八月が過ぎ去り、九月も間もなく終わろうとしている頃になっても関東では暑い日が続いていた。
 この日は真夏日と呼べる程までに気温も上昇しており、セミ共も「まだまだ俺達の季節は終わらない〜っ。俺様の魂の叫びを聞けぇ!」とばかりに電信柱や街路樹、そして建物の壁面などに取り付いては、大ボリュームで求愛の歌を奏でている。
 それでも直射日光を避けて一度日陰へと入り込めば、誰しもが夏の終わりを感じられる程には暑さも手加減気味となっている。
 しかしその男の額には、日の当たらぬ場所にたたずみながらも、うっすらと汗が滲んでいた。
 額を流れる汗の原因が暑さだけではないのは傍目にも明らかだ。
 俯き加減で立ちすくすその男は、何度も唾を飲み込もうと乾いた喉を蠢かせているし、胸に片手を添えて必至に自分の動悸をコントロールせんとあえいでいるのが、ありありと判る。
 だが既に乾いた喉から唾液が分泌される事はなく、心臓の鼓動音も鬱陶しく思える程頭の中で響き続け、治まる気配は一向に無かった。
 彼は自分が極度に緊張している事を嫌と言うほど自覚すると、汗を拭いながら天を仰ぐ。
 建物の合間の僅かな空間から嫌味なほど美しい青空が覗かせているが、男はその美しさを純粋に喜び迎え入れる事が出来ない事を悟り、すぐに視線を戻した。
 何故ならば、彼は事が終われば青空の下を堂々と歩く生活とは無縁になる事を自覚しているからだ。
 ゴミ屑や不法投棄された粗大ゴミが散乱する、この建物の合間のじめっとした僅かな空間こそが、今の自分には相応しいとさえ思っている。
 もう一度汗を拭うと、もう何日も着の身着のままの薄汚れた衣類が放つ悪臭と、自分の体臭が鼻についた。
 悪臭に顔をしかめて胸に置いた手を離し、背後の壁に立て掛けてあったゴルフクラブを握りしめる。
 グリップを握る時、手が汗ばんでいるのが判った。
 それほど緊張しているのか? ――そりゃ当然だ。
 自分自身に問いかけ、そして応じると、自然に自虐的な笑みが口元に浮かぶ。
 これ程の緊張を味わったのはいつだったか? ――そう男、相沢甲子国は自問する。
 妻、多美子に対するプロポーズを慣行した時か? それとも自分の血を分けた初めての子、祐一が誕生する直前か?
 いずれにせよ自分の人生において、重要な意味を持つ瞬間に感じたそれと大差ない緊張を味わっているという事は、今この瞬間が彼の人生に取っての岐路である事を証明している。
 であるからこそ彼は今、陽の光も射し込まぬ建物の合間にあるごく僅かな空間にて佇み、もう長い間無言で自問自答を繰り返しているのだ。
 自分が今から行おうとしている事が世間的に見て好ましい物でない事くらい、つい数週間前まで会社勤めをしていた一般的サラリーマンである甲子国に判らないはずがない。
 だが、引き返すという選択肢を採択する余地が無いのも、悲しいかな事実だった。
 既に彼の身体はルビコン川に腰まで浸かっているのだ。

 自分の置かれている立場、そして家族の置かれている立場を考えれば、もはや他に方法は無い。
 無断欠勤を何日も続けた以上、会社から自分の席が無くなっている事は明白であり、それは彼の働き口――ひいては収入源が閉ざされた事になる。
 それどころか退職金の前借りをしている以上、会社から訴えられている可能性も捨てきれない。
 もしかしたら急に姿を消した事に不審に思った親類や会社から、警察に捜索届けが出ているかもしれないが、それも今の甲子国にとっては都合が悪かった。
 そう、あの日――真琴を追って魔物ハンターを称する女が突如現れてから、全てが狂ったのだ。
 彼の心身の支えとなり、生き甲斐となった真琴を狩るべく現れた天野美汐と名乗る女。
 当然甲子国にとって、真琴をそんな素性の判らぬ女に差し出す事は出来なかった。
 祐一との共闘で撃退したものの、土壇場における祐一のまさかの謀反で全てが瓦解した。
 真琴を連れ去られ、只でさえ少なかった預金のほぼ全額をも祐一に押さえられた甲子国は、その身体の自由が戻るや否や、死んだのかどうかも判らぬ意識を失った美汐もそのままにして、あの家を飛び出した。
 それが逃避なのか、祐一を追撃する為だったのか甲子国には判らなかった。
 ただあの理想の家族を演じていた舞台が、急に彼にとって酷く居心地の悪い物へと変わった事だけは確かだった。
 ともあれ、真琴が居なくなった事で生きる糧を失い、残った借金を返済する宛もなくなり、暴行傷害、殺人未遂――いやもしかしたら殺人かも知れないが、刑事事件までも起こした甲子国に、元の平穏な生活に戻る事などもはや不可能だった。
 家を飛び出し、財布の中の僅かな財産で食いつないで数週間。
 もしかしたら真琴達が戻っているかもしれない――そう僅かな望みを胸に抱き、夢の抜け殻と化したあの家へと戻ったのは数日前だったが、彼を出迎える者は誰も居らず、ただ無人の我が家が無言で迎え入れただけだった。
 その中には彼等が打ち倒した天野美汐の姿は無く、張り込みの警察官も借金取りの姿も無く、ただあの乱闘の名残が残ったリビングが甲子国の心に重くのし掛かる。
 だがポストには、彼が資金調達に使用した金融機関からの督促状と共に、無記名の封筒が投函されており、その内容を一読した事で彼はこの度の愚行とも思える行為を決定した。
 その封筒の中には、祐一と真琴の身柄を拘束した事を伝える書面が入っていたのだった。
 かつての夢の後――荒れ果てたリビングの隅で鈍い輝きを放つメタルフェースのドライバーを手にすると、彼はその場を後にした。

 そして今、甲子国は目標を肉眼で確認できるかつ、目立たない場所で最後の心の整理をしていた。
 暑さと悪臭、そして張りつめる緊張の中、彼は目を閉じる。
 多美子――彼の妻は何処で何をしているのかは判らないが、彼女が自分を見限り家を飛び出した事はかえって好都合とも言える。
 今から自分が行う行為が、彼の家系に連なる者に悪影響を及ぼす事になるからだ。
 ならば見限って家を飛び出したという事実は、今後の彼女の人生を助ける事になるだろう。
 もはや会う事は叶わないかもしれないが、せめて心身の無事くらいは祈りたい。
 ははっ――乾いた笑いが喉から自然と沸き起こる。
 自分から見捨てておきながら、今だ彼女の身を思うという事は、心の何処かで夫婦の絆という物を信じていたのかもしれない。
 何とも虫のいい話ではないか。
 自ら否定した間柄を、相手が今でも維持し続けている事を期待しているとは。
 祐一――本当に優しい息子だった。幾度かは軋轢も有ったが、それはどの家庭にでもある事だっただろう。
 だがあの日、その優しい息子は自分を捨てて、スケープゴートに仕立て上げて逃げ出した。
 甲子国が作る家庭内で、息子という脇役を演じる事に耐えきれなくなった祐一は、彼による彼自身の物語を欲して出ていった。
 腹の底から怒りが沸き起こり、頭の中が何も考えられなくなるほど悲しかった。
 だが、そんな息子も今では甲子国自身が作った借金の形として、金融機関に拉致同然に連れて行かれた先で強制労働に従事させられている。
 我が家に戻り、投函されていたあの書面にて自分を見限った息子の惨状を知った時、甲子国の心に宿ったのは歓喜でもなければ諦観でもなく、ただ焦燥とした気分だった。
 無論それは息子に付随しているであろう真琴の安全に対する心配が色濃かったが、息子に対する哀れみや心配が同時に存在しているのも事実だった。
 真琴は当然としても、あれほど憎んだ息子であるにも関わらず、祐一を何とかして救い出さなければならないという気持ちが、甲子国の心を支配していた。
 それこそが、天野美汐が彼等に語った「血縁の限界」そのものだったのだろう。
 そして多美子が居ない今、それが出来るのは自分しかいない事もよく理解している。
 自らを呪うような自嘲を浮かべると、甲子国はもう一度深く息を吸う。
 酸素が肺を満たしたところで、脳裏に真琴の笑顔を思い浮かべてみた。
 真琴――彼女こそ、今の甲子国の全て。
 あの笑顔を取り戻す事さえできれば何でも出来る。祐一を受け入れ、再び家族としてまとめ上げる事も可能なのでは?――そう考えを巡らせてから、甲子国はゆっくりと吐き出した。
 頭の何処かで僅かに残っていた迷いが、肺の中で二酸化炭素に変換された息と共に、体外へと放出された様に幾らか楽な気分になった。
「……よし」
 もう一度自分に言い聞かせるように呟くと、甲子国は目を開く。
 ボストンバックから今の季節には不釣り合いなジャンバー取り出し羽織る。
 暫く続いた放浪生活で窶れたのだろう、以前よりもいくらか細くなった身体に、冬物のジャンバーは大きく感じられた。
 そして安物のサングラスとごく普通のマスクに軍手、そして彼が贔屓していたプロ野球チームの野球帽を装着し、確固たる決意を抱いて一歩を踏み出す。
「祐一、真琴っ……今行くぞ」
 一度決意を固めれば、先程まで葛藤していた時が信じられぬほど、自然と身体が動いた。
 目的の建物まで足早に進む。
 迷いは完全に無い。
 中身が空になった大きめのボストンバックを脇に抱え、手にしたメタルフェースのドライバーを振り上げる。
 自動ドアの開く速度が、甲子国には苛立つほどに遅く感じた。
「いらっしゃい……ひっ」
 建物に入った甲子国を客として迎え入れようとした従業員が、突然振り下ろされたドライバーの直撃を受けてその場に倒れると、彼の頭から流れ出すどす黒い血が、グレーのカーペットを染めてゆく。
 騒然とする内部において、甲子国は素早く身近な老女の襟首を掴みあげ、そのままカウンターへと引きずるように連れて行くと、あらん限り大声で怒鳴った。
「全員動くなっ!」
 矢は放たれた――というより既に相手を射抜いていた。
 これで完全に後戻りは出来ないだろう。
 やれやれ――ふと甲子国は客観的に自分をみている自分自身に気が付いた。
 自分が人生の坂道を転がり落ちる様を、冷ややかに笑っているもう一人の自分が居る。
 自分が物語の主役に返り咲くにはこれしか無いんだろ? なら精々頑張りな――頭の中に響く自分の声。
「さぁ有り金を全部このバッグに詰めるんだ。さっさとしやがれ! 家族が待ってるんだっ!!」
 甲子国はボストンバッグを受付の女性に放り投げると、大声で笑いながら恫喝の叫び声を上げた。















 紺碧の空の向こうに遠くに大きな積乱雲が見える。
 本格的な夏が終わっても、その勢いは今だ健在である事を示している。
 だが、夏の空を彩る入道雲も、その直下では大きな嵐に見舞われている事を考えれば、あまり気分が良いものではない。
 まさにそれは嵐の前触れを予感させるモノでもあるのだ。
 兎にも角にも夏らしい青空が広がるその眼下、薄汚れた黄色のBe−1が海沿いの国道五一号線を北上している。
 僅か一リッターのエンジン――日産の最安価大衆車であるK10マーチと同型のMA10型パワーユニットを、これまたマーチと同じシャーシに積んだ小型車にも関わらず、その絶頂期には売り払えば”新車のソアラが購入出来る”とまで言われた超人気車種だったBe−1だが、その外観は酷くみすぼらしい。
 持ち主のものぐさな性格が現れているのだろう、四隅あるボディの角の内、三カ所までもが何処かにぶつけたのか醜く変形しており、ボディの至る処にも大小様々な傷が走っている。
 それでもそのパワーユニットだけはしっかりとメンテナンスがされているらしく、一〇年前の車種とは思えぬ程軽快なフットワークで走っている。
 いや、むしろ軽快過ぎると言っても良いだろう。
 実際、車に詳しい者がそのエンジン音を聞けばすぐに判ると思うが、明らかに本来のSOHCエンジンとは異なるサウンドを奏でている。
 それもそのはず、実はこのBe−1は、その心臓部をマツダ製の13Bロータリーへと無理矢理換装している改造車だった。
 過給器も備え付けられており、出力は一八〇馬力ほど出るが、当然それに見合う分の脚回り強化もされており、コンパクトなボディに不釣り合いなパワーを遺憾なく発揮出来るよう取り図られている。
 ただロール剛性だけは心許ない様で、激しいコーナーが続く道路ではその限界を出し切れない事と、燃費が非常に宜しくない事を除けば良い車だ――とはオーナーである住井の弁だ。
「おっ、もうすぐですねぇ〜」
 道路標識に記された文字を見て、運転席でステアリングを握りながら、隣に座る女へ住井が言葉を投げかける。
 その口調はまるでドライブを楽しむような気軽さであり、探偵がクライアントに対する事務的な口調とは程遠い。
 口調だけではなく、彼は火のついた煙草をくわえて煙をぷかぷかと吐き出しながら、カーラジオから流れる流行歌に会わせて身体を揺らしている程だ。
 助手席に座る女――相沢多美子はそんな住井の言葉に応じる事なく、煙草の煙に嫌な素振りを見せる事も無く、ただ黙って口元に笑みを浮かべたまま「大洗海岸」の文字が書かれた道路標識を目で追った。
 ふと横に目を向ければ、強い日差しを受けた水面が静かに波打っている。
 既に大半の人間が長い休みを終えた九月の終わりという事もあって、真夏日だというのに長く続く海岸線に人の姿は殆ど見えなかった。
 この誰もいない広い海岸の何処かに彼女達の目指す場所がある。
 サングラスを掛け直して腕を組み、住井の言葉を反芻すると、多美子はその口元に不敵な笑みを浮かべて道路の先――目的地である大洗の浜辺へとその目を向ける。
 そう、もうすぐ。私を追い出したあの女ギツネを駆逐するのはもうすぐ近い未来――多美子は脳裏に浮かぶ真琴の顔を思い出し、そしてその欺瞞に塗りたくられた笑顔を剥ぎ取った瞬間、どの様な顔を見せるのかを思い描き、軽い興奮を覚えていた。
 そう言えば……あの人はどうしてるだろうか? ――ふと行方不明のままである甲子国の事を思い出し、きっと悲惨な目にあっているだろう事を考えると、哀れみにも似た感情が沸き上がる。
 自分と真琴を秤に掛け、そして自分を捨てた馬鹿な夫。
 だがそれでも、彼はまごうかたなき彼の夫なのだ。
 相沢の家と闘う為、元の相沢の家を取り戻す為、そして真琴を駆逐する為に、彼女は今日、この地を訪れた。
 確固たる決意を胸に視線を前方へ向けると、大きな積乱雲が遙か前方、フロントガラス越しに見てとれる。
 それはまるで彼女の征く道に立ちふさがる壁の様だった。
「ふっ……」
 自然と笑いが込み上げて来た。
 何を恐れるものがあろうか。今の自分には強力な助っ人が居る。全ての証拠も抑えた。私が負ける要素は何一つ無い。――そう強く信じて、多美子は僅かに残っていた不安を払拭した。
 丁度視界には大洗のマリンタワーが見えて来た。目的地へは刻一刻近づいている。
『……に関して警視庁の発表によりますと、少年達のリーダー格だった都内に住む無職の一七歳の少年が暴行を示唆したとの事であり……』
 いつの間にか、カーラジオからはニュース番組が流れていた。
 一七歳の犯行か……祐一がこれ以上馬鹿な真似をする前に決着をつけなければ。――そう考え込む多美子の耳には、もう次のニュースを伝えるアナウンサーの声は届いていなかった。
『次のニュースです。本日正午過ぎ、千葉市内の郵便局に強盗が押し入り、局員一人に重症を負わせた上、現金を奪って現場より逃走、千葉県警が現在もなお犯人の行方を追っております。それでは続いて天気予報と交通情報です。関東地方の今夜の天気は……』 
 真夏顔負けの日差しが照りつける中、陽炎が揺らめく道路の先を目指し、二人を乗せたBe−1はロータリーサウンドを轟かせながら進んで行く。







§






 ――ざざーん。
 潮騒の音が聞こえる。
 静かな浜辺で、焼け付くような砂浜の感触を素足で感じながら目を閉じてその音に耳を傾けると、その奥底から語りかける過去の囁きが聞こえてくる様だ。
 そしてそれらの囁きに更に耳を傾けると、人生の荒波に沈んでいった悲しき家族の物語の中で、輝きを失わない幼年期の一コマ、在りし日々の家族の想い出が蘇るだろう。
 支え合う事に疲れた男女の間にも、互いの横顔に出会いの頃のときめきを見出す夕べがある様に、潮騒の囁きは家族の歴史に埋もれた、至福に満ちた夏の日の記憶を蘇らせる不思議な力を秘めているのだろうか。
 こと平均的な家族であるならば、幼少の頃に家族で海水浴へ出かける経験があっただろう。
 ――夏の日差しを受けて熱砂となった砂浜の暑さに甲高い声を上げて驚きはしゃぐ息子。
 ――虹のようにカラフルなビーチマットの上から、そんな息子に優しく声を掛けて見守る逞しき父。
 ――そして夫に柔らかな笑顔で魔法瓶の中からよく冷えた麦茶を差し出す若き母。
 やがて訪れるであろう息子の反抗、父と子の相克や反目、夫と妻の倦怠も気に掛けず、幾百、幾千、幾万――夏の日が訪れる都度に繰り返され、その翌年の夏も、そしてそのまた翌年の夏も繰り返される家族にとって至福の光景は、輝かしき想い出として記憶に残す。
 ――ざざーん。
 波が寄せると同時に封印されていた記憶が蘇り、そして波が引くと同時にその家族の笑顔が色あせてゆく。
 在りし日の記憶が寄せては返す追憶の浜辺。
 家族が家族で在った日の光景が蘇る伝説の浜辺。
 茨城県西部のほぼ中央に位置する大洗海水浴場とはそういった場所だった。


 陽炎の中から姿を現した茨城交通の路線バスが、その大洗海水浴場前の停留所に停車すると、一人の男が車内よりアスファルトへ降り立った。
 シーズンが過ぎた今頃この地を訪れる者は珍しいのか、その場でバスを降りた者はその男一人だけだった。
 だが、その男も明らかに観光が目当てで無い事は、その格好と表情、そして男が醸し出す雰囲気が物語っている。
 季節はずれのジャンバーに、日本ハムファイターズの野球帽、そして似合っているとは言い難いサングラス。
 だらしなく伸びた髭と、手入れがされていない頭髪、そしてその窶れ気味の頬が、彼の生活が平穏とはほど遠い場所にある事を物語っている。
 サングラスではっきりとは伺えないものの、その顔には苦悶の表情と、何かを決意したような物が見て取れる。
 男は脇に抱えていた重そうなボストンバッグの表面を、まるで気合を篭めるかのように平手で叩くと、肩に担いで炎天下の下、海岸へと向かって歩き始めた。
 目的地へと向かう道中、耳に届く波の音に、彼の脳裏に古い記憶が蘇る。
 それは幼い息子と、まだ若い妻を連れこの地を訪れた時の事。
 あの時、誰がこのような未来を想像しえたであろうか?
 息子は当時の記憶を片隅にでも残して居るのだろうか?
 ――そんな感慨に耽りつつ、男は熱砂を踏みしめて、在りし日の家族の記憶が残る想い出の浜辺を進んでゆく。






§







 
 真夏の勢いをそのまま残した様な強い日差しが大洗の浜辺に降り注いでいる。
 しかしその広い砂浜に人の姿は殆ど見ることは出来ない。
 本格的なシーズンが終わりを迎えた事が大きな原因だが、それと同時に大量発生したクラゲが我が物顔で周囲の海域を遊弋している事もまたその原因だった。
 浜辺もまた夏の日が終わった事を物語るかのように、多くのゴミが打ち捨てられている。
 夏の海岸を彩っていた数々の浜茶屋もその殆どが店を畳み、移動式シャワーや便所も撤去されている中、一軒の小汚い浜茶屋だけが今も尚この浜辺に軒を構えていた。
 角材とベニヤ板、そしてトタン屋根にすだれだけで作られた、非常に簡易的な構造の建物だ。
 小さなディーゼル発電器が有るのだろう。
 裏手からは車のエンジン音に似たけたたましい音が風に乗って聞こえてくる。
 建物の頂きに世界的に有名な清涼飲料水の赤い看板をでっかく掲げたその浜茶屋の軒先には、「おでん」「ラーメン」「氷」といったのぼりが風に揺られており、全方位をすだれで囲まれ年季の入った扇風機が回っている店内はとても涼しげで、隅に置かれた古いラジオからはノイズ交じりの流行歌が流れている。
 もっともその店内に客の姿は見せず、如何にも手持ちぶさたな風の若い店員が軒先でしゃがみこみ、忌々しそうな表情のまま団扇を扇いでいる。
 彼の目の前には七輪が置かれて、その金網の上にはトウモロコシが数本転がっており、炭火にあぶられ香ばしい香りを放っている。
 欠伸をしながら如何にも面倒くさげな仕草で団扇を扇いでいるが、その風は全て自分に向けられており、七輪の上で特定の面をひたすらあぶられ続けているトウモロコシから発せられていた香ばしい臭いが、焦げ臭いそれへと変わってゆく。
 それでも男はトウモロコシに手を伸ばすこともせず、この世の有りとあらゆる物に興味を失せたかのような態度で、団扇を扇ぎ自分に対して風を送っているだけだった。
 そんな世捨て人の様な男の耳に、少し離れた場所から声が掛けられる。
「御主人様〜」
 男――相沢祐一はその声を聞くと急激に活力が戻ったのか、目を見開き立ち上がり周囲に目を向ける。
「真琴〜〜っ!」
 視界に目標を捕らえた祐一は、立ち上がり飛び上がる勢いで両手足を振る程の盛大な身振りで真琴の声に応じ始める。
”ちりんちりん”
 と同時に鈴の音が周囲に響いた。
 手にしていた団扇を放り出し、遠くの波打ち際ではしゃぐ水着姿の真琴にむけて、両手で盛大に投げキッスを送る。
「真琴〜〜〜〜っ!」
 半ば病的な反応を示す祐一だったが、大きくジャンプした時に突如姿勢を崩しその身体を砂浜へと横たえる。
「おわっ熱っ!」
 ピークを過ぎたとは言え、まだ容赦なく照りつける太陽によって熱せられた砂の熱さに、今度は飛び跳ねる様に起きあがる。
”ちりんちりんちりんちりん”
 同時に鈴の音も激しく鳴り響いた。
 しかし再びすぐに姿勢を崩すと、盛大に尻餅をつく。
「痛っつつつつつっ」
 尻餅をついたままの祐一が、顔についた砂を手で振り払うと、彼の首筋から鈴の音が鳴り響く。
 見れば彼の首には、大型犬に取り付けるような大きめの首輪が巻かれており、その首輪には二つの鈴が備え付けられている。
 そして彼の動きに連動して、その音を響かせているのだ。
「ちょっとおバカさん!」
 浮かれ喜んでいた祐一の背後から、突如として怒号が浴びせかけられる。
 祐一はさも胸くそ悪そうに、敢えて声とは逆の方向へ首を向けて服従の意思が無い事をアピールするが、突如首を引っ張られて再び砂浜へその身体を横たえる。
「何すんだよっ!」
 首をさすりながら声の主へと顔を向ける。
「私の話を聞いてないの? トウモロコシ焦げてるわよ……売り物なんだから粗末に扱わないでもらいたいわね」
 質素な納屋の様な外観の浜茶屋から出てて開口一番祐一に怒号を浴びせたのは、倉田金融の債権回収係と称する小天野美子だった。
 アロハシャツと短パンに、サングラスという出で立ちの彼女は、眉間にしわを寄せると手にしたロープを力の限り引っ張った。
「おわっ!」
 祐一が声を上げて砂浜の上を転がり、野美子の元へと辿り着く。
「聞 こ え た の か し ら ?」
 言い聞かせるようにゆっくりと声を絞り出す野美子。
「くっ……」
 祐一はそれでもまともに返事をする事なく、ただ恨みの籠もった目を向けるだけだった。
 そんな祐一の視線を平然と受け止めると、野美子はそのまま脚を振り上げ足下で寝ころんでいる祐一の身体を蹴りつけた。
「ぐはっ!」
”ちりんちりん”
 祐一が身体を震わせ苦悶の声を上げると、それとは不釣り合いな程爽やかな鈴の音が同時に鳴り響く。 
 そんな祐一の姿を鼻で笑うと、野美子は手にしていたロープ乱雑に放り投げる。
 そのロープの片側は店の軒先にある柱へと繋がっているが、もう一方を辿って行くと祐一の首輪へと辿り着く。
 彼が先程から姿勢を崩している原因はこれにある。
 つまり彼は犬の様に浜茶屋の軒先にロープで繋がれているのだった。
 蹴られて痛む身体をさすり起きあがると、威勢を保ちつつ蹴った張本人をにらみ返す。
 だが当の本人はそんな視線を物ともせず正面から受け止めると腰に手をおき、さも見下した視線と共に口を開いた。
「貴方は本当におバカさんなのね。一人じゃ店番もろくに出来ないわけ? あの子が休憩時間に入ってる間くらい少しは真面目に働いたらどうなの?」
「へっ!」
 視線を逸らし唾を吐く。
 そんな態度に野美子は再び繭を寄せると、一度離したロープを再び手繰り寄せ一気に引っ張った。
「ぐっ!」
「いい? あなたの父親が焦げ付かせた五百万円の借金を忘れてないでしょうね? 本来ならあの小娘を風俗に叩き売ってでも返済してもらうところなのよ?」
 そう言って野美子は言葉を区切り、少し離れた波打ち際で波と戯れる真琴の姿を見つめる。
「そこをあなたが、二人で精一杯働いてせめて利子だけでも返済したいと懇願したからこそ、こうして我が社直営の浜茶屋で働かせてやってるわけ」
 再び視線を祐一に戻し、野美子はそのまま続ける。
「そこんところ忘れないで、少しは身を入れて働きなさいっ!」
 ロープを掴み祐一の動きを制限した上で、彼の肩口に蹴りを入れる。
「ぐっ!」
 サンダルの跡が残る様な激しい蹴りを受け、祐一はその傷みに顔をしかめる。
 それでも彼は彼女に対して何らかの反撃に出る事はなかった。
 柱に繋がれ動作に制限された祐一が、それなりに武術に精通しているであろう野美子に反撃する事は無謀以外の何物でもない。
 以前、繋がれたロープを使って反撃を行った事があったが、あっさりと返り討ちに合い、きっついお仕置きを受けている。
 それ以来、彼は実質的な反撃を諦め、作業に対するサボタージュと不貞不貞しい態度を示す事で反抗を行っている。
 こんな状況になっても何とかして反抗しようとする、その精神と行動力は有る意味誉められるものではあるが、結果として彼の身体は生傷が絶えない。
「……身ぃ入れろだと?」
 そして今日もまた彼は内心を隠す事もなく、恨みに満ちた口調で反論をする。
「俺が気入れて働けば客が来るのかよ?」
「何か言った?」
 諦めの悪い祐一を、野美子は小馬鹿にした表情で見つめ応じる。
「俺がしっかりと気を入れて働けば、それで客が来て何かが始まるのかよ?!」
 必要以上の大声で祐一は叫ぶ。
「この海岸を見てみろ、一体何処に客が居るんだよ? どうせこのモロコシだって後でそこいらの犬にくれてやるだけだろうが!」
 祐一の言うとおり、確かに夏の海水浴シーズンを過ぎさった今、彼等の浜茶屋がある大洗の海岸には客足が遠のいて久しい。
 広い海岸に人の姿はほとんど無く、夏休みの間に捨てられた空き缶や食い残しが所々に散乱しているだけの、夏の想い出だけが残る寂れた砂浜だった。
 だが、例え祐一の言っている事が正しくとも、彼の雇用主――飼い主は自らの飼い犬が主人に反論する事を良しとはしない。
 祐一の反論に応じる事なく、無言で彼の身体を足蹴にする。
「くっ……俺だって……好きでこんな場所でモロコシ焼いてる訳じゃないんだ。父親の借金返済というダークなイメージのハンデはあるものの、『都会を離れた海辺のリゾート地での仕事』という設定が、俺と真琴の間に新たな展開を呼び起こすだろうと信じていたんだ。 生活感の無いリゾート地でのライトでスポーティなアルバイト感覚の軽労働。仕事が終わった後はその周辺で二人で語らい、愛や信頼を深めて行く。爽やかな汗に彩られた二人の夏の日々。……そういうイメージが有ったからこそ俺はこの地へ来たんだ!
 確かに、風俗嬢とその若きヒモという耐え難き設定だけは回避できたものの、こんな裏寂れた海水浴場の犬小屋同然の小汚い浜茶屋でモロコシ焼く日々にどんな物語が可能だって言うんだ!!
 こんな苦境にまみれた最果ての地で過ぎゆくかな祐一一七歳の夏!
 そんな事が許されていいのかよっ! 俺の、俺自身の物語は何処へ行ったんだよっ!」
 今までの鬱積を晴らすように一気に捲し立てた祐一の言葉を聞いて、野美子は心底呆れた表情を浮かべ見下ろしていた。
「呆れた……まだそんな事にこだわってるの? お馬鹿なあなたに一言助言してあげるけど、未知なるモノの訪れとか新たな設定による斬新な展開に、物語の可能性を探ろうとしているあなた自身のそのひねくれた精神こそが、実は物語発展の可能性を簒奪してきたという逆説にまだ気付いていないの?
 いい? あなたが焼いたトウモロコシを犬が食べるか、それとも人間が食べるか……そんな事に意味は無いわけ。人も来ないこの荒廃とした地で誰が食べるかも判らぬトウモロコシを焼き続ける日々の中に、あなたがあなた自身の物語の可能性を見つけられないのであれば、この寂れた海岸こそがあなたの物語の終着駅って事よ。もしもこの店に客が訪れたとしても、それはあなたに新たなドラマの可能性を見出させる存在ではなく、同じロジックの反復を確認するだけの契機に過ぎないわけ」
 野美子の言葉に、祐一は少なからずショックを覚えた。
 自分の考えていた理想的なドラマの展開。
 この期に及んでも、彼は彼自身のドラマを模索し、何とかして真琴との淡い恋物語へと転換する算段を企てていた。
 だが祐一にとって何の代わり映えしない現状は、その芽を根こそぎ奪い彼に絶望を与えていた。
 しかしその原因は状況ではなく、現状から新たなドラマを見出す事が出来ない祐一本人にあるという。
「それじゃ……俺は一体何をもって、何を根拠に俺自身を演じれば良いんだよ……」
 祐一は力無く砂浜にその身を横たえたまま、呻くように言葉を絞り出した。
「簡単よ……より劇的なるモノを求めて……あなたの得意技じゃないのかしら?」
 野美子が鼻で笑いながら答えるが、その言葉は祐一の耳には届いていなかった。
 祐一が力無く顔を海に向けると、人気の途絶えた海水浴場と、その先に何処までも広がる青い海が見える。
 やがてその光景が歪み始め、祐一は自分が何時しか涙を流している事に気が付いた。
 彼は自分の置かれている立場、そしてその中で自らのドラマを模索しつつも手詰まりを迎えている情けない自分を実感していた。
 こんなはずじゃなかった。――それは、真琴と出会ってから初めての後悔だった。
 あの日、真琴がセイタカアワダチソウの様に鮮やかな黄色に身を包んで自分の眼前に現れたあの日から、祐一は自分の物語が始まった事を確信していた。
 あの欺瞞に満ちた家族を飛び出し、本当の自分が織りなすドラマティックな生活が始まると信じていた。
 だが現状はどうか? 父親の借金の肩に強制労働をさせられているという、酷く惨めなこの現状は、決して彼が望んだ物語ではない。
 そして現状において、祐一はその物語の主導権を握る事も出来ず、ただ惨めなドラマの脇役として生きる事しか出来ないでいる。
 存在意義を失った祐一は、もはや死に体同然だった。
 現状で唯一可能な事は『親の借金の肩に働く青年』という悲劇のドラマの主人公を演じるか、場末の浜茶屋で働く一店員という脇役として野美子の――もしくは甲子国の物語に付き合うかしかない。
 どちらにせよ祐一にとっては不本意だ。
 だが、それ以外のドラマの可能性が思いつかない限り、野美子の言う通りこの寂れた海岸で来るかどうかも判らぬ客の為に、トウモロコシを焼き続ける物語以上の物へ発展する事ない。
 当然その物語においては、真琴との関係が前進する事は有り得ないだろう。
 そしてそれは家族の物語を放棄し、真琴との危険な愛に突っ走った祐一にとって、彼の存在意義を失う事を意味する。
 涙で霞む視界の片隅に鮮やかな黄色が写ると同時に、野美子とは異なる柔らかな声がかけられた。
「御主人様、大丈夫ですか?」
 いつの間にか水着から普段着へと着替え終えていた真琴が、祐一の傍らに立ち、心配そうな視線を彼に向けている。
 例え祐一が首輪とロープで柱に繋がれている惨めな姿でも、彼女は以前と変わらぬ笑顔と態度で祐一に接していた。
「大丈夫だぞ。うん。真琴こそ休憩は終わりか?」
 涙で赤くなった目を見せまいと、祐一は視線を逸らしたまま、努めて平然とした口調で祐一は真琴に応じた。
「はい。お待たせいたしました」
 祐一の言葉に真琴は笑顔で頷くと、二つにまとめた彼女の髪の毛が揺れる。
 Tシャツとキュロット、そして黄色いエプロンをつけただけのラフな格好だが、それでも十分に彼女の魅力を引き出している。
「……そっか」
 腕で目を擦り深呼吸をすると、意を決して真琴の姿を正面に見据える。
 いつもと変わらぬ笑顔の真琴が佇んでいる。
「私も頑張りますので、御主人様も一生懸命働いて早くお父様達の元へ戻りましょう」
 真琴はそう祐一を元気付けると、鈴の音を鳴らしながら店の中へと入っていた。
 同じ境遇に有りながら、何故彼女はこうも明るく気丈に振る舞えるのだろうか? ――真琴の後ろ姿を見送りながら、祐一はそう頭の片隅で疑問に思う。
 確かに彼女は祐一とは異なり、首輪やロープで拘束されているわけではない。
 ただ祐一とお揃いの鈴をつけた腕輪だけが、彼女には付いているだけであり、その腕輪にしても真琴自身は「御主人様とお揃いです」と言って喜んでいる程だ。
 どうやら野美子は祐一が人質として繋ぎ止められている以上、彼女が一人逃げ出す者ではないと考えている様だった。
 それになにより彼女は祐一とは異なり、非常に働き者だった。
 客が来る来ないにせよ、浜茶屋内部の清掃から料理まで何でも笑顔でこなしているし、希に来る客も彼女の笑顔の接客態度に好感色を示している。
 逆境を物ともせぬ明るく元気な真琴の姿に、祐一の精神が安定して行く。
 自分を慕う真琴という存在がまだ手元に残っている限り、まだ何とかなるだろう。俺が主役の物語の可能性が潰えたわけじゃない。――そう信じる事で、祐一は辛い日々の中で自己を保とうとする。
 結局のところ、甲子国同様に祐一にとって最後の希望は真琴だった。
「……自分の不出来さが実感できた?」
 暫く黙っていた為にその存在を忘れていた野美子の声に、祐一は慌てて半目でそっぽを向く。
 そんな祐一の態度を見て野美子は微かに鼻で笑うと――
「ほら、トウモロコシ焦げてるわよ?」
 そう言い残して浜茶屋の中へと姿を消した。
「けっ!」
 祐一は野美子の後ろ姿に悪態をつき、砂浜に落ちていた団扇を掴むと、これ見よがしに乱雑な手つきで金網の上のトウモロコシを扇いだ。
 炭火の灰が舞い上がり、自ら巻き上げたそれを吸って祐一はむせた。
「ごほっごほっ……畜生っ何で俺がこんな目に……ん?」
 煙と灰が目に入った事で、再びぼやけた祐一の視界に、こちらへ近づいてくる男の姿が映った。
 だが自分と真琴の事以外に興味を持たぬ祐一にとって、それは注意すべき事ではなく、意識の外へと追いやると再び団扇を扇ぎ始めた。


 いくらシーズンを過ぎたとは言え、男の雰囲気はこの場には似つかわしくなかった。
 それでもその男は迷うことなく浜茶屋へと進む。
 どれだけ見た目の雰囲気がそぐわなくとも、敷居を跨げばそれは客だ。
 男の来訪に気付いた真琴は、店内でテーブルを拭いていた手を休め、お盆を片手に客の元へと走る。
 当然祐一は男を迎える素振りすら見せず、七輪の上で半ば焦げたトウモロコシをつまらなそうに転がしている。
 真琴は黄色いエプロンを靡かせ、腕輪に付いた鈴を鳴らしながら客の前に立つと、笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶をする。
 小汚い中年の男は、そんな真琴の姿を見て目を背けると、肩を震わせながら咽び泣いた。
「……あの? どうされましたか?」
 心配そうな表情と声色で真琴が尋ねると、男はくぐもった声で「大丈夫だ」と短く応じた。
 その後、店内のお品書きを眺めてから「氷レモンを一つもらおうかな」と簡潔に真琴へ注文する。
「はい。氷レモンお一つですね。かしこまりました」
 真琴はうやうやしく一礼をしてから、祐一へ向けて「御主人様、氷レモンです」と、オーダーを伝える。
「レモン一丁〜っす!」
 しかし祐一はオーダーをスルーパスした。
 途端、店内から野美子がすっ飛んで現れると、そのままの勢いで祐一の側頭部へ蹴りを叩き込んだ。
「あなたがやりなさいっ!」
 首輪に付いた鈴を激しく鳴らしながら祐一の身体は砂浜を転がって行く。
 そんな状況に客の男のこめかみがピクリと動き、バッグを支えている腕が少し震えていた。
「ご、御主人様っ! 小天様、御主人様を苛めないで下さい」
 真琴はお盆を放り出して倒れた祐一へ駆け寄り、その身体を抱き起こしながら、この店の責任者である野美子に、彼女としては珍しくキツイ表情で嘆願する。
「大丈夫だよ……真琴。氷レモンだろ? 俺が作るから待ってな」
 祐一は心配そうに顔を覗き込む真琴の肩に手をかけ、必至に作った笑顔を向けて立ち上がる。
「ふん……最初からそうすれば良いのよ」
 サングラスの奥から睨みをきかせて野美子が祐一の頭を小突く。
 野美子の存在自体を無視するかの様に、祐一は彼女を見る事もせずにズボンに付いた砂を払う。

「あっら〜素敵な所じゃない〜」

 突然、わざとらしい程に嬉々とした女の声が、割り込むように聞こえてきた。
 その場に居た一同が声のする方向へと顔を向けると、白いブラウスとスカート、そして少し派手なデザインの日傘をさした貴婦人の様な女と、そのペアとしては余りにも不釣り合いな、一見してカタギには見えない着古した黒いスーツ姿の男が浜茶屋へと近づいて来た。
「へ〜此処が大洗海水浴場なのねぇ〜。家族向け海水浴場のメッカにして、離れ離れの家族が再会を果たすという伝説がある浜辺……ここがその大洗海水浴場なのね〜」
 まるでステップを踏む様に浜茶屋を訪れた女は、周囲を見回しながら芝居がかった口調で唄うように言う。
 だが奴隷のような強制労働に従事させられ、この地を監獄だと思っている祐一としては、とても賛同できる内容ではない。
「ここが? あの〜お客さん……そりゃ間違いでしょ。ここは夏が終わりクラゲの大量発生と共に客足が途絶えたうらぶれた海水浴場、かつてこの地に集った家族達の記憶だけが寄せては返す終末の海岸ですよ?」
 過酷な現実にロマンチストにはなれない祐一は、夢見がちな通りすがりの女性に思わず反論した。
「いいえ、間違ってなんかいないわ。だってその伝説はどうやら本当の様だしね……祐一」
「え?」
 突然自分の名を呼ばれて、祐一は身を竦める。
「うふふふ……そして、そこで通りすがりの観光客を装っているのは……あなたでしょ?」
 女の言葉に、今度は先程氷レモンをオーダーした中年男の身体がピクリと反応する。
「そうよ、此処で間違いないのよ。だって全てに決着をつける為に、私はこの場を訪れたのだから……」
 女は日傘を放り投げると、サングラスに手をかけ――
「お待たせしました。あなたの妻の多美子です。あなたの母の多美子です。た・だ・い・ま……帰って参りましたっ!」
 そう大声で宣言すると、サングラスを外して不敵に笑って見せた。
 祐一は目の前の女が母親である事、そして先程店に現れた怪しげな男が父親でる事を知って驚愕の表情を浮かべると、二人を交互に見比べた。
 そんな祐一に、多美子は微笑んでみせ、甲子国は観念したかの様に帽とサングラスを外してみせた。
「母さん……父さん……」
 祐一が声を絞り出すと、真琴が現れたあの日、打ちひしがれていた時とは打って変わって自信に満ちた表情の多美子が、祐一に近づくき、そっと両手で優しく祐一の顔を包む。
「元気だった祐一?」
「母さん……」
 忘れていた母親の優しさに包まれた祐一は、感極まって涙を流した。
 絶望の淵に居た祐一にとって、優しく手をさしのべた母の姿は、正に聖母のそれだった。
「多美子……」
 そんな二人の姿を見て、中年男――甲子国が呟く。
「ふふ……祐一はともかく、あなたまで居るとは思わなかったわ。それにしても随分おやつれになったみたいね」
 咽び泣く息子の頭を撫でながら、多美子は笑みを浮かべて甲子国を見つめる。
 甲子国もまた、久しく見た妻の何処か色気の増した姿を、呆然としたまま見つめている。
 お互いを憎しみ合っていた家族が、そのどん底の状態で再会を果たし、互いの絆の強さを再確認する――それは正に家族の再会であり、感動的な光景だった。
 その間、住井は浜茶屋の柱に寄りかかり、煙草を吹かしながら興味深そうにその光景を見つめ、野美子は舌打ちしつつも、暫くは感動の対面を見守るつもりなのか、眉を寄せたまま黙って見つめ、そして真琴は――何処か冷めた表情で微動だにせず目の前の光景を、互いの身体を抱き合って喜ぶ三人をじっと見つめている。
 家族の感動的なドラマが展開する横で、あぶれた三人の役者はそれぞれ何かを思案しながら黙っていた。
 暫くそのままで時が流れ、多美子が祐一から離れて真琴に視線を向ける。
「……」
「ふん」
 無言のままの真琴に一瞥をくれると、鼻で笑ってすぐに視線を野美子へと移す。
「感動的なご対面はその辺までにしてもらいましょうか。えぇと相沢多美子さんですね? 私は……」
「倉田金融の債権回収担当で……確か、小天野美子さん……でしたっけ?」
 アロハシャツの胸ポケットから名刺を取り出し名乗ろうとした野美子を、多美子の言葉が遮る。
 胸ポケットに手を伸ばしたままの姿勢で、野美子はサングラスをもう片方の手で整えながら、ふと浜茶屋の柱に寄りかかったまま黙っていた住井へと視線を移し、そしてニヤリと口元を歪める。
「なるほど……蛇の道は蛇というわけですか。バックが付いていらっしゃる様ですね……」
 野美子の視線を受けて、住井はくわえていた煙草を指で摘むと、煙を吐き出しながらそのまま腕を軽く上げて無言のまま挨拶。
「でも忘れないでね……っと」
 視線を多美子へ戻し、野美子は小馬鹿にした様な口調で言うと共に祐一を繋ぎ止めているロープを引っ張った。
「うおっ!」
 鈴の音と共に、祐一の身体が野美子の下へ転がる。
「なら話は早いですね。お宅の息子さんはそちらのお嬢さんと合わせて、いわば人質という事でして……当然、私としては払う物さえ払って頂ければすぐにでもお返し出来るのですが」
 ロープを掴み上げ苦しみもがく祐一を見下ろしながら野美子は口を開く。
 当然、その言葉は彼の両親である多美子と甲子国へと向けられたものだ。
「そんな物払う気は更々ないわよ。それにそこの小娘の事は眼中に無いわ」
 多美子は視線を鋭くして野美子と真琴を見据えると、腕を組んだまま断固とした口調で言い切った。
「か、母さん?」
「多美子……実は、あのな?」
 驚く祐一と、何かを言いあぐねている甲子国に、多美子は「二人とも黙ってなさいっ!」と一喝し、不敵な笑みを浮かべて野美子の正面に立つ。
「でも息子は返してもらうわ。その為に……いいえ、全てに決着を付けるために、私はこの場を訪れたんですからね」
 多美子は野美子の横柄な態度に動じることなく平然とした口調で切り返し、黙ったまま固まっている真琴を今一度一瞥する。
「家を飛び出してから四ヶ月半もの間、私はただ空しく時を過ごしていたのでは無いわ。あなたと祐一の目を覚まさせて相沢の家に元の秩序を回復すべく、あの小娘の正体を暴くための努力を重ねていたのですっ! そしてその成果を持って帰ってきたからには、無軌道な展開は許しません。真実を見極め事態の収拾を図るためにも、ここからはこの私、相沢多美子が仕切ます!」
 力強く言い切ると、多美子は視線を成り行きを見守っていた住井へと向け目配せをする。
「はいはい……っと」
 多美子の合図を受け、住井はくわえていた煙草を浜茶屋の柱で擦り消しその場に捨てると、手にしていたファイルを開きつつ皆の中央へと歩み出る。
「さて、この度は相沢家の皆様並びに関係者の方々にお集まり頂き誠に恐縮でございます。あ、申し遅れましたが、私は住井と申しまして……まぁ探偵ってやつをやっております」
 簡単に自己紹介を済ませると、咳払いを一つ入れてから住井はゆっくりと話し始めた。
「それでは……相沢家の置かれている危機的現状。このような事態に陥ったその根元である沢渡真琴という少女について、私が調べ上げた事実を皆様に申し上げてましょう」
 ファイルの中から住井は一枚の古ぼけた写真を取り出し、皆の前へとかざして見せる。
「ん? この少女は……まさか真琴か?」
 写真を覗き込んだ甲子国が声を上げる。
 そこには小学生ほどの少女が一人写っている。
 橙色の綺麗な髪の毛と、白いブラウスの上、首もとで結った黄色いリボンがやけに印象深い。
 今と比べて幼い顔立ちだが、確かに今の真琴の面影が見て取れる。
 祐一は驚きに満ちた表情のまま、息を飲み込み写真に見入っている。
「え〜と今から十年前の一九八九年四月、北海道は旭川市の柏木家に同家長女の夫にして婿養子・柏木耕一の庶子を名乗る少女が現れ、同日より同居を開始しました」
 一旦区切ると住井はファイルから新しい写真を提示する。
 新しい写真には、件の柏木家の家族だろうか? 八名の家族が写っており、その中央に先の少女が、笑顔のまま行儀良く座っている。
 直ぐにもう一枚の写真を掲げると、そこには仲の良さそうな夫婦と共に、真琴らしき少女の姿が写っている。
「翌五月、少女は同家次女夫婦の養女として入籍するも、同女の処遇を巡って次女夫婦は口論の末別居……ああ、その後にこの夫婦は離婚となってますね。そして同年七月、同家三女が同女を伴い同家を出奔。この三女は現在に至るも生死不明との事です」
 ここで住井は当時のものらしい古い新聞のコピーを皆に提示する。
 伝言欄に書かれた『楓へ、何も心配ない。連絡を待つ。――千鶴』という短い文に篭められた状況は、正直気分の良い物ではない。
 十年もの昔、真琴によく似た少女がとある家庭に入り込み、その家族はその人間関係を完膚無きまでに破壊されているという事実。
 その事に声を失う祐一と甲子国に、追い打ちをかけるように住井は口を開く。
「では次です。一九九〇年の二月、肝硬変で死亡した北海道苫小牧の牧場経営者、藤田浩之四二歳の葬儀場に、同氏の庶子を名乗る少女が出現しました」
 驚きに目を見開く二人に、住井は新しい写真を提示する。
 そこには喪服を着た大勢の人々がごった返している。
 その人数の多さに生前の故人の人柄が伺えるが、残念ながら写真からは厳粛な雰囲気は伝わってこない。
 その写真から見てとれるのは、ただ混沌とした泥沼の様相だけだであり、人々が互いに何か罵り合っているその隅に、黄色いリボンで髪の毛を結った少女の頭部が小さく写っている。
「その少女の存在を巡って、喪主である妻の藤田あかりと彼女の古い友人達の間で大論争が勃発。更に牧場のスポンサーである来栖川家の当主までもが入り乱れ大混乱に発展。当の少女はそのまま現場より逃亡しその行方は現在も不明……と。尚、この牧場はスポンサーからの資金が打ち止めに合い現在は閉鎖されてますな」
 そう言って示した写真には、寂れた牧場の跡地が写されており、文字が掠れて読みづらくなった看板と、野放しで放置されて荒んだ広大な土地が悲しみを誘う。
「それじゃ次ですね。同年五月、盲腸肥大症で自宅療養中だった、青森県八戸市在住の性格俳優、国崎往人三八歳の自宅に同氏が学生時代に交際していた女性の忘れ形見と称する少女が訪問。看護中だった内縁の妻である神尾観鈴、見舞いに訪れた愛人の霧島佳乃を巻き込み激しい口論へと発展し、興奮した同氏は布団の上で脱肛し、その後四〇日間生死を彷徨う事になりました。あ、これは芸能ニュースでも取り上げられたので、ひょっとしたら知っているんじゃないでしょうかね?」
 少し笑いながら住井は当時の芸能情報誌のコピーを見せる。
 『どうした国崎往人! トンだ大失態!』という少し小馬鹿にした様な派手な見出しが踊っているが、写真に写る本人は本気で苦しそうだ。
「きりがないので以後の件に関して詳細は省きますが……まず同年八月には岩手県遠野市、次いで翌九一年には山形県天童市、翌九二年は福島県会津若松市……と、同年十月には新潟県長岡市、九三年には長野県小諸市、その後は群馬県吾妻郡、栃木県宇都宮市、埼玉県入間郡……と転々としてますが、いずれの土地でも他の家庭同様に、謎の少女を受け入れている形跡があります」
 住井は一度に数枚の写真をかざしてみせると、甲子国と祐一はそれらの中に真琴の姿を見る。
 今までの写真を順に並べて見ると、それらの中に写っている少女の顔や姿は、次第に今の真琴の容姿へと近づいている事が判る。
 それらの写真の中で微笑む少女は、紛れもなく真琴なのだ。
 二人が写真から真琴へと視線を移しても、当の本人は何も語らずただ黙ったままその場に立ち竦んでいる。
 だがその表情には焦りも、怯えも、そして怒りも見て取れない。
 それが逆に恐ろしくもあるのだが、祐一は何かを思いついた様にはっと息を飲む。
 甲子国はと言えば、未だに真琴を信じようとしているのか、身体を震わせて住井の顔を睨み付けている。
 多美子は満足そうな表情で状況を見守っており、野美子は俯き加減で黙っている。
 周囲の反応を確かめると、住井は写真や調書をファイルに戻し、咳払いをしてから再び口を開いた。
「もう判ってくださったと思いますが、この謎の少女が訪れるところ、破壊と混乱が渦を巻き、彼女を受け入れた家庭は文字通り、血で血を洗う争いの後に離婚、出奔、一家離散……と家庭崩壊を起こしております。
 つまり彼女こそは、家庭に対する純粋な悪意にそのものに他なりません。彼女の赴くところに反目と裏切りの種子を蒔き散らす家族の敵。
 家庭秩序の破壊を目論む永遠のアナーキスト……それこそがこの少女、沢渡真琴の正体ですよ」
 住井の弁を聞き終えた甲子国が、抱えていたボストンバッグをその場へ落とす。
 重そうな音を立ててバッグが砂浜に落ちると、甲子国もまた力尽きたようにその場へ跪く。
「嘘だ……でっち上げだ……陰謀だ。あの真琴が……私の可愛い真琴が……詐欺師だなんて……そんなはずない」
 砂浜に手を付き、虚ろな表情で甲子国は一人呟き始める。
「怪我をした狐を助けたという、ご子息の過去をどの様に調べたのかは判りませんが、何らかしらの手段でその情報を手に入れ、新たなターゲットとしてあなた方の家庭を選び、今回の虚構を実行に移したのでしょう」
 言い終えた住井は、懐からセブンスターのパッケージを取り出し、一本口にくわえるとそのまま火を灯した。
「嘘だ……嘘だ……」
 甲子国は何かに取り憑かれた用に同じ言葉を繰り返している。
 祐一はそんな父親を無視して、自分が思った疑問を口にした。
「ちょっと待て。もしも真琴の正体が血縁詐欺師であり、天才的家庭こましだったとするららばアイツはどうなる? この俺が直接手をかけ倒した天野美汐という女。真琴が恩を返しに来た化け狐だという事実を否定するなら、彼女が魔物ハンターだったという事実をも自動的に否定する事になるぞ?」
 祐一の言葉を聞いて、住井は煙草の煙を吐き出しつつ満足そうに頷く。
「全くその通り。人外の存在による人間界への流出を阻む為にやって来たという、天野美汐という女こそ、沢渡真琴の共犯者に他ならない。過去に受けたご恩を返す為にはるばる参上した狐などという、現実には有り得ない設定に対する疑惑を、より大げさな魔物ハンターという存在を登場させるという、もっともらしい機宜を作り上げて無化し、その虚構性の隠蔽を図るわけです。およそ信じがたい虚構を、更に信じがたい大きな虚構で覆い隠すその手段は、詐欺やペテン、いかさまの常套手段であり、虚構を演出する初歩的な手法です。それから一言付け加えておきましょうか?」
 そこで言葉を止めると、住井は黙ったまま事の推移を見守っている野美子を一瞥し、話を続ける。
「……倉田金融に照会したところ、同社に「小天野美子」なる人物は存在しないという事でした」
 住井の言葉を、野美子は一言も反論せず、悔しげに眉を歪めて聞き入っているだけだった。
 その無言の返答こそ、住井の言葉を肯定している事に他ならなかった。
 住井は野美子と名乗る女の反応に満足したのか、口元を歪めると再び口を開く。
「つまり今回の件も含め、先に私が申した全ての事例は全てはこの二人に仕組まれた茶番であるという事ですな。彼女達にとっての目的は、金品の強奪ではなく、家庭の平穏を破壊する事であるわけです。まぁ何故その様なものを目の敵にしているのかは判りませんがね」
 言い終えて、住井は煙草の煙で器用に輪っかを作りながら答えて、野美子と真琴の様子を伺う。
 今まで二人は黙ったまま一言も発していない。
 野美子には多少の焦りの様な物が見て取れるが、真琴に至っては視線を動かす事もなく、先程から半目のまま口元を少し歪めた表情のままだ。
「だが矛盾が有るぞ」
 静寂を破ったのは祐一だった。
「全てが我が家の家庭崩壊を目論んだあざとい演出であったとするならば、今この場でこうして家族が一同に会し、互いの絆の深さを再確認したこの状況は、彼女の目的に反するもとの思うが……これは明らかな矛盾だろう?」
 確かに祐一の言う通り、物理的にも心理的にもバラバラだった家族がこの地で一つにまとまったのは紛れもない事実だ。
「そいつは結果論ですよ。彼女達の筋書きに無かった私という人物が介入した。予想外のファクターの登場によってその結果が変わったに過ぎないのでしょう」
 住井が煙草をふかしながら答える。
 確かにそうかもしれない。
 多美子が探偵を雇っていた事は祐一達も知らなかった事だ。
 だが、本当にそうだろうか? ――祐一は思う。
 数々の家族を手玉に取りつつ南下してきた真琴が、次なるターゲットに選んだのがたまたま相沢家だったという話だとして、家庭を内側から崩壊させるべく突拍子もない虚構を信じ込ませた。
 そして、その虚構を盤石なものとせんと天野美汐を送り込み、更に家庭を崩壊させると同時に、祐一が強引に物語の方向をねじ曲げようとした際、天野美汐を小天野美子と名を変え再び登場させて物語の軌道修正を行ったのだろうか?
 最初に排除した多美子を除いた家族を、自分の手の平で踊らせ楽しんでいたというのだろうか?
 だが、そこに住井が入り込み、その結果真琴の計画は瓦解し、この地で家族は再び集いその契りを交わした。
 なるほど、確かにそうかもしれない。
 では何故真琴はこれだけ証拠を突きつけられても平然としていられるのだ? ――祐一は真琴に視線を向けるが、彼女は逃げ出すことはおろか、微動だにせず事の成り行きを見守っている。
 もしかして真琴は詐欺師ではない? 例えば本当に彼女の言う通り狐であるとか?
 いや、それはあり得ない。数々の物的証拠が彼女を血縁詐欺師である事を物語っている。
 では彼女の企てがまだ完全に潰えておらず、未だに進行中だとしたら?
 ならば、その先が見てみたい――そう祐一は思う。
 通常では考えられない手段で家庭に入り込み、内部より破壊するその手腕が導くその先の光景を。
 我が家に破壊と混乱を求めていたのは、他ならぬ祐一なのだ。
 真琴の正体や本心がどうあれ、祐一は今まで以上に彼女に興味を覚え、惚れ込む事になった。
 何としてでも彼女を手に入れる――祐一は意を決して住井を見据えて口を開く。
「そうか……でもそうであったとしても同じ事だ。既に状況はあんたの言う彼女達の犯罪、家庭崩壊の企みを成立させはしないぞ」
「ん?」
「どういう事よ?」
 祐一の声にどこか含みがある事に気が付いた住井と多美子が首を傾げる。
「考えても見ろよ? 真琴は俺が昔命を助けた狐なんかじゃないと判った今、この俺が躊躇する必要は無くなったわけだ。ならば俺は堂々と彼女に迫る事が出来るってものだ」
 祐一の口調は次第に熱を帯びてくる。
 多美子はただ呆然としながら息子の言葉に聞き入っている。
「そうさ、獣姦というタブーを犯す事もなく、俺は飼い主とそのペットという関係から、一気に男女のそれへと発展させる事が出来るんだ。そして俺と真琴が男と女として結びつく事となったのなら、それは新たな家族の誕生であって、決して家庭崩壊のドラマであるはずがない。
 それだけじゃない。俺と真琴が夫婦として結び付けば、正真正銘真琴は親父にとっての娘となるんだ。この新たな設定が受け入れられない理由は何処にもない」
 そこまで話して一旦口を止めると、祐一はしたり顔で多美子を見つめて続きを話す。
「しかし……そうなった時、その物語からはじき出されるのは誰だと思う?」
「っ!」
 祐一の言葉に多美子は息を呑んだ。
 彼女は息子の精神を完全に理解していなかった。
 彼は現状からの解放こそ願えども、元の鞘に収まる事など、これっぽっちもを望んではいなかった。
 祐一の目標はただ、自分を主役としたドラマティックな展開だけであり、決して元の家族で欺瞞に満ちた良き息子を演じるつもりなど無いのだ。
 愕然とする多美子に冷ややかな視線を送りながら、祐一は再び口を開く。
「馬鹿な話だな。今頃真琴という非現実的な存在を否定しようが肯定しようが、あんたに残された道は、出番を終えた役者としてこの舞台を去るか、脇役として留まるかの選択しかないのさ。
 策士策に溺れる……母さん、あんたは自分の仕掛けた罠にはまったのさ。閉ざされてあるべき家族の葛藤劇に、あんな探偵なんていう余所者を介入させた……それこそがあんたのミスさ」
「で、でも、その展開をあの娘が受け入れなかったら……」
「そんな事あるもんか。強引な設定で始まり、手詰まりを重ねてきたこのドラマに、それ以外の展開があってたまるか!」
 狼狽える多美子に、祐一はことさら口調を荒げて言い切った。
 すっかり意気消沈した多美子と、逆に勢力を増した祐一を見比べ、住井は内心で祐一という少年に興味を抱いていた。
 母親を言い負かしたその手腕には、出来ればこの場で拍手でもして、その勝利を祝ってやりたい程だった。
 だが興味と愛情は別問題である事を知っている住井が、それを実行に移す事は無く、今後この家族が向かう道を見極めようと、一歩下がった所から彼らを観察する事に決めた。
「さて、この現状が茶番である事が判ったんだ……アンタにはたっぷりと礼をしなきゃな」
 祐一が狂気を宿した目を、黙ったまま立ち竦んでいる野美子へと向ける。
「……」
 野美子は無言で目を逸らし一歩後ずさる。
 その時、浜茶屋の店内に備え付けられていたラジオから流れていた地元ラジオ局の音楽番組が中断されて、臨時のニュースを放送し始めた。
『臨時ニュースを申し上げます。昨日千葉市郊外の郵便局にメタルヘッドのドライバーで武装した中年男が乱入し、局員に重症を追わせた上現金およそ五百万円を奪い逃亡した強盗事件について、千葉県警では犯人を千葉県幕張市の無職、相沢甲子国四八歳と断定――』
「……本当かよ。おい?」
 今度は祐一が愕然とする番だった。
 無論声を失っているのは祐一だけではない、多美子と、そして住井までもがラジオの放送を黙ったまま聴いていた。
 先程までぶつぶつと独り言を呟いていた甲子国は、バッグを抱きしめながら身体をがくがくと震わせている。
『――調べによりますと相沢容疑者は金融機関より多額の借金をしている事が判明、その返済の為の現金目当ての犯行であると推測し、その行方を追っておりましたが、本日未明この相沢容疑者を茨城県の大洗海水浴場付近で目撃したとの通報が有り、現在茨城県警と千葉県警が合同で付近の捜査を行っております。付近の住民の皆様は十分注意の上……』
 放送が終わらぬ内にパトカーのサイレンらしき音が近付いてきた。
「多美子〜、祐一〜、済まなかった。だが仕方がなかったんだよ。これしか無かったんだ。許してくれ〜っ!」
 甲子国は跪いたまま泣き崩れた。
 彼が金融機関を襲った原因が『家族を救いたい』という一念である事は、その場に居た誰もが判っていた。
 その思い自体は誉められたものではあるが、手段は法治国家で行うには無謀過ぎた。
「ここへ来る途中を誰かに見られて、それで通報されたみたいね。ふふっ……もうじきパトカーが来るわよ。どうする?」
 今まで黙り込んでいた野美子が、ここぞとばかりに嫌味たっぷりに言葉を投げかける。
「……」
「……」
「……」
 その言葉に、多美子も祐一も、そして住井も答えられず黙ったまま立ち竦んでいた。
 甲子国に至っては、はただ泣き叫んでいるだけだ。
「逃げましょう御主人様」
 そう提案したのは、今の今まで一言も口を開かなかった真琴だった。
 真琴の言葉に呆然とする一同を余所に真琴は言葉を続ける。
「今度こそ皆で一緒に。旦那様も奥様も一緒に、さぁ早く」
 彼女の口調は今までと全く変わらぬ丁寧かつ愛嬌のあるものだった。
 口調だけではない。
 その表情は祐一に仕え相沢の家に居た頃と何ら変わらぬ笑顔に充ち満ちており、その笑顔に祐一は胸をドキリとさせられた。
「……真琴」
 そうか、俺達のドラマはこれから始まるんだ。――祐一は心の中がかつて無い程の高揚感で満たされている事に気が付いた。
「……どうする?」
 多美子がさも仕方なさそうに皆に問い掛ける。
 その口調に、夫の行為に対する叱責は微塵も含まれていない。
「とんでもない展開だけど……仕方ないかなぁ〜」
 そう答える祐一は、実に楽しげな表情だ。
 そんな祐一に笑顔のまま近付いた真琴が、彼の首に付けられていた首輪の鍵を、何処からか取りだして手にしていた鍵で外した。
 鈴の音をたてながら彼を拘束し続けていたごつい首輪が砂浜に落ちる。
「……」
 鍵をちらつかせて平然と微笑む真琴を見た祐一は、怒りや呆れよりも早く、込み上げてくる笑いを止める事が出来なかった。
「あははははっ。真琴、お前は最高だよ……ホント素晴らしい展開じゃないか」
「お誉めにあずかり恐縮でございます、ご主人様」
 にっこりと笑って応じる真琴。
「さぁ逃げるわよ。ほらあなた早く立って! 住井、車を早くっ!」
 多美子は今だ蹲り泣いている甲子国の腕を引いて起こすと、住井に急かす様に命じる。
 だが、真琴の正体を暴くという依頼で動いていた住井としては、すぐに承伏できるものではない。
 百歩譲って家族三人だけならともかく、何故仇敵である真琴までもが一緒に逃げなければならないのか?
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。みんなで逃げるって……一体どうしたらそういう結論に辿り着くんですか? あんたら今の今まで何をしてたんですか? そんな無意味な事……」
 住井の言葉を遮り、祐一は事も無げにその答えを口にした。
「意味ぃ? んなもん無いさ」
「んじゃ何故?」
「決まってるさ。それは……俺達が家族だからだよ」

 その言葉を聞いて、多美子が微笑み、甲子国は失望の中に僅かな光明を見出し、そして真琴はかつて無い程の輝かしい笑顔を見せて笑った。

 今この瞬間、相沢家は本当に一つの家族となった。


 真琴が現れて四ヶ月と半月。

 相沢家を取り巻く環境は劇的な変化を迎える事となる。

 この家族の先に待ちかまえる未来は、果たして如何なるものだろうか?







<戻る 続く>

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