金沢区富岡のバス停「青砥」近くの大戸山にある住宅街の一角には「青
砥藤綱の墓」と刻まれた石碑が立っています。
ー落とした十文銭ー
「太平記」によると鎌倉時代の武将、青砥藤綱がある夜、鎌倉の滑川で十
文銭を落としてしまい、すぐ家臣に命じて松明(たいまつ)を五十文で買っ
てこさせ、その明かりでようやく落とした十文銭を拾うこたができました。
これを聞いた人たちは
“十文の銭を見つけるのに五十文も使うのは大損ではないか„
と言って笑いましたが藤綱は
“たとえ十文の銭であっても探さなければ、滑川の底に沈んで
永久に手にすることはないだろう。拾い上げた十文銭は手元
にあるし、松明を買った五十文も他人の手に渡っても世の中
に流通して、生きて働いている。合わせて六十文の銭が失わ
れないことこそ、天下の利益なのだ„
と教え、悪口を言って笑った周りの人々は驚き感じ入ったといいます。
「たいまつ」を灯し十文銭を探す図 (錦絵・井上探景画)
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青砥左衛門尉藤綱は鎌倉時代の執権、北条時頼に仕え、引付衆として幕
府の訴訟審理を担当し、権力にこびない公平な裁判に努め、生活は常に
質素を心がけ、清廉潔白な人柄といわれました。
青砥左衛門賢政の事(太平記・巻第三十八)
…青砥左衛門某という者がいた。数十ヶ所の所領を治めていて、
財貨もやはり不足してはいなかったけれども、衣装は麻の粗末な
直垂を着、絹ではない織物の大口袴をはき、飯のおかずは焼塩と
乾し魚一匹のほかにはつけなかった。………… |
鎌倉の藤綱邸跡は十二所の浄明寺にあり、すぐ前の滑川にかかる橋が青
砥橋で、十文銭を落としたという場所は、ずっと下流の東勝寺付近だった
といわれています。
京成線青砥駅のある青砥(葛飾区)という地名があり、藤綱が居住した場
所という言い伝えがあります。
藤綱については「吾妻鏡」など幕府の公式記録に名前が残っていないこ
とから実在については疑問がもたれ、その居住地についてもこのように諸
説があります。
青砥藤綱の墓(富岡・大戸山)
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