初代ナデシコのクルーにして、木連との戦争に水を差し、結果的に休戦へと導いたエステバリスパイロット、テンカワ・アキト。
 彼がコックを兼任していた事は、関係者であれば知らぬ者の居ない事実である。
 そして一流のコックとなり店を構える事が、彼の夢であった事も関係者の間では広く知られている。
 しかしその夢は夢でしかなくなり、実現する事は不可能となった事は、関係者でもごく少数の者達しか知らない事実だ。
 このテンカワ・アキトという男は、少年期に両親が同時に暗殺――当時はテロに巻き込まれて死亡となっていたが――されるというショッキングな事件を体験し、その後は多感な青年期を火星の孤児院で孤独に過ごし、中学を卒業と同時に農園で働きに出るという、ごく一般的な人生からはかけ離れた人生を歩んできた。
 彼が、家族や仲間というものに人一倍憧れを抱いていたのは、こうした人生の反動によるものだ。
 そんな心優しき彼が、渇望していた家族を得て家庭を築いた後、その家族を失う事、家庭が破壊される事にどれ程恐怖心を抱いていたかは、想像に難くない。
 そうでなくとも人は、自分のモノが奪われる事を嫌う。
 それが最も大切なモノであり、かつ過去にも失った事があるモノであるなら尚のことだ。
 だが彼は既に二度も大切な家庭を崩壊させられている。
 一度目は火星で両親を暗殺された時。
 二度目は新婚旅行の最中に夫婦揃って拉致された時。
 故に、彼が三度目となる家族の消失危機を迎えた時、その原因を求めて現場から消えたたとしても、それを責める事は出来ないだろう。







機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム#5〜









 テンカワ・アキトとミスマル・ユリカ。
 共に火星で生まれ育ち、少なからず幼少の時を同じく過ごした幼馴染み。
 そして数奇な運命を経て再会し、ナデシコという戦艦で共に闘い、紆余曲折を経て夫婦として生きる事を誓い合った。
 だが、その生誕に隠されたジャンパーとしての体質が、彼らの人生を大きく狂わせる。
 火星の後継者を名乗る武装集団、彼らが抱く理想実現の為の――文字通り――人柱とされ、新婚旅行の最中に連れ去られて身体中を弄くられた。
 ユリカはそのイメージ伝達力の高い体質を買われ、ボソンジャンプの翻訳機として遺跡の一部へと改造され、アキトはジャンプが人体に与える影響、体質によるジャンプ能力の差、正確なジャンプを実現する為の基礎研究、そして新たに開発されたナノマシンのテストベッドとして、数々の実験に協力させられた結果、五感の消失を起こし廃人となり、そのまま捨てられた。
 テンカワアキトがネルガルのSSに保護されたのは全くの偶然だった。
 ライバル企業クリムゾンの動向を追い、彼等が火星の後継者と名乗る組織のバックアップをしている事に気が付いたネルガルは、その証拠を抑えるべく非合法研究所を強襲した。
 この時突入したSSの中に、アキトの戦友でもあるゴート・ホーリーが居なければ、彼はそのままモルグにうち捨てられたままだっただろう。
 ゴートが投棄された死体の山の中に、かつての戦友の変わり果てた姿を見つけて駆け寄った時、アキトは辛うじてまだ息が残っていた。
 その後奇跡的に意識を取り戻したアキトが、彼ら火星の後継者に対する復讐を選んだのも、状況を知る者からすれば至極当然と言えよう。
 それだけの事を奴等はしてしまったのだ。
 古い熱血アニメが好きでコックを目指していた、優しさが取り柄の青年は、その面影を完全に消して復讐鬼として蘇った。
 ボソンジャンプの利権を求めて暗躍していたネルガルは、失地回復の切り札として、そんな彼の復讐を利用する事とし、万全のサポートを施した。
 アキトは復讐の為の牙と鎧を無償で手に入れ、ネルガルは自分の手を汚す事なくライバルを潰し、そして開発段階の新型機の実戦データ収集を行えた。
 双方の利害が一致し、二年の歳月をかけて彼らはそれぞれの目的をほぼ達成する事になる。
 その後、各所がその独占を夢見たボソンジャンプは、その存在を危険な物とし封印される事が決まった。
 一大ボソンジャンプネットワーク”ヒサゴプラン”から完全に閉め出されたネルガルにとって、それはむしろ朗報だった。
 ネルガルはライバル会社であるクリムゾンが、その不正を暴かれた事で市場シェアを取り戻し、その後に続くグローバルネットワークと、ガーディアンにまつわる一大プロジェクトを仕切る事でかつての栄華を取り戻した。
 ジャンプだけに拘ったクリムゾンはもはや世間的信頼も失い、今やその巨体が解体寸前のところまで来ている。
 ネルガル会長のアカツキは――
「やっと借りが返せたねぇ。これで落ち目とは言わせないよ」
 と、彼にしては随分素直に喜んだ。

 ルリの力が火星の後継者を封じ込め、見事仇敵北辰を倒したアキトは、助け出したユリカと再会する事もなく、今だ地下に潜伏している復讐相手の殲滅を優先しその姿を消した。
 アキトは、自分が行った非道な振る舞いは決して許される事で無いと自覚していたし、大切な家族をその血塗られた手で抱きしめる事も、もはや断絶してしかるべき事だと思っていた。
 であるから、彼は「帰りたい」という願望を必至に抑え込み、如何なる理由が在ろうとも戻らないと決意していた。
 実はこの頃にはアカツキの手配で「ターミナルコロニー襲撃の実行犯は、実は火星の後継者である」という風潮が世間には広められており、謎の黒い機動兵器は彼らを追っていた工作員の特殊な機体だったという噂までもが流れ、まことしやかに囁かれていた。
 「黒い機動兵器=ブラックサレナ=アキト(さらには=ネルガル)」という公式を知っている者は皆無に等しい為、アキトがその気にさえなれば何時でも社会復帰は可能だった。
 これはアカツキが彼に与える特別ボーナスとして隠されていたのだが、それが与えられるよりも早く、アキトはユリカの前に姿を現す決心をする事となる。
 エリナから伝えられた療養中のミスマルユリカ危篤の報だ。
 それは、あれだけ頑なに家族や仲間と会う事を避けていた彼の決心を迷わせるには十分だった。
 一念発起して挑んだ三年ぶりの再会だったが、結果としてそれは、アキトやナデシコの皆の心に大きな傷を残す事となった。

 かつての仲間がごった返す病室で、見つめ合った二人の手が静かに触れた瞬間、それは起きた。
「ア……アキト……アキトォォォォッ!!」
 堰を切った様な叫び声と共に、彼女は病人とは思えぬ動きでベッドから飛び跳ねるように起きるとそのままアキトの胸元へと飛び込んだ。
 皆が見守る中で行われた夫婦の抱擁。
 だが、それはアキトのくぐもった声と、床やシーツを染める鮮血によって、悪夢へととって代わる。
「ユリ……カ?」
 呆然とするアキトの眼前には、妻だった女性――ユリカの顔。
 だが、そこに先程までの歓喜に満ちた表情は無く、ただ無機質な目が彼を射抜いて居るだけだった。
 無表情のままアキトの腹部へ突き刺さっていたナイフを抜き取り、今度はそのまま出鱈目に斬りかかってきた。
 木連式柔をその身に叩き込ませ、幾多の修羅場を潜り抜けてきたアキトにとって、そんな稚拙な武器と粗末な攻撃を避けることなど、造作もない事だった。
 だが、彼はその刃物を敢えて受け止めた。
 否、受けるしかなかった。
 腕を刺され、脇腹をえぐられ、頬を斬りつけられてゆく。
 そんな最中でさえ、アキトは自分が何故ユリカに何をされているのか理解出来ていなかった。
 そして周囲の悲鳴、怒号、狼狽、その他諸々の声を聞いて、やっとその現実を受け入れた。
 それは悲しき現実だった。
 復讐の衣を脱ぎ捨て、現世へ戻って来たアキトに対する仕打ちとしては、余りにも酷いものだった。
 アキトは思う。
 やはりこれが俺の罪に対する罰なんだ――と。
 そして豹変したユリカの態度に、アキトは一人の男の顔を思い浮かべた。
 その白衣を着た男が、顔全体に笑みを浮かべてアキトを楽しそうに見つめている。
 罪の意識を憎悪が塗りつぶしてゆくと、アキトは知れず胸のペンダントを掴み、最後に残っていた理性を動員して縋り付いていたラピスを突き飛ばして一言呟いていた。
「ジャンプ……」
 その瞬間、彼は月のネルガルドックに係留中のユーチャリス、そのブリッジへと飛んだ。

「……っ」
 キャプテンシートに腰を下ろし、手にしていたバイザーをかける。
 朧気に視界が戻ると、アキトはシートの横に常備していた応急医療キットで止血を行った。
 腹部の怪我はそれなりに酷いものだった。
 ナイフ自体が小さな物だった事と、鍛えた事で厚みを増していた筋肉のお陰で、内臓まで到達する事は無かったが、止血剤を投入するまで血が止まる事はなかった。
 だがこの二年間、彼にとってこのような怪我は幾度と無く負ってきたものであり、その治療を行う手つきも手慣れたものだった。
 他には脚と腕、それから顔も斬りつけられたが、それらは今のアキトにとって些細な、気にかける程の怪我でもなかった。
 血をふき取り、消毒剤と止血剤を塗っただけに留めた。
 それは出撃のごとに繰り返してきた光景。
 違うことと言えば、傍らで心配そうな表情を浮かべるラピスの姿が無い事だけだろう。
 彼女は今、遠く離れたユリカの病室でアキトの名を叫びながら、不安に苛まれている。
 精神リンクを行っているアキトの元へ、そんな彼女の不安に満ちた感情が流れこんでくる。
「済まない……ラピス。今まで有り難う」
 アキトはそう呟くと、彼女との精神リンクを解除した。
『アキトっ!』
 リンクを切る直前、ラピスが息を呑んで自分の名を叫ぶのが頭の中で響いたが、アキトはそのまま躊躇うことなく精神を遮断した。
 ラピスを通じて流れていた五感情報が無くなり、アキトに残されたのは、バイザーによって補われるごく僅かな視覚と聴覚からの情報だけとなった。
 これで良いんだ――そう自分に言い聞かせて、アキトは治療に専念した。
 それからしばらくの間、無言かつ無表情のまま治療作業を続け、それが終えると立ち上がってブリッジからユーチャリス内部の私室へと向かった。
 脚の怪我は大した事なかったが、走ると幾らか痛みを訴える。
 だがそんな痛みよりも、心の傷が痛み、アキトの精神を蝕んでいた。
 頭を振って声に出せない叫び声を上げて、アキトは走る。
 高ぶった気持ちが身体中のナノマシンを発光させて、痛みを無視して走る。
 私室で予備の黒装束を身に纏い、再びプリンスオブダークネスとしての姿に戻ったアキトは、今度はジャンプでブリッジに舞い戻り、馴染みのドックの管制官に向けて、一方的にユーチャリスの緊急発進を告げた。
「ヤタガラス、ユーチャリス発進用意。ジャンプするぞ」
[了解]
[各機関異常なし]
[ブラックサレナ状況良好]
[相転移エンジン出力安定まで後120]
[ディストーションフィールド展開開始]
[ジャンプフィールド発生準備開始]
[補給率63%。許容範囲レベル]
 ウインドウが逐次開いて状況を伝える――もっとも、今のアキトには視覚ではなく、キャプテンシートのIFSコンソールからのイメージ伝達によるものだ。
 三本の足を持った、どこか愛嬌のあるカラスを象ったユーチャリス搭載の改オモイカネ級AI「ヤタガラス」のシンボルマークが現れ、最終確認が報告される。
 そしてその報告の最後に――
[ラピスが居ませんが?]
 というメッセージが表示される。
「良いんだラピスは置いてゆく。もうこれ以上俺のわがままに付き合わせる事もないだろう。悪いが、これからはまたお前と二人だ」
 自虐的な笑みを浮かべてアキトが答えると、高性能AIにしては幾分悩んでから――
[判りました]
 と、答えた。
「ああ、よろしくな。ユーチャリスの操艦はおまえに任せる事になる」
[ラピスが居ない場合、私だけではユーチャリスの制御とマスターのバックアップをするだけで背一杯になり、バッタの制御を同時に行うのは不可能です]
「出来るだけ俺一人で何とかする。お前はいざという時だけ助けてくれればそれで良い。俺はまだ死ねないからな……奴等を根絶やしにするまでは」
[マスター……]
 IFSを通じて流れるアキトのどす黒い感情に、ヤタガラスが小さなフォントを振るわせた。
[相転移エンジン安定]
[ディストーションフィールド展開OK]
[作業員の待避確認]
[オールグリーン。ユーチャリス発進準備完了!]
[イメージお願いします]
 発進準備が整った事を伝えるウインドウが表示されてゆき、最後にもう一度ヤタガラスのシンボルがカラスの鳴き声と共に表示された。
 既にユーチャリスの白い船体はジャンプフィールドの輝きが包つまれている。
 そして――
「……ジャンプ」
 アキトの呟きと共に、白い巨体は光の粒子となりネルガルのドックから姿を消した。

 ユーチャリス出撃の報告は、ドックの管制官によってすぐさま地上のエリナの元へ伝わり、そしてその報告はイネスを通じてルリへと伝わる事となる。
 その報告を受けてルリは決心を新たにし、アキトへボーナスを渡し損ねたアカツキは、代わりに彼女に対する協力を約束した。

 アキトのボソンジャンプで火星まで一気に飛んだユーチャリスは、そのままステルスモードで通常航行へと移り、アステロイドベルト付近の宙域を――情報部から報告のあった、火星の後継者残党の基地があるという小惑星を目指して進む。








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