第十八番 護法山般若寺 〜案内図はこちら〜
(現在 護法山満蔵院 真言宗御室派 金沢区釜利谷東六ー二十四−十)
ひとすじに たのばまちかひ あらはれて だいひのたから くらにみちなん 第十七番札所(禪林寺)からは山門を出て左手に歩き、釜利谷小学校 を過ぎるところで左に進むと坂道があり、これを登ると右手に「釜利谷 東六丁目31」と記された電柱が見えてきます。この先を右に曲がり、 坂を下って行くと宮川せせらぎ緑道に着きます。緑道を左に行き、終点 で左手に進み30メートルほどで右手に満蔵院があります。 新編武蔵風土記稿には 満蔵院 免除 小名和田にあり、同末、護法山般若寺と號す、本堂六間半に 五間東向、本尊正観音坐像長二尺許、開山開基詳ならず と簡単な記載があります。(註:同末とは龍源寺の末寺の意) 寺伝にはもう少し詳しく書いてあります。 「本尊正観世音菩薩御身の丈け運慶式一尺五寸、霊仏薬師如来恵心作、 薬師堂に安置秘仏御身の丈け一尺二寸 開山は阿闍梨尊慶 嘉元三年 寂、中興開山阿闍梨法印宗弁 天文十六年寂、当寺はもと南方に在る手 子神社の別当寺で大般若経六百巻を蔵し、転読して神社に法楽を捧げ ていた。本堂に向かって左の薬師堂は明治二十年に建立され、秘仏の 薬師様を祭り古くから悪病流行の時は御仏体を担いで村中を廻って疫 病がしづまると伝えられ、村人の信仰篤く年々三月八日に大祭を修行し て護摩祈祷を捧げる。」 〔註〕 ・別当寺…神社の別当(寺務を統括した僧官)が住んでいた寺で 神社に付属していました。 ・転 読…経典を読誦(声を出して経文を読むこと)することです が、単に題目や経の初・中・終の数行を略読する場合もあり、 大般若経600巻については広く行なわれました。 ・法 楽…神宮寺(神社に付属して置かれた寺院)で神前に読経 すること |
金沢仏教青年会編の『かなざわの霊場めぐり』の満蔵院の項には 「創建は平安朝の頃で、開基は坂上田村麻呂将軍であり、東征のみぎ り無縁追善菩提のため霊場を求めてまいり、風光明媚な当地を気に いられ、一宇を建立されたが、時代の変遷に伴い、何時しか廃寺同 様な時代が長く続いた。その後鎌倉時代に尊慶法印(入寂 嘉元三 年 1305)が当山を中興、室町時代に宗弁法印(入寂 天文十六 年 1547)が当山を中興して現在に至る。」 と記されています。 これらの史料などからは、開基は坂上田村麻呂との説もありますが、 確証はなく、風土記稿では“開山開基は詳ならず”とあり創建につい ては不明です。鎌倉時代には尊慶法印、室町時代には宗弁法印が当寺 を再興、幕末の頃には満蔵院が手子神社の社僧(神社で仏事を行う僧 侶)となり、手子神社を管理していたようで風土記稿の手子明神社の 項には“村内満蔵院持”とあります。 本堂に向かって左手の高台に明治20年に建立された薬師堂があり、 中に秘仏として、身の丈一尺二寸(約36センチ)の薬師如来が祀ら れていますが、これはもと手子神社の御神像だったものです。 神仏混淆の時代にはもともと仏様の姿であった薬師如来が神様の姿 となって日本に垂迹(すいじゃく=人々を救うために仏・菩薩が仮の 姿となって現れること)したのが、大山祇神(オオヤマツミノカミ・ 手子神社の御祭神)と考えられていました。それが本地垂迹説で、薬 師様は手子神社の本地仏(垂迹身に対する本来の仏・菩薩の姿)だっ たのですが、明治初年の神仏分離令で別当寺であった満蔵院に移され たものです。 昔は悪疫流行のとき、この薬師様をかついで村中をまわると疫病が しづまるとされ、「釜利谷の薬師様」として有名だったといわれます。 今でも毎年三月八日には護摩祈祷が行われています。 満蔵院は釜利谷小学校のできる前は学校(寺小屋)として使用されて おり、釜利谷小学校の前身です。 |