埋め立て地の雑草が、その生命力の強靱さを見せつけるように背を伸ばしきった頃。
 夏の陽気の中では異質な雰囲気の人物が、その地の高層マンションを訪れた。
 その者は黒い帽子に真っ黒なサングラス、黒い長袖のシャツに黒い手袋、黒いスカートから伸びる細い脚は黒いストッキングで覆われ、黒いブーツへと続いている。
 手にしたアタッシュケースも含め、その女の身につけている物が全てが真っ黒だった。
 少し赤みがかった短めの髪の毛と、帽子とシャツの僅かな間に見せる白い肌だけが例外で、黒い全身の中でやけに浮いて見える。
 マンションの中程でエレベーターを降りると、この全身黒ずくめの女は確かな足取りでとある部屋の玄関先へと向かう。
「……」
 目的地と思われる部屋の前に立つと、ドアノブに伸ばしかけた手を止め無言でその扉を凝視する。
 その扉には紙が貼られており、それには『引っ越しました。ご用の方は――』という簡潔なメッセージと新居の住所と電話番号が書かれている。
「……」
 黒い女は無言のまま、そのメモを引き剥がして無造作にポケットへと押し込むと、踵を返してその場を後にした。
 ちょうど女がエレベーターの前に辿り着くと、そのドアが開き中から、赤いYシャツに少し薄汚れた黒いスーツ、そして茶色いサングラスという姿の細身の男が現れた。
「おっと、失礼……ん?」
 男はそう言うと、すぐさま道を譲るように脇にそれてエレベーターを出たが、黒い女の方はその男の存在そのものを無視するかのように、通路の中央を早足で進むと、一言も発さぬままエレベーターの中へと消えた。
「ふ〜ん。ありゃ同業かな〜?」
 下がって行くエレベーターのランプを眺めて頭をぼりぼりと掻きながら呟くと、男もそのまま目的地へと向かって歩きはじめた。
「さよな〜ら 言わな〜いよ〜♪ っと……」
 流行歌を口ずさみながら廊下を進み、目的の部屋の前に辿り着くと、男は表情を真剣なものへと変えその玄関をじっと見つめる。
 貼ってあったはずのメモ書きが無くなった扉を見て、「ふむふむ……」と呟きながら思考を巡らせている。
 すぐに考えが纏まったのか、ハンカチで汗を拭いサングラスをかけ直すとエレベーターへと戻る。
「やっぱさっきの女だよな。となると……新居の方で一騒動あるかな? さてさて」
 男はエレベーターの中で一人呟きながら懐へハンカチをしまい、入れ替わりに携帯電話の様な機械を取り出し、そこから伸びているイヤホンを耳に取り付ける。
 やがてエレベーターが一階に辿り着き男がマンションの外に出ると、イヤホンを通じてノイズ交じりに女の声が聞こえてきた。
「ふ……んふん……んふ」
「……」
 男は若い女の鼻歌らしき声を聞きながら、マンションの前に停めていたBe−1に乗り込むとそのまま車を走らせた。



















 夏の日差しが降り注ぐ中、素晴らしく見通しが良い平坦な大地に、一軒の住宅が存在した。
 見通しが良い理由は、この地が区画整理されただけのニューホームタウン建設予定地であり、その住宅以外の建物がまだ存在していないからだ。
 整地作業用の重機の姿もちらほら見える広大な更地の中、唯一存在している住宅は新築の輝きを放っており、その門の表札には「相沢」の二文字が彫り込まれている。

 日曜日の朝――相沢祐一にとって、かつて双眼鏡を片手にベランダに出ていたこの時間帯も、今や朝風呂に浸かりくつろぐ時間へと様変わりしていた。
「足下に風〜光が〜舞〜ったぁ〜っと♪」
 祐一は未だ新築の建物が持つ特有の香りが残る綺麗な浴室で、ご機嫌そうに鼻歌を歌いながら髪の毛を洗っている。
 手にしたシャワーでシャンプーの泡を流すと、浴室に差し込む朝日が跳ねる飛沫を輝かせている。
「ふぃ〜っ」
 シャンプーを流し終えた祐一が浴槽に浸かり気持ちよさそうに声を上げると、脱衣場の方から声が投げかけられる。
「御主人様〜お湯加減は如何ですか?」
 ガラス戸越しに真琴の元気な声が浴室に響く。
「ああ、丁度良いぞ〜」
 応じる祐一の声も弾んでいる。
「まっ・こっ・とぉ〜ん」
 やがて何か考えついたのか、祐一はにやけた表情をすると、気味が悪いほどの猫なで声を出して真琴の名を呼んだ。
「はい、何で御座いましょう?」
「お前も入らないか〜い?」
 それは如何にも『私下心持ってます』と宣言している様な口振りだった。
 真琴にとっては計算外の呼び掛けだったのだろう。
「え? あ、あのっ……」
 ガラス戸越しに真琴が息を呑み戸惑っている事がありありと判る。
「俺の背中を流してくれれば良いんだからさ。なぁ良いだろ?」
 見えないことを良いことに、祐一はにやついた表情も隠さずに追いすがる。
「でも……その、お食事の準備がございますし……その恥ずかしいです」
 ガラス戸越しに聞こえる真琴の戸惑った声に、祐一は浴槽の中で悶え苦しみながら言葉を絞り出す。
「何言ってるんだ。御主人様の命令だぞ? 食事の準備なんか後回しにしていいって。恥ずかしいなら目を瞑っててあげるから、早く入ってきなさい」
 欲望が理性を圧倒した所為だろう、最後は殆ど命令口調だった。
「は、はい」
 命の恩人の命令に屈したのか、真琴が戸惑いつつも応じると、祐一の頭の中はいよいよもって煩悩のお祭り騒ぎだ。
(いやっほーやったぁーっ御主人様最高! 真琴たん萌えファイヤァーッ! 万歳! 万歳! 万歳!)
 煩踊りを己の脳内に留めると、祐一は心の中で何度も万歳を行った。
 約束をした手前、祐一は浴槽内部で扉の方に背を向けると、両手で顔面を覆い隠した。
 視界は無くなったが、脱衣場で真琴が衣類を脱ぎ捨てているのだろう、布がすれて床へ落ちて行く音が聞こえてくると、祐一の鼓動はかつて無い早さのビートを刻み始める。
 ――ガチャ。
 やがて扉が開いた音が耳に届き、次いで控えめな足音と共に、真琴が浴室に入ってきた気配が伝わってきた。
 だがその間も彼の心臓は、その動作保証以上の速度で鼓動し続け、彼の股間の海綿体に血液を送り続けている。
(来た来た来た来た来た来たキタキタキタキタキタァァァァァァァッ! アアアアアアアアアアアアアっ!)
 叫び声は何とか飲み込むも、脳内では既に数秒後に訪れるであろう桃色の未来絵図が展開していた。
 彼の煩悩は、彼がこの世に生を受けてから最大級の衝撃映像を、瞬時に脳内へイメージ展開させる。
 ――背後で真琴がしゃがんだ気配。
(ま、真琴ぉぉぉぉっ!)
 このまま待っていては自我の崩壊は免れないと感じた祐一は、意を決し、残像が残る程の早さで振り向くと、顔を覆っていた両手を大きく広げ――
「ぶわぁ〜〜〜〜〜っ!」
 子供を驚かす様に大声で叫んだ。
 だが――
「……」
 祐一はまるで彫刻の様に、その動きを止め、目の前の状況の把握に務めている。
「……」
 彼の目の前に佇む者も、ただ黙ったまま祐一を見つめている。
「……あんた、まさか面白がってやってるんじゃないだろうな?」
 暫しの静寂の後、腹の底から絞り出すような声で祐一は、目の前でしゃがんでいる甲子国に向かって言い放つ。
 対する甲子国もまた、そんな息子に臆することはなく肩をすくめると、かけたままの眼鏡を浅日に光らせて祐一を睨みつける。
「この状況の何処が面白い? ん?」
「……っ」
 祐一は言葉を飲み込み、目を逸らした。

 その後の浴室で二人が口を聞く事は無く、ただ輝かしい陽光が差し込む中、それぞれの心中で互いの存在を呪っていた。







§







 窓の外に広大な更地を望む新たな相沢家の居間。
 まだ真新しい畳の香りも漂うその中央に置かれたテーブルの上で、コンロにかけられた鍋がぐつぐつと煮えている。
 鍋の中には魚や鶏肉、そして様々な野菜が見える。
 明らかに通常の朝食には不釣り合いな量と質だ。
 浴衣姿で上座の座布団へどかっと腰を下ろした甲子国は、その脇に用意されていた新聞紙を手に取り満足げに記事を読み始めた。
 新たなマイホームで迎える日曜日の朝は、甲子国にとって至福の一時であった。
 些細な事でヒステリック騒いだり、昼近くまで好き勝手に寝ている妻は居らず、何を考えているのか判らない息子に対する恐れも薄まっていた。
 そして何より、目が覚めれば適度なお湯が張られた風呂と、美味しそうな料理、そして新聞までもがしっかりと自分の席に用意されている。
 それは全て真琴の働きによるものであり、彼女のその献身ぶりには甲子国もすっかり気をよくし、彼の中で真琴の存在が非常に大きなウェイトを占める様になっていた。
 そんな事もあり、当初祐一のペット――実質的には住み込みの使用人――という立場にあった少女は、程なくして家族の一員として迎え入れられていた。
 手にした盆に茶碗や小鉢を載せた真琴が、楽しげにそれらをテーブルに列べて、空になった盆を持ち再びキッチンへと姿を消して行く。
 無論動作の合間に「失礼いたします」と、頭を下げて礼をする事も忘れない。
 甲子国は新聞から目を離し、少しの間そんな真琴の働きっぷりを見て表情を緩めると、再び新聞へと視線を戻した。
 彼にとって、ただ漠然と過ごす肉体的休息日に過ぎなかった日曜日は、今やそれだけに留まらず、精神を安定させ心を癒す本当の意味での休息日となっていた。
 食事の出来上がりを待つまでの時間ですら、今の甲子国には心地よく思え、キッチンから聞こえてくる真琴の鼻歌は、どの様なオーケストラやアーティストよりも、気分が和らぐBGMだった。
 やがて食欲をそそる香りに誘われるように、祐一がリビングに姿を現すといつもの場所へと腰を下ろし、テーブルの上の鍋に顔を寄せる。
「うお〜豪華豪華! ねぇ父さん美味しそうな寄せ鍋だよ」
 風呂場での一件が嘘のように清々しい表情と口調で祐一が声を上げる。
「ああ、その様だね」
 甲子国もまた何事もなかったかのような態度で新聞をめくりながら和やかに答えている。
 その様子は良好な家族関係を維持している父子の姿だった。
 一度は己の野生を剥き出しにした祐一と、父の尊厳にかけて武装蜂起した甲子国とが、良好な家族関係を維持する事は困難かと思われていたが、その間に真琴が入る事で、二人は何事も無かったかの様に立ち振る舞えるのだった。
 二人にとって真琴という存在は、緩衝剤であり、潤滑油であり、活力剤だった。
 少なくとも彼女の眼前で二人が啀み合う事は一度もなかった。
 やがてキッチンから黄色いワンピースに、可愛らしい狐の刺繍の入った白いエプロン姿の真琴が、スリッパを鳴らしながら炊飯器を運んできた。
「旦那様、御主人様、お待たせいたしました」
 真琴はテーブルの手前で一礼してから行儀良く正座をして、自分の脇へ炊飯器を置く。
 テーブルの上に用意されていた二人の茶碗にそれぞれご飯をよそい、笑顔で「はい、どうぞ」と付け加えて手渡してゆく。
「しかし、今朝は寄せ鍋か……確か昨日は」
 甲子国が新聞から視線を動かして鍋を見ると、笑みを含んだ表情で思い出す様に呟く。
「朝がすき焼き、夜は柳川」
 祐一が間を置かずに答える。
「そしてその前の日も……」
「朝は石狩鍋で、夕飯は湯豆腐だ」
 続く甲子国の質問に再び祐一が答える。
「更にその前に日が……」
「みぞれ鍋とキムチ鍋だった」
 過去全ての献立を覚えているのか、祐一は思い出す仕草も見せずにたちどころに答えていった。
「真琴は、本当に鍋が好きなんだな〜」
「はい。私憧れていたんです。家族全員でテーブルを囲んで、その日有った出来事を語らい楽しく食事を頂く一家団欒の一時……。家族と言えばやっぱり鍋が一番です」
 目を輝かせながら答える真琴に、甲子国は満足そうに頷くと、新聞を畳んで脇へ置いた。
 それが合図となり、三人が揃って箸を持ち――
「頂きまーす」
「頂きます」
 祐一と真琴が揃って声を上げる。
 甲子国は威厳に満ちた表情で「うむ」と頷き自分も箸を取った。
 それはまさに、絵に描いたような一家団欒。仲むつまじき家族の姿だった。



 真琴が相沢家を訪れたあの日曜日から、既に三ヶ月の月日が流れていた。
 その間に、相沢家の状況は劇的に変化していた。
 転居した事による物質的な問題や環境の変化だけでなく、住人の心境にも大きな変化が訪れている。
 特に変わったのは甲子国の精神面だろう。
 以前の、無気力無関心が蔓延っていた頃と比べ、今の甲子国には転居に伴う通勤時間の延長や経済的圧迫をもはね除ける強さがあり、一家の主としての気力がみなぎっている。
 祐一がどう思っているのかはともかく、甲子国の中では完全に家族の一員へと昇格した真琴は、彼にとっての心のオアシスであり生活における活力でもあった。
 朝起きれば――「お早うございます。旦那様」
 仕事から帰ってくれば――「お帰りなさいませ旦那様。お勤めご苦労様です」
 そして寝る時も――「お休みなさいませ旦那様。明日は何時にお起こしいたしましょう?」
 ――と、真琴は常に折り目正しい態度で応対していた。
 掃除洗濯から炊事は勿論、肩もみや耳掻きから風呂場での背中流しまで、真琴は家事を完璧にこなしていた。
 それら献身的なシャドーワークもさることながら、何より彼女が甲子国へ与えていた最大の安らぎはその「笑顔」だった。
 ここ十年以上もの間、妻の多美子に見ることができなかった笑顔。
 いや、安息だけではない。
 彼女の笑顔は「勇気」と「自信」と「威厳」までも、甲子国へ蘇らせていた。
 今の甲子国に以前の日和見的な駄目親父の姿は無く、威厳と貫禄が漂う誇り高き父親へと変貌していた。
 彼とて何も好きこのんで「食う寝るだけの駄目亭主」を演じていた訳ではない。
 自分を盛り立ててくれる家族という脇役が揃った時、父親はその本来持つポテンシャルを十分に発揮し、一家の大黒柱として、闘う家長として、家族のドラマの主役を張る事が可能になるのだろう。
 少なくとも、甲子国はそう考えていた。
 真琴が自分を盛り立ててくれたお陰で、彼は自信に満ちた家長となり、自信から産まれた威厳や貫禄は息子の祐一を圧倒している。
 もう真琴を手放すことは出来ない――例え彼女の正体が何であれ、甲子国にとって真琴は、彼の人生において必要不可欠な存在となっていた。
 だからこそ彼はこの新居の購入に踏み切った。
 あのマンションで生活していて暫くし、家族の一員として認知された頃、真琴は言った。
『出来ることならば家族だけで住みたいです』
『他の人とは同じ屋根の下に住みたくありません』
 そんな彼女の願いを聞き入れるように、甲子国は無謀だと知りつつも、マンションを引き払ってこの地へと越してきたのだ。
 彼の心がどれだけ真琴に傾向しているかが伺い知れるというものだ。
 甲子国の中には当然『既に若くはない自分にとって、より過酷となったローンの支払いに耐えきれるかどうか?』という心配は確かに有ったが、今の自信に満ちた彼にとって、それはさして恐れる問題では無かった。
 しかしそんな彼が恐れている事が、一つだけ有った。
 それは他でもない、息子である祐一の事だ。
 だがそれは、祐一という人間の戦力を恐れているのでわけではない。
 真琴と祐一は、『ペットと主人』という関係であり、それは文字通りの意味しか持っていない。
 いわゆる『歪んだ性癖の持ち主とその愛人』という事では決して無いのだ。
 だがそれはあくまで甲子国からの主観であり、祐一が同じように思っている事は決してない。
 実際、今朝の風呂場での例を見ても、祐一が真琴に対して邪な考えを抱いている事は確かと言える。
 いつ、真琴に対して「主人」という関係を通り越し、いや、むしろその立場を利用して、暴挙とも言える行動に出るか――それこそが、甲子国の抱いている大きな心配だった。
 
 心配事と言えばもう一つある。
 真琴と入れ違いで、まるで後ろ髪を引かれるように家を出ていった妻・多美子の事だ。
 家を飛び出してもう三ヶ月になるが、彼女からの連絡は一度もなく、それどころか実家は勿論、水瀬家を始めとする親戚の家に立ち寄った形跡もない。
 よほど自分のプライドが大事なのだろう。
 相沢の家を出た事すら、彼女の身内で知る者は居なかったのだ。
 ただ秋子の話によれば、一度水瀬家に多美子から電話が入り、十年前に有ったという例の狐保護に関する事を色々聞かれたとの事だった。
 それが出奔した多美子の唯一の足取りであり、その後彼女が何処で何をしているのか見当もつかない、
 だが、妻の実家や親戚の家に連絡を入れる際、甲子国の心情は心配よりもむしろ呆れの色が濃かった。
 例えその事実に甲子国自身が気が付いていないとしても、彼の心をしめる比重は明らかに真琴が多美子を上回っていた。


「頂きまーす」
「頂きます」
 よく晴れた日曜日の朝。
 新たな日常における一家団欒の一時。
 三人が笑顔で鍋に箸を延ばしたその瞬間――
「はいそこまで!」
 そんな声と共に居間のふすまが勢いよく開け放たれ、災厄は唐突に訪れた。







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