校内放送でホームルームと一時限目が自習だと告げられた後、最初に教室を出ていったのは斉藤だった。
お祭り騒ぎの渦中の自習時間とあって誰もが好き勝手な行動をとっており、それを咎める者は居なかった。
クラス委員長の香里が本気で怒りを爆発させれば、いかなこのクラスと言えども全員が大人しく――少なくとも形の上では――自習をしたかもしれない。
だがその香里は今朝から何処か心此処に在らずといった状態で、とても第三者へ注意を促す様なゆとりは無さそうだった。
事実彼女は斉藤が出ていった事に気が付いてさえいない。
普段のきりっとした香里とも良いがこんな香里もまた可愛いな――と妄想に耽っていた北川も、やがて後鼻歌交じりで教室を出て行ったが、やはり誰も気には留めなかった。
その後暫くして中崎と南森が申し合わせて教室を抜け出した時には、教室内からは約半数の男子生徒の姿が既に消えていた。
この度のコンテストを企画・運営している実行委員会は、その全員がこのクラスの男子達で構成されており、開催が迫っているこの時期であれば、その者達は準備作業で忙殺されているはずだった。
だが準備が終わり、決起総会で計画実行の宣言がされてからというものの、その舵取りは全て住井が独りで行っており、他の委員はその任をほぼ失っているのが現状だった。
(唯一の例外は折原であり、彼は住井より一任されたコンテスト本選の競技準備に忙しい様で、今も教室で静かに寝ている)
二年四組の生徒達が大手を振って支援活動を行っているのは、そういった背景もあっての事だ。
彼等のクラスには校内でも屈指の美少女が揃っているため、各派閥・支援団体の中枢もまたクラスに集中している。
予選投票の前日で自習時間ともなれば、各支援団体が何らかの行動に出るのは極自然な成り行きであり、教室内に空席が目立つのはその現れであろう。
教室を出た中崎と南森の二人が、使われていないはずの空き教室入ると、そこには既に十名近くの男子生徒達が集まっていた。
殆どが二年生だが、僅かに一年生も交じっている。
彼らは七瀬の後援組織の者達であり、この度のコンテストで彼女の実力を知らしめる為にその身を捧げる誓いを立てていた。
七瀬が引っ越してきたばかりの時に行われたクラス内女子人気コンテストで、彼女はトップの瑞佳に肉薄するも、名雪と香里と同票で二位タイに終わった。
当時の七瀬は引っ越してきたばかりであり、その素性も判らない部分が多かったものの、明るく元気で素直そうな女の子……というイメージが先行し、転校生という特別な立場もが味方し二位という好成績を収めるに至った。
だが、時間が経つに連れ、彼女が”意外と女らしくない”事が公になってきた。
コンテストの時に七瀬に票を入れたある男子にあっても、その事が理由で七瀬のシンパから離れていった者が居たが、その逆も存在した。
特に、当時七瀬に票を入れていた中崎と南森の二人は、より彼女に対する好感度を強めていた。
瑞佳の様な完璧超人でもなく、名雪の様に何処か癒されるような暖かみがある訳でもなく、香里の様な美貌や聡明な頭脳も無く、茜の様に儚げでどこか守りたくなる様な部分も無いが、七瀬にはその分周囲の場を盛り上げる元気と彼女独自の形容のし難い魅力が有った。
気軽に話せて、共に馬鹿な事がやれる、努力家であるが何処か抜けていて、妙に男っぽいところがある一方で、時折見せる少女らしい仕草や弱さ……七瀬を知る者は、知れば知るほどに惚れ込んでいった。
だからといって、彼らが七瀬と付き合う事をその最終目標としているわけではない。
北川の様な者も居るには居るが、今回のコンテストで支援活動をしている男子と、その支援対象となる女生徒の関係は、競馬における馬と馬券購入者の関係に近く、自分の好みの女生徒が優勝出来るかどうかを楽しんでいる者が大半を占めている。
勿論、彼女にでもなればそれはラッキー万々歳――程度には思っているかもしれないが、純粋に祭りとして認識している者が殆どであった。
であるからこそ、瑞佳の様に恋人と呼べる相手がいる女生徒にも、しっかりと支援組織があるのだ。
「さて諸君……」
教壇で南森がゆっくりと切り出すと、適当な席に座っていた者達が注目する。
「コンテスト開催の告知後いち早く支援活動を始めた我々だが、その初期目標である七瀬さんの認知度向上は概ねクリアしたと言って良いだろう。中崎」
そこで一旦区切ると、隣に立つ盟友へ発言を促す。
名を呼ばれた中崎は頷いてから話し始めた。
「現在活動が確認されている主立った勢力は、二年四組の美坂香里、そして同じく里村茜、三年二組の倉田佐祐理に川澄舞の両人……それから一年一組の天野美汐という事だが……」
「美坂さんに関しては北川の馬鹿が一人で先走ってるだけだろう。あいつが公然と美坂さんにまとわりついているから、他の支援者が思い立った行動にでられない。自分以外の支持者を認めていないから連携も取れないだろう。彼女のポテンシャル自体は侮れないが、こと支援活動に関しては無視しても良いレベルだろう」
南森の言葉に室内の男達が頷く。
彼等は知らないが、北川は既に斉藤ら水瀬名雪親衛隊によって倒されていた。
「意外なのは里村さんだな。こんなお祭り騒ぎに乗じる様な子とは思ってもいなかった」
「どうせ例の傍若無人女の独断だろ? 南の奴も無理矢理協力させられてるみたいだしな」
一人の男子生徒の言葉に南森が答える。
「まぁ里村さんに関しては、周囲が勝手に盛り立ててるだけだろう。当人にやる気が無い以上はその存在は無視しても構うまい」
実は茜自身が乗り気だったりするのだが、その事実を知らない中崎はそう結論付けた。
「三年の倉田先輩と川澄先輩はどうだ? こと倉田先輩は相当な信者が多いと見えるぞ。しかも本人が直接活動を始めたというじゃないか。つまり立候補という事だが、現時点で公然と自ら名乗りを上げたのは彼女達だけだ。これは相当のアドバンテージと見ていいのではないか?」
別の男子生徒が意見を述べると、その言葉を制するように南森が手を伸ばす。
「いや……どうも、相沢がその件については難色を示しているらしく、既に活動は収束状態らしい。侮れない相手であるには違いないが、こと支援活動という点では、我々の方が上だろう。だが久瀬生徒会長が形振り構わぬ支援に撃って出るという噂が流れており、油断はできない。尚、これは言わなくとも判るとは思うが、久瀬会長が支援するのは倉田先輩個人であり、川澄先輩は含まれていないという事も付け加えておこう」
「久瀬会長か……厄介だな」
中崎が呟く。
「ところでこの天野美汐という一年生だが?」
「天野ですか?」
南森の言葉に、列席していた一年生が「えっとですね……」と前置きしてから説明を始めた。
「彼女は入学当初は全く話題にならなかったんですが……次第にシンパが現れるようになりました。最初は成績の良さが目立って……あ、一学期の中間と期末考査は共に学年トップです。まぁその時点では暗いけど真面目で頭の良い女生徒……って程度だったんですが、彼女どこか近寄りがたい処があってですね、やったら物腰が丁寧で、話し方とかも同級生に対してさえ敬語ですし、何処かのお嬢様じゃないか? って、そんな噂が流れて、それで興味を持ち始めた人間が増えて……って話しです。僕はあまり興味が湧かなかったので詳しい事は知りませんが、今じゃ一年男子の間では美坂栞と、上月澪とで人気を三分する程の勢力になってます」
報告を聞いた南森は思案に耽るかのように目を閉じている。
「それよりも不気味なのは長森さんのシンパだ! 前回のクラス内人気投票で一位だった彼女のシンパは全く行動を起こしていない。これは余裕の現れなのか? それとも……」
美汐を眼中無しと決めたのか、中崎が教卓を叩き声を荒げる。
「すでに闘いを放棄しているのかも? 長森さんのシンパは何処か気の良い連中が多いからな……今回のお祭り騒ぎに彼女を巻き込みたくないのかもしれん」
「はっ、そんな弱気で勝てる程、今回のコンテストは甘くねぇって」
誰かの言葉に室内のみんなが頷く。
「ともかく、我々の最大のライバルは前回の雪辱を晴らすという意味からも長森さんである事は確かだ。そして豊富な資金を有しているであろう久瀬会長の行動にも注意が必要だ。いざとなったら妨害工作も始めなければならない。中崎、我が方の資金は?」
南森が皆の顔を眺めながら力強く言い、最後に隣に立っている中崎に尋ねる。
「ああ僕の貯金がまだ手付かずで残っている。当面は心配は無いだろう。街宣車二台も運転手もろともこのまま暫く使用する事が可能だ。だが久瀬会長がどの程度資金を投入してくるかは判らない、資金勝負となった場合は正直心許ないと思う」
最初は自慢げに話していた中崎だが、久瀬の話題になった時は多少悔しげな表情になっていた。
「資金に関しては今のところ中崎に任せっぱなしだが、いざとなれば俺も適当なモノを売りさばいて調達しよう」
南森の家は裕福な中崎と違ってごく普通の中流家庭だが、彼自身はトレーダーとしての才能に溢れており、決して多くない資金を元手に金を稼ぐ事が得意だった。
「ああ、そん時は頼む」
頷く中崎。
この二人はかつて、二年四組の男子生徒専用秘匿回線を通じて秘密裏に行われた七瀬の制服オークションで最後までバトルを繰り広げた経緯がある。
七瀬本人にオークションの存在が発覚し無効試合となったが、お互いの七瀬に対する想いの強さを認め合った。
二人が親友となったのはその時だった。
「しっかし思ったんだけどよ、学校外の者達に向けて宣伝する意味はあるのか?」
男子生徒の一人が思った疑問を口にする。
「我々の街宣活動には二つの意味がある。まずは頭にも述べた七瀬さんの認知度の向上だ。この二日間の活動により彼女のネームバリューは格段にアップしただろう。知ってのと降り選挙において街宣車による広報活動は、その者がもつ思想や政策を皆に知らしめる事よりも、有権者の脳へその名を刷り込む事こそがその目的だ。立候補者の名前を必要以上に連呼するのは、投票所で迷った有権者がふと自分の名を思い出す効果を狙っている為だ。つまり我々も、何処で聞いてるかも判らぬ本校の生徒達の脳に七瀬さんの名を刷り込む事が目的だ」
教室内の生徒達が南森の回答に感嘆の声をあげる。
「それともう一点の目的、こっちが重要だ。彼女の名を広め、人々の脳へ刷り込むという点では先の答えと同じ事だが、対象が街中の人間というところが重要だ」
「これは本選を意識しての行動だ」
南森の後を引き継ぎ、中崎が短く明かす。
「本選……ですか?」
誰かが驚いたように声を上げた。
「ああ、七瀬さんには申し訳ないが、彼女の優勝を確実なものとするため工作活動を行った。何、僕の父に少し協力してもらっただけだ」
「中崎さんのお父さんって……確か医師会長でしたよね? それに総合病院の院長……あ」
「そうだ、今回のコンテストでは大口のスポンサーだ。父の意向は住井にも伝わっているはずだ。ふっ」
「と言う事だ。我々の工作は投票権の拡大であり、そうなった時、我々の活動が生きてくるというわけだ。ふっふっふっ」
『おぉ〜』
教壇で不敵に笑う南森と中崎の姿を見て、他の者達が感嘆の声をあげる。
「さて、今後の活動だが……街宣車による宣伝活動は引き続き行うとしても、ポスターに関しては正直飽和状態になりつつあり、これ以上貼り付けたところであまり目立たないだろう。効果は薄いと思う。そこで、予選を突破できた暁には、思いきった行動に出ようと思う」
「思い切った行動?」
「七瀬さん本人に説明をして彼女公認の支援組織とし、二人三脚で優勝を狙う!」
『おおっ』
南森の力強い言葉に室内の者達がどよめく。
「しかし……七瀬さんが承知するかな?」
「するさ。予選さえ突破すればな」
不安を感じた者の言葉に、中崎は間を置かずに言い切った。
実を言えば、七瀬は他の主立った女生徒達と比べて、今回のコンテストには前向きのスタンスだ。
彼女は永遠の乙女追及者であり、自らを乙女の高みへと導く機会があれば決して無駄にはしない。
そして自分が過去行ってきた努力――悲しいかなその殆どは空回りしているが――がどの程度の成果を上げているのか、それを知りたがっているのは、他でもない七瀬本人なのだ。
「とにかく……今後はより一層激しい支援争いとなるだろう。とりあえずは明日だ。明日の予選を突破しない事には、我々の活動も意味がない。だが予選を突破さえすれば、我々の活動が報われる。各員、出来る限りの事を行う事。よろしいな?」
南森がそうまとめると、他の者は一斉に頷く。
「では今こそ、我らが七瀬留美の偉大さを街中に知らしめるのだ!」
『応!』
中崎の大きな声に、その場に居た全員が拳を突き上げ叫んだ。
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§ |
「相沢、話がある」
いきなり教室に現れた久瀬が開口一番そう言うと、先程まで騒がしかった教室内が静まり返った。
彼が二年四組を訪れる事自体は珍しい事ではない――何せこのクラスには折原と住井が居るのだ――が、その際は天敵である祐一の存在には目もくれない。
祐一も久瀬を徹底的に無視するから、いつもは互いが言葉を交わす事など有り得なかった。
ところが、今日の久瀬は真っ直ぐ祐一の元へ訪れて祐一の名を呼んだ。
つまりは何か騒動が起こるに違いない――そう思いこんだ教室内の者達が次第にざわめき始める。
「聞こえないのか? 僕は君に話があるんだ」
久瀬があえてゆっくりとした口調で話すと、周囲は再びしんと静まり返った。
折原や住井が起こす半ばお約束じみた騒動は異なり、この二人の間で起こる騒動は当人達の主張のぶつかり合いであり、真面目な分だけ質が悪い。
何にせよ笑えない展開になる事は確実であり、二人を中心に発せられる緊張感が教室に蔓延してゆき、クラスメート達は声を潜めて動向を見守っている。
普段ならばこういう事態で仲裁に入りそうなのは委員長である香里だが、今日の彼女は立ち上がろうとせず、そればかりか周囲の状況にすら気が付いていない様で、先程から下を向いて何やらブツブツ呟いている。
お人好しの瑞佳は何とかしたいと思ってもそれを行動に移す勇気が無く、自分の席であたふたしながら狼狽えて、折原に助けを求めようとしているが、肝心の折原は机に伏せたまま眠っている。
純粋馬鹿ゆえに仲裁に入れそうな北川は姿をくらませているし、住井に至っては未だに姿を現しておらず、現状に介入できる人物は他に誰一人居なかった。
「……あれ?」
隣の席で眠っていた名雪が起きる程に緊張感が高まった時、祐一が溜め息をついて立ち上がった。
「いいぜ。此処じゃなんだから場所を変えるぞ」
「いいだろう」
祐一に続いて久瀬が教室を出て行く。
「ねぇ香里、祐一どうしたの?」
眠そうな目を擦りながら名雪は振り向くと、後ろの席に居る親友へ尋ねる。
「さ、さぁ?」
「?」
だが、どうにも今朝の香里は普段のキビキビとした態度は無く、どこか精彩を欠いている。
はっきりとは判らないが、明らかに香里は普段と違う。
何かこう――隠し事をしている様な、そんな雰囲気だと名雪は感じた。
「香里?」
「な、何名雪?」
「うーん、何か隠してない?」
「そんな事あるわけないでしょ。自習の時間なんだから寝てないでちゃんと勉強しなさい」
普段ボケてるくせにこういう時だけ妙に鋭い親友を恨めしく思い、彼女のおでこを軽く小突き、一気に捲し立てて誤魔化した。
「うーっ」
名雪はおでこをさすりながら唸り声を上げて抗議する。
「ねー今日のご飯どうする?」
気が早いと言うか、食意地がはっていると言うか、七瀬が隣までやって来て一時限目だというのに昼食の話題を持ち出してきた。
「今日は学食の予定だよ。香里は……あれ?」
先程とは打って変わって楽しそうに答える名雪が香里に向き直ると、その目線の先で香里が先程より更に落ち着きのない表情をしていた。
「どうしたのよ香里?」
七瀬もその事には気が付いたようで、心配そうに声をかける。
「い、いや何でも無いわよ。そ……そうよ何でもないわ。……でも……やっぱり……よね? ……ああもう……栞の為だもの……よっし」
香里の言葉は、途中から俯き加減で呟いていたので何を言ったのか名雪達には判らなかったが、やがて意を決したように顔を上げて切り出した。
「あの今日ね、栞がみんなにお弁当を食べて貰いたいって張り切ってるのよ。だからお昼はみんなで一緒に食べない?」
「へーそうなんだ。栞ちゃんのお弁当って美味しいよね。わたし大好きだよ」
「あたしも良いの?」
「ええ、何でも日頃のお礼とかで……出来れば瑞佳や茜も誘いたいな〜なって思ってるんだけど……」
何時になく歯切れの悪い言い方に、名雪は少しだけ奇妙な思いに捕らわれたが、大して気にする事はしなかった。
「そう? それじゃあたし瑞佳と茜に話してくるわね」
七瀬はそう言うと瑞佳の席へと向かっていった。
「はぁ……」
瑞佳に話しかけている七瀬の背中を見ながら香里は溜息をつく。
「ねぇ香里。どうしたの? ひょっとして生理?」
「違うわよ!」
大きな声で平然と言ってのけた名雪に、香里は顔を赤らめて席から立ち上がり、より大きな声で怒鳴った。
だがむしろその行動は余計に周囲の注目を集める事となり、香里は咳払いをして誤魔化すと、スカートの裾をしっかりと抑えながら体裁が悪そうに俯き加減で席に着いた。
「あーもう、あなたは気楽で良いわね。こっちは犯罪者の片棒を担がされる心境だっていうのに……」
香里は頭を抱えながら、声を潜めて愚痴をこぼした。
「え?」
「な、何でもないわっ」
余計な事を口走ったと思った香里は、そう言うと机に伏せってしまった。
「?」
名雪は親友の普段と違う態度に再び奇妙な感じを覚え首を傾げた。
「南君……」
名雪ら二人から離れた別の座席では、南が背後からの呼び声に身体を竦めていた。
「な、何かな?」 背後の座席に佇む茜に声をかけられ、南は手にしていた雑誌から目を離しぎこちなく振り向いた。
茜の机の上には読みかけの文庫本が置かれている。
カバーがされているので本のタイトルは不明だが、それが参考書や教材の類では無い事は判る。
どうやら自習時間を利用して読書に興じていた様だ。
彼女はその物腰や見かけによらず、生真面目でもなければ勉強の成績もごくごく普通だ。
南は直ぐに視線を茜に向けると、黙って彼女の言葉を待つ。
「昨日は詩子に付き合ってくれたみたいですね。有り難うございました」
そう言って茜は目を伏せ、丁寧に頭を下げる。
大きなお下げが肩から落ちて揺れる様を、南は呆然として見つめていた。
「え? い、いや、別に良いよ。あははははは……は」
南はまさか茜に礼を言われるとは思っていなかったので、驚いた表情のまま笑い声を上げる。
昨日一昨日と詩子に連れ回されて行った工作活動――本来の茜であれば、その様な活動は迷惑以外の何物でもないと思うはずだ。
しかし彼女はその事実を知った上で礼まで述べてきた。
つまり先の工作活動は詩子の独断による暴走ではなく、茜の公認の元に行われたものという事だろう。
嫉妬とは、女とは恐ろしい――南はしみじみ思った。
一年の時からの同級生で、二年に進級してからは席まで隣接している南にとっては、物静かで周囲の騒ぎには無関心で親友の詩子に振り回されている――というのが、茜に対するイメージだった。
そして彼女が、同じく一年生からの同級生である折原に対して好意を抱いている事に南は気が付いている。
だからこそこの度の彼女の行動は、ジェラシーがその原動力だと推測していた。
「……」
茜は一言礼を言っただけで用件は終わったらしく、そのまま手にしていた文庫本へと視線を戻した。
南も前へ向き直り再び雑誌を手に取る。
「ねー茜」
丁度その時、七瀬がやって来て茜に声をかけてきた。
「なんでしょう?」
「あのさー、今日一緒にお弁当食べない?」
「……? 別に構いませんが。どうしたのですか?」
「うーん、栞ちゃんがお昼ご飯をご馳走してくれるんだって」
「そうですか……美坂さんの妹さんがですか……判りました。ですが私、自分のお弁当は持ってきてますよ?」
「ああ瑞佳もそうだって。でもまぁ一緒に食べる分には構わないでしょ?」
「……はい」
「それじゃね」
七瀬は笑顔で答えると、手を振って香里と名雪の元へ戻っていった。
「……」
茜は暫く黙って何か思案にふけっていたが、やがて前方――南の後ろ姿をしばし見つめてから彼の名を呼んだ。
「南君?」
「な、何?」
「南君のお昼ご飯は何ですか?」
「はい?」
思いがけない問い掛けに、南はその言葉を直ぐに理解できなかった。
「……お弁当ですか? 学食ですか?」
茜の新たな質問を受けて、やっと南はその内容を理解した。
「えっと……購買部でパンを買う予定だけど?」
「そうですか……それなら私のお弁当は如何ですか?」
「は?」
「……いえ、深い意味はありません。お世話になっていますから……単に形のあるお礼をしたいだけです」
「え、でも……良いの?」
「構いません。もっとも味と量は保証できませんが……」
茜はいつもと変わらぬ淡々とした口調で、故に何を考えているのか南には判らなかった。
ならば額面通りに受け取れば良いのだろう――そう結論じた南は茜の好意を受ける事にした。
彼にとって母親以外の女性による初めての手料理は、意外な人物からの提供となった。
|
§ |
屋上に出ると冬の冷たい風が容赦なく全身に吹き付け、空調の効いた校舎内で暖まった身体を一気に冷やす。
当初は屋上に通じる踊り場で済ませようと思った祐一だったが、舞や佐祐理と過ごす憩いの場所で久瀬と二人きりになる事は避けるべきだと思い、こうして冷気に満ちた屋上まで足を伸ばす事になった。
「……で、何の様だ? 自習中に出歩くなんて感心出来ないぜ生徒会長殿。ああ予め断っておくが、共同戦線の話なら断ったはずだぞ?」
白い息を吐き出しながら祐一が切り出す。
「今回はその話ではない。多忙な僕がわざわざ君の元を訪れた理由はだ……他でもない倉田さんの事だ」
「そりゃそうだ。それ以外にお前が俺に話なんて無いだろうよ」
久瀬の言葉を聞くなり祐一が切り返した。
だが久瀬の方も祐一の対応には慣れたもので、「ふん」と鼻で笑って返すとそのまま言葉を続けた。
「それで今朝なんだが、彼女は川澄さんと一緒になって校門で自己宣伝活動をしていたらしいな?」
「ああ」
「しかも、しかもだ! あの倉田さんがメメメメメメメメメメメメメメメメメメメメメメメメ……」
「どうした? お前の前世は羊か山羊か?」
「違うっ! メイド服などという使用人の格好をして、事も有ろうに庶民に頭を下げて挨拶をしていたというじゃないかっ! おまけに一五〇〇億円もの価値はあろう笑顔を一介の学生共に振りまいていたと聞いたが……これは本当なのかっ?!」
普段のクールな生徒会長は何処へやら、鬱陶しい程にエキサイトしている。
どうやら師走の冷たい空気もこの男の熱気を抑える事は出来ないらしい。
祐一は佐祐理の笑顔にイージス艦を買える程の金銭的価値がある事に驚きつつ――彼にとって彼女の笑顔はプライスレスであり、価値を付ける事はできない――呆れた表情で久瀬を見つめる。
「久瀬……おまえ、佐祐理さんが絡むとことん人格が変わるんだな?」
「あったりまえだっしゃぁぁぁぁぁぁらぁぁっ!」
すでに言語回路にまで支障をきたしているらしい。祐一はそっと一歩退いた。
「ハァハァ……僕の事なんかはどうでも良い。今僕が問題視しているのは、彼女が配っていたという……その……PRチラシの件だ」
久瀬の言葉に祐一は舞達が配っていたチラシを思い出す。
なるほど、確かにあれは久瀬でなくとも風紀的に問題だと思うだろう。
何せスリーサイズは勿論、彼女達のプライベート情報が色々と記載――それも彼女達の手書きで生写真のおまけ付きだ――されているのだ。
「ああ、あれか。あれなら俺が全部没収した。そーゆーわけだ、風紀は守られたから安心しろ。んじゃ話は終わりだな?」
踵を返し校舎に向かう祐一の肩が、久瀬の手によって掴まれる。
「何だよ?」
「違うっ! そうじゃない! いや、確かに貴様が没収したならそれはそれで良い。不特定多数の第三者へ渡るよりは良しとしよう。だが、真に問題なのはだ……そのチラシは倉田さんの手書きだと言うじゃないか」
「ああ、そういえばんな事言ってたな」
久瀬の手を肩から払いのけて祐一が答えると、久瀬の目に炎が宿る。
「良いか相沢、今から僕が言うことをしっかりと聞け」
「あ?」
「生徒会長の名において命ずる。貴様が持っているそのチラシを全て僕に差し出すんだ」
完全な命令口調だった。
「……」
当然祐一は黙って回れ右をした。
「冗談だ。僕にそのチラシを譲ってくれ」
「は?」
「聞こえなかったのか? この僕にそのチラシを全て譲れと言っている。無論タダとは言わない。そうだな……一枚辺り一〇〇円でどうだ?」
「断る」
間髪入れずに祐一は断った。
「何? 君は思ったよりもがめついな。ならば一枚二〇〇円出そう」
値段を改める久瀬だが、どちらにせよ微妙な買い取り価格だ。
「ったく……金の問題じゃない。舞や佐祐理さんのプライベート情報を貴様にくれてやる事が嫌なだけだ」
「何を言うか、倉田さんの個人情報なら既に僕の脳にインプットされている。故に今更それ自体に価値は無い。更に言うなら僕は川澄さんの情報には最初から興味が無い。僕が興味が有るのはそのチラシが倉田さんの直筆だという事だ」
「……」
「そしてこれが重要なのだが、そのチラシにはシリアルナンバーが入っているらしいではないか!」
「そう言えばそんな事を言っていたような気がする……」
「ならば倉田さん関連グッズ収集家としてそれらは回収しなければならない。さぁ相沢よ、全てを僕に譲渡するんだ」 「収集家って……佐祐理さんのグッズって他に何があるっていうんだ?」
「そりゃ倉田さんが普段使っている身の回り品だ。消しゴムから制服、マニアックなところではブルマーや使用済み割り箸まで……」
久瀬の答えを聞いた祐一の心情は、怒りよりもむしろ不気味さが大半を占めていた。
「……まさか今朝、佐祐理さんの作ったお立ち台をパクったのもお前か?」
今朝の事を思い出して祐一が尋ねる。
「何? そんな物まで有ったというのか! この僕にとって一生の不覚! うおっめっちゃ悔しい! 悔しすぎる! 倉田さんの手作りにして華麗なるその足が触れていたというホーリーボックスを手にした奴がこの学園内に潜んでいると思うと僕は僕はぁぁぁっ! 何処の何奴なんだ!」
本気で悔しがっている久瀬を見て、祐一台座を盗んだ犯人では無いことを確信した。
「……」
祐一はただ黙って、雪が積もる屋上に膝をつき両手で顔面を覆って叫ぶ久瀬の姿を見ていたが、胸の奥で虚しさを感じていた。
「なぁ久瀬」
「なんだ?」
「俺は今までこんな奴と真面目に張り合っていたのかと思うと自分が情けない……さらばだ久瀬」
踵を返して立ち去ろうとする祐一に、久瀬はとうとう一枚千円出すとまで言ってきたが、それはむしろ逆効果となり、祐一は久瀬には絶対渡してはならないと誓いを固める結果となった。
独り取り残された久瀬は急に表情を引き締めると「ふん、存外に義理堅いじゃぁないか」と呟くと、ポケットの中に手を入れ、ボイスレコーダーのスイッチをオフにした。
「これじゃ使えないか……まぁ良い。取りあえずチラシの件は出回った分だけでも後ほどゆっくり回収する事にしよう。さて、後は注文の品が届くのを待つだけだが……倉田さんの台座は本当に惜しいことをした。探し出して買い取る事にしよう。うん」
独り呟いて頷くと、久瀬は空を見上げる。
そこには青空が広がっているだけのはずだが、彼の目には青空をバックにした佐祐理の笑顔がしっかりと映っていた。
「待っていてください倉田さん。僕の力であなたの美しさを知らしめて差し上げます。そして……できるのであれば、あの相沢から貴方を解放してみせます」
幻覚に誓いを立てると、久瀬もまた校舎の中へと姿を消した。
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§ |
「ふんふんふーん♪」
「何だか随分嬉しそうね?」
クラスメートにそう言われるほど栞は上機嫌だった。
「あ、そう見えます?」
「うん。何か有ったの?」
身を乗り出して尋ねてくるクラスメートに、栞は人差し指を口元に運び意地悪そうな表情を浮かべ――
「うふふふ〜内緒です」
と答えた。
「えー? 何よ気になるじゃない。教えなさいよ〜」
別の女生徒が、背後から栞の頭を軽くヘッドロックしながら追及する。
「うふふふ〜駄目です。教えられませ〜ん」
楽しげに笑いながらクラスメートの腕を解くと、人差し指を口元に当て今一度「内緒です」と呟いた。
「それにしても凄い騒ぎよね……」
クラスメートの片方が、周囲で談笑している生徒達を見て切り出した。
当然他のクラスメート達の話題も、大半が今回のコンテストに関わるものだった。
自分達の好みの娘について熱く語り合っている男子達の声や、自分に入る票数や賞金・賞品の事について語っている女生徒達の声も聞こえてくる。
「ねぇそう言えば知ってる?」
もう一人のクラスメートが栞達に向かって口を開く。
「何ですか?」
「なになに?」
「あのね、私昨日街を歩いてたんだけど、選挙活動みたいに車で二年の七瀬先輩の応援してる人がいたのよ」
「車って?」
「ほら、選挙の時に立候補者がスピーカー付けた車で街中走り回るじゃん。アレよ」
「そ、そんな事してる人居るんですかっ!?」
驚きのあまり思わず返答に普段よりも力が篭もる栞。
「あ、選挙活動っていえばさ、三年の倉田先輩と川澄先輩、今朝校門で街頭演説してる選挙立候補者みたいにたすき付けて登校してきた人達に声をかけてたんだって。なんでも倉田先輩が可愛いメイド服着て愛想振りまいてたって……見たっていう男子が興奮気味に言ってたわよ」
「あ、それなら私見たわよ。川澄先輩が着ぐるみ着てる姿がおかしかった〜。でも意外よね。川澄先輩って結構怖そうじゃない? 何だか可愛らしい一面もあるんだなーって、普段のクールなところと併せて考えるとちょっとファンになっちゃいそう」
「なっ!?」
クラスメートの反応に栞は思わず絶句する。
(こ、これは美坂栞最大の失態?! まさか本当にそんなストレートな手段に訴える存在がいるなんて! しかも何だか成功してる感じです。そ……)
「そんな事する人大嫌いですーっ!」
「は?」
「どうしたの栞?」
二人のクラスメートは突然声を荒げた栞に驚く。
「な、何でもないです……」
何とか平静を取り憑くってみたものの、栞の心中は決して穏やかではない。
自分と姉は明らかに他の勢力を突き放していると思っていたが、自分が思っていた以上に苦戦を強いられている現実に大きなショックを受けていた。
「あら? 栞大丈夫?」
「ちょっと、持病がぶり返してきたんじゃないでしょうね?」
心配する二人に栞は「大丈夫です」と口に出しては答えて、頭の中では――
(今日の作戦容赦しません!)
――と誓っていた。
机の横に掛けられたバッグを横目で確認すると、栞は周囲に気づかれぬ様にほくそ笑んだ。
無論その中では、栞特製仕込み弁当が今か今かと出番を待ちかまえている。
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天野美汐――その支援団体「ミッシングリング」に属す者達ですら、彼女の素性を全て知っている訳ではない。
彼等とて彼女に関するデータは、クラス、出席番号、ものみの丘にほど近い場所にある高級マンションに住んでいるという事、電話番号(名簿を調べれば判る)、そして身長や体重等の外見的特徴(予想値含む)、そして休み時間などは図書室で過ごす事が多い事から読書が趣味ではないか? という事程度だ。
元々美汐のシンパは、彼女をダイヤモンドの原石に例えるようなマイナー至極主義者達の集まりであり、自分達が発掘した美汐という存在が、佐祐理や瑞佳といった校内でも有名な強者相手に何処まで張り合えるか? という事に意義を感じている者が多い。
天野美汐支援団体「ミッシングリング」の拠点は部室棟の一角――文芸部の部室に有った。
その狭い部屋の中で数人の男子達が声を潜めて話し合っていた。
ネクタイの色から察するに、二年生が一人で後は全員一年生の様だ。
リーダー格の二年生が几帳面に襟元を正してから口を開く。
「同志諸君、状況は?」
「今日の雰囲気を見る限り悪くないですね。我々の活動が功を奏していると思えます」
「やっと彼女の素晴らしさに気が付いたか……ふっ愚か者共め」
「さて、これからの活動ですけど……流石に町内の宣伝ポスター活動は限界に達しているかと思います」
「我々が街中に貼ったポスターの総数は五〇〇枚程度ですが、流石に他の組織による同種の活動を促進させた事で限界が見えつつあります」
「それから二年の七瀬先輩に対する支援活動が激しくなってますが……」
「街宣車なんてモノを使うとは予想外でした」
「ちっ、中崎だな? ブルジョワめ」
一年生達からの報告を受けて、二年生の男子が吐き捨てるように呟く。
「とにかく次の手が必要です、葉月同志」
一年の声に、葉月と呼ばれたリーダー格の男が目を閉じて思案にふける。
「あ葉月同志! 良い事を思いつきました。三年の倉田先輩や川澄先輩の様に我々の女神に直接動いていただいては……」
「大馬鹿者っ!」
葉月は大声で提案を述べた一年生を怒鳴る。
「ひっ」
叱咤された一年生は身を竦めて縮こまる。
「良いか! 我々の女神はあくまで控えめなところにこそその価値がある。陰りを帯びた何処か寂しげな瞳と、何かに怯える小動物の様な仕草、決して目立とうとしない慎ましい性格が良いんじゃないのか? それともお前は『お願いします〜♪』と媚びを売る彼女を見たいのか? 彼女に似合うのはそんな作り笑顔ではなく、恥ずかしさに頬を染めて不器用にはにかむ表情こそが至極!」
一気に捲し立てた葉月の目は血走っていた。
唖然とした一年生達の姿を見て、ふと我を取り戻した葉月が咳払いをして姿勢を正す。
「済まない取り乱した……でだ、ポスターによる宣伝活動は悪くない。『要点を繰り返す』はプロパガンダの常套手段だ。事実、我等が女神の知名度は告知前と比較して格段に上がっている。確かに我々には中崎達の様な資金は無い……だがそれが勝負の結果に直結するわけではない。要はやり方だ」
そう答えてから、葉月は机の下に置いてあったバッグから中身を取り出し、再び口を開く。
「先日学校の事務局に忍び込み新しいポスターのコピーを取っておいた」
そう言って分厚いポスターの束を机の上に置く。
「しかし、ポスターによる宣伝活動は限界にあると先程……」
「まぁ聞け。やりようだと言ったろ? 町内におけるポスター宣伝は飽和状態だが、いまだ手付かずで彼女の尊顔をこれでもかかと見せつける絶好のポイントが有る! このポスターを全ての移動教室の机一つにつき一枚ずつノリ付けて貼ってこい!」
『え〜〜〜〜〜〜〜っ!?』
葉月の言葉にその他の者達が揃えて声を上げた。
「だまらっしゃーい! やると言ったらやるっ!」
その直後、手に紙束を持った男達が慌ただしく文芸部の部室から飛び出していった。
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「……というわけで、今週は特別授業体制へ移行します」
校長の非常事態宣言ともとれる発言と、教職員達のざわめきから始まった早朝の緊急職員会議だが、一時限目にまで食い込む事が予想され、早々にその事は校内に伝えられた。
一時限目を全校自習とする緊急措置まで取って対処したという事だが、これは学校側が如何に切羽詰まった状態かを物語っている。
住井の策略により渋々コンテストを承認せざるを得なくなった校長としては、ただイベント自体を黙認するだけで、後は生徒達の自主的管理運営の尊重という名目で放任する算段だったのだ。
だが想像以上にその勢いが急速に膨れ上がった現状において静観する事は、自分の立場を危うくする事だと気が付いた。
つまりこれだけの大騒ぎになった以上、コンテストを中途半端に行う事が出来なくなり、学校側としても開き直る必要に駆られたのだ。
最早後戻りは出来ない――それが会議に列席した全教職員の認識だ。
マスコミにまで取り上げられた以上、無様な姿をさらす事は何としてでも避けなければならない。
ならば総動員令を発動してでも、今回のコンテストを乗り切るしかないのだ。
テレビのニュースや新聞報道で今回の騒ぎの実状を嫌と言うほど認識した校長は、事此処にいたり学校側の全面的強力が不可欠だと判断し、事の発案者の住井を総責任者として任命する事にした。
一生徒に過ぎない彼が職員会議に席を列べているのはその為だ。
「今回のコンテストは全て彼……住井君に任せたいと思う」
咳払いの後に続いた校長の言葉に、隣に座っていた住井が颯爽と立ち上がり全職員の前で頭を下げる。
再び職員達がざわめく。
無理もない、校長の言葉は今後このイベントに関する限り、教職員であろうとも生徒である住井の指揮下に入る事を意味しているのだ。
「住井君……頼みましたよ。君の事は各方面にもしっかり伝えておきますので、存分にその力を発揮して、本コンテストを成功へと導いて下さい」
住井の手を両手でしっかりと掴みながら述べる校長の眼鏡が怪しく光る。
その眼鏡の奥にある目には、明らかに口から発せられる言葉を打ち消す何かが含まれている。
と言うのも、校長にとって今回の騒動は迷惑意外の何ものでもないのだ。
ならば全ての責任を他人に押し付ければ良い。
つまり住井への全権委任は、単に責任転換をしたに過ぎない。
今回のイベントに賛同した各方面へ責任の所在を明かにしておけば、例え何らかの問題が起きたとしても生徒一人を処罰するだけで済む。
上手く行けば、その功績は『生徒の自主管理を尊重した校長』として自分が一身に受ければいい――そう目論んでいた。
「任せて下さいっ!」
校長の手を握り返し住井は力強く頷く。
当然、住井は校長の目論見を把握していた。
そうでなければ、校長が自分ごときに最高責任者としての地位を与えるはずがない。
これは校長の自分に対するリベンジ――あの日、商店街の分厚い連盟書を持って校長室に押し入り、狼狽える校長を見下して笑ったあの時の復讐なのだろう――住井はそう判断している。
だが、そう知っても尚、彼は甘んじて校長の策略に乗っているのだ。
彼にとっては、世間体を気にする校長の気苦労も身の保身も関係ない。
ただ”お祭り騒ぎが好きだ”という、その一点に全てが集約されている。
それに、彼とてわざわざ校長に甘い汁を吸わせる気も毛頭ない。
いざという時は生徒という立場を大いに利用し、学校の責任者としての立場を嫌と言うほど知らしめるつもりだ。
何であれ今現在の住井にとっては、校長という学校の最高権力者――この学校に理事は居ない――から全権を任されたという事だけが重要なのだ。
「それでは……」
住井は職員の方を向き咳払いを一つすると、背後のホワイトボードをひっくり返す。
そこには既に今回のイベントの大まかなスケジュールが書かれていた。
「まず今後の簡単な流れから説明させていただきます。お手元にお配りした資料をご覧下さい。まず明日、火曜日の放課後とされている予選結果発表に関してですが、投票は当日の昼休み終了時刻である午後一時までとして、その後即時開票を行います。開票はこちらで用意した人員にを用いて行います。これは開票時における一切の不正を排除する為であり、その人員は本校とは無関係な人物を数名人材派遣会社より派遣して頂く事にしました。その人件費に関しては後ほどご説明するとして……開票までにかかる時間は一時間もあれば終わると思います。よって発表は六時限目を目処にしております。そこで明日の授業は全校五限で終了させて、六限は丸ごと発表会に当てます。その結果によっては混乱も懸念されますんで、警備会社に頼んで校内警備に当たらせます。あ、警備会社への手配は既に済んでますんで問題有りません。警備にかかる費用は、先の開票人員の人件費と併せて商店会と市からの援助金で賄います。今回のイベントに協賛・協力を頂いている企業・団体・個人に関しては資料3の別紙を参照して下さい。これら協賛者には決して粗相の無いようお願い致します。尚、予算に関しては後
ほど詳細な説明を致します。それから明日の予選結果発表ですが、この時点ですでに報道機関への取材許可も数名に出してますんで……あ、取材許可証は資料4の二ページ目にコピーが有りますので必ず目を通しておいて下さい。逆に許可証の提示が無い部外者は断固とした態度で排除に臨むようお願いいたします。予選結果は各種新聞の夕刊に折込という形で掲載される事になります。結果発表の為に六時限目の授業時間に割り当てたのは、ギリギリ夕刊の配達に間に合わせる為でもあります。それとは別にKTV……北国テレビさんが夕方のニュース内で速報を入れてくれるそうですし、その他インターネットでの結果配信サービスも行います」
住井の説明を聞いて、そのあまりの手際の良さに教職員達はただ驚いていた。
彼の授業を受け持っている教師達の中には、目の前の住井と自分の授業で赤点を取る住井とのギャップに頭を抱えている者すら居た。
「……で、本選は金曜日を丸々費やして実施しますが、その方法や内容に関しては現在委員会内で調整中であり、まとまり次第学校側へ連絡致します。そして本選までの二日間、水曜日と木曜日に関しては、両日共に午前授業にして戴きます」
教師達がざわめく。
流石に今度は黙っていられない教師も居た。
一部の教師達が文句を上げる中、住井は余裕の表情で黙ってそれらを聞いていた。
そんな教師に答えたのは校長だった。
「まぁみなさんの仰る事も判ります。学生は学業こそが本分ですから……しかし水曜と木曜の二日間は……まぁ我が校の生徒達の気風から考えて、恐らく授業にはならないでしょう。通常授業を強行しても身に入らないでしょうし、全体的な学力低下に繋がる可能性すらあります。ならば、いっそ午後の授業を潰す程度で済むなら、そちらの方が成績・今回のイベント共にプラスだと思います」
校長の説明で、文句を言っていた教師達も口をつぐんだ。
誰もが黙ると、再び住井が説明を始める。
「では水曜木曜の午前授業は問題ないとして先に進みます――」
「……」
郁未は黙って目の前の資料を眺めていた。
住井の説明もろくに耳には届いていなかった。
(何なのだ一体?)
資料にある協賛者一覧には、百を越える企業――小は個人経営商店から大は世界的大企業まで――や個人の名が記されている。
一口辺りの協賛費が非常に安価な事もあるのだろうが、僅か数日でこの量は異常だ。
実は、当初この企画を住井が校長の耳へ入れた時、企業からの収入は微々たる物――それこそ優勝者への賞金と装飾・PR関連費用程度――だったが、その後の住井による意図的なリークや根回しによって協賛企業や団体は格段に増え、その単価も一気に膨れ上がっていた。
個人による協賛や個人商店規模の場合の協賛費は据え置きだったが、相手が大企業である場合は出来る限りの出資を要請していた事、そして市やKTVからの援助金が出る事も手伝って予算は一気に膨れ上がった。
そんな事実を知らない郁未は、FARGOの様にイリーガルな組織が背後で動いているのでは?――そう勘ぐりたくなっていた。
「天沢先生?」
自分の名を呼ばれている事に気が付き意識を戻す。
声をかけたのは隣に座っていた石橋だった。
「な、何ですか?」
郁未が首を僅かに動かして小さく応じると、石橋も幾分か顔を寄せて小さな声で話し始めた。
「天沢先生は本選に進めそうですね。私も同僚として応援しますよ」
「なっ……」
石橋の囁きに、出そうになった声を必至に飲み込んだ。
「わ、私なんか残れるはず無いですよっ!」
「そうでしょうか?」
「そうですよっ!」
「いや、ですが今の住井の説明を聞く限り、教職員にも投票権が有るとの事ですよ。教員たるもの生徒に票を入れるのは立場上問題ありますし……となるとやっぱり同じ教職員に入れるのが筋って事になりますよね? それららばやはり若くて美しい天沢先生に入れる先生方が多いのではないかと……」
石橋の言葉に郁未は一瞬目を見開くと、小さく手を振って困惑の表情を浮かべる。
「そんな困りますっ! そ、それなら棄権すれば良いじゃないですかっ」
「棄権か……なるほどそれは考えてもいなかったですね。はははは、でも勿体ない気もしますね。う〜ん」
そう言うと悩み始めたのか、石橋は腕を組んで黙りこんでしまった。
郁未は俯いて目を閉じると、昨日見た夢が思い出されて慌てて首を振って追い払った。
「という次第ですから、本選当日は完全休講にしてコンテスト開催に充てます。では次に予算に関してですが、お手元の支出表を見て下さい――」
住井のはつらつとした声は未だに続いており、早朝から開始された職員会議はそのまま二時限目までをもすりつぶす結果となった。
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