この日は二限目まで自習になった。
 その旨を伝える校内放送からは、その理由が緊急職員会議である事こそ述べていたが、その内容についてまでが語られる事はなかった。
 だが生徒達は、この度の狂乱とも言えるコンテストに纏わる事が討議されている事を疑っていなかった。
 ともあれ生徒達は突然湧いた自習時間を、各々が自由に過ごす事で費やし、その結果として校内は休み時間の様な有様と化していた。
 友人達との無駄話や、読書に興じて居る者、そして早弁をする者の姿が目立つその水面下では、各支援勢力同士における駆け引きや闘いが繰り広げられていた。
 ある者はその娘を一途に想う気持ちが、暴走にも似た行為へと発展させ、またある者はその女生徒のイメージアップを図って奔走し、またある者は徒党を組み己が支援するの女性の勢力拡大に躍起になっていた。
 数多くの思惑が交錯する中、二時限目の終わりが近づいて来た頃、校内各所に設けられたスピーカーより放送が流れ始めた。
『あ〜、こちらミス学園コンテスト実行委員会委員長の住井護だ。今朝方より行われていた職員会議で決議された事を発表する。心して聞いて欲しい』
 住井の放送に気が付いた生徒達が一斉に押し黙り、学校全体は先程までの騒々しさが嘘のように静まり返った。
『まず最初に発表するが、今回のコンテストの全権をこのオレが担う事になった。名実共に最高責任者となったからには、この度のコンテストは何が何でも成功させる。しかし諸君等の協力は必要不可欠であり、全校生徒の協力をお願いする。
 さて、それでは今朝方より行われていた職員会議での学校側の決定事項と、先週末に発表したコンテストの概要に一部変更点が出来た。後ほどクラス担任よりプリントが配られると思うので各自確認しておいてくれ。では共に頑張ろう。以上だ』
 思いのほか簡潔な内容で放送は終了したが、エスケープも辞さぬ覚悟で校内の各所に散らばっていた支援団体・組織の生徒達を、教室へ呼び戻す力を持っていた。
 支援者にとってコンテストに関する変更点を見極め、その対策を立てるのは当然であり、三時限目の始業ベルが鳴った時には、ほぼ全ての男子生徒が血走った目で教師の到着を待っていた。
 その無言のプレッシャーは、各教室に入った教師達を思わず尻込みさせる程だった。
 教師達が授業前に配布したプリントの内容をまとめると、変更点は以下のような物だった。

 一、本日は通常授業。
 一、明日明後日は午前授業。
 一、本選当日は完全休講にし、体育館を使用して選考競技会を行う。
 一、予選投票は明日の昼休みの間とし、その終了をもって締め切りとする。即日開票の後以下の手段にて結果発表を行う。
 一、KTV(北国テレビ)、各種新聞をはじめとするマスコミを通じ、各メディアでの結果発表。
 一、本選はTV中継及び録画収録も行われる。
 一、本選における競技内容は公平を期する為、当日まで一切公表されない。
 一、本選の投票は学校関係者だけでなく、会場内にいる全員に与えられる。
 一、協賛スポンサーに対して発給するチケットは、各スポンサーによる販促活動への使用・第三者への譲渡を認めるが転売は不可。
 一、本選観戦入場チケットはチケットセンターにて明後日より販売される。転売、第三者への譲渡は禁止。

 この中で投票権と入場券に関する部分が、もっとも衝撃を与える事となった。
 生徒並びに教職員、そしてスポンサー以外の第三者へ販売される入場券は約千枚との事だが、入場者に投票権が与えられるという事実は、各支援団体に属する者達にとってそれらを如何に確保するかが最優先事項となったのは言うまでもない。
 三時限目より通常通りの授業を始めたものの、新たな変更点に関する衝撃により浮ついた空気を一気に払拭できる事もなく、ほとんどろくな授業にはならなかった。
 それどころか授業中に姿をくらます生徒――主に男子生徒――も数多く存在していた様で、担当教師達の頭を痛める事となる。
 そして理科実験室、家庭科実習室、音楽室、美術室、電算室等々……数々の移動教室を抱える校舎からは、三時限目の開始と共にあちこちから驚愕とも呆れともそして感嘆とも似つかない叫び声が上がる事になった。
 天野美汐支援団体ミッシングリングの活動により、美汐の尊顔で埋め尽くされた各教室は、さながら生徒達を美汐マンセーへと扇動する洗脳教室へと様変わりしていたのだった。
 教師や対抗組織の生徒達による駆除も試みられたが、ことのほか強力な接着剤で貼り付けられているそれらを取り除く事は叶わず、教師もコンテスト中の特例として認め――というか無視――る事となった。
 尚、当人の天野美汐の所属する一年一組は不運にも、三時限目は丁度移動教室であり、彼女は教室に一歩入り込んだ瞬間、引きつけを起こしかけた。
 その後顔中の毛細血管を破裂させるのでは? と思える程に顔を赤らめつつ羞恥に耐える、そんな仕草や態度が更に彼女のシンパを萌え上がらせるスパイラル現象を引き起こす結果になった。
 ただ、この日の表面的な騒ぎはその程度であって、四時限目になる頃には騒ぎも収束してゆきやっと普段の授業が行われた。
 まぁ、それは単に生徒達の活動限界点が近かっただけだとも考えられ――事実、四時限目の授業はいつもに増して授業中に居眠りをしたり、体育でマラソンでもやった後のようにへばっている生徒達が多かった。
 ともあれ、変更になったコンテストの投票権を巡って、事態は更に泥沼の様相を呈して行くことになる。




■Beautiful 7days #6




”トントン……トン”
 祐一の耳に机の上を叩く音が聞こえてきた。
 周囲に気を配ってから前の席に座る折原に身体を近づけ、彼から手渡されたメモをそっと開く。
『一二〇〇状況S』
 秘匿通信網を用いて伝えられたその内容は実に簡素な物であるが、祐一を毒づかせるには十分だった。
「またかよ……」
 一二〇〇状況S――つまり昼休みに委員会に緊急召集がかけられたのは、昼休みが押し迫った四時限目の終わり頃だった。
 本日何度目かも判らぬ溜め息を付いて、祐一はメモを丸めてポケットの中へと押し込んだ。
 この時期の召集であるからには、当然その目的はコンテストの重要な用件に関する事であろう。
 祐一がふと隣の席へ視線を向けると、名雪が睡魔に悪戦苦闘しつつも黒板に目を向けているのが見えた。
 なるほど、従兄弟の祐一はあまり気にかけたことは無かったが、確かに彼女の顔は整っており十分「美人」と言える顔立ちをしているだろう。
 実際に見たわけではないが、スタイルも悪くない事は想像に難くない。――そんな事を考えてみると、祐一は名雪と一つ屋根の下で同居している現状に、斉藤などの一部の男子生徒から恨みを買っている事を今更ながら実感した。
「……うみゅ〜ん?」
 祐一の視線に気が付いたのか? 名雪が彼の方へ視線を移し僅かに首を傾げる。
「何でもない。まぁ何だ……お前も俺も何かと苦労するよな」
 名雪にしか聞こえないように祐一は呟くと、名雪はその意味が掴めずもう一度首を傾げるも、祐一が会話を打ち切りその視線を黒板へと向け、真面目そうにノートを取り始めたので、名雪もそれに倣うことにした。
 その名雪の背後に座る香里は、一見普段同様、真面目に授業を聞いている様に見えるが、その意識は黒板の上にある時計に注がれており、針が進むごとに彼女の胃は痛みを増していた。
 彼女の隣の席――つまり北川の席にその主の姿は見えず、『美坂LOVE』と彫られた机だけが佇んでいるが、人が人なだけに不在を怪訝に思う者は教師を含めて居なかった。

 昼休みを伝えるチャイムが鳴り響き、生徒達が一斉に活気づく。
 コンテストで異常な盛り上がりを見せている校内であるが、元々騒がしい昼休みにおいては普段とあまり変化は見られない。
 我先にと教室を飛び出し、学食や購買部へ走る生徒達。
 気の合う仲間と雑談に興じる生徒達。
 机や椅子を移動させ食事を共にしようとする生徒達。
 この瞬間は、明日のコンテスト結果よりも目先のパンを求めて生徒達が奔走している。
 無論、その影で暗躍する者達も存在するが、昼休みという普段の学校において最も騒々しい時間にあって、それはあまり目立つものでもない。
 食堂や購買部の騒がしさも普段とはさして大差無い。ただ、食事中の会話がこの度のコンテストに関わる内容が多いという程度だ。
 それは騒ぎの発端でもある二年四組でも同様だ。
 授業から解放された生徒達が、各々立ち上がりある者は食堂へ、ある物は仲の良い者同士で机をくっつけ合って弁当を広げ、それぞれが独自の方法で食事を始めようとしている。
 皆が賑やかにしている中で、祐一は神妙な顔つきで席を立つ。
 折原と住井の姿は既に見えなくなっている。
 ふと隣を見ると名雪が眠そうな顔をして何かをブツブツ呟いている。
「ふみゅ〜……ご飯……イチゴムース……」
 どうやら彼女の集中力は最後まで睡魔の軍団を抑え込む事は出来なかったらしく、混濁した意識はまだ完全に覚醒しきっていない様だ。
 祐一は苦笑交じりに軽く名雪の頭を叩く。
「……あれ? あ、祐一……ご飯?」
「ああ、ご飯だぞ」
 名雪のとろんとした目が「ご飯」という言葉を聞いて次第にはっきりしたものとなる。
「祐一っお昼だよっ」
 にこやかな笑顔の名雪に祐一は呆れ顔で「そうだな」と答えると、半ば哀れむような視線で彼女の頭を何度か撫でる。
「う〜っ」
 祐一の小馬鹿にした様な態度に名雪は頬を膨らませるが、祐一は気にも留めずに彼女に用件を伝える。
「そんじゃ、俺今日も用事あるから……悪いけど、また舞と佐祐理さんに謝っておいてくれ」
「え? そうなんだ。うん、判ったよ。任せて」
 祐一の言葉に表情を戻して答える名雪に、彼も笑顔で「サンキュー」と応じて、そのまま教室を出ていった。
「名雪〜香里〜ご飯にしよっ」
 祐一と入れ違いに七瀬が嬉しそうな表情で名雪の席へと近づいてきた。
「えへへ、わたしも一緒に良いんだよね?」
 同時に自分の弁当箱を片手にやってきた瑞佳の表情に、少し陰りがあるのを七瀬は感じたが、折原の姿が教室から消えている事が原因だろうと判断すると、敢えてそれに触れることはせずに笑顔で迎え入れる。
 ただ、先日と異なり手にしている弁当が一つだと言うことは、既に折原の分は渡してあるのだろう。
「では私も、ご一緒させて頂きます……」
 茜が丁寧な口調で挨拶をして、近くの席へと腰掛ける。
「あ、今日は柚木さん居ないんだね?」
「流石にいつも居るわけではありませんから……」
 名雪の言葉に茜がそっと応える。
「そりゃそうよね。いつも思うけど、あの子って自分の出席日数とか成績とか大丈夫なわけ?」
「ああ見えて詩子は私より成績は優秀ですよ……腹立たしい事ですが」
 七瀬の疑問に対して茜が答えるが、彼女の珍しい冗談に名雪達がそろって笑い声を上げる。
 もっとも本人が心外そうな顔をしている処を見ると、あながち冗談では無いのかもしれない。
「そう言えば、柚木さんの学校って北女でしょ。前々から思ってたけど、偏差値という意味での頭の良さならわたし達より上なんだよね」
「意外だわ……」
 名雪の言葉に七瀬が心底驚いた様に呟くと、茜が微かに微笑んだ。
「そうですね……詩子は昔から変な事ばかりやって回りを驚かせて……てっきり同じ高校に進学すると思ってましたが、やられました」
「ますます折原に似てるわね……あっ。そ、そう言えば、茜っていつもお弁当じゃなかった?」
 話題には出すまいと思っていた折原の名を、いとも簡単に口にした七瀬は、慌ててその話題を変更した。
「はい」
「でも……今日は、美坂さんの妹さんがご馳走してくれると言うので」
 そう答えて目線を南へと向けると、彼が不釣り合いな可愛い弁当箱をノートで隠しながら中身を食べているのが見えた。
「そうよね。あたしもお小遣い一食分浮いちゃってラッキーだわ」
 七瀬は現実的な嬉しさに顔をほころばせる。
「栞ちゃんのお弁当って美味しいからわたしも好きだよ。イチゴムースが食べられないのは残念だけど」
 何処までも苺に拘る名雪。
 級友達が発する言葉の一言一言が、香里の気分を沈め、胃酸を余計に分泌させてゆく。
「そっか……せっかくだから、わたしも栞ちゃんのお弁当を食べさせてもらおうっと。ところで香里……調子悪いの? 大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。ええわたしは普段と何ら変わりないわ」
 瑞佳が心配そうな表情を香里に向けると、慌てて彼女は手を振って自分が普段と変わらぬ状態である事をアピールしてみせた。
「そ、そう?」
 香里の態度に少し驚きながら、瑞佳は隣に座っていた名雪に目を向ける。
「やっぱり……変だよね?」
 名雪の言葉に香里以外の全員が頷いた。
「なんでも無いの! いいからあなた達は栞が来るのを待ってなさい!」
 そう言葉を荒げて彼女が強引に皆を納得させていると、教室の扉を潜って女生徒が二人姿を現す。
「祐一さーんお待たせいたしましたー」
「……来た」
 底抜けに明るい声と、ぶっきらぼうな声。
 言うまでもなく、前者が佐祐理であり後者は舞だが、教室内に目的の人物の姿が無い事に気が付いた様子だ。
「あ、倉田先輩〜川澄先輩〜」
 名雪が立ち上がって声を掛けると、二人は足早に彼女の元へと近づいて来た。
「あ、ひょっとしてまたですか?」
 名雪が話すよりも早く、その意を察して佐祐理が言う。
「はい。えっと……ごめんなさい」
 名雪は二人に頭を下げて謝罪をした。
「はぇ?」
「……名雪が謝る事ない」
 舞の言葉に
「でも祐一に謝っておいてくれ……って頼まれたので」
 そう答えて「えへへ」と笑う名雪に、佐祐理と舞がそろって「こちらこそー」と頭を下げる。
 七瀬から見れば何故二人が互いに頭を下げているのか理解しがたいが、それを理解できない事が、彼女を彼女の求める乙女へと辿り着かせぬ理由なのだろう。
「あ、でもですね〜佐祐理は今日、舞の家から直接登校したのでお弁当作ってきて無いんですよ。その事を言うために来ただけなんです。気にしないで下さい」
「……」
 佐祐理の言葉に舞が頷いている。
「あ、お弁当無いんですよね? それじゃ宜しかったら先輩達もお昼ご一緒しませんか? 今日は栞ちゃんが沢山お弁当を作ってきてくれるそうなんですよ」
「あははー、そんな悪いですよー。ねぇ舞?」
 名雪の誘いに佐祐理は遠慮の声を上げ、次いで舞に同意を求めるが――
「……」
 彼女が問いかけた時、舞は既に椅子を二人分用意して、しかも自らは腰を下ろしていた。
「はぇ〜」
 そんな舞の行動に佐祐理は呆気にとられ、名雪達は思わず声を出して笑ってしまった。
「それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きますねー」
 佐祐理も舞の無言の勧めを素直に受けて、舞が用意した椅子に腰掛ける。
「図らずとも二人が参加する事になったわね……」
 腰を下ろした二人の姿を見て香里が呟く。
 役者が揃ってしまった。
 後は、主役――弁当の到着を待つのみとなった。
 やがて栞が重箱を収めた包みを抱いて教室に姿を現すと、その笑顔を見た香里が一瞬視線を逸らした。
「あ〜みなさんお揃いですね」
 何の含みも感じられない笑顔で切り出す栞を見て、香里は「あなたが揃えさせたんでしょ?」と、口から出かけた言葉を飲み込んだ。
「香里どうしたの?」
「何だか複雑な顔してるね?」
 名雪と瑞佳が同時に声を掛ける。
 考えが表情に出ていた事に気が付くと、香里は咳払いをして「何でもないわよ」と努めて平然に答えた。
「流石はお姉ちゃんです。倉田先輩や川澄先輩までも列席させるなんて……」
 香里の隣へ腰を下ろした栞が、ずらりと揃った学校内の綺麗所を見て、姉の耳元で呟いた。
「……」
 香里は無言で妹の表情を伺った。
 無邪気な笑顔に隠された企てを知っている香里は、病弱で内向的だった妹が想像以上に逞しく成長している事に驚いていた。
 栞が元気になる事は香里の最も望む事であったし、こうして共に学校へ通い一緒に食事をするなど、夢でしかなかった時期があった事を考えると、香里の心中は複雑な気分だ。
 だが例え狡猾であろうと栞は栞であり、彼女が香里にとって最愛の妹である以上、香里は地獄の底まで付いて行く事をいとわない。
 北川にとって香里が全てなのと同様、香里にとっては栞が全てなのだ。
 連結した四つの机による昼食用テーブルに、栞が鼻歌交じりに重箱を並べてゆきその蓋が次々に開かれる。
「わぁ〜」
「美味しそう〜」
「さっすが栞ちゃん」
「これを全部作ったのですか? 凄いですね」
 中身を見た者達は口々に感嘆の言葉を洩らす。
 六段もの重箱の中に並ぶは、色とりどりの色彩が見た目にも食欲をそそる数々のおかず達。
 同数の男子が食べるには物足りないかもしれないが、女生徒だけであれば十分な量と言えよう。
 まるで印象派の絵画の様に美しい盛りつけは、制作者の芸術センスがその対局に位置する事を忘れさせる。
 だがその見かけの美しさの影に潜む邪悪を、香里は知っている。
 恐るべき数々の持病を克服して無事復学出来た愛すべき妹が、その闘病生活の間で培った医学・薬学を駆使して創り上げた恐怖の弁当。
 一体どの様なものが含まれているのか香里は知らされていない。
 知っている情報と言えば、自分の目の前に置かれた物が安全牌だという事だけだ。
 何処にどの様な地雷が仕組まれているのかは、制作者である栞にしか判らない。
 ふと隣の席に居る妹の表情を伺ってみる。
「〜〜♪ はいどーぞ」
 鼻歌交じりで割り箸と紙皿を手渡していく最愛の妹の姿が見えた。
 友人達を売る行為に先程固めた決心が揺らぎかけたが、今更戻れはしない――そう覚悟を決めて、自分に手渡された割り箸を掴み力を加える。
 パキッ――
 軽い音を立てて、割り箸は中途半端な位置で割れていた。
「あれ、香里どうしたの? はいこれ使って」
 すかさず対面に座っていた瑞佳が、香里に自分が綺麗に割った箸を手渡して、自分は新しい割り箸を取り出した。
 その一挙一動に真の乙女の姿を見た七瀬は唸り声を上げている。
「あ、お姉ちゃん。良いですか、決して目の前の重箱以外の物に手を出してはいけませんよ」
 香里の耳元で栞が囁き、香里が一瞬身を竦める。
「もしも食べたら……くすっ」
 その先を言いなさいよっ!――香里は叫びたい言葉を必至に抑えて、目の前に並べられたお弁当を見つめる。
 見れば見るほど素晴らしい出来映えだ。
 重箱は六段、つまり六箱あるのだが、そのどれもが同じおかずが均等に並べられている。
 つまり箱ごとに異なるおかずが入っているのではなく、ほぼ同じ構成の重箱が六つある状態だ。
 これは、皆が均等に目の前のおかずに手を出せるよう――ひいては、全員が均等に地雷を踏む確立を高める為の処置だった。
 事が及んだ後で容疑をかけられない様、”同じものを食べていた”という事を印象づける意味も持ち合わせている。
 栞は最上段にあった重箱を真っ先に自分と姉が陣取るスペースへ並べたが、それはその重箱だけが無害であり、それ以外は全て対ライバル用のスペシャルバイオウエポンとして作られた危険物である為だ。
 勿論、全てのおかずが危険な訳ではない。
 一つの重箱に対して、二〜三つ程度、全体の割合で言えば一割といったところだ。
 個人の好みも考慮して、全てのおかずに必ず「当たり」が存在している。
「では皆さんよろしいですか〜」
 割り箸と小皿が皆に行き渡った事を確認して栞が声を出す。
 先週末と同様に、自分の箸をタクトの様に振りかざさんと目の高さに掲げる。
「いただ……」
「あーっ!」
 まさに食事開始の号令がかかる瞬間、栞の言葉は突然脇から発せられた大声で掻き消される。
 突然の声に皆の箸が止まる。
 香里は心臓がショックのあまり停止するのではないか? と思える程に驚いていた。
 皆が一斉に振り返るとそこには自分達を恨めしそうな表情で見ている詩子の姿があった。
「詩子?」
 他校の生徒にも関わらず、既にこの学校の風景に馴染んでいる詩子に、茜が声を掛けると――
「みんなしてずっこーい! このあたしをのけ者にしてみんなで仲良く食事なんて……およよよよ。詩子さん悲しいわ」
 大声で捲し立てたかと思えば、急に芝居がかった仕草でその場にへたり込んだ。
「詩子……立って下さい。でないと……スカート汚れますよ」
 茜が呟くように応じると、詩子はがばっと起きあがり、そのままツカツカと皆の元へと歩み寄る。
「うわ〜美味しそう。あ、この重箱って栞ちゃんのね? ねぇねぇ、あたしも食べて良い?」
 言葉では承認を取っているが、既に彼女は勝手に新しい割り箸と紙皿を手にとっている。
「ったく……あんたはもう少し礼節ってものをわきまえなさいよ」
「はーい。でも留美ちゃん、そんなに怒ってると怒った時の皺がそのまま普段の表情にも残っちゃうぞ〜」
 七瀬の言葉に詩子は笑顔で答えると、そのまま近くの椅子を取って、無理矢理七瀬と茜の間へと割り込んできた。
「ちょ、ちょっと……」
「詩子……」
 七瀬が顔をしかめ、茜が詩子をたしなめるが、当人は悪びれた様子もなく「ねぇねぇ早く食べよ〜」と重箱に目を輝かせながら、椅子を突っ込み腰を下ろそうとする。
 しかしその時、無理矢理割り込もうとした椅子がとなりの七瀬の椅子に当たり、急いで腰を下ろそうとしていた詩子の姿勢が崩れた。
 咄嗟に危険を察知し、重箱を待避させようとした他の少女達の反射神経は誉められたものだが、手にした重箱を完全に詩子の倒れる軌道上から待避させるには――舞であっても――時間も距離も足りなさすぎた。
 詩子は箸を差し出そうとしていた腕を引っ込める間もなく、皆が守ろうとした重箱をひっくり返した。
「あれ?」
 詩子が素っ頓狂な声を上げると、皆の目の前を綺麗に盛られていたおかず達がスローモーションで宙を舞う。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 皆何が起きたのか判らぬ様に、無言でその様子を見つめていたが――
「あ〜っ!」
 栞の叫び声に、一斉に我を取り戻す。
「詩子……」
 絶対零度の視線が詩子を貫く。
 性別に関係なく食べ物の恨みが恐ろしいのは、人間の生物としての本能に直結されている部分に反応するからなのだろうか?
 おまけに詩子は咄嗟の受け身が功を奏して、彼女自身が散乱した弁当の中にダイブする致命的状態にはなっていなかった。
 つまり弁当は破壊的ダメージを受けたが、その原因である詩子は殆ど無傷――頬と襟元が多少汚れた程度――であり、その事が更に茜を怒らせていた。
「ご、ごめん。ほら三秒ルールってやつがあるじゃない。三秒以内なら例え床に落ちたものでも安心して食べられるの。え〜と、こうしてこうして……」
 茜の怒りを察し、詩子が慌てて机の上に散乱したおかずを拾い上げ重箱へと戻して行く。
「……ほら、これで全部元通り〜ってね」
「明らかに三秒以上経ってます。……それに全然元通りじゃありません」
 自分の弁当を南へ譲渡した茜にとって、食事は目の前にある栞の弁当だけだ。
 瑞佳は自分の弁当を持っているが、自分だけ現状から逃げ出す様な事をする娘では決してない。
 固まった皆の視線の先には、まるで山盛りの一品料理の様な有様の弁当が存在している。
 その質量から致命的破壊を免れた俵結びのおにぎりは別として、全てのおかずが渾然一体となり無造作に積み重ねられている。
 さっきまでの重箱が松坂屋特製おせち料理だとするならば、現状の見た目は喫茶マウンテンの下手物料理といった所だろう。
「あ、あははは……」
 流石の佐祐理も額に汗を浮かべて苦笑している。
「……あんたって人は」
 目の前で美味しそうな料理が一瞬で奇妙なオブジェへと変化する様を見せつけられ、七瀬はこめかみに青筋を立てて震えている。
「……」
 名雪は放心状態なのか無言で山の様に積まれたおかずを見つめている。
 彼女以上に放心しているのは香里と栞だったが、すぐに我に戻った栞が姉の腕を引っ張って教室の後ろへと下がり、小声で囁き会う。
「ひ、非常事態です」
 想定外の出来ごとに栞は慌てふためいている。
「どうするのよ。あ、いっそ中止にしたら? 今なら間に合うわよ」
 香里が栞に耳打ちする。
「ここまで来て中止するなんて……」
「そんな事言ったって、あんな有様じゃ自爆するかも知れないわよ? それでも良いのかしら?」
「えぅ〜」
「で何を入れたの?」
 香里が残念そうに項垂れる栞に尋ねると、彼女は面を上げて苦笑いをしながら答え始めた。
「……えっと、遅効性の下剤と利尿剤。後はよく眠れる薬とか……」
「よく眠れる?」
「その……いびきとか凄い出るやつ。それからとってもハッピーな気分になれるのも入ってます……」
「あなたね……自分が当たりを引いたらどうするのよっ!」
「だから安全なものだけ食べれば……」
「遅効性の下剤ってどの程度で効くの?」
「えっと食べてから一時間程ですから、午後の授業を直撃するはずです」
 自信たっぷりに答える栞に、頭痛を覚えながら香里は作戦そのものを中止すべきだと判断した。
「全く……それじゃ早くみんなに……」
 香里が作戦の中止を決めたその時――
「ま、味は多分変わらないと思うよ」
 誰もが口をつぐみ気まずい沈黙が流れていた中、何処までもお人好しな瑞佳が苦笑しながらフォローを入れた。
 すると、舞がいつもと変わらぬ表情のまま箸をおかずへと向け――
「……私は気にしない」
「あ……」
 栞が何かを発するより早く、舞が乱雑に盛られたおかずの山から、箸で卵焼きを摘み上げて口に運んでしまった。
「うん……美味しい」
 ゆっくりと味わってから飲み込むと、舞は表情を変えずにそう呟いた。
「ね? ほら〜こんな事くらいじゃ栞ちゃんのお弁当の美味しさは変わらないわよ〜。それじゃあたし達も食べよっ」
 舞と瑞佳のフォローを受けて、詩子がそのままウインナーを摘んで口の中に放り込んだ。
「……ふぅ」
 茜が渋々と箸をおかずへと延ばすと、他のみんなも渋々と食事を始めた。
「香里〜栞ちゃーん、何してるの? ショックなのは判るけど早く食べよう〜」
 名雪の呼ぶ声が、栞の頭の中にどこか遠い世界からの物の様に響く。
「わ、判ったわ」
「お姉ちゃん……」
「行くわよ栞っ! こうなったら仕方ないでしょ。この程度の後始末は自分でつけるの!」
 香里は不甲斐ない妹の姉として覚悟を決めると、うっすらと涙を浮かべている栞の手を引いて戦地へと向かった。
「ふぅ……何だか食べるまで時間かかったわね。おまけに随分と料理も様変わりしちゃったし」
 七瀬がそう言いながら詩子を横目で睨みつける。
「ごめんごめん。ほら、でも味は変わらないし、美味しいんだから許してよ。海原雄山だって『うまいぞー!』って叫びながら海の上を走り出す程なんだから」
「あほっ、あんたが作ったんじゃないでしょ! それに雄山はそんな事しないわよ!」
 七瀬が溜まらず文句を漏らす。どうでも良い事にまで追及する程に苛立たしい様だ。
「あ〜もうどうでも良いからご飯食べようよ。わたしお腹空いたよ〜」
「そうね名雪。それじゃ改めて……い た だ き ま〜す」
 半ばやけくそ気味な香里の言葉に『いただきま〜す』と、六人の少女達の声が重なるが、栞は一人「えぅ〜」と小さな泣き声を上げていた。
 恐怖のロシアンルーレットと化した昼食が始まった。
 何も知らない瑞佳、名雪、茜、詩子、舞、佐祐理は箸を取って目の前の重箱へ箸を伸ばす。
「美味しい〜」
 そう感想を洩らしたのは詩子だった。先の自分の不手際など何も無かったかの様な笑顔に、茜が短く溜息を付くと、そっとおかずを口に運ぶ。
「……美味しいです」
 茜が控えめに感想を述べると、周囲の者達が一様に頷いた。
「さすが栞ちゃんだね」
「うん、美味しい」
「栞さん料理お上手ですねー」
 食した者達が口々に感想を洩らす中、香里が覚悟を決めて目の前のおかずに手を伸ばす。
 伸ばした箸が迷い箸になりそうになるのを必至で堪え、彼女は平然と手前に有った唐揚げを摘み上げる。
「あれ? 栞ちゃん食べないの?」
 口の中の食べ物を味わってから満足そうに飲み込んだ名雪が、今だに箸すら手にしていない栞を見て首を捻る。
「じ、実は私ダイエットして……痛っ!」
「へ?」
「どうしたんですか?」
 突然大きな声を上げた栞に、皆の視線が集中する。
「い、いえ。何でもないんですー」
 そう答える栞の目尻にうっすら涙が浮かんでいる。
 栞は「うーっ」と小さく唸り声を上げると、隣で平然と座ったままの姉の顔に、訴えかけるような視線を送る。
 香里は適当な言い訳で逃げようとした妹の太股をつねっていた指を戻し、自分が掴んだおかずを口に放り込んだ。
「んふ……美味しいわよ〜。流石ねぇ栞」
 笑顔でそう言う香里を見て、栞は自分の姉の演技力の凄さを改めて思い知った。
 そんな合間にも、各々笑顔で雑談を交えながら次々と弁当を口へと運んでいる。
 もっとも舞だけは、時折佐祐理の言葉に相づちを入れる程度で、表情を変えずに黙々とおかずを口に運んでいるが、傍目に見れば――弁当の惨状を除けば――校内屈指の美少女達による賑やかな昼食会だっただろう。
 事実彼女達のシンパである男子生徒の幾人かは、その状態をフィルムへ収めていた。
「あれ?」
 とあるおかずを口にした名雪が、突然声を上げると、栞は身体を一瞬竦めた。
「このお弁当栞ちゃんが作ったんだよね?」
「そ、そうですよ。何か?」
 口ごもる栞。
「味付けが結構濃いから……珍しいなって」
 辛い物を人類の敵とまで見なす栞の作る食事は、基本的に薄味か甘い物が多い。
 だが今回の料理は薬品を混ぜるに当たり、それを誤魔化すために普段よりも濃い味付けになっていたのだ。
「え、えっと……あ、お姉ちゃんも手伝ってくれたんですよー!」
 手を胸の前で合わせて答える栞に、珍しく香里が咳き込んだ。
「し、栞っ! 何て事言うのよっ! 私作って無いわよ」
 突然立ち上がって声を荒げる香里に、皆の視線が集中する。
「……あ」
 己の失態を感じて慌てて座席に戻ると、香里は栞を睨み付ける。
「……ふふ」
 栞の顔は『いざとなったらお姉ちゃんにも共犯者になってもらいます』と物語っていた。
 これで事が公になった暁には、姉妹そろって容疑に掛けられる事を意味しており、香里の栞に対する愛情は瞬間的に揺らぎかけた。
 そんな合間にも皆は箸を進めて行き、時間の経過と共に、完璧な偽装を施された料理の数々は、その中に潜む悪意を捕食者へ伝える事はなく、次々とその量を減らしていった。
「う〜ん……やっぱり栞ちゃんって料理上手いね」
 名雪が改めて感心したように言うと、七瀬がふと何かを思い出したかの様に皆の顔を眺めてゆく。
「七瀬さんどうしたんですか?」
 視線に気が付いた佐祐理が、箸を止めて首を傾げる。
「いえ。やっぱ乙女たるもの料理も完璧じゃなきゃ駄目なのかな……と思いまして」
「あれ〜、留美ちゃんって料理全然駄目なの?」
 七瀬が少し恥ずかしそうに答えると……隣の詩子がミートボールを嬉しそうに飲み込んでから尋ねた。
「全然って言うな。出来るわよっ!」
 顔を赤くして答える七瀬だが、みんなの視線を感じてから「そりゃ……栞ちゃん程じゃないとは思うけど……」と声を小さくして続けた。
「七瀬さんはクッキー作るのがとても上手いんだよね」
 そうフォローを入れたのは瑞佳だった。
「え? そ、そうかな〜。確かに作るのは好きだけど。えへへ」
 先程とは別の意味で顔を赤らめて、頭を掻きながら照れる七瀬。
 そんな七瀬を見て今度は名雪が声を上げる。
「あーいいなぁ。ねぇ七瀬さん、今度わたしにも作ってくれる?」
「いいけど。そんな期待しないでよ?」
 名雪の言葉に満更でも無さそうに答える七瀬。
「へ〜留美ちゃんってなかなかやるのねぇ。でもお菓子全般なら茜には勝てないわよ〜」
 何故か自信たっぷりに言う詩子に、茜は「……詩子」と短く呟きたしなめるが――
「あ、ごめんごめん。茜は留美ちゃんと違って普通の料理も完璧だもんね」
 と、より挑発的に言い改めた。
「ぐっ……」
 七瀬が握り拳で割り箸を掴むと、その手元からは箸の軋む音が聞こえてきた。
 瑞佳が慌てて七瀬と詩子を見比べどうフォローすべきか思案していると――
「……多分一番料理が上手いのは佐祐理」
 意外な人物からの発言に、皆が一斉に視線をその発言主である舞へと向けた。
「……」
 舞は皆の視線も意に介さず、黙々と箸を進めている。
「……あ、あはは〜。何言うのよ舞〜佐祐理はちょっと料理が出来るだけですよ〜」
 親友の言葉に照れながら応える佐祐理だが、本人としては心からそう思っての発言も、こと周囲の者からすれば謙遜として聞こえるのだろう。
 七瀬も詩子も、明らかに勝ち目のない相手が出てきては何を言うことも出来なくなった。
 二人は互いに見つめ合うと、諦めの籠もった溜め息を付いた。
「た、確かに佐祐理さんの料理には勝てないかも……」
 材料が違いすぎます――と、栞は続く言葉を飲み込んだ。
 再び食事が始まったが、七瀬は今この場に居る者達を見回して「料理の腕前を競ったらどうなるのだろうか?」 そんな事を考えてみた。
 先日も食したが佐祐理の料理の腕前が完璧である事に間違いはない。
 栞に関しても、今こうして食べている料理がその腕前を証明している。
 香里や名雪に関しては彼女達の弁当を食べた過去の経験から自分以上である事は間違いない。
 舞や詩子は全く不明だが、茜に関しては詩子の言う通り、如何にもそつなく作りそうな気配がする。
 もしも今回のコンテストに選ばれ、そしてその中で料理の腕前を競う勝負が有ったとして、自分は勝つ事が出来るのだろうか? ――そんな事を考え、そう考える事自体におこがましさを感じると、七瀬は頭を強く振って目の前の唐揚げを摘み上げた。
「あ〜ん」
 だが、七瀬が摘んだおかずを、横から現れた何者かが自分の口へと入れてしまった。
「え?」
 突然の出来事に言葉を失う七瀬に、その者は満足げに微笑み口を開いた。
「うふ。七瀬〜ご馳走さま〜」
 広瀬だった。
「な、あんたね……人が取ったおかずを勝手に食べないでよっ」
「うふふ。七瀬ってば私に『あ〜ん』だなんて……もう、人が見てるのにぃ〜」
 広瀬は七瀬の言葉を無視して、その場で芝居がかった仕草で身をくねらせる。
「うーっ」
 対面の名雪は、何故か唸り声を上げて七瀬を睨んでいた。
 七瀬が怒った表情で腕を振り上げ何か物を投げる仕草をすると、広瀬は「あははは」と笑いながら去っていった。
「……名雪なにやってるの?」
 机に身を乗り出して開けた口を突き出している名雪を見て、香里が不思議そうに尋ねる。
「あーん」
「……名雪? いやあのね……」
 名雪の意図を察した七瀬が焦ると、名雪の隣にいた香里が、適当な卵焼きを摘みあげ彼女の口へと放り込んだ。
「美味しい?」
「うーっ」
 香里の問い掛けに唸り声を上げ、それでもしっかりと頷いて答える名雪。
「わぁ〜七瀬さんモテモテだね」
 そんな状況を見て瑞佳が心底感心した様に言うと、七瀬は頭を抱えてしまった。
「あははー、みんなで食べるご飯は美味しいね〜舞」
「……」
 佐祐理の言葉に黙って頷く舞。
 この二人は何処までもマイペースだった。
「……はぁ」
 細々と箸を進める中、栞はゆっくりと息を深く吐いた。
 それは自分の行いを悔やんでの事なのか? それとも作戦の失敗を嘆いての事なのだろうか?
 昼休みの喧噪に包まれながら彼女達の昼食は和やかに進み――
 そして終わりを迎えた。




§




 名雪達が陰謀に満ちた昼食を始めた頃、折原に呼び出された祐一はとある空き教室に居た。
「さて、今日は何用だ?」
 教室に集まったのは、祐一と折原、そして住井の三人だけだった。
「委員会の招集……じゃないんだな?」
 集まった面子を見て祐一が洩らす。
「ああ、正直もう委員会に公正な運営力は無いだろうからな」
 住井の言葉に折原が無言で頷いている。
 委員会の主立ったメンバーは、既に自分の支援活動に没頭しており、到底コンテスト自体の手伝いをする暇はないだろう。
「まぁ知っての通り、現在学校内はかつて無い程に混沌としている」
「煽ったのはお前だろ?」
「ああ、そこでだ……」
 住井は嬉しそうに頷くと、表情を真剣なものとして言葉を続けた。
「実はな、お前に頼みがあるんだ」
「俺に?」
「ああ、実を言えば今回の騒ぎが予想以上に大きくなってしまってな。正直オレの手だけではどうしても回らないんだ」
「折原は?」
「実は本選の競技方法はオレじゃなく、折原に一任してる」
「なっ!?」
「……」
 折原は祐一の視線を受け、無言で手を挙げてみせる。
「……まさか、お前相当無茶やってるんじゃ?」
「まっさか。仮にもマスコミで取り上げられた上に学校内で行う行事だぞ? そんな無茶はしないって。それに住井が今や最高責任者だからな。流石にダチの立場を悪くする様な真似はせん」
 祐一は折原の言葉を半分程度の認識で聞き流し、視線を住井へと戻す。
「そういう訳で、その具体的な内容はまだ言えない。これはオレと折原だけが知っている事だ。だが事が事だけに失敗はしたくないが、流石に二人では心許なくてな。協力者が欲しい。それも中立的な奴だ」
「それが俺か?」
「ああ。お前は委員会に有りながらも今回の祭りには消極的だし、川澄先輩や倉田先輩の支援活動をするわけでもなく、当然何処の組織にも属していない。お前ならば私情を挟むことなく割り切って仕事をして貰えると思ってな。どうだ?」
「……どうだって言われてもなぁ。あ、中立って立場なら氷上なんかピッタリだと思うが?」
「実は氷上にもコンタクトはとった。でも乗り気じゃないんだよな。ほら、あいつってアレじゃん? どうもミスコンって企画自体に賛同できないようだ。まぁそんな事はともかくどうだ? 忙しいとは思うがその分見返りは十分に期待していい」
 祐一は、敢えて折原の言うアレの意味は深く追及せず、後半の見返りという部分に注意を向けた。
「見返り? ……まさか資金を癒着してるんじゃ」
「おいおい、オレはそこまで堕ちちゃいないぞ。安心しろって。仕事に対する正当な報酬だ、問題ない」
 祐一がもう一度折原へと視線を移すと、彼は黙って頷いた。
「う〜ん」
 祐一は悩んだ。
 残念だが、彼等の言い分を鵜呑みに出来るほど、二人は祐一に信用されていない。
 だが、祐一とてデートの資金だって欲しいし、買いたい物だってあるし、人並みに物欲は存在する。
 居候という立場上、彼が家主の秋子から小遣いを貰う事はなく、長期休暇の際に行う短期のバイトと、両親からの仕送りが彼の資金の全てである。
 そしてこれからクリスマスやら、名雪や舞の誕生日を迎えるに当たり、懐は暖かい事に越したことはない。
 久瀬に佐祐理のPRチラシを渡して換金する事は拒んでも、労働に対する正当な報酬という事ならば全く問題はない。
 しかもこの場で拒否したところで、どうせ何らかの理由で手伝わされる可能性も高く、そうであるならば最初から手伝って報酬を貰った方が得だ。
「……ふぅ。今回の騒ぎの片棒を担ぐのは正直気が引けるが、他に居ないんじゃ仕方ない」
 悩んだ末、祐一は二人の協力要請を受諾した。
「助かる」
 住井が嬉しそうに頷く。
「で、実際何をすれば良いんだ? 機材の搬入とか舞台の設営か?」
「いや、そういう仕事は既にKTVや商店会の方でやってくれる事になってるんでな、相沢には折原のサポートに回ってくれればいい」
「折原の〜?」
「嫌そうな声だすなって。この俺様の下僕になれるんだ。有り難く拝命しろって」
「……やっぱ辞める」
「ジョークだ。えっと俺が本選の企画を上げて必要なモノを伝えるから、お前はそれらをスポンサーから譲り受けたり借りたりして揃えてくれれば良い。簡単に言えばツカイッパ、もしくはパシリだ」
「……やっぱり辞める」
 祐一が踵を返すと、折原は腕を取って「冗談だ冗談! 今のノーカン!」と大騒ぎしながら引き留めた。

「さて肝心の選考競技内容だが、全部で五種目を予定している。「美」と「心」以外に「知力」「体力」「乙女力」を競う方法を思案中だ」
 折原がさも楽しそうに語り始めた。
「最後の乙女力って何だ? てっきり時の運が来ると思ったが……」
「まぁ聞けって。まずは美の部門だが、水着審査がこの手のイベントでは外せない基本中の基本だが、普通にやっても面白く無いんで少し変更を加える。具体的には水着では無い別の衣装を用意してもらう。
 心の部門だが、これはある種の「どっきり」みたいなモノになると思う。真のミス学園に選ばれるに相応しい人物を見極める為の、恐ろしい試練を用意する予定だ。ふっふっふ」
 薄気味悪く笑う折原に、祐一は背筋を凍らせる。
「んでもって知力はそのまんまだな。やはり頭脳明晰さも真のスクールビューティには欠かせない。馬鹿な所が可愛いという者も居るかもしれないが、これはこれそれはそれだ。
 体力はまぁ、せっかく世間の目が集中するわけだから、観ていて楽しい血がたぎる様な熱い競技にする予定だ」
「おいおい、血がたぎって良いのかよ? ミスコンだろ?」
 折原は祐一の突っ込みを無視して話を続ける。
「んでもって最後の乙女力だが、これは所謂”家事全般をこなす技量”の事だ。料理とか裁縫とか掃除とか、そう言ったものをどれだけこなせるか……というものだな。ま、いずれにせよ細かい部分は今だ調整中……というわけだから、今日から俺ん家で作戦会議を行う」
 折原の言葉に、祐一はやれやれといった表情で頷くと、少し真面目な表情をした住井が祐一の肩を叩く。
「お前に限って大丈夫だとは思うが……競技内容や選考方法などの機密事項の守秘義務は全うしてもらうぞ。その内容を少しでも外部に漏らせば……」
「判ってるよ」
「なら良い。それから……この場での事は他言無用だ。お前が俺達と共にコンテストの企画統括に関わっている事は外部に漏らすな。水瀬さんにも、それから川澄先輩や倉田先輩に対してもだ」
 念を押す住井に、祐一も表情を改めて頷いた。
「判った。俺は口は堅いから安心しろって。さてと……遅くなったがメシ食いに行かないか?」
 祐一が提案すると、何かを思い出したように折原が巾着袋を取り出す。
「おお、そう言えばオレは瑞佳から弁当を貰ってたんだ」
「はいはい。羨ましいね。相沢は?」
 住井は一瞬悔しそうな表情を浮かべるが、すぐにいつもの態度に戻し軽口で受け流す。
「俺は学食だな。日替わりは終わってるだろうから……うどんかカレーでも食べるさ」
「んじゃ行くか。折原も弁当もって付き合えよ」
「はいはい」
「返事は三回だっ!」
「はいはいはい」
 ふざけ合いながら三人が空き教室を後にして出て行くと、静寂に包まれた空間に笑い声が響き渡る。
「ふっふっふっふっ……聞いたぞ聞いたぞぉ〜」
 教室の隅から発せられたのは男の声。
 祐一達三人の居た教壇周辺からは、並んだ机で死角になっている床に、簀巻き状態で横たわる北川が居たのだった。
 教室へ入ってきた級友達に助けを求めようとした北川だったが、その神妙な雰囲気から様子を伺う事を決め、三人の秘密会談を聞くことが出来た。
「選考競技内容が判れば対策を立てるのは容易なり! さっそく美坂へ報告だっ!」
 鼻息も荒く身をよじる北川だが――
「うーむ、問題はどうやってこのロープを解くかだが……」
 彼は助けを求めるのを忘れていた。


「あら珍しい。三馬鹿が揃ってこんな時間に食事?」
 学生食堂に揃って姿を現した祐一達を見て、雪見が笑みを浮かべて声を掛けた。
「雪ちゃん……三馬鹿って?」
 向いの席で三杯目のカレーを食べていたみさきが、スプーンを掴んだ腕を止めて雪見に尋ねると――
「本校に我ら有り、我ら有っての我が母校。貴方の学園生活をエキサイティングに大・演・出! 楽しきスクールライフのお供に最適な黒い三連馬鹿とは我々の事。我が名はレリクス折原!」
 目の見えないみさきの目の前でいきなり特撮ヒーローばりのポーズを取りながら折原が叫べば――
「如何にも、我々こそが世紀末救世主にしてエンターテイメントの具現。我らに不可能な学校行事は存在しないっ! 若き日々の想い出作りなら我らの出番。同じく黒い三連馬鹿が一人、バンゲリング住井!」
 ――と、間を置かずに住井が続く。
 折原と対になるようなポーズを取っているのは言うまでもない。
「……お前等、ちっとは否定しろよな。それになんだよ黒い三連馬鹿ってのは」
 雪見の冗談に反論せずに、咄嗟にアドリブを決める二人に対して、祐一は一人素で返す。
「あー、浩平君達なんだ」
 折原達の声にみさきが破顔して声を上げる。
「その通りですみさき先輩。それにしてもだ……」
 折原はみさきに答えてから視線を祐一へと移し――
「お前はノリが悪いなぁ。せめて名乗りの口上くらいは付き合えよ。暴れん坊相沢とか、頭脳戦艦相沢とかさ」
 と宣えば、住井は腕組みをして頷きながら――
「全くだ。これでは三人で”ダンス甲子園”へ出場するって誓いを、現実の物とする事は出来ないぞ?」
 と、無茶苦茶な事を言う。
「……どこから突っ込むべきかしらね」
 突っ込み所が多すぎて、流石の雪見も躊躇気味だった。
「存在自体ですね」
 祐一がそう呟くと、雪見は苦笑交じりに「同列にしてごめんなさいね」と祐一に謝った。
 自分が彼等と同列に見られている事に改めて危機感を募った祐一は、早くも二人の誘いに乗った事を後悔した。








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