機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム〜 #03







 私の混濁した意識の中に、誰かの声が響いてくる。
 どうも誰かが私の名前を連呼している様な気がします。
 少し鬱陶しいですね。
 今は、そっとしておいて欲しいんですよ、私。
 意識を失っているはずなのに、そう冷静に考えている自分の卓越した頭脳も、ユリカさんを救う事には役立たない。
 そう思うと、実に腹立たしい。もどかしい。情けない。
 そして何より悲しい。
 だから私はもう少しこのまま、何も余計な事は考えないで闇の中を彷徨う。
 あれ?
 先程から聞こえていた声とは違うものが聞こえてきましたね。
 そう、おぼろげに悟って、その声の主が女の人のものである事を認識しました。
 そしてその口調が何処か切羽詰まったものであり、更に声の主がミナトさんの物だと把握すると、私の意識は勝手に覚醒してゆきます。
「ルリルリっ、ルリルリってば、アキト君が来たのよ!」
 そしてはっきりとした聴覚が捉えた声は、私を十分に驚かせるものでした。
「本当ですかっ?!」
 先程まで意識を失っていたとは思えぬ変わり身の早さに、自分でも驚きながら私は声を荒げて身を起こします。
「艦長〜」
 ベッドの傍らでハーリー君が嬉しさと悲しさをブレンドした様な情けない声を上げてますが、今はそれどころじゃ有りません。
 私はベッドから出ると、簡単に身繕いをしながら走り出します。
「アキトさんが来てくれたんですね?」
 病院である事も忘れて、一生懸命に走りながら後に続いているミナトさんに尋ねます。
「そうなのよ。今、艦長の側に居るわ。しかも黒ずくめの衣装じゃなくて、普通の格好してるのよ」 
 ミナトさんの言葉に、私は心の中が暖かくなると共に、鼓動が激しくなりました。
 別に走っているからじゃ有りませんよ。ええ、決して。
「艦長〜待ってくださいよ〜」
 ハーリー君が呼んでる様ですけど、今はそれどころじゃ有りません。
 アキトさんの帰還、そしてユリカさんとの再会という、宇宙を揺るがす一大イベントの前には、耳を傾ける事すら億劫です。
「アキトさん……ユリカさん」
 アキトさんが戻ってきた。戻って来てくれた。
 これでユリカさんだって元気になれるかもしれない。
 意味も論理もない無茶な思いこみ。
 そう判っていても、私の頭の中にあった絶望に満ちていた未来に、光が差し込みました。
 アキトさんなら何とかしてくれる。
 それは手前勝手な希望かもしれないですけど、少なくともユリカさんの心が安まる事は間違いないんです。
「アキトさんっ!」
 声に出して駆けてユリカさんの病室に近付くと、かつてのナデシコクルーが溢れる廊下が、何やら騒々しい事になってました。
 何故でしょうか?
 皆さんの表情や雰囲気は、とても感動の再会に居合わせたものとは思えません。
「ちょっと通して、通しなさいよ!」
 ミナトさんが小柄な私の前に立って、クルー達を掻き分けてゆきます。
 私はまたもや嫌な胸騒ぎを感じてミナトさんに続きます。
「アキトさんっ!」
 もう一度声に出して、人々でごった返す病室へと入ります。
 そして――
「ユリカぁぁっ!」
 ミスマル叔父様の怒号にも似た叫び。
「ユリカっ!!」
 ジュンさんの緊迫した声。
「な、一体なんで……」
 リョーコさんの震える声。
「嘘……どうして」
「……有り得ないわ」
 ヒカルさんとイズミさんは立ち竦んでます。
「ユリカさん……どうして?」
 メグミさんは方を振るわせて力無く呟いている。
「おい、しっかりしろっ!」
「ゴートさん、艦長を早くっ!」
「了解した」
 ウリバタケさんとプロスさん、そしてゴートさんの緊迫した声。
「ドクター、一体これはどういう事だ?!」
「わ、判らないわよ、それよりも早く艦長を押さえて……って、お兄ちゃんっ!?」
 珍しく狼狽しているアカツキさんと、驚きの声を上げているイネスさん。
「ミナトさん、ユリカさんが! ユリカさんがテンカワさんを!」
 入室したミナトさんを見つけたユキナさんが、目に涙を浮かべて抱きついてきました。
「一体何があったのよ?」
 問い掛けるミナトさんの声が、まるでエコーがかかった様に私の頭に響きます。
 そして――
「アキトアキトアキトアキトっ!」
「アキト君駄目よ! せっかく戻ってきたんじゃない! 駄目! 抑えてっ!」
 アキトさんに必至に縋り付こうとしている、桃色の髪の毛をした華奢な少女が酷く狼狽していて、そんな少女の傍らで必至に呼び掛けているエリナさんの姿が見えて――
 その向こう側に――
 私にとって大事な二人――アキトさんとユリカさんが居た。

 でもどうして?

 何故お互い好き合ったはずの二人は無言なの?

 何故アキトさんは呆然とした表情で、ユリカさんを見つめているの?

 何故感動の再会のはずなのに、ユリカさんは無表情なの?

 何故ユリカさんはゴートさんに押さえ付けられているの?

 何故アキトさんの顔や腕、そしてお腹の辺りから血が流れ出ているの?

 何故ユリカさんが血の付いた果物ナイフを持っているの?

 何故ネックレスを掴んでるアキトさんの全身が光っているの?

 私が目に映った光景を把握しようと頭を働かせている間に、アキトさんは縋り付いていた少女をエリナさんの方へ突き飛ばし――
「……ジャンプ」
 声をかける間もなく、アキトさんの姿は光の粒子となって消えてしまいました。
 待ち望んだアキトさんとの再会。
 家族三人の再出発。
 そのはずだった。
 でも、アキトさんは私の顔を見る事もなく、この場から消え去ってしまいました。
「アキト、アキトっ、私を置いていくの? アキトっ、私は要らないの? アキトアキトアキト……」
「ラピス……」
 力が抜けた様にその場に倒れ込む少女を、目尻に涙を浮かべたエリナさんが支えている。
 一体何がどうなって――
「あれ……?」
 皆が騒然とする中、ゴートさんに押さえ付けられているユリカさんの瞳に光が戻り、まるで何事も無かった様に呟きました。
 それはまるで夢から覚めたように。
「艦長!」
「ユリカ!」
「ユリカさん!」
 皆が詰め寄る中、ユリカさんはその手から血のこびり付いた果物ナイフを床に落としました。
 リノリウムの床にナイフが軽い音を立てて落ちると同時に、ユリカさんはゴートさんの腕を振り解き――
「アキト……今私……何で……何で……私がアキトを刺すの? ねぇ何で? やっと夢から覚めたのに……」
 自らの身体を抱きしめたまま、ユリカさんがせきを切ったように呻き始めました。
 そしてナノマシンの光が浮かび上がった全身を痙攣させつつその場に倒れ込む光景が、まるでスローモーションの様に見えてました。
「艦長! こんな事……っ。急いでベッドに寝かして、早く!」
 イネスさんの叱咤が飛び、ユリカさんの身体がジュンさんとゴートさんの手でベッドに運ばれます。
 直ぐにイネスさんが診断を始めましたが、その表情はもの凄く険しくて、私を安心させてくれる材料にはなりませんでした。
「お父様ごめんなさい……みんな……ごめん。アキト、ごめん。私じゃないの……誰かがアキトを……」
 目から涙を溢れさせたユリカさんは、ただひたすら皆に謝罪の言葉を続けてます。
 心拍を図るイネスさんの表情が硬くなり――そして顔を伏せます。
 それってどういう事ですか?
 何の心の整理も付かないまま、身じろぎすら出来ない私。
 誰かが私に何か声をかけていたかも知れませんが、私の耳には何も届いてはいませんでした。
「ユリカ大丈夫だぞ! みんなお前を信じてる。だから早く元気になろうな」
 叔父様の声、震えてる……
「ルリちゃん……」
 やがて、ユリカさんの虚ろな目が、やがて私の姿を捉えました。
「はは……ごめんね。もう私駄目みたいだから……こんな事になって、私ルリちゃんに謝る事しかできない……ごめんね。ごめんね」
「ユリカさんっ!」
 私はこの病室に入って、初めて声を出してユリカさんの元へ走りました。
 滑り込むように床に膝を付き、震える手でナノマシーンの光が弱々しく点滅する彼女の手を握ります。
「私……何やってるんだろうね? 何で私がアキトを傷つけるの? 私の王子様……アキトは私の……私の為に傷ついたアキトを……私が何で……。
 お父様……二度もこんな思いさせて……ごめんなさい。
 ルリちゃん、私もう一緒に往けないよ、ごめんね。でもアキトはきっと身体以上に心が傷ついたと思う……身勝手なお願いだけど……ルリちゃんがアキトを助けてあげて。アキトを癒してあげて……。もう、ルリちゃんにしか、アキトは救えないと思うから……ごめんね。
 ごめんね。ごめんね……みんな……ジュン君……お父様……ルリちゃん…………アキト……」
 か細い言葉は尻窄みに小さくなって、何も聞こえなくなると同時に、ユリカさんの身体に浮かんでいたナノマシンがその輝きを失い、私の手を握っていたユリカさんの手から力が抜けました。
「ユリカさん?」
 私の呼び掛けに――家族であるはずの私に、ユリカさんは応じてくれません。
 おかしいです。
 ユリカさんが私の呼びかけを無視するなんて事あり得ません。
 何で私の手を握り返してくれないんですか?
 何で私の声に応じてくれないんですか?
 何でユリカさんの姿がぼやけて――あれ?
 私が泣いているんですか?
 涙で霞んだ視界の中で、物を言わぬユリカさんが横たわっている。
 まるで亡くなった様に――
 嘘!
 そんなの嘘です!
「ユリカさん、ユリカさんユリカさんユリカさん……」
 目の前の現実を否定するかの様に、私は彼女の名を叫び続けます。
「ユリカさんユリカさんユリカさんユリカさんっ!」
 でも――
 何度呼んでも、彼女がかつて見せてくれた笑顔を向けてくれる事は無く、唯一ユリカさんの閉じられた瞳から、涙が滑るように落ちた。
「……ルリルリ、ルリルリっ!」
 その流れ落ちた涙を見て、私は私の肩を掴んで声をかけているミナトさんの存在に気が付きました。

 その直後、イネスさんとやってきた医師達によって、ユリカさんにあらゆる蘇生術が試みられましたが、彼女が最後の一雫を流してから1時間後――

「艦長……ミスマル・ユリカさん、ご臨終よ……」

 そんなイネスさんの言葉を聞いて、私の意識は再び闇の中へと落ちてゆきました。








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