吉田兼好のふるさと (六浦・上行寺)
「徒然草」の著者である吉田兼好(兼好法師)は東国など各地をめぐり、 金沢にも来遊しています。金沢文庫に現存する「卜部兼好状」(兼好 が称名寺の長老にあてた手紙の封筒)からも、このことは確認されて います。 また「徒然草」三十四段には “甲香はほら貝のやうなるが、ちひさくて口のほどの細長 にして出でたる貝のふたなり、武蔵国金沢という浦に有 りしを、所の物は「へなだりと」申し侍るとぞ言いし” と金沢で見聞した話が残されています。 「兼好自撰家集」には むさしの国金沢というところに昔住みし家のいたう あれたるに泊まりて “ふるさとの浅茅が庭の露の上に とこは草葉とやどる月かな” と詠んでいます。 |
この兼好が昔住んだという「ふるさと」の家については『新編武蔵風 土記稿』(巻六 七十四、久良岐郡之二 金澤領)に “吉田兼好の旧跡は上行寺境内の東の山上なり、 兼好五、六年のほど住みせしという” と記されています。 <兼好法師> 吉田兼好は神官の家として有名な卜部氏の出身ですが、卜部氏が吉田 家と平野家に分かれ、兼好は吉田家の系統であるため、通称名として 「吉田」と呼んだもので本名は卜部兼好です。その後、出家して兼好 法師となりました。 兼好は出家以前は村上源氏の堀川家に仕え、後二条天皇の側近として 蔵人を務めたといわれます.文化人としての兼好は歌人として活躍、そ の作品は「続千載集」以下の七勅撰集に十八首あり、また随筆「徒然草」 は、清少納言の「枕草子」と並んで、わが国古典文学中の随筆文学の双 璧とされています。 |