二二〇四年一月二五日――
 ハイパードライブ全開でアステロイドを突き進んだナデシコBは、ミナトさんの芸術的操舵術のおかげもあって無事抜ける事に成功。
 一部の乗組員が気分を悪くして嘔吐したり、転んで怪我をした程度の被害はあったものの、艦自体に特に問題は起きていません。
 小惑星に追突する事も無く、懸念されていた海賊や残党軍の襲撃も無くほっと一息です。
 もっとも、ハンガーでの待機状態が多かったリョーコさんは、せっかくのアルストロメリアでの初実戦が空振りに終わり、少し残念がってましたが……何事も無い方が良いに決まってます。ええ。
 そんなこんなで、ハイパードライブも絶好調のナデシコBは、日々弱々しくなって行く太陽の光を背に受けながら土星軌道を目指して順調に航行中。
 ここからは暫く暇になりそう……と言いますか、現実に暇です。
 外洋航行の緊張も十日も難なく進めば薄れてゆき、艦内はすっかりリラックスモード。
 最高責任者としてビシッと風紀を正すのも有りですが、やることさえやってくれていれば問題ないので、特に口やかましい事は言うつもりはありません。
 オモイカネも居ますし取り敢えずは様子見という事にしておきました。
 ただあまりに暇過ぎて、仕事中にダラダラ〜とされるのも困りものなので、勤務人数を減らして交代制にしました。
 当然メインブリッジも交代制ですから、今この場に居るのは、私とミナトさんの他にはごく数名のサブオペレーターだけです。
「ふふっ。何だか懐かしいね」
 アステロイドを抜けて目的地への軌道変更を終えてからは、何もする事が無いミナトさんが頬杖を付き、ブリッジの外を見つめながら呟きます。
「そうですね……初めて地球から火星へ向けて航行している時にそっくりです」
 あの時も退屈でした。
 艦内維持から操舵までオモイカネに任せっぱなしで、ブリッジ要員の私達ですらゲームをするか、雑誌を読むかで暇を潰してました。
 そういえば、ユリカさんもいつも眠そうな顔で睡魔と闘ってましたっけ。
「うーん……でも格好こそユリカ艦長と同じでも、中身がルリルリだと、何かこう引き締まって見えるわねぇ」
「そうですか? 私も今、必至に睡魔と闘ってるんですよ」
 桃色のカーディガンの襟元を正しながら、そっと微笑みます。
 ブリッジ内のレイアウトが違うので、ナデシコA時代の様に振り向けばミナトさんが居る訳じゃありませんし、私が居る席もオペレーター席ではなく艦長席。
 船も立場も違いますが、此処は紛れもなくナデシコなんですね。
「地球じゃもうすぐ二月ね……ユキナ大丈夫かしら」
「ユキナさんなら問題ないと思いますよ。色んな意味でしっかりしてますし……ただ、アオイ中佐がどうなっているかは判りませんが」
 私が「ふふっ」ット意味ありげに笑うと、ミナトさんが少し狼狽えました。
 ふと情報ウインドウに目を向け、表示されている地球の日本時間を確認し、そしてナデシコBの航海予定を思い浮かべる。
「春ですね……」
「え? 何か言ったルリルリ?」
 私達が戻る頃、地球はちょうど四月になるはずです。
 日本は春になって、桜の花が綺麗に咲き乱れているでしょうね。
「帰ったら……みんなでお花見したいですね」
「あ〜良いわねぇそれ。ホウメイさんとか、メグミちゃんとかも呼んで盛大にやろっか?」
「そうですね」
 そう答えて、ブリッジの外に広がる宇宙空間へと目を向けます。
 変わり映えのしない光景が続く闇の世界に、私は満開の桜の花を思い浮かべ、そしてその中をアキトさんと腕を組んで歩く自分を思い浮かべます。
 あ――私、何だか大胆ですね。
 ちょっと最近暴走気味です。
 ユリカさんから託されたとは言え、本当に私がアキトさんの心の支えになるのか? また生きて行く理由になるのか、少し不安になります。
 あくまで”少し”ですけど。
 私はそっと、オモイカネのライブラリから、あの時の映像を再生させてみました。


 相転移エンジンを暴走させて特攻してきたジンタイプが、身動きがとれないばかりかフィールド消失で防御力が皆無のユーチャリスへと迫りくる中、ラピスがヤタガラスへ強制接続してアキトさんへの通信を開きました。
 鳴り響く警報。
 点滅を繰り返す赤色灯を受けて鈍く輝くアキトさんの姿。
 切羽詰まった状態の中にあって、私に――私達にバイザー越しではなく、アキトさん本来の瞳が向けられています。
 その合間にも、ジンタイプがユーチャリスへとしがみつく様な形で取り憑きました。
 それは、ユーチャリスの真横に在って身動きのとれないナデシコBにとっても致命的な状態と言えます。
 逃げ場の無い絶望的な状態の中で、アキトさんが口を開きました。
『みんな追いかけてきてくれてありがとう。だが、もうようならだ』
 まるであらゆる事を諦めきった様な力のない視線を見て、アキトさんが何を考えているのか、そして私達の前から姿を消す覚悟がある事を悟りました。
 そんなアキトさんの顔を見て、当時の私は柄にもなく大声で喚きたてたんです。
 自分でも信じられませんが、丁度同じタイミングで声を上げたエリナさんの言葉が聞こえなくなる程の大声です。
 しかもその内容たるや――
「ユリカさんからアキトさんの事を託されましたっ! だから私がアキトさんの支えになりますっ!」
 とか――
「私の為に生きて下さい!」
 とか――
「家族としてでなく、一人の男性としてアキトさんが好きなんです!」
 挙げ句に――
「アキトさんが死ぬなら、私も死にます! それであの世でユリカさんと二人でアキトさんを責め立てますっ!」
 ――などなど、皆が周囲に居るにも関わらず、結構恥ずかしい事言ってますね、私。
 しかも最後のは微妙に脅迫っぽいです……。
 それでアキトさん、一瞬だけ驚いた様に目を見開いて黙り込んでしまいました。
 ごく僅かな時間――当時は何十分にも感じましたが――こうして改めて映像を見てみますと、僅か数秒の静寂の後、アキトさんは儚げな笑みを浮かべました。
「アキト帰ってきて」
「アキト君!」
「せっかく治った五感、有意義に使ったら?」
『そうだアキトっ! つべこべ言わずさっさと帰ってこい!』
 アキトさんの表情に迷いを感じたラピス、エリナさん、イネスさん、リョーコさんが畳みかけます。
『……なら尚更俺は今すぐ帰るわけにはいかない』
 苦々しく吐き出すアキトさんの言葉に、みんなが息を飲み込みます。
[ジンタイプの相転移エンジン臨界まで後十〇秒!]
 突然オモイカネが特大のフォントで危機的状況を伝えてきました。
「アキトっイメージ伝達機能に異常でてる」
 ヤタガラスに接続していたラピスの無機質ながらも緊迫した声を聞いて、私は目の前が真っ暗になったんです。
 ナデシコBを守るために行った無理な運動と、グラビティーブラストの直撃がユーチャリスに被害をもたらしていたんでしょう。
「お願いしますアキトさん帰って来て下さいっ! ユリカさんもそれを望んでいたんですよ!」
 最後に残った力を振り絞って私が今一度叫び、そしてアキトさんは、しっかりと私達の方を向いて力強く言ってくれたんです。
『必ず帰る!』
 そう言って通信を切った時のアキトさんの表情に、悲壮感は在りませんでした。
 今こうして当時の記録映像を見てもそれは明らかです。
 だから、その言葉がその場での嘘偽りではなく、本心からの物だと思えるんです。
 アキトさんが通信を切断した直後、相転移エンジンが暴走したジンタイプの自爆からナデシコBを守るため、アキトさんは取り憑いたジンタイプもろともユーチャリスをジャンプさせました。
 その間際、ユーチャリスのデーターレコーダーがナデシコに向けて射出されたのも、アキトさんに帰還の意志がある事の現れでしょう。
 もしもあの場で死ぬつもりならば、私達の前から姿を消すつもりだったのなら、恐らく何も残さなかったはずですから。


 私は映像の再生を終了させ、シートに深く腰掛けて目を閉じます。
 確かにあの場合は、アキトさんが咄嗟にジャンプしなければ、ユーチャリスもナデシコも無事では済まなかったでしょう。
 その後、エネルギー不足――フィールド維持にエネルギーを回した為に、ろくに身動きのとれなくなったナデシコBに、あの場に残っていた僅かな残党軍が襲いかかって来ましたが、リョーコさんと三郎太さんの二人の尽力と、私とハーリー君のオペレーション――当時のラピスは落ち込んでそれどころではありませんでした――によって、事なきを得ました。
 その後、私達は回収されたデータレコーダーと、オモイカネの観測データ等を元に、アキトさんのジャンプ先をトレースする事に成功。
 ユーチャリスが未来へジャンプした事を突き止めたのです。
 そしてその約束の日は、刻一刻と近づいて来ています。
 十九歳の私の姿に、アキトさんもきっと驚くことでしょう。
 そんなアキトさんに、私はそっと近づいて――戻ってきたアキトさんとの会話をシミュレートするのは、何とも楽しい事ですね。
「あ……」
 今更かもしれませんが、こうして改めて当時の映像を再生してみて気が付いた事があります。
「……私アキトさんから返事貰ってないです」
 これって、ひょっとして非常に重大な問題では?






機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム#29〜







 Xデー――つまりアキトの帰還が近づくにつれ、ルリが夢見がちになりつつある一方、イネスは正反対に表情を曇らせる事がある。
 そんな時、彼女が考えているのは他でもない。アキトの事だ。
 あの日――アキトに呼ばれて単身ユーチャリスを訪ねた時、彼の身体に現れた変化と彼自身の口から聞いた状況は、つい最近になって自分の研究所の所員となったアネットの話――月臣の心身に起きた変化に似ている部分があった。
 即ち、攻撃本能の増大だ。
 この共通点は、アキトがバイドに感染している可能性を大きく高める事になる。
 クリムゾンの人体実験が具体的に何をしていたかまでは判らなかったが、アネットからの報告は、イネスが懸念していたバイドの危険性が現実の物であった事を証明してしまった。
 制御出来ない攻撃衝動は、バイド化した存在をバーサーカーとする。
 島に残った月臣がどうなったのか、それを確かめる術は無いが、その様子は概ね想像出来た。
 恐らくは自分の持つ力を躊躇わず使って暴れ回り、眼前の敵をひたすら攻撃し続けたのだろう。
 少なくともイネスが知りうる動物実験の結果では、そうなるはずだ。
 アキトにはそこまで如実な凶暴化は見られなかったが、もしアキトが完全にバイド化したらどうなるだろうか?
 バイド化した人間――それはもはや人とは呼べぬ生物である。
 イネスの仮定では、アキトは体内に巣くう大量のナノマシンが防御壁となり完全なバイド化を阻止している事になっているが、もしもそれが間違いであり、月臣と同じ結末へと向かっているとしたら? バイドに侵された人間の至る悲惨な末路――その事を考えるとイネスは気が重たくなった。
「アキト君……お兄ちゃん……」
 イネスは医務室で椅子の背もたれに深く身を預ける形で腰掛けると、そのまま瞼を閉じてあの日の事を思い浮かべた。






§







「で、何故皆には内緒なわけ? それとその状況……説明してくれるかしら?」
 イネスはユーチャリス内部のアキトの私室――といっても、ベッドと冷蔵庫があるだけの質素な部屋だが――で、ベッドサイドで腰を下ろしているアキトの向かいに立ち、腕を組みながら溜息交じりに尋ねていた。
 彼女が一人此処にいる理由は、アキトからの秘匿通信で呼び出されたからである。

 二二〇一年十二月二四日。
 ナデシコBがボルテガス上空でユーチャリスの姿を確認してから、既に一時間ほどが経過しているが、その間アキトは逃げる事もせず、かといって特に通信を入れる事もせず、ただ通常航行速度でユーチャリスを移動させるだけだった。
 対するナデシコBの方も、そんなユーチャリスから一定距離を置いて、同じ速度で航行を続けている。
 ネルガルによって作られた二隻の戦艦は、その白き船体に陽光を輝かせながら、アステロイドの内側を舐めるように進んでいた。
 アキトの心を救うべくやって来たルリ達だったが、彼女達が特にこれといった行動をとらず、犯人を尾行する刑事の様な真似をしているのには訳があった。

 到着したルリやラピスが一斉にアキトへ通信を入れた時、アキトは慌てた様子で二言三言短い会話をしただけで直ぐに通信を一方的にカットしたものの、懸念されていたジャンプによる逃走は行われなかった。
 その事自体は嬉しい事なのだが、ルリ達としては少し拍子抜けでもあった。
 怒りに身を任せて飛び出したアキトが相手であるから、一戦交えてでも説得する覚悟でやって来たのだ。
 だが、アキトは何をする事もなく、ただゆっくりとその場からユーチャリスを発進させただけだだった。
 それよりもルリ達が気になったのは、通信ウインドウ越しに見たアキトの姿だった。
 彼はいつも付けているはずのバイザーを付けていなかったのだ。
 あのバイザーが無ければまともに見る事と聞く事が出来ないはずであり、それにも関わらず自分達の顔を見て受け答えが出来た事実は、彼の視覚と聴覚が正常に機能してい事を意味している。
 ユリカの死という悲しき出来事の直後にあって、それは喜ばしいニュースだった。
 (とくにユリカとの面識の無いラピスにとっては、手放しで喜べるものだろう)
 ハッキングで航行システムを掌握、後に強制接舷を果たし一刻も早くアキトを確保すべし――と少ない言葉で主張するラピス。
 面倒臭い事はせず、エステでユーチャリスへ乗り込み白兵戦を仕掛け、アキトの身柄を拘束すべし――と息を巻くリョーコ。
 通信回線を確保し、誠意有る説得を続けアキトの情に訴えるべきだ――と言うエリナ。
 自分がボソンジャンプでユーチャリスへ一っ飛び、そしてアキトに直談判――というイネスの提案は、他の女性陣から保留を言い渡された。
 さっさとグラビティブラストを撃ってユーチャリスを行動不能にさせればいい――と提案したハーリーは、ルリやラピスから白い目で見られ落ち込み、隣の三郎太から「空気読めよ」と慰め(?)られた。
 結局――
 下手に刺激を与えず、現状を維持するべし――というルリの無難な判断が採用され、ナデシコBはそのままユーチャリスの後を追って進む事となった。
 ナデシコBの医務室で待機していたイネスのコミュニケに、アキトからの秘匿通信が届いたのは、そんな状況を続けて一時間程経った頃だった。
 他の乗組員には内緒のままボソンジャンプでユーチャリスの内部へと跳んだイネスは、アキトからの指示通りメディカルセットを持って彼の私室へと進み、そしてそのベッドに奇妙な格好で佇む彼の姿を見つけたのだった。


「今の姿をルリちゃんに見せたくなかった……」
 イネスの問いかけに、アキトはゆっくりと言葉を紡いで答えた。
 無論その回答は、ルリを家族だと思っての発言であるのだが、彼女がアキトにとって如何に特別な存在である事が伺え、イネスは心を少し痛めた。
「私には見られてもいいわけね?」
 だが、そんな心境は表には出さずに、イネスは悪戯っぽく微笑んで応じてみせた。
「そういう訳じゃ……いや、そういう訳でいいか」
「それは喜んで良いのかしらね? まぁ良いわ。こうして他のみんなに内緒で呼ばれてるのは、悪い気分じゃないし、それになにより今のアキト君には色々と興味が尽きないわね。取りあえず説明お願い」
 イネスが”説明”を求めたくなる程、今のアキトは異様な有様だった。
 まず上半身は裸だった。
 両足首が手錠で拘束されており、そして右手とベッドのフレーム部分も同じ手錠で繋れている。
 ユーチャリスは無人であるから、アキトが自分で自分を縛った事はイネスにも察しが付く。
「それ、どうやって外すのかしら?」
「そこのリモコンで解除できる。イネスさんが帰る時に押していってくれ」
 手錠を指さして尋ねるイネスに、アキトは答えながらリモコンのある部分へ顎をしゃくる。
 アキトが示した方向にあるサイドテーブルの上には、小さな箱とリモコンが有った。
「で、自分でやったの?」
 リモコンを受け取りながらイネスが尋ねると――
「ああ」
 アキトは短く頷いた。
「……そんな趣味あったんだ?」
 身動きのとれないアキトの頬をつつきながら、イネスが頬を染めながら耳元で呟く。
「違う、これはイネスさんに危害を加えない様にする為の保険みたいなものだ」
 アキトの予想外の返答に、イネスは首を傾げる。
(アキト君に襲われるのだったら、私はそんな抵抗しないわよ?)
(それとも抵抗されるのが良いのかしら?)
(ひょとして、私に襲って欲しいの? お兄ちゃんって”受け”?)
 イネスが色々と問題のある思考を巡らせていたが、アキトはそんなイネスの考えを読んだのか、真顔で自分の異常さを伝えた始めた。
「笑い事じゃないんだよ、聞いてくれイネスさん。俺は貴女を……イネスさんを、そしてナデシコのみんなをも殺してしまうかもしれない」
「え?」
 流石にイネスも驚きの声を上げた。
 まさかアキトに殺されるとは、露ほども考えていなかった。
「俺の身体、何だかおかしいんだ。いや、身体だけじゃない……頭ん中もおかしくなってる。つい先程まで俺は自分でも信じられない様な血に飢えた獣だった。今は収まっているが、こうしてる間にもいつ殺意が込み上げてくるか判らない。だからこうして自分の身体を拘束しておいた」
 そう叫ぶアキトの顔には、うっすらと汗が浮かんでいる。
 そして復讐者となってからのアキトは、冗談など滅多に口にしない。
 であるならば、アキトの言っている事は真実なのだろう。
 だがイネスには、アキトがそうしなければならない理由が思い浮かばなかった。
 そして先刻から気になっていた、アキトの必須アイテムであるバイザーを付けていない事を問いただした。
「……アキト君。ナノマシンが、あまり光ってないわね。それから……バイザーは?」
 真面目な表情となったイネスの指摘通り、明らかにアキトの気は高ぶっているものの、顔に浮かぶナノマシンの幾何学模様は、今までよりも随分大人しく見えた。
「必要なくなった」
 視線を逸らしてぶっきらぼうに答えるアキトに、イネスは詰め寄った。
「ほ、本当に視覚が戻ったの?」
「ああ。視覚だけじゃない……まだ完全じゃない部分もあるが、五感の殆どが戻ってる」
 イネスには信じられなかった。
 救出されてから今まで、アキトの身体を診てきたのは他ならぬイネス本人であり、彼の失われた五感を回復させるのは不可能だと思われていた。
 だから先刻やりとりした通信の後も、イネスだけは他の女達の様に素直に喜ぶ事が出来なかったのだ。
「何で……」
「判らない……可能性として考えられるのは……あれだと思う」
 そう言って、再びベッド横のサイドテーブルへ向けて顎をしゃくる。
「これは……クリスマスプレゼントかしら?」
 地球標準時では、つい先程日が変わって十二月二四日になっている。
 イネスは冗談の中に消費税ほどの期待を込めて、テーブルの上の箱を首を傾げながら手に取り、中身を取り出した。
 そして――そのまま息を飲んだ。
「アキト君……これを何処で?」
「彼処でだ」
 アキトが言う彼処とは、ユーチャリスとナデシコBが合流した小惑星ボルテガスを指している。
「彼処に、ヤマサキが居た。そしてそれはヤツのラボに有った……内容は判らないが」
「つまり……何らかの古代火星文明の研究が行われて、それが原因という事ね?」
「その程度しか思いつかない。何より其処を襲ってから、俺の身体がおかしくなった。五感が戻ったのは良いんだが、強烈な殺意が押し寄せる時がある。そこでイネスさんに俺の身体を調べて貰いたかった」
 アキトは先程から出来るだけイネスの姿を見ないよう、務めてそっぽを向いて話している。
「そう……なの」
 イネスは少し寂しそうな表情を浮かべてから、アキトの横に座り、携帯型メディカルコンピュータと機材を使用して、彼の身体をチェックし始めた。
「詳しい検査機にかけないと判らないけど、ナノマシンの状態が前と変わってるわね……配列にも変化が見られるわ。ここの装備や設備じゃ駄目ね。一度月へ戻って、それから精密な検査をしましょう」
「ならばせめて、殺意を抑える事は出来ないか?」
「殺意って言うけど、一体どんな感じなのかしら?」
「説明するのは難しい……とにかく目の前に居る者を襲いたくなる」
「ずっと?」
「いや、今はもう収まってる。だがもしもまた復活する様なら、俺は一生人の前に立てない。いや、生身ならまだ良いが、下手にサレナやユーチャリスをコントロールしている時に、そんな殺意に見舞われたら……」
 その言葉に、アキトの言っている事が如何に危険な事態かイネスは気が付いた。
 確かに、そんな無差別に殺意を抱いた人間がグラビティブラストのトリガーを引ける立場にあるのは、非常に問題である。
 しかもアキトはA級ジャンパーである。
 文字通り最悪のバーサーカーとなるだろう。
 アキトがジャンプフィールド発生機を兼ねた黒衣を脱いでいたのは、イネスに会った自分が再びバーサーカーとなるのを恐れての事だった。
 (上半身が裸なのは、イネスが検査し易いようにとの配慮からだった)
 イネスは事態の重要さに気が付き、しばし思案にふけた。
 だが、彼女の明瞭な頭脳を持ってしても、この時点ではその打開策をうち立てる事は不可能であった。
「イネスさん……時間が無い。ヤマサキはユリカに細工を施していたが、その解除法はヤツも持っては居なかった。だが、この俺の身体に起きた異変を調べて、その原因が判ればユリカにも転用できるかもしれない……だから早く俺の身体を調べて欲しい」
 アキトの藁にもすがる様な必至の懇願に、イネスは肝を冷やした。
(そうだったわね……アキト君は、ユリカさんの事を知らなかった……)
 そして、イネスが表情を陰らせたのを、アキトの蘇った目は見逃さなかった。
「イネスさん?」
「……アキト君」
 声をかけられ、慌てて言葉を必至に選んでいるイネスの姿に、アキトはユリカがどうなったのか悟ってしまった。
「そうか……ユリカは……もう……」
「アキ……お兄ちゃん?」
 イネスがアキトの名を呼び掛け、近付こうとした時、アキトの顔が光り輝き出した。
 それは今までにないナノマシーンのパターンと、色――赤い色を輝き放っていた。
 多少の気の高ぶりでは光る事は無くなったナノマシンだったが、アキトの怒りと悲しみが極限まで高まった今、まるで血の様な色で輝きを放ち始めた。
 それは顔に血管が浮き出した様にも見え、イネスは一瞬だが、アキトの姿に恐怖を覚えた。
 アキトは涙も流さず、叫ぶ事もしなかったが、顔を赤く輝かせながら心で哭いていた。
「助けようと思ったあいつが……やっとの思いで助け出したユリカが逝って、生き残った俺は五感が直る……か。ははっ、何て皮肉なんだろうな」
 イネスがかける言葉を思案している時、警報と共に――
[艦隊接近!]
 と、ヤタガラスの緊急ウインドウが展開した。
 こんな辺境でタイミングよく現れる艦隊と言えば、それが敵である事は容易に伺い知れる。
「イネスさんっ!」
 アキトの声にイネスは咄嗟に反応し、渡されたリモコンを操作し枷を外した。
 だが、それはまさしく鎖に繋がれていた獣を解き放つ行為であり、自由になったアキトはベッドの脇に無造作に投げ捨てられていた衣装を拾い上げると、心配そうな眼差しのまま佇むイネスを一瞥する事もなく、一言「戻れ」と言い残して、そのまま赤きナノマシンを輝かせながらブリッジへと走って行った。
「お兄ちゃん……」
 イネスは目尻に涙を浮かべてアキトの背中に呟くと、CCを取り出しナデシコBの医務室へと舞い戻った。

 そしてこれより四五分後、アキトはナデシコBを庇い、ユーチャリスで未来へ向けて跳ぶこととなる。







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