軋む扉を開けて中に入ると、ほの暗い室内には少し掠れた臭いが充満している。
それでも初夏の陽気を受けて多少汗ばんだ彼女の身体には、ひんやりとした内部の空気は歓迎されるべきものだった。
それにこの建物に充満する埃っぽい空気も、彼女にとっては馴染み深いものであるらしく、気に掛ける様子も見せずに慣れた足取りで更に奥へと歩みを進めている。
奥へと進む彼女の足下にはうっすらと埃が積もっているが、その石造りの床はステンドグラスから差し込む光によって彩られており、様々な色彩が落ちるその床の上を、鼻歌を歌いながら進んで行く。
「あ、昨日雪野が来たのかな?」
ふと呟いた彼女の目線の先には、古ぼけたアップライトのピアノが佇んでいる。
背後のステンドグラスから注ぐ眩い明かりを受け、黒い筐体は様々な色彩を纏っているように見える。
演奏者は居ないものの、ごく最近使用された形跡のあるこのピアノだけは、朽ち果てた講堂の中にあって、唯一生者の息吹を感じさせるものだ。
彼女はピアノにそっと微笑みかけると、ホール側面に備えられた梯子に手を掛けた。
「よっほっはっ……」
外見からは似つかわしくない掛け声を上げつつ梯子を昇る。
キャットウォーク状になっている中二階を進むと、講堂の入り口上部に備えられた小さな空間に辿り着く。
其処は彼女の聖域。
他の何人も立ち入る事は出来ない。
いや、本当はそんな大層なモノではない。
ただ誰も訪れないだけだ。
なにしろこの庭園講堂でさえ、訪れる者は彼女と親友の二人しか居ないのだ。
呆れるほど広大な敷地を有するアーデルハイド女学園。
創立二百年を誇る名門中の名門で、小等部から高等部までの施設を抱える学園である。
僅かな例外を除き、生徒は財界や政界そして大企業の経営者や旧華族の令嬢ばかりで、そんな娘達の中には、中庭の奥地にある埃臭い薄汚れた廃屋同然の講堂に感心を抱く者は全く居ない。
なればこそ、彼女と親友にとって、この場はとても安らぎを覚える安息の地なのだ。
聖域の床は綺麗に掃除がされており、毛布が敷かれている。
そして大きめの枕が一つ、毛布の上にそっとその身を横たえている。
見る者が見ればそれらが高級な一品である事を見抜くだろう。
場所に対してやけに不釣り合いな高級寝具を持ち込んだのは、無論彼女だ。
持ち主の特権とばかりに、彼女は己の身体を肌触りの良い毛布に投げ出し、頭を柔らかな枕へと沈めた。
ふと腕時計を見る。
シャネルの高級品だが、シンプルなデザイン故に学生の彼女にも違和感は無い。
「時間は……まだ大丈夫だわよね」
枕に頬を擦り寄せながら呟かれた問い掛けは、自分に向けられたもの。
頬を包む柔らかな感触をしばらくの間楽しんでから、彼女はふと目を伏せる。
「吉川ノエルさん……か。どんな方だろう」
枕に顔を埋めながら、まもなく出会う事になるであろう遠い親戚の娘の姿を想像してみる。
――最初に何て言おう。
――唯一の肉親というお兄様と離れて暮らすんだから、きっととても心細く思うに違いないわよね。
――パパと殆ど会えない私と似たもの同士かも。
――それなら出来る事なら仲良く……いいえ、もっともっと仲良しになろう。
――いやいや、遠いとは言え親戚に違いないのだから、これはもう家族になるしかないわ。
――その為には、出会いが肝心……よね。
――雪野とも仲良くしてもらって……それで…………。
慣れ親しんだ枕の柔らかな感触は、瞼を閉じていた彼女の意識をあっという間にさらって行った。
彼女が身を横たえてから一分後――聖域には彼女の寝息だけが僅かに響いていた。
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