機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム#31〜







「これでいいだろう……」
 私はペンを置き、便せんに封をすると席を立った。
 年賀状や暑中見舞いと言った特定の風習を除けば、こうして直に手紙を書く行為は現代では珍しい。
 だがこの度の内容に関しては、電子メールよりも紙に直筆で書かれた物が相応しいと思い、こうして慣れない手つきでペンを走らせてみた。
 徹夜明けの影響か、それとも一晩中泣き続けた所為か、どうにも視線が定まらず時々ペンが妙な場所を走る。
 何とかして書き終えると、私はすぐに手紙を懐に入れ館を出て、車で麓の町まで降りてポストを探す事にした。
 これじゃわざわざ手紙を書く者も少なくなるな――ポストを探しながら、そんな事をついつい考える。
 ポストの数が減った事が、郵便利用者の減少に拍車をかけているのは間違いないだろう。実際、かなり面倒くさい。
 結局、確実にポストが在るであろう市庁舎へ出向き、懐の手紙を投函した。
 帰り道の途中、見かけた小さな花屋へと立ち寄ると、私は店頭に存在した花々を全て買い占めた。
 種類も花言葉も意味も気にはしない。
 ただ、沢山の花が欲しかっただけだ。
 私の薄ら汚れた外見と用件に、当初店の主人は驚いた後で困った表情を浮かべたが、その中に歓喜が含まれているのは隠せなかったようだ。
 商売にならない――だの、困るんだよねぇ――だの言いながらも、私が現金で支払いを済ませた後は、満面の笑顔で車へ運ぶのを手伝っていた。
 あの子を車椅子ごと運ぶ為の大型のワゴンはこの時にも役に立ち、購入した全ての花々を詰め込む事が出来た。
 数々の花々の香りが充満する車内の空気は、窓を全開にしても消える事は無かったが、その強烈な香りは眠気覚ましにもなった。
 一時間程して館に戻ると、私は改めて建物を見上げてみた。
 何年もの間手入れがされていない外装の所為で、建物は一見して廃墟の様に見えるが、中は埃っぽいという事を除けば比較的整っており、暮らすには何の不都合も無かった。
 おまけに山中にある為、近隣には民家も無く、それで居てそれなりの研究・実験機材が揃っており、更に言えばつい先日までグローバルネットワークへの接続もされておらず、世間の目に背を向ける必要がある私には尚のこと都合が良かった。
 この館は個人が所有する建物としてはかなり大きい部類に入るだろうが、本来の所有者であった叔父は私同様に研究者であり、その才能が高く買われていたという事が、この大げさな建物を見るだけでも判るものだ。
 もっとも、その本人はとうの昔にこの世から消えている。
 言うまでもないが、天寿を全うした訳ではない。
 巨大企業が求める利権闘争の渦中にあっては、個人の人権や命などゴミ屑に等しい。
 多くの優秀な者達が、その才能や知的財産を吸われ、出涸らしとなった者達はそのまま吐き捨てられた。
 あの企業はそうして成り上がっていったのだ。
 会長が交代して企業の体質に変化が見られる事は認めよう。
 だが、過去における所業の数々が歴史に埋没し風化しようとも、彼等の犯した罪が消える事は決して無い。
 新技術の開拓という大義名分の元に行われた非人道的実験の数々と、良心の呵責に耐えきれずに消えていった技術者達。
 彼等を襲ったのは、利益と権利を追求する企業の犬共による、容赦のない暴力だった。
 犠牲になった人間は二桁では収まらないだろう。
 そして私もまた、あと数時間程で彼等の仲間入りを果たす事になる。
 つまり、あの企業――ネルガルの暗部に関わった叔父や両親と同じ末路を辿るわけだ。
 だが、私はむざむざやられるだけで終わる気はない。
 出来る事であれば、私の要求を相手が呑む事を期待したいが、その可能性は著しく低い、否――有り得ないだろう。
 既に矢は放たれており、私のした行為をあの男が許すとは思えない。
 そうであるならば、私が明日の太陽を見る事は叶わない。
 ――苦笑が漏れる。
 そうと知っていて愚行に出る私は、やはり狂っているのだろう。
 だから私は狂っている事を自覚し、狂人ならではの手段を用いて彼等に対抗しよう。
 最後に残された資産――私自身の身体とあのサンプルを用いて。

 館の奥にある電算室へと赴くと、私は意を決して通話機の電源を入れ、つい先日、ダニエルが私の為に行ってくれたハッキングで入手した会長室への直通回線へと繋げた。
「会長を……アカツキ会長に繋げてもらおうか」
 ありったけの嘲笑を含んで私は口を開いた。


 数分後――
 通信を切断し、何も写さなくなったウインドウを見つめたまま、私は用意しておいたIFSのアンプルを自らの身体へと押しあてトリガーを引いた。
 躊躇いは全く無い。それどころか、恐らく私は口元を歪めていただろう。
 これでいい。
 このナノマシンが人類全体に疑心暗鬼の種をまき散らす事になるだろう。
 ほくそ笑んで通話機から立ち去ると、研究室の奥で眠っている様に横たわるダニエルの身体を見つめる。
 元々透き通る様に白い肌だったが、今は更に白くなっており、その肌に生命の息吹は全く感じられない。
 頭を撫でる。サラサラとした髪の毛の手触りは、まだ生前と大差なかった。
 彼の髪を撫でる自分の手の甲に浮かぶIFSの模様を見つめながら、これから人類に降り注ぐであろう災厄を思い哀れんだ。
 だが、ダニエルの居ない世の中に何の価値があろうか?
 もはや今の私に、生に対する意欲は無い。
 もとより、死はあと数刻で確実に私の元へとやってくる。
 ネルガルの犬共がもたらす死が。
「ははっ……」
 天を仰ぐと、自然と乾いた笑いが漏れた。
 視線を逸らし、奥の機材へと向かい、かねてからの計画に従い行動を起こす。
「命令送信……タイマープログラム実行。ははっ……イネス所長、あなたがやりたくても出来なかった実験を、私が代わりにして差し上げますよ」
 小さく呟くと、私はIFSとは異なるもう一つのアンプルを手に取り、今度は一瞬の躊躇の後、自らの身体へ突き刺した。
 程なくして、身体の中で煮えたぎるマグマの様にな高揚感が沸き上がり、頭からつま先まで、身体全体に不気味な力がみなぎってゆく。
 先程まで感じていた僅かな遠慮や道徳感を、別の意識が塗り替えて行くと、自然と笑いが込み上げて来た。
「サラバだ……世界、そして人間どもよ」
 咽び笑う私の目が、甲で妖しい輝きを放つ様になったタトゥーをとらえた。




§





 二二〇四年二月十六日――ネルガルSSの実行部隊によるキュリアン邸強襲から二日後。
 ハチジョウジマの研究所内に設けられた社員僚で、アネット・メイヤーはいつもの様に目を覚まし、いつものように今朝の朝食の献立を考えつつ出社準備を整えていた。
 彼女が月臣からの遺言的口利きによってネルガルに入社し、ハチ研所属となってから約三ヶ月が経過。
 途中入社して来た最初こそ、場違いなアネットの存在を疎ましく思う者も多く、イネスの不在を狙って嫌がらせを受ける事もしばしば在った。
 だがそれは既に過去の話で、今や彼女にちょっかいをかけてくる様な者は、もはや所内には殆ど居ない。
 相変わらず技術・化学的な仕事には全く関われないものの、ひたすら前向きかつ真剣な行動と明るい笑顔や態度は、僅か二ヶ月足らずで彼女の立場を好転させた。
 何より彼女は、ネルガルの技術を支えるハチ研学者達でさえ敬遠しがちな、イネスの”説明”に唯一途中介入が出来るスキルを持ち合わせている事が発覚し、その事実は彼女の存在価値を一層高める事となる。
 しかし、そんな風に思われているとは思ってもいない彼女は、少しでも周囲の役に立とうと張り切って毎日を過ごし、そんな態度もまた彼女の好感度を上げている。
 ネルガルの制服に身を包み終え、誰よりも早く寮の食堂に赴き、給仕のおばさんを手伝いながら世間話をする――それが彼女の一日の始まりだが、その日常における初動は、外来を告げる管理人の通信によって打ち消された。
 突然の来客に驚き慌てるアネットに差し出された名刺には、ネルガル会長秘書の肩書きが記されており、その事は一層アネットを驚かせた。
 更に――
「会長がお呼びです」
 という一声を受ければ、ぺーぺーの末端社員に過ぎないアネットの心境は、驚愕を通り越し恐怖となってしまった。
「あ、あの私、仕事が……」
 という反論は言い訳にもならなかった。
 相手はその仕事をアネットへ与えている雇用主であり、その本人が「来い」と言えば、それが仕事に他ならない。
 幾ら所内のマスコット的立場とは言え、彼女は実務的にはお茶くみや簡単な事務仕事しか出来ない。
 重要だと思われるイネスのバイド研究の手伝いを行うにせよ、ネルガル内で唯一その執行者である彼女が月面支社へと出張中――実際にはバスティール捕獲の任――という事もあっては、重要な仕事は全く無かった。
 十分後、彼女は迎えのヘリに乗り込み本社へと飛んだ。

 久しぶりに本社屋のホールにやってきたアネットが、ゴクリ……と喉を鳴らし緊張を露わにする。
 ただでさえ緊張する本社への来訪に加え、会長自らの呼び出しとあって、彼女が窒息する程の緊張感に苛まれるのは当然だった。
 ロビー受付で同行していた秘書が会長室へ取り次ぎを行っている時に一度、直通のエレベーターに乗ってデジタル表示が目的の階の番号に近づくまでの間に二度、彼女は気を失いかけた。
 月臣さん月臣さん……と、恩人の名を呪文の様に繰り返し呟く事で何とか現実に踏みとどまったものの、会長室へ通されアカツキの背後に立つボディーガードらしき大男の睨み付ける様な視線を受けた途端、彼女の精神はついに限界点を突破しそのまま床に倒れてしまった。
「おいおいゴート君。幾ら何でも酷いんじゃないの?」
 アカツキは楽しげにそうたしなめたが、ゴートは彼なりにアネットを余計に緊張させまいと、出来る限り微笑んでいたつもりだった。
 ゴートの気遣いはかえって彼を奇妙な表情にさせ、結果的に彼女を失神させてしまったわけだが、彼はその事実に少なからずショックを受けた。
 数分後――会長室に備え付けられたソファーに寝かされていたアネットが目を覚ますと、そこにはウサ耳を象ったカチューシャを付けた奇怪な大男が自分を狙って――すくなくともアネットにはそう思えた――鋭い目線を向けており、彼女の意識はそのまま闇の世界へと回れ右してしまった。
 数分後にもう一度アネットが意識を取り戻した時、室内には愉快そうに笑っているアカツキと苦笑している若いSS隊員が数名いるだけで、ゴートの姿は遂に見つける事は出来なかった。

「わざわざ呼び立てて済まなかったね」
「い、いえ。会長様には私の様な者を拾っていただき誠に恐縮でございます」
 アネットは完全に固まった表情に無理やり笑顔を作り、ぎこちなく挨拶をして返す。
「ああ、別にかしこまらないで良いよ。可愛い顔が台無しだ。出来れば僕は君の素敵な笑顔が見てみたいねぇ」
 言い終えると同時にアカツキの前歯がキラリと光る。
 ネルガル内部においても「技術と時間と金の無駄遣い」と言われている、STSによる演出だ。
 アカツキがナンパ目的に作らせたものだが、その真の目的をカムフラージュするために、様々な機能を搭載させて開発を命じた為、その開発費はそれこそ冗談では済まないレベルへと達した。
 ちなみに、計画段階の仕様書を見ると……思考制御を備え、ネルガルのメインコンピュータへのアクセスすら可能とし、非常時には本社ビルのセキュリティ操作までもが可能な極小コンピュータと、それを半永久的に動作させるジェネレータを搭載し、なおかつIFSのフィードバックをブーストアップする為のコプロ機能も付け加え、これらを歯のサイズへと押し込む。当然差し歯としての機能をも併せ持たせる為の強度を確保し、ブラッシングを怠っても歯垢の付かない抗菌仕様で水洗いOK――と、実に馬鹿馬鹿しい物だ。
 STSという名称は「スーパー・トゥース・システム」の略らしいが、頭の「スーパー」は当初「シャイノング」だったとか。
 最終的に、このSTSの開発費は、かつてウリバタケが資金を横領して作ったエックスエステバリスのそれに等しいものとなった。
 商品化(実用化)に至らず、個人の欲求を満足させた以外、何の役にも立たなかったという点では双方一致している。
 実際、アネットは歯が光ったところで「あ、何だか面白い……」と思った程度であり、別段イベントフラグが立ったわけでも、愛情度がアップしただけでもなかった。
 ただ緊張をほぐす事が出来たという点に置いては評価も出来るが、莫大な費用を費やした結果が「女性の緊張をほぐすだけ」では技術の無駄遣いと影口叩かれても仕方がないだろう。
「それで私に用事って何でしょうか?」
 幾らか緊張がほぐれたアネットがおずおずといった感じで口を開く。
「ああ、これをね……君に渡したかったんだ」
 アカツキは自分の前に立ったアネットに、引き出しの中から取り出した便せんを差し出した。
「私に……ですか?」
 自分に手紙を出す様な相手が思い浮かばず、アネットは首を傾げてアカツキの手から手紙を受け取る。
 確かに宛名は『ネルガル重工・ハチジョウジマ研究所・第一研究室 アネット・メイヤー』となっているが、差出人は無記入だった。
「あ〜、申し訳ないけど開封させてもらってるよ。宛名が君だったからね。ハチ研へ送る前に、こちらで検閲させてもらった」
 アカツキは済まなそうな表情を浮かべる事なく平然と言った。
「え?」
「君自身感じてるとは思うけどさ、君宛の手紙ってさ不自然だろ?」
「……はい」
 ペルー生まの孤児であり、親類縁者・友人知人が殆ど居ないアネットへ手紙を送る者が居るとは到底思えない。
 しかも差出人は、彼女がネルガルのハチ研に勤めている事を知っている。
 非合法ラボから月臣に救出されネルガルへ流れ着いたアネットの経緯を考えれば、差出人を怪しむのは当然の結果だ。
「ま、元々ハチ研に関わらず、ウチの重要なセクションへ届けられる荷物・郵便物は全て検査がかけられている。その中に差出人不明の手紙があれば、中身が検閲されるのは当然だから……まぁ、仕方ないと諦めてくれ」
 そんなアカツキの言葉は、彼なりの気遣いだったのだろう。
 アネットは視線をアカツキから手紙へと向け、飾り気ない表面を見つめた。
 お世辞にも綺麗とは言い難い字で彼女の名前が記されている――確かにアネットあての手紙だった。
「僕としてはそのまま燃やしたかったんだけどさ……ミスターが見せるべきだろうってね」
 アカツキの言葉に視線を上げると、彼は目を伏せていた。
 アネットは気が付かなかったが、本来であればこの場に居るはずのプロスの姿が無い。
 彼は今、ネルガルの付属病院で失った左腕に義手を取り付ける手術の真っ最中だった。
 先日のキュリアン邸強襲作戦に際して陣頭指揮を執った彼だったが、その最中にバイド体となって襲いかかってきたキュリアンの攻撃を受けてしまい、その際怪我をした左腕からバイドウィルスが侵入したと思われるや否や、自ら腕を切り落としたのだ。
 それでも翌日、何食わぬ顔のまま普段通りに出社した彼は、唖然とするアカツキに対して――
『はは、いや何ともお恥ずかしいかぎりで……』
 と、残った右腕で汗を拭いながら平然と言ってのけ、丁度その時に検閲官からもたらされたアネット宛ての手紙を読み、アカツキに対して彼女へ渡すべきだと進言し、その後会長命令を受け病院へと向かった。
「あの……この手紙、誰からなんですか?」
「キュリアンだよ。知ってるよね?」
 差出人の名を聞いてアネットが息を呑む。
「……何故ですか?」
 手にした手紙が急に重くなった様な気がして、アネットは声を絞り出すようにして尋ねた。
 彼が所内規定を無視してバイドを所持したまま失踪したというのはハチ研内の全員が知っている事であり、テロに走っただの、クリムゾンへ寝返っただのと噂されていた。
 皆は口に出さなかったが、もはや彼が戻ってくる事は無いだろう……というのが総意だった。
「まぁ読んでみれば? そうすれば、その質問の答は自ずと判ると思うよ」
 アネットは一礼してから、その場で中身を取り出し読み始めた。







 まずは突然の手紙にて驚かれたと思う。
 普段文章など書かない人間故に、おかしな所も多々あると思うが、どうかご了承頂きたい。
 君にこの手紙を送るのは不適切かもしれないが、君にかけた迷惑に対する謝罪も含めて誰かに私の話を聞いて欲しかった。
 私――C.キュリアンには愛する一人息子が居る。
 もっとも、「居た」と過去形で表現するのが正しいのだろう。
 最愛の息子ダニエルは、昨夜静かに息を引き取った。
 私とダニエルに血縁は無かったが、私にとっては掛け替えのない息子だった。
 ダニエルはかつてネルガルが推し進めた遺伝子操作による試作マシンチャイルドの一人であり、欠陥品として処分される所を、その処遇を見かねた私の両親によって秘密裏に連れ出された。
 そのまま両親の手元に置くのは得策では無かったので、私が息子として引きとる事になったのだが、共に暮らす日々が流れるにつれ、彼に対する愛情は深くなり、何時しか私と彼は家族としての絆によって結ばれていた。
 たとえあの子が遺伝子改造で産み出された人造人間であったとしても、例えネルガルにとっては欠陥品のマシンチャイルドだったとしても、ダニエルは紛れもない私の息子だった。
 血縁によって成る家族よりも、その絆は強固だったと自負している。
 家族を形成する上で「愛情」に優る絆は無い。
 それは私もまた孤児であり、私を育て愛してくれた両親や叔父との血縁が無かった事実からもはっきりと判る。
 私と私の両親とは戸籍においても親類にはなっていなかったが、これは後にネルガルの暗部に関わった両親の善意によるものだという事が判った。
 事実、その事が幸いして私は前会長の粛正リストには載らず生き長らえる事が出来たし、技術者としてネルガルへ入社する事も出来た。
 先に断っておくが、入社自体に不純な動機は無い。
 ネルガルに対する復讐も考えていなかった。
 私が入社したのは、単純に叔父や両親譲りの研究好きな自分を満足させる事と、既に私の息子として存在していたダニエルの弱い身体を治す手段を見つけるのには、その”開発元”であるネルガルが最も都合が良いと思ったからだ。
 ダニエルが元気になれる様にと、遺伝子治療技術や、新型ナノマシンの開発に志願し、日々研究に没頭した。
 だが、研究は遅々として進まず、ダニエルの身体を蝕んでいる悪性ナノマシンがどれ程酷い物かを再認識させられるだけだった。
 日々悪化して行くダニエルの身体と、研究の行き詰まりに私の神経は苛立っていた。
 そんな時、バイドが私の前に現れた。
 信じがたい回復力を持つバイドをい用いれば、ダニエルの治療にも役立つ――そう思って、私は研究班に志願した。
 重ねて言おう。私は復讐などしたくはなかった。
 確かに愛すべき両親と叔父を亡き者としたネルガルや奴等の犬――SSに対する恨みを抱いていた事は確かだったが、この時点では復讐などするつもなかった。
 亡き両親達よりも、今を生きているダニエルの事が最優先だったからだ。
 生物兵器などに興味を抱いた事すらない。むしろ嫌悪感を抱いている程だ。
 ただバイドの研究を続ける事によって、ダニエルの治療に役立たせたかっただけだ。
 だからハッキングによって君がクリムゾンで人体実験の被験者である事を突き止めた時、私はクリムゾンに対して激しい怒りを覚えた。
 だがその一方で、喜びをも見出した。
 それが君――アネット君の事だ。
 クリムゾンの研究室からやってきた君なら、私の知らないバイド情報を持っているかもしれない――私が君に近づいたのはその為だ。
 だが、そんな折りに社がバイド研究の中止を命じてきた。
 バイドを唯一の希望としていた私が、どれ程ショックを受けたか判るだろうか?
 闇の中で見つけた明かりを取り上げられ、再び暗闇の中に放り出された私に、残された手段は他になかった。
 だから私は個人的な研究を続ける為、サンプルの一部を秘密裏に培養し自分の研究施設へと持ち帰った。
 一刻も早く人体への投与を可能とする為に、研究に明け暮れた。
 別にクリムゾンや第三者へ売り込む事や、生物兵器の作成等を考えた訳ではない。
 私はただ、ダニエルの事だけを想っていただけだった。
 彼の身体を元に戻せる可能性を秘めたバイドの実験を続けたかった――その一心だった。
 だが昨日、遂に私の元へネルガルのSSが辿り着き、彼等は問答無用で私を拘束しようとした。
 時間がない私は、彼等に抵抗した。
 その時だ。
 騒ぎに目を覚ましたダニエルがやってきたのは。
 二人の男に襲われている私を見て、ダニエルはもはやまともに動かない手足を精一杯振り上げ私達の間に割って入ってきた。
 だが、SSの一人がそんなダニエルを突き飛ばした。
 動かなくなったあの子を見て、私の中で何かが切れた。
 それはそうだろう。
 私の存在意義も、この場で職務規程を無視して研究している理由も、全てはあの子の為なのだから。
 ダニエルが動かなくなった事で躊躇いを見せたSSの隙を突き、隠し持っていたスタンガンを取り出す事が出来た。
 その後SSの二人はあっけなく倒れた。
 私の腕の中、ダニエルは必至に微笑みを作り、謝罪と礼の言葉を続けていた。
 やがて私の中で全く動かなくなったダニエルの小さな身体――とても二十歳には見えないだろう弱々しい身体と、床で泡を吹いて倒れている二人のSSの姿を見て、私の中で眠っていた復讐心がその鎌首をもたげてきた。
 結局、私と私の家族は、常にネルガルの犬共によって滅茶苦茶にされるのだ。
 私は鬼になる事を決心し、会長宛に彼等の指を送りつけてやった。
 無論、この程度の恫喝でネルガルが屈する事はないだろうと思っていたが、私にはもはや引き返す事は出来ない。
 かつて私の家族を奪い、今もまた希望の芽を踏みにじったネルガルの犬共を許すわけにはいかない。
 恐らく私は処分されるだろう。
 ネルガルの非合法研究所が消された様に。
 ダニエルらに行われた人体実験の痕跡を消した様に。
 両親や叔父の様に。
 私という存在も、闇へと葬られるのだ。
 だが汚れた過去を記録から消しても、人の記憶までは完全に消す事は叶わない。
 だから、少なくとも君には覚えておいて欲しい。
 君がクリムソンに人生を踏みにじられたのと同様、ネルガルによって人生を滅茶苦茶にされた私とその家族の存在を。

 共に、バイドに関わった者として――

 どうか君の人生には光があらん事を。






「……」
 読み終えたアネットは、暫く無言で紙面を見つめていた。
 色々な噂が囁かれていたが、結局キュリアンはネルガルにとっての暗黒時代――業績的な意味ではなく、アカツキの父親が会長だった頃の、非合法運営を積極的に進めていた時代――の忘れ形見に過ぎなかった。
 テロリストでもなければ、復讐者でもなく、息子の回復を願っていただけの父親に過ぎなかった。
 そんな彼を復讐へと追い立てたのはネルガルであり、SSだった。

 暫くして手紙を掴んだままの彼女の頬には涙が流れ落ちていた。
 それが同族を哀れんだものだったのか、それとも人間的悲しみによるものだったのか、アカツキには判らない。
 純真だねぇ――というのが、彼の感じたものだ。
 少なくともアカツキは、キュリアンの手紙を読んでも何ら心を動かされる事は無かった。
 数万人の社員を抱え込む巨大企業の頂点に立つ者としては、個人の言い分など一々聞いてはいられないし、自分の指示が間違っていたとも思っていない。
 マキャベリズムが全てとまでは思わないが、立場上彼女の様にヒューマニズムな感情を露わにする事は出来ないし、何よりもキュリアンによって約五十名もの部下が殺された現実を無視する訳にはいかない。
 更に付け加えて、自分の懐刀とも言うべき、プロスペクターの左腕を奪ったのも彼だ。
 何だかんだ言いつつも結局復讐鬼となり、ネルガルに対して少なからずダメージを与えた彼には恨みこそ抱くも、哀れみの気持ちは全く感じなかった。
 さっさと燃やしたかった――というのはアカツキの偽りのない本心だ。
 だが、当のプロス本人が、彼女へ見せるべきだと言った。
 暗黒時代から社に仕えてきたプロスにとって、それはささやかな罪滅ぼしだったのかもしれない。
 そんなプロスの意を感じて、アカツキは渋々ながらも彼の意見を尊重する事にした。
 ただ内容に問題がある手紙をそのまま送るす事は出来ないので、こうして彼女の方から出向いて貰ったわけだ。

 その後、アカツキは実態を知った上でネルガルを退社するかどうかを尋ねたが、彼女は背一杯の笑顔を浮かべて首を横に振った。
 良い笑顔だ――数多くの女性を見てきたアカツキでも素直にそう思った。
 惜しむならば、その笑顔を自分に向けさせたかったが、彼女の瞳は遙か遠くを見つめており、そこに居るであろう人物の事を察すると流石に躊躇われた。

 この一週間後、キュリアン邸の隅々まで検査を済ませ、その跡地でのバイド反応が皆無であった事を確認したネルガルは、バイドに関する情報公開へと踏み切った。
 ネルガルからの発表は、かねてより用意されていたイネスのバイドに関する説明ビデオ映像――編集者が多大な努力を強いられたのは言うまでもない――のおかげで、バイドの存在が非常に危険な物だという認識が世間に広まった。
 その結果、バイド研究に社運を掛けていたクリムゾンは、出鼻をくじかれた事になり、その屋台骨は益々危ういものとなってゆく。

 尚、キュリアンからの手紙は、アカツキの手によって焼却処分された。




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