「次の日の朝を迎えて……」
祐一はそう懐かしむように語ると、コップの中のお冷やを飲み込んだ。
「……」
カウンター越しでじっと祐一の話を聞いていたソバ屋の親父は、黙って話の続きを待っている。
”ガタガタッ”
強い風に安っぽいドアが揺られ音を立てると、祐一は腕を動かして鈴の音を響かせてから続きを語り始める。
「……あの廃墟のドライブインで目を覚ました俺は、痛みで腕に目を向けると、包帯代わりに黄色い布が巻かれている事に気が付いた。
それが彼女のエプロンという事はすぐに理解したが、肝心な彼女の姿を見ることが出来なかった。
取り敢えず彼女の名を呼んでみたが反応も無かった。
代わりに隣で倒れていた親父が少し動いたんで、目を完全に覚ます前に俺が身体をロープで拘束した。ははっ何せ危険人物だからな。
それでその後、全員が目を覚ましたんだが、それでも真琴が姿を現す事は無かった。
俺は建物の中を暫く探して、それでも見つからなくて焦り始めた時、腕に巻かれたエプロンにそっと貼られていたシールに気が付いたんだ」
当時の事を思い出したのか、祐一はそっと腕を動かす。
ボロ布の様なコートの裾から覗く細い腕には、はっきりと傷痕――父親のナイフによるものだろう――が見て取れた。
鈴の音を響かせながら祐一は腕を戻すと、表情を苦しそうなものに改めて再び語り始めた。
「その瞬間、俺はの頭ん中は嫌な予感で一杯になった。理屈じゃない、直感で俺は不安を感じ、半ば狂ったように建物の隅々から周辺の野外までも探し回った。
だが、彼女の姿を見つける事は出来なかった。
ひょっとしたら、彼女は歩いて買い物にでも出かけたかもしれない……そう自分に言い聞かせて、俺は真琴を待ち続けた。
やがて日が傾き、山の冷気がドライブインの中に漂い始め、真琴の居ない家族が妙に余所余所しいものに思えた時、俺はやっと気が付いたのさ。
……彼女はもう戻ってこないって事に」
祐一がカウンターをぼんやりと眺めながらはっきりと呟く。
店主は何も答えず、祐一の言葉を待った。
「俺は……その瞬間まで自分が彼女を拾ったと思っていた。だがそれは間違いだった。
選んだのは彼女であって、そして家族を演じるに値しない存在と判断され、俺達は捨てられたのさ。
そう……彼女がかつて見限った他の家族と同様にな」
祐一が言葉を区切ると同時に吹いた強い風が、古めかしいソバ屋全体を揺らした。
「真琴を溺愛し、己の存在意義の全てを彼女に依存していた父。
彼女を敵視し一度は家族を捨てた母。
そして家族を蔑ろにし、欲の赴くまま彼女を手に入れようと画策していた俺。
結局、真琴という存在によってのみ成り立っていた俺の家族が、彼女という存在を失った時、もはや元の鞘へ治まる事など出来るはずもなく……一家は離散となった。
……それが、俺の家族の物語さ」
自嘲気味に笑みを浮かべて祐一は話を締めくくった。
その合間も日本海から吹き込む冷たい風は、容赦なく店の扉を叩いている。
「酷ぇ女だなぁ……」
話を聞き終えた店主は短く呟きに、祐一は苦笑気味に笑いながら、腕に付いた鈴を弄んでいた。
「で、その後はどうしたんだ?」
祐一の話に何か思ったのか、店主は少し間を空けてから「サービスだ」と断ってから、おからの入ったおにぎりを差し出しながら尋ねた。
「ああ……親父は真琴が居なくなった事実を知ると半狂乱となって大暴れ。拘束していたロープを引きちぎりドライブインより何処へと飛び出し、その後は現在に至るも生死不明だ。何処かで野垂れ死にしてるやら、はたまた生きているのやら……」
祐一は受け取ったおにぎりを頬張りながら、まるで他人事の様に淡々と語り続ける。
「母親の方は、愛人の探偵と詐欺紛いの商売を始めたらしいが、恐喝事件を起こしたのがばれて現在は揃って某所へ服役中って話だ」
食べ終えて指に付いたご飯粒を口に運びながら祐一は答える。
断定ではなく憶測なのは、彼自身が母親のその後の姿を直接見た訳でない事を物語っているのだろう。
「そして俺は……彼女の足跡を求めて日本中を練り歩く放浪者ってわけさ。こうして街から街へ、カウンターからカウンターへと渡り歩き、彼女の足跡を探している。ははっ、お陰でソバに随分と詳しくなったなぁ」
自分の事を語る時だけ、彼は口元に笑みを携えた。
「……」
なるほど――店主は祐一の言葉に納得していた。
情報を聞くため、彼は大抵の街――この親不知の様な寂れた土地でさえ――に存在する立ち食いソバ屋に立ち寄っていたのだろう。
妙に場慣れした態度や、ソバに対する分析力の高さはその為という事だ。
「……ねぇ、ある日突然、昔自分が助けた狐が恩返しにやってきたとして、あんたはそれを信じるかい?」
「信じるわけねぇさ」
祐一の問いかけに、店主は即答した。祐一もまた、その返答は当然予想通りのものであったから、その表情には笑みさえ浮かんでいる。
「そりゃそうだ。そんなもん、俺だって信じちゃいなかった。彼女が俺しか知らぬはずの情報を語った時でさえ、全く信じちゃいなかった。
俺の頭ん中にあったのは、それを信じ込む事で彼女を傍に置くことが出来るという一点だった。
だが、それこそが彼女の老かい極まる罠だったのさ……。
彼女が示した荒唐無稽な設定を受け入れた俺にとって、彼女をその言葉通り恩返しに来た狐として受け入れるか。それとも彼女の言葉を全て否定して追い出すか……その二つしか選択の余地は残されていなかった。
”言葉”ってやつの力を甘く見ていた俺が馬鹿だったんだろうが、見知らぬ家に入り込み、なおかつ男の欲望から身を守る為に彼女が編み出した一石二鳥の手段だったのさ。
あいつは……恐らく入り込んだ他の家族でも、似たような事をしていたに違いない。恐ろしく狡猾で、あんたの言うとおり酷ぇ女さ、本当に……。
そして……これがその酷い女だ」
祐一はそう言って、懐から大事そうにビニールに包まれた一枚の紙を取り出し、そこに貼られたプリクラのシールを店主に見せた。
「この娘だ。見覚えはないか?」
親父は黙って目を向ける。
「よく見えねぇな」
「もうずっと……一〇年も前の物だからな。本当はもう同じ一枚写真があったんだが、そっちは完全に色があせてもう使い物にならない。
だから俺には、もうこれと腕輪しか残されちゃいないんだ」
祐一の言葉に、店主は一瞬声を失い、差し出された古ぼけて色あせた玩具の様な写真と、祐一の顔を見比べた。
(この男は……こんなものを頼って一〇年も探し歩いてるのか? 何処に居るともしれぬ娘を捜して……)
想像を絶するであろう生活を考え、店主は身震いをした。
しかしそう考えてみれば、男の姿や外見や雰囲気は納得出来た。
店主は目の前の哀れな男の為に、じっと差し出された写真を見つめ――それから残念そうな表情で切り出した。
「……悪いが俺の知る限りその娘の顔に見覚えは無い。この界隈に妙な女が転がり込んだっていう家の話も聞いちゃいねぇな。ついでに言うならその腕輪にも見覚えは無い」
暫く写真を眺めた後で、店主はゆっくりと首を振った。
「そうか……」
特別気を落とすことも無く、祐一は短く応じると写真を懐へ戻した。
この様なやり取りを一〇年も続けてきた彼にとって、今更残念がる事でもないのだろう。
「で、どうする気なんだ?」
「ん?」
「その娘をとっ捕まえてどうする気なんだ? 一言文句でも言いてぇのか?」
過去に家族を捨て、この地へと逃げてきた経歴を持つ店主は、祐一にただならぬ興味を覚えており、彼をここまで駆り立てる物が「怨恨」なのか? 「愛情」なのか? それとも「意地」なのか? ……余計な事だと知りつつも彼に尋ねてみた。
祐一は店主の問いかけに、一瞬呆気にとられた様な表情を浮かべ、それから暫く無言のまま俯いていた。
やがて面を上げた祐一の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ははっ……判らねぇ。考えた事もなかった」
祐一の返答に店主は声を詰まらせる。
「……だがこうして自分の物語を他人に聞いて貰って、初めて判った気がする。
少なくとも、もう一度家族ごっこをしたい訳じゃない。
そうさ、俺はあんな酷い目に会っても、やっぱりあいつの事が忘れられないんだ。
彼女の目や声、髪の毛、そして手の感触を思い出すだけで、胸が苦しくなって、切なくなって……言いようのないもどかしさに駆られるんだっ。
畜生! 何でなんだ。何で詐欺師のあいつに俺はこんなにも夢中になっちまってるんだ」
一気に自分の感情を解き放つと、祐一はカウンターに肘を付き激しく咳き込み始めた。
同時に腕輪の鈴が激しく鳴り響く。
「お、おい大丈夫か?」
店主は慌てて声を掛け、水の入ったコップを差し出す。
「……っは。大丈夫さ。あいつに……真琴に会うまで倒れるもんか」
水を少し飲み込み喉を濡らすと、祐一は面を上げて応じた。
見え見えの強がりだが、店主はそれ以上声を掛ける事も、手を貸すことも出来なかった。
「見えるんだ」
「は?」
「……最近、あいつの姿を見かけるんだ。この街に降り立った時も、真琴の姿が見えた。駅のホームで俺をじっと待ち続けていてくれた。ははっもうすぐだ。もうすぐあいつに追いつける」
店主は祐一の顔に、ある種の狂気を感じ取った。
彼は真琴という名の女性を狂う程に愛しているのだろう。
その狂った精神が、彼に在るはずのない幻覚を見せている。そしてこの男はもう長くない――店主はそう直感した。
やがて現実と幻覚が入れ替わる日が来るのだろう。
現実においてこの広い世界の中から宛もなく一人の女を探し出すのは不可能である。ならば、せめてその中で彼女と再会出来る様にと祈る事しか、店主に為すすべはなかった。
その後祐一は、かけそばの代金を払うと、精一杯の笑顔を作って礼を述べた。
「家族の話をしたら、久しぶりにみんなの顔を思い出せた。有り難うな」
家族の事すら気に掛ける事もなく、自分と家族を騙した女を追いかけている男の最後に見せた笑顔は、自らも家族を捨てた店主の心を揺さぶった。
「親不知……か」
吹きつける風が鈴を鳴らし、コートの襟を立てて夜の闇の中へと消えてゆく祐一の背中を見ながら、店主は自分の住まう土地の名をそっと呟いた。
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