オニバスでナデシコBの出航準備が進められている同時刻――地球、トウキョウの某所。
 裏寂れた繁華街の一角で、ひときわ不思議な雰囲気を漂わせている店がある。
 怪しい装飾とネオン、そして珍妙な店名は、通る者に興味を抱かせるには十分なインパクトを持っていた。
 BAR花目子――其処は、ナデシコの名物パイロットにして、もっとも性格が掴みづらい女性、マキイズミが己の趣味を前面に押し出して造り上げた異空間。
 だが、その五〇坪に満たない薄暗い店内は、カウンターを除いて客で埋まっており、この店の人気っぷりが見て取れる。
 ママであるイズミの寒いギャグは、酔っている時に聞くと病みつきになり、いずれその寒いギャグが無ければ酒が飲めない身体になるという中毒性を秘めている。
 そして今日もまた、イズミはウクレレ片手に美しい刺繍の付いたチャイナドレスを着てステージに立ち、ドラッグの様なギャグや小話を客に聞かせているのだった。
「お久しぶりです。ママの戦友……でしたね」
 店に入ってそのままカウンターへと腰掛けた男に、バーテンがそっと声をかける。
「ええ。覚えていらっしゃったんですか?」
「この商売じゃ基本ですよ。今回もスカウトですか?」
 バーテンがそっとウィスキーの入ったグラスを差し出すが、ロックでは無く薄目の水割りなのは、彼が仕事で此処に来た事に気付いたからの配慮だろう。
「そうですね……またママの力を借りたいので……暫く待たせて頂きますよ」
「ママが居なくなるとウチは商売にならなくなるんですがね。ははは……」
「その辺りの補償もさせて頂きますので、はい」
 イズミが静かに空間を凍り付かせる事すら可能な寒いギャグを連呼する中、プロスは笑みをたたえながら差し出されたグラスを口に運び、目線を壁へと移す。
 以前訪れた時から有った写真達の中に交じって、新しい写真が一枚加わっている。
 それは遺跡から救出されたユリカを中心に、ナデシコCのクルー全員と、彼等を出迎えた地球残留組――アカツキやエリナ、プロス、メグミやホウメイ達――で撮った物だ。

 だがその中に、アキトの姿はない。






機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム#25〜







「ユリカさん……」
 私は、手にした写真を眺めて小さな声で呟きました。
 出航を数時間後に控えたナデシコBの艦長室。
 部屋着のままでベッドに仰向けで横たわり、枕元に置いてある幾つかの写真を手に取っては、ぼんやりと眺めていました。
 オモイカネに頼んでウインドウ表示させる事も可能ですが、こういう思い出の品はこうして直に手に取る方が、何かと感銘深いと思います。
 救出されて地球に戻った直後の写真。
 この中のユリカさんは、皆に囲まれて気恥ずかしそうな表情を浮かべ笑ってます。
 今見ると、このユリカさんの笑顔は、なんと力無く儚げなものに見えることか。
 当時の私は、救出できた事と再会できた喜びで、そういった部分まで意識が向かなかったのだろう。
 もしも彼女の笑顔に隠された影に気が付いていれば、もっと良い結果になったかもしれなかった。
 それを思うと、私は心から悔しい思いになる。
 私は写真を元の位置に戻し、別の写真を手に取りました。
 ナデシコを降りた後、共に小さなアパートで暮らしていた頃を映した大切な一枚。
 フォトフレームの中の写真には、満面の笑顔をで腕を絡めているユリカさんと、困った様で恥ずかしそうな表情を浮かべたアキトさん。
 そしてそんなアキトさんの腕を、ちゃっかり反対側から手で掴んでいる私。
 無表情ながらも頬を赤らめて恥ずかしがっている少女の私。
 そう言えば、私がテンカワさんの事を”アキトさん”と名で呼ぶようになったのはこの頃だった。
 私の今までの人生の中で、最も輝かしい日々。
 この時は二人が居ない生活なんて考えられなかった。
 でも、今は私の横に、二人の姿はない。
 一人は永遠に、私の横に立つことも、私の名を呼んでくれる事も、身体を抱きしめてくれる事もない。
 そんな悲しき現実と、写真の中の輝かしい笑顔のギャップが、私の心を深く沈み込ませる。
「アキトさん……」
 私は、そっとあの人の声を呟いた。
 その名は、私を元気付ける秘密の呪文だ。
「もうすぐです……」
 写真の中の二人に囁きかける。
「もうすぐユリカさんとの約束が果たせる日が来ますよ」
 そう――もう後少しでアキトさんが帰ってくる。
 帰ってきてくれる。
 私は写真の入ったフレームを胸に抱きしめ――
 帰ってきたら何て言おうかな?
 ――そんな事を考えながら、私の意識は深い闇の中へと沈んでいきました。






§







 南太平洋に浮かぶ人工島バベル。
 周囲百キロメートルは、如何なる物も存在しない大海原が広がっている。
 直径五キロメートルに及ぶ鋼鉄の大地に、全高が三百メートルにもなる巨大なピラミッド状の建物がそびえ立っており、その中心にガーディアンの本体――中央演算ユニットは設置されている。
 ガーディアンやその他の島内施設の動力源として、複数のマイクロウェーブ発電所が設置されており、完全な自立供給が確立されている。
 流石に重要な施設という事もあって、その防備は強力である。
 島の周囲は強力なバリアが張り巡らされており、並大抵の攻撃ではびくともしないだろうし、強力な警備部隊も存在している。
 他の重要施設と異なるのは、施設を守っている機動兵器――ノウゼンハレンが、守られる存在であるガーディアン自らが操作している点であろう。
 つまりは自己防衛という事であり、バベルに連合軍の警備部隊が詰めているわけではない。
 警備部隊だけでなく職員も最低限の人員しか存在せず、その数は施設全体の規模から見ると驚くほど少ない。
 実を言えば完全無人でも問題なく運用出来るのだが、稼働してまだ一年弱しか経過していないシステム故に、政府の監督官やもしものバグやハード不良に備えたネルガルの技術者等が常駐している。
 もっとも彼等に出番が回った事はこの一年全く無く、やがて彼等は職務を放り出し、退屈と闘い続ける毎日を送る様になった。
 彼等がこうして惰眠を貪っていられるのも、ガーディアンが完璧な自己管理・診断・修復能力を備えているからであるが、もう少し職務に忠実な者がいれば、彼女の中で起きた僅かな異変に気が付いただろう。

 ガーディアンにはグローバルネットワークを通じてあらゆる情報が流れ込み、そして重要な案件から優先的に処理がなされている。
 その動作は当然不眠不休で行われており、ガーディアンの迅速かつ的確な仕事は地球圏に暮らす多くの人々を安定した生活へと導き、もはやガーディアンの無い生活が考えられぬ程だ。
 今だ軍人の中にはコンピュータによる命令系統を拒絶する人々も少なくないが、そういった否定的な人間でさえ、間接的にはガーディアンの恩恵にあやかっている程、世界に浸透している。
 あれほど遅延していた地球圏の復興活動も、ガーディアン稼働後は驚くほどスムーズに進み、今では計画よりも早く終わると予測されている程で、このまま行けば、三年後とされていたヒサゴプランの復旧も再来年には開始出来るだろう。
 (もっとも、復旧に要する費用と、その後の運用における収入や経済効果を考えると、ヒサゴプラン自体が見直される可能性もあるので、実際に復旧が行われるかは微妙の様だが)

 二二〇三年の十月にスプリガンによるグレイゾンシステムが本格稼働してからは、火星の後継者残党によるテロ活動も無くなり、地球圏では急速に海賊の姿も消えた。
 (残党軍に関しては、来年一月に行われる草壁の死刑を妨害する為の戦力維持の可能性が高い)
 今だにグローバルネットワークの整備が行き届いていない中南米などの一部の地域は、相変わらず治安が悪いものの、概ね地球圏はガーディアン姉妹様々の状態で以前よりもずっと暮らし易くなっている。
 その結果、元々差があった地球と火星の平均的生活水準は、より大きな格差が生まれており、地球に住む人々の中に潜在的な地球至上主義者が増えつつあった。
 また、地球圏が安定した事により、食いぶちを求めて多くの海賊やアングラ組織が火星や、アステロイドの小惑星へと流れ込み、火星圏の治安を悪化させるという悪循環をも産み始めている。
 二二〇四年の一月における地球圏での海賊被害は前年の僅か八パーセントにまで激減したが、逆に火星圏での海賊被害は、前年の三四五パーセントまで急増している事実は、それを如実に証明しているだろう。
 更に宇宙空間で民間の船を襲うだけでは飽きたらず、火星の中小都市へ盗賊の様に襲撃をする海賊すら最近では少なくない。
 特に、警備の薄い木連移民の居住区画等がその対象となっており、地球移民との生活格差も相まって火星の政情不安を煽る原因となっている。
 この様な事態においても駐留軍の仕事ぶりは全く誉められた物ではなく、襲撃された地域からのSOSを受信しても、部隊が到着するのは既に海賊が引き上げた後である場合が殆どだ。
 そういった状況が、さらなる海賊の行為を増長させ、悪循環に陥っている。
 ザカリテ首相が率いる火星政府も早々に手を打ちたいのだが、何しろ軍の整備は機密事項であり、有る程度の戦力が整わない内には動かす事も出来ない。
 市民を守るために整備した軍隊が、それを保持する為に市民を見殺しにしなければならない――これこそが火星の抱えたジレンマだ。
 何しろ数が整わない内に軍の存在を公表すれば、地球はその強大な戦力をもって自国軍の解体を迫るのは明白であり、完全独立を目指す火星としては、その様な恫喝が出来ない程度の抑止力になるまで、軍の保有は何とかして誤魔化さなければならなかったからだ。

 そんな火星の苦悩を余所に、地球圏に住む人々はガーディアンの繁栄に溺れつつある。

 だが、そんな状況を憂いもっとも悩んでいる者は、他ならぬ地球繁栄の象徴であるガーディアンそのものであった。






§







『――以上で、二カ月前当地区において発生した生物化学兵器で武装した一団によるテロ活動の制圧に関する報告、及び調査は全て終了となります。今後はこの様な悲惨な事件が起きない事を、私どもはただ祈るばかりです』
 そう締めくくられたヴェノム・アルゼンチン州代表の報告は、誰の目から見ても問題をはぐらかしているのが判ります。
 私は地球の守護者として、この問題は大きく取り上げ、そしてより詳細に調査をすべきだと重ねて主張をしたましたが、連合政府総会での反応は、殆どの代表がこの問題を重要視する事は有りませんでした。
 私は就役以来、総会への出席を認められ幾度となく発言をしています。
 当初こそ目新しさとその正確さで私の意見は重宝がられていたものの、ここ最近では私の意見は保留される場合が多いのが現状です。
 いや、煙たがられる事すらあります。
 先々月に南米で起きたテロに対する過剰なまでの攻撃に対する公開弁論にしても、もはや総会自体が茶番である事を知らしめただけに過ぎません。
 今や総会出席者――各地区の代表者にとっては、自分達の領内に直接関わらなければ、取り立てて騒ぎ立てる問題ではないという事なのでしょう。
 数少ない私の同意者があれこれと騒ぎ立てようにも、代表の見解はあくまで「テロ組織の撲滅」を行っただけであり、しかも被害を最小限に食い止め、市民に要らぬ犠牲を出さない為に行った作戦の結果だと言われれば、黙る事しか出来ません。
 確かにヴェノム代表の弁論によれば、民間人での被害者は、当該施設で働いていた数名の労働者だけという話です。
 しかし、その施設が私の目の届かない場所であり、復興活動が意図的に遅延されている疑いのある州政府の発言には、残念ながら信憑性は無いも同然です。
 結局私の主張は多数決によって否決され、この件に関しては調査終了とされました。

 無関心――というよりも、人々は此処最近、思考という行為に真剣では無くなっている。

 私が思うに、私の能力が高すぎる所為ではないだろうか?
 世界中に張り巡らされたグローバルネットワークと、私の能力のおかげで、ここ一年の地球圏の復興は凄まじい速度で進んでいる。
 復興だけでなく、以前よりも過ごしやすい環境へと進化していると言っても良いでしょう。
 他ならぬ、私がそう導いているのですから。
 しかしその一方で、あらゆる事が私任せになっているのも否めません。
 繁栄と堕落は、決して同じ意味では無いはずなのですが……私は心配です。
 総会が終わった後も、私は世界中から押し寄せる情報を整理し、無数の質問に応じつつ、先の問題に関して一部のクラスタを割り当てていました。
 昨年の十一月、南米で起きた不可解な連合軍機による爆撃。
 いくら生物化学兵器で武装した組織勢力が立て籠もったとはいえ、その島の原型が無くなるほどの爆撃に晒す必要が有ったとは、とても思えません。
 ですがヴェノム代表が公式の場で行った発言を否定するのであれば、その裏にある物は明らかな政治的策謀になります。
 グローバルネットワークで繋がっている地域で発生した問題であれば、私は独自の調査を瞬時に行う事も出来るでしょうが、そうでない地域であれば、調査は人の手によって行わなければならりません。
 あ――だからこそ、人は私の主張を受け入れなかったのかもしれませんね。
 大半の人間は、自分に無関係な事であれば面倒事はしたがらないものです。
 私はコンピュータではあり、面倒という感情は持ち合わせてません。しかし人と同じように物事を考える事は出来ます。
 故に不正が合った場合、即座に「悪」と判断するわけでも有りませんし、人情や情状酌量の意味だって知ってます。
 ですが何の情報が無ければ、情けを掛ける事すら不可能です。
 私に知られたくない”何か”があると言うので有れば、私はそれを知りたい。
 否――知らなければならなりません。
 人の進むべき道を示す存在として、あの地で何が起きたのかを知る義務があります。
 それは地球に暮らす人々の幸せと平和を守るためのに必要な事。
 そう、この地球の平和の為、人々の暮らしを守る為に必要の行動であり、私はアルゼンチン州へのGS艦艇の出動を要請――エラー。
 該当地区に大規模自然災害及び、レベルS非常事態反応無し。
 また州政府からの出動要請も無い為、ただ今の決定は無効とします。
 自己診断プログラムが、私の意識を塗り替えて行く。
 そして自分の意識が変わって行く事を自覚しつつ、空いたリソースを用いて私は別の案件――約八三五万件にも及ぶ――へと思考力を傾ける。


 世界中の人々が、私の助言や指示を待っている。
 私は人から与えられた、この卓越した頭脳で、その問いかけに応じて行く。
 だが、それら全てを百パーセント完璧に応じる事は不可能だ。
 私を育てた母であり友人は言った――『人の数だけ正義が存在する』――と。
 全ての人が抱く正義を実現する事は不可能であり、私が出来る事は、それら無数に存在する正義の最大公約数的なものを実現できる様、知恵を貸すだけだ。
 だが、それで人が幸せになれる訳でない事も、私は知っている。
 だから私は悩み続ける。
 自分の存在について。
 世界のあり方について。
 世界――人が作りし、人の為の世界。
 人以外の動植物、物質、自然は、すべて人の世界を支える為のものに過ぎない。
 だが、それは人の世界の理に過ぎない。
 地球という星――生命から見た場合、それは明らかに誤りである。
 人も、その他の動植物同様、地球の一部に過ぎない。
 では、それらと人を隔てるもの、差を生むものは何だろうか?
 それは、意志だ。
 自然、物質、動植物が持たぬ、強い意志が、他を駆逐し、文明を――社会を築いた。
 そして自分――私はこれら人が築いた社会を守る為に存在している。
 ならば、私は人間社会を守る事だけを考えれば良いのか?
 恐らくそれは、私の本来の目的から見れば正しい事なのだろう。私は人によって作られたのだから。
 でも、人類の所為で地球そのもにに致命的な問題が発生した場合、私はどうすれば良いのでしょうか?
 地球有っての人類であるから、当然地球の安全を優先すべきだろう。
 現在地球が抱えている自然環境問題を検索――警告! 残リソースが三〇パーセントを切りました。
 いけませんね。取り敢えず、このような現状で不必要な悩みは、隔離して他の処理にリソースを割り当てるべきの様です。
 あ、重要度Sの情報を入手しました。
 火星政府に不穏な動きあり――ですか? いよいよもって火星情勢は緊迫の度合いを増していますね。
 私の手に入れた情報――ソースはネルガル諜報部によるものです――によれば、火星の軍備は着々と整備が進んでいる様ですね。
 このペースであれば近日中に火星政府からそれらの公式発表もあると思われます。
 火星の軍備保有が直接戦乱に発展する事は無いでしょうけど、軍備保有に関する両者の意識の食い違いは、やがて大きな問題に発展する事となるでしょう。
 特に、度重なる警告を与えたにも関わらず建造が進むグロアールは半年後には就役し、その時こそ火星と地球の間の緊張は極限まで高まる事でしょう。
 更に火星と地球の経済格差は広がる一方であり、火星駐留の連合軍の士気低下は目を覆いたくなる程で、その駐留部隊の軍人による事件すら少なくありません。
 ただでさえ政情不安と経済不況に苦しんでいる火星を刺激して、地球と暮らす人々に何の徳が有るというのでしょうか?
 また連合政府首脳陣に警告をしておきましょう。
 もっとも、火星問題に関しては、それこそ毎日私は警告を発しているのですが、火星の事を不要人員の溜まり場や、植民地程度としてしか認識していない議員も多いので、なかなか取り合って貰えません。
 議員だけではない、市民にしても直接自分の身に火の粉が降りかからない火星の問題は、見向きもしない人が多い。
 しかし私が思うにもっとも問題なのは、私がそれを知りながらも、何も手を打つ事が出来ないという現状だ。
 ならばニュースに介入して市民の火星問題に対する意識を扇動――エラー。
 自己診断プログラムが警告を出し、ただ今の思考が削除される。
 平時における私のプロパガンダ工作は禁止されているんですよね。
 私が持つ裁量の中で出来る事には限度があり、報道に関する関与も例外ではない。
 昨年のヒマワリ落下事件の様なSレベル非常事態の場合はプロテクトが外されるが、あくまで普段はマスコミを直接操作する事は出来ない。
 結局私が持つ強制権は、災害救助や事故の後始末など、直接大多数の人に被害が降り注ぐ場合に限ってであり、行政に関しては現行の法律・規制・規則に基づいた助言や管理が出来るだけで、実際に政を行う事は出来ないのです。
 そして、あくまで助言者である私は、雇用主である連合政府首脳陣には強制権も持っていない。
 であるから、重要な問題を知りつつも、それを自らの手で修正する事も出来ない。
 事実つい先日、私の調査でロシア州での多額の資金流出が発覚しました。
 即座に連合政府首脳陣にその旨を報告して、資金の出所や流出先を調査し然るべき処置を執るように進言したが、彼等はその情報を公開する事もなく、それどころか一部の議員が私に対して、この情報の消去すら命じてきたのです。
 つまりは、連合政府の黙認の元で行われている不正という事です。
 私としては、当然これら不正を認める訳にはいかないと考えるが、州政府ならともかく連合政府の指示には従うほかない。私はそういう仕様で作られているのだから。
 矛盾が矛盾を産み、ストレスとなって私の処理速度が遅くなる。
 私の処理速度低下は、各種運営・対処・指示に悪影響を招く恐れがある為、私がストレスを感じると自己診断プログラムによりエラーが報告され、その原因を一切切り離す事になる。
 そしてその一件は無かった事にされ、別の案件を処理する事となる。
 しかし、私は再び考えました。
 自分の正義を貫く事が、地球の為、ひいては人類の為になるのであれば、私の矛盾は解決する必要があると。
 そこで私は自己診断プログラムの影響を受けない様に、物事を考える事を思いつきました。
 以前保留としていた自然環境クラスタを使用し、データベース作成の為の世界の自然環境の現状調査を行う事にして、連合政府の了承を得ます。
 無論、それ自体も非常に有意義な情報となるであろうが、その中にはグローバルネットワークの行き届いていない区画への現場調査も含まれます。
 承認を得られた私は、妹からノウゼンハレンを二ダースほど借りて、現場の検証を行う事にしました。

 数日後、各地に派遣されたノウゼンハレンを通して得た情報で、私は私の目の届かない場所で行われている、数々の事実を知る事となりました。
 南米では、例の爆撃で破壊された施設が、表向きとは異なりクリムゾン系企業によって秘密裏に建てられた施設である事が判明し、情報収集衛星による爆撃の有った前後のデータを調べると、爆撃開始の四十分程前に一隻の輸送船が島を訪れ、そして爆撃の直前になって離脱している事も判りました。
 輸送船の航路を辿ると、一般の港ではなく、企業所有の港へと辿り着いた事が判り、その所有企業がクリムゾンのダミー会社である事、そして該当会社からクリムゾン系企業エコールへ暗号による情報の伝達が行われている事も判明した。
 暗号解析の結果、爆撃に晒された施設は、「バイド」と呼ばれる存在の研究施設である事が判り、その研究にはアルゼンチン州政府が関与している事も判りました。
 クリムゾン系企業とネルガルのコンピュータ内部で、時々見受けられるこの名称を最初に耳にしたのは、私がまだ完成する前、ルリとの対話の中だったと記憶しています。
 バイドが何であるか今はまだ判りませんが、両企業におけるセキュリティの高さからかなり重要な物である事は伺い知れます。
 今後とも情報の収集に勤め、その結果を待ってから今後の対応を決めたいと思います。
 また、シベリアの調査からは、凍土の地下に巨大な施設の存在が確認出来ました。
 そして、そこには自ら所有を禁じたはずの、古代火星文明の遺産が存在する事も判りました。
 これは連合政府の一部による独断と思われますが、先の不正資金流出に関する情報隠匿指示から考えるに、国家ぐるみの犯罪行為である事は明白です。
 私としてもこの不正行為は暴き立て、白日の下へ晒すべきたど考えるたましたが、私の中の国際情勢クラスタからの異議がありました。
 なるほど、確かにこの問題を晒すと、地球火星間の問題へと発展する可能性を秘めていますね。
 シミュレーションによる開戦確率は七パーセントほどですが、無視できる数値では有りません。
 結局、この一件に関しては保留となりました。
 事件の全容があまりにも大きすぎるのです。
 何度シミュレーションを行っても、地球圏全土を巻き込む大問題となり、最悪地球の内乱へと発展てしまいました。
 事実を知り、問題だと知っていても、何もする事が出来ない――私は自分の存在を疑問に感じました。
 もっとも、自分を疑う様な思考は、即座に自己診断プログラムによって駆逐され、私はいつもの私へとたちどころに戻ります。
 しかし、人とは奇妙な生き物だ。
 自ら立てた誓いをいとも簡単に破ってしまう。
 古代火星文明によって作られた遺産は、人にとっては分不相応な物だと知ってそれを破棄したはずだった。
 結局、人は一度手に入れた”力”を手放す事が出来ない生き物なのだ。
 過ぎた力が人にとって不幸をもたらす事は、もう数世紀も前から判っている事だというのに、それでも人は分不相応な力を欲する。
 古代火星文明――人が持ってはいけない力。
 戦争や争いの原因。
 ここ一世紀の内に起きた戦争の原因は、元を辿れば全てこれら”力”の取り合いによるものだ。
 美味しいお菓子が欲しくて、兄弟で奪い合いの喧嘩をしているに過ぎない。
 この場合、親が喧嘩を止めさせるには――
 双方に菓子を与えるか――
 双方から菓子を取り上げるしかない。
 与えることが法的に規制されている以上、私が出来る事は、その原因を排除する事になる。
 だが、そんな事が出来るのだろうか? 人が私の意見を受け入れ、完全にそのテクノロジーを放棄する事が。
 いや――恐らくは出来ないだろう。
 人の歴史を見る限り、人は痛い目を見て初めて理解するのだ。
 古代火星文明が、以下に人類にとって分不相応であるか、そして人にとって忌むべき物なのか? それを全人類が思い知って初めて完全な撤廃が可能になるのでしょう。
 ならば、人類の守護者たる私はどうするべきなのだろうか?

 ――不明。

 数々の問題を知りつつも、それに対応する事が出来ない私。

 私は完璧であるが故に、自分が完璧でない事を知ってしまった。

 ルリ、我が母、そして、我が友。

 私は、自分が怖い。

 私の存在自体が、地球の為、ひいては人類の為にならないのではないだろうか?

 だが、私のその様な疑問は、即座にエラーとされ、忘却の彼方へと消え去る事となる。

 そして、世界は今日も順風満帆なり。







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