ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典           P14
                   ー入門篇・仏教の部ー                 
                                              参考文献:仏教入門(藤井正治)・目で見る仏像(東京美術)
                                                          仏像の見方(石井亜矢子)     ほか

・・・仏像についてY(天部形)・・・

 



天部形の特徴

 
 天は天空や天上の世界、また天に住む者も意味する言葉ですが如来、菩薩、明王が人々や生き物の救済を目的とするのに対して、天部の諸天(天部諸尊)は仏法を守護し、仏教を信ずる心を妨げる外敵から人々を護る役割をもっています。

 その成立は明王よりも古く天部の中には教えとしての仏教を護る「護法神」の役割のほか福を授けるという現世利益をもたらす「福徳神」としての諸天も存在しています。

 また如来や菩薩・明王の諸尊が性別を超越しているのに対して、天部の諸尊には男女の性別があるのが特徴です。

 天部に属する諸尊はその数も多く、成立事情も、姿も性格も多様で儀軌による造り方の定めもありませんが、中国風の衣服を着た貴族風の人間に近い「貴顕天部」と、怒りの顔で甲冑(よろいとかぶと)を着けた武人姿の「武装天部」に大別されます。


梵    天
(ぼんてん)
 
 梵とはサンスクリト語で万物の根源を意味しますが、梵天はバラモン教やヒンドゥー教の宇宙の創造神を仏教に取り入れたものです。

 古くから帝釈天と対で造られ、如来像や菩薩像の脇侍として置かれることが多く、両者の名を縮めて「梵釈」とよばれます。

 奈良時代のものは一面二臂の人間と同じ姿で髪を結い上げ、中国風の衣服を着て立つ「貴顕天部」の代表的な姿ですが平安期にはいると多面多臂のものも現れてきます。
 京都・教王護国寺(東寺)に代表される密教の梵天像は多面多臂で数羽の鵞鳥座かその上に載せた蓮華座に坐ります。

 像の姿や衣服にはきまりが無く像によってかなりの違いがあり、衣服の下に甲冑をつける例もあります。
 持物を持つ場合は柄香炉、払子(ふっす、獣毛や繊維を束ねて柄をつけたもの)などを持ちます。


梵天像(東大寺法華堂)


帝  釈  天

(たいしゃくてん)
 
 インドラというサンスクリット語の名前を持ち、古代インド神話に登場する雷神が取り入れられたものです。

 中国の貴族風の衣服を着て、沓をはく
「貴顕天部」で、梵天同様に服装などは一定していませんが、帝釈天は戦士の守護神ともいわれた戦闘的な神であったことから甲冑をつけ武器である独鈷杵などを持つ姿で表わされることが多いようです。

 平安時代に入ってきた密教の帝釈天象は一面三目二臂で手に金剛杵を持ち白象に乗った姿になっています。 象に乗った像は普賢菩薩と帝釈天だけですが、普賢菩薩の方は菩薩と象の間に蓮台がありますので見分けがつきます。


帝釈天立像(法隆寺・重文)

金 剛 力 士
(こんごうりきし)
 
 寺院を外敵から護るために、入口や門に左右に置かれます。
 2神で対になり、仁王ともよばれます。一般的には向かって右が阿形像(口を開いている)左が形像(うん、口を閉じてている)です。
 「阿」は吐く息、「吽」は吸う息でお互いの呼吸が一致することを意味する「阿吽の呼吸」はここから来たものです。

 像の形は筋肉隆々として眼を大きく見開き、血管を浮き立たせた上半身裸ですが、甲冑をつけて単独で祀られる場合があり、これを執金剛神といい、金剛杵を持って仏法を守護します。
 
 仁王の信仰

 金剛力士(仁王)は寺院の入口や門に置かれるために人々の眼に触れることが多く馴染み深い尊像の一つになっています。
 健康の象徴として病を治すため紙つぶてを自分の患部と同じ個所に投げてあたれば願いが叶うとか、健脚の神として崇め、大きな草履を奉納するなどの庶民の信仰があります。


金剛力士像・阿形(東大寺・国宝)

金剛力士像・吽形(東大寺・国宝)


四 天 王
(してんのう)
 
 仏教世界の中心にそびえる須弥山中腹の東方を持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天と四方を守護する役目をもち、須弥壇(仏像を安置する壇)の四隅に安置されています。

 向かって右前から右回りに、持・増・広・多と配置されている例が多いようです。

 甲冑をつけ邪鬼(仏法を犯す鬼)を踏んで立つ勇ましい姿が特徴です。

 像の形と持物は必ずしも一定していませんが、持国天と増長天は剣や矛などの武器、広目天は筆と巻物、多聞天は宝塔をもつのが通例です。

 早くから信仰されていたこともあって日本各地に各時代の四天王像が遺されています。持国天と多聞天、あるいは持国天と増長天の組み合わせで2天を祀ったり、多聞天だけを単独で祀る場合もありこの場合を毘沙門天といいます(次項)。


四天王立像(奈良市・般若寺)

増長天         持国天

多聞天          広目天


毘 沙 門 天
(びしゃもんてん)

 四天王のうち、北方を護る多聞天が単独で祀られる時の名が毘沙門天です。

 もとはヒンドゥー教の財宝の神クベーラで、財宝や福徳をつかさどる一面ももっています。
 鎧(よろい)をつけて宝塔を捧げ持つか、腰に手をあて、岩座の上に立つ姿が一般的です。

 平安時代には、とくに東北地方で多く造られました。
 護国あるいは戦勝の神として、武士の信仰も盛んでしたが室町時代頃からは七福神の一つにもなりました。

 鎧で身を固め冠をつけ戟(刃先が3つにわかれた矛)と宝塔を持ち、両脇に尼藍婆・毘藍婆の2邪鬼を従えた地天(釈尊が悟りをひらいた時地から現れて魔を除き、説法を諸天に伝えたという仏法の守護神)の両掌上に直立する形の毘沙門天を、特に兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)といいます。
 中国の安西城におけるチベット駆逐の説話に基づいて造られたもので、わが国へは空海、最澄によって伝えられたといわれています。


兜跋毘沙門天像(奈良国立博物館)


十 二 神 将
(じゅうにしんしょう)
 
 薬師如来の眷属(つき従うもの)を務める12の夜叉(鬼神・薬叉)を十二神将と総称します。12神それぞれが7000人の配下を率いて薬師如来を敬う人々を守り一切の苦悩から救い出すといわれます。

 像の形や持物については細かい規定はありませんがさまざまな武器を持ち、甲冑を着けた武将の姿で多くは怒りの顔に表わされています。

 平安時代以降は十二支と結びつき、方位や時刻を守護する性格が生まれ、12体を各方向に配置したり、頭上に十二支の動物を頂く像が造られるようになりました。
 生まれ年の守護神としても信仰を集めていますが、十二支の動物をどの神将と結び付けるかは一定していません。


十二神将像(奈良市、秋篠寺)


吉  祥  天
(きちじょうてん)
 
 インドの幸運と美の女神ラクシュミーを仏教が取り入れて新たに生み出されたもので、吉祥天女、吉祥功徳天、功徳天とも呼ばれます。

「金光明最勝王経」に説かれる吉祥天は、日本では天下泰平、五穀豊穣、財宝充足を祈願する「吉祥悔過会」(吉祥天を本尊として罪悪を懺悔し、災いを除き、福徳を祈る儀式)の本尊として、奈良時代以降から国家的に信仰されてきました。

 日本の吉祥天像は、中国唐代の貴婦人の服装をし、宝冠や瓔珞(胸飾り)などで身を飾った天女の形で表わされることが多く、人間に近い形をしています。

 右手を与願印にして、左手には何でもかなえてくれるという如意宝珠を持って、蓮華座に立つ像が多く見られます。
 単独でなく夫といわれる毘沙門天と対になって祀られることもあります。


吉祥天立像(京都、浄瑠璃寺・重文)


弁  才  天
べんざいてん)
 
 インドの聖なる川サラスヴァティーを神格化した水の神で弁天さまとして親しまれています。

 七福神の1つに数えられるようになった室町時代以降には弁財天とも書き、言語、学問、知識、音楽や福財や戦闘神としても信仰されてきました。

 日本では奈良時代から造られ8本の腕をもつ一面八臂像で、弓、刀、斧などの武器を持ち、護法神としての性格が強調されています。
 平安時代以降には二臂像が造られるようになり、鎌倉時代には人間的な裸形坐像(衣装を着せて祀ります)が流行しました。

 弁才天はまた日本古来の穀物の神「宇賀神」と結びつき宇賀弁天としても祀られるようにもなりました。  

 わが国では安芸の宮島、大和の天の川、近江の竹生島、相模の江ノ島、陸前の金華山を五弁天といっていますが、これらの弁才天は島や水辺に祀られています。  


弁財天坐像(鶴岡八幡宮・重文)


訶 梨 帝 母
(かりていも)
(鬼子母神)
 
 平安時代後期から起こったという訶梨帝母(鬼子母神)信仰は、その後子育てを守護する神様として祀られましたが現代でも根強い子授けと安産の神として信仰を集めています。

 もともと訶梨帝母は、インド鬼神の妻で人間の子供を食べてしまう悪神でしたが、釈尊が訶梨帝母の一子を隠して子を失う母の悲しみを解らせたので改心し子供を護る善神となったといいます。

 像は女神の形で坐り、右手に多産の象徴であるざくろの実を持ち、子供を懐に抱いたり、膝の上で抱く姿をとります。古い時代の彫像は少なく、日蓮宗の寺院には鬼神形で合掌する立像もあり、これは悪を降伏させるために祈願されています。


訶梨帝母坐像(東大寺・重文)


大  黒  天
(だいこくてん)

 インドのシヴァ神の化身で戦闘をつかさどる神でしたが、仏教に取り入れられてからは、そのほかに財福神として、また厨房を護る神という性格をもつようになりました。

 日本には最澄によって伝えられ、古くは戦闘神として信仰されましたが、鎌倉時代になって大国主命(おおくにぬしのみこと)と結びつき、やがて七福神の1つに数えられるようになりました。

 日本に現存する平安時代の大黒天像には甲冑をつけた武装像で岩座に坐る坐像と袋をかつぐ袍衣姿(狩衣姿)の立像の2つの形がみられます。

 七福神としての大黒天は頭巾をかぶり左肩に大きい袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵に乗るものと蓮の葉に立つものの両方があります。


大黒天立像(福岡、観世音寺・重文)


その他の天部像

[二十八部衆]
 
千手観音に従う眷属で、梵天、帝釈天、四天王、金剛力士、八部衆など28の天部衆で構成されています。

 力を結集して千手観音の誓いを守護し、観音を信仰する人々を護る役目の護法神です。

[閻魔王・十王]
 古代インドの神話で人類最初の死者とされたマヤが仏教に取り込まれてできたのが閻魔王で冥土の世界の裁判長です。そして十王は裁判官です。

[青面金剛]
 
もろもろの悪鬼悪霊の難を取り除く神として、中世以降庚申信仰の本尊として祀られるようになりました。「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が合わせて刻まれるのが一般的です。

[歓喜天(聖天)]
 
象の頭をもつ魔王と観音の化身が抱擁する像で、殆どが秘仏です。夫婦相愛や子宝祈願、商売繁盛などの信仰を集めています。


閻魔王坐像(東大寺)

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