機動戦艦ナデシコ 〜パーフェクトシステム〜 #02






 火星の後継者の残党軍が立てこもる拠点が発見されたという報告がアキトの耳に届いたのは、ユーチャリスの補給と整備の為、数カ月ぶりに月面のネルガル秘密ドックを訪れていた時だった。
 アキトはその報告を受けると本来の目的もそこそこに、慌てて出航準備を始めさせた。
 整備が必要なのは、何もユーチャリスやブラックサレナだけではなく、彼自身の肉体にも言える事なのであるが、アキトは気にする事もなく、壊れた身体に鞭打って自らの出撃準備も始めていた。
 一刻も早く復讐を成就させ、ユリカやルリが安心して暮らせる世の中を作るという一心が、傷つき、五感を失った彼を駆り立てているのだ。
 北辰を倒し、草壁は投降し――恐らく極刑は免れないだろう――たものの、今だ潜伏している者は多い。
 ともすれば、再びユリカを狙う者もいるであろうし、自分達を追いつめたルリに対して殺意を抱く者も必ず居るはずだ。
 そして何より、あのマッドな男が未だに生き残っている。
 ヤマサキ――あの男が存在している事だけは、アキトにとって許せなかった。
 鼻歌を歌いながら己の五感を奪い、共に拉致されていた火星出身者に対して、笑顔のまま狂気の実験を重ねていた憎むべき男。
 今回の情報が”アタリ”かどうかは判らないが、例え”ハズレ”だったとしても容赦する必要もないわけで、彼が出撃する事に躊躇いはない。
 其処に奴等が居る――それだけで、彼が出撃するには事足りる理由なのだ。
「ラピス、行くぞ……」
 準備を終えたアキトは口元を歪めて呟くと、視覚補助バイザーを付けて休息用に宛われている小部屋からラピスを伴いドックへと向かうべく廊下へと出た。
 彼は自分の五感が戻らないことを知っている。
 可能性がゼロでない事も確かだが、その確立は限りなくゼロに近い。
 つまりは、昔の自分に戻る事など出来ないのだ。
 ならばユリカが無事救出されたとしても、以前と違う自分が共に暮らして行く事は出来るはずがない。
 戻りたい――
 ユリカを抱きしめたい――
 ルリに「ただいま」と声を掛けたい――
 だがそれらは叶わぬ願い。
 彼は自分が行った無差別的な破壊活動で、復讐とは無関係な人々を殺めた事を自覚している。
 しかし彼女達が、そんな自分を許してくれる事も、自惚れと知りつつも判ったいた。
 でなければ、火星で北辰を倒す事も出来なかっただろう。あの勝負の場を設けてくれたのは、ルリがアキトの心情を理解しているからに他ならないし、ユリカに至っては考える必要もないだろう。
 だが、幾らそんな免罪符を身につけても、彼自身の心に残った闇を払拭する事は出来ない。
 結局は、アキト自身が闇から光の射す場へ戻る決意を抱けない限り、彼が元の鞘に収まる事はないのだ。
 心はひたすら帰る事を望んで止まず、しかしその心は不自由な身体によって否定され、頭がそれを承認する。
「アキト?」
 廊下を進む途中、アキトの思考が葛藤を始めた事に気が付いたラピスが、表情を変えぬまま彼の表情を伺う様に首を傾げる。
「……済まない。大丈夫だ」
 過去幾度と無く行った「心vs頭・身体連合軍」との葛藤劇に、いつものように”保留”という名の裁定を下して、アキトは彼に付き従う妖精に短く応じた。
 今は取り敢えず奴等を倒す事だけを考えろ――そう自分に言い聞かせる。

「アキト君っ! 艦長が……ユリカさんが大変よ!」
 血相を変えたエリナが彼の前に現れてそう叫んだのは、そんな時だった。

 保護してからユリカに付きっきりであるイネスから、ユリカの容態が急変し、もう幾日ももたないという報告を受けたエリナは、急いで自分の執務室からアキトの元へ走った。
 通信では彼を説得しきれない――そう思っての行動だった。
 途中で折れたヒールを脱ぎ捨て、裸足となってアキトの元へ走った。
 何しろユーチャリスは、一度出撃するとクローズドサイクルエンジンとしての特性と極端に少ない人員の為、余程深刻なダメージでも受けない限りすぐには帰ってこない。おまけに帰還の周期も出鱈目で、次が何時になるのかも判らないのだ。
 今を逃せば、恐らくアキトは二度とユリカと会う事は無くなる。
 ならば彼には一目でもいいから、ユリカに会わせたい。
 でなければ彼は一生後悔する事になるだろう。
 だから、彼にその事実を伝える――それがエリナの本心だった。

「ユリカが……くそっ!」
 エリナからの報告を受け、アキトはその憤りを篭めた拳を通路の壁へと叩き付けた。
 防護プロテクトも兼ねたグローブに包まれた強烈な一撃受け、壁の一部に穴が開く。
 次いでバイザーを備えた頭部を壁に預けた姿勢のまま、両手を何度か振り上げ壁へ振り下ろすと、その都度壁面に亀裂が走って行く。
 彼とて、ユリカが何の後遺症も無く全く無事である事に、疑いを抱いていなかったわけではない。
 何しろ相手はあのマッド・ヤマサキだ。
 彼女の身体にどんな仕掛けを施しているか判ったものではない。
 だが助け出したユリカの容態は、彼が知る限り五感に障害は見あたらず、多少の記憶の混乱と、筋力・身体能力の低下といったレベルの問題で、リハビリさえ順調なら彼女は元通りの生活に戻れるだろう――そう信じて、否、信じ込んだ。
 だからこそアキトの頭は、心の欲求に反して、変わり果てた自分を彼女の前に立たせようとしなかった。
 以前とは違う身体を見せたく無かったし、血で汚れた手を持つ自分は彼女の前に立つ事は出来ないと、自分に言い聞かせ、いつも葛藤劇を演じていた。
 幾度と無く心の欲求を抑え込んできたアキトにとって、ユリカの急激な容態の悪化は大きな衝撃だった。
 ラピスは無表情ながらも、何処か心配げに彼を見守っていたが、エリナは口を堅く噤んでアキトに近づくとそっと肩に手を乗せ、そして耳元でそっと何かを囁いた。
 その言葉にアキトの心が揺らぎかけた時、追い打ちをかけるように空中にコミュニケが一つのウインドウを映し出す。
『やぁテンカワ君』
 其処にはいつもの調子ながらも、何処か愁いを帯びた表情のアカツキの姿があった。

 修羅道を進む彼とて、その脆弱な鎧の中身は何処までも人の良い青年なのだ。
 復讐と、今この瞬間消えゆくかもしれない妻の命を秤に掛けた結果、後者を選んだのは有る意味至極当然だった。
 ユリカの命がもう長くないという事実は、彼女の身体もアキト同様、普通の身体には戻れなかったという意味に他ならない。
 ならば、彼女の幸せを心から願う者として、完全に壊れる前に、ユリカの前に立つ事こそが最も必要な事なのではないだろうか? ――そう考えるに至った。
 無論――
「行きなさいよ。今会わないでいつ会うっていうの? あなたがしていた事が無意味になるわよ?」
『それにねテンカワ君、復讐なんてものはさぁ、後でも出来るだろ?』
 ――といったエリナとアカツキの後押しが、彼にそう決心させるきっかけであった事は間違いない。
 今回の帰還は一時的なものに過ぎないかもしれないが、それでも彼が自発的に一度は身を引いたユリカの元へ、ひいては皆の元へ戻る決心をしたのは素直に喜ばしい事だった。
 彼はエリナとアカツキの勧めもあって、数年ぶりに復讐の為の鎧とも言える黒衣を解き、シャツにジーンズという普段着――視覚補助用のバイザーは付けてはいるが――に着替えると、同じく外行きの格好におめかししたラピスを伴い、エリナと共にネルガルのシャトルで地球へ降りた。





 彼らがヒラツカの病院へとたどり着いた時、彼女の病室には連絡を受けたかつてのナデシコクルー達が集まっていた。
 イネス、コウイチロウ、ジュン、ウリバタケ、ミナト、ユキナ、リョーコ、ヒカル、イズミ、ゴート、プロスペクター、ホウメイ、そして多忙であるはずのアカツキやメグミに加え、ルリの副官である三郎太の姿も見える。
 その他にも大勢の仲間が集まって、病室に入れない者達が廊下にも溢れていた。
 ユリカの元に集い、かつて共に闘った仲間達。
 皆、一心に彼らにとっての艦長の身を必至に案じ、それぞれが信じるものへ祈りを捧げている。
 やがて廊下を走る足音が響き、ラピスの走る速度が遅い為だろう――彼女を脇に抱えたアキトと、彼に遅れまいと必至に走るエリナが現れた。
 皆は申し合わせた様に左右に分かれ、アキト達が進む道を作る。
 アキトは無言でその直中を走り、病室の扉をくぐった。
 扉の音に、室内に居た者達が一斉に振り向く。
 と――其処に居たのは、バイザーこそしているものの、プリンスオブダークネスと呼ばれ恐れられたテロリストではなく、かつてコックを目指していた平凡な青年だった頃の格好をしたアキトの姿。
 そんなアキトの姿を認めた皆は、一様に口を噤みベッドまでの道を譲る。
 ラピスを降ろし、後から続いて病室に入ってきたエリナに無言で彼女を託すと、アキトはゆっくりと歩き始めた。
 その場に居た者は皆、彼に言いたい事が有ったろう。
 だが誰一人口を開く事はなく、人の多さに反して無言が支配する病室の中を、アキトはゆっくりと進み、ユリカの傍らへ向かう。
 ユリカの直ぐ脇で立っていたコウイチロウは何かを言いかけたが、目を瞑ってその場を譲った。
「ユキナ……私ルリルリの所に行ってくるわね」
 皆が無言で見守る中、ミナトがユキナに耳打ちする。
 気を失ったままのルリは今も、イネスの部屋で寝かされたままだ。
 ハーリーが一人看病に付いているが、アキトが昔の格好で現れた事は今すぐ彼女に伝えるべき――そう判断した為だ。
 頷くユキナを確認すると、一瞬だけアキトに深い悲しみの中にも極僅かな嬉しさを含んだ視線を向け、そっと病室を後にした。
「ユリカ……」
 静寂の中、アキトが掠れた声を絞り出し、そっとベッドの脇に跪き腰を降ろす。
 彼の肩が上下に動いているのは、走ったことによる呼吸の乱れではない。
 武術の鍛錬とナノマシンによる身体能力のブーストアップにより、あの程度の運動で息が上がることはない。
 そんな彼が肩で息をしているのは、目の前で横たわるユリカの姿に動揺しているからに他ならない。
 そしてその事実を証明するかの様に、彼の顔にはナノマシンの幾何学パターンが輝いている。
 見舞いに来た者達から送られた花束や果物、そして人形や縫いぐるみ等で囲まれたベッド、その中で眠る様に目を閉じているユリカに、アキトはそっと手を伸ばし、そしてもう一度その名を口にした。
「ユリカ……俺だ」
 幾らか窶れたようだが、見た目はただ寝ているだけのようなユリカの表情。
 アキトは震える手を頬に添えて、そして愛おしそうにその表面を撫でた。
「ユリカ……」
 バイザーを取って素顔を晒し、色素が落ちて薄くなった茶色の瞳を向けて妻の名を呼ぶ。
 以前より幾らかトーンが低くなったものの、万感の想いが込められたアキトの声が、静かな病室内に響いた。
 皆が息を飲んで見守る中――
「う……う〜ん……」
 ユリカが身体を僅かに震わせ――
「ユリカっ!」
 ナノマシンの輝きが増したアキトの呼び掛けに、ゆっくりと瞼を開き――
「……ア……キト?」
 遂にその両の目が愛しき者を捉えた。
「ユリカ……」
 エリナがそっとラピスを連れてアキトの横に立つ。
 ラピスの視覚を通じて、バイザーの無いアキトの目にもユリカの顔が見える様になる。
「アキト……」
 久しく見たユリカの笑顔。
 以前の底抜けに明るい笑顔とは異なる、儚げな笑顔。
 目尻に涙を浮かべ、互いに見つめ合う二人。
 それはこの場に居る全ての者が待ち望んだ光景。
 新婚旅行に出かけた直後に二人を襲った「拉致」という名の悲劇。
 新しい秩序という、一方的正義の為に引き裂かれた二人。
 だが、今二人は互いの手が届くところに居る。
 今だ髪の毛に触れているはずの手から、その感触が伝わらないのは残念だったが、アキトはそれでもしっかりと彼女を見つめ、背一杯の笑顔を浮かべた。
 ユリカの震える手が、自分の頬と頭を撫でているアキトの手へと、ゆっくりと伸びてゆく。
 そして、病室の中の皆が無言で見守る中、その距離がゼロになった途端――

「ア……アキト……アキトォォォォッ!!」

 ユリカの絶叫が響き渡り――

「ユリ……カ?」

 アキトの口から掠れた声が漏れると――

「アキトッ!」

 ラピスの悲鳴が病室にこだました。








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