宝船の絵を正月二日に枕の下に入れて眠ると「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」のめでたい初夢がみられるともいわれ、江戸時代には七福神詣でが盛んになりました。

 


伏見稲荷大社の千本鳥居
参道にトンネルのように林立する一万余の鳥居は信者の奉納のよるものといわれています。(大日本百科全書・小学館 より)


金毘羅信仰
金毘羅詣でをする人は白装束に天狗の面を背負って民家をまわりながら詣でました(安藤広重・東海道五十三次乃内沼津)


成田山新勝寺の節分会
年男が豆をまく時本尊不動明王の慈悲で鬼も鬼でなくなるとして「鬼は外」とは云わず「福は内」のみ繰り返します。(日本大百科全書・小学館 より)

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