連れてこられた人々の悲鳴。
 研究員や警備員達のゲスな笑い声。
 そして、強化ガラスの向こうに横たわる、醜悪な姿をした物体。
 それら全てが、コンテナの上で身を潜めている月臣の神経を強烈に逆撫でる。
(……任務は達成した。しかしっ!)
 その所在を突き止めた月臣は、社へ戻り報告を済ませれば任務完了となる。
 皆の意識がバイド体と、叫び声を上げる哀れな人々に集中している今なら、それは容易に行えただろう。
 だが、月臣は木連の優人部隊の一員だった男である。
 例え友を暗殺し、自分の国を裏切った経緯があるとはいえ、熱血を信奉し己の正義を疑わぬ木連男子であった月臣に、このまま戻る事良しとする事も出来なかった。
 任務遂行を第一とするSSとしての自分と、人道的行動を促すもう一人の自分。二人の月臣が心の中で激しく葛藤している。
「では……皆さん、準備は宜しいですか?」
 主任風の学者が狂気に満ちた笑いを浮かべながら宣い、哀れな被験者達を囲んでいた警備員へ目配せをする。
 それを合図に、警備員達が首輪から延びたチェーンを引く腕に力を込める。
 中年の男性が、年端もいかぬ少年が、幼さを残す少女が、痩せこけた青年が、口々に悲鳴を上げて稚拙な抵抗を始めると、警備員達が殴りかかろうと手にした警棒を振り上げる。
 そして――月臣の我慢が限界に達した。








機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム16〜








「これが新たなる技術を求める者達の振る舞いとは……笑止っ!」
 自然に口が動いていた。
 黙って不意打ちを仕掛ければ良いのだが、口上を述べてしまうのは、彼の生真面目な性分なのだろう。
「何奴っ!」
「誰だ!?」
 室内がざわめき、声の主を捜して全員が周囲に目を向ける。
「破っ!」
 月臣は声を上げて身を翻し、コンテナから飛び降りると、その場近くに居た警備員達に気合いの隠った一撃を与え、一気に昏倒させた。
 周囲の者達が反撃を行う間もなく、四人の男が倒れる。
「我が名は月臣元一朗。成り行きではあるが皆さんを助けさせて頂く」
 ざわめく被験者達に対して律儀に名乗り、あまつさえ「成り行き上」である事を正直に伝える辺りも、月臣らしいと言えるだろう。
「つ、月臣だとっ!」
「ネルガルの犬めっ!」
 月臣は何かと有名人だ。
 表では熱血クーデターを成功させ木連と地球の和平を取り付けた者として、裏ではネルガルのA級SSとしてそれぞれ名を馳せている。
 当然、この場に居る者が彼を知らないはずもなく、特に後者の姿を知っている者であれば彼がどれ程強者であるかも知っている。
 我に返った警備員達が一斉に騒ぎ立て月臣に銃を構えるが――
「馬鹿者っ! ここでの発砲は許可できん!」
 先程バイドを紹介した此処の主任らしき学者の声に、警備員達が苦虫を噛みつぶした様な表情を浮かべると、銃を収め代わりに警棒を構えて月臣へと近付いた。
「……」
 月臣は周囲から同時に距離を詰めてくる警備員達の位置と装備、そして体格や構えを見て瞬時に攻撃を予測し、体内で気を練り上げる。
「憤っ!」
 掛け声を上げて四方から同時に警棒を振り上げて襲いかかってきた警備員達を、瞬きする程の僅かな間に叩き伏せる。
 月臣に流れるような体術から繰り出される一撃で警備員が倒れるごとに、被験者達の感じていた絶望感が薄らいでいく。
「何をしているっ! アラームを鳴らせっ!」
 倒れる警備員の姿をみて一人の学者が狂ったように叫き立てると、警報機の近くに居た別の学者が腰を抜かした様な動きで走り寄る。
 パーン――乾いた銃声がこだまし、警報機に駆け寄った学者が床に倒れる。
「失礼。発砲禁止……だったか?」
 不敵に笑う月臣の背後で、被験者達が嬉々とした声を上げる。
 彼らにとってみれば、月臣は紛れもない救世主だった。
 絶望のどん底に差し込んだ強烈な光明。
 だが、月臣という強烈な明かりに反応したのは、何も被験者達だけではなかった。
 互いに手を取っていた被験者達の歓喜の叫びは、直後響いた銃声で掻き消され、すぐさま悲鳴へと変化した。
 月臣は「伏せろっ!」と咄嗟に叫んで物陰へと逃げ込めたが、普通の人間に過ぎない被験者達が、そんな咄嗟な待避行動を取れるはずもなく、横殴りの雨の様な銃弾を受けてその場で血を吹き出しながら倒れていった。
「はっは〜!」
「こりゃいい。ネルガルの月臣が相手だ!」
 コンテナの両脇に立っていた警備兵の男――ダニーとグレッグが、手にしていたマシンガンを乱射しながら叫ぶ。
「貴様等っ発砲は禁止と……」
 血相を変えて怒鳴り声を上げた主任学者の頭が、鉛玉で撃ち抜かれる。
「オーノー……いきなり飛び出すからよぉ〜悪ぃ間違えたぜぇ」
「おいおいエチゼン、味方を撃つとライフゲージ一個消費だぜ?」
 自分の雇い主を殺して全く悪びれた様子の無い男を、仲間が冗談交じりでたしなめる。
(こいつら……ゲームでもしてるつもりかっ)
 裸体から鮮血を流し絶命している名も知れぬ被験者達を見て、月臣は怒りを静かに爆発させる。
「よっし、それじゃ月臣サンぶっ殺して名を上げるぜ〜」
「おぅ!」
「こんな隔離された場所で化け物のお守りやってるよりは面白いしなぁ」
 エチゼンと呼ばれた男の、やけに気に障る甲高い声が響くと、ダニーとグレッグもまた動きだし、彼らは一斉に銃撃を開始した。
「くっ!」
 月臣が咄嗟に移動すると、先程まで彼が居た場所を銃弾が掠め跳んでゆく。
 三人の警備兵――恐らく場数を践んでいる傭兵だろう――はチームワークも申し分なく、それぞれがサポート出来る位置を確保しつつ、月臣が隠れている場所へと近付いて来る。
 相手の銃撃の隙を突いて手にした拳銃で応射するが、流石に拳銃一丁とマシンガン三丁では分が悪い。
 位置を次々に変えて時折応戦する月臣だが、やがて三人のコンビネーションの前に追い込まれる。
「へっ! これが名に聞く月臣かぁ? 大した事ねぇなぁ」
 グレッグが薄ら笑いを浮かべながら突進してくる。
 当然、残りの二人――ダニーとエチゼンはそれぞれ援護が行える場所から、射撃を行って月臣の動きを封じ込めている。
 彼らが放つ銃弾は、研究所内の設備を破壊し、逃げ遅れた学者達をも無造作に撃ち抜いてゆく。
 タイミングも射角も完璧な援護射撃を受けて、一気に距離を詰めるグレッグは、ターゲットを仕留められる事に微塵も疑いを挟んでいなかった。
 彼が身動きが出来なくなった月臣をその目に捉え、構えていた銃の引き金を引く瞬間――
「跳躍っ!」
 月臣はポーチから取りだしたCCを握りしめると、グレッグの後方で援護射撃をしていたダニーの背後へボソンジャンプを行った。
「なにっ!」
 ダニーが突然背後から感じた殺気に振り向くと、月臣のしなやかな腕が顔面目がけて飛んでくる所だった。
 無理な反撃をせず瞬時に距離を取ったダニーの判断は誉められたものだろう。
 その結果、必殺の間合いで放たれた木連式柔の一撃は、ただの張り手としてダニーの身体を吹き飛ばしただけに留まった。
「ぐっ……」
 すかさずエチゼンとグレッグが、互いの立場を入れ替える様に援護の射撃を開始する。
 それより早く月臣は、一撃で仕留め損なった事に小さく舌打ちを残し、銃撃を避けるよう姿勢を低くして移動した。
 途中、そのまま勢いでグレッグへ向け何度か発砲するが、彼もまた遮蔽物へ直ぐに身を隠し、弾丸をやり過ごす。
「ダニー、グレッグ、生きているかぁ?」
「ああ」
「何とかな」
 どうにも緊張感に欠けるエチゼンの声だが、仲間の二人は慣れているのか、表情も変えずに応じてみせる。
(俺とした事が……くそっ)
 物陰に隠れた月臣は内心で自分自身の不甲斐なさを責めていた。
 本来の目的を忘れ、安易なヒューマニズムに駆られるまま突貫した事。
 そればかりか、助けるべき被験者達が、自分の行動が原因で殺されてしまった事。
 いや、それだけではない。
 これだけの騒ぎを起こしてしまったのだから、警報が鳴らずとも遅かれ増援が押し寄せてくるはずであり、仮に月臣が脱出したとしても、その直後にターゲットのオリジナルバイド体が別の場所へ移送される事すら考えられる。
 そう考えるならば、今何より求められるのは、対応速度だ。
 諜報員として一刻も早く撤収し情報を上へ伝える。それが全てだろう。
 助けようとした者達も殺されてしまった今、彼がこの場で傭兵達と闘いわざわざ最後まで付き合い、決着を付ける必要はないのだ。
 確かに無造作に殺人を犯した奴等を生かしておくのは気が引けるが、ここは任務を優先すべき――そう判断した。
 だが、彼は見てしまった。
 机の下で耳を手で覆い隠し必至に恐怖と耐えている少女の姿を。
「くっ……」
 見てしまった以上は放っては置く事は出来なくなった。
「どうする」
 飛び交う銃弾を避け、時折応射しながら月臣は自問する。
 自分だけ脱出するならば、ジャンプを多様すれば容易に達成できるだろう。
 しかし、ジャンパー体質でない少女を連れてゆけば、ジャンプでの脱出は無理となる。
 ディストーションフィールドを備えたアルストロメリアに乗れば可能だろうが、今は手元に無い装備の事をねだっても仕方がない。
「ならば……さっさと倒して堂々と入り口から出て行くのみっ」
 月臣はそう決めると、背後の薬品棚と思われる場所に手早く爆薬を仕掛け、拳銃の射撃モードをフルオートに切り替え、再びジャンプを行った。
 ジャンプアウトしたのは、乗り込んだ時のコンテナの上であり、出現と同時に敵の居る位置へと弾丸を送り込む。
「上から来るぞ気を付けろっ!」
 出現場所に気付いたエチゼンが警告を発し射撃を行うが、それよりも早く月臣がフルオートで放った九ミリの弾丸の幾つかが、グレッグの頭部を捉えていた。
 額を撃ち抜かれたグレッグの身体が床に落ちたと同時に、先程仕掛けた爆薬が爆発した。
 ダニーは爆炎に晒され、身体の至る所に火傷や怪我を負った。
「グレッグっ! ダニーっ!」
 エチゼンの意識がそちらへ向いた僅かな隙を突き、月臣は新たなCCを取りだし、立ち竦んでいたダニーの正面へジャンプ。
 渾身の力を込めた掌底を叩き込む。
 いかな優秀な傭兵と言えど、怪我で我を忘れている隙を突かれ、しかも突然眼前に出現されては、対処する事など出来なかった。
 防弾のジャケットに手形が残る程の一撃を見舞われたダニーは、血と胃の中の物が交じった物を吐き出しながら吹き飛び、机の上の試験薬やら実験材料を倒しつつ机の上を滑り、そのまま床に落ちて倒れ込むと、僅かに身体を振るわせるだけで動かなくなった。
「やりやがったなっ!」
 仲間が相次いで倒れたエチゼンは、耳障りな甲高い声を残して姿を隠す。
 月臣がB級ジャンパーであり、そのジャンプ範囲が有視界である事を思い出したエチゼンは、まず姿を隠して場所を移した。
 残る一人――エチゼンの姿を見失った月臣は、小さく舌打ちすると、空になった弾倉を交換して、こちらも姿勢を低くして移動した。
 途中で倒れていた学者の白衣を奪い、少女の元へ滑るようにして走る。
 目と耳を塞いでいた少女は、月臣が近付いた事に気が付き、更にいっそう身を縮こまらせる。
 周囲に目を配りながら少女の首輪をナイフで断ち切り、身体に白衣を掛けると優しく頭を撫でてやる。
「大丈夫だ」
 突然の感触と優しい声に驚いた少女が目を開き、目の前にしゃがんでいた月臣の顔を見つめ返した。
「あ……あ……あの……」
 少女は目の前で起きた凄惨な出来事と、自分の身に降りかかった突然の出来事に言葉をどもらせる。
「今は何も言わなくて良い。動けるか?」
 務めて優しい口調で話しかけると、少女はゆっくりと頷いた。
「よし、ではあの扉見えるね? 姿勢を出来るだけ低くしてあそこまで行くんだ。いいね?」
 もう一度頷くのを確認すると、肩を叩き「よっし行け!」――と小さく声をかけて月臣は素早く立ち上がり逆の方向へと走った。
 咄嗟にエチゼンからの狙撃による銃弾が掠め飛ぶ。
 フルオートではなく単発なのは、場所を出来るだけ特定し辛くさせるためだろう。
 だが、引き金を引く際に放たれる明確な殺気は、月臣の知るところとなった。
「そこかっ!」
 物陰に隠れながら、三発続けて撃ち放つ。
 その全てが当たる事は無かったが、自分の居場所を察知された事でエチゼンを惑わせ、照準を狂わせる事となる。
「くっそぅ」
 駄々っ子の様な声を喚き散らして、エチゼンが走る。
 途中、実験に使っていた部材を倒しながらも、室内を器用にジグザグに走って、月臣の放った銃弾をかわしてゆく。
 だが仲間を失い、カバーの無くなったエチゼンが月臣に勝てる道理は無かった。
 先程とは逆の立場となって部屋の奥へと追いつめられて行く。
 冷静さを失い始めたエチゼンは次第に距離を詰めてくる月臣に、狂った様にマシンガンの引き金を引くが、遮蔽物から遮蔽物へ素早く動く月臣の身体を捉える事は出来なかった。
 やがて撃ち合いを続けていた二人の銃の弾倉が同時に空になった。
 エチゼンが新しい弾倉をポーチの中から取り出す一瞬の隙を突き、月臣は一気に間合いを詰める。
 銃が無くとも、月臣には木連式柔という必殺武器がある。
 ダニーを葬った技に戦慄を覚えていたエチゼンは、マガジン交換が間に合わないと悟り素早くバックステップで距離を開け、現状ではデッドウェイトでしかなくなったマシンガンを投げ捨てる。
 月臣は気合一閃、掛け声と共に踏み込み長身を駆使したしなやかな蹴りを放つ。
 蹴りを間一髪背後へ倒れるように飛ぶ事でかわしたエチゼンは、その合間に腰のホルスターから拳銃を抜き取った。
 エチゼンの行動に気が付いた月臣は、咄嗟に身を逸らしつつもナイフを投擲。
 月臣の頭上を弾丸が掠めるも、放たれたナイフは、エチゼンが一度引き金を引いた直後の手の甲に突き刺さった。
 甲高い悲鳴と共に拳銃が音を立てて床に落ちる。
「うぉぉぉぉっ!」
 月臣が吠えながら駆け寄るのと、エチゼンが自分の手に刺さったナイフを抜き去り構えるのはほぼ同時だった。
「月臣ぃ〜っ!」
「破っ!」
 二人の腕が交錯し、エチゼンのナイフが空を切る。
 そして――そのまま彼の身体が前のめりに倒れると、室内で立っている者は月臣ただ一人となった。
「ふぅ……」
 一呼吸して高ぶった神経を落ち着かせ、ラボの入り口へ目を向けると、白衣を羽織った少女が両手を胸の前で握りしめ、心配そうな表情を向けていた。
 月臣は笑顔で応じると背後を振り返り、強化ガラスの向こうで佇むオリジナルバイドを見つめ目を細める。
 イネスの報告書で写真は見ていたが、やはり本物は迫力が違うのか、月臣をして目を背けさせた。
「何と醜悪な……」
 月臣が呟くと室内の警報が鳴り響いた。
 流石に騒ぎに気付いた様子だ。
 急いで脱出を――そう月臣が思った途端。
「きゃぁっ!」
 少女の悲鳴が静かになった室内に響く。
 目を向けると、ラボの入り口に辿り着いた少女が”何か”に襲われそうになっていた。
 それは人間の形をしていた。
 だが、人間には見えなかった。
 戦闘服から覗く肢体は赤黒いただれた皮膚をしており、細かい泡の様に膨れていた。
「な、何だ?」
 疑問を口にしながらも月臣の身体は既に動いていた。
「跳躍っ!」
 CCを取り出し、恐怖に身を竦める少女の元へ一気にジャンプをすると、彼女の身体を抱きしめ、そのまま横へと飛んだ。
 先程まで少女の頭が有った空間を、不気味な腕が薙ぎ払う。
 獲物をかっさらわれた人間らしきモノが、月臣に顔を向けてニタリ――と笑う。
「こ、此奴は……」
 見覚えのある服装と顔だった。
 それは先程まで闘っていた傭兵の一人――たしかダニーという男で、仕掛けた爆弾の爆炎を浴び、更には月臣の一撃を喰らい、即死とまではいかなかったものの、明らかに致命傷を負っていたはずだった。
 だが、ダニーはこうして立ち上がり、月臣達に不気味な姿を見せつけている。
 震える少女の肩を抱きしめ、月臣は耳元で「大丈夫だ」と囁く。
 もっとも不気味この上ない化け物を目の当たりして、普通の少女がそれだけで落ち着くはずもなく、彼女は錯乱気味に泣き叫ぶ。
 少女を抱きしめ後ずさる月臣の目に、変わり果てたダニーと、その背後――強化ガラスの向こう側で横たわるオリジナルバイドの姿が被って見えた。
「まさか此奴……バイド化したというのか?」
 月臣はダニーを倒した時、実験中だったと思われる机の上に倒れ込んでいたが、その中にバイドウィルスを含む何かが有ったのだろう。
 イネスからの報告には目を通してある月臣は、バイド体が持つ攻撃能力の向上と規格外の治癒能力を思い出し、自分の腕の中で震える少女の存在と併せて自分の不利を悟り舌を噛む。
 逆に、自分の勝利を確信しているのか、ダニーだった存在はゆっくりと月臣達に迫ってくる。
 奴が一歩一歩近づき、月臣が一歩ずつ後退する。
 後退する月臣の視線が、既に事切れている警備兵――グレッグの纏っていたジャケットを捉える。
 そのジャケットには手榴弾が幾つも備え付けられていた。
 熱――弱点である熱を用いなければバイド体を倒す事は出来ない。
 グレッグの死体との距離を測りつつ、少女を庇いながら少しずつ後退する。
 だが、ダニーはそんな月臣の意図に気が付いたのか、口元を歪めながら隙を与えない。
 やがて背後に壁が迫り、月臣が乾坤一擲の攻撃に出る事を決めた時、空気の抜けるような音と共にラボの扉が開いて、武装した警備兵達が雪崩れ込んで来た。
 警報を聞いてやって来た者達だろうが、彼等の前には化け物としか形容できない不気味な生物――ダニーが立っている。
「な、何だこれは?!」
「化け物!」
「う、撃てぇっ!」
 兵士達は室内の異常さに、状況を見極める事も忘れ眼前のダニー目がけて発砲した。
 一ダース程のマシンガンから放たれた銃弾を受け、ダニーの肉片が飛び散る。
 だが、受けた傷は瞬時に回復してゆく。
 いや、回復するたびにその腕が太く、そして醜悪になって行き、もはや人間の腕の形状すら留めなくなった。
 銃弾をものともせずに近づいてくる化け物に兵士達は混乱し、もはやまともな作戦行動は不可能になっていた。
 やがて一人の兵士がダニーの振り上げた太い腕によって凪払われ、壁に顔面から突っ込み、血糊を残しながらずるずると床に倒れると、兵士達の精神が破綻を起こす。
 叫び声と銃弾が飛び交う阿鼻叫喚の地獄絵図の中、月臣は一人冷静に考え少女を抱きかかえると、グレッグの死体から手榴弾や弾倉の付いたジャケットを奪い取り、そのまま騒ぎに乗じて移動をし、恐慌状態で逃げまどう兵士達に紛れて研究室より脱出した。
 エアロックが閉じて消毒が始まるが、すぐに消毒剤の噴射が止まり、変わってスピーカーから研究員の悲鳴の様なアナウンスが流れ始めた。
『緊急警報緊急警報! 第一級バイオハザード発生。第一区画の全隔壁を三〇秒後に緊急閉鎖。全職員はそれまでに待避せよ。繰り返す――』
 緊急事態の影響だろうか、エアロックの扉が解除され、月臣達は急いで扉を開けると、出口まで続く長い廊下を走り始めた。
 赤色灯が点滅し、警報が鳴り響く中を、逃げ遅れた人々が死にものぐるいで走っている。
 隣を、明らかに部外者にしか見えない少女を抱いた月臣が走っていても、誰も咎める事はない。
 皆、自分の命を守るだけで手一杯で、回りは見えていないのだろう。
「むっ!」
 おぞましい殺気を感じた月臣が、振り向かずに飛んで位置を変えると、先程まで隣を走っていた兵士と職員が頭を撃ち抜かれて絶命した。
 肩越しに背後を伺うと、もはや人間の形すら失いつつあるダニーが兵士から奪ったと思わしきアサルトライフルを乱射していた。
 驚くべき事に、ライフルは手で握られていたわけではなく、腕と思われる部分に取り込まれていた。
 有機物と無機物を融合する――バイドの持つ恐るべき能力の一つだ。
「融合か……!? いかん!」
 月臣が吐き捨てる様に呟いている間に、通路の先にある隔壁が降り始めた。
 距離は約二五メートル。
 閉じこめられる事は死を意味する。
 恐怖に煽られ慌てて走る兵士達を追い抜かし、背後からの銃弾を器用に避けて駆け抜ける。
 残り一五メートル。
「シ、シねぇぇぇ!」
 声帯が圧迫されているのか、低くくぐもったダニーの叫びが背中に追いすがり、銃弾が無造作にばらまかれる。
 何人もの兵士や諸君が弾を喰らって倒れて行く。
「きゃっ!」
 間近で響く銃声と悲鳴に、腕の中の少女が小さな悲鳴を上げた。
 残りは五メートル。
 だが隔壁は腰の高さよりも低い位置まで降りている。
「目を閉じろ!」
 月臣は叫ぶと体内に残ったエネルギーを燃焼させ、スライディングの要領で滑り込んだ。
 そしてそのまま背後に迫るダニーの身体目がけて、手榴弾のピンを抜いたジャケットを放り投げ、タイル状の床を滑るようにしてラスト二メートルを突き進む。
 少女を抱きしめた月臣の身体が到達した時、隔壁の隙間は既に膝上辺りの高さしかなかった。
 つま先、すね、膝、太股、腰、そして少女の身体がギリギリの高さで隔壁をすり抜け、月臣の頭部がすり抜けた直後、音を立てて隔壁が閉じた。
 その直後、隔壁の向こう側で盛大な爆発音が響き、振動によって天井から小石が舞い落ちてきた。
「大丈夫か?」
 少女を抱きしめ仰向けに倒れたまま、月臣は落ち着かせるように頭を撫でて声をかける。
 腕の中で少女が頷くのが判った。
「さて、急いで脱出だ……うおっ!」
 起きあがろうとした月臣が突如痛みに顔をしかめる。
「だ、大丈夫ですか!?」
 少女の狼狽した声に、月臣は恥ずかしそうに笑って、頭を指さした。
「あ……」
「はははは。済まないがこれで切ってくれないか?」
 照れた様な笑いを浮かべナイフを手渡す月臣の髪の毛は、その中程で見事に隔壁に挟まっていた。
 少女は手渡されたナイフを手に、ぎこちないながらも笑顔で「いいんですか?」と小さく尋ねた。
「ああ、バッサリ頼む」
 この子はこんな風に笑うんだな――そんな事を考えながら、月臣は自慢の黒髪に別れを告げた。









<戻る 次へ>

SSメニューへ