「次の日の朝を迎えて……」
 祐一はそう懐かしむように語ると、コップの中のお冷やを飲み込んだ。
「……」
 カウンター越しでじっと祐一の話を聞いていたソバ屋の親父は、黙って話の続きを待っている。
 ”ガタガタッ”
 強い風に安っぽいドアが揺られ音を立てると、祐一は腕を動かして鈴の音を響かせてから続きを語り始める。
「……あの廃墟のドライブインで目を覚ました俺は、痛みで腕に目を向けると、包帯代わりに黄色い布が巻かれている事に気が付いた。
 それが彼女のエプロンという事はすぐに理解したが、肝心な彼女の姿を見ることが出来なかった。
 取り敢えず彼女の名を呼んでみたが反応も無かった。
 代わりに隣で倒れていた親父が少し動いたんで、目を完全に覚ます前に俺が身体をロープで拘束した。ははっ何せ危険人物だからな。
 それでその後、全員が目を覚ましたんだが、それでも真琴が姿を現す事は無かった。
 俺は建物の中を暫く探して、それでも見つからなくて焦り始めた時、腕に巻かれたエプロンにそっと貼られていたシールに気が付いたんだ」
 当時の事を思い出したのか、祐一はそっと腕を動かす。
 ボロ布の様なコートの裾から覗く細い腕には、はっきりと傷痕――父親のナイフによるものだろう――が見て取れた。
 鈴の音を響かせながら祐一は腕を戻すと、表情を苦しそうなものに改めて再び語り始めた。
「その瞬間、俺はの頭ん中は嫌な予感で一杯になった。理屈じゃない、直感で俺は不安を感じ、半ば狂ったように建物の隅々から周辺の野外までも探し回った。
 だが、彼女の姿を見つける事は出来なかった。
 ひょっとしたら、彼女は歩いて買い物にでも出かけたかもしれない……そう自分に言い聞かせて、俺は真琴を待ち続けた。
 やがて日が傾き、山の冷気がドライブインの中に漂い始め、真琴の居ない家族が妙に余所余所しいものに思えた時、俺はやっと気が付いたのさ。
 ……彼女はもう戻ってこないって事に」
 祐一がカウンターをぼんやりと眺めながらはっきりと呟く。
 店主は何も答えず、祐一の言葉を待った。
「俺は……その瞬間まで自分が彼女を拾ったと思っていた。だがそれは間違いだった。
 選んだのは彼女であって、そして家族を演じるに値しない存在と判断され、俺達は捨てられたのさ。
 そう……彼女がかつて見限った他の家族と同様にな」
 祐一が言葉を区切ると同時に吹いた強い風が、古めかしいソバ屋全体を揺らした。
「真琴を溺愛し、己の存在意義の全てを彼女に依存していた父。
 彼女を敵視し一度は家族を捨てた母。
 そして家族を蔑ろにし、欲の赴くまま彼女を手に入れようと画策していた俺。
 結局、真琴という存在によってのみ成り立っていた俺の家族が、彼女という存在を失った時、もはや元の鞘へ治まる事など出来るはずもなく……一家は離散となった。
 ……それが、俺の家族の物語さ」
 自嘲気味に笑みを浮かべて祐一は話を締めくくった。
 その合間も日本海から吹き込む冷たい風は、容赦なく店の扉を叩いている。
「酷ぇ女だなぁ……」
 話を聞き終えた店主は短く呟きに、祐一は苦笑気味に笑いながら、腕に付いた鈴を弄んでいた。
「で、その後はどうしたんだ?」
 祐一の話に何か思ったのか、店主は少し間を空けてから「サービスだ」と断ってから、おからの入ったおにぎりを差し出しながら尋ねた。
「ああ……親父は真琴が居なくなった事実を知ると半狂乱となって大暴れ。拘束していたロープを引きちぎりドライブインより何処へと飛び出し、その後は現在に至るも生死不明だ。何処かで野垂れ死にしてるやら、はたまた生きているのやら……」
 祐一は受け取ったおにぎりを頬張りながら、まるで他人事の様に淡々と語り続ける。
「母親の方は、愛人の探偵と詐欺紛いの商売を始めたらしいが、恐喝事件を起こしたのがばれて現在は揃って某所へ服役中って話だ」
 食べ終えて指に付いたご飯粒を口に運びながら祐一は答える。
 断定ではなく憶測なのは、彼自身が母親のその後の姿を直接見た訳でない事を物語っているのだろう。
「そして俺は……彼女の足跡を求めて日本中を練り歩く放浪者ってわけさ。こうして街から街へ、カウンターからカウンターへと渡り歩き、彼女の足跡を探している。ははっ、お陰でソバに随分と詳しくなったなぁ」
 自分の事を語る時だけ、彼は口元に笑みを携えた。
「……」
 なるほど――店主は祐一の言葉に納得していた。
 情報を聞くため、彼は大抵の街――この親不知の様な寂れた土地でさえ――に存在する立ち食いソバ屋に立ち寄っていたのだろう。
 妙に場慣れした態度や、ソバに対する分析力の高さはその為という事だ。
「……ねぇ、ある日突然、昔自分が助けた狐が恩返しにやってきたとして、あんたはそれを信じるかい?」
「信じるわけねぇさ」
 祐一の問いかけに、店主は即答した。祐一もまた、その返答は当然予想通りのものであったから、その表情には笑みさえ浮かんでいる。
「そりゃそうだ。そんなもん、俺だって信じちゃいなかった。彼女が俺しか知らぬはずの情報を語った時でさえ、全く信じちゃいなかった。
 俺の頭ん中にあったのは、それを信じ込む事で彼女を傍に置くことが出来るという一点だった。
 だが、それこそが彼女の老かい極まる罠だったのさ……。
 彼女が示した荒唐無稽な設定を受け入れた俺にとって、彼女をその言葉通り恩返しに来た狐として受け入れるか。それとも彼女の言葉を全て否定して追い出すか……その二つしか選択の余地は残されていなかった。
 ”言葉”ってやつの力を甘く見ていた俺が馬鹿だったんだろうが、見知らぬ家に入り込み、なおかつ男の欲望から身を守る為に彼女が編み出した一石二鳥の手段だったのさ。
 あいつは……恐らく入り込んだ他の家族でも、似たような事をしていたに違いない。恐ろしく狡猾で、あんたの言うとおり酷ぇ女さ、本当に……。
 そして……これがその酷い女だ」
 祐一はそう言って、懐から大事そうにビニールに包まれた一枚の紙を取り出し、そこに貼られたプリクラのシールを店主に見せた。
「この娘だ。見覚えはないか?」
 親父は黙って目を向ける。
「よく見えねぇな」
「もうずっと……一〇年も前の物だからな。本当はもう同じ一枚写真があったんだが、そっちは完全に色があせてもう使い物にならない。
 だから俺には、もうこれと腕輪しか残されちゃいないんだ」
 祐一の言葉に、店主は一瞬声を失い、差し出された古ぼけて色あせた玩具の様な写真と、祐一の顔を見比べた。
(この男は……こんなものを頼って一〇年も探し歩いてるのか? 何処に居るともしれぬ娘を捜して……)
 想像を絶するであろう生活を考え、店主は身震いをした。
 しかしそう考えてみれば、男の姿や外見や雰囲気は納得出来た。
 店主は目の前の哀れな男の為に、じっと差し出された写真を見つめ――それから残念そうな表情で切り出した。
「……悪いが俺の知る限りその娘の顔に見覚えは無い。この界隈に妙な女が転がり込んだっていう家の話も聞いちゃいねぇな。ついでに言うならその腕輪にも見覚えは無い」
 暫く写真を眺めた後で、店主はゆっくりと首を振った。
「そうか……」
 特別気を落とすことも無く、祐一は短く応じると写真を懐へ戻した。
 この様なやり取りを一〇年も続けてきた彼にとって、今更残念がる事でもないのだろう。
「で、どうする気なんだ?」
「ん?」
「その娘をとっ捕まえてどうする気なんだ? 一言文句でも言いてぇのか?」
 過去に家族を捨て、この地へと逃げてきた経歴を持つ店主は、祐一にただならぬ興味を覚えており、彼をここまで駆り立てる物が「怨恨」なのか? 「愛情」なのか? それとも「意地」なのか? ……余計な事だと知りつつも彼に尋ねてみた。
 祐一は店主の問いかけに、一瞬呆気にとられた様な表情を浮かべ、それから暫く無言のまま俯いていた。
 やがて面を上げた祐一の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ははっ……判らねぇ。考えた事もなかった」
 祐一の返答に店主は声を詰まらせる。
「……だがこうして自分の物語を他人に聞いて貰って、初めて判った気がする。
 少なくとも、もう一度家族ごっこをしたい訳じゃない。
 そうさ、俺はあんな酷い目に会っても、やっぱりあいつの事が忘れられないんだ。
 彼女の目や声、髪の毛、そして手の感触を思い出すだけで、胸が苦しくなって、切なくなって……言いようのないもどかしさに駆られるんだっ。
 畜生! 何でなんだ。何で詐欺師のあいつに俺はこんなにも夢中になっちまってるんだ」
 一気に自分の感情を解き放つと、祐一はカウンターに肘を付き激しく咳き込み始めた。
 同時に腕輪の鈴が激しく鳴り響く。
「お、おい大丈夫か?」
 店主は慌てて声を掛け、水の入ったコップを差し出す。
「……っは。大丈夫さ。あいつに……真琴に会うまで倒れるもんか」
 水を少し飲み込み喉を濡らすと、祐一は面を上げて応じた。
 見え見えの強がりだが、店主はそれ以上声を掛ける事も、手を貸すことも出来なかった。
「見えるんだ」
「は?」
「……最近、あいつの姿を見かけるんだ。この街に降り立った時も、真琴の姿が見えた。駅のホームで俺をじっと待ち続けていてくれた。ははっもうすぐだ。もうすぐあいつに追いつける」
 店主は祐一の顔に、ある種の狂気を感じ取った。
 彼は真琴という名の女性を狂う程に愛しているのだろう。
 その狂った精神が、彼に在るはずのない幻覚を見せている。そしてこの男はもう長くない――店主はそう直感した。
 やがて現実と幻覚が入れ替わる日が来るのだろう。
 現実においてこの広い世界の中から宛もなく一人の女を探し出すのは不可能である。ならば、せめてその中で彼女と再会出来る様にと祈る事しか、店主に為すすべはなかった。
 その後祐一は、かけそばの代金を払うと、精一杯の笑顔を作って礼を述べた。
「家族の話をしたら、久しぶりにみんなの顔を思い出せた。有り難うな」
 家族の事すら気に掛ける事もなく、自分と家族を騙した女を追いかけている男の最後に見せた笑顔は、自らも家族を捨てた店主の心を揺さぶった。
「親不知……か」
 吹きつける風が鈴を鳴らし、コートの襟を立てて夜の闇の中へと消えてゆく祐一の背中を見ながら、店主は自分の住まう土地の名をそっと呟いた。




§




 目が眩む様な眩しい夕陽をバックにして彼女は彼を見ている。
 しかし逆光となっている影響で、その表情ははっきりと見えず、彼の神経を苛立たせる。
「真琴っ!」
 思わず口調を荒げて彼女の名を呼んでみる。
「……」
 だが彼女は答えない。
 手を伸ばそうと思っても、自分の手は全く言うことを聞かずピクリともしない。
 焦りが募り、夕陽の眩しさがやたらと鬱陶しく感じる。
「真琴っ!」
 もう一度彼女の名を呼ぶ。
「……」
 彼女はやはり答えない。
 表情も判らない。
「真琴……っ!」
 身体をくねらせ近づこうと思っても彼の身体は微動だにしない。
 手足だけでなく身体全体が動かなかった。
 声は届かず、彼女は答えず、彼女の表情も伺えない。
 手を伸ばせば彼女に触れる事も出来るというに、彼等の間の距離は果てしなく遠い。
「真琴っ、お前は言ったじゃないか。俺の元に居て、そして俺に仕えるって。何もかもが嘘なのか? 全てが俺の家族を破壊する為なの方便なのか? 真琴!!」
 祐一の脳裏にあの時――彼女と共に最後の仕事を終えた後――の真琴の表情がはっきりと蘇る。
 自分を見つめるその柔らかな瞳に、祐一はこれ以上ない安心感を覚えたはずだった。
”ちり〜ん”
 答える様に鈴の音が鳴り響く。
 その音色に激しいリバーブがかかった様に祐一の頭の中で響き渡る。
「真琴っ!」
 彼女の名を可能な限りの大声で叫んだ瞬間、祐一の頭部に激しい痛みが襲いかかり――そして目の前の光景が揺らいで消えた。 


「……あれ?」
 瞼を開けた祐一の視界には、ヘッドライトに照らし出されて流れて動く道路のセンターラインだった。
「兄ちゃん大丈夫か? 酷く魘されてたみたいだが……」
 隣から聞こえてきた野太い声に、祐一は次の街を目指し歩いている途中で通りかかったトラックにヒッチハイクをさせてもらった――という現状を思い出した。
 轍が酷いのか、トラックは先程から激しく揺れており、その事が原因で彼は頭を窓ガラスへぶつけたのだろう。
「そっか……また夢か。ふぅ……大丈夫です」
 頭を指すって息を吐き出すと、シートに深く腰掛けふと周囲を見回す。
 窓の外は未だに夜の闇に包まれており、除雪された道路以外は全て雪で覆われており、月明かりに青白く輝いていた。
 日の出まではまだまだ時間がかかりそうだ。
「そうか? そろそろ着くぞ」
「はい」
 祐一は軽く頷き目を擦る。
 そんな反応に、運転手は訝しげな表情を浮かべたが、あまり詮索する事が嫌いなのか、特に何も問いただす事もなく、黙ってステアリングを握る事に集中した。
 それから小一時間程して新たな街の中心地らしき場所にたどり着いた所で、祐一はトラックを止めるよう頼んだ。
 運転手はその街の駅前広場にトラックを乗り入れ、そしてゆっくりと停車させた。
「おい、大丈夫か?」
 心配そうな声を掛ける人の良さそうなトラック運転手に「大丈夫です」と掠れた声で応じると、祐一はトラックの助手席から雪が積もる大地へと降り立った。
「悪いことは言わねぇ。早く家に帰って養生するんだな」
 運転手は明らかに体調の悪そうな祐一へ、運転席からそう言葉を投げかける。
「そうですね……それじゃ有り難うございました」
 祐一は礼を述べて頭を下げた。
 クラクションを軽く鳴らしてからトラックが走り去り、次第に遠くなってゆくディーゼルエンジンの音を聞きながら、祐一は呟いた。
「家か……ははっ。そんなもんありゃしないさ」

 親不知を離れて既に一ヶ月ほどが経過しているが、未だに彼女に関する情報は何一つ手には入っていない。
 だが目を閉じれば、祐一は決まってに彼女の姿を夢に見るようになっていたし、目覚めている時でさえ彼女の幻を見る事も多くなっていた。
 もうすぐ追いつく――彼女の幻を見る度、祐一はそう確信を深めていった。
 無論それが希望的な観測に過ぎない事も判っているが、肉体的限界をとうに超えている祐一の身体を動かすには、こういった思い込みの力こそが必要だった。
「……」
 祐一は無言で僅かな手荷物を入れたトランクを持ち上げる。 
 全国を気の向くまま巡り、新たに辿り着いた街。
 それなりに開けた街の様だが、地方都市である以上それがこの周辺だけである事は想像に難くない。
 数分歩けば住宅地となり、それもやがて自然が残る土地へと変わる事だろう。
 駅前のロータリー中央には大きな時計が設置されていた。
 見上げて確認してみると針は午前四時を指しており、当然駅前と言えども人の姿は全く見えず、ただ雪が積もっている広場があるだけだった。
 風が吹き寒さに身を震わせると、身体の奥底から痛みと苦しみ徒党を組んでが押し寄せ、祐一はすぐ傍に有ったベンチへ倒れるように座り込んだ。
 ベンチの上の雪を退かす事すら出来ないほど、彼の身体は衰弱していた。
 度重なる栄養不良と不摂生による肉体の崩壊は、彼の身体の復元能力の限界をとうに超えている。
 暫くして痛みが引くと、祐一はベンチに腰掛けたまま改めて周囲に目を配った。
 他の土地でも見かけた、特にこれといった特徴もないごく普通の駅前。
 しかし、その建物の配置や、広場の形状、そして彼が見つめた中央の大きな時計は、彼の記憶の中の何かを呼び起こす。
「ここは……」
 そう、彼はこの街を知っていた。
 祐一は必至に記憶を辿り、この街が親戚である水瀬の叔母や従姉妹の名雪が住む地である事を思い出した。
 彼が最後に訪れたのが二〇年近くも前であるから、当然記憶にある風景とは異なってはいたが、彼の記憶を呼び起こす程には当時の面影が残っていた。
「そうか……という事は、ここが狐を……真琴を助けた場所っていう訳か……ははっこいつは傑作だ」
 祐一は自嘲気味に笑ってソベンチに身を投じた。
「ははははっ。一〇年かけて辿り着いたのが此処だってのか……はははっ」
 ひとしきり笑った後、祐一の表情から笑みが消え、力無く両足を投げ出すようにしてベンチに寄りかかる。
 天を仰いで夜空を見上げると、いつの間にか雲が星や月を覆い隠していた。
 僅かな明かりをも遮られたその状況は、まるで自分の旅路の結末を予期している様に思えて、祐一は絶望を覚える。
「真琴に……人間の真琴に会えないのなら……」
 暫く無言で雲に覆われた夜空を見上げていた祐一が、白い息と共に言葉を吐き出し――
「せめてあいつに……俺が助け、名を与えてやった狐の真琴にでも会うか?」
 ――ゆっくりと自分に言い聞かせるように呟いた。
「たしか……」
 祐一はベンチから立ち上がると、おぼつかない足取りで歩き始めた。
 時折雪に足を取られ姿勢を崩すも、祐一は少年時代の微かな記憶を辿って街を歩く。
「……この先の角を」
 かつて母の手に引かれ歩いた街並み――
「……お」
 かつてよく遊んだ公園の変わらぬ姿――
「……あの犬はもう居ないか」
 通る度に吠えられた犬の居る民家――
 街の中を進む都度に蘇る記憶の数々。 
 目に映るものと記憶の中のものとを照らし合わせては、一喜一憂して呟き、落ち込み、そして笑った。
 何か呟きながら夜の街を徘徊する姿は、端から見れば夢遊病者の様に見えたかもしれない。
 だが祐一は幸せだった。
 自分の居場所が未だに残っていた様な感覚に、祐一は何時しか感動していたのだ。
 家庭の暖かみを失い、家族と生き別れた祐一にとって、この地は今だ家族が家族であった時代を封じ込めた、一種のタイムカプセルだった。
 やがて彼は記憶を頼りに商店街へ通ずる交差点を曲がる。
 当然この時間に営業している店はなく、色とりどりのシャッターが降りる中を、様々な感情が交じった表情で周囲を見回しながら祐一は進む。
 この先に従姉妹の家はある――
 果たしてこんな姿になった自分を、伯母や従姉妹は気が付き、そして温かく迎え入れてくれるのだろうか? ――無意識に自分が失った家庭の暖かみを求め、祐一は雪を踏みしめ歩を進める。
 この道を、かつて自分は従姉妹の手を引いて走った――
 未来に何の不安も覚えず、人並みの明るい未来が待っていると信じて――
 二人で笑いながら走ったんだ。
 過去の情景を愛おしむ様に思い出しながら、祐一はよたよたと歩く。
 胸の苦しみと、節々の痛みを無視し、既に寒さで感覚の無くなっている両手足を酷使して祐一は歩く。
 もはや真琴に会う事が叶わぬだろうという絶望は、今や彼の心身全域を蝕んでいる。
 それでも彼は無意識に家庭の暖かみを求めて、記憶を辿り従姉妹の住む地を目指して進む。
 それこそが彼に残された最後の力。
 不意に祐一が姿勢を崩し、商店街の中央で前のめりに倒れる。 
 除雪のされた道の中央を進んでいた祐一だったが、濡れたマンホールに足を取られたのだろう。
 だが彼は悲鳴を上げる事も無かった。
 なぜなら――痛みはもう感じないからだ。
 無言のまま首を動かした祐一の視界に、何者かのつま先が映る。
 顔をゆっくりと上げてゆくと、街灯に照らし出されたその者の脚から腰、そして胸へと視線が移り、やがて色鮮やかな黄色いマフラーを彼の目が捉えた。
 激しく高鳴る鼓動をそのままに、祐一は思いきって視線を更に上げてその顔を見つめる。
 そしてその目がその先に佇むその少女の姿を収めた。
 街灯が照らし出したその顔を見て、祐一は目を見開き、そして身体を震わせながら、その者の名を絞り出した。
「真琴……」
 あの日――姿を消したあの日と変わらぬ若い姿のまま、真琴は商店街通りの中央に立ち、祐一を見つめていた。
 優しげで、それでいて何処か寂しげな表情を浮かべ、色鮮やかな黄色いマフラーを風に靡かせて、じっと祐一を見つめている。
「真琴っ」 
 祐一は声を絞り出して、腕に力を篭めてゆっくりと立ち上がる。
 だが、真琴は愁いを帯びた目で微笑むと、彼に背を向けて走り始めた。
「真琴っ! ま、待ってくれぇ」
 祐一は叫ぶと、トランクも置いたまま慌てて走って追いかけた。
 体力を公使する為に必要なありとあらゆる栄養分が足りないはずの身体を駆使して、祐一は真琴の背中を必至に追いかける。
 苦しみも、疲労も、息苦しさも感じず、ただがむしゃらに祐一は走り続けた。
 走る都度に腕輪の鈴が”りんりん……”と鳴り響く。
「待ってくれっ……待って……真琴っ……待ってくれっ!」
 鈴を鳴らしながら、鼻水と唾液と涙を垂れ流しながら、祐一は走る。
 エネルギーの代わりに魂そのものを燃焼させて走る。
 だが、それでも真琴との差は縮まらない。
 次第に祐一の視界が薄れてゆき、真琴の姿もまたぼやけ薄れいでゆく中にあって、彼女の黄色いマフラーだけははっきりと目が捉える事が出来た。
 だから、祐一は闇の中に浮かぶ黄色を追って走る。
 あのマンションの周囲に群生していた、セイタカアワダチソウの花の様に色鮮やかな黄色だけを追いかける。
 周囲の光景は全く目に入っていなかった。
 自分の腕で鳴り響く鈴の音以外の音も聞こえなかった。
 かつては広大な麦畑が広がっていた地を――かつてこの地で交わした約束を思い出す事もなく、無我夢中で横切って行く。
 進む道が傾斜を始め上り坂になっても、彼は気にも掛けずに走る。
 除雪の行き届いた舗装道路から、雪が積もった山道へと変わり、やがて山道からも外れて木々の合間を抜けて走る。
 降り始めた粉雪が舞う中、鈴を鳴らして祐一は走る。
 大きな木の切り株の横――かつて彼が創立した学舎の跡地に気付く事もなく、祐一は走り抜ける。
 やがて木の根に足を取られた祐一は激しく転倒し、積もっていた雪へと身体を沈める。
 口内に入った雪を吐き出し、直ぐに立ち上がる。
「畜生っ」
 言葉を吐き捨てボロ布としか形容出来ない、かつてコートであった物を脱ぎ捨てる。
 シャツだけの寒々しい姿となった祐一は、それでも走った――闇の中で浮かび上がる黄色を追って。
 森の中の急斜面を、まるで獣のように駆け抜ける。
 やがて森を抜けて目の前が一気に開けると、初めて祐一は周囲の光景を認識した。
 なだらかな斜面の向こうに街の灯を望む、一面に広がる白い大地。
 街の外れにある自然豊かな丘。
 今は所々に背の高い植物の枝が見える程度で何も無い雪原だが、春になれば生い茂った草が一面を覆うであろう丘の斜面を、祐一は駆け上がる。
「真琴ぉぉっ!」
 絶叫と共に更なるスパートをかけると、黄色との距離が一気に縮まった。
 有るかどうかも判らない程に感覚の無い腕を伸ばし、その黄色に手を掛けようとした瞬間――
 彼は姿勢を崩して雪原へと頭から飛び込んだ。
 半身を雪に埋めた状態となった祐一は、ピクリとも動かない。
 彼の肢体はもはや言うことを聞いてはくれなかった。
「……」
 身体だけではない、声も出なかった。
 半分雪に埋もれた顔を動かす事も叶わなかった。
 祐一は大気に触れている片方の目を僅かに動かし、目の前の光景を認識する。
 僅かに顔を覗かせている植物の枝に、色鮮やかな黄色い蝶々が揺らめいている。
 今の季節には居るはずのない黄色い蝶々。
 祐一の朧気な視界の中、その羽の黄色だけが鮮やかに映っている。
 その背後に見える街の灯りも、夜空の闇も、そして雪の白ささえも、祐一の目には映っていなかった。
 手を差しのばしたくとも、祐一の腕はもう動いてくれなかった。
 起きあがりたくとも、全ての手足が動いてくれなかった。
 顔の半分が雪に埋もれ、視界の半分を遮っていても、首を動かす事もできなかった。
 身体の感覚さえもう判らなかった。
 唯一残された片目の視界に、舞い降りる白い粉雪と、枝で羽を休めている黄色い蝶だけがぼんやりと映っていた。
 静かに舞い降りる雪が、祐一の身体にまんべんなく降り注ぎ、彼の身体を覆い隠して行く。 
 ”ちりん”
 祐一の耳に届いた最後の音。
 懐かしい音。
 それが自分の腕から発せられたものなのか、それとも別の何かが発したものなのかを理解する思考力は、祐一の頭に残されてはいなかった。
 だがその音と目の前に映る鮮やかな色彩は、消えゆく祐一の意識に真琴との想い出を思い起こさせるには十分だった。

 ――ドライブインでの熱い包容。

 ――二人で撮ったプリント倶楽部。

 ――スリルに満ちた二人の共同作戦。

 ――海岸で見た真琴の水着姿。

 ――甘美になりきれなかった同棲生活。

 ――食卓で鍋を囲む新居での生活。

 そして――マンションの扉を開けた瞬間、抱きついてきた真琴。

 セイタカアワダチソウの様に燃え上がる色鮮やかな黄色に身を包んだ真琴。

「ま……こ……と……」

 唇が微かに動き、雪の降る音よりもささやかな声がこぼれる。
 挨拶の様に羽を慎ましく動かすと、黄色い蝶は祐一の眼前から飛び去った。
 そして入れ替わる様に、丘の奥から美しい毛並みをした一匹の狐が姿を現した。
 一対のグレーの瞳が動かぬ祐一を、ただじっと見つめている。
 その瞳を最後に、祐一の視界は闇に包まれた。

『御主人様……』

 そんな懐かしい声を聞いたような気がした。
 闇が反転し、目の前が真っ白になる。
 同時に身体が軽くなり、祐一は雪の中から身体を起こす。

『馬鹿野郎遅いぞ! 雪ん中で俺を待たせやがって』

 文句を言う。
 だがそれが本気ではない事は、彼女も判っている。

『申し訳ございません』

 丁寧に誤りつつも、彼女は平然としていた。

『全く……俺は雪が嫌いなんだ。ここは寒くて仕方がねぇ。さっさと家に帰ろうぜ』

 微笑んで手を差し出す。

『はい。今日は美味しい鍋をお作り致します』

 差し出された手に、自分の手を重ねて彼女は答えた。

『また鍋かよ? お前は本当に鍋が好きだなぁ?』

 少し呆れたように、それでいて楽しそうに応じる。

『はい。寒い日は特に美味しいですよ。それに……家族と言えばはやっぱり鍋ですから』

 彼女がにっこりと微笑んだような気がした。

 何処までも続く白い世界で、二人は手を繋いでゆっくりと歩いていった。












 もう何も映していない祐一の瞳から、涙がにじみ出す。

 彼が最期に流したひとしずくは、頬を伝わりやがて冷たいアスファルトへと吸い込まれて見えなくなった。

 雪が降り始めて、倒れた祐一の身体へと舞い降りてゆく。

 黄色いマフラーをした新聞配達の青年が、商店街の真ん中で行き倒れの男を発見し、警察と救急に連絡を入れたのは祐一が倒れた直後だったが、現場に救急隊員が駆けつけた時にはすでに死亡していたという。

 死因は栄養不良による衰弱死だったが、自律神経失調、胃炎、肝硬変、等幾つもの内臓障害を抱え、更に全身が凍傷に蝕まれていた状態を考えると、先程まで生きていられた事が奇跡に近いものだったという。

 ボロ布にくるまれただけの骨張った貧弱な身体をした男の手荷物からは、彼の身元を証明する物は何一つなく、結局彼が何者なのかを特定する事は出来なかった。



 こうして相沢祐一の物語は幕を下ろした。

 天に召されると言うには、彼の人生はあまりに反道徳的であり滑稽過ぎた。

 彼の魂が何処に行くのかは誰にも判らない。


 願わくば、カナンにて彼女と共に――家族と共に退屈な日常を歩まん事を。




















−了−










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