”ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン”
壁に備え付けられていた時計が十時を伝える。
今朝方までは退屈が支配していたいつもの相沢家のリビングだったが、突如現れた謎の少女によってその平穏は覆された。
少女を招き入れたのは祐一だったが、他人との接触を極端に嫌う多美子や、現状維持を最優先と考える甲子国にとって、彼女は明らかに招かざる客だった。
しかも面識の無いという祐一に抱きつき、あまつさえ「御主人様」と呼び慕う始末。
この異空間よりの使徒とも呼べる少女を、排除すべき存在と認知した多美子と、出来るだけ穏便にお引き取り願いたいと考える甲子国、そして御主人様と呼ばれ抱きつかれる事に満更でもない祐一。
三者三様の思惑が交錯する中、取り調べは行われていた。
リビングの中央に備え付けられているソファーセットに、甲子国と多美子が並んで腰を下ろし、反対側に祐一と少女が座っている。
少女は祐一の隣に座っているという事だけで嬉しいのか、事情徴収という現状にも関わらず、終始にこやかな表情を浮かべて質問に応じている。
祐一はと言えば、十分に美少女と呼べる少女に寄り添われて、妙に鼻の下を伸ばしただらしのない表情をしている。
反して向かい側に陣取っている甲子国は、まるで会社で大きな失敗をしたかの様な困惑と疲労に満ちた表情であり、多美子に至っては犯人の取り調べをしている捜査官の様に厳しい顔つきで、一言も発せずに少女の表情・仕草・反応・言葉等全てに注意を傾けている。
「それじゃもう一度確認するけど、君は本当にこの相沢家に用が有って来たんだね?」
「はい」
「間違いではないと?」
「はい。お稲荷様に誓って御座いません」
「しかし、この家に居る者は全員……君がその、御主人様と呼ぶ祐一ですら君を知らないのだが。これはどういう事かな?」
「それは、私がこの姿で御主人様の前に現れたのが、恐らく初めてだと思います故に致し方ないかと……」
少女の言葉遣いは非常に丁寧だった。
甲子国は、彼女の見た目の若さに反したその受け答えの流暢さに感心すると同時に、言葉の節々にどこか異質なものを感じていた。
「この姿って……以前は別の姿だったとでも言うのかい?」
「私が御主人様にお会いしたのは、今からもう十年以上も前の事になりますので、当然現在の容姿とは異なると思います」
「十年前?」
「すると何か? 俺と君は十年も前に会って以来一度も会っていないと?」
甲子国の驚きとも呆れともとれる声を遮り、祐一が目を見開いて素っ頓狂な声を上げる。
「そうです。嗚呼〜やっとお会いできました。私の御主人様」
心から喜ばしそうな笑顔を向ける少女を、祐一は腕を組み、首を傾げて改めてじっくりと観察する。
色鮮やかな黄色い帽子を膝に乗せた少女。
帽子同様に黄色いブラウスとフレアスカートにソックス、それらから伸びる手足は白く染み一つ見あたらない。
橙色に染められ二つに束ねている長い髪の毛に真っ赤なリボンが黄色の中で鮮やかに映える。
手荷物と呼べる物は全く無く、彼女の身分を証明できる様な物も当然何一つ無かった。
そうであるからこそ、今こうして家族総出で彼女の身元を確認しているわけだが――
「あの……御主人様? そんなに見つめられては、私……その、恥ずかしいのですが……」
「わ、悪い」
少女に咎められ、祐一が視線を慌てて戻すと、反対側のソファーで甲子国と多美子が睨みを効かせていた。
「ふぅ……十年前か。うーん……祐一は七・八歳かそこらで小学校の低学年。祐一、何か覚えてないのかい?」
慌てて姿勢を取り繕う祐一を睨んだまま、甲子国が尋ねる。
「そんなの、覚えてるわけ無いって。父さんだって十年前に会った人の顔なんか覚えてるかよ?」
「そ、そりゃそうだが……」
甲子国が口ごもり黙り込むと、リビングに秒針が時を刻む音だけが静かに響く。
「でもう一度聞くが、君の名前だけど……」
再び口を開いた甲子国の声には、疲労感と倦怠感が大量に含まれている。
中間管理職の彼にとって、面倒ごとは会社だけで十分過ぎるのだ。
祐一の思惑通り、彼があの扉を開け放った瞬間を持って、相沢家は非現実が支配する空間へと様変わりし、平穏を望んでいた甲子国の神経を衰弱させる結果となっていた。
「真琴です。沢渡真琴と申します」
少女は笑顔のまま丁寧に、そしてはっきりと答える。
「ああそうだったね。え〜と、沢渡真琴ね」
「はい!」
よほど自分の名前が気に入っているのか、少女は名前を反芻する甲子国に嬉しそうに返事をする。
そんな少女の元気さと笑顔に、少し気を和らいだ甲子国が言葉を続ける。
「え〜と、沢渡さん……」
「あ、呼び捨てで構いません。御主人様のお父様であれば、当然私の御主人様……この相沢家の旦那様です! 私に敬称は不要ですので、お好きなようにお呼び下さい」
少女からの申し出に、甲子国は思わず表情を緩める。
若くて可愛い女性から「御主人様」「旦那様」呼ばわりされれば、男としては当然の反応だろう。
だが、隣で黙ったまま座っている多美子にしてみれば、不愉快以外の何物でもなかった。
彼女は半ばガンをくれたような視線を隠すこと無く送り込み、少女を威嚇している。
それでも少女は臆することなく、笑顔と姿勢を崩さずに甲子国の話の続きを待っている。
「そ、そうか? うおっふぉん。 ならば……真琴」
少女の言葉に気を良くしたのだろう、甲子国の表情が一瞬大きくゆるみ、次いで威厳に満ちた表情へと変化した。
「はい」
「お前は私の息子である祐一の事を知っているんだな?」
”私の息子”と言う部分を敢えて強調しているのは、少女が御主人様と呼び慕う祐一よりも自分の方が、より高位の存在である事を誇示する為だろう。
甲子国の中で、つい先程の父子間で起きた危機は忘却の彼方へと追いやられ、自分こそがこの家の主であるという自信が沸き上がっていた。
「はい。旦那様」
「なぁ祐一、真琴の名前に聞き覚えはあるか?」
どことなく態度が大きくなった甲子国の問いに、祐一は憮然とした表情を浮かべるが、ふと隣からの期待に満ちた視線を感じて、その表情を和らげる。
「うーん、そうだな……」
祐一は普段の無気力さは何処へやら、過去の記憶を賢明に引っぱり出して、”沢渡真琴”の名前を検索し始める。
真剣な表情で考え込んだ祐一の横顔を、少女は期待に満ちた笑顔で見つめて無言の声援を送っている。
甲子国もまた腕を組んで、その存在感をアピールするかの様に厳つい顔で、息子を見守っている。
少女の笑顔が、相沢家の男共をすっかりと骨抜きに――否、活気を与えていた。
賢明な検索活動により祐一は、彼の霞がかかった様な過去の記憶に、沢渡真琴に関わる朧気な痕跡を発見する事に成功した。
「名前はなんとなーく聞き覚えがある……ような気がする」
だが、流石に不鮮明な遠い日の記憶は、祐一に断言をさせるだけの効力は無かった。
真琴と名乗る少女は、祐一の曖昧な言葉を聞いて落胆したのか、表情を曇らせ――
「そんな……この名を、沢渡真琴の名を覚えていらっしゃらないのですか?」
短く溜め息をついて頭を垂れる。
「い、いや……別に全く覚えてないって訳じゃなくてさ、心当たりは有るんだよ。本当」
落ち込む少女に祐一が慌てて弁明するが、彼女は俯いたまま両手の指を合わせてもじもじと動かしている。
「せっかく……せっかく御主人様から頂戴した名前ですのに……残念です」
「え゛? お、俺が?」
予想外の反応に、祐一はソファーから飛び上がる程に驚いた。
「はい。御主人様は私の名付け親……」
「祐一〜っ!! 貴様高校生の分際で隠し子を作るとは、あまつさえ娘に御主人様呼ばわりさせるとは何たる不道徳! 何たる大胆不敵!」
少女の声を遮って甲子国がソファーから立ち上がると、身を乗り出して祐一の襟首を掴み吠える。
日頃の弛んだ態度からは想像できない機敏な反応だ。
息子と対峙した際、メタルフェイスのドライバで武装しても尚不安が残っていた甲子国だったが、相沢家の家長としての自信に満ちた今の彼に、息子は今や畏怖すべき存在では無くなっていた。
「ち、違うっ!」
「嘘をつくな白を切るな空を言うな! 彼女自身がその口で、お前が名前を与えたって言ってたじゃないか!」
「し、知らん! 俺は何も。ねぇ君、冗談だよね?」
今朝以上の父親の迫力に、思わず少女へ助けを求める祐一だが――
「いいえ。私の名は沢渡真琴。そしてこの名を与えてくれた方の名は、相沢祐一様に相違有りません」
少女ははっきりと断言した。
「ほら見ろっ!」
少女の答えに甲子国は、祐一の襟首を掴んでいた手の力を一層強める。
「違うって言ってるだろ! 父さんこそ悪質な冗談に基づく意図的な誤解は止めてくれ。だいいち君の歳って幾つ?」
祐一は渾身の力で父親の腕を振りほどき、少女の方を向いて感じた疑問を投げかけた。
「一七だと思います」
少女は多少ばつが悪そうな表情を浮かべたものの、はっきりと答えた。
「ほら見ろ。一七の俺がどうやって一七の娘を産むんだ? 子供にだって判る理屈だろうが」
「むむっ」
祐一の反撃に、甲子国は言葉を飲み込んで腕の力を緩めると、その隙に祐一は彼の腕を振りほどく。
「そうだよ。第一、この年格好なら俺の隠し子と言うよりも、父さんの隠し子って言った方が適切なんじゃないの?」
「わ、私は知らんぞ!」
たった一言で形勢が不利となった甲子国を見て、ここぞとばかりに祐一は詰め寄ると、逆に襟首を掴み締め上げるた。
「はは〜ん、父さんもやるねぇ。俺と同い年っつー事は、17年間ずっと浮気を隠しつづけたわけか。なるほどなるほど」
「ゆ、祐一何を言うか! そんな事実は無い。なぁ真琴よ、お前の父親は私か?」
慌てて事実確認する甲子国に、少女は首を横に振って答える。
「いいえ旦那様ではございません」
「そら見ろ祐一。そもそも真琴はお前を訪ねてこの家に来たんだ、お前が責任をもって……」
「あんた父さんだろ? 相沢家の家長だろ? 家長なら家長らしく責任を持って事態の収拾をはかったらどうなんだ」
反撃の隙を与えないよう、祐一は甲子国の言葉を遮って叫んだ。
「家長だと? 課長は会社だけで十分だ。責任も追及も会社だけでうんざりだっ!」
祐一の言葉は改心の一撃となり、少女の態度に一時期は回復した父親の威厳をかなぐり捨て、甲子国は身体を小刻みに震わせながら感情を爆発させた。
「既に相沢家は非現実的な空間へと突入しているんだ、見せかけだけのホームドラマなんかもう通用しない。これからは例え家族であっても、互いの人間性と欲望をギリギリまで剥き出しぶつけ合うヘビィなドラマが始まるんだ。へっへっへっ」
祐一は目を背けようとする甲子国の頭を、襟首を更に強く掴んで強制的に自分の方へと振り向かせると、互いの顔がくっつく程の至近距離でせせら笑った。
「祐一!? 貴様今の状況を楽しんでるな? そうか、読めたぞ。これは悪質な茶番だ。この娘だって大方お前が街でナンパしてきた娘か何かだろう? 我が家をの平穏を混乱させて何が楽しい! 何が望みだ!」
混乱を怒りに転換し、甲子国は再び息子の襟首を掴む。
「話の論点をすり替えようとしても無駄だぞ父さん。現実に固執するなら、腹くくって家長の役割を演じてみせろ」
祐一も負けじと腕に力を込めた。
「問題のすげ替えをしているのはお前の方だ! いいか祐一、今私達が問題にしているのは、お前が真琴の名付け親だという事だ!」
「父さんこそ、自分にとって不利な話を持ち出されて逃げてるんじゃないのか?」
「な、何だと祐一っ! それが父親に向かって言う台詞か?!」
互いの首を締め上げつつ罵り合う二人、事態が泥沼の様相を呈してきた時──
「えーい! いい加減にしなさいっ!」
今まで黙ったまま少女を観察してきた多美子が立ち上がり一喝した。
その声に祐一と甲子国は互いの腕を収めると、お互いの席へと戻り腰を下ろした。
「事態が混乱した時は、まず事実関係の確認をして、現状を把握する事が大切です。今からこの場は私が仕切りますっ!」
多美子はそう言うと、正面で座ったまま静観していた少女を見据える。
だが、少女は別段気にした様子もなく、相変わらず笑顔でソファーに腰を下ろしたままだ。
「まずこの娘……事も有ろうに面識の無い祐一を”御主人様”呼ばわりする娘の正体だけど、私が考えるに四つの可能性が考えられるわ」
多美子が向かいに座る少女に睨むような視線を送りながら話を続けた。
「まずひとつ。祐一が仕組んだ悪質な茶番を演ずる為の共犯者である」
「自分で自分の立場を追い込んでどうするんだよ? それにもしも家庭を混乱させるつもりで茶番を演じさせるなら、父さんの隠し子って設定にするね。その方が破壊力絶大だ」
母親の仮説に、祐一は間を置かず反論する。
多美子は息子の反論を気にするでもなく、言葉を続ける。
「ふたつ。あなたがその隠し子を養育させる為に、相沢家の使用人として迎え入れようとしている」
「さっきも言ったがそんな事実は無い! 例えそうだったとしても、もう少しマシな言い訳を考えるよ」
甲子国もまた、妻の仮説に素早く異を唱える。
「では、三つ。この娘は気狂いである」
「酷いです……私、狂ってなんか居ません」
黙っていた少女が、さも心外とばかりに反論する。
「そう? それじゃ四つ。貴女は我が相沢家の財産を狙って入り込んだ詐欺師ね」
「財産って、そんなもの何処に有るんだ? 有るのは未払いのローンだけだぞ」
多美子の仮説に口を挟んだのは少女でなく甲子国だった。
「それに詐欺師だとしたらもっとマシな嘘を付くだろ普通。俺の子供だなんて突拍子もない嘘は使わないって」
祐一も続く。
「もう違いますっ! 私は御主人様の御友人でもなければ子供でもありませんし、ましてや気狂いや詐欺師などでも有りません! 私は……」
祐一達の見解に腹を立てたのか、はたまたプライドを傷つけられたのか、少女が言葉を荒げて言い放つ。
「私は、御主人様のペットです!!」
そしてリビングの刻が止まった。
「……」
「……」
誇らしげに微笑む少女を見て、甲子国と多美子は呆気に取られた表情のまま固まっている。
「……あの〜もしもし?」
祐一が少女と両親を交互に見比べながら声をかけると、刻は鉄砲水の様に一気に流れ始めた。
「いやぁぁぁぁっ汚らわしい! な、何がペットですか。祐一あなたはいつの間に人として謝った方向へ成長していたの! ああ、我が子が外道になってるなんて……」
「祐一、父さんはお前のことを本当に優しい子だと思っていたんだぞ。男の子であるなら、いつか父さんの前に立ちはだかる日が来る事は覚悟していたが、よりにもよって社会不適合者に育っていたとは……」
「違う! でっち上げだ! 言いがかりだ! なぁ君、えっと……」
「真琴、沢渡真琴です。御主人様のお好きなようにお呼び下さい」
「それじゃ真琴。今すぐ二人に説明してくれ。今のは嘘だ。場を和ませる為のジョークだって」
「ひ、酷いです。私嘘なんか付いてません。私はまごうかたなき祐一様のペットです。故に私にとって祐一様は御主人様に間違い有りません!」
少女は隣に座る祐一に詰め寄り、服を掴んで上目遣いで彼の顔を見つながら懇願している。
まさにその表情は、御主人様に捨てられる事を察して悲しむペットの様に見える。
「きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
「祐一っ! 御主人様という意味はそういう意味だったのか!」
「母さんも父さんもちょっと待ったぁ〜〜〜っ!」
ヒステリックに叫ぶ両親を制すると、祐一は少女の肩を掴んで引き寄せる。
「あのさ、さっきから気になっていたんだが……俺が君に名前を付けたって?」
「はい」
「沢渡真琴って?」
「はい」
「真琴……だけじゃなくて、フルネームで?」
「はい」
「それっておかしくないか?」
「はい? そうですか?」
「沢渡って名字だろ? まさか沢渡真琴ってのが名前ってわけじゃないだろ」
「よく判りませんが、沢渡真琴こそが私の名前でして、それ以上でもそれ以下でも御座いません」
「じゃ君のご両親はどうしたんだ?」
「健在ではないかと思いますが、その……よく存知ません」
「は?」
「あの……信じては貰えないかもしれませんが私、実は記憶が曖昧なんです。ただ”恩人である相沢祐一様に仕える事が私の使命”という一念が私を突き動かして居るのです」
「そんな不確定な自己意識だけで、この家まで来たと?」
「はい。ですから……その、私をこの家に置いて頂けないでしょうか? あ、勿論家事はお手伝いさせて頂きます。記憶があまり無くとも、掃除洗濯炊事雑用等であれば何でもこなせる自信があります」
真琴はそうきっぱりと言い切ると、正面を――多美子と甲子国の顔を見据える。
「じょ、冗談じゃないわ。見ず知らずの他人を家に置くなんて……それも素性の知れない娘なんて、何を企んでるか判ったものじゃない! そもそも記憶が無いなら、人間違いの可能性だって有るじゃない。あなたの探している相沢祐一はこの子とは違うんじゃないの? 実際この子はあなたのことなんか知らないみたいだしね」
近所や隣の人間ですら敷居をまたがせない多美子にとって、赤の他人を同居させる事など、許し難い行為である。
「いいえ。私は一目見て確信しました。この方こそ私の探し求めて居た相沢祐一様だと」
「その様な漠然とした事で貴女と祐一の関係を証明した事になならないわ。貴女と祐一を結びつける確固たる物証が必要よ。それが出来ないのならさっさと去りなさい」
「記憶が無い者を……せっかく心当たりのある方の元へ辿り着いたこの哀れな娘を放り出すのですか?」
「当たり前です! 記憶が無いと言うならさっさと警察か病院に行きなさい。いきなりやって来た見ず知らずの他人、しかも自称記憶喪失者をすんなり受け入れるなんて事、出来るわけないでしょう」
「嗚呼〜」
多美子の言葉に、少女は両手で顔を覆いながらめそめそと泣き崩れる。
その半ば芝居がかった態度に、祐一と甲子国は腰を浮かす。
「あ……」
「おい多美子……」
「貴方達は黙ってなさいっ! 良いこと、家庭の平和は災厄を未然に防ぐ事が重要なの。こんな自称”祐一のペット”等という素性の知れぬ娘が居座ってたら、我が家の平和が乱れることは必至です! 世間に顔向け出来ないわ」
祐一と甲子国は、涙を浮かべ表情を陰らせた少女に狼狽するも、多美子は世間に背を向けて生きる自分を棚に上げ、きっぱりと言い切った。
更に玄関を指さして”出て行け”と、追い打ちをかける。
「さぁ泣いても無駄よ。さっさと出て行きなさい」
「しくしく……秋子様であれば、このような仕打ちには……」
少女が何気なく口にした言葉に、多美子の表情が変わる。
「貴女、今何て言ったの?」
「はい? 私何か変な事言いましたか?」
驚く多美子とは裏腹に、少女は表情を戻して淡々と応じる。
「だーかーら、何で貴女が秋子を、私の妹を知ってるのよ?」
そんな少女に苛立ちを募らせた多美子は、表情をより険しくして追求する。
「えっと、秋子様ですか? ああなるほど、あの方は奥様の妹様でいらっしゃいましたか。あまり似ていらっしゃらなかったので気が付きませんでした。申し訳御座いません」
「きぃぃぃ〜〜〜っ!」
笑顔で応じる少女に、多美子は超音波の様な高域声を発しながら髪の毛を掻きむしる。
「ちょっと待ってくれ、まだ肝心な事聞いてないんだ。さっきから君は「ご恩」って言ってるけどさ、俺が一体何をしたんだ?」
「はい。命を助けて頂きました」
少女は笑顔のままあっけらかんと答える。
「へ?」
対する祐一は自覚が無いのか、目を点にして目の前の少女を見つめたまま固まっている。
そんな祐一を見て満足げに微笑むと少女は続けた。
「私は祐一様に助けて貰った事で九死に一生を得たのです。御礼の言葉だけでそのご恩を返すことは私の流儀に反します。いつしか再び御主人様にお会いできると信じて待っておりましたが、何年待てども御主人様の方から私の元へ来て下さりませんでした。ですから私がご恩を返す為、祐一様を探しだし御主人様の元でご奉公するべく訪れたのです」
「俺が? 君の命を??」
「はい」
「十年前に?」
「恐らくは……」
祐一は身に覚えが無いのか、唖然とした表情で彼女の顔を見つめ、少女はそんな祐一をニコニコと笑顔で見つめ返す。
「えっと……」
「待ちなさい!」
祐一が何かを口にだそうとした時、それを遮るように多美子が声を荒げて立ち上がる。
「はい?」
「そんな事より私の質問い答えなさい。何故あなたが秋子を知っているの?」
多美子はびしっと音が立つような仕草で、正面に腰掛けている少女を指さす。
「私そんな事言いましたか?」
「貴女私を馬鹿にしているの?」
「い、いいえ滅相も有りません。ただ、秋子と名乗った優しい女性の事が私の記憶の中、微かに残っているのです」
「それじゃ何よ、貴方は秋子とも面識があるというの? という事は……あの街、水瀬の家を訪れた時に祐一と出会ったというの?」
ヒステリックな多美子とは対照的に、少女は変わらぬ態度で指を口元に運に「え〜と」と少し悩むような仕草をした後で口を開いた。
「今から十年程前になります。怪我をした私は祐一様に拾われ、そして秋子様は祐一様が連れてきた素性を知らない私を温かく迎え入れて下さったのです。そしてお二方の尽力により私は一命を取り留めたのです。私が今こうして生きていられるのはその賜物です」
「確かにあの馬鹿正直で人を疑う事をしない秋子ならそうかもしれないけど……ちょっと待ってなさい。確認するわ」
多美子は何か思案に耽りながら立ち上がると、寝室へと消えていった。
「なぁ祐一。私はさっきから考えていたんだが、沢渡真琴って名前の娘が、前に住んでた家の近所に居なかったか? ほら、お前が小さかった頃時々遊んでくれた……」
今まで黙っていた甲子国が、座ったまま微笑んでいる少女を見ながら言う。
「ああっ!」
近所付き合いの嫌いだった多美子は覚えていなかった様だが、甲子国は自分の記憶の中に、かつての近所に住んでいた気立ての良い娘に、沢渡真琴の名を思い出した。
「あれ? でもあの人はもっと年上のはずだし……俺があの人を助けた事なんか無いぞ。それに秋子さんが看病って事は……ん?」
甲子国の言葉で、記憶に残っていた沢渡真琴の名の正体を思い出す事は出来た祐一だったが、新たなもう一つのキーワードである秋子の名に、更なる過去の記憶を思い出し始めた。
そして、その事が祐一を更に困惑させるものとなる。
なぜならば、伯母の水瀬秋子と祐一が記憶する沢渡真琴の二人には接点は無いからだった。
「ふっふっふっ……」
突如不気味な笑い声がしたかと思うと、寝室のドアが開き多美子がやってきた。
「多美子?」
「貴女……沢渡真琴とか言ったわよね?」
「はい」
「たった今あなたの事を秋子に聞いたけど、あの子には瀕死の人間を助けた事もなければ、”沢渡真琴”って名前の娘の知り合いなんかいないそうよ」
多美子は勝ち誇ったような笑みを浮かべて少女に語り続ける。
「ふふふふっ……どうやら化けの皮が剥がれてきたみたいね。貴女が何処の誰かは知らないけど、も〜うこれ以上この家に留まる事は、この私が許さないわ。さあ、さっさとこの家から出ていきなさい」
そう言い終えると、多美子は再び玄関を指さした。
だがそんな仕打ちにも、少女は臆することなく平然と多美子の目を見つめたまま静かに口を開く。
「奥様? 先程も申し上げましたが私、十年前とは容姿が異なります」
「だから何よ?」
「今の私を秋子様に聞いたところで、当然お判りにはなりません。それに私の名は、御主人様以外に知る方がおりません」
「そんな言葉に引っかからないわよ。あなたは記憶がないという事で自分の存在を誤魔化し、十年前というあやふやな記憶を証明に使う事で、自身を正当化しているに過ぎないわ。他の者は騙せてもこの相沢多美子を騙す事は出来ないわよ」
「ですが、それが事実である以上、私はこれ以上ご説明申し上げる事ができません。どうか信じては頂けませんでしょうか?」
「何をもって信じろと言うの? あなたの存在を証明する物的証拠が無い以上、私はあなたを認める事は出来ないわ」
「あっ!」
二人のやり取りを外に、自分の記憶を整理していた祐一が不意に声を上げる。
「ど、どうした祐一?!」
甲子国が驚いた様に尋ねると、祐一は両手で頭を挟むようにして問題の少女の姿を見つめていた。
「ま、まさか……いや、そんなはずがない」
少女を見つめる祐一の顔が強張って行く。
「どうやら祐一様には思いだして頂けた様ですね。うふ、流石は私の御主人様です」
祐一の態度に、少女は安堵の表情を浮かべると、嬉しそうに祐一へ微笑み返す。
「祐一、この娘は一体何者なの?!」
「そんな馬鹿なこと……」
多美子の声が聞こえていないかの様に、祐一は一人、少女を見つめながら呟いている。
「あ、あなたは一体何者なのよ?!」
反応がない祐一にさっさと見切りを付けると、多美子は狼狽え気味に少女に尋ねる。
「先にも申し上げましたが、私にははっきりとした記憶が有りません。ですが、そんな中でも二つだけはっきりとしている事がございます」
少女は変わらず落ち着いた態度のまま、ゆっくりと話を始めた。
「一つは、私は祐一様とそのお家に仕えなければならない。その為にこの家を訪れたという事。そしてもう一点は……これは奥様が知りたい事そのものであると同時に、本来ならば御主人様をはじめ、他人には一切知られてはいけない事なのです」
そこで言葉を区切ると、少女は周囲の様子を見回し、そして再び話を続けた。
「……今ここでそれを言ってしまいすと、私はこの世の中で、この家以外に存在して行く理由を失う事になります」
再び言葉を止めて多美子を見据えると、表情を少し曇らせて続けた。
「ですから……もし、今から私が申し上げる事を、御主人様が……祐一様が認めて下さいましたら、私をこの家に置いて頂けますか?」
「いいわ」
”正体”や”秘密”という甘い蜜にも似た言葉に誘われた様に、多美子はいとも簡単に頷いた。
「本当ですか?」
「主婦に二言は無いわ」
「そうですか……それでは、私の正体を申し上げます」
少女の言葉にリビングに居る者全員が、息を飲み込んだ。
「私の名は沢渡真琴。今から十年程前、祐一様に命を救っていただいた狐でございます」
しばしの静寂。
「はい?」
少女の言葉を飲み込めない甲子国の顔から、眼鏡がずれ落ちる。
「な……」
驚きを通り越し、呆れた表情を浮かべた多美子がやっと声を出す。
「秋子様にも手当をして頂きましたが、祐一様には毎度の食事のお世話から、まだ子供でした私と一緒に遊んで頂き、毎晩同じベッドで一緒に寝ておりました」
言葉を区切り、祐一へ向き直った少女は、にっこりと笑顔を向けて口を開く。
「御主人様、私はあの沢渡真琴です。貴方が助け、名を与えて下さいました狐の沢渡真琴です」
「そんな……そんな事信じられるはずないでしょ! この娘は頭がおかしいのよ! 祐一さっさと追い出してっ! 追い出しなさいっ早く!!」
少女の宣言を聴いて素早く反応を示したのは、祐一ではなく多美子だった。
「母さん……」
「多美子……」
ヒステリックに叫ぶ多美子を、祐一と甲子国は何処か冷めた様な表情で見つめている。
「何故ですか? 私が狐だという事実を受け入れて頂けないのでしたら、その根拠をお示し下さい」
「根拠ですって? 普通に考えてそんな事あり得る分けないでしょ! おかしいわよ絶対っ!」
「そうかな?」
「ゆ、祐一?」
「確かにそうだ。だってそうだろ? 狐云々が出鱈目だって論じるなら、さっき母さんが言った”父さんの隠し子”って説だって同じだよ。可能性って事で考えるなら同等に扱うべきだ」
「そうだな、少なくとも論理的ではある」
祐一の意見に同意する甲子国をみて、多美子は再度感情を爆発させる。
「馬鹿馬鹿しい! 貴方達はこの娘の世迷い言を信じるというの? 狐の恩返し? はっ! そんなSFかファンタジックな物語が現実に存在するわけないじゃないの!」
「母さん」
「狐が人間になって住み込みの家政婦になるですって? 一体どういう理屈よそれ」
「母さんっ」
「きっとこの娘は精神病院から抜け出してきた気狂いよ! 私達の様な幸せな家族を妬み、そしてその温もりに引き寄せられてきただけなんだわ。そうよ!」
「母さんっ! 俺の話を聞けよ!」
狂ったように叫ぶ多美子の肩を掴むと、祐一は大きな声で呼び意識を向けさせた。
「ゆ、祐一?」
「母さん……俺、覚えがあるんだ」
「ひぃっ!」
祐一の言葉に自分の論理を否定された事に気が付くと、多美子は言葉にならない悲鳴を上げる。
それでも祐一は、目を見開き震える母親の肩を放さず、目を見据えたまま言葉を続けた。
「確かに俺は昔、母さん達に連れられて名雪ん家に遊びに行った時、怪我した子ギツネを拾ったんだよ。そして俺は当時憧れを抱いていた近所のお姉さんの名を、その子ギツネに与えたんだ。そしてその名は……」
「聞きたくないわ、止めなさい祐一」
頭を振りながら懇願する母親を無視して、祐一はとどめの一言を口にした。
「その名は……沢渡真琴だった」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ! あなた、この娘を追い出して頂戴……お願い」
悲鳴を上げ息子の腕を振りほどくと、多美子は震える自分の身体を抱きしめながら、普段の態度からは想像出来ない程弱々しい声で夫に懇願する。
「多美子……」
「その子ギツネに沢渡真琴という名を与えた事は、俺以外知る者はおらず、唯一の例外は、その名を与えられた本人に他ならない。彼女は……真琴は、確かにあの時俺が助けた真琴なんだよ」
「追い出して、早くこの家から追い出して……」
多美子は祐一の言葉が聞こえない様に両手で耳を塞ぐと、震えながら甲子国に助けを求める。
だが甲子国は苦渋に満ちた表情のまま動かなかった。
「お願い……もしも、その娘を受け入れるというなら……私が、私がこの家を出ますっ!」
「多美子……」
甲子国は部屋の隅で少女を見ようともせずに震えている妻の姿と、そしてソファーで座ったまま変わらぬ笑顔を向けている少女の姿を見比べる。
そして、暫く間を空けてから意を決したように口を開いた。
「多美子……。真琴は遠くから僅かな記憶だけを頼りに、やっとこの家に辿り着いたんだ。そしてこの家以外に身寄りが無い。私にはそんな真琴を放り出す事など出来ない。判ってくれ」
甲子国が喉の奥から絞り出すような声で思ったことを全て吐き出すと、リビングに長い静寂が訪れた。
”ボーン”
静かなリビングに、時計が十時半を伝える音を響かせると、多美子が項垂れたまま立ち上がる。
「そんな……長年寄り添い尽くして来た私が、こんな素性の知れぬ小娘に負けるなんて……」
小さな声で呟きながら、多美子はおぼつかない足取りで寝室へと消えて行った。
その後しばらく、多美子は祐一や甲子国の呼びかけにも応ぜず、寝室から出て来る事はなかった。
ただその間寝室からは、時折何かを動かしたり、倒れる物音が聞こえてきていた。
正午近くに、真琴の為の生活用品を買いに三人が連れ立って出かけ、そして昼過ぎに揃って戻って帰った時、多美子は忽然とその姿を消していた。
驚く程綺麗に整理整頓されていた部屋に、ただ一通の手紙だけが残されていた。
そしてその手紙には、短いながらも多美子の強い決意が感じられるメッセージが記されていた。
『私は本日この家を出ます。
しかし、決して追われて出て行くのではありません。
全てに決着を付けるべくこの家を出て行くのです。
必ず戻ってきます。
それまでの間、暫しのお別れです。
あなたと祐一へ。
多美子』
風が初夏の香りを運んでくる様になった、ある晴れた日曜日。
普段と同じ一日が始まるはずだったその日。
沢渡真琴は相沢家へと居候する事となり、そして入れ変わるように相沢多美子がその姿を消した。
破壊と混乱に彩られた新たな生活。
その行く末に待つものは、果たして如何なる物語なのだろうか。
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