霞がかかった先に富士山の雄大な姿が見て取れる。
 てっぺんに雪を頂き、雲一つ無い青空をバックにした富士の姿は、日本人にとって実に馴染み深い姿だろう。
 日本の最高峰という事実と、なだらかな山肌が描くその見事なコニーデ型火山は、古来より日本人の心を引きつけて止まない。
 その名は日本国内における最上級の意味も持ち合わせ、過去日本最長距離を走っていた寝台特急や、最高級の煙草、中島飛行機が計画した最大の爆撃機等の名称にも用いられていた。
 ともあれ日本人であるならば、その名を知らぬ者は居ない霊峰を眺めて、祐一は一人考え事をしていた。
 子供がはしゃぎ声を上げて祐一の脇を走り抜けると、飛沫が祐一の顔面にかかる。
 後からやってきた父親らしき男性が祐一に詫び子供を叱りつけるが、その言葉は何も祐一には届いていなかった。
 頭に載せていた手拭いで濡れた顔を拭くと、祐一は何事もなかったかのように無言のまま思案を続ける。
 天井で冷やされた水蒸気が水滴となって祐一の鼻に当たっても、祐一は一人で考え込んでいた。
 真剣な表情をしていたかと思えば、難しそうな表情で唸り声を上げたり、時にはいやらしそうな笑みを浮かべたりしている。
「旅ぃ〜行けばぁ〜♪」
 突如、祐一の背後から野太い歌声が聞こえてきた。
 見れば背中に派手な滝と鯉の入れ墨を彫った紋々が、気持ちよさそうに湯船に浸かりながら歌を唄っている。
 先程の親子を始め、その場に居合わせた事で強制的に彼の歌声を聴かされている面々は複雑な表情を浮かべている。
「……」
 だがそんな歌声も、こと祐一の耳には届いて居なかった。
 彼は自分の置かれている立場を改めて認識し、喜びとと焦りと戸惑いとが入り交じった様な複雑な表情を浮かべながら、目の前の壁に画かれた富士山の姿を見つめていた。
 天井からぽたりと落ちてきた雫が再び祐一の鼻を直撃する。
 その瞬間意を決したのか、祐一は浸かっていた湯船から勢い良く立ち上がると、壁の向こう側へと声をかける。
「真琴ーっ、先出るぞ!」
 頭に載せていた手拭いを腰に巻き付け、脱衣場へ向かう祐一へ「はーい」と女湯から真琴の明るい返事が聞こえてきた。
 そんな声に祐一は胸の中で新たなる決意を固めると、反り立った股間をタオルで隠すようにして脱衣場へと向かった。


 Tシャツと短パンだけのラフな格好に着替え終えた祐一が、「湯」と書かれたのれんをくぐり外に出て、見慣れぬ周囲の景色に目を向ける。
 古めかしい家々がひしめき、小さな商店が軒を並べている馴染みのない風景が、祐一の目には新鮮に映る。
 決して裕福な雰囲気は無いが、下町としての風情が色濃く残っているこの周囲には、かつて暮らしていた埋め立て地や新興住宅地には無い人々の活気が漂っている。
 だからといって、彼の過去十数年の生活で培われた無関心無感動な精神が変わる事はないし、彼が他人に対して愛想が良くなるわけでもない。
 新たな環境は、あくまで自分自身の新たなドラマを盛り上げる演出材料――いわば背景として受け止めているに過ぎない。
 周囲を見回し終えると、祐一は銭湯の入り口脇にある自動販売機の前に立ち、ポケットをまさぐり中から小銭を取りだ出すと、滋養強壮を目的としたドリンク剤を迷わず購入した。
 鼻歌を口ずさみながら受け取り口からビンを取り出すと、キャップを外して一気に飲み干す。
「ふぃ〜」
 湯上がりの火照った身体によく冷えたドリンク剤が心地よく染み渡り、祐一は思わず声を上げた。
 やがてサンダルが地面を踏む音に続き――
「お待たせいたしました」
 控えめな真琴の声が背後から聞こえてきた。
「良い湯だったなぁ、まこ……」
 飲み干したビンを片手に振り向いた祐一の前に、鮮やかな黄色のノースリーブ姿を纏った真琴が笑顔で佇んでいた。
 乾ききっていない髪の毛は、二つに纏められている普段とは異なりストレートだ。
 その濡れた髪型をした見慣れぬ真琴の姿に、祐一は目を奪われ声を失った。
 狐を自称するだけあって見事なきつね色の髪の毛が、緩やかな風に揺れている。
「御主人様?」
 自分を見たまま動かぬ祐一に、真琴は首を傾げて呼び掛ける。
 艶やかで小さな唇が動き自分を呼ぶ様を、祐一は夢心地で見入っていたが、彼女の声が自分の名前を発していた事を理解すると、突然我に返る。
「お、おっし、帰るぞ真琴」
 祐一は紅くなった顔を隠すように踵を返し、手にした手拭いを振り回しつつ歩き始めた。
「はい」
 元気よく答える真琴がその後に続いて行く。
 祐一は新たに始まった生活に、ただならぬ期待を抱き胸を高鳴らせていた。
 自然に込み上げる笑い声を押し殺して、祐一は真琴と二人だけで暮らす部屋へと進む。
 二人のサンダルが奏でる軽いリズムが周囲に響いていた。


「甘美な同棲生活か……まるで神田川気取りだね。でもまぁ少なくともボニー&クラウドを気取らなかったのはせめてもの救いかな?」
 並んで歩き去っていく二人の背中を見送り、電柱の影から黒いスーツ姿の男が姿を現す。
 手にしたカメラを懐に戻すと、頭をボリボリと掻きながら二人との距離を保ちつつ、後をつけるように歩き始める。
「あなたは〜もう忘れたかしら〜 赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた〜♪」
 男は周囲には聞こえない程度の小声で神田川を口ずさみながら祐一達を尾行する。
 前方の祐一と真琴は男に気が付くことなく、相変わらずサンダルの音を奏でながらゆっくりと進んでいる。
 何処か遠くで花火の音が聞こえてきた。
 真琴が嬉しそうに声を上げている光景を、男は少し複雑そうな表情で眺めてかったるそうに頭を掻いた。

















「自称『沢渡真琴』推定年齢一七歳。生年月日及び実年齢、出身地、血液型、その他の身体的特徴一切不明。
 一九九九年五月上旬より相沢家にて同居を開始。
 同年七月に自宅マンションの売却益と、退職金の前借りで千葉県幕張市郊外に一戸建て住宅を購入し、御主人並びに同家長男と被調査人が揃って転居。
 その際、御主人が町場の金融機関にて多額の融資を受けた形跡があります。
 転居後の生活は食費過多の傾向があるものの家族関係は極めて良好……と。
 しかし同年八月、魔物ハンターを名乗る正体不明の女が突如来襲。
 被調査人の処遇を巡って口論から傷害沙汰へ発展、御主人が負傷するも同家長男が御主人より受け渡されたメタルフェイスのドライバーにて同氏を殴打。
 その後同家長男は被調査人を伴い現場より逃走、都内のモーテル・簡易宿泊施設を転々しつつ、現在は東京都墨田区にある木造アパート「夕映荘」にて同居を開始、現在に至ります。
 尚、同家主人と魔物ハンターを名乗る女は、現場よりその姿を消しており、現時点ではその後の足取りは掴めてません。
 ……とまぁ、これが現段階での調書です依頼人」
 雑居ビルの一室と思わしき薄暗い部屋の中、淡々と書面を読み上げた男が、お世辞にも綺麗とは言い難い黒い上着の襟元を正ながら顔をあげる。
 男の視線の先――テーブルを挟んで向かい側に座っていた依頼人と呼ばれた女性は、男の説明が終わった後も手にした調書に目を走らせている。
 男は煙草に火を付けようと上着のポケットをまさぐるが、クライアントが煙草嫌いであるかもしれない事を考慮し手を戻す。
 そのまま火のついていない煙草をくわえながら、手持ちぶさたに外へと視線を移した。
 窓ガラスにはカッティングシート作られた「住井探偵事務所」という文字が外へ向けて貼られているが、その出来映えはあまり誉められたものではない。
 もっとも作った本人としては気に入っている様子で、かつて在籍していた広瀬という事務員が作った綺麗な物へ貼り替えようとした時など、慌てて止めさせた程だ。
 しかし幾ら本人が気に入っているとは言え、微妙に曲がり奇妙に歪んだ文字をこれ見よがしに貼り付けている探偵事務所に仕事を依頼する者は多くはない。
 もっともこの探偵事務所がテナントとして入っている雑居ビル自体も古くみすぼらしい物であり、仮に素晴らしい看板を立てたとしても仕事の量は変わらなかったかもしれない。
 高校時代の同級生だった事務員を雇っておくゆとりも無くなり、その後は新たな社員を雇うことも無く、探偵――住井は独りで勝手気ままにこの事務所を続けている。
 お陰ですっかり独り身が染みついてしまった住井にとって、目の前に座るクライアントが発する空気は多少刺激が強かった。
 故に彼は目線を逸らす必要があり、既に見飽きている窓からの夜景――そう表現するのも馬鹿馬鹿しいものだが――へと目を向けている。
 過去に自分が作った文字を見て、今更ながら下手くそだと再認識する事になった理由はそこにある。
 目の前で脚を組んで座って調書を静かに読んでいるクライアントの服装は、正直言って一般大衆的な主婦が着る様なものではない。
 身体のラインが必要以上に強調されるぴっちりとした服を身に纏い、厚めの化粧を施したその女は、主婦というには妖艶な空気を発散しており、高級娼婦かお忍びの女優といった雰囲気だ。
 実年齢以上に若く見える事が拍車を掛けているが、これは彼女の血縁者を知る者であれば、彼女の家系に連なる者達の遺伝なのだろうか? ――そう思う事になるだろう。
 少なくとも――そんな事は知らずとも――外観上は高校生になる息子がいる様には見えなかった。
 出来るだけ気にしない様に務めたものの、住井は火のない煙草を唇に挟んだまま弄びつつ、クライアントの短いスカートから覗く脚をちらちらと盗み見ていた。
 彼女の方もそんな住井を挑発するかのように時折大胆に脚を組み直している。
 住井は煩悩を振り払うように頭を乱雑に掻いて姿勢を正す。
 くわえていた煙草の臭いが鬱陶しく感じられてケースに戻すと、クライアントを正面からしっかりと見つめ直す。
「依頼人?」
 住井が静かに声を掛けると、くたびれたソファーに腰をかけ黙っていた女――相沢多美子は、手渡されていた調書と何枚もの写真を多少乱雑にテーブルに置いて口を開いた。
「肝心な調書が無いのね……あの娘の正体に関する調書が」
 目の前に座る自分が雇った探偵に対して、女は若干の失望を込めた言葉で応じると、住井の方は得意げな表情で女を制する。
「現在鋭意調査中……という事です。参考までに、過去にご子息が淡き恋心を抱いたという、もう一人の沢渡真琴との関連に関して調べておきましたが、こちらは全くシロでしょう。直接本人に接触する事が出来ましたが、過去の経歴で被調査人との接点は、可能性も含めて皆無。外見的特徴にも類似点は見あたりませんので、これは同姓同名というだけの全くの別人……というよりも偽名として用いていると考える方が普通でしょう。尚、被調査人に関する情報は、警察から立ち食いソバ屋まで、現在私が持つ全ての情報コネクションを通じて照会中でありますから……ま、いずれ何かしらの情報が入る事でしょうから今暫くお待ち下さい」
「まぁ良いわ。息子の居場所が分かっただけでも良しとしましょう」
 自分が雇った探偵にそう言うと、相沢多美子はハンドバックから取り出した封筒を、机の上に置き立ち上がった。
 その中身が報酬金である事は一目瞭然であり、それは探偵に対して依頼を打ち切るという事を意味している。
 住井は封筒には手も触れず、立ち上がり踵を返そうとしている多美子に声をかける。
「あ〜奥さん、もし今すぐにご子息の元へ向かって、ビンタの一つでも喰らわせて連れて帰る……というのでしたら、止めておいた方が良いですよ」
 住井の言葉に、出口へ向かっていた身体を止めて多美子は振り返る。
「どうして? 母親として当然でしょ?」
 そう答える多美子の姿に、住井はやれやれと頭を掻く。
 彼女は、すぐさま実力行使に訴える事こそが、現状で最良の選択だと信じている様だった。
 しかしそれでは何の解決にもならない事を住井は知っている。
 何しろ現在の状況を作り出したのは、彼女の息子本人であり、彼自身が現状を否定しない限りは何の解決にもならないのだ。
 であるなら、沢渡真琴と名乗る女の本性を探り、暴き、現状を覆す証拠を抑えてから一気に叩くべきである。
 息子の祐一が家庭環境に不満を募らせ、それが暴走して現状に至っている事を調査で把握していた住井からみれば、多美子が行おうとしている事は、完全に自己満足の充足に過ぎず、結果として息子の家庭離れや親否定を促進させるだけだろうと判断していた。
「あの優しかった自分の息子が、傷害事件を起こした上にあんな素性の判らぬ少女との逃避行の後、まるで恋人同士の様な甘美な同棲生活を送って居る事に我慢がならないと?」
 住井の彼女の心情を読んだ様な発言に、多美子は言葉を荒げて「当たり前でしょう!」と答えた。
「ですが、あなたは母親としての責務を放棄し、真っ先にあの家を捨て出て行かれた訳ですよね? 恐らくその様な認識をしているであろうご子息の前に今更顔を出したところで、かえって事態は悪化する事になりますよ?」
 探偵のストレートな物言いに、多美子は住井の元まで戻ると、顔を紅潮させて怒りを現した。
「私が悪いと言うの? 私が出て行かざるを得なくなったのは、全てあの小娘の所為よ。あのペテン師が、あの女狐がっ! あのあの!」
 余程悔しかったのだろう。多美子の語尾を震わせて話した。
 住井はそんな彼女をなだめ再びソファーへと座らせると、今度は自分が立ち上がり、先程の煙草を取り出した。
「そうそう、それなんですがね……被調査人は、自分が”ご子息から命を救われた狐”だと名乗ってるわけですが……」
 狭い事務所のフロアをゆっくりと歩きながら話し始めると、住井は煙草をくわえてその先に火をともし、ゆっくりと煙を吐き出す。
「ええ。私には到底信じられないわ。狐の恩返しなんて馬鹿馬鹿しい事、現実にあり得無いわよ」
 多美子は吐き捨てるように呟くと、両手で頭を抱えて項垂れる。
 真琴と名乗る少女の出現に、余程ショックを受けたに違いない。
 住井はそんな彼女を哀れみにも似た表情で暫く見つめてから、再び口を開く。
「そうですね、私もそう思いますよ。確認は取りましたが、確かにご子息が狐を保護したというご親戚の住む街には、狐にまつわる伝承や昔話が有りましたが、それはどの様な土地にも少なからず有るものでしょう。今更『鶴の恩返し』をノンフィクションだと思う人間はいないでしょうからね」
 そこまで話すと、住井は煙草を自分のデスクの上にある灰皿に押し付ける。
 数々の書類などで散らかっているデスクに寄りかかる様に腰を下ろし、ソファーに座る多美子の方を向き話を続けた。
「……ではこの虚構と言っても良い荒唐無稽な設定、おおよそ普通では考えられぬ、受け入れがたい無茶苦茶な設定を、ご子息や御主人が信じ込むきっかけは何だと思いますか?」
 住井の問いかけに、多美子はすぐさま答える。
「さぁ? 大方あの女の色香にでも騙されたんじゃないのかしら? ったく祐一はともかくあの人がこんな色魔だとは思いもよならなかったわ。そもそも私という者がありながらあの人は」
 住井は彼女の言葉を手を挙げて制する。
「あーご子息に関しては確かに被調査人の色香……若さや外見上の容姿に惑わされ、この設定を無茶だと知りつつも受け入れていると思われる節が有るのですが、こと御主人に関して言えば本当に彼女の事を、”息子が助けた狐””その恩を返しに来た見上げた娘”そして”守るに値する家族の一員”だと認めていると思われますね」
 それは調査を通じて住井が感じ取ったものだ。
 確かに甲子国は真琴を本当の家族として受け入れており、日々の会話や態度を見れば、それが真実である事は容易に判断出来た。
「どうして? 私は二十年以上もの間、あの人に仕え尽くして来たのよ。何故主人はそんな私よりもあの小娘を信じる事が出来たの?」
 だが、妻としては当然納得できる問題ではない。
 多美子はさも不思議そうな表情で住井に答えを求めている。
 自分の主観でのみ家庭の事を考えてきた多美子に取って、それは答えが出せないのも当然だった。
 であるから多美子は――
「うーん、それはそれ現実とはなんとやら……虚構にこそ真実を見出したからに他なりませんよ」
 ――という、住井の答に驚きを隠せなかった。
「つまりですね、普通ならば有り得ない”恩返しに来た狐”という被調査人の存在を受け入れる事によって、御主人はその恩返しの恩恵にあやかれるわけです。
 御主人が欲していた物、すなわち家族という舞台を取り仕切る家長としての自分自身を、取り戻せると思ったのでしょう。
 事実、依頼人が出て行った後の御主人の家長っぷりはなかなかのものですよ。
 一度はご子息の戦力にひれ伏したかの様にも思えましたが、見事押し戻して一家の大黒柱としての地位を確立しておられました。うん」
 夫として、父親として、本来望むべき家庭の姿と、現実のギャップに苛まれていた甲子国にとって、真琴という虚構の塊こそが彼の望む真実だった。
 だからこそ彼はすんなりと受け入れた。
 二十年間連れ添った妻・多美子を捨ててまで、多額の借金を抱え込んでさえ、真琴が持ち込んだ新たな家族の姿を欲したのだ。
「そんなものの為に私は負けたというの?」
「いやいや、これが男にとっては重要だったりするんですよ。二〜三十年前ならいざ知らず、世紀末的家庭内闘争が叫ばれる現在において、父親の地位ってものは無いも同然。
 しかし御主人の世代は、かつて子供だった頃に見た父親の力強さに憧れ、そして恐れていたはずです。ところがいざ自分がその立場に立った時、そんな地位は無く、有るモノと言えば自分の稼ぎを摂取される、いわば働き蟻の様な生活です。
 こりゃ〜たまらんでしょう。
 家庭を持つ中年男性で、有る程度育った自分の息子や娘よりもペットの方に愛情を向けている者が多いのはその最たる例です。
 自分を盛り立て崇めてくれる家族が居てくれるのであれば、御主人がその存在を手放すはずがありません。
 御主人は確実な現実の中に、不確実な幻想を見出し取り憑かれている……むしろ、自らそう信じ込ませているのかもしれませんね。
 私にとってみればこの様な考え方はナンセンス以外の何物でもありませんが、御主人の様な立場に居る者であれば、虚構の中にこそ自分の理想を持っているのは当然ですよ。
 ありきたりな現実、夢の無い現実の中で、本来の自分を見失った御主人の眼前に、自らの理想の家族が現れた時どういう行動を取るか……もうお判りでは?」
「……」
 多美子は黙って住井の言葉を、その意味を噛み締める様に聞いていた。
「御主人にとっては被調査人の正体が何であれ、既に家族の一員として認知しているのは、先程伝えた通りです。これを覆すのは相当な労力を必要とするでしょう。ですが、この虚構の正体、からくりさえ暴けばこのペテンに幕を引かせる事は可能だと考えます。それには、この被調査人の正体を暴く事こそが肝心でしょう。ですから依頼人には大変辛いかと思いますが、もう暫くご辛抱下さい」
 住井は言い終わるとデスクから身を離し、テーブルを挟んだ多美子の正面のソファーへと腰を下ろす。
「そうね……」
 多美子は短く呟くと、面を上げて住井の顔を見つめる。
 その表情に、先程までの半ばヒステリックな雰囲気は無くなっていた。
 満足げに頷くと、住井は再び口を開く。
「それから被調査人ですが……記憶喪失……という話しでしたね。本来であれば、真っ先に追求されるべき部分だと思いますが、御主人やご子息は特に気に掛けておりません」
「……」
 目の前の探偵を、今度は信じるに値する存在だと認識したのだろうか。多美子は黙ったまま頷いた。
「これこそがこのペテンの根元だと私は思います。記憶という元来からして不確実なものが、より不鮮明になる事で、全ての虚構を覆い隠す事が出来るのです。
 人間の視覚情報……いや、聴覚や嗅覚でも構いませんが……それらを経て脳に焼き付かせた情報に、どれほどの価値がありますかね? 自分の目で見た物、耳で聞いた音を完全に信じても良いのでしょうか?」
「当然でしょ? 他に何があるっていうのよ」
 当然の様に答える多美子に、住井は首を振って否定した。
「人間の記憶なんてものは実に不完全な過去の情報の集合体に過ぎませんよ。それは当人の目が見た、耳が聞いた、鼻が嗅いだものを漠然としたイメージによって大脳新皮質へと擦り込まれた不確実な物であるからです。主観や感情、その時の心理・健康状態といったフィルターを介し、より不完全なものとして記録される”記憶”に、果たして意味は有るのでしょうか? 少なくとも私は無意味だと思います。誰が他人の記憶を真実だと証明しますか? 誰が他人の記憶を物理的に見る事が出来ますか?」
「では何を信じれば良いの?」
 多美子の質問に、住井は笑みを浮かべて立ち上がると、再びデスクへと向かう。
 そしてその上に置かれていたカメラを持ち出し、多美子の姿をフィルムへと収めた。
 突然焚かれたストロボに一瞬たじろぐ多美子を見て、今度は懐からレコーダーを取り出しボタンを操作する。
 すると先程住井と多美子との間でやり取りされた会話が再生される。
「私はこの私の目を信じていないし、耳も信じていない。レンズという目を通しフィルムという触媒に写し出された映像、マイクを通じテープやメモリに記録された音声こそ、信じるに値する真実ですよ」
 答えてレコーダーのスイッチを操作すると、先程の会話もピタリと止む。
「自らの目や耳を否定するなんて……そんな事が可能なの?」
 多美子の言葉に住井は頷いた。
「そう訓練したんですよ。探偵という職業を選んだその日から……」
 そう答えながら、住井はカメラを手にしたままソファーへと戻り、多美子の姿を再びフィルムに収めた。
 瞬くストロボの明かりに、多美子は不敵に笑ってみせると、大胆に脚を組み直し、胸を強調する様に腕を交差させる。
「……」
 住井は、無言でもう一枚多美子の姿を撮影した。
「んふふふ……」
 多美子の口元が妖艶に歪む。
 事務所の中を漂う香り――事務員が居なくなり途絶えて久しかった女の香りに、住井はいつの間にか酔っていた。
「もう一枚良いですか? 奥さん……」
 そう尋ねて住井は喉を鳴らした。
 多美子は無言でソファーから立ち上がると、目の前のテーブルの上に登り、座ったままの住井を妖艶な表情で見下ろした。
 住井は目の前に立つ二本の脚を舐めるようにして見上げて行き、そのまま手にしたカメラで多美子の姿を撮影し始めた。
「私達……うまくやれそうね?」
 薄暗い事務所の中に、多美子の言葉が響く。
 住井は答える代わりにシャッターを切った。








§








 夜半から降り出した雨が街を濡らして、煌びやかなネオンや街灯、そして車のライトを映している。
 祐一は築四十年にはなるであろう、木造のボロアパートの一室の窓辺で外を眺めていた。
 すぐ横を流れる汚濁に満ちた川は、雨と高い湿度と温度も相まって普段にも増して不快な臭いを発している。
 だが祐一はそんなものを気にする事なく、窓辺に座り雨に濡れている街を見つめていた。
 様々な電飾により彩られている街の灯りが、まるで自分の住む世界とは別の物に思え、自分の存在がこの東京という街の中で浮いた物なんだと――そう思う自分に酔っていた。
 彼は黄昏ている様に見えて、その実自分の置かれている状況を楽しんでいた。
 良く言えば物怖じしない剛胆な、悪く言えば現状を舐めきった彼の性格の賜物である。
 だが、そんな彼とて悩みが無いわけではない。
 むしろ悩みにもがき苦しんでいると言ってもよかった。
「はぁ〜」
 溜め息をついて視線を部屋の中へと戻すと、僅かな着替え程度しか無い殺風景な部屋の中、隅にある小さな古い鏡台の前で真琴が髪をブラシで梳いている。
「……」
 祐一は無言で真琴の様子を眺める。
 雨風を凌げるだけの四畳半一間のボロアパートを裸電球が薄暗く照らしている。
 ある物と言えば、多少の着替えを詰め込んだスポーツバッグと、粗大ゴミ置き場で拾った金属バットがあるだけだ。
 そんな殺風景極まりない部屋の中、あのマンションに初めて姿を現した時と変わらぬ笑顔で、真琴は鏡を見つめながらリボンを結っている。
「……なぁ真琴?」
 祐一が静かに彼女の名を呼ぶと、手を休めて真琴が振り向く。
「はい?」
 屈託のない笑顔を向けられ、どこか祐一は居心地の悪さを感じ笑って誤魔化した。
「あははは。何でもないよ。ただ何とな〜く呼びたくなっちゃって……あはははは」
「ふふっ、変な御主人様」
 真琴も笑って応じると、祐一は視線を逸らし項垂れると、項垂れたまま頭の中であらん限り叫んだ。
(笑ってる場合じゃないんだよっ!)
 彼を悩ませているものは他でもない、真琴との関係だった。
 若い男女が駆け落ち同然の事をやらかして、数週間も二人きりで生活をしていれば何か起こる方が普通であろう。
 少なくとも祐一はそう考えていたし、であるからこそホームドラマでは禁じ手であるバイオレンスまでも導入し、あの欺瞞に満ちた家庭から飛び出したのだ。
 家を飛び出して二週間、このアパートに転がり込んで一週間、日がな一日部屋でゴロゴロしたり、ぶらりと出かけては公園で日向ぼっこしたりと、自堕落的な生活を送っているが、一向に進展しない二人の関係を如何に進めるか、如何にして彼女を手に入れるか――それが祐一にとって全てだった。
 正直なところ、祐一にとって真琴の正体なんてものには全く興味がなかった。
 彼女が本当に狐かどうか、母の言うとおり気狂いや詐欺師かどうかという問題は、こと彼にとっては些細な事であり、重要なのは”彼女を過去に自分が助けた狐だ”と受け入れる事で、唾棄すべき日常が消え去り、若く可憐な彼女と一つ屋根の下で暮らせるという事実だけだった。
 謎の女の襲撃・対決、そして撃退という、波乱を経て始めた新たな生活。
 当然、彼の頭の中では、若い男女の間で燃え上がる愛欲の日々――淫らな生活を期待していた。
 そして当然それは実行に移されるはずだったが……現在に至るも、祐一と真琴の間ではそのような男女間における淫猥な事例は起きていない。
 真琴は祐一を「御主人様」と呼び慕ってはいるが、あくまでそれは主人に尽くすペットとしてのそれであり、決して人間として同列並ぶイコールパートナーでは無いのだ。
 結局、彼らの間――少なくとも真琴側からは恋愛感情らしきものは兆候すら見えず、あるものと言えば、主人と忠狐によるほのぼのホームドラマだけだった。
 祐一が真琴の身体を引き寄せて抱きしめたとしても、真琴は別段抵抗はしない。
 むしろ自ら身体を寄せてくる事もしばしばだ。
 だが、それでも祐一は下手に強攻策に出る事は出来ない。
 何しろ、家族を捨ててこの真琴との物語を選んだのは祐一自身の意思であり、もしも強攻策に出て、それで彼女に嫌われたり最悪逃げられる様な事態にでもなれば、今の生活を続ける意味が無くなってしまう。
 そして何より、彼女が恩を返すためにやってきた狐だと信じた(事になっている)のは、他ならぬ祐一である。
 彼女を失う事は、自分自身を否定るす事にもなるのだ。
 その為祐一に出来る事は、真琴の設定を受け入れ、このままほのぼのドラマを続けるか、彼女を嘘つき呼ばわりして追い出すか――その二択しか無くなっていた。
 であるから祐一は欲望の赴くまま行動する事が出来ず、プラトニックな関係を強要され続けて、その結果溜まりに溜まった行き場のない悶々としたフラストレーションが、彼の神経を蝕んでいった。
「あの……御主人様?」
 主人の精神がそんな状態とはつゆ知らず、真琴が表情を曇らせて祐一に話しかける。
「何だい真琴?」
 祐一も必至に良き主人を演ぜられるよう笑顔――もっともかなり引きつったものになっているが――を浮かべて応じてみせる。
「あの大丈夫ですか? 最近の御主人様はまるで何を耐えてる様で……私、見ていて辛いです」
 祐一に近づき彼の眼前で座ると、真琴は心配そうに彼の顔を上目遣いで見つめる。
「あ〜、そりゃ確かに耐えてるよ。まぁ色々とね……」
 窓辺に座っている祐一から足下に座っている真琴を見ると、彼女のノースリーブの隙間から風呂上がりで上気した胸元が見える。
 これだけ無防備に接近していると言うのに手を出せない現状に、祐一はXデー――自我が崩壊する日――もそう遠く無いだろう、と考えていた。
 無論その様な事態は望むべきでは無い。
 この部屋に越してきてから毎夜、一人になれる銭湯の湯船の中で祐一は考えた。
 お互いの関係を崩す事なく若い男女が繰り広げる情欲のドラマへと自然に誘導する方法を。
 見えそうで見えない胸の頂きを想像した祐一は、唾を飲み込み頭を強く振って雑念を追い払うと、先程湯船の中で導き出した方法を実践へと移すべく最後のシミュレーションを脳内で実行した。


『なぁ真琴』
 努めて優しい口調で祐一は話を始めると、真琴はまるで歌声を聞くように、目を閉じて祐一の話に聞き入った。
『俺達が二人で生活を始めてどの程度の時間が流れたんだろうね』
『御主人様?』
『なんだい?』
『旦那様はご無事でしょうか?』
『……そ、その話しは止めようよ』
『ですが……』
『良いんだよ真琴、お前が気にする必要は無いし、今俺達が考えなきゃいけないのは、これからどうするか……そうだろ?』
『でも私思うんです。ひょっとして私が御主人様の重荷になってるんじゃないかって』
『そんなことは無いって』
『でも……』
『真琴! いいから気にするなって。それよりも俺達のこれからを考えようぜ? 俺達はこの世で二人きりなんだ。母親も父親も居ない、頼れるのはお互いの存在だけ、孤立無援の闘いなんだよ。牙をむいて襲いかかる世間に対して、一七歳という若い俺達が二人だけで生きて行くには、互いのより相互的信頼が必要不可欠であり、より深い絆が必要なんだ!』
『でも最近の御主人様は……その、見ていて心配です』
『俺?』
『はい。奥様に続き旦那様とまで生き別れとなってしまいました。ひょっとして私が御主人様にとって重荷になっているんじゃないかって思うこともあります』
『そ、そんな事はないってば。大丈夫みんな気楽にやってるって』
『でも……今の私は居るだけで仕事も何もしておりませんし、明らかに御主人様にご迷惑をおかけしていると思います』
『別に大丈夫だって』
『いいえ、全て私がいけないのです。御主人様に受けた恩を返そうと来たにも関わらず、私はご迷惑ばかり。私さえ……私さえいなくなれば!』
 涙を浮かべた真琴は叫び声を挙げるとそのまま部屋を飛び出し、そして二度と戻らなかった。
 ――BADEND。

「ちょっと待ったぁぁぁぁっ!」
 暴走した脳内シミュレーションの結果に、祐一は思わず大きな声を上げる。
「どうしました?」
「い、いや、何でもないぞ」
 不思議そうな顔をする真琴に、祐一は辛うじて笑顔を返すと、目を閉じて再び頭の中でシミュレーションを開始する。


 リセットがかけられ、最初の場面がロードされると再度シミュレーションが始まる。
 窓枠に腰を掛けた祐一が真琴を呼びつけ、足下にやってきた彼女に向かって優しく声をかける。
『なぁ真琴、俺達がこうして暮らすようになって結構経つけど……本当に不思議なもんだよなぁ、親父達のお荷物だったこの俺が、今ではこうして真琴を背負って生きてるんだからな』
『御主人様?』
『あ?』
『旦那様は無事でしょうか?』
『親父? そうだなぁ俺みたいな厄介者が居なくなった事で、気楽な独身生活をエンジョイしてるかもしれないし、それこそ女でも連れ込んで結構楽しんでるんじゃないの?』
『そうでしょうか?』
『ああ、そうさ。だから親父の事を真琴が気に病む必要はないさ』
『でもこれからどうすれば……』
『そうだな〜家から持ってきた金も底をつきそうだし……何時までも銭湯通ってぶらぶらやってる訳にもいかない……あぁそうだ、ぶらぶら止めてラブラブってのが良いかも……な〜んて』
『そうだ、私が働きます!』
『え?!』
『ええ、このまま御主人様のご厚意に甘えている訳には参りません!』
『い、良いよ別に。何も真琴が働くことは無い。俺だってまだ若いんだし、その気にさえなればどうにでもなるって。明日は朝一番で職安に行って来る。約束するよ』
『いいえ、駄目です。このままではせっかく恩を返しに来た私の意味が無くなってしまいます! あ、そうです御主人様、私見たんです。銭湯の帰り道の電話ボックスに貼ってあった募集広告。そこにこう書いてあったんですよ。……若くて明るい貴女、ちょっと気楽に働いてみませんか? 衣服貸与、託児所完備、足抜け不可、委細面談、キャバレー”鍵っ子”……って』
『なにぃっ!?』
『それにもし働きに出れば、羽振りの良い殿方とお会いする事もあるかもしれません。うまく取り入る事さえ出来れば、生活にゆとりが出来るようになり、そうすれば再び旦那様や奥様と一緒に幸せな家族に戻れるかと』
『ま、真琴?!』
『見ていて下さい御主人様っ! 真琴はやります。頑張って働き、豊かな殿方のハートを射止めてご覧にみせます。そしてこの相沢家をみごと復興し、真の恩返しを完遂させて頂きます。それこそが私の新たな使命ですっ!』
 ――BADEND。

「だーかーらーそうじゃないんだってばっ!!」
「え?」
 目を閉じたまま黙った祐一が、やがてその額に汗を浮かべ震え出すと、突然目を見開いて叫び声を上げた。
 驚く真琴を見つめると、祐一はその小さな身体を抱き寄せた。
「きゃっ……ご、御主人様?」
 突然祐一に抱きしめられた事で真琴が小さな悲鳴を上げる。
「真琴っ!」
 彼女の小さな身体を全身で抱きしめ、その存在を確かめる様に名を力強く呼ぶ。
「……御主人様?」
 真琴は祐一の腕を振り払うことなく、されるがままの姿勢で祐一の目を見つめ返す。
 しばし見つめ合った後、祐一は言葉を選びながら話し始めた。
「いいか真琴っ、俺達が二人で暮らすようになって何日経ったかなんて関係ない。親父やお袋が何処で何しようとも関係ない。俺達にとって重要なのは、これから二人がどの様に生きて行くか? という事それだけだ」
「……」
 祐一の力強い言葉に、真琴は彼の腕の中で黙って頷いた。
「決して出会ってはいけなかった人間の俺と狐の真琴……」
 祐一は本心で信じてはいなかったが、その設定を受け入れている以上、言及しないわけにはいかない。
 だからこそ祐一は敢えてそのタブーに触れる。
 この設定を受け入れても尚、彼女との仲を進展させる為の、必至に考え抜いた台詞を今こそ言う時なのだ。
「だが種族を越えた絆はその結びつきが強かったからこそ、十年という長きを経て再会し、こうして二人で同じ時を過ごしているんだ。今こそ俺達は主人とペットの関係を超越し、真の意味での主従関係を築くんだ。俺がお前を養い共に過ごす。そこに親父やお袋は関係ない。さぁ真琴、俺だけを見ろ。俺のことだけを考えろ。目の前の他者として、一人と男として……」
 両親や仕事に関する話題を自ら封印し、真琴の逃げ道を塞いだ上に、とどめの一撃を見舞う。
 更に真琴の身体を今一度抱き寄せ、互いの額を重ね合わせる程に接近する。
「でも、御主人様……」
 困惑の交じった真琴の声に、祐一はその呼び名こそが障害だと悟った。
 彼女が祐一を呼ぶ「御主人様」という言葉には、文字通り彼女が祐一を飼い主として見ている意味しかない。
「止めるんだ真琴。祐一さんでも、祐一様でも、祐一と呼び捨てでも良い! 俺を名前で呼ぶんだ」
 お互いの鼻が触れそうになるほど顔を突き合わせ、祐一が熱っぽく語る。
 祐一はその一言こそが、真琴との関係を一歩前進させる事が出来る起爆剤と確信していた。
 二人は身動きもせず、互いの顔を見つめたまま黙っていた。
 街を濡らす雨の音だけが小さく響く室内にあって、祐一にはその音すら耳に届かなくなり、自らの心音以外の音は聞こえなくなっていた。
 祐一はただ彼女の唇を見つめ、それが動き彼が望むべき言葉が発せられる事だけを待ち望んでいた。
「祐一さん」
 待ち望んだ言葉が祐一の鼓膜を柔らかく刺激する。
 だが、真琴の唇は先程から動いていない。
 声の発信元は祐一達の側面――つまり玄関の方からから聞こえてきた事になる。
 思いもよらぬ方向からの呼び掛けに、祐一はこの世のあらゆる物に対する興味を失った様な無表情を装い――
「すみませんが結構です。またにして下さい。どうもー」
 一切の感情が籠もっていない無機質な言葉で応じた。
 無論、視線は今だ真琴の唇に固定されている。
「祐一さーん」
 再び祐一名を呼ぶ声が、玄関の方から聞こえてきた。
「NHKは見てません。お互いの顔以外見る物の無い二人ですから……」
 再び祐一が淡々と答える。
「そんなんじゃありませんよ」
 そんな祐一の対応に、扉の向こうに居る人間の対応が、多少棘のある物に代わってきた。
「互いの事以外に感心事を持ってませんので、特に買いたい物はありません……」
 それでも尚、祐一は扉の外に関心を向けることなく、真琴を見つめたまま無感情な声で応じる。
「そんなんじゃありません」
「世間に背を向けて生きる二人ですから新聞は要りません……」
「そんなんじゃありませんってば」
「今日を生きる事が精一杯な二人ですんで保険も必要ありません……」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」
 祐一の代わらぬ態度に、扉の向こう側の人間が明らかに感情を爆発させる。
「それじゃ何なんだよっ! こっちは今取り込み中だ!」
 祐一もまた怒りに身を任せて玄関へ向かって吠えると、その鍵を壊しつつ勢い良くドアが開かれた。
 流石にボロアパートの扉だけあって、鍵は殆ど意味をなさずに粉砕され、容易に外敵の侵入を許す事になった。
「だ、誰だ!?」
 あっさりと蹴破られたドアを抜けて、サングラスをかけた一人の女性が祐一達の部屋へと現れた。
「なっ!?」
「……っ!」
 その姿を見て祐一は驚きの声を上げると、息を呑む真琴を素早く自分の背へ隠す。
「こんばんは、相沢祐一さんね?」
 サングラスでその表情ははっきりとは判らないが、恐らく笑っているのだろう。
 声の主は口の端を歪めて微笑み挨拶をした。
 少し赤みのかかった短めの髪の毛を後ろで纏めた女は、黒いサングラスを指で整えると、土足のまま畳の上に遠慮なく上がって来た。
 服装こそ違うが、明らかにその容姿は祐一が倒した自称魔物ハンターの天野美汐その人だ。
「天野っ! 生きていたのか?!」
 真琴を庇うようにして立ちふさがると、祐一は驚きを隠せずに大声を上げる。
「天野〜? 誰ですかそれは? 私は、えぇと……こういう者ですよ」
 美汐によく似た女は、懐から名刺を取り出すと祐一の目の前にかざしてみせる。
「ん? いつでもどこでも必要以上にキャッシング……倉田金融、債権回収係――小天 野美子(おあま のみこ)?」
 祐一が差し出された名刺に書かれた文字を読み上げると、野美子と名乗る女が満足そうに微笑んだ。
「ええ、それで実はですね……」
 そう切り出すと、野美子は名刺を再び戻してからゆっくりとした口調で続きを話し始めた。
「あなたのお父さん……相沢甲子国さんには、我が社の方で五百万程用立てていたんですが、支払期限を過ぎても入金はおろか連絡もよこさない。督促状にもなしのつぶて、電話をしても誰も出ませんし、新居を訪れてももぬけの殻、要するに行方不明でしてね……そこで息子さんにせめて利子だけでも……と」
 野美子は後は言わなくても判るだろ? ――そう言いたげな表情で祐一を見据える。
「甲子国なんておっさん見たことも聞いたことも……」
「さっき、相沢祐一という名前に反応したでしょ? ネタは上がってるんですよおバカさん」
 他人を装い誤魔化そうと思った祐一だったが、既に退路は断たれていた様だ。
「くっ……だとしても、俺は親子の縁を切った! 家を捨て親父とは無関係になった俺に、奴の責任を負う義務などないっ!」
 苦しい表情を浮かべるも、祐一はすぐに開き直り声を荒げて反論した。
 そんな祐一の態度に、野美子は全身で呆れた反応を示す。
「バカバカですね。良いですか、幾らあなたが言葉でその関係を否定したとしても、”あなたがあの人の息子だった”という事実を変える事なんか出来ないの。判る? そうである以上は、あなたは彼の血縁者として責務を全うする義務があるの。なんなら出るところに出ても良いわよ。どうする?」
「〜〜っ!」
 声にならない驚きを上げ、祐一は思わず視線を逸らす。
 暴行傷害事件を起こし逃避行の真っ最中である祐一にとって、それは取り得ぬ選択肢だ。
「判ったかしら?」
「子は決して親を選べない……か。くそったれ!」
「悪いけど貴方の血縁に対する不満なんかに私は全く興味ないの。貴方にはせめて利子だけでも払って貰うわよ」
「……へっ、だが無い袖は振れないぜ?」
 開き直ったかの様に口元に笑みを浮かべて答える祐一に、最初からその答えを予想していたらしい野美子が嘲笑しながら口を開く。
「ふふふっ。それを振らすが私の仕事なのよ?」
 言い終わると、野美子は視線を祐一の背後に隠れている真琴へと移した。
「ま、まさか?」
「ふふっ、そのまさかよ。その子見た目も可愛いし、ウチの関連店舗で働けば大人気間違い無しでしょ。利子くらいすぐに返済出来る様になるわ。どう?」
 野美子の言葉に、祐一は先程自分の脳内で繰り広げたシミュレーションを思い出す。
 当然、その様な展開は祐一にとって言語道断だ。
 その表情に怒りを一気に露わにさせて祐一は叫ぶ。
「ふざけるなっ! 真琴にそんな真似させられるかっ!」
 祐一は部屋の隅に置いてあった金属バットを素早く手にすると、野美子に向かって構えてみせた。
「あらあら、世間と呼ばれる世界の厳しさも知らない小僧が……いっちょまえに楯突いちゃうわけ?」
 金属バットを手にして息巻く祐一を、せせら笑いながら眺める野美子。
「やかましい!」
 祐一はそんな彼女に一層感情を爆発させた。
「ふぅ……あなたみたいに世間を舐めきってる小僧は、いっそ洗脳でもして社会的貢献度を向上させてから世に出した方が良いのよ」
 心底呆れたような口振りで、美汐は構える。
 両手は開手で、片手が胸の高さ、もう片方はそれよりやや下に位置し、腕は肩幅程度に開いている。
 柔道――柔術だろうか? 格闘技に詳しいわけでもない祐一に彼女の構えが何かは判らない。
 だが全くの素人でない事は判る。
「……」
 緊張にバットを握る手が汗ばむ。
「ふふっ」
 そんな祐一を見て野美子が口元に笑みを浮かべる。
 祐一の脳裏をかすめるデジャブ。
 似たような事が有ったのは、つい十日程前だっただろうか?
 天野美汐――魔物ハンターと名乗る謎の女。
 あの時、自分よりも明らかに手練れだったあの女に勝てたのは、甲子国の存在と幸運が重なったに過ぎない。
 そして今、あの時と同様、明らかに自分よりも武力が高そうな謎の女と対峙している。
 だがこの場には甲子国はおらず、その事を祐一がとやかく言うことも出来ない。
 何しろ祐一自らが見限ったのだ。
「……くっ」
 祐一は焦っていた。
 金属バットという攻撃アイテムを所持してなお、自分が勝てる要素は何一つ無い。
 この状況で勝機を見出すとすればただ一つ――敵の注意を逸らす事しかない。
 しかし真琴に陽動をさせる事は出来ない以上、自分が独りで行う必要がある。
 覚悟を決めた祐一は、金属バットのグリップを握りしめ直し、悟られないように注意深く深く息を吸うと、明後日の方向を指さして大きな声で叫んだ。
「あっUFO!!」
「え?」
 祐一が叫んだ瞬間、野美子の注意が彼の指さした方向へと向いた。
 その一瞬を突いて祐一が間合いを一気に詰め、金属バットを力の限り振り切った。
 ――ブンッ!
 だが、その一撃は上体を逸らした野美子にかわされ、虚しく空を切るだけに留まり、逆にフルスイングによって勢いをつけた祐一の身体が、その場へ転倒する事となる。
「本当におバカさんね。今時あんなので注意を逸らす人が居るなんて……ふふっ」
 野美子は倒れた祐一の背中に靴を乗せると、そのまま体重を乗せて床にこすりつけるつける様に踏みにじる。
「ぐわぁっ! 痛ぇぇぇぇぇぇっ!」
 ヒールがランニング一枚の祐一の背中へと食い込み、その部分からは血が滲み出してきた。
 その間、真琴はただ唖然として状況を眺めるだけで何も出来ずにいた。
 のたうち回る祐一を野美子は笑みを浮かべて眺め、床に落ちた金属バットを拾い上げて祐一の後頭部を軽く叩く。
 軽くと言っても金属バット。軽い脳しんとうを起こした祐一は、その意識を急速に失っていった。
「ほら、おバカさん。これは私からのプレゼントよ」
 そんな台詞と共に野美子が革製の何かを取り出して見せつけた処で、祐一の意識は途切れた。





 父親を捨ててまで手に入れた真琴との同棲生活。
 だがそんな蜜月の日々は、僅か一週間で灰燼に帰する。
 祐一と真琴の行く先に、果たしてどの様な物語が待ちかまえているのだろうか?











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