狂乱に明け暮れた一日が終わりを告げようとしても、この街にかつての平穏が訪れる事はなく、むしろ往来を行き来する人々からは、何かこう……”よろしくないモノ”に取り憑かれた様な雰囲気が漂っており、街全体を多う狂気のオーラはより一層濃くなっている様だ。
街中を覆い尽くす様に降り積もった雪も、そういった禍々しさにも似たオーラを隠す事は出来ず、この街に以前の日常が戻るにはもう暫くの日数を必要とする事は、誰の目にも明白だった。
街を襲った馬鹿馬鹿しい騒動。
それら全ての元凶であり、騒ぎの発端である中心地に居た南にとって、それは酷く憂鬱な事態だった。
「はぁ……」
自分の立場がおかしくなったのはいつからだろうか? ――そう自問しつつ深く溜め息を付く。
「今回のコンテストが企画された時かな?」
自分の問いかけに対して、南は小さな声で口に出して答えてみる。
だが、それが彼の現状に対する正解でない事は、彼自身が一番よく判っている。
確かに今の彼が行っている無償奉仕活動の原因としては正しいが、現在の環境――すなわち彼の立場が弱いのは、今回の騒動に限ったものではない。
自分自身の押しの弱さと、そして良識や道徳に背く事を良しとしない精神こそが、彼の立場を位置づけている原因なのだ。
とは言うものの、南は今の友人達との付き合いが決して嫌なわけではない。
むしろ気弱な自分が、校内でも――様々な意味で――有名な奴等と親しくしていられる事に関しては嬉しく思っている程だ。
だが、自分の性格が原因でいつも貧乏くじを引き、かつその状況を甘んじて受け入れて居る自分に、時々自己嫌悪を覚える事もまた事実だ。
だからこそ、彼はこうして溜め息をつく。
「はぁ……」
己の弱さと、日和見的な自分に落胆しつつも、彼は自分の居る場所を保持するため、その手を休める事なく作業を続ける。
民家の壁に貼られたポスターを、専用の溶液で剥がして跡が残らぬように綺麗にする。
一枚一枚の作業は大したこと無いが数が半端でない事と、時折雪がちらつくような寒空の下で行う事もあって、相当な労働力を必要とする。
しかも作業を完遂したところで彼には何の見返りもない。
彼はそんな過酷とも言える労働を、時折溜め息を付く程度で、他には何も文句も言わずに黙々と行っている。
南義明――彼は優しすぎる男だった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
そんな南が、本日三桁目となる記念すべき溜め息を付くと、背後から別の者の溜め息が重なった。
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■Beautiful 7days #8 |
南が背後に顔を向けると、元気が無さそうに項垂れている柚木詩子の姿が見えた。
彼女もまた、南と同じく壁に貼られたポスターの回収を行っていたのだろう。重たそうなペーパーバッグを担いでいる。
だが、彼女が肩を落としているのは、その重さが原因では無さそうだ。
「柚木さん?」
普段の必要以上に元気が溢れている彼女からは想像出来ない程の雰囲気に、南は驚きを覚えた。
普段は決して自分から声をかけるはずのない相手の名を呼んだのはその為だろう。
南の声に詩子は振り向き、そして弱々しい笑顔を向けた。
「あ……南君」
「柚木さん……君もポスターを?」
ふと目線を逸らして、南は目の前の壁に貼ってある茜のポスター見つめながら尋ねた。
「……うん」
あからさまに元気の無い詩子に、南は居心地の悪さを感じて顔を背けると、そんな自分を誤魔化すように目の前のポスターを剥がしにかかる。
南を”沢口”という奇妙なあだ名で呼ばない事も含めて、明らかに今の詩子の状態は普段とは異なっていた。
一年生の頃からの同級生である茜を通じて――半ば一方的なものではあったが――知り合い、それなりに長い付き合いがあったが、今だかつて見たことがない弱々しい彼女の姿は、南を困惑させるに十分だった。
かといって、そのまま彼女を放置して立ち去る様な真似をする気にもなれず、南は居心地の悪さを誤魔化す様に、目の前のポスターを剥がす作業に没頭した。
詩子の態度が普段と異なる理由は簡単に察する事が出来ても、気落ちした女性をどう慰めるべきなのか判断できるほど、彼は女心に精通しているわけではなかった。
対応を決めあぐね、しばらく無言で作業を進めていた南の背中に、詩子は普段とは異なる静かな声色で声を掛けてきた。
「南君……有り難うね。あたしの我が儘に付き合ってもらって……それに後始末まで……」
彼女が言う我が儘とは、無論この度の騒動における茜の支援活動の事だろう。
「別にいいよ」
南は背を向けたまま答える。
「あのさ、聞いて良い?」
「ん?」
南は軽く応じながら、剥がしたポスターを詰め込んだバッグを肩に担ぐと、次のポスターを求めて歩き始める。
詩子もまた南に続いて歩き始め、暫くしてから先程の質問の続きを躊躇いがちに口にした。
「何で……何でそんな事やってるの? あたし南君に頼んだ覚えないよ?」
詩子は哀しみと申し訳なさをブレンドした様な瞳で南の――茜のポスターが大量に詰まった――バッグを見つめ呟く様に尋ねた。
「何でって……」
南は屈託なく笑って詩子を振り返り、その先を言い始める。
「だって仮にもオレは里村さんの支援組織の一人だよ? まぁオレの意志は無関係かもしれないけど一員である事に変わりはないし、それならお祭りの後始末だって仕事でしょ。それに……」
一端区切って顔を前に戻し――
「まぁ面倒な事には違いないけどね」
――と苦笑交じりに述べてから、更に続きを話し始める。
「それに?」
「実は里村さんには手付け金……っつーか、お礼貰っちゃったからね。最後まで一応は付き合うのが礼儀かな?……って思っただけだよ」
「え?」
そう告げると、南は何処か恥ずかしさを感じて視線を逸らし、詩子はその場で立ち止まった。
詩子は彼が言う”お礼”が、茜のお弁当である事を知っている。
だからこそ、その程度の事で過酷な作業を自発的に行っている南に驚きを感じた。
尊敬と驚愕、そして微量の哀れみも含ませた表情で彼を見つめていた詩子だが、直ぐに彼女も視線を逸らして歩き始めた。
暫く二人とも無言で進んでいたが、意を決したように詩子が口を開いた。
「南君ってさ……」
「ん?」
「……いい人なんだね」
詩子が呟いた小声は、二人の周囲が静かだった事もあり、南の耳にしっかりと届いていた。
普段は奇怪な言動が目立つ彼女の本心からの言葉に、くすぐったさを感じて鼻の頭を指先で掻いた。
「そうかな?」
「……うん」
暫く間を置いてから詩子ははっきりと頷き、それから隣へと視線を移す。
そして、照れくさそうにしている南の姿を見ると、彼女は心を覆い尽くしていた霧が薄らいでゆくのを実感した。
「でも……そんなだと簡単に人の保証人になったり、詐欺に遭ったりして人生谷底へ真っ逆様だよ?」
「そ、そんな事ないと思うけど……」
ちょっとした冗談で戸惑ういつもの南の態度は、更に詩子の心を覆っていた霧を吹き飛ばし、彼女に普段の勢いを取り戻させる。
「ふふふふ。それじゃ……あたしからも沢口君には御礼しなくちゃね。ん〜何が良いかなぁ?」
「えっ?!」
急に、従来の口調に戻った詩子と、その彼女からの言葉に驚く南。
彼もまた、いつもの彼に戻っていた。
「何よぉ……」
「いや、ほら、いいって。これはオレの善意っつーか、仕事みたいな物なんだし」
「いいからいいから。遠慮しなさんなって。あたしの気持ちだからさ〜」
如何にも私何か企んでます――といった風に笑っている詩子がにじり寄る。
「それが怖いんだよっ!」
南は叫んで咄嗟に距離をとった。
「ふふふっ沢口君ってば慌てちゃっても〜ぅ。可愛いんだから〜」
含み笑いを浮かべながら一気に間合いを詰めると、詩子は人差し指で南の頬を突っつく。
「な、何だよ……っ!」
南は詩子の言動に困惑しながらも、彼女の態度が元通りになった事に多少の安堵を覚えている自分に気が付き、頭を振って自分自身を否定した。
「せっかくあたしが誉めてるんだからさ〜、もっと喜びなさいよね」
口も態度も大きな詩子だが、心の中では自分の鬱を払拭してくれた南に本気で感謝をしていた。
暫くふざけ合ってすっかりいつもの雰囲気に戻った――つまりは詩子の良いように使われる南という構図――二人は、そのままポスターの回収作業を続けた。
やっている作業は変わらないのだが、不思議と二人とも溜め息はもう出なかった。
「では今後、沢口君の事は”沢口・グッドマン・義明”って呼ぶことにするね」
「何だよそれ」
「詩子さんがミドルネームをプレゼント。いい人だからグッドマン。格好良いでしょ?」
「いらない! ってゆーか俺は南だ」
「まぁまぁ、ノース君」
「サウスだ!」
「いいじゃないそんな些細な事。それよりもさ、沢口君って茜に票入れなかったけど誰に入れたの?」
「べ、別に誰だって良いじゃないか」
結局沢口じゃん!――そう思いつつも、何の前触れもなく突然振られた質問に南は姿勢を崩して狼狽えた。
「ふーん、やっぱそうなんだ」
「あ……」
詩子のしたり顔を見て、南は自分がかまをかけられた事に気が付いた。
投票は無記名投票であり、例え開票係であったとしても誰が誰に投票したか判るはずもない。
「澪ちゃんでしょ?」
「……違」
「嘘だー、澪ちゃんでしょ?」
「いやだから……」
「あ、澪ちゃんだ。やっほー!」
「え?」
詩子の言葉に彼女の目線を追うようにして素早く振り向く南。
だが、当然その場には澪の姿はない。
南が慌てて目線を戻すと、そにはニンマリと笑っている詩子の姿があった。
「あー、何で何で? 支援組織に入ってる人なら、その支援対象者に入れるのが普通じゃない? ノーマルじゃない? あ、ひょっとして沢口君ってばアブノーマルなわけ?」
「いや、あの、だから」
一気に捲し立てる詩子にたじろぐ南。
通りかかった見ず知らずの通行人が足を止め、何事かと興味深げな視線を南達へと向けてくる。
「そっかぁ。沢口君ってば一年の頃から茜みたいな可愛い子が目の前に居るのに、ど〜して手を出さないのか不思議だったけど……つまりはそういう訳だったんだ。うんうん。謎は全て解けた……って感じ? そりゃ確かに澪ちゃんは高校生には見えない程幼い……っていうか殆ど小学生にしか見えないし、沢口君の様な特殊〜な趣味を持っている人のストライクゾーンど真ん中かもしれないけど、いくら見た目が幼いって言っても実際には高校生なんだから、結局は沢口君のロリータ趣味を叶える事にはならないのよ? この間も言ったけどさ、あの子ってば実は私よりも胸が大きいし……それでも澪ちゃんの方が良いわけ? 見かけさえ幼女なら実年齢は問わないわけ? 美学は持ってないの? ロリコンならロリコンらしくその辺りしっかりこだわらなきゃ駄目じゃない! それに毛だってしっかり生えてるわよ……多分」
詩子の毒舌は続き、足を止めて彼等を囲む通行人の数も増えて行く。
じりじりと追いつめられて行く南の耳に――「ちょっと、あの子ロリコンらしいわよ?」「いやねぇ……この街も物騒になったわねぇ」「毛ですって……何て破廉恥な」等の呟きが聞こえてきた時、彼の脆弱な精神は遂に限界を超えた。
「うっ……うわぁぁぁぁっ! 俺は正常だ〜! それから俺の名は南だ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
南は喚きながら野次馬の垣根を掻き分けて走り去った。
自分の潔白を訴えるだけではなく、わざわざ周囲に本名をバラしているのは、彼の精神が追い込まれていた証拠であろう。
「あちゃー……今のはみんなジョークですんで。あははははー」
何だかんだと玩具にしつつも、ちゃんと周囲の野次馬の誤解は解いておく、根は優しい詩子であった。
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§ |
「はぁ……ふぅ……」
南と詩子が必死にポスターの撤去作業を行っている頃、栞は彼等同様に深い溜め息をつきながら、まるで夢遊病者の様におぼつかない足取りで自宅への道を歩いていた。
それでもつい先程までは、人通りの多い所だという事もあって平静を装っていられたが、人通りの少ない路地に入ると途端に気力を失った。
「この美坂栞が落選するなんて……はぁ……」
数々の謀略を張り巡らせ大勝負に出た栞だったが、結果は無惨にも予選敗退という結果に終わってしまった。
こういう場合の落ち込みは、気合の入れ方に反比例するものであるから、彼女の落胆は他の――本選出場を夢見ていた――女生徒達よりも激しいものだった。
衝撃の予選発表の結果、気分が奈落の底へと落下した栞の精神は数時間経っても回復せず、何とかなだめようとする香里にきつく当たってしまい、自己嫌悪に陥ったりもしていた。
身体全体から力が抜けてしまった栞は、香里の付き添いの元で保健室へ赴き、しばらく休んでから学校を後にした。
クラスメート達はそんな栞をコンテスト予選敗退によるショックではなく、持病がぶり返したという事による体調不良と勝手に解釈していたので、彼女が築いたイメージが守られているのがせめてもの救いだった。
そんな気落ちした状態であるから、彼女は家路を外れて普段は使うことが無い裏通りに足を進めた事に気が付いていなかった。
更に夢遊病者の様な足取りで裏路地をぼんやり進む栞は、向かいから歩いて来た高校生らしき野郎の一団にも気づかず、そのまま進路を変える事なく突き進んだ。
結果、栞のか細い肩と、一団の中でもっとも体躯の大きな男の腕が接触する事となった。
「おい嬢ちゃん! 人様にぶつかって詫びも無しかよ?」
ごつい手で肩を掴まれながらそう文句を言われて、初めて栞は自分の置かれた状況を把握した。
「え?」
周囲を見回すと、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた若い男が三人、栞を取り囲む様にして立っている。
そして目の前の大きな男は、自分の肩を掴み、身を屈めて眉間に皺を寄せた顔を突きつけている。
「な……」
栞は身体を振るわせて、目尻に涙を浮かべながら口を開く。
「な……なんてベタな展開なんですかっ!?」
「な、何だコイツ? 変じゃねー?」
「でも可愛いじゃん?」
「そうそう。可愛けりゃ多少頭がぶっ飛んでよーが、アッパだろーが、貧乳だろーが問題ねーだろ」
彼女の姉が耳にしたら八割殺しは確実な言葉を口にして野郎共が栞に躙り寄る。
「はーなーしーてーくーだーさーいーっ!」
栞はありったけの力を総動員して、男の手から逃れようと身をよじるが、少女――しかも元々病弱な栞の力では振り払う事も出来ない。
男達は稚拙な抵抗を見せる栞の姿が楽しいのか、口元をいやらしく歪める。
(こんな時、ドラマならヒロインのピンチを救うために主人公が颯爽と登場するんですけど……)
頭の方はこんな事を考えられる程度のゆとりは残っていたものの、身体の方は現状を正しく認識しているのか、脚から力が抜けた栞はその場でへなへなと尻餅をついた。
雪が残っている地面にへたり込んだ栞の、その短い制服の裾から覗く細い脚に、男達の視線が集中する。
「ひっ……」
ここに来て栞は身の危険をはっきりと感じ取った。
「この制服ってあれだろ? 今何かと話題の学校じゃん。へっへっへ、確かに可愛い子が多いな」
「コイツ、すっげー身体細いなぁ。嬢ちゃんの白い肌を、俺達で紅く染めてやろうか?」
「おいおい、いきなり三人がかりでやったら壊れちまうって、まずは順番を決めて……」
うへうへうへと、口元からだらしなく涎を出しながら手を伸ばしてくる男達に、栞は目をキュッと閉じるとあらん限りの大声で叫んだ。
「助けてお姉ちゃんっ!」
果たして、栞の願いが天に届いたのか――
「待ていっ!」
――と、新たな声が裏路地にこだました。
「あ……この声」
その声は栞が待ち望んだ頼れる姉のそれではなかったが、彼女のよく知る人物のものであった。
野郎共がその声の主を求めて視線を彷徨わせる。
「ふはっはっはっはっはっ。いたいけな少女を路地裏に誘い込み、集団による暴力をもってそのか弱き身を弄ぶ者共……人それを鬼畜と云う」
どこからともなくギターとトランペットが奏でる音楽が聞こえてきそうな台詞に、鬼畜と罵られた男達が威勢良く吠えて声のする方へ一斉に顔を向ける。
「んだと?」
「格好つけてんじゃねーゾ?」
「だれだテメェ?」
やがて建物の影になっている部分から、夕陽の差し込む所へと声の主が姿を現す。
「貴様等に名乗る名前は……」
「住井さん!」
「ない……って、あれ? な〜んだ栞ちゃんか? 駄目だよ〜名前をバラしたら。名乗って良いのは最終回だけって決まってるんだからさ」
決め台詞を最後で邪魔された事を悔しがりつつ、住井はゆっくりと近づいて来る。
不敵にも両手はポケットに入れたままだ。
思わぬ助っ人の登場を嬉しいと思った反面、栞には彼が一人で複数の男達を相手に立ち回れる程腕っ節が強いとは思えなかった。
少なくとも彼女が知る限り、住井は変人でこそあれヤンキーではない。
(はっ! まさか住井さん……私を逃がすために時間稼ぎにその身を差し出すんですか? 待ってて下さい。私、お姉ちゃんを連れて必ず戻って来ますから。そしたらこんな男の人達、けちょんけちょんのぐっちょんぐっちょんで、ぐっすんおよよですっ!)
栞はストールの裾を握りしめる手に力を篭めると、住井の姿を哀れみと嬉しさの交じった目で見つめた。
(せっかく住井さんが捨て身で作ってくれた脱出の糸口。潰すわけには……あれ?)
彼女がどうやって腕を振りほどくか思案していると、取り囲んでいた男達が目に見えて狼狽え始めた。
「ま、まさか……コイツってあの”二中の狂犬”住井?」
「”ダークオブプリンス”の異名を持つあの住井かよ?」
「一声で県下の名だたるチームが集まるって言うぜ……やべぇよ。どーすんだよ?」
互いの顔を見合わせながら、あれこれ喚き始めると――
「ずらかれっ!」
「きゃっ」
男達は栞を突き放して一斉に踵を返し逃げ出した。
「え? え?」
そんな様子を唖然とした表情で見つめる栞。
「栞ちゃん大丈夫? ふぁ〜」
にっこり微笑み手を差し出すが、直ぐに欠伸をして表情を崩し、「いや〜寝不足でね……」と苦笑交じりにこぼした。
それなりに付き合いの有る住井の意外な一面に、信じられない様な表情で見つめながら、差し出された手を掴み立ち上がる。
その際、自然と頬が熱くなり胸の鼓動が激しくなってゆく自分に驚き、慌てて手を離すと、そんな心境を誤魔化すように足早に質問をぶつけた。
「あ、あの……住井さんって、そんなに凄かったんですか?」
「何が?」
「今の人達が言ってましたよ? 狂犬だのなんだのって」
「ああ、アレね……。なぁ栞ちゃん、俺ってそんな人間に見える?」
楽しそうに笑みを浮かべながら住井が尋ねると、栞は無言のまま首を横に振った。
「だろ? だからありゃ全部嘘だって。俺は何処にでも居るフツーの高校生だよ」
「じゃあ?」
住井の言う”フツー”とやらの定義も気になったが、それ以上に現状把握を求めて栞が尋ねると、彼は視線を泳がせて過去を懐かしむように話し始めた。
「いや〜俺と折原って中学の頃から一緒なんだけどな。それで高校も同じ所に決まったから、記念っつー事で入学前にある勝負をする事にしたんだよ」
「勝負……ですか?」
「ああ。伝説勝負……ってな。せっかく同じ高校に入るんだから、入学前に折原とどっちが有名になれるかを競ったんだ」
「はい?」
住井の言葉が理解できず、栞は目を点にして素っ頓狂な声を上げる。
「よーするにだ。どちらが入学時に有名人物になっているか? どれだけ名前を聞いただけで皆が噂される様な人間になってるか? ってのを競ったわけだ」
「……」
「それでだ、俺は入学前に自分がヤバイくらい危険な男……って設定で噂を広めたんだけどな。どうやら未だにその時のハッタリが一人歩きしてたみたいだね。いやいや言ってみるもんだ」
「もしあの人達が知らなかったら……嘘がばれたらどうすつもりだったんですかっ。住井さん無事じゃ済みませんでしたよ?!」
あっけらかんと答える住井に栞は声を荒げて反論した。
「そん時はそん時」
そう言って制服の上着を捲ると、脇のホルスターにごついエアーガン――違法カスタム化したベレッタだった――を素早く抜いて引き金を引いた。
バスッ! ――妙に低音が響く発射音に続いて、金属を貫く鈍い音が聞こえた。
住井の放った六ミリBB弾は道路の隅に落ちていたスチール缶をいとも簡単に貫いていた。
「わぁ……」
抜いた時とほぼ同じ速度でホルスターに戻す住井を、栞は驚きと感嘆に満ちた視線で見つめていた。
この時栞は気が付かなかったが、住井はエアガン以外にスタンガンも装備していた。
「備えあれば憂い無しってね。まぁ……三人くらいなら栞ちゃんを助けて逃げ出す時間を稼ぐくらいは出来るだろう。うん」
「もう、そんな危険な事する人嫌いです!」
平然と答える住井の態度に、彼を生け贄にして逃げ出す事しか考えていなかった自分を省みて胸が痛むのを感じた栞は、そんな自分を誤魔化す様に頬を膨らませてそっぽを向いた。
「まぁまぁ。結果的に上手くいったんだからノープロブレム」
手を栞の頭の上に乗せてぽんぽんと叩くと、彼女は一層頬を大きく膨らませた。
だが、その手を振り払おうとはしないところをみると、嫌ではないのだろう。
「あの……聞いても良いですか?」
暫くして住井が手を離すと、栞はおずおずと切り出した。
「なに?」
「その伝説勝負って、どっちが勝ったんですか?」
栞の質問を受け、住井はばつが悪そうに頭を掻く。
「うーん……残念だけど折原の勝ちだったな。入学式の最中に揃って壇上に上がってゲリラ的に挨拶かましたんだけどさ、その時の生徒達の反応は、明らかに折原の時の方が大きかった。悔しかったよホント」
変形学生服に加え、髪型を立派なリーゼントにしてまで挑んだものの敗退した入学式を思い出しているのか、住井はがっくりと肩を落とし溜め息をついた。
ちなみに入学式の後、その頭髪や身なりの事で教師に呼び出され注意を受けた住井は、彼等の眼前でその変形学生服を脱ぎ――中は普通の制服だった――更にリーゼントのカツラをひっ掴んで外して見せて、教師達を呆れさせた。
「そ、そうなんですか? 住井さんのネタでも十分インパクトあると思うんですけどぉ……」
「ほら、俺らの学校ってバカだけど根は真面目な奴ばっかりでヤンキーなんか居ないからさ、この手の噂は広まらなかったんだろうなぁ。実際栞ちゃんだって今の今まで知らなかったろ? でもさっきの奴等の反応見る限り、結果は思っていたよりも悪くは無かったみたいだな。うん」
「そ、それじゃぁ……住井さんを上回る折原さんっの噂って一体なんですか?」
「あ〜アイツはなぁ”気立てが良く胸のでっかい眼鏡っ娘の社長令嬢で許嫁になってる幼馴染みがいたけど、自分自身は血の繋がらない若き伯母に邪な愛情を抱いてしまった。しかしその伯母には愛人が居て、そいつに保険金目当てに殺されかけてしまい、以後女に興味を失い男色に走った”……っていう自らの風評を気にも留めない噂を広めてた」
「へ?」
「まさかああいう設定で来るとは思っていなかったからな……完敗だった。ちなみに、その噂がきっかけで氷上が近づいてきたらしいし、更にその後で噂が由起子さんにも伝わってしまい、暫く飯抜きになったらしいぞ。流石は我がライバルだよな。うんうん」
腕を組み、しきりに関心した様に頷いている住井を見て、栞は”何か間違っている”と思うと共に、改めて”校内変人の双璧”と呼ばれる二人を遙か遠く――別次元の存在に感じた。
「はぁ〜」
吐いた白い息を追って見上げた栞の目に、茜色の空を飛ぶ鳥の姿が映る。
「アホ〜アホ〜」
飛び去る鳥の、そんな鳴き声に思わず栞は頷いた。
それから住井は栞を自宅近くまで送る事になり、二人は並んで雪の残る道を進んでいた。
「それはそうと……残念だったね」
「……はい」
住井の言葉が今日の結果発表を指している事に気が付くと、栞は俯いて素直に応じた。
「住井さんが私に入れてくれなかったからですよ?」
栞の上目使いな視線と共に放たれた追求に、住井は顔を赤らめて一歩後ずさった。
「いやぁ〜ほら、栞ちゃんは可愛いと思うけどさ、これとそれは話が別であって……あ、でも決して栞ちゃんが長森さんに劣ってるってわけじゃないぞ?」
「……」
狼狽から自爆する住井を、栞は無言のままジト目で見つめ続けた。
普段は奇行に走って周囲を騒がせる彼も、こと女性に関する事では、彼がいつも玩具にしている南と大差無かった。
「住井さんって瑞佳さんの事が好きだったんですね」
「え? いや、そんな事は……無い……いえ、嘘ですごめんなさい。俺は長森さんに投票しました。はい」
何とか誤魔化そうとした住井だったが、栞の射抜くような視線にたじろぎ素直に肯定した。
「ぶー酷いですー。私との約束破るなんて……住井さんこそ”鬼畜”です」
「え? ちょっと待ってよ。俺そんな約束したっけ?」
「少女の思考は何時だって都合が良いんです!」
きっぱりと自分の身勝手さを言い切った栞だが、住井にはその表情はやはり普段よりも暗く、無理をして振る舞っている事が見て取れた。
「……まぁなんだ。俺が言うのも何だけど、お姉ちゃん……美坂さんも残ってるわけだし、気を落とさずにがんばれって」
そんな彼女の心境を察した住井が励ましの言葉をかけると、隣を歩いていた栞はふと足を止めて俯いた。
「栞ちゃん?」
住井が心配そうに声をかけると、栞はがばっと面を上げ、拳を握りしめながら力強く口を開いた。
「そう、そうですね。私にはまだお姉ちゃんが残っているんです。私が駄目でもお姉ちゃんが優勝すれば、美坂の名を守る事は出来ますよねっ?!」
「そ、そうだね」
栞の勢いに圧されて住井が一歩下がる。
「そうでした。私の戦いは終わってません。まだまだこれからです! そうとなればこーんな所でへこたれてる場合じゃないですね。闘争は立ち止まったら負けなんです! 早速家に戻って作戦会議をしなくちゃ……それじゃ住井さん、さようなら」
変わり身の早さに呆気にとられている住井にペコリとお辞儀をすると、栞は駆け足で自宅へと去っていった。
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§ |
「あら美坂さん。ふふっ、おめでとう……って言えば良いのかしらね」
「当人にとって不本意でしかない結果に対して祝いの言葉はどうかと思いますが?」
香里は多少ぶっきらぼうに答えながら部室の扉を閉めた。
自分の意志とは無関係に本選への出場を果たした香里は、以前に増して周囲からの興味と関心の対象となった事に対する懸念と、妹からの精神的圧力、そして某ストーカーの今後の行動に頭を悩ませていた。
栞を保健室へ届けた後も家に直行せず、活動が休止状態の演劇部部室へと立ち寄ったのは、それらからの一時的な退避を求めての行動だった。
誰も居ない部室で今後の対策を練ろう――そう思って香里がやって来た時、其処には既に先客がおり、彼女の姿を見て冒頭の言葉を投げかけたのだ。
「もう〜雪ちゃんってば本当は悔しいんじゃ……」
先客の一人――川名みさきが親友をからかうように囃し立てる。
「んなわけ無いわよっ! あ、判ってると思うけど、この子の戯れ言は本気にしない様にね」
即座に否定する演劇部部長の深山雪見の横で、一年生の上月澪がいつもの笑顔で成り行きを見守っている。
その他の部員達の姿が見えないところをみると、彼女達もまた自主的に部室へ訪れたのだろう。
香里が苦笑しながら後ろ手に扉を閉めている合間も、みさきは言葉を続けた。
「だって、TVCM起用からローカル番組出演を経て東京進出の後に大女優になる……っていう雪ちゃんの野望が潰えちゃったんだよ?」
「あのね……いつわたしがそんな事言ったのよ。自分の妄想をさも現実の事の様に扱うのは止めなさい」
言い終わると同時に、雪見は手近に有った台本を丸めて親友の頭を叩いた。
すぱーん――という景気のいい音に続いて、みさきの「うーっ」という恨みがましい声が聞こえてきたが、その事に対するフォローが周囲から行われる事はない。
この場に居る面々は、こうした二人の掛け合いに慣れているのだ。
適当な椅子に腰掛け深い溜め息を付いた香里の姿を見て、澪は心配そうな表情を浮かべる。
手に持ったスケッチブックを開き、何か気の利いた言葉を書こうとしたが、特殊な状態に陥った先輩に対する慰めの言葉が思いつかなかった。
香里は頭を悩ませている澪に気が付くと、「ありがとう。気持ちだけで十分よ」――と言って、頭を撫でてやった。
「それにしても、随分大変そうね?」
香里が澪の頭を撫でる様に、雪見はみさきの頭を丸めた台本でポンポン――と軽く叩きながら、改めて心配そうに声をかけた。
「はい……本当に困りました。栞には『さすがはお姉ちゃんですね。私を蹴落としてまで登りつめようとするんですから……ふふ』なんて皮肉言われましたし、どこ歩いていても街中の人から珍獣を見るような視線を受けるし……それに今後の北川君の行動を考えると頭が痛いです」
香里は頭を抱えて項垂れる。
後輩の切実な悩みを聞き、雪見は数日前の光景――電柱から怪文書をばらまこうとしていた北川の姿を思い出して、心の底から同情を感じた。
「うーん、そりゃ確かに大変よね」
雪見はみさきへちょっかいを掛けていた腕を戻し、表情を改めて慰めの声を掛けた。
『頑張ってなの』
結局無難な言葉を選んだ澪が、スケッチブックを向けると、香里は精一杯の笑顔を作ってもう一度頭を撫でた。
「あ、でもでも、演劇部にとっては良いんじゃないのかな?」
「え?」
みさきの言葉に、皆の視線が集まる。
「だってミス学園候補ってだけでもこれだけ話題になってるんだから、もしも優勝したら次の公演なんかもう大変だよ。チケットも簡単に売れて、部員が一生懸命さばく事もないと思うし。来年の部員だってわんさかで、足りない人員を集める為にクラスの人達に頭下げる必要もなくなるよ。それに賞金で部費も潤うし、賞品の中には小道具に使えそうな物だってあるんじゃないかな?」
「そう言われてみればそうねぇ……」
みさきの言葉を受け、雪見は指を顎に添えて値踏みするような視線を香里に送る。
「ぶ、部長?」
「うん。部全体の事を考えれば確かにプラス要素の方が大きいわね。ミス学園主演の演劇……メディアへの露出だってあり得るかも」
「そうなれば、雪ちゃんの野望も復活だね」
「だーかーらー、あなたはそこから離れなさいっ! それはともかく……美坂さん?」
「は、はい?」
「勝ちなさい」
「え、えーっ!?」
「これは貴女の為でも有るのよ? 私の後を継ぐのは貴女なんだし、判ってると思うけど今の二年生と一年生の部員だけじゃこの先大変よ?」
雪見の言うとおり、演劇部の部員数は決して多いものではない。
三年生は雪見と手伝い扱いのみさきを加えて四名。二年生は香里を含めて三名だが一年生は澪を含めて二名しかいない。
今でさえ人数の関係で演じる劇に制約が有るのに、来年の新入部員が引退する三年生よりも少なければ、部は壊滅的なダメージを受ける事になる。
それから男手の少なさも深刻だ。
現在演劇部に正式な男性部員は存在せず、男役も女生徒が演じているのが現状だ。
いくら校内の綺麗所が集まっているとは言え、雪見の指導による部活動の厳しさは有名であり、彼女達目当て入部してきた男達はその活動の厳しさに耐えきれず逃げだしてしまうのだ。
しかも、その傾向は確実に来るであろう香里の政権下においても継続されるのは必至であり、在校生が新たに入部する可能性は皆無と言って良い。
役者だけでなく、大道具等の肉体労働力としても、来春の男子部員確保は演劇部存続の為の命題と言ってもよかった。
もっとも北川なら香里が頼めば、瞬時に入部を決意するであろうが――事実、向こう側からのアプローチも何度か有った――彼女が彼の入部を認める事は有り得ない。
「でも貴女がミス学園に選出されれば……貴女に憧れて入部してくる人数も増えるでしょうね」
「しかし部長……そういう浮ついた動機で入部してくる有象無象に真面目な部員は期待出来ないんじゃ……」
「それもそうだけど、ふるいに掛けるにしても、人数が多いことに越した事はないでしょ? 見極めは貴女に任せるわよ」
「そんな……無責任な」
「来年の事でしょ? そりゃわたしには責任ないもの。当然よ」
きっぱり言い切って笑う雪見に、香里は恨めしそうな顔を向ける。
「それに今此処であれこれ文句言ったって貴女が出場するのは決まっちゃった事だし、出る以上は我が演劇部の次期部長として恥ずかしくない姿勢を貫くのよ。これは私からの部長命令。その上で出来れば美坂さんには優勝してもらうという事で……本日の演劇部会議は終了〜」
雪見がそう締めくくると同時に拍手を送るみさきと澪。
「ちょっと待って下さい。何時の間に会議になってたんですか!」
香里は部室に来た事を後悔しつつ声を荒げる。
「まぁまぁ香里ちゃん。いざとなったら、また凄いパンツ履いて出れば大丈夫だよ」
慰めのつもりで口にしたみさきの一言は、必至に忘れようとしていた香里にとっての黒歴史を掘り起こす。
それどころか、あの現場に居なかったみさきが知っているという事は、全校に――いや、バカ騒ぎの現状を考えると街全体の可能性も高い――例の噂が広まっている事を裏付けるものであり、その事実にいち早く気が付くと、香里の顔は沸点を超え、ぼんっと音を立てて真っ赤になった。
「いやぁぁぁぁっ! 違うの、違うんです! あれは私じゃなくて栞が……」
普段の冷静さをかなぐり捨て、両手で真っ赤になった顔を隠していやんいやん――と身体をくねらせる香里を見て、澪は釣られるように顔を赤らめ、雪見は香里が何故人気があるのかを悟っていた。
そしてみさきは――
「がんばれ〜香里ちゃ〜ん! 優勝したらご飯ご馳走してね」
ひとり変わらず、脳天気な声を送っていた。
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§ |
テーブルを差し挟んで向き合う二人の少女。
普段であればたわいもない話題に花を咲かせて笑い声が響くであろう二人は、喫茶店――百花屋の中で押し黙ったまま向き合っている。
一人はばつが悪そうに、それでいて照れた様な仕草で、目の前のコーヒーカップを弄んでおり、もう一方は半ば憮然とした表情で向かい側の少女を見つめて――否、睨んでいる。
黙っているのは何も彼女達だけでは無かった。
普段よりもBGMの音量が落とされた店内は驚く程静かで、周囲の客はおろか、店員までもが押し黙って二人の行動に目を向けていた。
なぜならば、テーブルに座る二人の女生徒は、この街で今もっとも有名な存在とされている”あの”高校の生徒であり、しかも片方は本選出場を果たした六名の中の一人で、もう片方に関しても、此処最近の間取り巻き達の行動によってその名を街中に広められた有名人――というよりも名物的存在だったからだ。
「はぁ……」
向かいの少女の現実に対する認識不足に頭を抱え、すでに怒る気力も失った少女――七瀬留美は、溜め息を付くとテーブルの上のコップを手に取り、ストローをどけて直接中身を喉へ流し込んだ。
中の氷がカラン――と音を立てる。
「あのねぇ瑞佳……いい加減現実を認めなさいよ」
そう言い放って、コップをテーブルへ戻し、向かいの少女――長森瑞佳へ詰め寄った。
「うーん七瀬さんはそういうけど……だって、私だよ? 私なんだよ? 何で私が選ばれるのか判らないよ」
長森の返答を聞いて、再び七瀬は溜め息をつく。
そうなのよね――七瀬は思う。
彼女の憧れでもあり片思いの相手である長森は、自分の存在を正しく認識した事が無いのだ。
それが彼女の魅力でもあるのだが、自分が予想通りに落選し、同じく予想通り本選への出場を果たした長森を祝い、そして今後の応援をしようとする身にとっては、今の彼女の態度は何とも拍子抜け……というか甲斐が無い。
更に七瀬としては、如何に長森が周囲から好まれて、かつアホの折原とは釣り合わない存在かを訴える良い機会だと思い、彼女に自分の立場を判って貰おうと説明を続けていたのだが、結果はご覧の通り。
「それじゃ聞くけど……あんた、中間テストの成績どうだった?」
「えっと……まぁまぁ……だったかな? あは」
「あのねぇ……八百点中七六〇点、三五〇人中二〇位の結果が”まぁまぁ”だっていうんだら、あたしの合計四三〇点、二九八位っていう結果はなんなの? 謙遜もそこまで来ると嫌味になるわよ?」
そこまで吠えて、自分の成績を公然と叫んだ事に恥ずかしさを覚えた七瀬は、誤魔化すようにストローをくわえると音を立てて残ったジュースを飲み干した。
「ご、ごめんねっ。別にそういうつもりは無いんだけど……ほら、私って特にこれっていう取り柄が無いと思うんだよ」
「瑞佳の趣味は?」
「えっと、料理と裁縫……あとチェロかな?」
「掃除は好き?」
「うん。嫌いじゃないよ」
「運動は?」
「得意って程じゃないけど……人並みには出来ると思うよ。あ、毎朝浩平に鍛えられてるから、走るのは結構得意かも」
「ラブレター貰った事ある?」
「えっと……」
「無いとは言わせないわよ」
「……うん、有るよ。あ、でもでも、ちゃんとお断りのお手紙書いて渡したんだよ」
そこまで聞いて、七瀬は身を乗り出していた姿勢を戻し深く溜め息を付く。
「はぁ……自覚が無いってのは、やっぱり恐ろしいわね」
「ん?」
「だーかーらー、あんたに欠点なんか無いわけ。判る? 取り柄が無いんじゃなくて、全部が全部、高次元でバランスよく纏まってるわけ。容姿端麗で、スタイルが良くって、勉強が出来て、お人好しで、世話好きで、明るくって、話しやすくって、料理も洗濯も掃除も、それに裁縫も得意で、運動音痴って訳でもなくって、おまけにチェロなんて普通の人はまず弾けないような楽器までこなせちゃうあんたのどこが普通だっていうのよ」
「そうかなぁ〜?」
それでもなを納得出来ないのか首を傾げる。
「あんた、ちゃんと鏡で自分の顔見てる?」
「うん。浩平にも言われるけど、ぼけぼけ〜ってした感じの特徴の無い顔だと思うよ」
「……」
「それにさっきラブレター貰ったって話したけど、本当にラブレターかどうかよく分かんないよ? だって『貴女を見てると癒されます』とか『お弁当が食べてみたいです』とか『折原のバカと別れて下さい』とか書いてあるだけだし……」
「それって、遠回しに言ってるだけじゃない」
「そうかな? でもね、わたしの事を『好き』って言ってくれた人なんて……その、今までで二人しか居ないよ?」
「え、二人なの?」
「……うん」
長森は顔を伏せて頷いた。
「へ、へ〜一人はアホの折原よね? で、もう一人の身の程知らずは何処の何奴よ?」
瑞佳の言葉を聞いて落ち着かないのか、七瀬の腕が小刻みに震え、既に空になったコップがカラカラと音を立てている。
「……せさん」
俯いた長森が小さな声で呟く。
「え、誰だって? 聞こえないわよ?」
そう聞き返す七瀬の口調には、抑えられない苛立ちが感じ取れる。
「だから……その、七瀬さんだよ」
伏せたまま上目使いで長森が告げた自分の名前に、七瀬は瞬時に顔面の毛細血管を膨張させた。
「あ、あははははは〜。そう言えば、そうだったわね。全く私ってば身の程知らずで、本当困っちゃうわよね。あはははははは」
七瀬は赤く染まった顔を隠すように俯いたまま、照れ隠しに自分で自分の頭を小突いた。
その時、そっと横合いから声がかけられた。
「あの済みません……ちょっと宜しいですか?」
「はい?」
長森と七瀬が顔を向けると、百花屋の店員――いや、店長がかしこまった姿勢で立っていた。
「長森瑞佳さんと……それから七瀬留美さんですよね?」
「はぁ」――と答える二人を確認すると、店長はやけににこやかな表情を浮かべ「実は、お二方にお願いがございまして」――そう断ってから、店長は色紙とペンをテーブルの上に差し出した。
「何これ?」
「さぁ……なんだろうね」
二人は意味も判らずそろって首を傾げる。
「出来れば、その……サインを頂けないでしょうか?」
『はい?』
「いやいや、何も無理にとは申しません。しかし、もしサインを頂けるのでしたら……この伝票はこちらで処理させて頂きます。はい」
予想外の言葉に二人が互いの顔を見合って黙っていると、返事を渋ったと勝手に勘違いしたのか、店長は――揉み手と共に、「では、お好きな物何でもご注文下さい。それで如何でしょうか? 勿論、当店自慢のジャンボパフェでも、特別ディナーセットでも構いませんよ」と延べた。
栞であれば、間髪入れずに「ジャンボパフェ」と叫ぶだろう。
名雪であれば「いちごサンデー大盛り」と叫んだだろう。
だが、遠慮という言葉をよく知る二人は何も注文する事はなかった。
「そ、そんな……是非、是非にもお願いいたします」と、恭しく頭を垂れてなおも食い下がって懇願する店長の姿に狼狽し、黙って色紙にサインを書いた。
当然二人とも色紙にサインをする事など初めてであるから勝手が分からず難儀する。
しかし長森はその才能を遺憾なく見せつけるように、見事な達筆で色紙に自らの名を書き記した。
七瀬のサインはお世辞にも綺麗とは言えなかったが、何処か雄々しさが漂うダイナミックな筆跡で、これはこれで趣深いものでもあった。
店長の願いで「百花屋さん江」と追記した色紙を二人が手渡すと、彼は大げさ過ぎる程に喜びを表し、そのまま伝票を持って「ごゆっくりどうぞ」と言葉を残し去っていった。
「……どうする?」
「……どうしよっか?」
どこか居心地の悪さを感じた二人は、どちらからともなく席を立ち百花屋を後にした。
二人が書いたサインは、これ見よがしにカウンターの上に飾られ、訪れる客の興味と関心を掻き立てる事となり、そしてその事実がこの度の騒動における新たな局面を招く事になる。
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§ |
「で、何でカメラなんか構えてるわけ?」
自宅のキッチンで夕食の準備をしていた郁未が背後に気配を感じて振り返ると、そこにはカメラを構えた晴香の姿があった。
「ああ、気にしない気にしない。久々に出会った親友の、何げない日常をフィルムに収めているだけだから」
片手で手を振りつつ答える合間も、目はファインダーに押し付けられており、もう片方の手はカメラを握りしめ、その細い人差し指は僅かなチャンスも逃さんとばかりにシャッターの上に置かれている。
「そうなの? それにしては随分立派なカメラねぇ」
「そりゃこういう商売してるんだし、私はいつも自分の記事に使う写真も自前で用意してるんだから、それなりのカメラは持ち歩いてるわよ? あ、ほら笑って笑って」
「そうなんだ……でも、どうしてそんな舐めるようなローアングルなわけ?」
「そりゃ大きめのブラウス一枚にエプロン装備という無防備な姿に加え、郁未のその綺麗な脚を撮れば、高く売れそうだからに決まって……」
そう答えた晴香がシャッターを切った直後、郁未のかかとが彼女の脳天に振り下ろされた。
しっかり郁未の下着を確認してから回避した晴香の反射神経と動体視力は十分賞賛に値できるだろうが、続いて放たれた後ろ回し蹴りは避けられなかった。
景気良くリビングのソファーまで吹っ飛ばされた晴香は、カメラの無事を確認しつつ何事も無かったかのように立ち上がると、郁未に対して突っかかった。
「あたたた……何すんのよ!」
「それはこっちの台詞でしょ!」
フライパンを持ったまま睨む郁未。
双方が「頑丈」である事を認知しているからこそ出来るじゃれ合いであり、先程の不可視の力で十分加速を与えられた郁未の蹴りを一般人が食らえば、窓を突き破って地面に落下し命を落とすだろう。
運良く部屋の外へと飛び出さなくとも、数ヶ月は食事が出来なくなる程度にダメージを負うはずだ。
しかし郁未の力の籠もった一撃も、不完全ながらも同じ不可視の力を持つ晴香にとってみれば、仲の良い女の子同士の間で行われる拳骨程度でしかない。
だからこそ平然と起きあがると、晴香は怒りもせずに郁未を説得にかかる。
もっともカメラが壊れていたら多少は喧嘩になっただろうが……。
「良いじゃない写真くらい。元手無しで荒稼ぎ出来るのよ? それに別におヌード頂戴って訳じゃないんだからさぁ」
「当たり前じゃない、そんなの駄目に決まってるでしょ!」
「そんなに怒らないの。第一、貴女が今更ヌード程度で騒ぐ事の方が私には驚きよ?」
晴香は何食わぬ顔で、ウェーブのかかった髪の毛を片手で掻き上げながら郁未の元へと近づいて行く。
「あのねぇ……人間は常に成長するのっ。私だって何時までもあの時のままじゃないわよ」
郁未は溜め息を一つ入れてからキッチンへ向き直ると、手にしていたフライパンをコンロに戻す。
ぞんざいな態度で取り繕ってはいるが、晴香の台詞そのものは否定していない。
過去、郁未が淫猥な事柄に興味深い質だったのは確かであり、その事実を知る晴香にとってみれば、今の猫被った郁未の方が不自然だ。
「ふーん」
対する晴香は郁未の言葉を信用する事が出来ないのか訝しげに応じると、カメラをテーブルに置いて料理を再開した郁未の背後に立った。
「な、何よ……」
すぐ背後に気配を感じて振り向いた郁未の目の前に、悪戯っぽく笑っている晴香の顔が迫っていた。
「本当?」
「ちょ、ちょっと晴香やめ……んっ」
晴香は僅かに身を竦める郁未の耳元で小さく呟き、何かを言いかけた彼女の唇に自分の唇を重ねた。
すかさず舌を割り込ませ、強引にディープキスへと移行させると、手探りでコンロのスイッチを操作し火を止める。
そのまま腕を郁未の腰へと回し、もう一方の手はゆっくりと郁未の胸の上へと移動させる。無論その合間も晴香の舌は郁未の口内を蹂躙し続けている。
二人の唇の隙間から吐息が漏れ、唾液が絡む淫靡な音がキッチンに響く。
その間、晴香は楽しげな表情をしているのに対して、郁未のそれには困惑が見て取れる。
だが元々ノンケだった晴香をFALGO潜入時代にバイセクシャルな人間に仕立て上げたのは、他ならぬ郁未なので、これは因果応報としか言いようがない。
たっぷり口内を犯した末に唇を解放した晴香は、頬を妖艶な朱に染めて郁未の目を見つめながら口を開く。
「ほらほら〜、郁未の本性はスケベなんだから、ちょっとくらい生徒達にサービスしてあげたら?」
悪戯っぽく微笑みながら胸に回した手に力を篭め、ブラウスの上から乳房を緩やかに揉み上げる。
「い……」
「イイの?」
何かに耐える様に苦しそうな表情を浮かべて口を開きかけた郁未に、晴香が先の表情のまま問いかける。
が――
「いい加減にしなさぁーい!」
郁未が感情を爆発させて叫び声を上げた瞬間――
「やばっ」
晴香は目の前にある郁未の目が金色に輝いている事に気が付き、反射的に防御を固めた。
と同時に、二人の間にある空間が爆ぜた様に”何か”が爆発した。
「うきゃぁっ!」
彼女にしては可愛らしい悲鳴を上げて、晴香は再びリビングへと吹き飛ばされた。
部屋の内部には全く傷をつけていないところを見ると、郁未も理性を失う程怒っているわけでは無さそうだ。
「あたたた……ちょっと何すんのよっ」
「それはこっちの台詞でしょ! さっきも言ったけど、今の私は健全な校医なのっ」
「まった〜。健全な校医だなんてさ。大方好意もった生徒にアレな行為をしてるんじゃないの?」
晴香が立て続けに発した駄洒落は場を和ませるどころか、郁未の表情を更に険しいものとした。
「あ、あはは〜。じょ、冗談なんだからさ、そーんな怒らないでよもう。郁未ってばもうウブになっちゃって。それにしても人間って歳を取ると怒りっぽく……ぶへっ!」
一言多い晴香は、極寒のベランダへと追い出され、その後三〇分もの間、雪の中で反省させられた。
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「やっぱり……邪な考えを持った者に、天使は微笑みませんでしたね」
一人、自室のベッドの上で佇んでいた茜は、机の上に飾られたフォトスタンドへ向けて呟いた。
写真の中の笑顔は変わる事なく、茜に微笑みを向けていたが、何処かいたたまれない気分になった彼女は目線を窓へと逸らした。
窓から覗く空はすでに黒々としており、月と星の輝きが見て取れた。
「詩子は……まだ街なんでしょうか……ごめんなさい」
うつ伏せに倒れ込むと、寒空の下でポスターの回収を行っているであろう親友を思ってひたすら心の中で詫び続ける。
なお、南の事はすっかり失念している。グッドマン哀れなり。
彼女がこの度の後始末を手伝っていないのは、別段サボタージュを決め込んでいる訳ではない。
詩子から「絶対に手伝っては駄目」と言われているからだ。
今回の騒動において、いち早く宣伝活動に名乗りを上げた茜陣営だが、予選敗退という結果は正直言って世間体的にあまり宜しくない。
だが、幸いな事に茜の支援行動は、彼女の親友である詩子という存在によって一方的に行われたもので、茜個人としてはむしろ迷惑だった――という風潮が一般的であり、その噂は学校関係者から既に街中に流れており、茜の尊厳は全く傷ついていなかったのだ。
その噂の出所が他ならぬ詩子であり、彼女はこの度の騒動における汚れ役を一手に引き受けていた。
だからこそ、茜は詩子の身が心配で仕方がなかった。
自分の為に其処まで親身になってくれる親友の為に、自分が出来る事は何だろうか? そう自問する茜。
詩子は私が過去のしがらみから逃れ、明るく前向きになる事を望んでいる――そこまで考えて、もう一度机の上の写真へ視線を向ける。
写っているのは、中学へ進学したばかりの頃の幼なじみの少年と詩子と茜の三人。
いつも一緒だった三人。
友情が愛情だと気が付いた茜が、勇気を振り絞ってそれを打ち明けた時、彼は茜の気持ちを受け入れる事無く、その後遠くの地へと引っ越して行ってしまった。
元々内気で人見知りの激しい茜は、その一件以降、より人――特に男子と接する事を拒むようになった。
だが、そんな彼女の殻を撃ち破ったのが折原だった。
態度こそ奇特であったが、彼には他の男子とは違い近づいて来た動機に下心が無かった。
最初こそ他の男子同様に無視を決め込んでいた茜だったが、折原自身が過去に度重なる不幸の末に塞ぎ込んでいた時期があり、他人を寄せ付けない茜に過去の自分を重ねていた事を知ると、いつの間にか茜は折原の姿を目で追うようになっていた。
(なお彼女に折原の過去を教えたのは彼の伯母である由起子である)
それから茜は少しずつ明るくなった。
人との付き合いも積極的――とまでいかないまでも、誘いに対しても無下に断る様な真似はしなくなった。
かつて幼なじみに抱いた感情を折原に対して抱いた事を実感するのに、さして時間はかからなかった。
だが、それを言葉にするよりも早く、彼は彼の幼なじみである長森と付き合い始めてしまった。
落ち込む自分を必至に誤魔化そうとしたが、一度覚えた感情を打ち消す事はなかなか出来ず、引っ越した幼なじみとは異なり、彼は同級生として手の届くところに存在しているのだ。
結局、彼女は再び塞ぎ込みがちになり、それがまた折原のお節介を誘い、長森は長森でそんな折原を心底信じているのか、笑顔で見守っている。
それが茜にとっては嬉しくもあると同時に悲しくもあり、彼女が意識しない部分で溜まったフラストレーションは時折負のオーラとして現れ、前の席に座る南の胃を痛めつける事になる。 そんな茜にとって、今回のイベントは自分が変わるチャンスであり、折原の心を奪って放さない長森と自分の優劣をはっきりと認める良い機会だと思った。
だからこそ、普段の自分では考えもしない積極行動に打って出たのだ。
だが結果は惨敗だった。
自分の獲得票総数はあえて聞くことはしなかったが、長森が本選への出場を決めたのに対して自分は落選した――その事実だけで十分だった。
「ここらが潮時ですね……」
顔を上げて夜空を見上げ呟く。
人知れず長森との勝負に敗れた今、茜は折原を彼女に託し身を引く事が出来るはずだった。
「浩平……私は……それでも変われるでしょうか? 私は……あれ?」
だが、折原への想いを封印するべきだと思う茜の瞳から、自然と涙が零れてゆく。
「おかしいですね……私……」
そんな自分に驚きながら、茜は溢れる涙を拭う事もせず、ただじっと窓の向こうに広がる星空を眺めていた。
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§ |
「う〜ん」
予選結果発表日の夜。悩むくらいなら行動すべし――が信条の北川が珍しく悩んでいた。
当然その悩みは、この度のコンテストと香里に関する事だ。
香里の支持をする者達は、基本的にその立場を表だって公表していない。
他の派閥がそうであるように、同じ人物をその崇拝対象としている者同士は結託し組織を作っているが、香里派の面々に限って言えばそうでもない。
その理由は今更言うまでも無いだろうが、それでもなお敢えて言うならば、「北川が其処に居るから」に他ならない。
もしも自分が香里に好意を抱いている事が発覚しようなら、暴走特急”北川”から何をされるか判ったものではない。
北川にとって、香里が全てであるように、彼の頭の中では「香里も北川が全て」だと思いこんでいる。
恐るべきはストーカー理論。
だが、ここに来て彼は初めて悩みに直面した。
香里がコンテストの本選に駒を進めた事で、今後更に熾烈になるであろう浮動票獲得競争において、他人を許さない自分のスタンスが枷になる事にやっと気が付いたのだ。
自分以外に香里を好きだと思う奴は必要ないが、香里がコンテストで優勝させるには大勢の票が必要。
北川を襲ったアンビバレンスな衝撃に、彼が悩み抜いて出した回答こそが、香里の親友である名雪を支援する一派の抱え込みだった。
予選落ちした事で浮動票となった名雪派の者達の票を、その代表者である斉藤の口利きで親友の香里へ投じるよう手回しをする――北川にしては考えに考えた論理的な作戦だった。
しかし彼は、斉藤がどれ程怒っているか考えていなかった――というよりも、自分が斉藤に何をしたのか覚えていなかった。
であるから――
「あ、斉藤? オレだよオレ〜き た が わ じゅ ん☆。用件は他でもない。ほら、水瀬さんあっけなく予選落ちしたじゃんか、それで浮動票となった水瀬さんの支持者をそのままそっくり美坂の支持へ……」
と、悪びれもなく口にすれば、当然――
『死ね』
――と、斉藤の怨念と呪詛の籠もった低く、そして短い一言だけを残して通話は途切れる事となる。
虚しくトーンが響く受話器を片手に暫く呆けていた北川だが、やがて「んだとコノヤロウっ!」と猪木ばりに顎を突き出しながら叫び、受話器を叩き付けるように置き、母親からこっぴどく叱られる事になったのだが、まぁそれはどうでも良い話であり、この北川の心変わり――路線変更一つとって見ても、この度のコンテストが予選を終えて新たな局面を迎えた事の現れである。
この時点で本選まで残りは二日となり、街全体を巻き込んだ狂乱はそのクライマックスへ向けて加速してゆく。
もう一度整理してみるが、本選への出場を果たした女性は、天野美汐、美坂香里、長森瑞佳、倉田佐祐理、川澄舞、天沢郁未の六名。
この中で自らの本選出場を喜んでいるのは舞と佐祐理の三年生コンビだけで、美汐と郁未はやや困惑気味、周囲に退路を塞がれた香里は諦め気分、長森はと言えば今だ自分の立場を理解していない有様だった。
当人達の意志はともかくとして、周囲の反応は早く、予選結果の発表後から各支援者達は、新たな票獲得の為に奔走を始める。
予選投票直前に起きた不慮の事故――栞の下着作戦と風の悪戯によって、本人の本意は無視してお色気路線をひた走り、一気に支持を集めて予選突破を滑り込みで果たした香里だが、その代表的支援者は言うまでもなく北川だ。
だがその北川の支援活動は、先の名雪派抱え込みの失敗の例を見るまでもなく空回りを続け、彼の行動が直接票の獲得に働くことは無かった。
だが、それでも香里に対する票は確実に増える事になる。
というのも一夜明けた水曜日――五日目の早朝、演劇部に所属している雪見と澪、そして半ば部員扱いのみさきが、公然と香里支持の発言を行った為、彼女達の支持者達がそのまま香里支持へと雪崩れこんだからだ。
当然、この情報は直ぐさま他の支援組織へと流れ、敵対勢力の切り崩しだけでなく、予選落ちした派閥の取り込みこそが急務という認識が、各支援組織の中でより強まってゆく。
美汐を支援する文芸部の面々が中心になっている美汐派「みしんぐりんぐ」の面々は、先日美汐と親交を持つ様になった澪派の取り込みを行おうと思った矢先の出来事に憤慨し、リーダーの葉月は暴走し文芸部部室に置いてあった巨大なダルマ――当然目玉は片方が無い状態だ――を叩き割ってしまった程だった。
葉月は直ぐさま澪派の切り崩しを行うべく行動を開始したが、演劇部に所属する少女を支援する各組織の横の繋がりは予想以上に強固であり、彼等が香里支持の姿勢を変えるには至らなかった。
尚、斉藤が束ねる名雪派に属する面々は、当初こそ名雪が予選敗退時に彼女の親友である香里支持へ回る事はやぶさかでは無かった――事実予選の途中、斉藤の方から北川へ共闘の話を持ち込んだ程だ――が、名雪の獲得票数が香里のそれに対して「僅か一票のマイナス」という結果を知ってしまった為、名雪派に属する者達が妨害工作を行った北川を――そして彼が推す香里へ票を投じる可能性は未来永劫失われた。
斉藤はコンテストを穏便に済ませる為に北川の暴走を抑えたが、その報復で北川が斉藤を妨害し、更にその結果斉藤の姿勢を過激派へ転向させた図式は、正に因果応報の具現だろう。
このように五日目にして事態はテロリズムを産み出すに至り、”北川(美坂)打つべし”をスローガンに掲げゲリラ活動を行う事を決意した斉藤は、派閥の中心である親衛隊を率いて学校から姿を消した。
そしてその日の正午には、街の各所にて香里に対する流言飛語が飛び交う事となり、急速に勢力を増していた香里支派の勢いにブレーキがかかり、これを引き金として水面下で敵対する勢力の偶像を陥れる醜く凄惨な戦いへと発展してしまう。
茜が長森に対して対抗心を燃やしていたという情報――世間的にはガセネタとして扱われていたが、南が不用意に漏らした言葉を聞いた一部過激派が決起――を得た茜派残党の面々は、彼女の無念を晴らすべく、長森がすでに学校一の問題児である折原と唯ならぬ関係にまで発展しているという卑語を流す。
これに対して長森の支持者達は何の行動も起こすことが出来なかった。
というのも、生来の面倒見の良さと、校内きっての問題児である折原浩平の彼女ゆえに特異な立場――時には身を呈して折原の暴走を止めるその姿勢――は、男子だけでなく女子からの信奉も厚く、彼女の潜在的支援者は数多いのだが、それ故に組織力を持ち合わせていない彼等にとって、茜派残党によるテロ活動を食い止める手だてを持っていなかった。
しかし此処で中崎と南森が率いる七瀬支援組織が組織的行動力を持たない長森派の支援に乗り出し、彼等が用意していた街宣車までも繰り出して長森の名誉挽回へ務めた。
この時点で何処の派閥にも属さない大多数の無所属や女生徒達は、自らの身の不安を考え傍観を決め込む事になるが、その票を求めて各派閥の工作活動が激化すると、もはや傍観を決め込む事すら難しくなった。
久瀬は生徒会の面々を私兵化して、何と買収工作活動を開始。
元々佐祐理は昨年まで生徒会に所属し、その人柄が多くの生徒から評価されていたし、生徒会内部にも久瀬ほどでは無いにしろ、彼女に好意を寄せている者は少なくない。
であるから本選への出場が確定した直後、生徒会室がそのまま佐祐理派の活動拠点となり、壁一面に佐祐理の写真が貼られても文句を言う者は誰も居なかった。
豊富な資金力を有する久瀬が率いる佐祐理派は、明確な支持をうち立てて居ない生徒達に片っ端から近づき買収工作を行った。
それだけではなく、更に裏では買収に乗らない生徒に対する脅迫まがいな行為すら行われたとも言われているが、本件に関しては他の派閥による流言飛語の可能性が高い。
脅迫行為が事実かどうかはともかく、厳格が売りの生徒会が形振り構わない買収活動を行った事は、今回のコンテストが病的な様相を呈している事を知らしめる証拠でもあった。
しかし、殆どの生徒達が騒動の渦中に在った事で感覚が麻痺していたのだろうか? 買収活動自体は特に取り沙汰される事はなく、むしろそういった活動すらも自然と祭りの一部へと溶け込んでいた。
水面下とは言え公然と行われる買収工作を目の当たりにして、資金を持たぬ葉月率いる美汐派は派閥内で「血の掟」を定めて結束の強化を図り、何としてでも美汐への票数を上げる事を派員に対して厳命。
一人あたり五〇票という、学校の規模を無視したノルマを設けて投票確約に奔走させると、その無茶な命令を必至に守ろうとする姿に僅かだが同情票が集まった。
そして街中で行われている彼等の必死な活動は、確実に美汐の存在を広める事となり、彼女の持つ今時珍しい物腰の丁寧さと古風な美少女という評価が、主婦層と国定絶滅危惧品種である大和撫子に憧れる中年男性層の間でシンパを広げていった。
例え彼等が生徒では無くとも、決勝入場者に投票権が与えられる新ルールを考えれば、不透明ながらも美汐の票は確実に増えていった。
他の派閥を吸収した香里派、資金面や行動力に秀でた七瀬派が支援を始めた長森派、そして資金にものを言わせて買収工作を展開する佐祐理派、強力な指導者の元で地道な活動を続ける美汐派、以上四派の組織ぐるみの積極的活動は圧倒的であり、他の女性を推す生徒達が吸収・淘汰されるのも時間の問題とされた。
実際、五日目の午後の段階で、世間の優勝予想は各派閥を取り込み驀進する香里を筆頭とし、続いて佐祐理、前評判の高かった瑞佳、そして地味ながらも勢力を伸ばしつつある美汐が有力とされていた。
すっかり出遅れた舞と郁未だったが、舞派に関して言えば、その大半が下級生の女子を占める事もあってか、それとも候補者の性格を反映している為か、予選の段階から工作活動に関しては無頓着であり、主立った活動は全く実施されていなかった。
そんな彼女の支持者は、他の派閥の囲い込みや買収工作において、もっとも安易なターゲットとされており、一部の過激派的支援家による行き過ぎた強制的な支持取り付け運動で、我が身の安全に恐れを抱く者すら現れつつあった。
しかしその日の夕刻、無所属の女生徒を取り囲み美汐への恭順を命じていた男子生徒達を、偶々通りかかった舞本人が一刀の元に倒して救うと、その活躍は瞬時に街中へ流れ――美汐派の支援活動は抜きに、単に「絡まれていた女生徒を救った」と広まった――舞の人気を一気に広め、無結束であった舞派の決起を促し、更には自由選挙に対する危機感を募らせた無所属女生徒達が一斉に舞派へと流れる事態へと発展する。
残る郁未に関してだが、唯一の教職員という事で、生徒の票の他に教職員からの投票をほぼ独占した事で、実は予選を最多票を会得して通過した郁未であったが、決定的な組織力の不足に予選発表後は最も弱体化を招いてしまった。
何しろ教職員達が率先して生徒達の様な支援活動を公然と行うわけにも行かず、彼女の支持者は確実に他の派閥へと吸収されつつあった。
更に郁未の獲得票の半数を占めていた女生徒票が舞へと流れ込み始めた事で、郁未派の勢力は縮小の一途を辿る。
元々コンテストへの参加を迷惑に感じていた郁未だったので、五日目の放課後に石橋から「先生、何だか苦戦してるみたいですよ?」と言われたところで、気に掛ける事はなかった。
しかし、そういう事態を面白くないと感ずる人間も居る。
取材に訪れている郁未の親友、晴香だ。
彼女は取材を通じて郁未の苦戦を感じると、取材活動の合間にさりげなく郁未の情報をばらまき始めた。 情報と言っても個人のステータスではなく、彼女という人間が如何に素晴らしい人間かを、多少脚色を加え誇張気味に訴えた。
流石にマスコミ関係者の言葉に弱い一般市民は、彼女語る素晴らしき郁未像に憧れ、少しずつ郁未派は息を吹き返し始める。
それでも流石に一人の力では限界を感じたのか、晴香は取材を通じて知り合った一人の男子生徒――郁未の写真撮影に命を掛けるパパラッチ気取りの生徒だった――と秘密裏に会合、彼に自分が撮影したプライベートフォト提供する。
その写真を受け取った時の彼の叫び声は「うひょぉぉぉぉぉっ! ぶひょぉぉぉぉぉっ! コレハァハァァァァァァァァァっ!」という、意味不明なものであったが、その威力は十分に伝わったと思う。
彼が入学してから今日まで追い続けた夢のアイテム――平時であれば大儲け確実だった逸品――を手にした彼は、その写真を大量にコピーして学校中に張り出した。
それだけではない、当の郁未がその日の職務を終え帰宅する途中、生活用品の確保の為に馴染みの乾物屋に立ち寄った時、店の主が「先生、どうか一つ私の店の宣伝に付き合っちゃくれませんかね? いえね、百花屋の奴が生徒さんのサインを店先に飾って大層評判になってるんですよ。んで、私としてはいつも贔屓にしてくれてる先生の力になりたいんです。いや、勿論タダでとは言いませんよ。今後先生が必要とする生活用品は好きなだけ持っていっていい!」と、いきなりタイアップの話を持ち出した。
勿論、取材に来た晴香のアジテーションを受けた結果だが、そうとは知らない郁未は、その主人の勢いに思わず頷いてしまい、ここに個人スポンサード商店が誕生した。
それまで協賛各店舗の姿勢は、基本的にコンテスト自体の支援であり候補者の個人を支援する事はなく、つまりは中立の立場だった。
当初からの協賛店舗・企業には本イベント終了後に、コンテスト優勝者を宣伝に起用する権利が与えられていたが、その実コンテストの肥大化が進み、その恩恵で売上の増加という形での実益が有ると、商店の中にはコンテスト終了まで待たずに特定の候補者への働きかけを模索する者も現れていた。
予選の段階でこれだけの盛り上がりを見せ、かつ売上・利益の増加が有るのだから、フィーバーがピークに達するであろう本選当日前に、既に優勝者と近い関係にあった場合、その効果は計り知れない――そう考えに至るの、はごく自然な事だった。
そこに来て、商店街の一角にある乾物屋が、突如「天沢郁未先生御用達」だの「何でも揃う○○商店」といったコピーと共に郁未の写真をデカデカと多用したポスターを張り出したのだから、他の商店も黙ってはいない。
規約の中で、コンテスト終了前における候補者個人との業務提携や宣伝契約などが違法だと明記されていない事に気が付くと、各商店が各々候補者をスポンサードする事を決意し、その日の内にタイアップの申し入れを行った。
やがてその運動は活発化――というより激化し、六日目の木曜日には殆どの商店が誰かしらの支援組織に組み込まれる異常事態へと発展し、同じ商店街内にありながら郁未派の商店と香里派の商店が互いに啀み合い、一触即発の事態へ発展しかねない状態へとなっていた。
とある商店が同じシンパの特別優遇処置を発表すれば、別の商店では敵対シンパの締め出し措置を始め、もはや初期の目標とは異なる、半ば熱病的な有様となる。
事の発端で有るにも関わらずその自覚の無い晴香は、その時の商店街の様相を「今やこの街の商店街は、地球における中近東の様な状況」と比喩した。
この時点で校長は事態の重みに耐えかねて泡を吹いて倒れ、救急車で病院へかつぎ込まれる。
商店街の熱気は更に飛び火し、町内会同士の争いを経て、郁未のマンションがある一丁目の住人と香里の家のある三丁目の住人達がいさかいを起こす内乱にまで発展。
地元警察所は非番の者も含む総動員にて街の警備を行うも、明らかな戦力不足に県警へ支援を要請。事態を重く見た県警も、虎の子の機動隊をも投入して街の警備に乗り出す。
街の至る場所で警察官や機動隊員の姿が見られる様になり、もはや祭りを通り越して動乱だ。
当然これだけの騒ぎとなればマスコミも黙っては居ない。
地元の地方放送局だけでなく、首都圏のキー局までもが情報番組やニュース内で特集を組み、街へやってくるマスコミ関係者の数は増え、元々多くないホテル・旅館の類は満室となって従業員が悲鳴を上げる。
「私共の店では天野美汐さんを応援しておりま〜すっ!」
「美坂香里さん御用達の下着は当店でっ!」
「長森瑞佳さんプロデュースのお弁当はこちらでーす」
――等と店主と従業員全員が恥ずかしげも無く大声で叫び、彼女達の名が書かれた旗やポスターを振りかざす姿や、その他の似たような光景が全国の茶の間へと配信される。
葉月が「ローラー作戦始めぇっっ!」と叫べば、哀れな部員達は既に自分が何をやっているのか判らないまま、街へ繰り出し美汐の宣伝に勤め、北川が「美坂ぁぁぁっ〜」と自分なりの宣伝を目指して街を走れば、何処かのマスコミが「奇行少年の一日」とか適当なタイトルを付けたドキュメンタリーまでもが作られる始末。
本選に残った六人の顔と名前は一気に全国区へ知れ渡り、舞が解き放った久瀬のアドバルーンを訓練中に目撃し、それに記されていた名の正体に頭を悩ませていた自衛隊機のパイロット達が倉田佐祐理の存在を認識したのもこの時だ。
彼女達の人気にあやかろうとする地方政治家までもが現れ人々の嫌悪の対象となったり、逆に、地元最大の名家にして娘が候補者として選出されたにも関わらず、沈黙と中立の立場を通す倉田家への評価が上がるなど、事態は留まるどころか拡大の一途を辿る。
さらに折原と住井によってコンテスト発動の翌日から準備が進められていた記念グッズの発売が始まると、人々はかつてのガンプラブームの様に我先にと群がった。
それらのグッズは、在庫の一部をオークションや金券ショップなどへ故意に流す事で、プレミア価格を産みだし、莫大利益をごく一部の者へもたらす事になる。
無論、ごく一部の者とは、MS氏、KO氏に他ならない。
熱気は熱気を煽り、街中の人々の関心は、もはやコンテスト一本に向けられ、その他の話題を忘れたかのように人々は興奮した。
以上のような有様であるから、六日目は授業にならず学校側も二時間目以降の授業を中止する特別措置をとった。
かくして狼達は野に放たれ、決勝を明日に控えた最後の追い込みへと奔走する。
学校、商店、企業、個人、マスコミ、警察、行政等々……街中のあらゆる者を巻き込みつつ、動乱の六日目は終わりを迎える。
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§ |
「えっと、それじゃ舞ちゃんと佐祐理ちゃんの決勝進出を祝って……かんぱーい」
『かんぱーい!』
秋子の音頭に続いて乾杯の掛け声とグラスを軽くぶつける音が一斉にリビングの中で響く。
「あははー有り難うございますー」
「……」
恥ずかしさと嬉しさが半々といった感じで応じる佐祐理と、いつもの仏頂面の中にも恥ずかしさを覗かせる舞。
此処は水瀬家のリビングであるが、何故か二人の決勝進出祝賀会が開かれていた。
無論、最初から計画されていたものではなく、なし崩し的に始まってしまった物だ。
それでもリビングに居る者は――舞も含めて――楽しそうに秋子の作った料理に箸を運んでいるが、唯一祐一だけは時折表情を曇らせている。
その理由は主に疲労によるものと思われるが、精神的な不安もまた少なくない。
二人がコンテストに乗り気である事を知ってからは、その事実を受け入れ彼女達を応援するつもりでいたが、一昨日に住井から手助けを頼まれてからは、またその考えを改めたくなっていた。
いつもの事ではあるが折原が何を考えているのか判らない上に、街を包む非現実的な騒動に、祐一の心に巣くう不安は強くなる一方だ。
しかも今回は、折原の行動が直接祐一にとって大事な二人に降り注ぐわけで、彼が抱く不安が大きくなるのも無理無かった。
やっぱり二人とも考え直さない? ――という言葉を何度も飲み込み、それならばせめて本選内容を伝えて二人を有利に導きたいとも思った。
しかし、そのような忠告や密告は当人達、そしてなにより世間が許さないだろう。
仮に情報のリークを行い、それが世にバレでもしたらダース単位のヒットマンが祐一の命を狙いかねない。
結局祐一は、不安を抱え込みながらも、準備を手伝う事しか出来なかった。
そしてその準備とやらは、思っていた以上に忙しいものだった。
五日目の朝から折原に呼び出され、授業そっちのけで街中を走り回された。
流石にコンテスト本選を控えてやることは多いらしく、結局五日目と六日目の二日間は学校を休まざるをえなかった。
仕事そのものは頼まれた物を手配し、中には直接受領しに行き、必要な物を指定された場所へ配置する――仕事そのものは難しい物はなく、単に面倒くさいだけだった。
彼にとっては不本意だったが、結局のところ「折原の使いパシリ」という立場がもっとも的を射た表現だった。
それでも与えられた仕事はキチンとこなすあたり、祐一の人となりが現れているだろう。
やっとの事で折原から解放されたのが午後九時。辺りはすっかり真っ暗だった。
街中で警備をする警察官の姿に溜め息を付きつつ、祐一が疲れた身体を引きずって水瀬家へ戻ると、本来の住人に交じって舞と佐祐理がリビングでくつろいでいた。
予想外の存在に驚いた祐一だったが、その理由は彼女達の嬉しそうな表情――無論、舞の表情は祐一と佐祐理にしか判別不能ではあるが――を見て直ぐに理解した。
一昨日の予選結果発表後、舞と佐祐理は晴香のインタビューを受けその後帰宅、祐一は折原とミーティングの後に本選準備へと向かっていたし、昨日今日と祐一は朝から折原の手伝いに奔走させられ学校へは赴いていない。
その為この三日間、三人はまともに顔を合わせておらず、その事が二人の――多分に舞の――寂しさを煽り、彼女達の脚をこの家へと向けさせたのだ。
二人が水瀬家へ足を運んで来た理由を察した祐一は、周囲に家族が居る事も気付かず彼女達と見つめ合い、リビング内部にラヴ時空を発生させる。
真琴の乱入と名雪の狼狽え声で甘い雰囲気は霧散したが、舞の照れる顔と、そんな舞を見て嬉しそうに微笑む佐祐理の顔を見て、祐一の疲労感は薄らいでいった。
兎にも角にも祐一に会いに来た二人は、当人が留守であると知らされて踵を返したが、秋子と真琴が誘いそのまま水瀬家で祐一の帰りを待つことになり、「二人の予選突破を祝おう!」という真琴の提案を秋子が了承。簡単な祝勝会を開く事となり現在に至る。
祐一よりも先に帰宅していた名雪は、自覚出来ない程度に落選した事を残念に思っていただけ――むしろ名雪にとっては、自分の落選よりも七瀬の落選の方が気がかりだった――なので、二人の予選突破を真琴と共に喜んだ。
なお、当初名雪を応援していた真琴は手の平を返して、訪れた二人に「真琴が応援したんだから勝って当然よ!」と息巻き、祐一と名雪はそんな姿を苦笑しながら見つめていた。
「祐一……」
「祐一さん」
二人に名を呼ばれた祐一が顔を向けると、二人は――舞は精一杯の――笑顔を向けて「頑張る」「頑張ります」と口を揃えて言った。
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§ |
七日目の朝が来た。
運命の朝。
その日は、雲一つ無い快晴だった。
遙か地平線の彼方から姿を見せた太陽は、一〇〇億年前と変わらぬ形で姿を見せ、この地に降り積もった雪を溶かさんと、核融合によってもたらされるエネルギーが燦々と地表を照らし続ける。
だが、そんなエネルギーよりも更に強力なエネルギーに街は包み込まれていた。
つい一週間前、この様な形になると誰が予想できただろうか?
思い起こせば、最初は二年四組の男子達が授業の暇つぶしに考えたに過ぎないものだった。
だが僅か数日で、その企画は学校全体を取り込み、そして街全体をも巻き込んだ形へと肥大し続け現状へと至る。
協力を申し出たKTVのスタッフによって徹夜でセッティングされた体育館を朝日が照らし出した時、その周囲には既に大勢の人が溢れていた。
少しでも良い席を取ろうと、極寒の中を徹夜で待ち続けた生徒も居る。
余ったチケットを手に入れようと、プラカードを掲げる者も居る。
寒さに耐えつつ警備を続ける警察官の姿も見える。
校門の前でリポートを行っているマスコミ関係者も居る。
だが、昨日までの騒ぎは不思議と落ち着いていた。
それはまるで巨大な津波が訪れる直前の、静かな海にも似ている。
極限まで溜め込んだパワーは、やがて会場となった体育館で解放されるのだ。
人々は静かにその瞬間を待ち望みつつ、ミス学園コンテスト本選の当日は、こうして静かに始まった。
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§ |
鼓膜をつんざく様な激しい歓声。
全身を包み込むような熱気と共に、あたしを照らし出す目が眩むようなスポットライト。
それ自体は演劇部に所属しているあたしにとって珍しいものではないし、体育館という場所も馴染み深い。
であるならあたしが緊張する事はないだろう。
だが先程から違和感というか、場違いな場所に立っている様な居心地の悪さを感じているのは、普段の練習や公演で使用している備え付けのステージではなく、体育館の中央に臨時に設けられた正方形のステージ――いえ、これはリングと呼ぶべきかしらね――にあたしが立っている事が原因だろう。
何故あたしはこんな場所に立って居るのだろうか? ――幾度と無くそう自問した。
ふと目線を横に向けると、普段と変わらぬ笑顔で周囲に手を振っているよく知っている先輩の姿が見える。
その更に隣では、これも普段と変わらぬ無表情で佇むもう一人の先輩の姿も見える。
二人の態度に変化が無いという事は、彼女達にとって現状は驚くに値しない状態という事なのだろうか? いや、単に二人の精神が特別なんだろう。
その証拠にさらにその奥、一番隅で佇む一年生は今にも泣き出してしまいそうな程酷く狼狽しているのが判るし、あたしを挟んで反対側の横に立っている郁未先生は、先程から引きつった笑みを浮かべている。
校内馬鹿主席の恋人である級友は、あたしの横で不安そうに、それでいてモジモジとはにかみながら立っている。
「ふぅ」
小さく溜め息を付き、改めて周囲に目を向ける。
暗闇の中から大勢の人々の興味深げな視線を感じる。
人々の視線を受ける事は、演劇で慣れてはいるが、明らかにそれとは異質な――どこか粘着質な視線に、あたしの気分は滅入って行く。
そして特設ステージのすぐ脇から強烈な眼光をあたしに向けている栞の姿が確認出来た。
羨望と期待が入り交じった様な視線だ。
そんな目で見なくても代われるものなら是非にも代わってあげたいわよっ! ――そう思っていると、栞は突然両手を口に添えて叫び声を上げた。
「お姉ちゃんっ! 判ってますね勝つんですよ! 全てを蹴落とし美坂の名を世に知らしめるんですよっ! 周囲の皆さんは敵です! 人類の敵なんですぅっ! レッツジェノサイドです!」
栞の熱の籠もった――というより、ずばり「狂気」を含んだ言葉に、私は急速に冷静になってゆく。
あの子は自分が何を口走ってるのか判ってるのかしら?
普段は決して人前には晒さない部分を隠すことなく晒している。
だがそんな栞の態度を気に掛ける人間はこの中に存在していないのだろう。
立派な体育館を埋め尽くした人の群。
軽く五十人は居るであろう報道陣。
数え切れないカメラとビデオカメラが私達の姿を追いかけ、無数のフラッシュが体育館内で煌めいている。
観客が口々に騒いでいるおかげで、個々に何を叫んでいるのかは理解出来ない。
住井君の許可を得た売り子――地元スーパーの店員だろう――が声を張り上げながら、ジュースやお菓子を売り歩いている。
此処は本当に学校なのだろうか?
「な、何だか凄いね?」
隣から瑞佳の声が聞こえてきた。
あなたの彼氏のお陰でね――そう皮肉の一つも言おうと思ったが、いつものように彼女には何の罪もない。
だからあたしは、ただ引きつった笑いを返すだけにしておいた。
やがて照明が落ちて行き、場内が真っ暗になると、突如大ボリュームで音楽が鳴り始めた。
『レディーーーーーーーーーース アンド ジェントルメン!』
やがて音楽が鳴り終わった所でよく知った友人の声が響き渡り、あれほど騒いでいた観客達の騒ぎ声がピタリと止んだ。
『第一回、ミス学園コンテスト本選へようこそっ!』
住井君の声がそう告げると、場内は再び騒がしくなる。
『美しいことは罪か? 否! 美しさはその者が持つ才能である! ではその才能を我々は讃えなければならない!』
お祭り事を得た住井君のテンションは今だかつて無い程の高揚しているのか、普段にもまして饒舌だ。
『――では、数多くの強敵達に打ち勝ち本日この場へ立つ資格を得た偉大なる六人のヴィーナス達を改めて紹介致しましょう!!』
リングの中央で佇むあたし達だけに、スポットライトが照射される。
暗闇の中、あたし達の姿だけが浮かんでいるのだろう。
やがて、けたたましいBGMと派手なエフェクトの演出――スモークにレーザー光線、それに……なによこれ。どこで手に入れたのか、あたし達のプライベート写真が投影され名前が読み上げられてゆく。
そしてこの馬鹿げた騒動は、そのクライマックスへと向けて最後の胎動を始めた。
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あとがき |
続く> |