秋が訪れて更に日が経つと、山々はその身を紅く染めて人々の目を楽しませてくれる。
紅葉目当ての観光客で混み合う箱根を越えて、そのまま西へ国道を暫く進むと、やがて広大な土地に数々の店舗を集約した施設へと辿り着く。
そこは都市の中心部を離れた郊外という立地だからこそ可能な大型複合施設であり、大型ショッピングセンターの他に大小様々なテナント、そしてボーリング場、カラオケ、大型アミューズメントセンター等が併設されている。
平日はさほどでもないが、休日ともなれば大勢の買い物客で賑わい、駐車場に出入りする車は後を絶たない。
既に陽が傾き空が茜色に染まりつつあっても、その施設へ入るための脇道には、満車状態の駐車場へ入る為の車が順番待ちの列を作っており、その施設の繁盛ぶりを物語っていた。
そんな施設の正面ゲートにほど近い駐車スペースに、一台のくたびれた車が停車すると、中から一組の若い男女が降り立った。
少年の方は白いスラックスに紺色のシャツと黄色のネクタイ、そして派手な赤いジャケットを羽織っており、知っている者が見れば某有名な三代目怪盗のいでたちを思い起こすだろう。
少女の方は色鮮やかな黄色いシャツにデニムジャケットを羽織り、程良く健康的な脚がミニスカートから伸びている。
仲の良い兄妹――いや、恋人だろうか? 一見したところ判断に困るその二人は、表情も明るくショッピングセンターへと向かい歩き始めた。
「時間はきっかり三〇分。判ってるわね?」
二人に車の中から声が掛けられる。
落ち着き払った女性の声だった。
「判ってるって」
「はい。では行って参ります」
男は振り返ることもなく片手を上げただけでぶっきらぼうに答えただけだが、女の方はその場で振り向き、車中へ向けて丁寧に頭を下げて応じた。
「頼んだわよ」
女はやや横柄さを感じさせる口調でそう短く言うと、助手席の窓を閉めた。
見れば運転席には男がおり、ステアリングに上半身を預けるような形で、座ったまま周囲の状況に目を配っていた。
家族には見えない事もないが、彼等の醸し出す雰囲気がそれを否定している。
普通の家族であれば全員が揃って車から降りるであろうし、建物の配置や車と人の流れを観察する様な真似を行う必要はないだろう。
車のエンジンも掛けられたままだ。
車内の二人はサングラスを外す事も、特に会話を交わすこともなく、室内に響くエンジン音を聴きながら、建物の中へ消えて行く二人の後ろ姿を見つめていた。
「あの……」
ショッピングセンター内に入り、左右にテナントショップが軒を連ねる中央の通路を進んでいた時、少女が横を歩く少年へ遠慮がちに声を掛けた。
「どうした?」
少年は気さくな表情を少女に向け応じる。
先程の女とのやり取りと比べる、少女に対する対応には親しみや優しさが籠もっている。
「以前よりから常々思っていたのですが、あれは何でしょうか?」
少女が指さした先は どう贔屓見にみてもハリネズミには思えないマスコットキャラの看板が立つアミューズメントセンターで、その入り口付近に似たような形をした機械が数台並んで設置されており、その周囲では若い者達が集まって手にしている何かを見てはしゃぎ声を上げている。
「あの機械……時々見かけますけど、大抵あのように若い人々が楽しそうにしてます」
「ああ、あれな……そうだなぁ」
少女の言葉に、少年は一瞬時計を見てから「……大丈夫だろう。よっし」と呟き、少女の手を引いてアミューズメントセンターへと突き進むと、ソバ屋ののれんの様に設置されたカーテンをくぐり、機械の前に立つ。
「?」
首を傾げる少女に向けて少年は微笑みを返し、懐の財布から取り出した百円玉を数枚機械へと投入した。
「真琴、もっとこっちへ寄って……そう、それで機械の正面を見るんだ」
「こうですか御主人様?」
真琴と呼ばれた少女は、不思議そうな表情でモニタに写し出された自分の顔を見つめながら、位置を合わせている。
「よぉし……それじゃこんな感じで……よっと」
御主人様と呼ばれた少年――祐一は機械に設けられたペンを使って画面に文字を書き込んで行き、真琴の肩に腕を回して身を寄せ合い決定ボタンを押した。
程なくして機械から排出されたシートを真琴に手渡す。
「わぁ〜」
真琴は目を輝かせてシートを眺め、それから祐一に嬉しそうに微笑んだ。
「私と御主人様が一杯居ます」
手にしたシートには、真琴と祐一が仲良さげに映っている小さな写真が一六枚プリントされている。
「貸してみな……これは、こうやってシールになってるんだぞ……ほらな」
受け取ったシートから一枚剥がすと、祐一は自分の財布に貼って見せ、残りを全て真琴に手渡した。
「有り難うございます御主人様。なるほど、皆様が楽しそうにしている理由が判りました」
にっこりと微笑み、受け取ったシートを大事そうに畳むと懐へとしまった。
「さぁて予定外の事に時間使っちまったな。よっし真琴さっさと仕事終わらすぞ」
時計へ目を向けた祐一が表情を改めて言うと、真琴は笑顔のまま「はい」と短く応じた。
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ショッピングセンター内の中央に有る全国チェーンのスーパーマーケットには、食料品から日用雑貨、そして衣類までもが取りそろえられており、大勢の人々がカートに商品を満載して店内を歩いている。
祐一は食料品売場を周囲の人々同様にカートを押して進みつつ、半ば無造作に商品棚に並ぶ食料品を買い物かごへと放り込んでいた。
やがてそのかごの中が総菜やインスタント・レトルト食品、缶詰、加工食品、飲み物や菓子等で目一杯となると、周囲の状況に目を配ってから隣接している日用雑貨売場へと移動した。
祐一と別れた真琴は一人で日用雑貨売場を歩いていた。
洋服売場に並ぶ当たり障りのないデザインの服を見つめながら進むと、その中に色鮮やかな黄色のマタニティドレスを見つけた。
真琴は嬉しそうにその服取ると、スキップを踏むような足取りで試着室へと向かい、天井や周囲の状況を確認してから入り込み、今まで着用していたデニムジャケットを脱いで、シャツとミニスカートの上から持ち込んだマタニティドレスを着込んだ。
やがてカートを押した祐一が、試着室の前に置いてある真琴の靴に気が付くと、食料品をどっさりと積んだ買い物かごを手に持ち、素早く試着室の中へと滑り込ませた。
真琴はポーチの中から別の街で手に入れた同じスーパーのビニール袋を取り出し、せっせと受け渡された食料品を詰め込み、満杯になった袋からかごの中へと戻した。
そして先程脱いだデニムジャケットを羽織り、ビニール袋に入りきれなかった商品はマタニティドレスの中へと隠し込んだ。
試着室から出てきた真琴は、すっかり妊婦の様な姿になっており、大きく膨らんだお腹を優しくさすりながら待機していた祐一に笑顔を向ける。
祐一も笑顔を返すと、商品の入ったかごをカートに詰め込み、二人は並んで歩き始めた。
一見すればうら若き新婚夫婦の休日ショッピングの光景に見えただろう。
だが、二人のしている事はれっきとした犯罪――窃盗・万引きだった。
祐一は如何にも支払い済みだと見える荷物を満載したカートを押しながら、腕時計に目を向けると、タイマー機能を示すデジタル表示が二六分を指している。
約束の時間までもう間がない。
「真琴、少し急ぐぞ……」
祐一は、腹に未払いの商品を抱え込んだまま、隣を平然と歩く真琴に耳打ちする。
「はい」
真琴が笑顔で応じると、二人は歩く速度を早めて通路を進む。
やがて正面ホールにたどり着き、二人はやや早歩きの状態のままで通り抜けてゆく。
ショッピングセンターの正面エントランスは目前だった。
祐一はカートを押しながら腕時計を確認すると、タイマーは丁度二八分を示している。
何とか時間通りに間に合ったな――そう安堵の息をもらして、エントランスを潜り抜ける。
自動ドアが開き、涼しい外気に触れると、祐一はその温度差に一瞬身震いをする。
真琴がそんな祐一に笑みを向けると、彼は抑えていた笑いを一気に解放し大声で笑った。
作戦は大成功だった。
何の疑いを掛けられる事なく、彼等は一週間分の食料を手に入れたのだった。
だが、二人は彼等の言う仕事を無事終えた安堵から、多少気が緩んでいたのだろう。
真琴の腕から少し力が抜け、彼女の服の中に隠されていた桃缶が音を立てて地面に落下した。
「あ……」
「やばっ!」
真琴が呆気にとられた表情を見せ、祐一が吠える。
そしてエントランスの脇に立っていた警備員が声を張り上げた。
「ま、万引きだっ!」
警備員が一斉に近づき、祐一はカートからかごを取り出すと、向かってくる警備員目がけてカートを力一杯蹴った。
突っ込んで来るカートを警備員が思わず避ける合間に、祐一は空いている方の手で真琴の手を掴み走り出した。
祐一に引かれて必至に走る真琴は、その途上で服の中の商品をまき散らしてゆくが、流石にそれらに構っている暇はない。
彼女が動く都度、いまだ身に付けたままの腕輪から鈴が鳴り響く。
鈴の音のリズムに乗って、祐一と真琴が走る。
次第に追跡する警備員の数が増えて行くと、周囲は騒然となり騒ぎはより大きなものとなってゆく。
「ちっ!」
「どうやらドジった様ですね」
タイミングを合わせてエントランスへ向かっていたBe−1の中、多美子が騒ぎを聞きつけ舌打ちし、運転席の住井はやれやれと溜め息を付いて、アクセルを踏み込みBe−1を緊急加速させた。
広い駐車場の中を真琴の手を引きながら警備員達から逃げる祐一の姿を確認すると、多美子はくわえていたセイラムライトを窓の外に吹き捨てて、住井に向かって顎をしゃくる。
「はいはい……っと」
住井は小さく応じると、駐車場内の制限速度を無視した速度でBe−1を走らせ、祐一の逃亡進路上へ向ける。
甲高い音とゴムが焦げた臭いを立ててBe−1が目の前に急停車すると同時に、祐一徒真琴は慌てて開け放たれていたキャンバストップ部分より車内へと転がり込む。
すかさず住井はアクセルを踏み込みBe−1を急発進させる。
改造により搭載されている13Bロータリーエンジンが急激にトルクを生み出し、そのトルクがシャフトを通じてタイヤを駆動させる。
その質量を動かすには不必要ともとれるエネルギーを与えられたタイヤは、アスファルトにブラックマークを残す勢いで回転し、改造されたBe−1はぐんぐんとスピードを上げていった。
後方から警備員達の罵る声が聞こえると、真琴は振り返って愛らしい笑顔を向けながら手を振ってみせた。
「このドジ!」
バックミラーからショッピングセンターが見えなくなった頃、助手席の多美子が振り向く事なく二人に言い放つ。
その口調には叱咤こそ含まれてこそいるものの、息子達の犯罪行為を咎めるものではなかった。
つまり息子達が犯罪行為に手を染めている事を知ったうえで、その行為における失態を責めているに過ぎない。
「奥様、申し訳ございませんでした」
そう詫びる真琴だが、その表情にも悪びれた様子は全く無く、まるで遊びから帰って来た子供のような気楽さが漂っている。
それは真琴の隣座る祐一も同様であり、いやむしろより如実に現れている。
祐一は先程の追走劇の際に感じたスリルや、無事逃げ切った事の高揚感に酔いしれている様で、下品な笑いを浮かべている。
「いや〜。危なかったけど上手くいったな真琴」
真琴は笑顔で「はい」と祐一に頷き、彼が運び込んだ戦利品を確認し始めると、祐一は鼻歌交じりにBe−1のキャンバストップを閉める作業を始めた。
「あ、奥様。頼まれた紅茶です」
袋の中からアイスティーの缶を取り出し助手席へ差し出すと、多美子は振り返る事もなく無言で受け取り、プルトップを引き起こす。
「……っぷ。何よこれ〜生ぬるいわよ?」
中身を口に含んだ多美子は初めて振り向き真琴に文句を言うと、中身が殆ど残っている缶を窓から放り投げた。
「申し訳ございません」
大して悪びれた様子もなく、真琴は微笑みをもって返す。
「冷えてる奴はレジの近くに合ったし、あまり顔見られたくなかったからな。時間もあんまり無かったんだし無茶言わないでくれよ」
トップの閉鎖作業を終えた祐一が真琴を庇うように言うと、多美子は何も言わずに視線を戻す。
「この界隈もそろそろ危なくなってきたんじゃないですかねぇ」
当面の危機が逃れたと判断したのか、住井は速度を落として国道を走らせると、そう呟いた。
「そうね。もう次の街に移動した方がいいわね」
彼の呟きに、多美子はダッシュボードからセイラムライトのパッケージを取り出しながら答えると、その中から一本取り出して口にくわえる。
直ぐに真琴が後部座席から手を伸ばし、ライターでその煙草へと火を灯した。
その合間においても特に多美子が真琴に礼を述べることはなく、このようなやり取りが日常的な物である事を物語っている。
「それよりまずは夕飯だ。それに今夜は久しぶりに温かい布団にありつきたいもんだ」
祐一がネクタイを”だらしなく”締め直し、ルームミラーを通して髪の毛を撫で付け整えながら言う。
「そうね……もう野宿やキャンプファイヤーは懲り懲りだし……何か適当な所を探して入りましょう」
そう答えると多美子はシートに深くもたれて煙草を吹かした。
「御主人様、ほら見て下さい」
そう言って真琴が差し出したのは腕輪だった。
「これは?」
祐一が受け取ると、”ちり〜ん”と涼しげな鈴の音が車内に響く。
その音色に祐一は、浜茶屋で奴隷労働に駆り出されていた際、自分の首輪に付いていた鈴だという事を思い出す。
「さっきのショッピングセンターで頂いて参りました」
どうやらDIYコーナーで手に入れたリングに、首輪の鈴を取り外して移植したのだろう。一応は真琴の手作りという事になる。
祐一は真琴に微笑み返すと、その腕輪を自分に取り付けてみせた。
「これで本当のお揃いですね」
本当に嬉しそうな真琴の笑顔を見て、祐一は今の自分が充実した時間の中にいる事を実感した。
怠惰な日常を過ごしていた過去の日々に感じていた退屈とは無縁の生活。
波乱に満ちた生活と自分を慕う少女が傍らに居る事実が、祐一にとって殆どの夢が叶った事を物語っている。
これで後残す夢は――そこまで考えて、祐一は真琴の顔を今一度見つめ直し、腕を動かして鈴を鳴らす。
真琴も同じように腕を軽く動かして鈴を鳴らせると、二人は見つめ合ってお互いに微笑み合う。
その時、目が眩むような茜色の夕陽が車内に差し込み、真琴の姿がその中へ溶け込んだ。
「……」
祐一は笑顔を強張らせて言葉を失った。
真琴の見事な橙色の髪の毛が、まるで本物の狐の毛並みに思え、美しさの中に何処か儚げな雰囲気を感じ取った。
そして夕陽を背にして自分を見つめるその視線が、何処か記憶の奥底に存在する何かをこじ開けようとしている。
――傷ついた狐を保護し、傷の癒えた後で野に放ったのはいつだったろうか?
――その時、草むらからいつまでもじっと自分を見つめていた一対の瞳が、今の目の前に居る少女のそれと重なって見えるのは気のせいだろうか?
そう自問すると、祐一は彼女が遠い存在に思え、慌てて頭を振って自らの考えを否定した。
だがそれでもぬぐい去れない言いようのない不安に、祐一はその身を震わせ、真琴の身体を抱き寄せる。
「ご、御主人様?」
突然の事に驚きの声を上げる真琴。
「真琴っ! お前は真琴だよな? 何処にも行かないよな? 俺の傍に居るよな?」
矢次に言葉を投げかける祐一に、真琴は暫く黙ってから――
「はい。私は御主人様の元に居て、そして御主人様に仕えます。それが私の存在意義ですから」
真琴が血縁詐欺であろうと、もしくは別の何者であろうと、今こうして共に生きている事実は変わらない。
虚構が暴かれた今なお、彼女が未だに「狐」であり「祐一への恩返し」だと称するのは、それが彼女を相沢の家族として迎え入れる為の便宜上の建前に過ぎないだろう。
暫く無言のまま抱きしめ合う二人に、多美子と住井は見て見ぬ振りを決め込んだのか、特に何も口を挟むことなく、そのままの状態にさせた。
住井はともかくとして、多美子が文句を言ったり、ましてやヒステリを起こさないのは、彼女自身が真琴という存在を一応は受け入れた事に他ならない。
誰も口を開かない車内は、エンジン音以外には時折鈴の音だけが響くだけで、しばらくの間静かな時が流れていた。
「ん?」
静寂を破り住井が呟くと、ハンドルを握る手を一つにして、余った手をあてがいイヤホンを耳に押し付けた。
イヤホンのコードを辿ると、ダッシュボードに取り付けられた無線機へとのびており、住井は真剣な表情で内容を聞き入っている。
「……どうやらこの先に非常線が張られてるみたいですね」
この車に搭載されている無線機は非合法品であり、チャンネルは県警が使用しているバンドへと設定され、住井はその内容を傍受していた。
大洗から始まった彼等の逃亡生活は既に一ヶ月以上が経過し、その間通り過ぎた幾多の街において、先程のショッピングセンターでの行った事と似たような行為を続けていた。
相沢家が丸ごと犯罪者集団と化した原因は、甲子国が手に入れた五百万の現金を、逃亡する際に砂浜に置いてきてしまった事がきっかけだった。
だが早かれ遅かれこのような事態になることは避けられなかっただろう。
甲子国が犯した強盗事件により、彼等は家に戻る事は出来ない。
既に手配書が配られている甲子国が、以前通りに社会へ復帰する事も不可能だ。
故に家族の絆を取り戻した彼等にとって、この先も家族を続けるならば、共に逃亡生活を行う以外に道は無く、そうなれば当然資金は幾らでも必要になる。
結局彼等に残された道は、こうして包囲の網を潜り抜けつつ、行く先々で当面の食料を手に入れ続けるしかない。
こと社会的に見て、彼等は最低の存在だった。
だが彼等は立派な家族だった。
一つ屋根の下に過ごし、互いを助け合い、協力し生き抜く為の努力を怠っていなかった。
「それじゃルートを変更して頂戴。そうね……上に抜けましょう」
多美子は暫く思案した後、そう指示を出す。
住井は指示に従い車を交差点で右折させて、進路を変更し北へと向けた。
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陽が落ちてすっかりと夜の闇が周囲を包んだ頃、祐一達を乗せた車は国道138号線を一路北へと進んでいた。
周囲の景色から住居の明かりが久しいものとなり、やがてそれらは全く見えなくなった。
その後も暫くは国道の両側は森林が広がるだけで、見回してもただ闇が広がるばかりだったが、やがてBe−1のヘッドライトが道沿いに一軒の建物を照らし出した。
「彼処に停めて頂戴」
その建物に気が付いた多美子が素早く指示を出すと、住井は車をその建物の敷地へと乗り入れて停車させる。
車のドアを開けて降り立った祐一達の耳に届くのは、虫達の鳴き声だけであり、目の前の建物からも明かりは見られず、完全に無人状態である事が伺い知れた。
「こりゃ、廃業したドライブインか何かでしょうね」
住井が呟きながらエンジンを止めキーを抜くと外に出た。
(それでもなお、エンジンが回っているのは、ターボタイマーが搭載されているからだろう)
月明かりに照らし出されている建物には、有名なコーヒーと清涼飲料水メーカーの看板がうっすらと残っており、この建物が住井が言う通り以前は飲食店を営んでいた事を裏付ける。
正面の扉は板で打ち付けられているが、窓ガラスは何処も割られた形跡もなく、壁も多少塗装が剥げている以外は不備がある所は見あたらなかった。
これら外装の痛み具合から察するに、閉鎖されてからまだ日が浅いものと思われる。
「手頃なところだと思わない?」
「野宿よりずっとマシだな。よっし今晩は此処に泊まろうぜ」
建物を見上げて多美子が言うと、祐一が仕方ないといった表情で応じ、車内からバールを取り出して扉に打ち付けられた板を剥がしにかかった。
「あの……」
祐一の行動を黙って見守る多美子に、真琴が声を掛ける。
「何?」
「旦那様を……」
おずおずと答える真琴の言葉に、多美子は「ああ……」と短く答えてから――
「そうね、出して上げてちょうだい」
と続けた。
真琴は元気よく「はいっ」と頷くと、住井から放り投げられたキーをキャッチして、小走りに車へと向かった。
――ガチャ。
鍵を回しトランクルームを開くと、その中には身を丸めた甲子国の姿があった。
指名手配されている甲子国は、顔をさらけ出す事が出来ない為、普段はこうして車のトランクルームに居る。
ペンライトと食料や飲み物、そして雑誌や携帯ゲーム機などを与えられてトランクへと押し込まれている甲子国に、家長としての尊厳は全く無い。
今の彼は家族を守り支える大黒柱ではなく、家族に守られる存在でしかなかった。
「旦那様、お身体は大丈夫ですか? お手をどうぞ」
しかしそんな甲子国に対しても、真琴は今まで同様に丁寧な態度で接している。
だからこそ、甲子国もこの家族の物語に踏みとどまって居られるのだろう。
「おぉ真琴、お前は良い子だねぇ」
さらにやつれ、そして無精髭を生やしたままの甲子国は、差し出された手を嬉しそうに取りトランクから身を起こして地面へと降り立った。
狭いトランクの中で長い時間を過ごしていた所為だろう、立ち上がった瞬間、甲子国は思わずバランスを崩し倒れかかる。
咄嗟に真琴が支えて転倒を防ぐ。
「済まないね真琴」
「いいえ」
真琴が会釈をして甲子国から離れると、彼は背筋を伸ばし、軽く身体を動かすように運動を始め、周囲の状況をあらかた見回してから多美子へと声をかけた。
「多美子」
「あらあなた、調子は如何かしら?」
特に愛情や尊敬も、しかし恨みや怒りも籠もっていない、ニュートラルな口調で多美子が振り返る。
「此処は何処だ?」
「よく判らないけど、もうすぐ山梨県ってところかしらね」
そう多美子が答えると、丁度祐一が「お〜っし開いたぞ」と声を出した。
どうやら塞いでいた板を外し、施錠されていた扉を開ける事に成功した様だった。
「寒くなってきましたし、中に入ってからにしましょう」
多美子はそう言うと、先に入った祐一に続き店内へと進み、住井もまた無言で彼女に続いた。
「ふぅ……」
「さぁ旦那様」
大きな溜め息を付いた甲子国に、真琴が寄り添いながら手を引いた。
「ああ、そうだな真琴」
甲子国は真琴に笑顔を向けると、ゆっくりと歩き出した。
「うわぁ、真っ暗だな〜」 「祐一、とにかくブレーカーを探しなさい。奥の方に有るはずよ」
「はいはいっと……おっと、これだな」
ドライブインの中を懐中電灯を点けて進んだ祐一が、その暗闇の中に配電盤を見つけ、その主幹ブレーカーを操作した。
店内の照明が蘇り、その姿を一同の元へさらけ出す。
「あら〜思ったよりも素敵なところじゃない」
店内は、多少埃が積もっている事と、殆どのテーブルや椅子が片づけられている以外は、特に問題は見あたらなかった。
壁には装飾用の絵が掛けられたままであり、壁際には古いジュークボックスまでもが放置されたままになっている。
「んじゃ、早速飯の支度でもするか。おい真琴〜っ」
「はいご主人様」
祐一は真琴に手伝うよう声をかけると、懐中電灯を消してカウンターを乗り越え、その奥へと進んでいった。
「う〜ん、流石に何もないなぁ」
程なくして厨房と思われる奥から祐一の声が聞こえてきた。
カウンターにほど近いところに、一組のテーブル席が残されており、多美子はその椅子の埃を払って腰を掛けると、脚を組んでテーブルに肘を付き――
「ちょっと〜食事の前に何か軽い飲み物もらえるかしら〜」
まるで本当の客の様な口振りで叫んだ。
「はい奥様、ただいま〜」
真琴が店員の様な口振りで応じると、先程万引きで手に入れた物を取りに、腕輪の鈴を鳴らしながら店の外へと出ていった。
小さくなって行く真琴の鈴の音をぼんやりと聞きながら、甲子国は店の中央に無言で立ち尽くしていた。
彼がこの店に入って、その奥の壁にかけられたままの絵画に気が付いてからというもの、彼はその絵に惹き付けられ、じっと見つめている。
描かれているのは、夫婦らしき男女と兄妹だろうか、男の子と女の子が一人ずつ、そしてペットらしき犬が楽しそうに食事を行っている風景だ。
無論その絵は何処の誰とも知れぬ誰か――画家なのかイラストレーターなのか、ひょっとしたらここの店員かもしれない――が描いた物であり、その絵そのもに美術的価値が無いのは一目瞭然だ。
だがその絵に描かれた何の変哲もないただの日常風景が、甲子国の心を掴んで放さなかった。
彼は導かれるように店の奥へ進み、その絵の正面で立ちつくした。
甲子国は思う。
自分が望んでいたものとは、まさにこの絵の様な、ただの日常だったはずだ――と。
彼は妻と息子と三人の家族が無事で、裕福でなくとも不自由の無い幸せな家庭を築きたかったはずだった。
だが――
現状はどうだ?
お尋ね者となりはて、家族の庇護を受けつつ逃亡生活を余儀なくされている現状はどうだ?
――壁の絵を見ながら自問すると、いつの間にか甲子国は涙を流していた。
だが、彼はその涙にも気が付かず、そのまま自分の考えを巡らせる。
「そうだ、あの日あの時……」
甲子国は周囲には聞こえぬ程小さな呟きを漏らす。
「……真琴を祐一が招き入れたあの瞬間だ。……あの時から全てが狂ったんだ」
だが、甲子国はそう判っていたとしても、真琴を手放そうとは微塵も思わなかった。
なぜなら真琴が居なければ、今の相沢家は家族として成り立たず、家族が成り立たなければ、彼が愛して止まない妻や息子は路頭に迷う事になるからだ。
「……違う」
再び呟く。
それは甲子国にとって建前だった。
本音はもっと純粋に、真琴という存在を欲していただけだ。
今でも彼を相沢甲子国として支えて居るのは、他でもない真琴の存在だ。
もし今この瞬間真琴が居なくなったらどうなる? 考えるまでもない。甲子国は家族に捨てられるだろう。
「真琴……」
彼は真琴を女としては愛していない。
それは全くの事実だった。
あくまで彼女は、彼にとって家族の一員なのだ。
自分が作りたかった、そして守りたかった家族という存在――その具現なのだ。
しかし家族を狂わせたのが真琴であり、そしてその家族に必要なのも他ならぬ真琴だという事実に、甲子国は気付いてしまった。
だがそれは余りにも遅すぎた。
甲子国は自分の愚かさと、そして唾棄すべき現状を受け入れ平然と生きている妻や息子の姿に情けなさを覚え、そしてやっと自分が涙を流している事にも気が付いた。
「うっ……ぐっ……」
やがて彼は身を震わせて、嗚咽を漏らし始めた。
「あなたどうしたの? 寒いの?」
店の奥で立ちつくしたまま震える甲子国に気が付いた多美子が、煙草を吹かしながら声を掛ける。
だが、甲子国は答えない。
そんな彼の態度を、多美子は体調の不良だと判断した。
「祐一〜、たしか三日前に万引きした毛皮のコートが有ったわよね? あれを持ってきてあげて」
「やだなぁ母さん、あれは昨日の夜に食い逃げやらかした時に、レストランに置き忘れたじゃないかよ」
「そうだったかしら? それじゃ虎の皮の敷物があったでしょ?」
「あ? 二日前に空き巣に入った家からかっぱらってきた奴?」
「済みません、あれでしたらカビが生えてましたので、私が今朝捨てさせて頂きました」
丁度車から食料品を持ち帰って来た真琴が、二人の会話に割り込む形で答える。
「捨てたって? あんな目立つ物何処に捨てたのよ? あんな派手なもの簡単に捨てて……足がついたらどうするのよっ! もうちょっと考えて行動しなさいよ」
驚き呆れた口調で多美子が真琴をたしなめるが、真琴はいつもの調子で「はい」と、悪びれた様子も見せずに返事をした。
「ったく、返事ばかり良いんだからもう……」
これこそが相沢家の現実だった。
確かに互いを支え合う家族には違いないが、甲子国の耳に届いた会話は、目の前の――文字通り――絵に描いた様な幸せ家族ではあり得ぬ家族の現状を、嫌と言うほど思い知らせた。
「そうじゃないだろ!」
甲子国は振り向き声を上げた。
「私は……私は……」
「どうしたのよ?」
言い淀む甲子国に多美子が驚いた様に問い掛けると、遂に甲子国は感情を爆発させた。
「私は情けなくて泣いているんだっ! あの大洗海水浴場を脱出してから既に一月半……あちこちを転々とする逃亡生活とは言えども、家族が一つにさえなっていればいつかは再起の日も来るかと……それだけを信じてここまで来たのに……それなのに……」
甲子国は一旦言葉を区切って、己が家族の姿を見つめる。
足を組んだまま椅子に座り、暢気に煙草を吹かしている妻に、カウンターで万引きしてきた商品を並べ、食事の支度に取りかかっている息子。そしてそんな家族の有様を見てほくそ笑んでいる探偵。
全てが甲子国の心をささくれ立たせる要因だった。
「毎日が万引き、毎日がかっぱらい、毎日が置き引き、毎日が食い逃げ……こんな生活もう沢山だっ! 今や、息子の祐一は真琴と絶妙なコンビネーションを誇る万引きのプロ……しかもお前はそんな祐一達をいさめるどころか、先頭切って悪事一直線……これが、こんな現実が泣かずにはいられるか!」
涙を隠そうともせず、甲子国は吠え続ける。
「あの時、自首さえしていればこんな事には……家族と別れたくないばかりに……いや、真琴と別れたくないばかりに……私は誤った選択をしてしまったんだ。何故、あの時この私を警察へ突き出してくれなかったんだ?
そうすれば、こんな悲惨な転落の道を歩まずに済んだんだ。それなのに……うぐっ……相沢家が私の代で泥棒一家に成り下がるなんて……両親や親戚縁者一同に顔向けが出来ない!
相沢の家を支え続けてきた御先祖様達に何と言ってお詫びをしたら良いんだ!!」
自分の感情を一気にさらけ出す甲子国だが、多美子も祐一も彼の話をまともに聞いては居なかった。
背もたれに深く寄り掛かり煙草を吹かし続けている妻の元へ甲子国は走る。
「……お、お前という女はっ! 少しは私の言う事を聞けぇっ!!」
怒号と共に甲子国は机の表面を両手で叩く。
衝撃に机の上に置いてあった、セイラムライトのパッケージとカルチェのライターが弾け飛び宙を舞い、軽い音を立てて床に落ちると、多美子はかんしゃくを起こして立ち上がった。
「喧しいっ!!」
多美子の一声に、甲子国は口を閉ざしその場で固まった。
祐一は食い物を並べていた手を休め、つまらなそうな表情でカウンターに肘を突いて事の成り行きを見守る事にした。
住井もまた壁によりかかり状況を見守っている。
皆が注目する中、多美子はゆっくりと口を開く。
「ふん……祐一はね、良くやってるわよ。正直言ってあの子にこれほどの生活力が有るとは思わなかったわ」
多美子の口から飛び出した発言の、その内容に甲子国は仰天し、身体を震わせた。
「お、お前は血を分けた実の息子が犯罪者になった事を何とも思わないのか?!」
彼の妻は息子の罪を咎めるどころか、完全に肯定してみせたのだ。
怒りに身を震わせる夫の姿に、多美子は嘲笑を浴びせ再び口を開く。
「ではそういうあなたはどうだったの? あの子が傷害事件を起こした時……あなたは一体、何処で、何をしたのかしらぁ?」
多美子の執拗に責める目線に耐えきれず、甲子国は思わず視線を逸らした。
「あ、あれは……祐一や真琴を救うために……そのやむを得ず……」
そして何とか口にした返答は、実に弱々しく説得力に欠けるものだった。
「つまり家族を守るための正当な暴力の行使だった……そう言いたいんでしょ?
それじゃ聞きますけどね、あなたがあの二人を救い出すために実行した金融機関への襲撃事件と、今こうしてあなたを守り家族の生活を守る為に、祐一が万引きや食い逃げ等の非合法手段に訴えている事と、一体何処が違うと言うのかしら?」
多美子がそう良いながらゆっくりと甲子国の元へ歩くと、彼は口ごもりながら後ずさった。
夫の惨めな姿に溜息を付く多美子は、再び椅子へと戻り腰掛けると、床に落ちた煙草とライターを手に取り、その中の一本に火を灯した。
彼女がはき出した煙が店内を漂い、その煙をぼんやりと見つめながら多美子が再び口を開く。
「それにこの際だからはっきりと言わせてもらいますけど、私は”家族の結束”と、それによって成る”家庭の存続”にこそ関心を寄せますけど、親類だの御先祖だの家系だのそんなものには全く興味はないの。
いえ、むしろそう言ったモノに関しては憎悪を抱いていると言ってもいいわね」
多美子は口元を歪めた微笑みを甲子国へと向け、そして煙草の煙を甲子国目がけて吐き出した。
「でもね……いいえ、だからこそ私は今の家族の姿には関心してるのよ。真琴に関してもね。
それに世間様からどう思われようとも、そんな事関係無いんじゃないのかしら? あなたもそうだったんでしょ? だから世間の道徳観念に背いた行為をしてまで家族を救いたかったんでしょ?」
多美子の問い掛けに、甲子国は力無く頷いて見せた。
その反応で満足したのか、多美子は笑顔を浮かべて煙草をもみ消した。
「そう。例え社会的存在としての相沢家が、法の下に犯罪者集団の烙印を捺されたとして徹底的な弾圧を受けようとも、家族全員一致団結し、世間よりの迫害に耐えて、自らを家族として自覚し続ける限り……私達の家族は正しい姿なのよ」
多美子の言葉が終わったと同時に、今まで姿を消していた真琴がトレイを片手に現れた。
「奥様、お待たせ致しました」
彼女はトレイに紅茶らしき飲み物を載せ、多美子の座るテーブルへと進む。
「あら〜素敵な衣装じゃないの」
多美子が珍しく声を弾ませて真琴に声をかける。
「有り難うございます」
テーブルにカップを置き、うやうやしくお辞儀をする真琴の衣装は、先程までの普段着とは異なり、白いブラウスに色鮮やかな黄色いフレアスカート、そして淡い黄色を基調としたエプロンに身を包んだウエイトレスの姿をしていた。
「真琴……」
そんな格好が祐一のストライクゾーンに入っていたのか、彼は思わず喉を鳴らして真琴に見入る。
「あ、ご主人様、お話が有るんです。ちょっと宜しいですか?」
空になったトレイを脇に抱えてカウンターへやって来た真琴が、惚けた表情の祐一にそっと耳打ちする。
「……あ? ……うん……なるほど」
しばらく彼女の言葉に耳を傾けていた祐一が「よぉっし」と頷くと、真琴は多美子達の方を向き、にっこりと笑って口を開いた。
「旦那様、それに奥様。今ご主人様と相談したんですが、今夜一晩、ご主人様がマスターに、そして私がウエイトレスになって皆様をおもてなしさせて頂きたいと思います」
「あら。それは良いアイディアね。楽しみにしてるわぁ」
真琴の言葉に多美子がそう応じると、真琴は「さぁ御主人様こちらです」と祐一を先導して店の奥へと姿を消した。
多美子は無言のままテーブルに置かれたカップを口に運び、店の奥へと消えてゆく二人の後ろ姿を目で追い掛けていた。
「何だか随分仲がよろしいですなぁ」
住井が壁に寄り掛かったまま感想を漏らす。
「そうね」
多美子がカップを置き、素っ気なく応じる。
「今の家族のあり方はどうあれ……」
そんな彼女の態度に何かを感じたのか、暫く黙っていた甲子国が口を開く。
「……真琴を家族の一員として迎えてくれた事には、本当に感謝している。有り難う多美子」
甲子国はそう続けると、妻に向かって微笑んでみせた。
それは実に久しぶりの事だったが、多美子は特に何の感動も覚える事はなく、むしろ自分に対して微笑みを向けられた事を心外そうな表情を浮かべた。
「別に何て事ないわ。ある日突然息子が連れてきた娘に”お母様”と呼ばれる日は来るもの……それが息子の母親の宿命でしょ?」
甲子国は多美子の言葉を聞き、やがてその意味を理解すると、表情を強ばらせた。
「……なんだと? 真琴は祐一の嫁じゃないっ! 祐一のペットで我々の娘みたいなものだ!」
妻の言葉を受け入れがたいのか、甲子国は言葉を荒げて否定した。
「あなたはまだそんな事に拘ってるの? あの娘の正体が何であろうと、今の私にとってはど〜うでも良い事よ。近い将来私に対する呼称が”奥様”から”義母様”になったところで同じ事。
あの娘を家族と認め一つ屋根の下で暮らす以上、娘だろうが、ペットだろうが私にとっては大差無いわ。
いずれ時が経てばはっきりするわよ。少なくともその時産まれてくる子は正真正銘、私達の孫。私達の家族よ」
「なっ……そ、そんな事が」
「決して無いとどうして言えるの? それに私にはやっとこの物語の本質が見えてきた様な気がするわ。
狐娘なんていう非常識な存在を受け入れたばかりに、手詰まりを重ねた私達の家族の物語の本質がね」
一旦言葉を句切り、カップの中の紅茶を飲み干すと、多美子は再び話を再開した。。
「これは報いなのよ。あなたを取り巻く現状、今感じている憤り、そして焦り、それら全てが報いなのよ。
あんな娘を家族のドラマへ連れ込み、そして受け入れた事に対する報い。
あなたも気づいているんでしょ? 全ての元凶があの娘と、あの娘を受け入れた自分にある事が。
ふふっ……この先、私達家族はどうなるのかしらねぇ。楽しみじゃない。だから私はあの娘だって受け入れるし、この家族を維持する為に法も犯す覚悟よ。それが私達家族の物語なんですからね」
多美子の言葉を聞き、甲子国は項垂れそして嗚咽した。
涙で滲む視界に、先程の家族の絵を認める。
先程とは異なり、距離が離れた所為でその内容ははっきり見る事が出来ないが、その距離と不鮮明さ自体が、理想の家族像からかけ離れた現状を連想させる。
力無く身体を震わせる夫の姿を見ながら、多美子は別段声をかける事もせずに新しい煙草を取りだし口にくわえた。
「……良いんですか? あんなハッキリ言っちゃって」
多美子の傍らへと進み、彼女がくわえた煙草にライターで火を灯しながら住井が耳元で囁く。
「……」
特に答える事なく、多美子は脚を組み直して煙草を深く吸い込み、ゆっくりとはき出した。
「ご主人?」
咽び泣く甲子国を案じてか、住井が声をかけるが、それは甲子国の心を逆撫でる事しかなかった。
「うるさいっ! 大体貴様は何故此処にいるんだ? 他人は他人らしく、人様ん家のドラマに入り込んでないでさっさと出て行け!」
甲子国は感情を他人である住井に向けて爆発させるが、住井はそれを気にかける事もない。
「他人……他人ねぇ。まぁ確かにそうかも知れませんが、全くの他人ってわけでも無い気がしますね。
しかし他人だからこそ付き合っていられる所もあるんじゃないですかね? それに私が居なければ、逃亡もままならないと思いますよ?」
「余計なお世話だ!」
「しかしですねぇ。私も『ではサヨウナラ〜』と言うわけにはいかないんですよ」
「何だと?」
甲子国の睨み付けるような視線を受け流し、住井は壁際に置かれたジュークボックスの元へと歩き始める。
「私には真実を見届ける必要があります。何でしたら義務と言っても良いでしょう。
この家族のドラマに残された真実。虚構に塗りたくられたドラマに今だ隠されているかも知れない真実をね。
それを見届けたいだけですよ。ですから、その為にもう少し付き合わせて頂きますよ」
言い終えると、ジュークボックスの電源を確かめてからスイッチを操作し、振り向き様に口元を歪めて笑ってみせた。
何だかんだ言ってこの男もまた、真琴の持つ不思議な力に魅入られていたのだろう。
雇われ探偵として真琴の素性を洗った彼は、数々の家庭に入り込んでは崩壊させてきた少女にただならぬ興味を持ち、そしてその正体がばれた後も演じ続けるこの茶番の行く末を見届けたいのだ。
店主の趣味で置かれていたと思われる古いジュークボックスが可動を始め、一枚のレコードがプレイヤーにセットされ再生が始まる。
古く懐かしい流行歌が流れ始めると、その切なげなメロディに合わせてステップを踏み、店の中央へと進む。
テーブルの席に座っていた多美子の腕を取り、彼女を誘ってダンスを始めた。
多美子は抵抗する事なく、住井の腕に抱かれたまま、一緒になって曲に合わせて軽やかにステップを踏む。
その表情は意外にも楽しげだった。
そんな光景を見て、甲子国は先程の探偵の言葉を思い出す。
『全くの他人ではない』――住井はそう甲子国に言ってのけた。
先程は、相沢家のドラマに深く介入しすぎた事を意味していると思ったが、眼前で手を取り合って踊る二人の姿を見て、甲子国はもっと直接的な意味を見出した。
(成るほどそういう事か……多美子)
甲子国は頭の中で呟くと、ゆっくりと立ち上がり、そしておぼつかない足取りでカウンターの奥へと進んで行く。
多美子と住井はそんな甲子国を気に掛ける様子も無く、曲に合わせて互いの身体を揺らしていた。
(こいつは悲劇を通り越して喜劇じゃないか。はははっ)
犯罪者にまでなって救った祐一と真琴。
その彼らもまた今や犯罪者となった現状。
妻に対する不信感。
理想と現実のギャップ。
それら全てが、甲子国の精神を寝食していった。
家族が家族である為に犯罪を犯してきたのなら、その犯罪を止めた時、家族もまた崩壊する事になるだろう。 多美子は先程『家族が家族である事を自覚する限り問題はない』という様な事を言っていたが、それは甲子国にとって楽観論だった。
幾ら逃げても、いずれは捕まる時が来る。
その時、いや、その後はどうなるか?
自分の愛すべき家族は解体され、再び家族として普通の生活を送る事など、まず不可能だろう。
相沢家は犯罪者集団として世に認知され、新聞にも『哀れな泥棒一家逮捕される』の見出しが書かれる事になるのは明白だ。
そしてワイドショーや週刊誌は、こぞって私達の家族の事を洗いざらい調べ上げ、そして天誅とばかりに報道する事になるだろう。
親類縁者や友人知人、仕事の関係者にすら、その余波は及ぶかもしれない。
その時、彼らは私達家族を恨み、決して許さないだろう。
「……全てが夢ならば良かった。だがこれは現実だ。紛れもない現実なんだ。私は……私は相沢家の家長として、この茶番を終わらせなければならない。ははははははははははははははははははっ」
甲子国の独り言は、ジュークボックスが奏でる音楽に掻き消されていた。
音楽が何処か遠い世界からの音の様に、頭の中に漠然と響く中、甲子国は結論付けた。
もう未来は閉ざされたのだ――と。
――もはや私の家族が助かる道は無い。
――そうなのであれば……
――自らの手でこの茶番の幕を降ろすしかない。
カウンターの奥にある厨房には、祐一と真琴が万引きしてきた食料品や、食器、そして簡単な調理器具が無造作に置かれている。
ゆっくりとその中へと入った甲子国は、視線をぼんやりと動かし、そしてテーブルの上に置かれた光る物――果物ナイフを手に取った。
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§ |
「こんなんで良いかな真琴?」
多少照れくさそうな声と共に、奥の小部屋から祐一が真琴の前に姿を現した。
「わぁ〜御主人様、とてもよくお似合いです」
真琴は祐一の姿を見て、心底関心した様な口振りで喜びの声を上げた。
祐一はウェイター用の黒いスラックスと、白いワイシャツ、そして黒い蝶ネクタイとベストという格好で真琴の前に立っている。
ここは店の奥の事務所らしかった場所で、更にその奥、恐らく更衣室として使用されていたであろう部屋で店のユニフォームへ着替えを済ませた祐一が戻ってきたところだ。
「そ、そうか?」
誉められて満更では無い祐一が、適当にポーズを取る。
「マスター、お早うございます」
真琴はウエイトレスに成りきった様に、祐一へ挨拶をする。
「お、おう。真琴今日も頑張ろうな」
バイトの経験もない祐一は、マスターとしてどう対応して良いのか判らず、ぎこちない挨拶を返した。
と、その時、フロアーから住井がかけた音楽が流れ始めた。
「あ……素敵な曲ですね」
真琴はウエイトレス姿のまま、曲に合わせてその場でステップを踏み始め、まるで衣装を見せつけるように一回転してみせた。
遠心力と空気抵抗を受けてふわりとスカートが舞い、健康的で綺麗な脚の太股部分が一瞬露わになる。
腕輪の鈴を鳴らしながら、笑顔で曲に合わせて踊る真琴――絵に描いたような可愛らしいウエイトレス姿の真琴に、祐一は声を失い見とれていた。
真琴との出会いから、今この瞬間までの出来事が頭に浮かび、そして消えて行く。
父との微妙なパワーバランスで成り立っていた新居での生活。
彼女をモノにせんと画策していた同棲時代。
自分の物語を見いだせなくなった奴隷労働時代。
かつての夢である、波瀾万丈な日々の中。
いつも彼女が側に居て、彼女の笑顔に励まされて来た。
例えそれが詐欺師の笑顔であったとしても、その笑顔に惹かれた事実は紛れもない。
そう、祐一は真琴を愛していたのだ。
単なる肉欲の対象としてではなく、沢渡真琴という少女を愛していたのだ。
そして今、邪魔者は居ない。
「……」
黙ったまま自分を見つめる祐一の視線に気が付いたのか、真琴は踊る事を止め祐一へと近付いた。
「あの……御主人様?」
そっと近づいた真琴の手を素早く掴むと、祐一は最後の夢を実現させる為、その身を引き寄せた。
「あっ」
真琴が何かを言うよりも早く、祐一は彼女の唇に自分のそれを押し付け、貪るような激しいキスをした。
多少の抵抗を見せていた真琴の腕からやがて力が抜け、彼女の腕が祐一の背後へと回される。
「好きだ真琴」
祐一は一瞬だけ口を放して、興奮と混乱に満ちた早い口調で捲し立て、言い終わると同時に再び真琴の唇に吸い付いた。
その際、祐一は薄目を開けて真琴の表情を伺い見る。
彼女の目はしっかりと閉じられており、赤く染めた頬を祐一に押し付けて、一心不乱に祐一の唇に己のそれを重ねていた。
眼前で展開されるは、一七年間という人生を経て遂に辿り着いた異性との触れ合いの光景。
男なら誰しもが夢見る初体験の瞬間、祐一の思考はある一点を除き完全に停止した。
彼が一般的な生活を送っていたごく普通の少年であれば、ここで満足も出来ただろうし、また満足出来なかったとしても理性によって抑止力が働いた事だろう。
だが、真琴と共に暮らし初めて半年間、ひたすら抑え込まれていた欲望のマグマは、ここ一月家族が常に一緒であった事から自ら処理を行う事も許されない、そんな拷問にも似た状況で更に圧縮され、健康な少年の精神的臨界点を越えた高圧縮の欲望となって、理性という名の堤防をぶち破り大噴火を起こした。
唯一頭に残った本能からの指令により、祐一はより激しく真琴を求め、その舌を真琴の口内へと差しのばす。
唇を割って侵入してきた祐一の舌に、真琴は歯を閉じて再び多少の抵抗を見せたが、やがて観念したのか、力を抜き祐一の舌を受け入れると、自らの舌を絡め始めた。
熱病に犯された様な荒い息づかいで、お互いの舌を味わい唾液を交換する。
真琴の身体は震えだし、そして時折吐息交じりの小さな声を出し始める。
初めて耳にする真琴の嬌声に、祐一は彼女を抱きしめていた手の片方を彼女の胸の上に置き、乱暴な手つきで服の下にある、さほど大きくはない胸の膨らみを揉みしだく。
「……っはぁ。ご、御主人様っ駄目です。これ以上は駄目です!」
慌てて口を放し、息も絶え絶えに真琴は懇願するが、その口調や仕草では祐一の征服欲を助長させるだけだった。
祐一は力任せに一気にブラウスを左右に引き裂いた。
ボタンが宙を舞い、露わになった白い肌に祐一は迷わず舌を這わせていった。。
「ひっ……だ、駄目です。本当に駄目なんです……これ以上されたら私……私……」
弱々しい真琴の言葉は、理性が決壊している祐一の耳には届かず、必至の抵抗も空しくその身体は彼の舌に蹂躙されて行く。
首筋から鎖骨、胸元と進む祐一の舌が、やがて白い清楚なブラの上へと達する。
そして目標を覆い隠す邪魔な布の塊に手を伸ばした瞬間――
「きゃぁぁぁっ! あ、あなた何をっ!」
多美子の悲鳴がフロアに響いた。
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§ |
突然の悲鳴に、祐一は真琴を放りだして事務所からフロアへと飛び出した。
フロアには三人の姿が有った。
そこまでは先程祐一が見たままの状態だが、状態は大きく異なっている。
まず一人――探偵の住井が床に倒れており、その周囲は爆ぜたビール瓶の破片が散乱しており、そしてその奥、壁際で母多美子が腰を抜かして、父の甲子国に追いつめられていた。
しかも甲子国の手の近くで、照明を反射させてキラキラと光る物が見える。
祐一は最初それが何か判らなかったが、母親の元へと駆け寄る途中で、自分が厨房に置いたままにしていた果物ナイフだという事を理解し、その場で立ち止まった。
「父さん!」
先程までの高揚感や興奮は一気に冷め、祐一は事の原因であり自分の父親である男の名を叫んだ。
「祐一……」
甲子国は祐一の声に反応し、その場で動きを止めた。
壁に背を当て蹲っている多美子と、フロアの中心で立ち止まった祐一のほぼ中間――足下に住井が倒れているその直ぐ傍らで、甲子国は立ち止まったまま、ゆっくりと肩を上下させている。
「どうしたっていうんだよっ! 何やってるんだよっ!」
祐一の叫びに甲子国はアンデッドの様なスローモーな動作で顔を向け、そして瞬きをしない目を向けた。
「祐一、あの人を、お父さんを何とかしてぇっ!」
多美子の叫びを受け、甲子国がもう一度口を開き瞬きもせずに祐一の名を呟く。
「祐一……」
本当に目の前に自分の息子が居る事に気が付いているのかも判らぬような、そんな口振りだった。
「父さん?」
祐一は自分の父親が今までとは完全に変わってしまった事に気が付き、恐る恐る声をかける。
「祐一……真琴……多美子……私と……」
震える声でゆっくりと家族の名前を呼び始めた甲子国は、そこで一旦区切り、そして深く呼吸をしてから続きを叫んだ。
「私と一緒に死んでくれっ!」
一家無理心中――それこそが、限界を迎えた甲子国の精神が選び抜いた選択だった。
ナイフを持つ手が震え、照明の光を小刻みに反射させる。
やがてその手を掲げると、多美子の方を振り向いて再び歩き出した。
「ひっ、ひぃ止めてあなたっ!」
怯えながら手を必至に振って夫へ制止を呼び掛ける多美子に、一家を牛耳っていた頃の姿は見られない。
「大丈夫だ多美子。今度こそ我々はやり直せるんだ。ははははっ」
狂った笑いを浮かべながら、甲子国が壁際で泣き叫ぶ多美子へと近付いて行く。
これは夢か? ――祐一は目の前の展開をなかなか受け入れる事が出来なかった。
確かに家族は問題を抱えていたし、共に生活を続けてはいたものの、内心で互いを憎しみ合っていた部分もあっただろう。
だが、それでも自分たちは家族なんだ――
だから何とかなる――あの大洗海水浴場での再会以来、そう思っていた。
しかし今彼の目の前で展開している状況こそが現実だった。
(何でだよっ! 真琴も一緒になって……俺達はこれからじゃないのかよ! これから本当の家族になるんじゃないかよ!)
目の前の現実に、祐一は怒りが込み上げて来るのを感じ取った。
喉を鳴らして両方の拳を握りしめると、祐一はその場で叫んだ。
「父さんっ!」
祐一の言葉に、再び甲子国が立ち止まる。
「何だ祐一。父さんは今忙しいんだ……」
振り向きもせずに甲子国は応じた。
「そんなに死にたいなら、父さん一人で死んでくれっ!」
祐一がもう一度叫ぶと、甲子国が口元を歪ませて振り返る。
眼鏡が照明を受けて光り、その中を伺う事は出来ないが、恐らく怒りの篭もった目をしているだろうと予想できた。
「祐一……父さんのやる事に文句を言うのか? お前は優しい子だったのに……父親に反抗するのか?」
甲子国は目標を祐一へと改め、何か呟きながらゆっくりと歩き始めた。
その言動から、彼から正気が失われているのは明らかだった。
ならば何を言っても無駄だろうし、仮にこの場から自分が逃げれば、後ろの部屋に残っている真琴に被害が及ぶのは間違いない――祐一はそう判断し、そして決断した。
そう落ち着き払ってそう考える事が出来たのは、ひとえに過去の美汐との戦いや、逃亡生活での波乱に満ちた生活で、祐一の精神力が逞しくなっていた事が原因だろう。
祐一は唾を飲み込み、更に深呼吸を行って気を落ち着かせると、ナイフを持ってふらふらと近付いて来る甲子国へ向けて言い放った。
「父さん! そんなに俺を殺したいならそうすれば良い」
壁際で腰を抜かしたままの多美子が驚きの表情を浮かべる中、祐一は意を決して一歩を踏み出した。
「……だが、その前に一言だけ言っておきたい事がある!」
更に数歩近づき、彼我の距離が二メートルほどになったところで歩みを止めた。
「何だ?」
甲子国もまた、祐一の言葉を聞きその場で立ち止まった。
僅かな距離を挟んで対峙する父と子。
それはあの日――真琴が相沢家のマンションを訪れたあの瞬間に酷似していた。
だが、当時と異なり、甲子国の手に握られているのはより攻撃的なアイテムであり、祐一は何一つ手にはしていなかった。
祐一は激しくなる鼓動と、身体中の細胞から発せられる撤退の意見具申を根性で押さえつけ、その場に踏みとどまった。
「俺は……俺は父さん、あんたを……」
そこまで言葉を進め、祐一は咄嗟に言葉を止め、そして何か信じられない物を見たような表情を浮かべ――
「あっ……」
――と呟いた。
甲子国の視線が祐一に釣られて逸れた瞬間、祐一は父親に一気に躍りかかり、そしてその鳩尾目がけて拳を叩き付けた。
だが、祐一の動きに連動して鳴り響いた鈴の音に、甲子国は咄嗟に視線を戻し、飛びかかってきた息子目がけて手にしたナイフを突き出した。
母親が見守る中、息子の腕と、父親の腕が交差した。
「くぅっ!」
「がはっ!」
「あなた! 祐一っ!」
小さく悲鳴を上げ膝から崩れ落ちる二人の姿に、多美子が叫び声を上げる。
甲子国の手からナイフが滑り落ち、音を立てて床の上に落下すると、次いで甲子国自身が白目を剥いて床に倒れ込んだ。
「……っ」
腕からを斬りつけられた祐一だったが、その拳は痛みに耐えながら甲子国の鳩尾を的確に捉え、彼を昏倒させる事に成功した。
だが、斬りつけられた場所からは血が流れ出し、そしてその痛みに顔をしかめると、祐一もまた鈴を鳴らしてその場に倒れ込んだ。
出血によるショックから祐一は気を失い、傷ついた腕からは血が流れ出し次第に周囲を染め始めた。
「祐一大丈夫なのっ?! あなたも何て事をっ!」
這うようにして駆け寄い、半ば錯乱気味に叫ぶ多美子の背中で、ドライブインの正面ドアが開いた音が響く。
「え?」
振り向いた多美子が何か言葉を発するよりも早く、飛んできた何かが彼女の身体に巻き付き、次の瞬間流れてきた高圧電流が彼女の意識を奪い去った。
ドサリと音を立ててその場で倒れる多美子。
入り口に立った影が無言でフロアを見渡すと、四人の男女が埃の積もった床に倒れているのが見えた。
やがてその影が揺らめき、照明の当たる場所へと進むと、その姿がはっきりと浮かび上がる。
「ふぅ……本当にお馬鹿さん達ね」
影が声を漏らす。
「……さぁ、もう良いわよ。出ていらっしゃい」
店内の奥へと声を投げかけると、事務所の扉がキィと小さな音を立て、次いで鈴の音と共に真琴が顔を覗かせる。
「……美汐」
真琴は店内に立つ黒い女の名を呟き、そしてそっと姿を現した。
着替えたらしく、衣装は普段のミニスカートとデニムジャケットで、手には先程まて着用していたエプロンを抱いている。
「さて……これでこの家族の物語もお終いかしら?」
ハンターデバイスのワイヤーアンカーを巻き戻しながら、美汐が真琴に尋ねる。
真琴は答えず、倒れる四人の中に負傷して血を流し続けている祐一の姿を見つけると、咄嗟に走り寄ってエプロンを引き裂き包帯の様に患部に宛った。
「それで、どうするの?」
答えない真琴に、美汐はもう一度質問を投げかける。 「いいの……もう。いいの」
真琴はエプロンで止血を施すと、涙で潤んだ目を祐一に向け、そして愛おしそうに彼の髪の毛を撫でた。
「全部思い出しちゃったから……もう良いの」
涙に濡れた優しい笑顔で頭を撫でながら、真琴は何度か同じ言葉を呟いてから、視線を動かずに美汐へそっと質問を投げかけた。
「私……真琴は死ぬのよね?」
真琴の問い掛けに美汐は表情を曇らせ、そして間を空けてからゆっくりと頷いた。
「判らないわ。ただ沢渡真琴という人格は死ぬ事になるわね。はぁ……此処までか。……結局、貴女もこうなっちゃうのね」
美汐の力無い呟きは、果たして真琴の耳には届いていたのだろうか。
床に倒れて動かぬ四人と、そして主人の傍らで座り彼の頭を撫でる真琴を見て、美汐は思う。
今の自分を決定付けた出会い――彼との出会いと、そして真琴との出会いを。
(私が初めて彼と出会ったのはいつだっただろうか?)
美汐は目を閉じて思い出してみる。
(私は――そう、まだ子供の頃、故郷で傷ついた狐を助けたんだ)
しかしその狐は普通じゃなかった。
(狐を野に返して数年後、一人の記憶喪失だと言う少年が彼女の眼前に現れ、そしてその少年を家で保護する事になった。
少年は礼儀正しく、家事をせっせとこなし、直ぐに家族の誰からも好かれる様になった。
そして自分を運命の人だと公言し、如何なる時も付きまとう様になった。
最初は疎ましく思っていたが、やがてその少年の事を少なからず想うようになり、やがてそれは恋愛感情にまで発展し、実際に彼と想いを通わせた。
しかしその直後から、彼の記憶喪失は悪化を辿り、次第に全てを忘れていった。
道具の使い方、家族の事、そして言葉さえも。
やがて高熱を出し魘され始め、看病の甲斐無く、彼はそのまま二度と目を覚まさなかった。
そして私は知った。
彼が人間で無い事に。
自分が愛した者が人間では無かった衝撃と、愛する者が死に往く様を見せつけられた事にショックを隠せなかった。
あれほど彼を可愛がった家族は、少年を化け物と呼び、彼の変わり果てた亡骸を山中へと投棄した。
その事で仲が良かった家族もバラバラとなり、私は高校を卒業と同時に上京して一人暮らしを始め、彼らに関する情報をひたすら集める様になった。
そして同じ経験をした人を何人も訪ね、彼らを取り締まる存在――魔物ハンターの事をも知るに及んだ。
私は彼らの様な存在を認めたかった。
太古の昔より「忌まわしきモノ」と呼ばれた彼らが、ただ人や家族の温もりを求めているだけだという事を判ってあげたかった。
だからこそ、彼らと関わった人々の悲しみを最小限に抑えるため、ハンターになった。
私の味わった悲しみと、私の家族を襲った悲劇を繰り返させない為に。
巡り会う彼らの同族達に、消して人を愛してはいけないと教え続け、それでも駄目な場合は、心を鬼にして互いの愛情が強くなる前に追い払った。
そんな中、私は真琴に出会った。
決して少なくない彼らに出会ったが、真琴はその中でも特別好奇心が旺盛で、かつ人の心を掴む術に長けていた。
余程悪戯好きで人懐こい狐だったのだろう。
その時、彼女はごく普通の民家へと入り込み、その家の養女として迎え入れられていた。
普通、彼らは自分たちが住まう同じ土地の中で人々の生活へと浸透して行くものだが、彼女は地元の者では無かった。
彼女は漠然とした想いを頼りに、自分の命の恩人を追い、その行く先々で似た雰囲気の人を捜して居るのだという。
私は驚いた。
そして、それほど強い情を覚えた者が迎えるであろう末路を危惧して警告をした。
だが彼女は止めなかった。
何度止めても恩人を捜す事を止めず、彼が覚えている恩人の感覚を求めて南進し、行く先々で似た家族に入り込んでは、その家の暖かさに身を投じ、その暖かみを根こそぎ吸収していった。
そのたび、私は彼女の前に現れ、その家庭から真琴を解き放った。
だが彼女は無意識にその卓越した人心掌握術を用いて、僅か数日でその家々に溶け込んでしまい、私が追いつく頃にはいつも手遅れだった。
そんな事を繰り返しておきながら、今まで捕まえなかった事を考えると、あの探偵に「共犯者」呼ばわりされても仕方ないだろう。
事実、私はあの子を助けたかったのだから。
そして今回、十年の歳月をかけ、遂に彼女は本物の恩人に辿り着いた。
その途上で彼女の優しさに触れた家族は、その優しさ故に崩壊していったのを私は知っていた。
あの探偵が調べた事例がほんの一部に過ぎない事も私は知っていた。
それでも尚、十年の歳月を経て辿り着いた以上は、その夢を少しでも叶えさせてやりたいと思っていた。
二人の関係が今以上進まぬように、あの寂れた海水浴場に保護したのも、そういう一心からだった。
彼女が望む家族を集める為、あの幕張に在った相沢家の新居ポストに、彼女達の存在を伝える手紙を投函したのも、他ならぬ私だった。
だが事態は思わぬ方向へと転がり、この家族は転落の道を歩んでしまった。
彼女を保護したいと考える私にとって、これは認めたくはない事だが、彼女は――彼女達は、その無邪気さ故に家庭を破壊する疫病神なのだ。
「……真琴」
美汐は彼女の名前を呟き、今なお祐一の頭を愛おしげに撫でている真琴を見つめる。
「御主人様……御主人様……私は、私の名は沢渡真琴です。貴方が助け、名を与えてくれた狐の沢渡真琴です――
彼女が持つ恩義は、全てこの名へと集約されているのだろう。
「貴方がくれた人の温もりが忘れられず、一族に伝わる禁断の術を使い此処まで辿り着きました――
それは純粋な心にして一途な願い。
「ですが、この術には制限があるんです。私が御主人様に人として愛を覚えた時、その術は解けてしまうのです――
術は解け、そして人間としての自我崩壊と肉体崩壊が始まるのだ。 だが、その事実は人化の術を行った瞬間、記憶の奥底に封印されてしまう。
「だから私は御主人様のペットとして、御主人様と御主人様の家族に尽くし、その家庭に人の温もりを求めました――
出来るだけ長く共に居たいからこそ、一線を越える事は叶わない。
「私が此処に辿り着くまで一〇年かかりました。ですがこの半年の間、真琴は本当に幸せでした――
だが、記憶が戻った今、術は解け、沢渡真琴としての人格は消滅する事になるだろう。
「真琴は御主人様が……御主人様の事が……大好きです」
だから愛を籠めて名を呼ぶ事すら出来なかった。
「でも最期だから……もう真琴は居なくなるから……」
気を失った祐一の頭部を、胸に抱きかかえる様にして真琴は呟く。
「だから真琴は御主人様の名を呼ぶの」
祐一の頬に真琴の涙が伝わり濡らして行く中、彼女はじっと祐一を見つめ――
「祐一さん祐一さ……祐一ぃ」
真琴は小さく、しかしはっきりと彼の名を呟いた。
何度も何度も自分の恩人であり、想い人の名を呼び続け、やがて真琴はその頭部をそっと床に横たえると、羽織っていたデニムジャケットのポケットから、夕方に貰ったプリント倶楽部のシートを取りだした。
「……」
流れる涙をそのままに真琴はシートから一枚のシールを剥がし、そして祐一の腕に撒いたエプロンに貼り付け、そして泣きながら微笑んだ。
「……済んだかしら?」
美汐の問い掛けに、真琴は無言で頷き立ち上がると、腕輪の鈴が寂しげな音を奏でた。
やがて彼女がこうして立ち上がる事も出来なくなる事を美汐は知っている。
真琴が祐一に対して愛を覚えなければ、美汐はこの場も真琴達を脱出させる事に手を貸したかもしれない。
彼らが警察に捕まるその日まで、真琴に家族の温もりを味わらせてやりたかった。
それが自分の職務に反する行為だと知っていても、美汐は真琴の夢を叶えさせてやりたかった。
だが全ては手遅れであり、美汐が彼女の為にしてやれる事は、速やかにこの場から連れて帰ってやる事だけとなった。
変わり果てた姿を、彼女が愛する少年に見せないよう、彼等が気を失っている間に連れて行くのだ。
深い悲しみを漂わせながら、美汐は真琴の正面に立ち、ゆっくりと口を開いた。
「私は対人外狩猟者第三五号天野美汐です。沢渡真琴、貴女を不純人獣間交遊の現行犯により捕縛します」
美汐の凛とした声が、荒れ果てたドライブインの中で静かに響き――
”ちりーん”
まるで返事をするかのように、真琴の腕輪の鈴が鳴り響いた。
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続く> |