鐘の音が辺り一面に鳴り響く。
 物悲しさに満ちたこの鐘の音が、死者の魂に捧げる鎮魂の音色である事を”今の”私は知っている。
 見上げた目に映る空は何処までも鉛色の雲に覆われて、辺りの景色をより陰鬱な雰囲気へと導いていた。
 ――またか。
 淀んだ空をみて、私はそう思う。
 ――またこの夢なんだ。
 夢をそれと判って見ているのは何ともおかしな気分だが、何度見てもこの夢を笑い飛ばす事は出来ない。
 再び鐘の音が鳴り響くと、胸がキリキリと痛みを発する。
 現実に痛みを感じているわけではないと判っていても、苦しさに心が押し潰されそうになる。
 それはそうだ。
 肉親の死は、何度味わっても慣れるものではない。
 そう、これはあの時の記憶。
 死んだママの葬儀を行った時の記憶なのだから。
 夢の中の私は、まだ六歳。
 小学校――アーデルハイドの付属校に入学したばかりの頃だ。
 でも、意識は今の十六歳の私なのだから、今よりもずっと低い目線には何とも奇妙な感覚を覚える。
 その低い位置にある目で周囲を見回してみる。
 葬儀場へ向かう喪服を着た人々の群。
 その黒い人の列の長さは、ママがどれ程有名な存在だったかを伺わせている。
 世界的に高名な化学者。
 先の戦争終結に貢献した偉人。
 パパの会社――天崎製薬の地位を築いた天才。
 色々な名で形容されていた私のママ――天崎今日子は、仕事に没頭するあまり、四二歳という若さで末期癌を煩って逝ってしまった。
 子供の私が「死」という物がよく理解できていなかった所為もあったが、当時は悲しみよりも気持ちの悪さを感じて狼狽していたっけ。
 でも今は……十六歳の私の心は、ママの死を悲しみとして捉える事が出来る。
 だから、あの時は痛まなかった心が痛い。
 何でこんな夢を見るんだろう。
 何の意味があるんだろう。
 もうママは私を誉めてくれる事もないのに。
 もうママに認めてもらう事も出来ないのに。
 そこまで考えて私は思う。
 ああ……だから見るんだ――と。
 この夢を見るたびに辿り着く結論に、胸の痛みが増してゆく。
 もはや叶わぬ願いに心を打ち砕かれ、今にも泣き出しそうな空の下、喪服姿で俯く人々の列を避けて植え込みの奥へと進む。
 それは決して抗えぬ行為。
 かつての記憶をなぞっているだけの、意識のプレイバックだ。
 如何に今の私が、ママの骸の元へと行きたいと念じても、私の身体は過去の出来事を正確にトレースしてしまう。
 そして、人気が途絶えた植え込みの奥に達すると、私の耳に男達の会話が聞こえてくるのだ。
 黒澤さん――ママの同僚でちょっと神経質っぽいおじさんと、私の知らない男の人が何かを話していたんだ。
 ”ペット”がどうのこうのと、”十年以内に見つける”とか、ママの葬儀に関係あるかどうか判らない話だった。
 飼っていたペットが逃げ出したのだろうか?
 十六歳の私が聞いても、その程度にしか意味がわからない。
 でもまぁ多分どうでも良い事なんだと思う。
 だって、どうせ目が覚めたら忘れちゃう程度の事なんだから。
『……ん?』
 夢の中の光景を押し退ける様に、何か別の情報が私の頭に割り込んできた。
『……るの?』
 お迎えかな? どうやら此処までみたい。
 今回もママには逢えなかった。
 どうせ夢見るなら、生きているママに会わせてくれれば良いのに……。
 そうすれば――
 そうすれば、誉めて貰えるかもしれないのにな。
「天崎さん?」
 それは私の名前。
 誰かが私の名前を呼んでいる――という現状を頭が理解すると、私はゆっくりと瞼を開いた。






■ N o e l /l e o N #02







 黒塗りの高級そうなセダン――BMW760が緩やかな速度で一本道を進んでいる。
 周囲の景色は庭園と呼ぶのが最も適切だろうか? きちんと手入れされた様々な草花が道路の両側を囲む様に配置されている。
 道路もしっかりと整備の行き届いた綺麗なアスファルトで、BMW自慢のサスペンションに出番が訪れない程だ。
 車がこのアーデルハイド女学園に入る為の最初の門を潜り、守衛所を抜け、更にもう一つの守衛所を越えてから、既に数分の時間が流れている。
 学園内の制限速度が時速二〇キロと定められているとは言え、馬鹿馬鹿しい程に広大な敷地を有している事に変わりはない。
 この状態を維持するのに一体どれ程の費用が必要なのかを考えるだけで、この学園が世間一般でいう「普通の学校」とは別次元の存在である事が理解できるだろう。
 暫く進むと道は緩やかなカーブを描き始め、薔薇の蔓でこさえられたアーチが車を飲み込んだ。
「乙女たちを守るのは薔薇の棘……か。すごいね。まさしく秘密の花園だ」
 ステアリングを握る男が、眼鏡越しに見る光景に呆れとも関心とも取れる口調で呟くが、助手席に座る少女は応じる事なく、ただ押し黙ったままシートに深くもたれている。
 真新しい制服に小柄な身を包んだ彼女の菫色の髪の毛が、眩い陽光を受けて美しく輝いている。
 セダンを取り囲む色とりどりの薔薇の花を見て、何か思いついたのか、男は口元に笑みを浮かべると、くわえていた煙草を灰皿でもみ消し、パワーウインドウのスイッチを入れた。
 途端、濃密な薔薇の香りが車内へ流れ込み、充満していた煙草の臭いを駆逐し、少女の髪の毛を靡かせる。
 それでも反応を見せない助手席の少女に、男はそっと声をかける。
「ノエル、起きてる?」
「うん……起きてる」
 ノエルと呼ばれた少女が、僅かに視線を動かして静かに応じる。
「綺麗と思わないかい?」
「……よく判らない。それに香りが強すぎて酔いそう」
 男の質問に、僅かに間を空けてからノエルは答えるが、その口調はどこか儚い。
「そうか。薔薇は嫌い?」
「好きでも嫌いでもどっちでもない。そんなこと、考えたことないから分からない」
 続けざまの質問に対するノエルの回答は、どこか素っ気ない。
 だが、男の方もそんな態度を気にはかけていない様だ。
 恐らくこれが彼らにとって、日常的なやり取りなのだろう。
「兄さんは?」
 ふとノエルが質問を返す。
 兄と呼ばれた男――吉川裕樹は、意地悪そうに口元を歪めて切り返す。
「そうだね……嫌いかな? 見た目は美しいのに迂闊に触れると怪我をする。……まるで誰かさんみたいだと思わないか?」
 兄の言葉にノエルは返事を寄越さないまま、再び窓の外へと視線を戻す。
 どうやら気を悪くした様だ。
 そんな態度がおかしかったのか、裕樹は満足げに微笑んで「冗談だよ」と答えて窓を閉めた。
「兄さん……時間、少し押してる」
 ふと唐突にノエルが口を開いた。
 約束では七時十五分に、学園長室へ赴く事になっていたが、車に備えられたデジタル時計の表示は、七時を少し回っている。
「遅刻を気にするなんて、随分張り切っているじゃないか。あんなに嫌がっていた任務なのに」
 任務――裕樹の口から発せられた言葉は、おおよそ女学生に対して用いるには不相応だった。
 だが、そんな言葉を受けたノエルも、それがさも当たり前の様に表情を変える事なく応じる。
「嫌がっていたわけじゃない。ただ、納得がいかなかっただけ」
「そうなの?」
 答えながらステアリングから放した片手を助手席のノエルの腕へと伸ばし、そのまま手へ移動させる。
 裕樹の指がノエルの掌を縦に走る傷痕に触れると、彼女は僅かに肩を震わせた。
 掌を横切る様に走るその傷痕は、その具合から見て随分昔に負った物である事が伺える。
 であるから痛みは感じないが、掌をそっと指先で撫でられるこそばゆい感覚にノエルは慣れずにいる。
 しかし彼女は特に咎める事もなければ逃げることもせず、ただ黙って兄の指を受け入れる。
 それが彼女にとっては、ごく当たり前の事だから。
 掌を弄んでいた裕樹の指が止まり、互いの掌がぴたりと合わせられる。
 繋がれた兄の手にも同じ傷痕がある事をノエルは知っている。
 その傷痕は二人を繋ぐ絆。
 エマノンの紋章。
 新世界管理機構の掃除屋と揶揄されるエージェントの証。
 そしてノエルこそは、”死神”と呼ばれ恐れられているエマノンの鬼札。
 この国の少女達であれば誰もが着用を夢見るという、アーデルハイドの制服に袖を通した彼女は、外見こそ普通の少女に見えるが、先程兄が皮肉った通り、中には鋭い牙を潜ませている。
 全寮制の女学園に潜入し、ターゲットの少女を、それと気づかせない様にガードをする――という任務を遂行する為にノエルが選ばれたのだが、その決定は彼女のプライドを些か傷つけていた。
 何しろ、今まで彼女は旧時代の敵勢戦力の生き残りや、新時代の暗黒社会を形成せんと目論む秘密結社や武器麻薬密売組織、マフィアやヤクザと正面から戦い、それらを撃破・殲滅してきたのだ。
 それがいきなり女学生一人の身辺警護だと言うのだから、彼女が納得できないのも無理ないだろう。
「ボディガードなら、エマノンにはいくらでもプロフェッショナルがいるでしょう? 私はそうじゃない。これは……私向きの仕事じゃない」
 窓の外に今だ続いている薔薇のアーチを、少し苛つきを含んだ視線で見つめつつノエルが答えた。
「そうだね。君の専門は、守ることじゃなく攻めること。生かすことじゃなく殺すこと。それぐらい僕にも、もちろん仕事を振ったエンダーや上層部にも分かっているよ。それに……」
 裕樹は一旦言葉を句切って、ノエルの掌に在った自分の手を再びステアリングへと戻し、それからゆっくりと続きを話し始めた。
「勿論、随分前からガードは付けてあるよ。何しろ”あの”天崎の一人娘だからね」
「なら余計に私が必要なのか判らない」
「エンダーは何も言ってなかったけど、恐らくは情況が変わったんだろう。ガードじゃ対処困難な情況にさ」
「ガードは何人?」
「一人だよ。うち(エマノン)には、確かにあらゆる方面のプロフェッショナルが揃ってるが、全寮制女子校に潜入する為の、ターゲットと同い年に見られる者となると、自ずと数には限りがあるからね。それに例え今回の件で新たに人数が用意できたとしても、突然転入生が大人数で押し掛けてきたら流石に不自然だろ? だから少数精鋭というわけさ。恐らく君にしか出来ない何か起きたんだろう。エマノンの”死神”の君にしかね」
 裕樹の発した”死神”という言葉に、ノエルが僅かに眉を寄せた。
「そんな名で私を呼ばないで」
「嫌いかい? 掃除屋エマノンのナンバーワンにはふさわしい呼び名じゃないか。誰が考えついたか知らないけどね」
「……」
 ノエルは兄の軽口を、黙って受け流した。
「君が今回の任務を納得できないのは判るが今更文句を言っても仕方がない。諦めて任務を全うするんだ。いいね?」
「判ってる。任務は任務。今まで通りにこなすだけ」
「結構だ。ターゲットは判ってる?」
 ノエルは無言で頷く。
「依頼者は天崎製薬の会長。ターゲットはその一人娘」
「知ってる」
 天崎製薬は戦時中に大量の医薬品を製造し、戦争で傷ついた人々の為に数々の新たな医薬品を開発した事で急成長を遂げ、今では世界に名だたる大企業となった。
 だがそれはあくまで表向きであり、実際には戦時中に行った新世代生物化学兵器の作成と、遺伝子操作によるバイオウェポン研究によって、環太平洋側の勝利に大きく貢献した事が真の急成長理由だ。
 世界にその天分と博識で高名を轟かせている化学者(医者としても一流だった)天崎今日子にしても、裏の分野での活躍こそが本領であり、彼女の真の姿を知るごく僅かな者達は、第三次世界大戦は彼女の実験場だったに過ぎないと漏らす程だ。
 狂人、ウォーモンガー、マッドサイエンティスト――それらの呼び名こそが、彼女にとって相応しかった。
 無論、世間は天崎製薬の裏を知らずにいる。
 彼等が条約的にも人道的にも問題のあるBC兵器の開発に関与し、なおかつ先の戦争で戦勝国がそれらを使用していたという事実が公となれば世界がひっくり返る。
 恐らくは再び世界規模の混乱を招き、再び戦争へ突入する事になるだろう。
 だからこそ天崎が脅迫を受けたと言うので在れば、近付く不穏な影は何としてでも排除しなければならない。
 上層部が理由を言わずとも、ターゲットが天崎縁の者であるならば、今回の任務が単なる身辺警護だけで無い事は明らかだ。
 ノエルとてそんな事は判っている。本人が言う通り、ただ納得出来ないだけなのだ。
 だから思わず尋ねずには居られなかった。
「天崎が隠そうとしているのは何?」
 ノエルの質問に、裕樹は頭を振ってから答える。
「判らない」
「私には教えられない……という事?」
「そうじゃない。僕も本当に、具体的なことはなにも知らないんだ。天崎製薬のなにが狙われているのか。会長を脅迫したとされる敵対勢力の素性さえ、我々実行部隊には知らされていない。上の連中がどこまで掴んだ上で、この仕事を受けたのかわからないけどね」
 裕樹はやれやれといった風に苦笑すると、再び言葉を続けた。
「既に天崎製薬の会長は海外に雲隠れしたらしい。それでいて大切な娘に、きな臭いことは何一つ知らせるな……ってお達しだ」
 親が子を見捨てて逃げたと言われても、ノエルは特に何も感じなかった。
 ノエルには過去の記憶が無く、気が付いた時には、既に裕樹と共にエマノンでの訓練を受けていたのだ。
 故に裕樹とノエルは本当の兄妹でもない。
 家庭の暖かみや血縁の情、親の愛といった物とは無縁の生活を送ってきた彼女にとって、子が親に見捨てられた時の感情は想像すら出来るものではなかった。
 表情を変えないノエルに一瞥をくれると、裕樹は満足げに微笑み口を開く。
「天崎製薬が何を隠しているのかは判らないが、我々に任務が回ってきた以上、新世界の平和を脅かす何かがあるはずだ。ならば天崎には逃亡でも何でもしてもらって、最後まで隠し通してもらうしかないだろう。脅迫云々に関しては、我々が対処する事で無力化する。いいねノエル。君はターゲットV1……天崎理理の身をあらゆる外敵から守る。先に潜入したガードのD1から君に対して接触があるはずだから協力を仰げ」
 ノエルは今一度無言で頷いた。
「……見えてきたよ。ノエル」
 裕樹が顎をしゃくり、ノエルが目線を前方へと向ける。
 薔薇のトンネルの先に煉瓦造りの尖塔が姿を見せ、やがてアーデルハイド女学院の荘厳な本館がその全貌を現した。
「さあ行こう。ここが戦場だ」
 ノエルは頷いてから自分の戦場を見上げる。
 古めかしい建物は、それ自体が二百年の歴史を物語っている様だった。
 最優先事項は天崎理理の身体の安全。対象者には明かさずに、その命を守り抜くこと――ノエルは自分に言い聞かせる様に頭の中で任務を暗唱した。
 その合間に、裕樹の運転していたBMWは本館前の駐車場へと静かに停車をした。
「エマノンの正義と、新世界のために」
「エマノンの正義と、新世界のために」
 二人は呪文のように定句を口にして車を降りた。




続く>

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