その日もまた、彼は自宅のマンションのベランダに出て、青く晴れ渡った空と、その下の大地ををぼんやりと眺めていた。
 彼の佇むベランダは、地上四〇階建ての高層マンションの半ばの階層にある為、周囲の風景はかなり遠くの方まで見渡す事が出来たが、その目が捉える光景は、実に殺風景なものだった。
 春の日差しを受けつつ風に靡く草原――と言えば聞こえは良いかもしれないが、実際は雑草の生えた空き地に過ぎない。
 彼が家族と共に住むこのマンションは、戸籍的には東京都に当たるものの、都心から大夫離れた湾岸地区にある開発途上の埋め立て地にあり、周囲は地均しが済んだだけの空き地しか存在せず、それらは整地後に放棄された状態になっており、春の訪れと共に姿を現したセイタカアワダチ草がみっしりと群生して黄色の花を咲かせている。
 雑草がひしめく埋め立て地に立つ巨大なマンション。
 その周囲に別の建物はない。
 八〇年代半ばに計画されたものの、その後の不況で開発途中にも関わらず放棄された湾岸開発地区――まさにバブル経済崩壊の爪痕と言えるだろう。
 その近隣にコンビニ等の売店の姿はなく、更に幹線道路からも遠く離れている事から、「陸の孤島」という比喩が当てはまる。
 当然、不便この上ない土地であるから、住もうとする者は少なく、このマンションは外見上の立派さとは裏腹に、住人は定数の三割にも満たない。
 であるならば、所有者がその不動産を維持する事は困難なはずであり、実際問題として一度壊れた部分に関しての補修はおざなりとなっている。
 この埋め立て地最後の砦とも言うべき、このマンションが破棄されるのも時間の問題だろう……というのが、残った住人達の一致した見解だった。
 一致と言っても彼らが直接話し合って、その意見を交換した末に出来た共同声明ではない。
 このような都会の中の過疎地に住もうとする者共が、近隣住民との地域的貢献に協力し合ったり、夕食の献立をお裾分けしたり、昼下がりに誰かの部屋に集まり井戸端会議やお茶会を行う様な関係を築くはずもなく、各々がそれぞれ頭の中でそう思っているだけである。
 彼らは皆、”近所付き合い”という世間の最小生活協同意識を持たぬ者達であり、自らの両親の介護や世話といった血縁的貢献すらも投げ出して気ままに生活する核家族や、世間に背を向けて暮らす一人者ばかりだった。
 (尚、それなりに高価な物件では有るため、集団生活を余儀なくされる様な不法外国人労働者の姿は無い)
 そんな者達がごく僅かに暮らすマンションであるから、日曜日の今時分――まだ早い時間である事も手伝い、周囲に人の声は聞こえない。
 ベランダに佇む彼の耳には、鳥達の囀り声と、遠くの首都高速湾岸線を走る車の音が微かに聞こえる程度だった。
 それは彼にとって、反吐が出る様な程に馴染み深い状況だった。
「……ん?」
 苦悶に満ちた表情で馴染み深い光景を眺めていた彼の耳が、聞き慣れない音を捉えた。
 彼は首からぶら下げていた双眼鏡を手に取ると、すぐさま周囲の状況を観察し始めた。
 だが特別変わった様子はなく、何度見ても先週の同時刻のものと大差ない光景が目に映るだけだった。
「……」
 彼は双眼鏡を放すち、目を閉じて聞き慣れない音に集中する。
 程なくして、その発信源が上空である事に気が付いた。
 目を見開き上空に向けるや、彼の目が青い空に浮かぶ大きな黄色い飛行船の姿を捕らえた。
 青空を漂う様に飛んでいる飛行船を、彼は期待に満ちた目で見つめていた。
 体積のその大半を占めるバルーン部分に、でっかい企業広告が描かれた黄色い飛行船。
 彼は初めてプレゼントを貰った子供の様な表情で、広告媒体に過ぎない黄色い飛行船を眺めていたが、やがてそれがマンションの上空を横切って行くにつれ、その表情は薄れ、代わって落胆の色が濃くなっていった。
 飛行船が完全にマンションの上空を通過する頃には、まるで恋人に振られたような表情にまでなっていた。
 それでも彼はすがるように双眼鏡を再び手に取ると、徐々に小さくなってゆく飛行船の姿を追った。

 彼が休みの日の早朝に、双眼鏡を片手に外を眺める様になってから、もう随分と月日が流れている。
 親からもらった小遣いで買った双眼鏡は、彼をこの退屈な牢獄から抜け出す為の重要なアイテムになるはずだった。
 ムカつきすら覚える光景の中で同じ事の反復が続く日々――それら屈極まりない日常を破壊してくれる「何か」を探す為、彼は双眼鏡を手に取る事を習慣とした。
 しかしそんなモノが見つかるわけもなく、希望のアイテムが写し出すモノは、雑草に埋め尽くされた埋め立て地という、変わらぬ現実だけだった。
「行っちまった……くそっ」
 先程見えた飛行船は既に遠くへと飛び去っており、双眼鏡をもってしても、彼の視界には青い空に浮かぶ染みの様にしか映らなくなっていた。
 飛び去っていった飛行船を見て、彼の心は非常にささくれ立った。
 あの飛行船こそ、彼を退屈な日常から解き放つ使者だったのかも知れなかったからだ。
 少なくとも彼はそう思っていた。

 例えばあの飛行船がこのマンションに追突し、突如起きた事故に周囲が騒然となる。
 パニックとなったその状況の中で、彼は燃えさかる飛行船へと飛び移り、中から少女を救出するのだ。
 しかもその少女は何故か手枷を付けられており、その少女を助けた事で謎の追っ手が迫る事となり、彼の両親は殺害されてしまう。
 殺された両親を想い涙を流しつつ、飛び交う銃弾を避けて彼は少女の手を引き、そんな夢のような現実を呪いつつ二人で逃避行へと向かう。
 ――そんな破壊と混乱、血と硝煙に塗りたくられたドラマティックな展開。

 しかしどうだろう。
 現実には、ただの広告媒体に過ぎない飛行船が、いくら高層とはいえ、マンションに追突するような高度を飛行しているはずもなく、ましてやその内部の囚われた悲劇のヒロインが居る訳でもない。
 現実には髭を生やしたむさい男が、あくびをしながら操縦桿を握っているだけなのだろう。

 双眼鏡をかざしても見えなくなった飛行船に見切りをつけ、彼はその視線を下界へと向ける。
 しかし其処には初夏の日差しを受けながら、一面に咲き乱れるセイタカアワダチ草が見えるだけだった。
 何も起きない。
 起きるはずがない退屈な日曜日。

 自分が置かれた現実を吐き気を催す程に認識すると、彼は諦めて双眼鏡を首から外し、部屋へ戻る事を決意した。
 ベランダからガラス戸を開けてリビングへと戻ったところで、気怠そうな声がかけられた。
「何か見えたか?」
 見ればソファーには、下着だけのだらしない姿の父親が座っており、広げたスポーツ新聞を読んだまま振り返ることも無く彼にそう尋ねていた。
「何かが見えた様な気がしたけど……あくまで気がしただけで、実際には何も見えなかったのかもしれない……どう思う?」
「うーん、見ていたわけじゃないから、父さんには判らないな」
 息子の抽象的な言葉に答えを詰まらせたのか、父――甲子国(きねくに)は、新聞から目を離さずに上の空で応じた。
「そりゃそうだろうさ……見ていたのは俺であってアンタじゃないからな」
 祐一は極めて小さな声で呟いた。
「ん? 何か言ったか祐一?」
「いや、何でもないよ父さん」
 そう答えながら手にした双眼鏡を乱雑にソファーの上に放り投げ、無表情でガラス戸の脇に立てかけて有った金属バットを手に取ると、ソファーに座っている父親の姿を改めて見る。
 既に中年真っ直中といった見かけの父親は、グンゼのシャツ一枚で隠しただけの、その脂肪でたるんだ腹を恥じることなく見せつけている。
 はげ上がった脳天には、疎らに髪の毛があるものの、日曜という事もあって手入れはされていない。
 長い年月使った事でフレームが歪んでいるのだろう、時折手で眼鏡の位置を整えながら、新聞の三面記事を追っている。
 そんな父親の姿と、態度に何を思ったか、彼――相沢祐一は、手にした金属バットを振りかぶり、そして力強く振り下ろした。

”ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン”

 バットが空を切る音と、壁に掛けられた時計が九時を告げる音が同時に響く。
「ん? どうしたんだ祐一?」
 自分の背後で突如始めた息子の奇行に、甲子国は新聞のページをめくる腕を止めたまま振り向くと、祐一に哀れみともとれる感情を込めた視線を送る。
「素晴らしい天気だよ父さん」
 口調こそ大げさだが、どこか感情のこもってない声でそう伝える。
「そっか」
 短く応じるとすぐに視線を新聞へ戻す。
 そんな甲子国の声にも、天候に対する感心は微塵も混じられず、むしろ『そんなもの見れば判る』というニュアンスこそ含まれている。
「素晴らしい天気だよ〜父さん」
 父親の態度を見て、祐一はより大げさに、半ば芝居がかった口調で同じ台詞を口にした。
「その様だね」
 息子の口調が変わっても、その話題に興味を示す事にない甲子国は、振り向くこともせずスポーツ新聞を読んだまま短く答えると、机の上に置いてあるテレビのリモコンを手探りで手にする。
「ねえ父さん。目を覚ましてベランダから外を眺めた時、俺は考えたんだよ。『こんな素晴らしい休日をどうやって過ごすべきか?』って」
 祐一は言葉を止めると、振り向いて窓の外に広がる青い空を眺め、手にしていた金属バットを軽く肩を叩くように動かしてみせる。
 そんな息子の言動に、甲子国の中で小さな疑問が浮かび上がってきた。
 普段の祐一であれば先のやり取りで会話は終わり、そのまま自室へと戻ってお互い勝手気ままな時間を過ごす事になるはずだった。
 だが、今朝の祐一は、未だに甲子国との会話を続ける事を欲しているのか、自室へ戻る事もせず、見覚えの無い金属バットを手にして彼の背後に立っている。
 普段と異なるシチュエーションに、甲子国はやっと探り当てたリモコンを使用せずにテーブルに戻すと、面倒だと思いつつも会話を続ける事にした。
「それで?」
 甲子国が静かに告げると、肩に乗せていた金属バットを弄びながら祐一は再び話し始める。
「ほら、今朝のこと覚えてる? 俺が起きて洗面所で顔洗ってると、後から父さんがやってきただろ?」
「ああ」
「挨拶もそこそこに、ステテコ姿で新聞を片手に便所に入っていった父さんの姿を見て思ったんだ。『ああ、今日も父さんは一日中家でゴロゴロする気だ』ってね」
「祐一、父さんは……」
「良いんだって、別に。だって父さんは日々の仕事で疲れてるんだ。海外栄転の話が流れたと言っても、俺達家族の為にせっせと働いてるんだから、たまの休日くらい下着姿のまま新聞読んだり昼寝したり、大して面白くもないテレビのスポーツ番組を観て、おならしたりして、無気力にダラダラと過ごしたって……」
「ゆ、祐一! と、父さんの休日の過ごし方をお前にとやかく言われる必要は……無いだろ?」
 甲子国は遠慮のない皮肉が込められた息子の言葉に、表情を険して振り返るも、祐一の手にした金属バットと、息子のかつて見たことが無い感情のこもっていない目を見るに付け、その語尾を尻窄みに小さくさせた。
 そんな父親の態度を見て、お互いの戦力差を把握したのか、祐一は未だかつて無い高揚感を感じながら、金属バットを肩に担ぐと口元に薄ら笑いを浮かべて言葉を続けた。
「判ってるって。俺にとって今日という日はありふれた一日であっても、父さんにとっては特別な日なんだよね。だからそんな疲れているお父さんに、余計な気苦労とか気を使わせない様、俺がまるで家出をするかのように川向こうの街へ飛び出して”今日”という休日を父さんにプレゼントできたら素晴らしいんじゃないだろうか……そう思ったんだ」
「なら何でそうしなかったんだい?」
 息子の言葉が一段落した事を察し甲子国が尋ねる。
「そうしたいのは山々だったんだけどさ……」
 祐一は答えながら父親の真後ろに立つと、幾分かトーンの下がった口調で言葉を続けた。
「実は小遣いが無いんだ……しかも一銭も」
 そう呟くと祐一は、肩に担いでいた金属バットを両手で持ち直す。
「無いって、まだ月初めだろ?」
 背後に回った祐一がバットを持ち替えた事を気配から察して甲子国に緊張が走るが、父親としての尊厳を保つべく、緊張を表に出さぬよう取り繕い、彼は言葉を絞り出した。
「実はさ、昨日見てしまったんだよ。駅前のスーパーの横にあるブティックのショーウィンドウで、メンズ・ビギの春物のセーターを。それは素晴らしい色だったんだよ。一斉に咲き乱れるセイタカアワダチ草の花の様に鮮やかな黄色のセーター」
 そんな父親の苦悩も知らずに、祐一は先程とはうって変わって、半ば陶酔気味に語る。
「買ったのかい?」
 甲子国はそんな息子の態度に若干の不安を残しつつ、呆れたような口調で尋ねると、再び新聞を広げて記事を追う。
「ううん。二万八千円……という法外な値段だった。母さんは勿論、父さんに頼んだっておいそれと買って貰える金額じゃなかった。だから」
「だから?」
「ああ、だからブティックの横にあるスポーツ用品店で、有り金叩いてこの金属バットを買ったんだ」
 祐一はそう答えると、父親の背後で金属バットを思い切り素振りしてみせる。
 その軌道はいわゆる”大根切り”であり、決して本来持つ用途に使用される事を前提として購入した訳でない事を物語っている。
「なっ!?」
 黒船外交的とも言える息子の威嚇行動に、甲子国は辛うじて保っていた威厳や尊厳もかなぐり捨て、手にしていたスポーツ新聞を引き裂いた。
「……な、なるほど」
 破れて紙屑と化した新聞をテーブルに投げ出すと、振り向きつつ崩れた眼鏡と姿勢を正す。
 祐一の目に、そんな父親の姿が未だかつて無いほど弱々しく映る。
 手にした金属バットから力が流れ込んでくるかの様な錯覚に酔い痺れ、祐一は口元を歪めてソファーの父親を見下していた。
 しかし甲子国はそんな息子の態度に、哀れみにも似た表情を浮かべると深く息を吸い眼鏡を中指で整える。
「祐一、お前は昔から優しい子だった。時として親であるこの私がうらやむ程にだ。だがな祐一……」
 未だ絶対的優位を信じてしたり顔の息子に対し、甲子国は過去を懐かしむようにゆっくりと切り出すと、眼鏡の奥――彼の目に先程までとは異なる光が宿る。
「父さんは知っていたよ。成長したお前がいつしか反抗精神と共に内なる暴力衝動に目覚め、一人の男として、一匹の獣として私の前の立ちふさがる日が来る事を……だから」
 ゆっくりと、そして諭す様に言葉を紡ぐと、甲子国はソファーの影に手を伸ばす。
「だから……私も買っておいたんだよ祐一。駅前のスーパーの横のブティックの隣にある、あのスポーツ用品店で……この、メタルフェイスのドライバーを!」
 そう言い放ち、ソファーの影に隠していたゴルフクラブを取り出すと、甲子国はゆらりと立ち上がった。
「え゛っ!?」
 思わぬ父親の行動に、今までの余裕が一瞬で消え去った祐一は間が抜けた声を出し驚くと、慌てて金属バットを構え直す。
「店のオヤジは言っていたよ。『メタルフェイスのドライバの攻撃力は金属バットに勝る』とね。それはまさに悪魔の囁きだった」
「ちょ、ちょっと?」
 父親の予想だにしなかった武装に祐一はじりじりと後ずさる。
 リビングに差し込む日差しを受け、甲子国の持つドライバーのメタルヘッド部分が輝きを放っている。
「なぁ祐一。今のお前は獣なんだよ。父親という檻を食い破り、野に逃れんとする一匹の獣だ。そして私はそれを暴力に撃って出ても阻止しなければならない。何故だか判るか?」
 唸り声にもにた低い声で問いかける甲子国は、眼鏡に陽光を反射させながら、少しずつ歩を進めて行く。
「……」
 祐一は後ずさりながら、甲子国の言葉に首を横に振る。
「それが息子の父親というものなんだよ。祐一」
 父親の未だかつて見たことが無い、まるで玉砕を覚悟した兵士の様な気迫に、祐一はすっかり押されつつあった。
「くっ……」
 やがて祐一の背中が背後の扉――両親の寝室へ通じているもの――に行き当たり、遂に退路を失った。
 追い込まれた祐一を見て、甲子国が歩を止めると、二人はそれぞれ得物を構えたまま、僅か数メートルの距離を隔てて対峙した。
「……」
「……」
 二人の汗が頬から顎へと伝わり、フローリングの床へ滴り落ちる。
 壁に掛けられた時計が刻む秒針の音だけが部屋の中に流れる。
 父子の関係から互いを排除すべき”敵”と認識した二匹の獣。後は”始めっ!”の掛け声を待つだけだった。

 相手の隙を伺いつつも、二人は考えていた。
 確かに金属バットで武装したのは祐一だったが、あくまでそれは示威行為であり、直接攻撃へと移す気はまるで持ち合わせて居なかった。
 であるからこそ、父親のまさかの武装蜂起は祐一にとって予想外の出来事であり、祐一を悩ませている。
 このまま衝動にも似た怒りに身を任せ、金属バットという禁断のアイテムを用いて家庭内暴力闘争ドラマへと発展させるべきなのかどうか? と。
 そしてそれは単に力の誇示と、下克上による家庭内権力の奪取をすれば良い――という問題ではなかった。
 武器の攻撃力という点では、ウェイトの問題やその使用練度――父親は接待行為も兼ねてゴルフを有る程度嗜んでいるが、自分がバットを握るのは少年時代以来だ――を考慮すると自分が劣っていると考えるべきだが、反応速度や攻撃速度に関しては間違いなく自分が勝っており、先の問題点を補って余ると考えていた。
 祐一が危惧している問題とは、今手にしているバットによる父親の身体や家具といった物理的な破壊が生み出す損害問題ではなく、その後で起こるであろう二次災害的問題点――すなわち”親子”という決して断ち切ることの出来ない人間関係を、家族という舞台を、今後数年……いや未来永劫に修復不可能な状況にしてしまうかもしれないという問題だ。
 更にそれに付随するであろう経済的損失問題に加え、最悪、法的な問題にも広がる危険性がを孕んでいる。
 心は自由を求め、身体は揺りかごを求めている――その二律背反は、彼にとって命題だった。
 祐一はもう一度考える。
 核ミサイルのボタンを押すにも等しい行為を、なし崩しに始まったこの場で行っても良いのか? と。
 目の上を流れ伝わる汗に、思わず片方の瞼を少し閉じた。

 甲子国の考えてる事は、祐一のそれに比べもっと単純だった。
 それは、確実に老い始めている自分の体力や気力が、十七歳という暴力と狂気に満ちた世代に太刀打ちできるかどうか? という一点である。
 来るべき日に備えて武装準備をしていたとはいえ、彼もまた自分の攻撃力が息子と比べて若干低い事は自覚している。
 もしも打ち勝てば相沢家の家長としての地位も面子も保てようが、もしも負けた場合、待っているのは、負け犬・駄目親父としての日陰的な屈辱人生であり、更には『不良少年を育てた親』『子に負けた情けない父』という世間からの迫害だ。
 そして中間管理職という胃の痛くなる役職にある甲子国にとって、自宅という唯一のオアシスを失う事を意味しており、精神的、ゆくゆくは肉体的な健康を崩壊させる事にも繋がる事になる。
 父親として、相沢家の家長として守らなければならない絶対防衛戦に、甲子国は立たされていた。
「……」
「……」
 二人が未だに最期の一歩を踏み出さないのは、追い込まれつつも、こうして色々と考える事が出来る程には精神的ゆとりがある証拠であり、決して二人の理性が崩壊――キレたわけでは無い事を物語っている。
『我々が闘いたく無いのと同様、向こうだって闘いたく無いのだ』
 かつて――キューバ危機のおり、ホワイトハウスの執務室で苦悩していたJ・F・ケネディの様に、二人の本心はそれぞれの拳を収めるタイミングを推し量っているのだ。

 お互いが武器を取り、睨み合ってからの時間――実際にはほんの数十秒という短い時間が、彼ら二人にとってはその何倍もの長さに感じられていた。
 得物のグリップを握る手が汗で滑り始める。
「……」
「……」
 互いに無口で居る事が限界に近づき始めた頃――
”ピンポーン”
 ――リビングに電子音が響き渡った。
 二人の間で極限状態まで高まった緊張感が、来訪者を伝える聞き慣れた玄関のチャイムを、全く別の物――「ガンホー! ガンホー!」と叫ぶ小隊指揮官の声へ変換し脳へと伝達した。
 先程まで脳内で繰り広げられていた葛藤劇は、”やらなければやられる!”という至極簡単な論理によって即座に吹き飛ばされ、脳内の自己保全クラスタが一斉に活性化し、互いのグリップを握る手に力が篭められる。
 祐一が手にした金属バットを振り上げ、まさに一歩踏み出したその瞬間――
「はーい、どなた?」
 苛ついた声と共に勢いよく寝室の扉が開き、直前に立っていた祐一へと激突した。
「ごわっ!」
 思いもよらぬ場所からの攻撃に姿勢を崩した祐一は、金属バットと共にリビングの床へと転がり倒れる。
「全く、こんな朝っぱらから誰かしら……あら?」
 起き抜けの眠たげな声と共にリビングへ現れた相沢多美子は、寝間着の襟元を整えつつ呟くと、ようやく目の前の奇妙な状況に気が付いた。
「あなた何かあったの?」
 リビングの中央付近でゴルフクラブを下段に構えた夫の姿に、訝しさを感じた多美子が尋ねる。
「いや、問題ない。危機は回避されたよ、有り難う多美子」
 闘争の空気が払拭された事を感じ取った甲子国は、そう言って汗を拭うと深く息を吐き出した。
”ピンポーン”
 再びチャイムの音が鳴り響く。
「はーい!」
 条件反射的に多美子が玄関の方へ言葉を投げかけるが、その中には自分の安眠を妨害された事に対する怒りが篭められている。
「まったく、一体何なのかしらこんな時間に。祐一! 祐一は居ないの?!」
 あからさまに機嫌の悪そうな表情で、息子の名を呼んでその姿を探すと、自分が開け放ったままの扉が動き、その背後でのびている祐一の姿を発見する。
「あら? こんなところで何やってるのよ祐一」
「や、やぁ母さん、お早う。素晴らしい天気だよ」
 多美子の声に、床に倒れたままの祐一はその半身を起こし、扉が直撃した後頭部と倒れ込んだ時に床に当たった鼻をさすりながら応じる。
 すっかり気が削がれたのか、その表情の中に先程までにみなぎっていた緊張はすっかり形を潜めている。
「ねえ祐一、お母さんこんな格好だし、ちょっと出てくれないかしら?」
 言葉こそ「要請」だが、その口調には明らかに「命令」に近いものが含まれている。
「俺っだってこんな有様なんだけど?」
 祐一は打ち付けて赤くなった鼻を見せながら、自分の状態が余り宜しくない事をアピールしてみせる。
”ピンポーン”
 催促する様にチャイムが鳴り響く。
「判ってるわよ! 全く誰かしら。あなたの会社の人じゃないの?」
 玄関に向かって一言叫ぶと、夫の姿を見据えて尋ねる。
「日曜のこんな時間にかい?」
 妻のきつい問いかけに、甲子国は呆れたように答える。
「それじゃ祐一の友達じゃないの?」
 多美子のきつい視線が祐一へと向く。
「予定は無いけど……あれじゃない? ほら、お隣さんとか?」
「母さんがご近所付き合い嫌いなの知ってるでしょ?! だーかーらこのマンションに越してきたんじゃない」
 きっぱりと言い切る母親の姿に、祐一は思わず溜め息を付く。
 そうなのだ、彼の母親は昔からそうだったのだ。
 祐一は、自分の母が他人との接触を極端に避ける傾向が有る事を知っている。
 彼女にとって、家族以外の他人は、自分の人生・生活に取って意味のない存在であり、自己の利益に直接結びつく者こそが、自身の生活において必要な存在だと信じている。
 既に記憶から薄れつつあるが、遠く北の地に住まう伯母――多美子の妹は、他人に対して非常に寛容であり、幼き頃の祐一が訪れる度に『伯母が母親であれば』と、その幼心に思った程慈愛に満ちた女性だった。
 流石に高校生にもなった祐一は、母親の性格が直しようの無いものであり、自分がどうこうしたところで仕方がない状況である事も把握しているが、それでもこうして伯母の事を思い出し実の母と比べれば、親を選ぶことが出来ない事が残念になる。
 いや、昨年末に父親の海外栄転の話が流れずにいれば、あの懐かしき北国の街へ引っ越し、かつて憧れた伯母の家での生活が始まる予定だったのだ。
 それこそ、彼が望んだ『日常からの脱却』、『波乱に満ちた生活』への扉だったかもしれない。
 だが現実はどうだろう。
 祐一は相変わらず変わらぬ日常を過ごしており、三年生への進級とクラス替えも、彼の望む『劇的な変化』を産むには至らなかった。
 春が訪れ、まもなく初夏にとなろうとしても、相も変わらない平凡な一日をただ繰り返しているに過ぎなかった。
 先程の父親との一触即発な危機は、偽善と虚構に塗り固められたホームドラマを強制終了させ、バイオレンスドラマへと移行させる分岐点だっただろう。
 だがそんなフラグメントはなし崩し的に潰え、なおかつ祐一は自らの手でそれを蒸し返す気力を持ち合わせて居なかった。
 結局、彼にとってぬるま湯的な現状を受け入れる意外に道は無くなり、虚構に満ちたホームドラマの中で心優しき息子を演じる事を余儀なくされていた。
”ピンポン・ピンポン・ピンポン・ピンポン・ピンポーン”
 来訪者が、なかなか応対して貰えない事に痺れを切らしたのか、今度は呼び鈴を連打してきた。
「きぃ〜っ! 五月蠅いわね全く! たまの休みの日くらい一家三人を放っておいてよ!!」
 自分の睡眠時間を妨害した事に対する怒りからか、それとも従来の人付き合いの苦手さからか、多美子が寝起きで乱れたままの長い髪の毛を掻きむしる様にして、ヒステリックに叫ぶ。
”ピンポーン・ピンポーン”
 そしてそんな多美子を煽る様にしてチャイムが鳴る。
「判ったわよ。今出るわよ。すぐ出るわよ!」
 そう叫ぶと、寝室のドアノブに手をかけて、その中へと身体を滑り込ませ――
「祐一、出なさい」
 未だ床に座ったままの祐一に、短くそして断固とした口調で言い放つ。
「はいはい……っと」
 祐一は仕方なさそうに呟くと、ゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かって歩き始めた。
 このホームドラマを続ける事を選んだ祐一にとって、良き息子の役を演じる為には、母親の命令を素直に聞かなければならないのだ。
「いいわね祐一。セールスマンならびに新聞の勧誘の類に関しては断固撃退する事。NHKの集金に対しても同様よ」
 リビングを出て玄関へ向かう息子の背中に、多美子はきつい口調で命令を与える。
 そんな事は今更言われなくとも判っている。
 母の性格を考えれば、その様な対処は至極当然である。
 祐一は考える。
 何時からだろうか? 自分が素の自分――本性と言ってもいいだろう――を隠し、良き息子という役割を演じる様になったのは。
 自分の母親が持つヒステリーが、友人達の母親には無い物であり、むしろ自分の母親こそが特殊な存在だと知った頃からだろうか?
 それともへべれけになって帰宅した父親から、上司に対する稚拙な罵詈雑言を聞かされた頃だろうか?
 ともかくある時期から、祐一の両親に対する尊敬の念は薄れていた。
 大半の同世代の者達も、程度の差こそあれ、そのような傾向は持っている。
 しかしある者は尊敬の矛先を、友人や恋人、部活動の先輩などへと変え、またあるいは、スポーツや部活動、文化活動、同人活動などの他の何かに興味と己が活躍する舞台を変え、自己の精神バランスを保つのだ。
 その結果精神は安定し、家族という舞台を維持し続け、子は親の配偶者としての地位を保ち、経済的な保護を自然に受ける事が出来る事になる。
 だが友人が少なく、部活動にも参加せず、趣味や他にのめり込む物すら無い祐一にとって、家族とは自分の立ち回りが許された最期に残された舞台なのだ。
 それに何と言っても未だ社会的貢献度が無く、自身による定期収入の無い祐一にとって、父親の扶養家族でいる事は、今後の生活を為の生命線――最重要事項と言っていいだろう。
 故に、祐一は家では良き息子を演じる必要があるのだ。
 そんな事もあって、先程の父親との間で勃発しかけた望まぬ危機を、無事脱する事が出来た事に安堵を覚えていたのも事実だった。
 だが本心では、この腐りきった現状を根底から破壊してやりたいとも思っており、その相反する思考の狭間で、彼の精神は常に揺れていた。

 自らの手で壊すことが出来ぬのならば、いっそ――

 だから彼は双眼鏡を片手に持ち、ベランダで待ち続けている。
 混乱と破壊をもたらす何かを。
 来るはずのない何かを。
 来てはいけない何かを。
 今こうして玄関に立っている今も、その期待は心の中で燻っている。
 淡い期待を抱きながら扉の向こう側に思いを馳せる。
 だが、現実にはどうだろうか?
 この扉の向こう側に居るであろう人物は、パンチパーマの凄みをもって定期購買を要求してくる新聞の勧誘員だったり、大して役にもたたなそうな怪しい物を売りつけに来たセールスマンだったり、他人の都合は構わずに己が信仰を他人に強要する宗教の布教員や、道徳感や社会的貢献活動をバックにカンパや署名の類を強要してくる自然保護団体の活動家程度であろう。
 間違っても、彼を慕って上京してきた遠い親戚の娘や、人ならざるモノと闘う魔物ハンターの少女、謎の病気に苦しむ薄幸の少女や、何者かに追われている謎の少女といった存在でない事は確かなのだ。
 であるなら、母親の言う通り断じて開けるべきではない。
 ドアの向こう側にあるであろう現実に、絶望にも似た感情を覚えた祐一は、玄関に辿り着いたところで振り向きリビングの様子を伺った。
 甲子国は既に先程の危機を無かったものと結論づけたのか、破れたスポーツ新聞の断片を集めてパズルの様に組み立てている。
 多美子は息子に応対を命じたものの、信頼していないのだろうか? 寝室のドアから顔を出したままの姿勢で、祐一の行動を凝視している。
 無感心と不信感が渦巻くリビングを見て、祐一の中に先程父親と対峙した時に感じたどす黒い感情が沸き上がる。
「……」
 祐一は再び扉へと視線を戻し、無言で立ちつくす。
 進んでも待っているのは過酷な現実であり、退いても待っているのは怠惰な日常のループ。
 自暴自棄にも等しい状況に陥った祐一は、一つの結論に達した。
 それは無関心な父親と、息子を信頼出来ない母親への、「今日という、いつもとは異なる日」のプレゼントだ。
 例えドアの向こうに立って居る者が誰であれ、普段の日常とは異なる展開へと発展する可能性を秘めているかも知れないのだ。
”ピンポーン”
 そんな祐一を誘う様にチャイムが鳴り響く。
「……んだ」
 祐一はドアノブを見つめたまま、小声で呟き始めた。
「祐一?」
 いつまで経っても来訪者の撃退行動を起こさない祐一に、リビングから多美子が声をかける。
「……だ…なんだ」
 だが母親の呼び掛けに応ぜず、祐一はドアノブを見つめたまま何かを呟いている。
「どうしたの祐一?」
 再び多美子が尋ねるが、祐一は変わらず何かを続けて呟いているだけだ。
「……ま……めなんだ」
「おい祐一、どうしたんだ?」
 息子の態度に何かを思ったのか、甲子国までもがリビングから身を乗り出して祐一に声をかけた。
「待ってちゃ駄目なんだ」
 祐一の言葉に、彼の真意を掴んだ多美子が息を呑む。
「祐一、何を考えてるの? まさかそのドアを開けるなんて馬鹿な事考えてるんじゃないでしょうね! 駄目よ、絶対駄目! あの人達はそのドアを開けさせる為なら何だってするのよ。一度開けたが最後、敵陣に舞い降りて橋頭堡を確保する空挺部隊の様に、数時間もの間居座って徹底抗戦を行い、私達家族の憩いの時間を浸食してゆくのよ。そんな事は決して許されないわ」
「判ってる、判ってるさ母さん! でも……もう、待ってちゃ駄目なんだ!」
 追いすがる多美子の言葉を振り払うように、身体を震わせながら祐一は吠え続ける。
「こんな場所で、こんな腐りきった愚劇の中で脇役を演じていたら、俺は……俺はこの先ずっと退屈な日常の中で、演じたくもない役柄を続けなければならないんだ」
「何を言っているんだ?」
「祐一、何を言ってるの?」
 驚く両親を後目に、心の中に溜め込んでいたものを一気に放出しながら祐一は続ける。
「そうさ……あのメンズ・ビギの春物のセーター。あれさえ有れば……あれで武装し街に繰り出せさえすれば、俺はこんな家の中の腐ったホームドラマの脇役じゃなく、俺自身の物語の主役になれたはずだったんだ。だが二万八千円という法外な値段だったばっかりに、俺は隣のスポーツ用品店で有り金叩いて金属バットを買ってしまったんだ。そうとも、ホームドラマには御法度のバイオレンスまでも導入する決意を固めていたのに……新たな物語の幕開けを期待していたのに……なのに父さんは、事も有ろうにあのスポーツ用品店の、あの悪魔的オヤジからメタルフェースドライバーを買って、俺の行動を阻止ずべく待ちかまえて居たんだ。ははっ、全ては台無しじゃないか……誰も、誰も俺の気持ちなんか判っちゃくれやしない!」
「祐一! 落ち着きなさいっ!」
 感情を爆発させた祐一に、多美子もヒステリックに叫び声をあげる。
 しかしそれは、行動を抑止する結果には結びつかず、逆に祐一の決心を確実な物へとさせただけだった。
「もう駄目だ! 待ってるだけじゃ、俺の、俺自身の物語は始まらないんだっ!」
 祐一はリビングに向かって叫ぶと、扉の鍵を外し――
「止めなさい祐一っ!」
 母親の叫び声も無視してドアノブを握りしめ――

 そして玄関の扉を勢い良く開け広げた。



 扉の隙間から春の陽光が差し込み、祐一の視界が真っ白くなる。
 穏やかな風が、上品な香水の様にほのかで心地よい香りを乗せて、祐一の鼻孔を擽る。
 青い空を背にして扉の前に佇んでいた人物が面を上げる。
 黄色い帽子に遮られていた少女の表情が露わになり、その二つの瞳が祐一の顔を捉える。
「……」
「……えっと」
 視線が交錯し、祐一が続く言葉を決めあぐねていると、少女は目を瞬きさせてから表情を潤ませ――
「御主人様ぁっ!」
 艶やかで、どこか春の爽やかな風の様に透き通った声が響くと同時に、その少女は祐一の腕の中へと飛び込んで来た。
「な、何だ? 一体……君は? え?」
 突然の出来事に慌てふためく祐一の腕の中、彼の目を見つめてながら少女は再び口を開く。
「やっと、やっと見つけました……あなたこそ、私の御主人様です」
 はにかみながらそっと呟いた少女の声を、頭の中で何度もリプレイさせて、祐一はやっと気が付いた。
「祐一!?」
「祐一、一体どうしたの?」
 彼以上に驚き慌てている両親の声を聞き流し、祐一は腕の中に収まった彼女を見つめる。
 茶髪というより、少し橙がかった綺麗な髪の毛の中、上目遣いで歓喜と憂いを帯びた瞳が彼を見つめ返す。
 面識の無い少女の温もりを感じながら、祐一は頭の中で何かが弾ける感覚を確かに感じていた。



「来た……」



 彼が待ち望んだ荒唐無稽にして破天荒な物語。



 破壊と混乱に満ちたドラマティックな展開。



 彼が望んだ舞台の幕が――




 今、上がった。








<戻る 続く>

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