周囲からは数え切れないほどのフラッシュが焚かれその眩さに目が眩み、言葉として認識出来ない大歓声が彼女の鼓膜を刺激する。
「おめでとうございます!」
 目の前に近づいて来た男が、興奮気味に喚いてマイクを近づけると、周囲の喧騒がピタリと止んだ。
「あ、あの……」
  周囲の興味が彼女に集中し、自分の居場所に酷く違和感を覚えて口ごもる。
「並み居る強豪をうち破っての優勝ですが感想を一言!」
「やはり勝因はスタイルでしょうか?」
「この喜びを誰に伝えたいですか?」
 狼狽える私に構わず矢次に質問が押し寄せてきた。
「ちょっと待って……何が何だか……って、あなた!」
 目の前に立っていた男をよく見れば、それは彼女にとってとても懐かしい顔だった。
「やぁ郁未。凄いね。まさか君が優勝出来るなんて……これも君が望んだ力の為せる技なのかな?」
「何言ってるのよっ! あなた何を言って……」
「それでは〜若〜い現役生徒達をうち破って見事優勝に輝いた魅惑の保険医、天沢郁未さんに盛大な拍手を〜!」
 いつの間にか反対側に来ていた女性が多少毒の入った言葉で周囲を湧かす。
「な、晴香まで? ちょっと一体どうなって……きゃぁっ」
「それじゃみんなで郁未さんを胴上げしましょ〜」
 髪を大きなリボンで止めた背の低い女性がそう言うと、周囲に群がって居た人々に担ぎ上げられ、郁未の身体は自分の意志とは無関係に宙を舞う。
「ゆ、由依?!」
「ふぅ。郁未さんも意外と俗物なんですね……」
 不躾な声が横合いから投げかけられ、その先を見る。
「葉子さんっ……」
 郁未の目の先に、見事な金髪をした美しい女性が登場すると、胴上げをしていた者達が一斉に動きを止めた。
 当然、郁未の身体はそのまま地面へ向けて落下を始めるが、何故か急にその地面が無くなり、郁未の真下には深い穴が広がっていた。
「嘘っ?! きゃぁぁぁぁっ!」
 意識を集中しても不可視の力は発動せす、郁未はそのまま落下を続け――やがて谷底に衝突した。

 ”どさっ”

「…………」
 頬を伝わる床の冷たさに郁未は目を覚ます。
「……あれ?」
 寝ぼけた意識が急速に戻ると、上半身をベッドから落とした自分に気が付いた。
 床に手をつき、身体をベッドに戻し、身体の節々を伸ばす。
「う〜〜〜んっ」
 差し込む朝日に目を細めて傍らの時計に目を向けた。
 時刻は午前七時を少し過ぎたところだった。
 別に目覚ましのベルが鳴ったわけではない。
 休日であるからもう少し寝ても良いのだろうが、規則正しい生活のリズムが身に付いているのか、自然と目が覚めてしまった様だ。
 カーテンを開け、曇った窓ガラスを手で擦り視界を確保すると、青空が目の前に広がる。
 だが少し視線を下げれば、雪化粧に覆われた街が目に映る。
 タイマーがセットされたヒーターにより室内は快適な気温を保っているが、外は相変わらず寒そうだ。
 郁未は少し乱れた髪の毛をなでつけながらガラス戸を開ける。
 一二月の冷たい風が部屋に入り込むが、郁未は気にする事なく、下着に大きめのブラウスだけ――属に裸ワイシャツと呼ばれる寝間着姿のままベランダへと出て行く。
「う〜ん、流石に目が覚めるわね……それにしても、変な夢みちゃったな〜」
 北国の冷気を全身で受けながら、今一度大きく背伸び。
 彼女の暮らす部屋は、この辺りではもっとも背の高いマンションの最上階にあり、彼女の魅惑的な格好が一目に触れる危険性は少ない。
 街全体が一望できるベランダから周囲を眺めると、白い大地と青い空のコントラストが郁未の瞳に心地よく溶け込み、心を落ち着かせてくれる。
 時折故郷の街を恋しくなる事はあるが、あの教団施設から程近い――といっても車で半日の距離だが――この街に腰を落ち着けたのは、この雪景色を心底気に入った事もその理由の一つだった。
「そう言えば……」
 呟いて遠くの山々を見る。
 その頂から麓まで純白に着飾った山々の向こう側に、月宮――かつてのFARGOの本拠地が在った。
 あの地で出会った仲間達はどうしてるのだろう? 連なった山々を眺めながら、郁未は思う。
 この街での充実した新しい生活によって、郁未の惨淡とした過去が吹き飛ばされた現在、当時の事を振り返る事もめっきり少なくなった。
 だからといって、彼女達の事を忘れたわけではない。
「ふふっ」
 夢の中で見た懐かしい面々の顔を思い浮かべて自然と笑みがこぼれる。
 晴香、由依、葉子……そして、名も知れぬ少年。
「一体どうしているやら……ん?」
 冷えた身体を抱きしめるようにして踵を返そうと思った瞬間、郁未は何者かの強い思念を感じ取る。
 ふと見れば視界の隅で何かが光った。
「全く……」
 小さく溜め息をついてベランダの手すりに積もっていた雪を摘み、それを指先でこねて丸めると、郁未は向かいの建物の屋根へと放り投げる。
 意識を雪玉に集中して不可視の力を少しだけ解放。
 投げられた雪玉は屋根の上を転がり、明らかに不自然な動きで次第にその質量を増やして行く。
 雪玉が屋根から転がり落ちた時、その直径は一メートルにも達しており、直下に居た者共を直撃していた。
「ひゃっ!」
「どわっ! 冷てぇ!」
「あ、馬鹿! カメラ落とすなっ!」
 そんな声と共にパパラッチ気取りの高校生らしき数名の男子が、慌てて建物の外壁を降りて行く。
「全く……これじゃベランダ出る時も気が抜けないわね」
 そんな声を聞いて溜め息をつくと、郁未は髪の毛を手で掻き上げて部屋に戻る。
 温かい部屋に戻り洗面所で身だしなみを整えると、玄関に向かってポストに収められている新聞を取り出した。

 学校のアイドル的保険医と言える郁未の写真は、その需要の多さに反してまともに映っている物が少ない為、非常に高額で取引がされている。
 何せ彼女の神経は常人に比べて異常なまでに鋭く、警戒レベルを上げた彼女に近づくのは自殺行為に等しい。
 無論、普通にカメラ目線で撮られた物ならば大量に出回っているが、その様な物には価値は無く、郁未のシンパが欲している物ではない。
 ミステリアスな彼女の意外な一面や、無防備で自然体な彼女の姿を写したものこそが待ち望まれている物だ。
 過去何人もの学生達が郁未のシャッターチャンスをモノにせんと出撃したが、その結果は散々だった。
 ほとんど狙撃に近い超望遠による撮影を行っても、彼女は隙を見せず、そのシャッターは空を切るばかりだった。
 希に上手く写せる事もあるのだが、何故か直後に原因不明の突風や落石でカメラが壊れたり、強烈な静電気(?)でカメラ本体が壊れる事となる。
 彼女をパパラッチする行為は、エリア51に潜入し撮影する事と同程度の難易度と思って良いだろう。
 今や無防備状態の郁未を撮影した写真を撮った者は、生ける伝説として学校に語り継がれる事になるだろうとまで言われている。
 そんな実状もあって、ある者は純粋(やや邪な傾向あり)な一方的愛情を充足させる為、ある者は一攫千金を夢見て、郁未の無防備な素顔を激写せんと日夜奮闘しているわけだ。
 ただ、今朝のように向かいの建物の外壁をよじ登ってパパラッチする程の強攻策に出て来る者は今まではいなかった。
 恐らくはこれもコンテスト開催による影響――更に写真の価値が跳ね上がるとの予想からの行動なのだろう。

 郁未がリビングへ向かって歩きながら新聞をめくり地方版のページを開くと、思った通りこの度のコンテストに関する記事が載っていた。
「昨日はテレビのニュースにもなった位だもの、当然よね……」
 確かに今の日本には明るい話題が少ない。
 景気は悪くなる一方だし、犯罪の発生件数も鰻登りだ。
 低迷する昨今の日本経済状況の中、この街で行われている奇妙な景気回復が人々の関心を集めるのも無理はないだろう。
 しかも、その仕掛け人達が高校生である事が、この度の関心を高めている。
 そんな世間的な追い風もあって、すでに商店街は今回のコンテストを商店街自体の祭り――実際には街全体――として認識し、完全にバックアップする体制を整えて居た。
 コンテスト告知が解禁された昨日以降、商店街全体がお祭りモードと化すと、その賑わいは住民達の財布の紐を緩める結果となり、初日の段階で各商店は平均で先週対比135%もの売上を達成していた。
 装飾品に費やした費用を差し引いても――それ自体が大した物では無い事もあって――費用対効果は抜群だった。
 今後一週間の売上を考えると、どの店の主人も表情を崩さずには居られなかった様で、新聞の紙面には、嬉しい悲鳴を上げる店主のコメントが載っている。
「ま、こんな事でも街全体が盛り上がるなら、それはそれで良いのかな」
 苦笑して新聞を置くと、冷蔵庫から卵とベーコン、そしてマーガリンを取り出し朝食の準備に取りかかる。
 トーストをオーブンにかけてスイッチを入れ、合間にリモコンを使ってテレビの電源を入れた。
 日曜の早朝にやっている情報番組が流れ始めた。
 ローカル放送局ではなく、キー局により全国ネット番組だ。
 テレビ番組の音声をBGMに、コンロにかけたフライパンに、卵を割って落として蓋をする。
 食事の支度を整える合間に、冷蔵庫から取り出した牛乳をパックのまま口へ運ぶ。
『――それでは次いで、低迷する日本経済の中で少しでも明るい話題をお送りします』
 キャスターの声に郁未が目をテレビへと向けると、画面には、馴染み深い校舎が写し出されていた。
「?」
 驚いた郁未が画面を注視している合間にも、この度のコンテストの事が簡単に紹介され、そして映像が切り替わった瞬間――
「ぶぅっ!」
 郁未は口に含んだ牛乳を吹き出してしまった。
「ごほっごほっ……ちょ、ちょっと待ってよっ!」
 テレビ画面に映し出されていたのは、中庭で女生徒達に囲まれて一緒に食事をする郁未の姿だった。
 下着こそ写ってはいないものの、スカートから覗く太股が健全な男子の淫靡な想像力をかき立てるには十分なアングルだ。
 この写真こそ、自然体な郁未を写した数少ない貴重な写真の一枚だったりする。
『あら〜確かに可愛い女生徒さんが多い様子ですね〜』
『はい、女生徒だけでなく、先生にも綺麗な方が居るみたいですね。この方なんか……』
「うわわわわわっ! やめ、止めて〜!」
 キャスターとアシスタントのやり取りが続き、自分の顔がアップにされた瞬間、郁未は恥ずかしさから慌ててテレビの電源を落とした。
 リモコンでは無く不可視の力を用いてだが、当然彼女が消したのは自分の部屋にあるテレビの電源を落としただけであり、いくら強大な人外の力が備わっていたとしても、既に流れているテレビ映像を止める手だてはなかった。
 つまり万単位の人々が、今の画像を見た事になる。
「冗談でしょ?」
 二年四組の男子生徒達の間で起きた些細な論争から始まったイベントは、学校を巻き込み、街を巻き込み、そして今やその勢いを全国区へと拡大しつつある。
 流石に日本中が、街中の様な有様にはなる事はないだろうが、今回のコンテストがより大勢の人々の知るところになった事だけは確かだ。
「あ、でもひょっとして……」
 郁未は思う。
 校内限定と思われていたイベントがこれだけ大きな物となり、全国区へとその話しが膨らむとなると、それだけ人目に晒される可能性も比例して大きくなる。
 晴香や由依、それに葉子――あのFARGOの暗闇の中で知り合い共に闘った仲間と、最後に分かり合う事ができた者。
 彼女達が郁未より先に脱出した事だけは確かだが、その後はお互いの連絡先を知らない為、一度も連絡を取ったことはない。
 その者達が彼女に気付き、何らかの連絡があるかもしれない――そう思えば、郁未にとっては今回のコンテストも満更では無いかもしれない。
「みんな元気してるかな……って、タオルタオル!」
 かつての仲間の今を想う郁未の足下に、自分がぶちまけた牛乳が流れてきた。
 郁未は慌ててキッチンの脇にある手拭いを手にすると、昨日と同じように慌てて床と自分の足を拭いた。
 この後郁未は、フライパンの中で真っ黒に焦げた目玉焼きを見て、大きな溜め息を付く事になる。







■Beautiful 7days #4















”チュンチュンチュン……”
 雀の囀りに、彼女の意識は次第に現実へと戻ってきた。
「ふぁ〜……あぁ〜…………ん?」
 瞼を擦り、布団の中で背伸びをしつつ大きなあくびをすると、自分の目の前に広がる光景に首を傾げる。
 見慣れた自分の部屋ではない。
 きちんと整理された鏡台、可愛いながらも適度な大きさの本棚には文庫本や、小物の類が置かれており、その上には可愛らしい人形やぬいぐるみが列べられている。
 参考書や教材が整頓されている机の横には、女性向けの雑誌や植物・動物・料理・編み物の本等がきちんと収められているカラーボックスがあり、その背となる壁には、綺麗でどこか心が落ち着くリトグラフがかけられている。
 馴染みのない部屋に、寝起きの彼女――七瀬は、徐々に自分の置かれている立場を思い出す。
「あっ」
 全てを思い出したのか、七瀬は思わず声を上げると、限界ギリギリの速度で首を真横に向けた。
 途端、彼女の首がコキィィィン!――と、整体を受けたような凄い音を立てる。
「ぐおぉぉっ……」
 痛みをこらえて目を見開くと、七瀬のすぐ横には静かな寝息を立てている瑞佳がいた。
 自分の声で目が覚めなかった事に安堵の溜め息を付くと、七瀬は非礼を承知でその寝顔を食い入るように見つめた。
「瑞佳の寝顔……ああ…………はっ!?」
 思わず漏れた自分の吐息に理性を取り戻すと、慌てて首を天井へ向ける。
「そっか……あたし瑞佳の部屋に泊まって……それで一緒のベッドに」
 見慣れぬ天井を見つめながら小さく呟く。

 昨日、美汐と別れた後、瑞佳の誘いのまま彼女の部屋へ遊びに来た七瀬だったが、楽しいおしゃべりに興じていたところ、気が付けばすっかり陽が暮れていた。
 慌てて帰ろうとした七瀬を、瑞佳が『危ないよ』と引き留めた事でそのままお泊まりと相成ったわけだ。
 しかし学校の寮となっているアパートはワンルームであり、寝床もベッドが一つしかない。
『い、良いわよ。私は床で寝るから!』
 と七瀬は断ったが、幾ら剛胆な彼女と言えども、北国のそれも十二月に選択できる行為では無かった。
 結局、瑞佳の意見を汲んで一緒のベッドに入る事になったのだが――
『寝られるかーーっ! あほーっ!』
 と、頭の中で一人叫び声を上げていた。
 瑞佳の寝顔を見ないように、彼女に背を向けて羊を数えたり、祖母から教えて貰った般若心境を唱えたり……と、乙女回路を全力稼働させて必至に寝よう務めたのだが、背後で瑞佳が寝返りを打つ度に、彼女の寝息が首筋に当たる度、彼女の手が背中に触れる度、七瀬の思考は全てリセットされる事となった。
 根性を総動員した超々高速演算により羊を65535匹まで数えたところで、やっと七瀬は眠る事が出来た――要因は疲労――のだが、その時には既に朝刊を配る新聞配達の音が聞こえていた。
「……眠い。でも眠れなかった。おまけに頭が痛いわ」
 拷問にも似た昨夜の状況で目の下に隈を作った七瀬が呟くと同時に、隣で寝返りをうった瑞佳が彼女に抱きついてきた。
 伸びた腕が七瀬の肩を掴み、脚はやはり七瀬の脚に絡まるように置かれている。
「あぅあぅあぅあぅ」
 嬉しさと苦しみのサンドイッチに七瀬の精神は崩壊寸前だった。
 悪魔が煩悩を率いて彼女の脳内へ攻め込んで来て、天使が率いる理性が徹底抗戦に撃って出る。
 脳内で繰り広げられる大激戦は、両者相打ちによる七瀬本体のオーバータスクエラー――つまり気絶を招く結果となった。



「は〜びっくりしたよ。七瀬さん、寝てるかと思ったら気を失ってるんだもん。でも本当に大丈夫? 病院一緒に行ってあげるよ?」
 牛乳の入ったカップをテーブルに置き、瑞佳が心配そうな表情で言う。
「あははは……あたしって時々寝ながら気絶するのよね。だから気にしないで。あはははは」
 七瀬はその原因を説明する気にもなれず、頭を掻きながら笑って適当な事で誤魔化した。
「ええっ? それって尚更危険なんじゃないかな?」
「大丈夫大丈夫!」
 心配そうな表情を浮かべる瑞佳に、七瀬は手を振って必至に健康をアピールして応じた。
「なら良いんだけど……でもわたしは昨夜はとってもよく眠れたよ。何でだろう? あ、ひょっとして隣に七瀬さんが居てくれたからかな」
 そう言って「えへっ」と微笑む瑞佳を見て、七瀬は心の中で感動の涙を流していた。

「……ところで七瀬さん今日どうする?」
 食事とその片づけが終わり一息ついたところで瑞佳が七瀬に尋ねる。
「そうね、頃合い見ておいとまさせてもらうけど……瑞佳は?」
「わたしは特に予定無いよ。七瀬さんさえ良ければもう少しゆっくりしていってね」
「え? 良いの?」
「うん。浩平からは何も連絡ないし……」
 そう言って表情を僅かに曇らせる瑞佳に、七瀬は少しだけ心に痛みを感じる。
「折原ねぇ……。きっと今頃、例のコンテストの事で良からぬ事を考えてるんだわ。うん」
「ははは。そうかもね。あ、そうだ……七瀬さんって今回のコンテストに乗り気なんでしょ?」
「はい?」
「一昨日浩平が言ってたんだよ。『地上最強の乙女を目指している七瀬の事だから、間違いなく今回のイベントには己の生涯をなげうる覚悟で参加してくるはずだ』って」
 折原の口調を真似た瑞佳の言葉に七瀬は頭に血を上らせるが、流石に瑞佳に文句を言う訳にはいかないので、その脳内で『絶対に奴の命とったる!』と誓う事にした。
「……変な事瑞佳に吹き込んでくれたわね。あのあほ」
 七瀬の呟きに、瑞佳は首を傾げる。
「七瀬さん?」
 名を呼ばれている事に気が付くと、七瀬は深呼吸をして気分を落ち着かせる。
「えっと、あたしは……ほら、瑞佳と違って乱雑だし……流石に予選を突破するのは難しいんじゃないかな? あははは」
「そんな事ないよ。七瀬さんはとっても可愛いと思うよ」
「え、そうかな? でも服装とかも、ほら……あたしって地味っていうか、何処か男っぽいところ無い? 瑞佳みたいな服が似合えばちょっとはあたしにもチャンスがあるかもーなんて思うけどさ……」
「じゃあ私の服着てみる? 大したのは無いけど」
「え?」
「うん。それじゃこれから七瀬さんのファッションショーをやろ〜」
 そう笑顔で宣言すると、瑞佳は立ち上がり鼻歌を歌いながら洋服ダンスを開ける。
「い、いいわよ。あたしは」
 七瀬の遠慮を無視しながら、瑞佳は洋服ダンスの中身を物色するかのようにあれこれ取り出している。
「あ、これなんかどうかな?」
 そう言って満面の笑顔を咲かせた瑞佳が手にしたのは、持ち主が着るにしても可愛過ぎる感じのフリルやレースの付いた服だった。
「な、何でそんなもん瑞佳が持ってるの?」
 実に楽しげな瑞佳に躙り寄られて、七瀬の方はすっかり及び腰だ。
「まぁまぁ細かいことは気にしちゃだめだよ」
「何でそんなに楽しそうなの? ひょっとして瑞佳って着せ替え人形とか好きだった?」
「うん」
 屈託のない笑顔で答える瑞佳に、思わずたじろぐ七瀬。
 七瀬とて可愛い服装は嫌いではない。むしろ乙女を追求する身としては好きなくらいだ。
 だが自分自身で買ってまで着ようとは思わなかったし、たとえ持っていたとしても、それを自らの意思で人前で着る程の度胸は持ち合わせていない。
「ええい、大人しくしろぉ〜」
 七瀬を追いつめた瑞佳が、叫び声と共に飛びかかる。
「わっ」
 瑞佳に暴力を振るう訳にもいかず、七瀬は彼女の成すがまま押し倒されシャツを剥ぎ取られた。
「あははははは。えいえい」
「あ、ちょっと、きゃっ……」
 戸惑う七瀬を余所に、まるで佐祐理の様な笑い声と共に瑞佳は七瀬をひん剥くと用意した服を着せてゆく。

 数分後――
「わぁー七瀬さん似合うよ。可愛い可愛い」
 瑞佳ははち切れんばかりの笑顔で両手を叩きながら歓声を上げる。
 彼女の意外な一面の驚くと同時に、姿見に映った自分の不釣り合いな格好に対する自己嫌悪と、そんな姿を瑞佳に見られたという恥ずかしさから七瀬は心の中で涙を流した。
「それじゃ今度はこれだよ」
 そんな七瀬の心情を余所に、すっかりご機嫌な瑞佳は新たな服を持ってきて七瀬に突き出した。
「ひんっ……もう好きにして」
 諦めた七瀬は意を決して、マネキンに徹する事にした。







§







「ねぇねぇ祐一! さっきテレビで祐一達の学校が映ってたよ」
 起き抜けの祐一がリビングに姿を出すやいなや、真琴が大きな目を興味に輝かせながら話しかけてきた。
「朝は『お早う』だぞ? 真琴」
 そう応じてキッチンに居るであろう秋子に向かって「お早うございます」と声をかけると、祐一は自分の座席へと腰を下ろす。
「ねぇ祐一ってば!」
「お・は・よ・う・真・琴」
 祐一が皮肉を篭めて挨拶をすると、真琴は頬を膨らませてから「お早う祐一」と応じた。
「で? 学校がどうしたって?」
 そんな真琴に、祐一は笑顔を向けて話を切り出すと、真琴もすぐに表情を明るくさせて身を乗り出し、興奮気味に続きを話し始める。
「さっきね、ニュース番組で祐一達の学校が映ってたの! どーんとでっかい字幕まで入ってて、リポーターが大騒ぎで街中が興奮で経済が順調なのよ!」
「何だそりゃ? よくわからんが……お前の話を総合して考えるに、純金の隕石でも落ちて学校の校舎が崩れたとか?」
 真琴の要領を得ない言葉に首を傾げる祐一。
「ちがうわよー!」
 うまく伝えることが出来ずに地団駄を踏む真琴に、祐一が溜め息を付いていると、背後から声がかけられた。
「例のコンテストの事ですよ、祐一さん」
 祐一が振り向いた先には、コーヒーカップを手にした秋子の姿。
 そのまま彼女はいつもの笑顔で、祐一に「はい」とカップを差し出してくる。
「有り難うございます」
 礼を述べて受け取ると、秋子はにっこりと微笑んで「いいえ」と応じる。
「そうそう、それよ! 美人コンテストがテレビで紹介されていたのよ!」
 秋子の助言を受けて、さも偉そうに喋る真琴を祐一は指先で小突く。
「ミス学園コンテストだろ? それにしても……こりゃいよいよもって正気の沙汰じゃ無くなってきたな……舞と佐祐理さん、無事で済むならなら良いんだがなぁ」
 文句を喚き散らす真琴を適当にあしらいながら、祐一は頭の中で大切な人々の身を案じていた。
 秋子が煎れてくれたコーヒーは相変わらず美味しく、祐一の悩みを幾らか和らげさせる。
「今日は日曜日ですけど……祐一さんのご予定は?」
 祐一の前の席へ座っていた秋子に声をかけられ、祐一はカップを置くと「う〜ん」と悩む仕草をする。
「……特に予定は有りませんね。そう言えば名雪は?」
「名雪なら部活の練習があるとかで、朝から学校に行ってますよ」
「そうよっ! 祐一が一番寝坊助なの。まったく居候のくせに穀潰しなんだから……痛っ!」
 秋子の答えに便乗して毒を吐いている真琴の額に、祐一は素早くデコピンを一閃。
「もし祐一さんが暇なら、少しお使いに頼まれて欲しいんですけど……良いですか?」
 少し遠慮がちに言う秋子に、祐一は二つ返事で引き受けた。
 祐一がもう一人の居候兼穀潰しにも同行を命じたのは言うまでもない。




§





「ふぅ……」
 ベッドで目が覚めた茜が、ちらりとサイドテーブルに置いてある時計へと目を向ける。
 時計は正午近くを指している。
 規則正しい生活を送っている茜にしては、休みの日といえどもこうして寝過ごす事は非常に珍しかった。
「……少し寝過ぎました」
 ゆっくりと身体を起こしてベッドで軽く背伸び。
「昨夜は夜遅かったですからね」
 自分自身に言い訳する様に呟くと、ベッドから立ち上がりカーテンを開ける。
 青い空と白い雲がガラス越しに見て取れる。
 再びベッドへ視線を戻すが、昨夜は一緒に床についたはずの親友の姿が無い。
「詩子は……もう行動を起こしてるんでしょうね。私は……私は本当にそれだけで満足なのでしょうか」
 エゴの塊の様な自分に嫌気がさす。
 だが、それは自分が望んだ事。
「……良いんですよね? 私は……諦めが悪い人間ですから」
 サイドテーブルの上、時計の横に立てかけられているフォトスタンド、その中の写真に向かって尋ねる。
 写真の中に写っている三人は誰一人答えてはくれない。
 だが、詩子に抱きつかれて驚き困った様な表情で固まっている幼なじみ――司の顔が、茜には自分を応援してくれている表情に見えた様な気がした。





§






「おぅ栞ちゃんじゃないか〜」
「あ、どうもこんにちは」
 栞は声を掛けられて、はつらつとした笑顔を向けて答える。
 姉からプレゼントされたお気に入りのストールを羽織って、栞はいつものようにアイスを求めて商店街を訪れていた。
「そういや……」
 馴染みの店主がアイスを復路に入れながら笑顔で話を切り出す。
「今度のコンテストだっけ? 街中で評判になってるけど、栞ちゃんは可愛いから色々大変なんじゃないか?」
「え〜、私なんか全然大した事ないですよー。お姉ちゃんとかもっと綺麗な人が一杯いますから」
 手を振って謙遜する栞に、店の主は目を細めて頷く。
「いやいやそんな事ないって。栞ちゃんは十分可愛いぞ。おじさんに投票権があれば、栞ちゃんに一票投じるんだがねぇ」
「そう言ってもらえるだけで嬉しいです」
 栞は照れくささに顔を赤らめると、手渡された商品を受け取った。
 そんな仕草に店の主人は「うんうん」と頷き――
「やっぱ可愛いよ。栞ちゃんガンバレよ!」
 と声援を送る。
「ありがとうございます。それじゃおじさん、また来ますね」
 照れながらも行儀よくお辞儀をすると、栞はその場を離れた。
 お祭りムードが漂う商店街を進んでいる栞は、周囲から興味深そうに自分を見つめる人々の視線に気が付くと、その視線の先々にはにかみながら笑顔を送る。
 照れる者、手を振る者、頑張れと声をかける者――反応はそれぞれだが、それらを内心で楽しみながら、栞は軽快なステップを踏みつつ自宅へと通じる道を進む。
 ふと途上で立ち止まるり天を仰ぐ。
「ふふふっ。やっぱり私は可愛いんですねー。北川さんに根回しも済ませたし……あれであの人も実行委員会の幹部なわけですし、期待してても大丈夫ですよ……ね?」
 そこまで自問したところで、栞は視線を戻すと自分の言葉に不安を覚えた。
「そうですよ。北川さんですよ、あのいったまんまの北川さん。確かに馬力は有りますし、お姉ちゃんの頼みで有る以上、たとえどの様な事であっても命を賭して実行する事は間違いないはずです。でも……」
 栞は再び空を見上げる。
 晴れた空に、雲が疎らに浮かんでいる。
「あの人馬鹿なんですよね……」
 栞の大きく吐いた息が白く空中を漂い、やがて消えていった。
 視線を戻しストールを整え直すと、再びゆっくりと歩き始める。
「別の手段も考えておいた方が良いかもしれませんね……あ」
 考え事をしながら歩いている栞の目に、他の女生徒を推すポスターが目に止まる。
「何て事なんでしょう、敵の動きは予想以上に早いですね。このままではいけません! 後でお姉ちゃんと作戦会議です」
 あちこちに貼られているポスターに更なる闘争心を燃やすと、栞はアイスの入った袋を振り回しつつ足早に家路を進む。
 やがて公園の前に差し掛かったところでふと中を覗くと、顔馴染みの姿を見かけた。
 その少女は雪を払いのけたベンチに腰を下ろし、スケッチブックに手を動かしている。
「あ、澪さーん」
 栞が公園の入り口から大声で呼び掛けると、気が付いた澪が顔を上げて手を振って返す。
「スケッチですか?」
 近づいて栞が尋ねると、澪は手を休めて笑顔のまま頷いた。
「あ、よかったら見せてくれます?」
 栞の言葉に、澪は少しだけ悩むと、少し恥ずかしそうにスケッチブックを差し出した。
「どうも。へー……」
 澪が描いていたのはクレヨンによる公園の絵だ。
 雪に覆われた公園という難しい題材を、澪はクレヨンという題材には不釣り合いとも思える画材で挑んでいた。
 淡い水色や薄目の灰色をベースに、上から用途が不明と称されている白いクレヨンを重ねて、独特のタッチでもって見事に風景を再現している。
「うーん……」
 唸り声を上げながら絵を見ている栞。
 そんな彼女から発せられるであろう感想を、澪は緊張と期待に満ちた表情で待っている。
「とっても良く描けてますけど、もう一歩です」
 栞の言葉を聞いて、澪は溜め息を付き表情を曇らせる。
「あ、別に澪さんは上手だと思いますよ。でも……そうですね、もっと個性を前面に押し出すと良いと思います。あ、一枚貰って良いですか?」
 栞の言葉に澪は頷いた。
「ありがとう。よいしょっと……」
 栞は澪の横に腰を下ろすと、手にしていたアイスの入っているビニール袋を隣に積もっている雪の中へと押し込む。
 スケッチの新しいページをめくると、澪からクレヨンを受け取り真っ白な紙面にクレヨンを走らせた。
 最初は興味深そうな表情で見ていた澪の表情が、その絵が進むに連れて困惑の表情へと変わり、完成に近づくにつれて怯えへと変化していった。
「ふー、出来ましたーっ! 我ながら素晴らしい出来です。正にアバンギャルドの具現、現代のピカソ、未来の日本画壇を担う美坂栞、その若き日の一品! いい仕事してますねー」
 もし澪が喋れたならば、台詞の節々で色々と突っ込みを入れただろう。
 だがそれが出来ない彼女は、涙を浮かべながら頭を横に振る事で栞の言葉を否定した。
「あれ澪さんどうしたんですか? 寒いのかな? もう陽も傾いてきましたし、帰った方が良いかもしれませんよ。それじゃ頑張って下さいね」
 自覚も悪意も持たない栞は、隣で震えている澪に微笑みながらスケッチを手渡すと、アイスを持って公園を後にした。
 栞の姿が消えた後、澪はスケッチブックの中のページを一枚破り、そのまま小走りでゴミ箱へと直行した。





§






 祐一が真琴を伴って水瀬家を出たのは間もなく夕刻に差し掛かる頃だった。
「何だこれは?」
 秋子から頼まれた買い物に出かけたわけだが、家を出てまず最初に目に付いたポスターを見て立ち止まった。
 昨日は家から出ておらず、初めて外の様子を目の当たりにした祐一にとって、目の前の光景は異常だった。
「どうしたの祐一?」
 既に見慣れているらしい真琴が、足を止めた祐一に声をかける。
「いや……少し頭が痛い」
 民家の壁に乱雑に貼ってあるポスターには、祐一の知らない女生徒の顔写真が載っている。
 右翼だってここまではしないだろう――祐一の正直な感想だった。
「警察もよく黙ってるな」
「もう、そんなことより祐一っ早く行こうよ。約束約束〜肉まん肉まん〜漫画ぼ〜ん♪ み〜んなみ〜んな祐一のお・ご・り〜♪」
 立ち止まったまま呟いている祐一の手を引っ張って真琴が走り始める。
 真琴は昨日の約束を果たしてもらえる事が嬉しくて仕方がないらしく、奇妙な歌を口ずさみながら祐一を引っ張る。
「ちょ、ちょっと待てって」
 祐一は慌てて真琴に合わせて走り出す。
 しばらくしてペースを緩めた二人は、手を繋いだまま並んで商店街への道を進む。
 繋いだ手を大きく振りながら歩く真琴と祐一の姿は、児童と引率者の様な雰囲気で何処か微笑ましい。
 だが、ご機嫌な真琴とは対照的に、祐一の方は難しい表情を浮かべて周囲を見回している。
「おいおい、里村までもがこんな調子かよ?」
 今回の騒ぎには程遠いと思われていたクラスメートのポスターを見て祐一は愕然とする。
「一体何がどうなってるんだ?」
「もう! 祐一早く行こうよ」
 またもや立ち止まった祐一に、苛立つ真琴が袖を引っ張って催促する。
「ああ……ん?」
 商店街近くまで来た時、祐一の耳にどこからか声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「なぁ真琴、何か聞こえないか?」
「あ……なんだろう。近づいて来るね」
 立ち止まって耳を澄ませると、何やら叫び声の様なものが聞こえてくる。
 そしてその声の元が近づいて来るのだろう、次第に大きくなってきた。
「何だ?」
「何か喋ってるね」
 近づいてくる声に首を傾げる真琴の横で、祐一は近づいてくる一台の車を視界に捉えていた。
「あれ、選挙なんかあったかな?」
 呆然としている祐一達の方へ向かって、選挙活動で使う様な白いワゴン――街宣車がやってくる。
 このやかましい声はその車から発せられている様だ。
 そしてその声がはっきりと祐一の耳に届く。
『七瀬留美〜ミス学園候補の七瀬留美を宜しく〜』
「んな馬鹿な〜っ!?」
 スピーカーから発せられるアナウンスに驚いて祐一は姿勢を崩す。
 ワゴン車は祐一達の前まで来ると急停車をした。
 そのワゴン車には、目一杯七瀬の顔写真が貼られており、屋根の看板(?)の部分には力強い書体で『萌える闘魂!七瀬留美』と大きく書かれている。
「……」
 呆れて声も出せない祐一はその場で立ち竦む。
「よぉ相沢じゃないか?」
 助手席の窓が開き、茫然自失の祐一に声が掛けられた。
「み、南森……お前何やってるんだ?」
 級友の声に気が付くと、祐一は震える手で指さしながら応じる。
「あぅ」
 人見知りの激しい真琴は、すぐさま祐一の背中に隠れると、ちょこんと顔を出して成り行きを見守っている。
「何って……見れば判るだろ? 何せ本選までもう日がないからな。限られた時間の中で全校生徒、いや街中の人々に七瀬さんの愛らしさを知らしめるにはこれが手っ取り早いと思ってさ」
「手っ取り早いって……お前、選挙じゃ無いんだぞ? たかが校内のイベントに街宣車持ち出し」
『こちら二号車、本日の任務を終了し帰投する』
 祐一の言葉を遮るように、車内の無線に連絡が入る。
「一号了解」
 当然の様に南森が無線のマイクを手に取って短く応じる。
「ちょっと待てぇぇっ! 今の声……まさか中崎もグルになってやってんのか? それに二号って……二台も街宣車使ってるのかよ」
 無線を通して聞こえてきた馴染みのある声に、祐一は思わず声を上げた。
「まあな、んで相沢よ」
 祐一の狼狽えぶり――祐一としては呆れているのだが――を見て、南森は自慢げに笑ってみせる。
「なんだ?」
「倉田先輩や川澄先輩には負けないぜ。じゃあな〜」
 南森はそう言うと、運転手に発進を促し車を発進させ颯爽と去っていった。
「ねぇ祐一、なんなのあれ?」
 いつの間にか祐一の横に立っていた真琴が、走り去ってゆく車を見ながら尋ねる。
「……さぁ?」
 祐一が半ば上の空で答えると、車が去っていった方向から『七瀬〜七瀬留美を宜しく〜』というアナウンスと、その声に驚き威嚇する犬の遠吠えが聞こえてきた。
「頭が痛くなってきた……」
「祐一大丈夫?」
 周囲の変貌ぶりに頭を抱える祐一に、真琴は少し心配そうな表情で声をかける。
「あれが我々の敵だ」
「うひゃぁっ!」
「きゃっ!」
 背後から突然声がかかり二人が素っ頓狂な声を上げて飛び退く。
「く、久瀬!」
 祐一は慌てて振り向いたその先――民家のブロック塀の上に腕組みをしたまま立っていた人物を見て声を上げた。
 驚き呆れて固まった祐一の眼前に降り立つと、久瀬は走り去っていった南森の街宣車を見つめて「全く忌々しい」と呟いた。
 真琴はといえば、再び祐一の背に隠れて、「うーっ」と威嚇しつつ精一杯目をつり上げて睨んでいる。
 余程驚いたのか、目尻には涙が浮かんでいる。
「見たか相沢よ。小賢しくもあのような鼻くそみたいな連中が結託し、ああして我々の偶像を陥れんと画策しているのだ。全く愚かだと思わないか?」
「あのなぁ」
「まぁ所詮は小物共だ。連んだところで僕の敵では無いがな。くっくっくっく……この僕が支援をするパーフェクトオブビューティー倉田さんに敵うはずがないのだ。そもそも倉田さんと同列に並ぼうとする事だけでも無駄であろうに、よりによって彼女に挑むなど全くもって無謀極まりない。いやそれはもはや罪ですらある! 罪人にはそれ相応の罰が必要であり……」
「お〜い」
 一人悦に浸っている久瀬に、どう対処するべきか決めあぐねていた祐一の袖が「ちょいちょい」と引っ張られる。
「何なのコイツ? ねぇ祐一行こうよ」
「そうだな……これ以上関わっても時間の無駄っぽいしな」
 一人熱弁を振るう久瀬を置いて祐一と真琴はその場から立ち去った。
「……という訳だ。さぁ相沢よ、今ならまだ間に合う。僕と手を組め! 共に美の具現者たる倉田さんの素晴らしさを世に伝えようではないか。ミス学園は誰なのか? その様な問いかけ自体が無駄だった事を証明するんだ! さぁ僕の手を取れ、そして跪き懇願しろっ! 『お願いします一緒に闘わせて下さい』となぁ。ならば君を僕の運営する倉田さん非公認ファン倶楽部『さゆりっこ☆くらぶ』の末席に加えてやろう……って? 相沢の奴め何処へ行った?」
 独り残された久瀬に、十二月の冷たい風が容赦なく吹き付けた。





§





 カラスが鳴きながら夕焼け空を羽ばたいている。
「名雪せんぱーいお疲れ様でしたーっ!」
「部長、さようならー」
「うん。お疲れ。みんな気を付けてね」
 後輩達が口々に挨拶を述べて去って行くと、名雪は茜色に染まった街路を一人で進む。
 自宅への途上、民家の塀や電信柱に貼ってあるポスターを見て、自分自身の置かれている立場に改めて驚く。
 何処をみても市長選挙など比較にならない程、あちこちに女生徒達のポスターが貼ってある。
「何だか……すごい。あ、これ里村さんだ」
 幾つかのポスターの中に、クラスメートのそれを見つけ、素直に感心した様に呟いた。
『祐一さんはね、名雪が選ばれるんじゃないかって心配してるのよ』
 昨夜の母親の言葉が脳裏に蘇る。
 目の前に貼ってあるクラスメートの愁いを帯びた物静かな表情と、思い浮かべた自分の顔を比べてみる。
「私……本当にいけてるのかな?」
 ゆっくりと歩き始めて名雪は考える。
(私の気持ちは何処を向いてるんだろう……)
 そう自問して思い出してみると、確かに以前は幼き日に別れた従兄弟へと向いていたはずだった。
 六年ぶりに再会した従兄弟は、彼女の想像以上に男らしく、そして優しくなっており、程なく彼女の中でかつて抱いていた感情が再び蘇った。
 だが祐一はその優しさが故に、大昔に結んだ約束を放って置くことは出来なかった。
 彼に恋人と呼べる存在が出来たと聞かされた時、名雪は心の中で何かが壊れる感覚を味わった事も覚えている。
 しかし名雪は何も変わらなかった。
 変えなかった訳ではない、変える事が出来なかったのだ。
 それが彼女の優しさが故にと言えば聞こえは良いが、要するに勇気が無かったのかもしれない。
『待っているだけじゃ駄目』
 確か先月の学園祭準備で忙殺されていた時だろうか? 七瀬がそう言ったのを朧気に覚えている。
 もしかしたら、それは夢の中の出来事だったのかもしれないが、それが七瀬の言葉だという事だけははっきり覚えている。
 だが、その言葉を何時何処で聞いたのか? 僅か一月前の出来事だというのに、名雪はそれ以外の事をはっきりと思い出す事が出来ずにいる。
「いつも寝てるからかな……」
 名雪は自嘲気味に笑いながら呟く。
 しかしその七瀬の言葉の前後辺りから、名雪の心情に変化が現れていた。
 夢の一言では片づけられ無いリアリティ溢れる世界で共に生活し、その中で名雪は七瀬に惹かれていった。
 現実と夢を混同する事は出来ないが、それでも彼女は確かに、その中で七瀬に惹かれ、目が覚めた後で七瀬の前に立った時に覚えた感覚は、紛れもない現実の物だった。
 それ以来、名雪は悩んでいる。
 従兄弟との再会からもうすぐ一年。
 見た感じ変わった様子が無い名雪だが、その一年間で心の中には明らかに変化が起きていた。
「待ってるだけじゃ駄目……か。私が優勝できたら……あの人は振り向いてくれるのかな?」
 自問自答しながら名雪は家路を歩く。
「でも、あの人って誰だろう……」
 立ち止まって空を見上げる。
 カラスが数羽、鳴きながら夕陽へ向かって飛んでいくのが見えた。
「……ふぅ」
 視線を戻して大きく息を吐き出すと、名雪は再び歩き出した。
 自然と足が向いた商店街は――その中の全ての街灯やポールに、コンテストのタペストリーが吊り下がっており、すっかりお祭りムードが漂っていた。
 全ての商店の軒先に告知ポスターが貼られており、人々の関心を必要以上に煽っている。
「うわ〜昨日よりも派手になってるよー」
 そんな中を感心しながら進む名雪に、幾度か顔なじみの商店から声を掛けられる。
 幼少の頃から秋子と買い物に訪れている名雪にとっては、商店街の人々にも知り合いは多い。
 適度に受け答えつつ進むと、やがて百花屋の前に辿り着く。
 名雪は足を止めて鞄から取り出した財布の中身を確認する。
「う〜ん……もう晩ご飯も近いし、やめておいた方が良いよね」
 誰に言うでも無く一人呟く。
 言うまでもなく、彼女の大好物”イチゴサンデー”を食べるか否か? を脳内で決議しているわけだが、現時刻、所持金、銀行残高、体重、摂取カロリー、晩ご飯、世間体、等様々なデータを用いて解答を出すまでに要した時間は一四五秒。
 二分以上も立ち止まってやっと「今日は我慢」――と決め帰路の一歩を再開したところで、名雪の前に顔馴染みが姿を現した。
「南君?」
 級友の名を呼んで、名雪は再び立ち止まる。
「あ、水瀬さん……は部活だね。お疲れさま」
 制服姿の名雪を見て南が応じる。
「うん、南君は買い物?」
「え? そ、そうなんだ、買い物だよ。いや本当。ちょっと頼まれちゃってさ。あはははは」
 引きつった笑いと共に、南はその手に持っていたペーパーバックを背中へ隠した。
 明らかに怪しい態度であるが、名雪はその事には一切触れずに適当な世間話をしただけで会話を切り上げた。
「それじゃまた明日ね」
「あ、ああ」
 にっこり微笑む名雪に、南は慌てて笑顔を取り繕って応じた。
 ぎこちない南に手を振って別れると、名雪は今度こそ家へ向かって歩き始めた。
 商店街の人から声が掛けられているのだろう、時折会釈や手を振りながら小さくなって行くその後ろ姿に、南は深く溜め息をつく。
「はぁ……水瀬さんっていい子だよな。斉藤が熱を上げるのも何となく判るよ」
 名雪の背を見送った南は、級友の斉藤が彼女と同居している祐一に恨みを募らせている事を思い出し苦笑する。
「俺は……誰を応援すればいいんだろうか?」
 自分に向かってそう呟くと、真っ先に浮かんだ茜(と詩子)の姿に頭を激しく振って追い払う。
 南は特に茜が嫌いなわけでは無いが、詩子により被っている数々の迷惑は、その宿主である茜のイメージにもマイナスな影響を及ぼしていた。
 やがて頭に一人の女生徒の姿が浮かんでくる。
 その女生徒はハンデを抱える小さな身体ながらも、いつも元気で明るく周囲の人々に笑顔を振りまいている。
 きっかけははっきりと覚えていないが、南の中で彼女に対する想い――愛情とまではいかないにせよ、傍目にも伝わる彼女の奮闘ぶりに惹かれている事は確かだった。
「やっぱり澪ちゃんかなぁ」
 ポツリと呟く南に、背後から突然声がかかる。
「やっほー沢口クーン」
 突然掛けられた声に、南は身体を硬直させて驚き、首だけを声のする方向へゆっくりと動かす。
「や、やぁ柚木さん」
 南がぎこちない笑顔で応じると、路地から現れた詩子はにっこりと微笑んで近づいて来た。
「あれ、どうしたの? そんな固まって」
「別に何でもないよ」
 いつもなら『俺は南だ』とお決まりの台詞で反論するはずの彼の態度に詩子は訝しむ。
「ふーん……で、澪ちゃんがどうしたの?」
「な、何でもありまっせん!」
 声を荒げて誤魔化す南を見て、詩子は口元を歪めて微笑む。
「な、何?」
「ううん別に〜ぃ。ところで首尾はどう?」
「えっと、まぁぼちぼちって感じかと……」
「えーっ何よそれ〜。あなた真面目にやってる? 」
「やってるよ。ほら……」
 そう答えて手にしたペーパーバッグを差し出して見せる。
 その中身は言うまでもなく、里村茜のポスターだ。
「……ねぇ沢口君?」
「いや、だからさ、俺の名前は南なんだけど……」
「あら? さっきは気にしなかったじゃない。それにそんな些細な事どうでも良いわ。それよりも……」
「な、何でしょう?」
「頑張ってね。茜の勝利は貴方の腕にかかってるのっ!」
「はぁ」
「何よ〜気が乗ってないわね。それじゃ茜が最終的にミス学園に選ばれたら、もの凄〜〜いお礼してあげるからさ、頑張ってん」
「もの凄い?」
「そう。もの凄〜〜いお礼よ」
 この時南の頭に浮かんでいたのは、『お礼参り』という単語だった。
「遠慮します」
「うそ! 何で? この詩子さんが凄いお礼するって言うのに……あたしってそんな魅力ない? そりゃ確かに胸は小さいけど……沢口君が気にかけてる澪ちゃんと比べても小さいけどさ……こう見えてもあたしってウチの学校じゃ結構人気あるんだよ?」
「いや〜ほら〜えっと」
 南は顔を赤くして声を詰まらせる。
「ふーん……それじゃさぁ」
 そう言うと、妖しい笑いを浮かべて南の耳元へ口を寄せ呟いた。
「澪ちゃんとの仲取り持ってあげるよ。ふふっ」
「うわっ! ななななななななな、何するんだよ!」
 耳にかかる吐息と、その内容に南は顔を真っ赤にして飛び退き、そのまま身を翻して走り出す。
「それじゃ頑張ってね〜」
 詩子の明るい声が背中に投げかけられる。
 その声に南は自分の気の弱さを呪うと同時に、次の席替えで茜との席が遠くなる事だけを切望しながら走った。
「うーん、やっぱり沢口君だけじゃ頼りないかなぁ〜」
 逃げるように走り去って行く南の背中を見送って、詩子は腕組みをしたまま首を捻る。
「ま、いっか。沢口君にはこのままポスター貼ってもらって、後は委員会からの情報を流して貰えるだけで十分としましょう。うん」
 自分にそう言い聞かせると、詩子も歩き始める。
「茜を一番にするって決めた以上、あたしはやるわ。親友の珍しい頼みだもんね。悪魔に魂を売ったとしても……んふふふふふふふふ〜ん♪」
 鼻歌を口ずさみながら、詩子が茜色に染まった商店街の人混みの中へ消えて行く。







§






 年代物の灯油ストーブに載せられているこれまた年代物のヤカンから立ち上る蒸気が、シュッシュッと音を立てている。
 飾り気の少ない狭い部屋の中、ちゃぶ台を間に挟むようにして佐祐理と舞が座って手を動かしている。
 佐祐理はこの週末ずっと舞の部屋に泊まり込み、二人は黙々と何かを作る作業を進めていた。
 さぞ単調な作業に退屈しているかと思いきや、舞の仏頂面にも何処か現状を楽しんでいる様な雰囲気が見て取れる。
 佐祐理については言うまでもないだろう。
「舞ーっ、そっちはどう?」
 佐祐理の楽しげな声が静かな部屋に響く。
「……概ね出来た」
 舞はいつもの様に素っ気ない返事を返すが、その少ない言葉の中に歓喜のニュアンスが含まれている事を佐祐理は気付いている。
「どれどれ……」
 親友の答えに、佐祐理は自分の作業の手を休めて身を乗り出す。
「は〜、舞って裁縫上手なんだね」
 彼女が差し出した物を見て、感心した様に言葉を洩らすと、舞は照れくさそうに頬を赤らめる。
「……」
「これなら舞はきっと素敵なお嫁さんになれるねー」
 裁縫の得手不得手が良妻の判定そのものに繋がるかどうかは微妙であるが、佐祐理としては大まじめな見解として、照れている親友を含み笑いで褒め称える。
「……!」
 鈍感な舞と言えども、佐祐理の笑みに隠された真意をくみ取る事は容易であり、頬を一層赤らめると多少手加減をしたチョップを佐祐理の脳天へ落とす。
「痛いよ〜舞〜あははー」
 甘んじて親友のチョップを受ける佐祐理は、心底楽しそうにはしゃいでいた。
 そんな佐祐理の態度に、舞は余計に恥ずかしさが広がって行く。
「……佐祐理の方は?」
 暫くしてチョップの手を収めた舞が佐祐理に尋ねる。
「うーんと、五十枚くらいは出来たけど……もう五十枚くらいは作った方が良いかな?」
「……そう。じゃあこっちが終わったら私も手伝う」
 ややあって答える舞に、佐祐理はにっこりと微笑んで頷いた。
「うん有り難う。それじゃもう一踏ん張りがんばろうね」
「……」
 舞が黙って頷き作業へと戻ると、部屋は再びヤカンが蒸気を吐き出す音しか聞こえなくなった。





§







 夕陽が街を茜色に染め上げた頃、雪見はみさきの手を引いて駅前へと向かって歩いていた。
 以前は雪見が誘っても、決して首を縦に振らずに外へ出る事が無かったみさきだが、学園祭以降は自分からこうして外出を志願する事が多くなった。
 当然、エスコート役が必要であり、その役目は例外なく雪見の元へ回ってくる。
 その誘い――というか要請は、雪見の都合はお構いなしに訪れるが、雪見にとってもみさきが外へ出て行こうとする気持ちは、とても喜ばしい事なので、彼女は余程の事が無い限りみさきの外出に付き合う事を優先していた。
 そんな訳で、雪見は今日も突然『外に行きたい』と連絡をよこしたみさきの願いを聞き入れ、こうして彼女の手を引いて街の中を歩いている。
 外界へ積極的に出て行こうと思う程に心が強くなったみさきではあるが、それで彼女の本質が変わった訳ではなく、彼女に対する雪見の態度も変わる事はない。
 であるから――
「ねぇ雪ちゃん」
 と真剣な表情で親友の名を呼び止めても、続く言葉は――
「今日の晩ご飯って何かな?」
 という具合になる。
 雪見は親友の言葉にこめかみを抑え、思わず立ち止まった。
「わっ。いきなり止まらないでよ」
 手を引いてもらっていたみさきが、牽引者の突然停止に声を上げて抗議する。
「みさきの所為でしょう!」
 往来である事もわすれて、雪見は声を張り上げそして親友のおでこに、かるく拳骨を当てる。
「痛っ! 雪ちゃん酷いよ〜」
「あんたの頭は頑丈なんだから、この程度じゃびくともしないわよ。それにせっかく外に出てるんだからもっと他の話題を言いなさいよ。まったく……みさきの脳には食べることしかないの? さっき喫茶店でケーキ食べたばかりじゃない」
「え〜、他にもいっぱいあるよ」
「どうせ寝ることくらいでしょ?」
「雪ちゃん酷いよ……確かに眠るの好きだけど他のことも考えてるよ。雪ちゃんの事とか、浩平君の事とかも……あ」
 自分の失言に気が付いたのか、みさきが自らの手で口を塞ぐ。
「へっへっへ〜聞いたわよ〜。そっかー折原君の事をねぇ〜うんうん」
 含み笑いと共に耳元で囁かれた親友の言葉に、みさきは顔を赤らめて照れる。
「もう、雪ちゃん嫌い!」
 頬を膨らませて怒ると、みさきは雪見の手を振りほどいて歩き始める。
 無論その足取りはたどたどしい。
「ごめんごめん」
 慌てて誤って、みさきの腕を掴むと「ほら、雪が積もってるんだから……危ないわよ」とことさら優しい口調で注意を促す。
「ぶーっ」
 みさきは頬を膨らませたままそっぽを向き、雪見に引っ張られるようにして道を進む。
「でもねみさき……」
「なーに?」
 まだ少し怒気が残ったままの口調でみさきが応じる。
「わたしの事も考えてくれてるのは嬉しかったわよ」
 多少の照れを含ませて言う雪見。
 もしもみさきの目が見えたのなら、雪見のとっても穏やかな笑顔を見ることができただろう。
 だが、そんな雪見の気持ちは、手から伝わる温もりと共にみさきへと通じていた。
「うん」
 頷くみさきの口調に、怒気は含まれていなかった。
「それからっ!」
「え、何?」
 突然握る手の力を強め立ち止まり口調を改めた雪見に、みさきは驚いて身を竦める。
「あなたが人を好きになる事は悪いとは思わない。むしろ良いことだと思うわ。でも折原君は……」
 雪見はその先に続く言葉を飲み込んだ。
「うん判ってるよ。浩平君には瑞佳ちゃんが居るもんね。でもわたしが好きって気持ちは変わらないから……その気持ちを大切にしたいから、今はそれで良いんだよ。うん、わたしはそれで良いの」
「みさき……」
 自分に言い聞かせる様に繰り返すみさきに、雪見はかける言葉が瞬時に思い浮かばず、ただ握っている手に少しだけ力を加えた。
「さてっ、それじゃこれからどうする? もうすぐ陽が暮れるけど……わたしがみさきに服でも見立ててあげよっか?」
 再びみさきの手を引いてゆっくりと歩き出すと、雪見は空を少し見上げて話しかけた。
「う〜んとねぇ……ハン」
「ハンバーガーが食べたいって言ったらこの場に置いて行くわよ?」
 雪見はみさきの言葉をきつい口調で遮った。
「……ハンガリー製の枕が欲しい……かな?」
「上手く誤魔化したわね。でもハンガリーって何処にあるか知ってるの?」
「よく知らないけど、何だか国民全員がお腹減ってそうなイメージない?」
「結局、貴方には食欲と睡眠欲しか無いのね……あら?」
 親友の言葉に頭を痛めていると、目の前の路地から黒いコートにサングラス、そしてマスクと帽子という格好の男が一人、コソコソとした動きで出てきた。
「ん? 雪ちゃんどうしたの?」
「しっ! ちょっと黙ってて」
 みさきの耳元で囁くと、雪見は彼女を引っ張り込むようにして電柱の影に隠れる。
 如何にも怪しげな格好をした男は、重たそうなバックを持ってしきりに周囲の様子を伺っている。
「何かしら……」
「ねぇ雪ちゃ〜ん。何があったの?」
「静かに!」
「むぐっ」
 みさきの問いかけを無視して、雪見はみさきの口を手で塞ぐ。
 その間に、怪しい出で立ちの男は、バックの中から一枚のポスターを取り出すと民家の壁に張り付けた。
「天野美汐……誰かしら?」
 ポスターに写っている文字を読んで雪見が呟く。
 雪見にとって面識が無い娘だったが、写真を見る限りどうも一年生の女生徒らしい。
 男は一度貼ったポスターを一歩下がった所で腕組みをしつつ見つめ直し、「う〜ん」と首を捻るとポスターの角度を調整して張り直した。
 随分几帳面というか神経質な性格らしい。
 微調整を済ませたポスターを見て満足げに頷くと、男はバッグを手に取り歩き出した。
 と、その時――
「待てぃっ!」
 周囲に突如声が響き渡る。
 マスク男と雪見は驚き身を竦めて辺りを見回すが、声の主は見あたらない。
「街の美観を損ねるだけでは飽きたらず、己が偶像を一方的に大衆へ押し付けんとするその暴挙。恥を知れ恥を!」
 再び声。
「な、何者だっ?! 何処に居る、姿を見せろっ!」
 マスクをずらして男が叫び声を上げる。
「オレは此処だっ! 此処に居るっ!」
 上の方から聞こえてきたその声に、男が顔を上げると――これまた怪しい風貌の男が電信柱にしがみつくようにして見下ろしていた。
「……な、なによあれ?」
 台詞の格好良さとは裏腹に、コアラの様に電信柱にしがみついていた男を見て雪見は思わず姿勢を崩した。
「貴様はぁぁぁぁっ!」
 しかしマスク男の方は驚きの声を上げたじろいでいる。
 マスク男のリアクションに満足したのか、電信柱にしがみついていた男は「とぉっ!」と声を上げて飛び降りた。
 だが、降りた道路は積もった雪がアイスバーンとなっている場所であり、見事に足を滑らせすっ転んだ。
「っててて……なんのこれしき! オレは美坂が優勝トロフィーを持って微笑むその日まで死ぬ事は許されないんだっ! 生きろオレ!」
 唖然とするマスク男の前で、よろよろと立ち上がる電柱男。
 新たに現れた男は、目の部分をくりぬいた赤い鉢巻きを顔に巻いている。
 それで、その正体を隠しているつもりの様だが、校内でも有名なアンテナヘアがその正体を雄弁に語っている。
「あ、北川君の声だ」
 雪見の手を振りほどいたみさきが男の声を聞いて呟き、雪見も小さく「そうね」と同意した。
「き、貴様は、美坂香里優勝推進委員会会長北川かっ!」
 マスク男の方も正体に気づき、その名を叫ぶ。
「おぅよ! 美坂の、美坂による、美坂の為のコンテストを守る為、オレは敢えて修羅となる……って、貴様〜っオレの正体を見破ったのか?!」
 どうやら本人は、あのちゃちな変装で正体を誤魔化していたつもりらしい。
 北風が二人の間を通り抜けて行く。
「……馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは思っていなかったぞ」
「ならば仕方がない……地獄の蓋を開けてしまった事を後悔するんだな」
 そう言って男は鉢巻きを外し、その素顔をさらけ出す。
 予想通り北川だった。
「んで? 俺に何か用か?」
「貴様、見たところその娘を支援している様子」
 北川が立った今壁に貼られたポスターに向かって顎をしゃくる。
「当然」
「ならばオレの敵だ。敵である以上オレはお前を見逃すわけにはいかない。手を引け」
「笑止! お前に俺の活動を阻害する権利もなければ、俺が貴様に背を向ける理由もない!」
「確かに……だが戦ったところで残るのは虚しさだけだ。それに誰もタダで退けとは言っていない」
「買収かよっ?! しかもうまい棒?」
 男は叫んで差し出されたうまい棒を叩いて落とす。
「……なんなの?」
 電柱の影で雪見がそっと呆れた声を出す。
 台詞は格好良いのだが、どうにも間抜けな展開だ。
 雪見が呆れた視線を向ける先で、再び北川がその口をひらく。
「勘違いするな。俺は血を見るのが嫌いなだけだ。出来ることなら無益な血は流したくない。買収で流血が防げるのなら……俺が汚れ役に徹する事で美坂の勝利が勝ち取れるなら俺は喜んでこの身を捧げる! 判ったか? ならこの場は退け」
「ほぅ〜……そんな恫喝でこの俺が退くとでも思ったか? 命を張ってるのがお前だけだと思ったら大間違いだ。我らが『天野美汐』こそミス学園に相応しき存在。雌伏十年……やっと開いた華だ。この機を逃すわけにはいかない」
 二人が共に解き放った殺気によって間の空間がグニャっと歪み始める。
「十年って……貴方何年高校生やってるのよっ!」
 漂い始めた緊張感を無視して、雪見が小声で怒鳴り足を踏みならす。
「雪ちゃん……ツッコミたいんだね」
 握りしめた手を震わせている事に気が付いたみさきが囁く。
「お陰様でね」
 みさきとの長い付き合いで培われたツッコミ衝動が、雪見を駆り立てている。
「……ふっ。お前が十年なら、俺は二十年待ったぞ!」
 北川の台詞に雪見は滑りそうになった。
「貴方まだ十七歳でしょ!」
 小声で叫ぶも、雪見はもう限界だった。
 目の前で展開する非常識。
「うわ〜すごいよ雪ちゃん、北川君ってわたし達より先輩だったんだね。留年してるのかな?」
 そしてみさきも含めて彼女の周囲にはボケ役しか居なかった。
 誰かが止めなければ、永遠に不毛な掛け合いが続く。
「貴方達何やってるのよ!」
 雪見はみさきの手を引いて電柱の影から出る。
 二人の存在に気が付いた北川が振り返る。
「あれ? 川名さんと深山さんじゃないっすか?」
「ふん。邪魔が入ったか……気が削がれたんでこの場は退こう。だが覚えていろよ北川、貴様にはこれでもかっていう程、我らが天野美汐後援会『ミッシングリング』の恐ろしさを思い知らせてやる!」
 そう言い残すと男はコートを翻してその場を去っていった。
「何なのよあれ?」
 小さくなる男の背中を見て雪見が尋ねる。
「さぁ? とにかくオレの敵である事には違いないっすね。ところで深山さん、どうしたんですかこんな所で?」
「あ、あはははは。いや、偶然通りがかったら何だか大変そうだから……で、北川君こそこんなところで何してたの?」
 誤魔化すように笑いながら雪見が尋ねると、北川は少し難しい顔をして少し考えてから答える。
「いや〜実はですね、オレは今とある極秘作戦を実行中でして、もっとも今さっきは敵と遭遇したんで思わず戦闘に入っちゃいましたが……でも先輩達のお陰で無駄な争いを回避する事が出来ました。感謝っす」
 そこまで述べて北川が頭を下げる。
「極秘作戦って?」
「ああ、その詳細は例え美坂の先輩であっても教える訳にはいかないんですよ」
「そ、そう。それは大変ねぇ……」
「ねぇ北川君、大変ならわたし手伝ってあげるよ?」
「いや、川名さんの申し出は有り難いんすけどね、オレのミッションは美坂の優勝を阻害する恐れのある人物の悪評を高めるべく怪文書をバラまくという過酷なものですんで、川名さんにはちょっと辛いかな〜って思うんですよ」
「……は?」
 北川の歯に衣を着せぬ答えに、雪見は言葉を失い呆けた表情を浮かべる。
「へー……大変なんだね」
「そうじゃないでしょ!」
 心底感心しているらしいみさきの対応に、雪見は気を取り直すと即座に反応した。
「北川君! まさかその怪文書ってみさきの分とか有るんじゃないでしょうね?」
「いや〜勿論バッチリ有りますよ!」
 雪見の問いかけに、北川は笑顔で答える。
 唖然とする雪見と、状況が掴めていないみさきの前で、電柱の横に置いてあった鞄をごそごそと漁り始める。
「えっと川名さんのは……っと」
 北川が鞄の中の紙束から差し出した一枚の紙を受け取ると、雪見は声に出して読み上げる。
「何々……『川名みさき(三年二組)が学食を壊滅させる! 先の学食緊急閉鎖騒ぎは食欲魔人の通り名で知られる川名みさきが、学食の全メニューを一人で消費した事が原因』……なんだ真実じゃない。怪文書でも何でもないわね。心配して損しちゃったわ」
 雪見の言葉を聞いたみさきが声を上げる。
「うーっひどいよー!」
 怒っている様だが、その原因は文書の内容より、親友の一言に対する物の様で、その矛先は北川でなく雪見へと向いている。
「あれは食堂が停電した所為だよ」
「あら? そうだったかしら? あははは」
 怪文書の内容が気に入ったのか、雪見は笑いながらみさきの抗議を受け流す。
「うーっ。ねぇ北川君。雪ちゃんのは無いの?」
 ふてくされたみさきが、北川へ問いかける。
「うふふふ。私のなんか有るはずないでしょ? あーおかしい」
「いやいや。深山さんのも有りますよ」
「え?」
 北川の言葉に雪見は笑みを固まらせる。
「えっと……ほらこれです」
 再び鞄を漁って取り出した紙を、雪見は素早く受け取ると、その紙面に目を走らせる。
「えっと……『深山雪見(三年二組)に許されぬ禁断の愛発覚!? 演劇部部長として有名な深山雪見に恋人が発覚。お相手は何と同級生の川名みさき。演劇部は美坂香里への一刻も早い政権交代を……』って、何よこれ!!」
 雪見は叫び声を上げると、手にしていた紙を握りつぶす。
「雪ちゃん……そうだったの? でもわたしは……」
「あんたは黙ってなさい! 北川君!」
 顔を赤らめるみさきを一喝すると、北川へ向き直る。
「はい?」
「貴方この文書をばらまく……って言ってたわよね? 具体的にはどうやってするつもりだったのかしら?」
「いや、それを先程思案中だったんですが、やっぱ高いところからバ〜ッと行くのが王道かと思ったんすよ。それで取り敢えず電柱にでも登ってみたんですけどね……って、深山さん?」
 北川の目の前で雪見は全身を震わせていた。
「ど、どうしたんすか?」
 北川がおずおずと手を差し出そうとした矢先、雪見は素早く北川の鞄を取り上げた。
「あ」
「これは没収します!」
「そ、そんな……酷ぇっすよ。オレそれを作るのに徹夜して、おまけにバイト代叩いたんですよ」
 食い下がる北川を雪見は睨み付ける。
 香里すら恐れる鬼部長としての気迫に、北川は抗議の言葉を飲み込んだ。
 その間、みさきは顔を赤らめたまま「え〜そうだったの? わたし困るよ〜」と一人小声で呟きながら身をくねらせていた。






§





「〜〜〜♪」
 駅に向かう道中、七瀬は終始上機嫌だった。
 前日以上に多い周囲の興味に満ちた視線――中崎と南森の宣伝活動の影響だろう――も気にならない程に上機嫌だった。
 強制的な形で始まったファッションショー――七瀬を用いた瑞佳の着せ替え遊び――だったが、結局のところ七瀬も楽しがっていた。
 結局あれこれと二人で色んな服装に身を包み、夕方近くになって瑞佳と別れるまで、色々な会話に話を咲かせた。
 思い人と過ごす時間がつまらないはずが無く、結果として七瀬はかつて無い程に上機嫌だった。
「ふんふんふん〜♪」
 そんな七瀬が駅にたどり着き、鼻歌を歌いながら自宅のあるとなり駅までの切符を買おうと小銭を入れていた所で、突然背後から何者かに抱きしめられる。
「きゃっ!」
「やけに上機嫌じゃない〜」
「え?」
 聞き覚えのある声に七瀬が振り返ると――
「は〜い七瀬」
 そこには悪戯っぽく笑う広瀬が居た。
「広瀬……って、あんた何やってんの?」
「あら判らないの? 七瀬に抱きついてるんだけど」
「だからどうしてわたしに抱きついてるのよっ! 離れなさーいっ!」
「あら〜」
 七瀬に振り解かれて、広瀬は残念そうに口をとがらす。
 周囲からはクスクスと笑い声が聞こえ、先程までの気分の良さは霧散し、かわって羞恥心と怒りが七瀬を支配する。
「で、何でこんなところにあんたが居るわけよ?」
「私だって休日に出かける事だってあるわよ。それよりも……何でそんなに機嫌がいいわけ?」
「べ、別に良いでしょ? わたしはもう帰るんだから」
「あ〜つれないんだ。仮にもクラスメートなんだからもう少し優しくしてよぉ」
「気色悪い声だすなーっ! それからどさくさに紛れて抱きつかないで!」
「何で? それじゃ長森とか水瀬なら良いわけ?」
「ななななななな、何でそうなるのよ!」
 広瀬の言葉を受けて七瀬は派手に狼狽える。
「ふふふっ、七瀬って面白いわ〜。本当、からかい甲斐があるわね」
「くっ……」
 ケラケラ笑う広瀬と周囲の視線に顔を紅潮させると、七瀬は広瀬に背を向けると小走りで改札へ向かった。
「七瀬バイバイ〜」
 広瀬のそんな声が聞こえたが、七瀬は無視してそのまま改札の向こう側へと姿を消した。
 彼女の姿が見えなくなると、振っていた手を止めて広瀬は溜め息をつく。
「おいおい広瀬、あんまり七瀬を苛めるなよ?」
「別に苛めてなんかいないわよ〜……奇遇ね折原」
 突然の声に、広瀬が振り向きながら答えると、その先に折原が立っていた。
「確かに学校の外で会うのは初めてか? 一年から一緒のクラスって割には珍しいかもな」
「そうね。で折原は何してるの?」
「ん? 七瀬の護衛」
「ははは。あの子に護衛なんか要るわけ?」
「んじゃ、七瀬の護衛を受けて此処まで来た。それでOKか?」
「そうね。ところで折原は忙しいんじゃないの?」
 広瀬がそう言って駅構内に張ってあるコンテストのポスターを指さす。
「まぁな。確かに忙しいが……彼奴等よりはまだマシかな?」
 折原が指さした方を向くと、いつの間にか現れた怪しげな一団が円陣を組んでいる。
「何あれ?」
「ん? どうやら誰かの支援組織らしいな」
「ふーん」
 広瀬の興味無さげな視線の先――周囲から向けられている視線も気にせず円陣を組んでいた男達が『我らが天野美汐の為にっ!』『応!』と声を上げ、そして解散していった。
「そういうお前だって他人事じゃないだろ?」
 視線を広瀬に戻した折原が言う。
「はっ、私みたいな可愛げのない女に票入れる馬鹿は居ないわ。知ってるのよ、五月くらいにクラスん中で似たような事やったでしょ?」
「……はは。何の事かな〜」
「誤魔化さなくても良いわよ。男子の間で回ってた結果発表のメモを私見ちゃったから」
「ちっ、斉藤め……」
 折原は広瀬の隣の席に座る者の名を呟いた。
「私の名前なんか無かったじゃん。だから今の騒ぎも私には無関係。まぁ授業が潰れるのも期待できそうだし、お祭り騒ぎは楽しいから喜んではいるわよ」
 不敵に笑う広瀬に、折原は苦笑を浮かべる。
「まぁ何だ。今回の件に関しては住井がメインでな……正直、俺にすら今後の展開は判らん」
「それで?」
「どうなるか判らないという事は、お前にも何が起こるか判らないとういう事だ」
「フォローしてるわけ?」
「違うな。本心を言ってるに過ぎない」
「そっ」
「ああ」
 折原が頷くと、しばし二人に静寂が訪れる。
「それじゃ私は行くわ。頑張ってね実行委員さん」
「おぅ。……あ、そうだ。あんまり七瀬を苛めるなよ?」
 投げかけられた言葉に、広瀬はゆっくり振り向くと――
「それは止められないわね。ふふっ」
 と笑顔で答えた。
 その表情に、かつて本気で陰湿な苛めをしていた頃とは異なる暖かみを感じて、折原もまた笑顔で答える。
「そうだな。ははっ」
 二人は顔を見合わせて笑うと、それぞれ向かうべき場所へと歩き始めた。





§





「というわけで、本日の会議です」
 姉の部屋に入るなり、栞はそう宣言した。
「ちょっと、今日も何かするの?」
 香里は半ば諦めにもにた表情でイスを回し振り返る。
「日々の地味な努力が人生で成功する秘訣なんですよ? あ、また勉強なんかして……こんな物はぼっしゅーとです」
 栞は姉の横へ素早く移動すると、香里が止める間を与えずに机上のノートを取り上げ、「ちゃら、ちゃちゃ、ちゃちゃん〜♪」歌を口ずさみながらノートをゴミ箱へと捨てた。
「あなたねぇ……」
 他人なら問答無用で鉄拳が出るところだが、重度の妹想いである香里は相手が栞である限り、この程度では怒りを露わにする事はない。
「さて私達美坂姉妹の野望は明日から本格的に始まるんですけれども……準備は完璧ですか?」
「準備って……あたしは何も、普段通りで登校するけど?」
「駄目ですっ! お姉ちゃんは何も判ってません」
 がしっと肩を掴んで力説する栞。
 その気迫に香里は圧される様に黙って頷いた。
「明日からは何時如何なる時も、その一挙一動に至るまで気を使う必要があるんです! 受験以上に人生がかかってるんですから他の全てをなげうってでも、明日明後日の二日間は完璧な女性を演じるんです。そして、ありとあらゆる事態に対処できるよう事前準備は完璧にすべきです!」
「でも栞? こういうものって有りのままの自分で選ばれる事が大事なんじゃ……」
「何を手ぬるい事言ってるんですか! 私なんか選ばれた時のスピーチや、あらゆるパターンを想定したインタビューの解答までも全て準備してあります!」
「す、凄いわね……昨夜机に向かって何をしているのかと思ったら、そんな事してたのね」
「当然です。勝つための努力を怠った時点でその人の負けは決まるんです。その辺りお姉ちゃんは未だに自覚が出来てないんですね。私は悲しいです」
「でも……」
「そうです、今からでも遅くはありません! お姉ちゃんもやれることはしっかりとやりましょう。まず、明日からは毎日お姉ちゃんは勝負下着で登校ですっ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何よそれ? 何でそんなもので行かないといけないわけ?」
「見えぬところでの地味な努力が、予想だにしない効果を生むんです! それに下着という見えない部分にまで気を使うという姿勢こそが、自分を新たなる高みへと導くんです」
「で、でもあたし、そんな勝負下着なんて……」
「持ってないなんて言わせません! 勝負云々はともかく普段よりもグレードの高い奴を身につける必要はあります! そうですね……不遇が重なって誰かに下着が見られたとしましょう」
「何よそれ」
 香里は顔を赤らめて口を挟むが、栞はそんな姉を無視する様に言葉を続けた。
「その時、お姉ちゃんがジャスコで購入した三枚一五〇〇円の『腰まで暖か〜なオバパンツ』なんて履いていたら一大事です。イメージダウンは必至ですし、最悪学校中の笑い者として伝説を残す事になるんです。それにお姉ちゃんの評判が落ちる事は、美坂のブランドが落ちる事を意味してるんです。私の可憐で清楚で儚げなイメージまでもが根底から崩れるんですよ? お姉ちゃんはそれでも良いんですか?」
「あのね栞、何もあたしは……」
「明日からの二日間が勝負なんです! とにかくどんな些細な事でも注意を怠ってはいけません。大切なのは影の努力です。お姉ちゃんは明日学校に行く途中で捨て猫を見つけます。さぁどうしますか?」
「それは可哀想だけど学校行く途中なら……」
「だーめーでーす! しゃがみ込んでその猫を胸に抱きしめ、そのまま学校をさぼってまでも貰い主を捜す……慈愛に満ちた態度で望む事。これが正解です。素通りなんかもってのほかです! お姉ちゃんの演技力は折り紙付きなんですから、その演技力も使って完璧超人を演ずるんです」
「……」
 学年主席でクラス委員、そして演劇部の中軸を担う香里も、愛する栞の前ではその面影は全く無い。
 何処までも妹馬鹿な姉は、狂気にも似た栞の剣幕に圧され、ただ頷く事しかできなかった。
「それから、明日からお姉ちゃんはスカートの丈を五cm程度上げて登校ですよ」
「い、嫌よそんなの……いくら栞の頼みでも……」
 只でさえ短い制服の丈を更に詰める勇気は持ち合わせていない。
「え〜でも、これって男子生徒の注目を集めるには一番手っ取り早いんですよ?」
「そ、それなら栞がやればいいじゃない」
「え? で、でもこの色気作戦はお姉ちゃんほどのプロポーションが必要なんですよ。悔しいですが私には出来ないんですっ! あははは」
「……栞」
 香里が睨むと、栞は笑ってその場を誤魔化した。
「え〜と、それじゃこの作戦は無しにして……。そうですね私が明日は特製弁当を作って持っていきますんで、皆さんに食べて貰う事にしましょう。お姉ちゃんはライバルになりそうな名雪さんや瑞佳さん、倉田先輩達を食事に誘う。良いですか?」
「それはいいけど。どうしたの急に?」
「こうなったら手段は選びません。弁当に私が調合した特製下剤を仕込みます。授業中トイレに駆け込む様な人達の支持率は急降下間違いなしです」
「栞……幾ら何でもそれはやり過ぎだと思うわよ」
「そんな事ありません! 良いですか、妥協すら許されぬ闘争の渦中に在って勝利以外に何の意味がありますか?! 勝利者のみに栄光の女神は微笑んでくれるんです。敗者は正義と共に去り、勝者は悪と共に喝采を浴びるんですっ!」
 栞の目の中で黒い炎が揺れている。
 香里は栞の迫力に圧されつつも、頭の片隅で妹が明らかに間違った方向へ進もうとしている事を認識していた。
 だが結局、その事に対する言葉が香里の口から発せられる事はなかった。





§






「うーん」
 机に肘を付いて頭を抱えて悩んでも、祐一に出来る事は唸り声を上げる事だけだった。
 想像以上の事態だった。
 まさか支援に街宣車までも持ち出す馬鹿が居るとは思ってもいなかった。
 新聞やテレビまでもが今回のイベントを煽っていたとは言え、これ程の事態に発展していようとは想像だにしていなかった。
「参った……」
 祐一は目を閉じて昼間の事を思い返す。
 街中に貼られた支援ポスター、お祭りムードの商店街、南森が使用していた街宣車……等々。
 更に考える――
 七瀬の支援を行っていた中崎と南森は、どちらかと言えばおとなしい部類に入る生徒だ。
 そんな彼らでさえあれだけの行動に出ているという事は、もしももっと過激なファンが居た場合はどうなる?
 そしてその者が彼ら以上の資金を有していたら?
 ――そこまで考えた祐一の脳裏に不安がよぎる。
「あの馬鹿会長……まさかとは思うが、とんでもない事やらかすわけじゃないだろうな」
 祐一は昼間にエンカウントしてしまった時の事を思い出す。
 久瀬を気味悪がった真琴に連れ出されていなかったら、祐一はあの場でとどめを刺すつもりだった。
 その事を思って祐一は激しく後悔していた。
 祐一の頭の中でマムシの姿をした久瀬が、佐祐理の身体に巻き付き、満身創痍の舞が必至に刀を振って助けようとしているイメージが浮かんだ。
「うぉぉぉぉっ!」
 祐一は涙を流しながら雄叫びを上げると、携帯電話を取り出し画面も見ないで素早くボタンを操作しメモリの中から佐祐理の携帯番号を引き出して通話ボタンを押した。
 尚、舞は携帯はおろか普通の電話すら持っていなかったりする。
 呼び出し音が数回鳴ってから電話が繋がる。
「あ、もしもし祐一さんですかー?」
「佐祐理さん!」
「どうしたんですか?」
「いや……すまん。ちょっと嫌な想像をしてしまったんだ。ところで佐祐理さん今忙しい?」
「そうですねー、それなりに忙しいですけど大丈夫ですよ。どうしたんですか?」
「えっと……」
 そこまで言って祐一は口ごもる。
 勢いで電話をかけたは良いが、何というべきだろうか?
「……祐一さん?」
 暫く黙ってしまった事で、佐祐理が心配そうに祐一の名を呼ぶ。
「あ、いや……その、舞なんだけどさ」
 苦し紛れに舞の名を出してみる。
「はぇ〜、舞の事ですか? ねぇ舞、祐一さんが用事だって」
「え? 今そこに居るの?」
 驚きの声を上げる祐一。
「はい。今佐祐理は舞の部屋に居るんですよー。ちょっと待って下さいね」
 そう言うと佐祐理の声が急速に遠くなる。
 恐らく携帯電話を舞に手渡しているのだろうが、電話越しに聞こえてくる佐祐理が舞をからかう声に、祐一思わず苦笑する。
「……」
 暫くしてそんな声も聞こえなくなり、無音状態が続く。
「?」
 一度携帯電話のディスプレイを確認するが、電波が途切れている訳ではない様だ。
 通話時間のカウントは一秒ずつ進んでいる。
「……舞?」
「……なに?」
 そっと声を掛けてみると、舞からの返答が間を置いて帰ってきた。
 微笑ましさに自然と笑みがこぼれ、祐一の気が楽になる。
「あのな舞、今回のコンテストの事なんだが……俺は」
「頑張るから」
「は?」
 珍しい舞のクイックレスポンスに、祐一は思わず言葉を失う。
「……もしも〜し、舞?」
「祐一、私と佐祐理は頑張る……準備は万端。任せて」
「ちょっと待て! お前今何って言った? 準備って何だ?」
 祐一が問いただそうとすると、奥の方から佐祐理の声が聞こえてきたかと思うと――電話の主が舞にとって変わった。
「あ、祐一さん。明日から佐祐理達は頑張りますよー」
「佐祐理さん? 明日って……一体?」
「ふふふっ、内緒でーす」
「え?」
「それじゃ祐一さん、佐祐理達は最後の準備が有りますので、失礼しますねー」
 そう言い残して回線は一方的に切断され、電子音だけが祐一の耳に残った。
 彼女達の言葉を今一度噛み締めながら祐一はその意味するところを考える。
「世間知らずで素直な二人の事だ、恐らくそのまんまの意味なんだろう。ということは……な、何をやる気なんだ? それに頑張るって……まさか、あの二人今回のコンテストに乗り気?」
 事ここに至り、自分の抵抗が全く意味をなさない事を、祐一は思い知った。
「ちょっと待てよ……」
 焦燥が祐一の中で渦を巻き、先程覚えた戦慄が蘇る。
 今回のお祭り騒ぎに乗り気で豊富な資金を持っている者――その最たる存在が、他ならぬ佐祐理だったのだ。
「うそ〜ん」
 思わぬ事実に祐一は力を失い、机にその身を委ねた。





§







「それでは……いえ大丈夫です。花輪に関しては当日会場へ運んでもらう手筈に……ええ」
 熱気がこもった部屋に男が一人、受話器に向かって話をしている。
 一連の騒動の中心人物――住井は、部屋に籠もって企画の煮詰めを行っていた。
 モニタをただひたすら見つめながらキーを素早く叩き、時には電卓にも手を伸ばしている。
 時折かかる電話には目を向ける事もなく、モニタを見つめたまま受話器を取り受け答えをしていた。
「はい、それじゃ中継はKTVの方にお願いする形で……ええ、投票権に付きましては……そうですね、明日改めて告知し直します。それから体育館のキャパは目一杯詰め込んで二千五百席ってところですかね。市民ホールを借りるって手も考えたんですが、趣旨が変わる事は避けたいですし……いえ、ですから中継映像を市内数カ所のライブモニタへ流す事を検討してます。
 はい、入場チケットに関しては生徒と教員、それにスポンサーに渡す分を考慮すると流せるのは多くても千枚くらいですね。無理して立ち見も許可するなら、もう二百枚くらいはどうにかなるかも。ええ勿論そのつもりですが。
 あ、はい、それでは失礼します」
 受話器を置くと住井は込み上げてくる笑いを抑えきれずに、身体を震わせながら背もたれに寄りかかる。
「あははははははっ! 俺様最高〜っ!」
 ひとしきり笑った後で、住井は灰皿の上に有った吸いかけの煙草を手にする。
 火を点けた直後の電話が鳴った為、殆ど吸っていなかったにも関わらず、その煙草は半分以上が灰となっていた。
 手にした煙草をくわえゆっくりと吸い込み、残り少ない部分をしっかりと味わう。
「ふぅ」
 肺に溜まった息を煙と共に吐き出し、小さくなった煙草をもみ消した。
 高校に入ってからというもの、とある理由で禁煙していた住井だが、今回の企画を煮詰め込む内、いつの間にか再び口にくわえていた。
「さてと……月曜日がこれ程までに待ち遠しく思えたのは初めてだな」
 住井は手にしたPDAで、今後のスケジュールを確認してほくそ笑む。
 やがて笑い声は次第に大きくなり、イスにもたれたまま住井は大きな声で叫んだ。
「よっし。明日からがいよいよ本番だ。くっくっくっくっ……祭りだ! イッツアショウターイム!」





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