霞がかかった先に富士山の雄大な姿が見て取れる。
てっぺんに雪を頂き、雲一つ無い青空をバックにした富士の姿は、日本人にとって実に馴染み深い姿だろう。
日本の最高峰という事実と、なだらかな山肌が描くその見事なコニーデ型火山は、古来より日本人の心を引きつけて止まない。
その名は日本国内における最上級の意味も持ち合わせ、過去日本最長距離を走っていた寝台特急や、最高級の煙草、中島飛行機が計画した最大の爆撃機等の名称にも用いられていた。
ともあれ日本人であるならば、その名を知らぬ者は居ない霊峰を眺めて、祐一は一人考え事をしていた。
子供がはしゃぎ声を上げて祐一の脇を走り抜けると、飛沫が祐一の顔面にかかる。
後からやってきた父親らしき男性が祐一に詫び子供を叱りつけるが、その言葉は何も祐一には届いていなかった。
頭に載せていた手拭いで濡れた顔を拭くと、祐一は何事もなかったかのように無言のまま思案を続ける。
天井で冷やされた水蒸気が水滴となって祐一の鼻に当たっても、祐一は一人で考え込んでいた。
真剣な表情をしていたかと思えば、難しそうな表情で唸り声を上げたり、時にはいやらしそうな笑みを浮かべたりしている。
「旅ぃ〜行けばぁ〜♪」
突如、祐一の背後から野太い歌声が聞こえてきた。
見れば背中に派手な滝と鯉の入れ墨を彫った紋々が、気持ちよさそうに湯船に浸かりながら歌を唄っている。
先程の親子を始め、その場に居合わせた事で強制的に彼の歌声を聴かされている面々は複雑な表情を浮かべている。
「……」
だがそんな歌声も、こと祐一の耳には届いて居なかった。
彼は自分の置かれている立場を改めて認識し、喜びとと焦りと戸惑いとが入り交じった様な複雑な表情を浮かべながら、目の前の壁に画かれた富士山の姿を見つめていた。
天井からぽたりと落ちてきた雫が再び祐一の鼻を直撃する。
その瞬間意を決したのか、祐一は浸かっていた湯船から勢い良く立ち上がると、壁の向こう側へと声をかける。
「真琴ーっ、先出るぞ!」
頭に載せていた手拭いを腰に巻き付け、脱衣場へ向かう祐一へ「はーい」と女湯から真琴の明るい返事が聞こえてきた。
そんな声に祐一は胸の中で新たなる決意を固めると、反り立った股間をタオルで隠すようにして脱衣場へと向かった。
Tシャツと短パンだけのラフな格好に着替え終えた祐一が、「湯」と書かれたのれんをくぐり外に出て、見慣れぬ周囲の景色に目を向ける。
古めかしい家々がひしめき、小さな商店が軒を並べている馴染みのない風景が、祐一の目には新鮮に映る。
決して裕福な雰囲気は無いが、下町としての風情が色濃く残っているこの周囲には、かつて暮らしていた埋め立て地や新興住宅地には無い人々の活気が漂っている。
だからといって、彼の過去十数年の生活で培われた無関心無感動な精神が変わる事はないし、彼が他人に対して愛想が良くなるわけでもない。
新たな環境は、あくまで自分自身の新たなドラマを盛り上げる演出材料――いわば背景として受け止めているに過ぎない。
周囲を見回し終えると、祐一は銭湯の入り口脇にある自動販売機の前に立ち、ポケットをまさぐり中から小銭を取りだ出すと、滋養強壮を目的としたドリンク剤を迷わず購入した。
鼻歌を口ずさみながら受け取り口からビンを取り出すと、キャップを外して一気に飲み干す。
「ふぃ〜」
湯上がりの火照った身体によく冷えたドリンク剤が心地よく染み渡り、祐一は思わず声を上げた。
やがてサンダルが地面を踏む音に続き――
「お待たせいたしました」
控えめな真琴の声が背後から聞こえてきた。
「良い湯だったなぁ、まこ……」
飲み干したビンを片手に振り向いた祐一の前に、鮮やかな黄色のノースリーブ姿を纏った真琴が笑顔で佇んでいた。
乾ききっていない髪の毛は、二つに纏められている普段とは異なりストレートだ。
その濡れた髪型をした見慣れぬ真琴の姿に、祐一は目を奪われ声を失った。
狐を自称するだけあって見事なきつね色の髪の毛が、緩やかな風に揺れている。
「御主人様?」
自分を見たまま動かぬ祐一に、真琴は首を傾げて呼び掛ける。
艶やかで小さな唇が動き自分を呼ぶ様を、祐一は夢心地で見入っていたが、彼女の声が自分の名前を発していた事を理解すると、突然我に返る。
「お、おっし、帰るぞ真琴」
祐一は紅くなった顔を隠すように踵を返し、手にした手拭いを振り回しつつ歩き始めた。
「はい」
元気よく答える真琴がその後に続いて行く。
祐一は新たに始まった生活に、ただならぬ期待を抱き胸を高鳴らせていた。
自然に込み上げる笑い声を押し殺して、祐一は真琴と二人だけで暮らす部屋へと進む。
二人のサンダルが奏でる軽いリズムが周囲に響いていた。
「甘美な同棲生活か……まるで神田川気取りだね。でもまぁ少なくともボニー&クラウドを気取らなかったのはせめてもの救いかな?」
並んで歩き去っていく二人の背中を見送り、電柱の影から黒いスーツ姿の男が姿を現す。
手にしたカメラを懐に戻すと、頭をボリボリと掻きながら二人との距離を保ちつつ、後をつけるように歩き始める。
「あなたは〜もう忘れたかしら〜 赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた〜♪」
男は周囲には聞こえない程度の小声で神田川を口ずさみながら祐一達を尾行する。
前方の祐一と真琴は男に気が付くことなく、相変わらずサンダルの音を奏でながらゆっくりと進んでいる。
何処か遠くで花火の音が聞こえてきた。
真琴が嬉しそうに声を上げている光景を、男は少し複雑そうな表情で眺めてかったるそうに頭を掻いた。
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