皇女和宮の生涯


 
 公武合体の実をあげるために、将軍家茂の夫人にと白羽の矢を立てら
れた和宮は幕末から明治と言う時代の荒波にもまれた悲劇の女性です。
  
     住みなれし都路みやこじ出でて けふいく日
          いそぐもつらき東路あずまじの旅 

 家茂に嫁ぐため、京の都から中山道を通ってはるばる江戸へ下る行列
の華やかさとは対照的に道中で詠まれた和宮の歌には深い悲しみの気
持ちがこめられています。
 翌1862(文久2)年江戸城で2人の婚礼が行われましたが家茂、和宮とも
17歳でした。
 その4年後、家茂は第2次長州征伐の最中に亡くなり和宮は仏門に入っ
て静寛院と名乗ります。
 やがて大政奉還、王政復古と続き徳川幕府は滅びますが、かって婚約者
だった有栖川熾人親王を総督とした官軍が江戸にせまり徳川家の存続
も危ぶまれた時、静寛院は江戸の町に戦火が及ばぬことを願い、また前
将軍慶喜の減刑やお家存続のための努力を続けました。
 1877(明治10)年32歳で亡くなりましたが昭和に入り東京増上寺にある
徳川家の墓地改装の際に和宮の棺からは短い結婚生活に終わった夫家
茂の写真が発見されたといわれます。

皇女和宮内親王像(増上寺蔵)

トップページへ