北国の冬の朝は遅い。
まだ星明かりすら見える払暁の空の下、郁未は愛車を走らせ学校へと向かっていた。
昨夜は遅くに少し雪が降ったようだが、除雪車が通ったばかりなのだろう、郁未の進む道路に雪は積もっておらず剥き出しのアスファルトの上を進むと、タイヤチェーンがその独特の音を奏でている。
雪雲は夜の内に移動したらしく、フロントガラス越しに見上げれば、雲々の隙間からは日の出前の蒼い空と星々の明かりが見て取れる。
今日は休み明けの月曜日、コンテストの告知が行われて三日目だ。
告知後初の登校日となるこの日は、今回のイベントが本格的に動き出す日とも言われている。
この二日間に街の人々の間では――
『投票権が市民全員に与えられるのではないか?』
『優勝者は即芸能界デビューだ』
『優勝者の住まう町内には、来年度の予算が大幅にアップされる』
――と、実にもっともらしいものから、明らかにガセだろう……と思えるものまで、数々の憶測が飛び交い、その結果実際のコンテストがどの程度の規模のものなのかも判らなくなっている。
これ以上の混迷を避けるためにも、事態の収拾と正確な情報の開示は必要不可欠なものとなっている。
郁未が普段よりも早い時間に出勤を強要され、こうして日の出前に愛車を学校へ向けて走らせているのはその為である。
「ふぁ」
郁未は小さく欠伸をしてから、慌てて片手で口元を隠す。
彼女が同僚の学校職員から翌朝に緊急職員会議を行うとの業務連絡を受けたのは昨夜の事だった。
普段よりも一時間早く起床した事で寝不足気味の郁未に、タイヤチェーンの振動は普段より鬱陶しく感じられた。
「ふぅ」
気持ちを切り替えるように息を吐き出すと、新聞の地方欄に載っていたコンテスト開催までのカウントダウンを思い出す。
その程度では今更驚く事はないが、もはや街興しイベントの様相だ。
今後更に加熱するであろうコンテストの騒動に対処すべく、校長が全職員を緊急召集したのは自然な流れと言える。
学校関係者としては一度しっかりと話し合いの場を設け、今後の対応を協議しておくのは必要な事だろう。
おまけにTVで顔が露呈し、男子生徒達のスパイ活動も活発している郁未にとって、今回の騒動は他人事では済まされないのだ。
欠伸を噛み殺しつつ、郁未はステアリングを切って交差点を曲がる。
普段よりも早い時間だけあって道路は空いており、郁未のAZ−1はすんなりと学校へと辿り着いた。
車から降りる際、郁未はいつものように周囲に対する警戒に神経を集中する。
彼女がガルウイングドアのAZ−1から降りる瞬間は、パパラッチ気取りの男子生徒達にとって最も有効なシャッターチャンスなのだ。
校医という立場上――朝練に出る生徒達の対応も有る為――ただでさえ生徒達よりも早めに登校する郁未だが、更に早い時間という事もあって周囲に人の気配は無かった。
助手席のハンドバッグを取り車から降りる。
空を見上げれば、夜半に街を覆っていた雲は殆どがその姿を消しており、黎明の空に星々の明かりが吸い込まれようとしている。
ガルウイングドアを押し下げてからふと周囲を見回せば、職員用駐車場にはすでに他の教職員の車が何台も停まっている。
急な会議だったが、どうやら全教職員にも現状の異常さは浸透しているのだろう。早朝にも関わらず既に大半の教師達が集まっている様だ。
郁未が愛車のドアをロックしていると、新たな車がタイヤチェーンの音を立てながら駐車場へ入ってきた。
ろくに洗車もされていないくたびれた古いトヨタのクレスタ――郁未は記憶から石橋の車だと思い出す。
見れば運転席で大きな欠伸をしている石橋の姿が見えた。
郁未と目があった石橋が少しだけばつが悪そうに笑って頭を下げたので、郁未もまた立ち止まり会釈を返す。
石橋は今回の騒動の中心人物達が居るクラスの担任を務めている教師だ。
さぞかし苦労が絶えないだろうと思いきや、何事にも動じない――悪く言えば無関心な――彼は普段と変わらぬ態度で郁未に挨拶をしてきた。
郁未はそのまま石橋が車から降りるまで待ち、二人は並んで職員室へと向かった。
その途上、寝癖が残った髪の毛を掻きながら――
「しっかし突然の会議とは驚きですね。天沢先生は一体何事だと思います?」
と、事も無げにそう話しかけてきた彼を見て、郁未は石橋という男が持つ無関心さこそが、彼をあのクラス担任の適任者としているのだろうと思わずにはいられなかった。
校舎へ向かう郁未の顔に横合いから朝陽が差し込み、彼女は足を止め、目を細めて昇ったばかりの太陽を見つめる。
――朝は必ず訪れる。
――どんなに混迷を極めても、この度の騒動が収束する日は必ず訪れる。
そう信じて郁未は再び歩き始めた。
|
■Beautiful 7days #5 |
暗闇の中を何かがもの凄い音を立てながら祐一へと急速に近付いてくる。
祐一は訝しげに周囲を見回すが、辺りは真っ暗で何も見えない。
しかしそんな合間にも、その音を発する何かは祐一の直上へと辿り着き、大きな音が祐一の鼓膜を刺激する。
「な、何だ? これってヘリコプター……上? ってうわっ!」
祐一が音のする方――つまり真上を見上げた瞬間、眩い光が一斉に灯り彼の視覚を奪った。
暗闇から一転して真っ白な世界へと変わった中、眩しさにくらむ祐一の耳に、ローターの回転音とは別のもの――人の声が聞こえてきた。
「あははー、祐一さーん!」
その馴染み深い声はローター音に紛れる事なく、はっきりと聞き取る事ができた。
「さ、佐祐理さん?!」
光に目が慣れてくると暗闇の中、祐一の真上にホバリングしているヘリコプターの姿が認められた。
「見てくださいー、この米軍払い下げベトナム帰りのイロコイスの勇姿を。これで佐祐理達の勝利は間違い無しですー」
そのヘリの腹に取り付けられた投光器が祐一を照らし、備え付けられた大型の拡声器から佐祐理の声が聞こえていた。
「はい? ベトナム? 色恋……なんだって? それに勝利ってなん」
「あ、中古品だからって馬鹿にしましたね? 旧式だからといって侮辱しましたね? 仕方がありません、それじゃ祐一さんには、この子がフエやダナンでどれだけ活躍したかを知らしめて差し上げましょう」
祐一の疑問の言葉が終わらぬ内に突然佐祐理が理解しがたい言葉を発し、そして言い終えた途端ヘリの両側――スキッドの脇辺り――から、連続する音と共に盛大な花火の様な物が立て続けに発せられた。
火線を描きながら飛んでいった何かを目で追って行くと、いつの間にか暗闇の中に現れていた名雪や香里、そして長森や七瀬といった女性達への元へと飛んでゆき――着弾と同時に大爆発を起こした。
「うわあああああっ!」
「……綺麗な花火。私達の勝利を祝ってる……」
拡声器を通じて舞の陶酔気味な声まで聞こえてきた。
「花火違う! 絶対に違う! あれは誰が見てもロケット弾だ!」
全身を震えさせながら祐一は声を張り上げた。
「祐一さ〜ん。佐祐理達は頑張りまーす。サーチアンドデストロイですー」
「見敵必殲はヘリボーンの基本……」
祐一の言葉を完全に無視した佐祐理と舞の声が辺りに響く。
「あああああ……何て事を……」
暗闇の中、燃えさかる炎を見つめながら、祐一はその場で膝を付きがっくりと項垂れる。
「ふふふ……」
「あはははー」
項垂れる祐一の脳裏に二人の笑い声がいつまでも響いていたが――
『朝ー朝だよー』
突如聞き慣れた従姉妹の声がヘリの音と、二人の笑い声を打ち消す様に響き渡る。
「名雪?」
祐一が従姉妹の名を呼び顔を上げると同時に、周囲の光景が薄れていった。
『朝ご飯食べて学校に行くよー』
やがて名雪の声が周囲の光景を完全に駆逐すると、祐一ははっきりと目を覚ました。
『朝ーあ……』
伸ばした手がスイッチに触れると、名雪の睡眠を促進しかねない音声がぴたりと止まる。
未だに惰性で使い続けている目覚まし時計を見て、祐一は深く溜息を付くと、壁の向こう側で寝ているであろう声の主に少しだけ感謝した。
「酷い夢だ……」
学園祭の時に、中古とは言え本物の戦車を持ってきた佐祐理。
まさか夢の様にヘリコプターを持ち出したりはしないだろうが、何をしでかすか安心は出来ない。
頭を振って悪夢のイメージを振り払おうとするも、何か予感めいたものを感じた祐一は、枕元に置いてあった携帯を取り上げその表示を確かめる。
見れば携帯にはメールの着信を示す表示が有り、祐一はすぐにそのメールを確かめた。
「ん? 佐祐理さんからだな。なになに……『お早うございます祐一さん。申し訳ございませんが、今朝は舞と一緒に先に登校します』……と」
祐一の脳裏に昨夜の舞の言葉と、今し方まで見ていた夢が思い浮かぶ。
「何やってるんだろ……」
祐一は不安の中にも僅かな興味が混ざり合った不思議な感覚に追い立てられ、急いで着替えを済ませると食事もそこそこに――名雪を起こすこともなく――学校へと向かった。
雪が積もった通学路を一人で息を切らせて走る。
いつもよりは早く水瀬家を出たわけだから別段遅刻の心配があるわけでは無い。
しかしメールを読んだ時の不安が祐一を駆り立てていた。
学校へ近付くにつれその不安は、一刻も早く学校に赴き、そして彼女達が何をしているのかを確かめなければならない――という使命へと変わり、祐一をより早く走らせる。
いつも舞達と待ち合わせに使っている交差点をそのまま素通りし、川に沿って走る。
雪に足を取られないよう注意しつつ角を曲がりラストの直線へ入る。 談笑しながらのんびり歩いている他の生徒達の合間を縫ってひたすら走る。
やがて校舎が見えてきたが、祐一は速度を緩める事はせず、むしろ一気に加速をかけて校門へと向かった。
すると学校内から生徒達のざわめき声と、非常に聞き覚えのある底抜けに明るく、そしてどこか脳天気っぽい声が聞こえてきた。
燻っていた不安が蘇り、焦りが更に祐一の速度を加速させる。
グリップの限界を伝える様に靴が悲鳴を上げるが、祐一は無視して最高速度で校門をくぐった。
途端、異質な姿をした馴染み深い二人の姿が目に飛び込み、祐一は言葉を失った。
だが同時に最大加速に達していた祐一の身体は、校門に突入した際の遠心力で吹き飛び、脇の植え込みへと突っ込んでしまった。
その場所が、雪かきで排除された雪が集められた所だった事は、彼にとって幸運だったと言えよう。
積み上げられた雪の中でめり込んだ祐一は、垣間見た現状と雪の冷たさに暫く声を失ったまま、先の光景の解析に脳を働かせていた。
「……」
やがて無言で雪から埋もれていた身体を起こし、制服に付いた雪を払う。
再び眼前で展開している光景を見て、目を擦り、頬をつねり、それが現実である事を再確認すると、現状において最も的確だと思われる台詞を口にした。
「な、何をやってるんだぁーっ!」
祐一の盛大なツッコミが響き渡り、周囲の目が一斉に彼の方へ向けられる。
「あ、祐一さーん」
祐一に気が付いた佐祐理が、笑顔で手を振り彼の名を呼ぶ。
彼女から少し離れた場所に居た舞もまた、祐一へ向けて片手を上げて挨拶(?)をしている。
二人の対応は普段と大差無かった。
しかし、変わらないのは祐一に対するリアクションだけであり、彼女達の置かれている現状は明らかに異質だった。
なぜなら校門を入ったすぐ脇で、佐祐理はみかん箱程度の立ち台の上に登り、登校してきた生徒達に手を振り、笑顔を振りまいていた。
それだけでも十分に異様だが、彼女の格好は学園祭で着る予定だったメイド服であり、しかもご丁寧に『倉田佐祐理』と刺繍されたたすきを肩から袈裟懸けしている。
舞に至ってはウサギの着ぐるみを纏っている。
可愛いのか不気味なのかとっても微妙な着ぐるみの頭部に、いつもの舞の無表情な顔が有るその様は通りがかる生徒達に、これ以上ないインパクトを与えていた。
当然、舞の方も『川澄舞』と刺繍されたたすきを掛けている。
しかも祐一と佐祐理に関する事以外には何事にも無関心な舞が、仏頂面ながらも一生懸命「……お願いします」と声を出して登校してきた生徒達に手にしたチラシを配っていたのだ。
――ざわざわ。
祐一の姿を確認した生徒達が一斉にざわめきはじめる。
居心地の悪さを覚えた祐一が二人の元へ走り寄る。
「……祐一。おはよ」
挨拶を無視して舞をひっ掴み、佐祐理さんの元へ連れて行く。
「佐祐理さんちょっと」
「はぇ?」
佐祐理は不思議そうに首を傾げると、台の上からぴょんっと降りて来て舞と共に祐一の前に立つ。
「で、二人して何やってるんだ?」
「見て判りませんか?」
「……佐祐理、祐一は意外と頭が悪い」
身なりはともかく、二人がしている事は駅前で演説している選挙活動家と同じだ。
今の学校の現状を思えば、誰が見ても彼女達が何をしているのかは十分理解できるだろう。
「失礼な事を言うな。二人が自分のPRに努めている事くらい理解できる! 俺が問題にしているのはその動機と手段だ」
祐一の質問に、佐祐理が心外とばかりに驚きの表情を浮かべる。
当人達はいたって真面目なのだろう。
「佐祐理達はですね、今回のコンテストで優勝する為に二人で知恵を絞りあって考えた広報活動をしてるんですよー」
「それがその衣装着て台の上に登って笑顔振りまき、ビラを配ること?」
「はいー。佐祐理達の事を知って貰うにはこれが一番手っ取り早いと思ったので」
そう答えると、スカートの両端を指で摘み上げ、にっこり笑ってみせる。
佐祐理の隣では、舞も無言で頷いている。
「そ、その衣装は?」
先程の佐祐理の仕草に思わず顔を赤らめた祐一が、少し視線を逸らし咳き込みながら尋ねる。
「学園祭用に作ったものの着ることが出来なかったので……せっかくですから着てみました。それに以前、住井さんからこの衣装は一般的男子の好む物だと伺ってますし……今回の活動にはぴったりだと思ったんです」
あっけらかんと答える佐祐理を見て、祐一は頭の中で住井を呪った。
口に出さなかったのは、学園祭でこの衣装を着る機会を失わせたのが、彼自身に他ならない事を思い出したからだ。
確かにメイド服を着用した佐祐理はこの上なく魅力的だ。
だが、学園祭の出し物ならいざ知らず、この様な状況では明らかに周囲から浮いている。
「で、そっちは?」
視線をとなりの舞に移し祐一が尋ねる。
「……うさぎさん」
舞が身体を少し横に傾けながら答えると、頭のてっぺんから生えている大きな耳が揺れる。
「そんなもん見れば判る!」
「……可愛い」
ほんのり頬を赤らめて呟く舞。どうやら本人としてはいたく気に入っている様だ。
確かに着ぐるみを着た女の子――というものは可愛いものかもしれない。
だが、舞の身長で着ぐるみを着てもバランスが悪く、巨大なウサギから長い脚が伸びた奇妙な生物にしか見えない。
「……」
無言で舞の着ぐるみ姿を見ていると、舞がより顔を赤くして視線を逸らす。
「舞〜、祐一さんも”可愛い”って」
佐祐理がからかうと、舞がいつものように彼女の頭目がけて手を伸ばす。
しかし着ぐるみの影響から、舞のチョップに普段の切れ味は無く、佐祐理は楽しげに笑いながら甘んじて親友の攻撃を受けた。
「あははー良かったね舞。頑張って作った甲斐が有ったね」
「って、これ手作り?」
「はい、舞が作ったんですよ。それからこのたすきも舞の手作りです。舞って裁縫が得意なんです」
「……」
笑顔で答える佐祐理と無言で頷く舞をみて、祐一は思った。
この二人に変化球なんか有るはず無かった――と。
そして有り余る財力を持つ佐祐理が、それらを用いずに手持ちの資金だけを用いた家内製手工業的な手法でのみで挑んでいる事実は、祐一の気分を幾分か和らげる事になった。
何度か深呼吸をして気持ちを整えると再び舞に口を開く。
「で、舞は何配ってたんだ?」
「……ん」
舞が配っていたチラシを祐一へ差し出すと、彼は無言でそれを受け取り紙面に目を通す。
「何々……『川澄舞&倉田佐祐理の全て〜私達のヒミツを大公開〜☆』って何だこりゃぁっ!!!」
「はぇ〜」
「……」
チラシを見て狂った様に叫ぶ祐一を見て、二人は唖然としている。
何しろ舞が配っていたチラシには、綺麗な書体によって彼女達の身体的スペックが公然と記され、ミス学園には私達をよろしくお願いします(はぁと)と、妙に媚びた文章が書かれており、ファンシー感溢れる可愛らしい動物の絵も添えられていた。
しかも手の込んだ事に、コピーや印刷したものではなく一枚一枚手作りで、二人が写っている生写真までもが添付されている。
その筆跡から察して、チラシ自体は佐祐理が作成したものだと祐一は判断した。
驚き呆れた祐一が面を上げて二人を見つめると、彼女達はいつもと変わらぬ表情で祐一の反応を待っていた。
そんな二人が打算的な考えを抱いて無いことは一目瞭然だった。
つまりは天然に過ぎず、ただ純粋に自分達の事を知って貰おうとしての行動なのだろうが、正直言って祐一には痛かった。
「なぁ舞、ひょっとしてこのチラシってもう沢山配ったか?」
震える身体を必至で抑えながら祐一が舞に詰め寄る。
「……今のところ三五枚配った」
舞の返答を聞いて、彼女達の活動がまだ始まって間もない事を知り、祐一は少しだけ胸をなで下ろす。
「そっか……ん? ちょっと待て、何故そんな正確に枚数がわかるんだ?」
「あ、それはですね。昨日そのチラシを作るに当たって、何枚作ったか判りやすい様に番号振っておいたんですよー」
佐祐理の言葉を聞いてチラシを見れば、確かに隅の方に通し番号らしきものが記載されている。
どうやら着ぐるみやたすきは舞が、チラシは佐祐理が分業で作った様だ。
「舞、佐祐理さん……これは没収する」
溜め息を飲み込んで、祐一は舞が配っていたチラシを自分の鞄の中にしまい込んだ。
その後、二人がごねる一幕も有ったが、祐一の誠意有る説得により二人は活動を中止する事になった。
だが祐一が説得している間に、お立ち台――佐祐理の手製によるベニヤ板製台座――が無くなっている事が判明した。
暫く三人で探したが、その行方は結局判らずじまいだった。
|
§ |
休み明けの校内はどこもお祭り騒ぎだ。
どのクラスからも「昨日のテレビ観た?」とか「私にも票入るかな〜」とか「お前は誰派?」とか「澪たんハァハァ……」等という声が聞こえてくる。
「何なんでしょう……」
美汐は自分の教室へ向かう途中、何とも言えない居心地の悪さに苛まれていた。
周囲との関わりを極力避けて生活している彼女は、元々友達と呼べる存在が極端に少ない。
世間話をする相手もおらず、学校では独りで過ごす事が多い。 当然この度の狂乱も自分には無関係な出来事とばかり思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、いつの間にか自分のポスターが街中に溢れかえり、道行く人々から好奇心に満ちた目を向けられる事となっていた。
土曜日に街へ出かけた時その事実を知った美汐は、自分が他人から興味の対象と思われている事に初めて気が付き、そして困惑した。
あまり人と関わろうとしない美汐が、駅前で七瀬に出会った時、初対面の先輩にも関わらず自ら話しかける事が出来たのは、似た境遇の七瀬に親近感と哀れみを抱いたからだろう。
そして今、美汐を取り巻く状況は、彼女にとって悪化の一途を辿っている。
何しろ彼女の通学路において遭遇した自分のポスターの数は軽く十ダースは有ったし、美汐を興味本位で見る人の目は、土曜日とは比較にならないほど多くなっていた。
美汐は退屈でも平穏な日々を望んでいたが、そんな些細な希望は今となっては儚い夢となった。
「おっ、一組の天野じゃん」
「へーあの子か……今まで気にならなかったけど、結構可愛いなぁ」
「あ、俺一組のダチに聞いたんだけど、彼女何だかすんげーお嬢様らしいぜ」
同じ一年と思わしき男子生徒達の会話が耳の届き、美汐は耳まで真っ赤にしてしまう。
(勘弁してください……)
うつむき早足で廊下を進む美汐が頭の中で呟く。
前方から歩いて来た誰かとぶつかったのはその直後だった。
「あっ」
突然の衝撃に美汐は姿勢を崩し小さな声を上げるが、相手の声は聞こえなかった。
自分の不注意が招いた事故に、美汐は申し訳ない思いで相手の姿を確認する。
美汐の体格は標準より小柄な方だが、ぶつかった相手はより小柄だったらしく、相手の女生徒は床に倒れ込んでいた。
「も、申し訳ございません。私の不注意でした……あの大丈夫ですか?」
床に尻餅をついていた同学年の女生徒に、美汐は手を差し出し起こす手伝いをする。
「あの……本当に申し訳ございませんでした。お怪我はございませんか?」
丁寧にお辞儀をしてから相手の身を案じて声をかけるが、相手の女生徒はただニコニコと笑顔を向け手を横に振るだけで返事はしてこなかった。
「あの……?」
やがて相手の女生徒は、手にしていたスケッチブックを開き、真新しいページに『大丈夫なの』と書いて美汐に見せた。
「あっ……」
そこで美汐は、同じ学年の中で口が不自由ながらも演劇部で活躍しているという女生徒の存在を思い出す。
クラスこそ離れているが、美汐も彼女の存在を耳にした事は何度かあった。
(確か……四組の上月さんでした)
頭の中で澪の名を思い出すと、そっと微笑みながら――美汐の笑顔はとても貴重だったりする――彼女の衣服に付いた埃を優しく払う。
「申し訳ございませんでした上月さん。お怪我はございませんか?」
美汐の問い掛けに澪は笑顔のまま元気良く頷いてみせた。
「そうですか……良かった」
「あ、上月さん、丁度良いところで会ったわ」
心底ホッとしたように美汐が呟いたところで、今度は背後から別の女生徒の声が聞こえてきた。
新たな声に澪は少しかしこまった表情を浮かべると、丁寧な姿勢でお辞儀をしてから、スケッチブックの使い古されたページを開き相手に開いて見せた。
『お早うございます』
スケッチブックを見て、相手の女生徒がにっこりと微笑んで「はい、お早う」と応じる。
リボンは現在の三年生を示す青色だった。
澪に用事があって来た演劇部の先輩――そう美汐は推測すると、この場を離れるべきかどうか少しの間思案した。
「それでね上月さん。今回の騒動で体育館のステージが使えなくなったらしいの。それに周囲がこれだけ大騒ぎになってると、ろくな練習も出来ないでしょうから、今週いっぱいは部活は休みにするわ」
雪見の言葉を聞いて、澪がうんうんと頷く。
「はぁ〜全くあの子達にも困ったものね……わたし達三年生は受験だっていうのに、みさきなんか妙にはしゃいじゃってるし……あら?」
そこまで言って雪見は、彼女達から一歩退いた場所で立っている美汐に気が付いた。
「この子は……上月さんの知り合い?」
雪見が澪にそう尋ねるのを聞いて、美汐は内心でどう対処したものかと少し焦りを感じたが、まだ完全に謝罪が済んでいないと思っていた彼女は、そのまま二人の会話が終わるのを待つことにした。
その間に澪は新しいページにサインペンを走らせると、そのページを雪見へとかざす。
「あらそうなんだ」
澪のメッセージを読んだ雪見がどことなく嬉しそうに応じる。
雪見の反応を見終えた澪が、今度はそのページを美汐へと向けた。
そのページには簡潔にこう書かれていた。
『友達なの』
そのページを見せる澪の表情は笑顔だった。
「……あ」
美汐にとっては衝撃的な事だった。
高校に入学して――いや、中学の三年間を通じても友達と呼べる者はほとんど居なかった。
それが目の前にいる大きなハンデを抱えている小さな子は、いとも簡単にその単語を今さっき出会ったばかりの自分に対して用いている。
「えっと、わたしは深山雪見。この子がいつもお世話になってるのかしら……よろしくね」
「い、いえ……私は……あ、申し遅れました、一年一組の天野美汐と申します」
美汐は慌てて自分の名を名乗るが、気が動転している事からいつもの様に落ち着き払った挨拶は出来なかった。
「天野さんね? あ、あなたって何か部活入ってる? 入ってないなら演劇部入らない? 練習は辛いけど楽しいわよ〜」
「いえ……その、私は……」
雪見に肩を掴まれ突然の勧誘を受けしどろもどろになった美汐は、現状に対してだけでなく、自分の歯切れの悪さにも驚いていた。
思わず助けを求めて澪を見るが、彼女は笑顔で頷いている。どうやら雪見の提案に大賛成の様だ。
「……困りました」
心底困惑した表情で呟いた美汐を見て、雪見は笑い声を上げてから――
「ごめんなさいね。こんな強引じゃ逆に退かれちゃうわね」
と言って笑顔で謝り、そのまま踵を返し三年の教室へと戻っていった。
澪は少し残念そうだったが雪見に頭を下げて先輩を見送った。
「……あの」
タイミングを見計らって美汐が声をかけると、澪は彼女の顔を見つめてから手を差し出してきた。
その意味が握手を求めている事だと、美汐が理解するまでに数秒を要した。
慌てて差し出された美汐の手を、澪はぎゅっと握りしめ、そして笑顔で腕を何度か上下に振った。
そんな澪の態度に、美汐の心の中は不思議と暖かくなる。
土曜日、七瀬や瑞佳に出会った時に感じたものと同質の感情――それは彼女が忘れかけていた感情だった。
この数日間での出来事は、良くも悪くも確実に彼女の感情に変化をもたらそうとしている。
その後二人は別れてそれぞれの教室へと向かった。
澪と別れた後、美汐が一年一組の教室に辿り着き扉を開けると、教室内で騒いでいた生徒達が、彼女の姿を見て一瞬声を止める。
そんな級友達の態度が、彼女の中で雪解けしかけた感情を再び凍り付かせてゆく。
「……」
美汐は『我関せず』といった面もちで最前列の教壇の前に位置する自分の座席に腰を下ろし、黙って鞄を机に載せてその中身を机の中へと移してゆく。
その時は既に教室内は元通り、大勢の生徒達の話し声でいっぱいになっていた。
「ねぇ天野さん」
鞄の中身を全て移し終えた美汐に声がかかった。
「はい?」
上半身を動かして向きを変えると、明るそうな女生徒がニコニコと笑顔で美汐を見つめていた。
「んふふふ〜天野さーん、聞いたわよ〜」
「何をでしょう?」
含み笑いをした級友に、美汐は無表情のまま返事を返す。
「今回のコンテストよ。街中に天野さんのポスター張ってあるじゃない」
「あ……」
当然と言えば当然だった。
自分以外の者とて、あのポスターは嫌でも目に付くだろうし、その事で美汐に興味を持つ事は必然だろう。
当てつけか……嫉妬か……はたまた嫌がらせか……美汐は級友の続く言葉を想像して、迷惑な自分の支持者を呪った。
「頑張ってね。応援してるわ」
だが級友の口から発せられた言葉は意外なものだった。
美汐にしては珍しく呆けた表情で暫く黙っていたが、言葉の意味が判ると急に顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そんな美汐の反応に、その女生徒は吹き出して大声で笑い始めた。
「はははは。天野さんって思った通り可愛いね。男子にもなかなか目ざとい奴がいるもんね〜。こりゃ我がクラスの代表として是非とも天野っちには頑張って貰わないとね〜。みんなで応援するから目指すは優勝よっ! いい?」
「天野っち? ……そ、それに応援なんてされても困ります……」
消え入りそうな声で抗議する美汐のおでこを指ではじくと、腰に手を当てて悪戯っぽく笑う。
「何言ってるのよー。あ、でも優勝したら賞金でお昼ご飯くらいはみんなに奢りなさいよ〜」
冗談っぽく笑って言葉を締めくくると、彼女は固まっている美汐にウインクしてみせた。
「じゃまた後でね〜」
(考えてみれば……)
笑顔のまま手を振って去って行くクラスメートを見送って美汐は思う。
(私の回りには、こんなにも色んな人が居たんですね)
過去、心に負った疵痕と、自分の家が置かれている状況が、美汐を他人から遠ざけていた。
自分でもそれは仕方がないと諦めていた部分もあり、高校に入学してからもそのスタンスを貫いていた。
だがこの度の騒動が、そんな美汐の閉ざされた心をこじ開けようとしている。
ミスコンなどという、恐らくは生涯を通じて関わる事は無いと思っていた――いや思うことすら無かった美汐が、こうして渦中に立たされ、あろう事かクラスメートの声援まで受けている。
「ふふっ」
美汐は自分の境遇に思わず笑みをこぼし、そしてそんな自分に驚きもした。
いつものように黙って始業ベルを待つ合間も、美汐はそんな自分の心情の変化に驚いていた。
ホームルームと一時限目が全校で自習だというアナウンスが流れたのは、そのすぐ直後だった。
喜ぶクラスメート達が騒ぐ中、美汐は黙って机の中から教科書を出し、まるで物語を読むような気軽さで目を通し始めた。
|
§ |
「済みません〜遅刻しました……ってあれ?」
名雪が息を切らせて教室に飛び込んできたのは、普段ならば一時限目が始まっている時間だった。
しかし、教室内には授業中の静けさはなく、まるで休み時間の様に各々が好き勝手な事をしてくつろいでいた。
「お早う名雪。運が良かったわね。今日は一時限目は自習よ」
教室後ろの入り口からほど近い席に座っている七瀬が、苦笑交じりに名雪を出迎える。
「およ? そうなんだ……ふーっセーフだね」
緊張感が一気に抜けたのか、名雪はふにゃっと表情を緩める。
「アウトよ」
「ぶーっ、七瀬さんが香里みたいだよ〜」
「はいはい」
頬をふくらませて名雪が抗議の声を上げると、七瀬は笑って名雪をいなす。
「あれ〜何だか男子の数が少ないみたいだけど……」
教室内を見回した名雪が感じたことを口にする。
「ああ、北川君とか一部の男子達は自習だと判った途端教室を出ていったわ」
「そうなんだ……あ」
七瀬の言葉に短く応じると、名雪は自分の座席の方へと視線を向ける。
自分の席の向こう側でウォークマンで何か音楽を聴いているらしい祐一の姿を見つけ、名雪は少し怒ったのか、頬を膨らませる。
「どうしたの?」
「え? ううん何でもないよ。あれ? でも折原君は居るんだね」
名雪は視線を祐一から逸らすと、その前の座席で机に伏せて寝ている折原の姿を見つけ不思議に思い、その事を口に出した。
「良いんじゃない? どのみち姿をくらませるとろくな事ないんだし。まぁもっとも問題児の片割れが未だに姿を見せないのは不気味だけど」
「あれ? 住井君まだ来てないの?」
七瀬の言葉に、名雪は今回の騒動の張本人が未だ登校していない事を知って驚く。
住井はああ見えて――突然姿を消す事や途中でエスケープする事は有っても――無遅刻無欠席だったりする。
「うん。なーんか嫌な感じよね。はぁ〜」
七瀬はこの度の騒動を思い出し深く溜め息をつく。
「ふぁいとだよっ」
名雪は七瀬に笑顔を向けて元気付けると、そのまま自分の座席へと向かい腰を下ろす。
そして真横の席で音楽を聴いている自分を見捨てた従兄弟を睨み付けた。
「……なんだよ?」
名雪の視線を感じた祐一がヘッドフォンを外して尋ねる。
「ふーんだ。祐一のケチ、人でなし、美人局」
祐一に対して悪口を連ねると、名雪はそのまま視線を逸らしてしまった。
「お前、意味判って言ってるか? それに、自分の寝坊を人様の所為にするんじゃない」
祐一は呆れた様に溜息を付いてから言うと、軽く名雪の頭を小突く。
「べーっ、わたしは祐一なんか嫌いだもん。ねぇ香里、祐一って酷いと思わない? ……あれ?」
自分にも負い目を感じているのだろう、名雪は形勢不利とみて親友に援護を要請するが、肝心の香里は机に肘を突き、頭を抱えたまま黙ったままだった。
「香里?」
名雪がもう一度名を呼ぶが香里は気が付かない。
「あー、香里は何だか知らんが、朝からそんな感じだぞ」
祐一が答えると、名雪は心配そうに親友を見て――そして前髪を掻き分けた手の平を額へと添えた。
「わぁっ!」
「わっ」
名雪の手が触れた途端、突如声を出して驚く香里。
「な、名雪……いつ来たの?」
「今さっきだけど……香里大丈夫?」
「な、何が? あたしはいつだって健常者よ。名雪とは違うわ」
香里の苦し紛れに出た言葉を聞いていた祐一が、吹き出して笑っている。
「むっ! 酷いよー二人ともー」
名雪の文句を聞き流し、祐一は再びヘッドフォンを装着し、ミニディスクを再生させる。
音楽がなり始めると、名雪の文句は何一つ聞こえなくなり、そのまま机の上に上半身を伏せる。
その直前、目の前の座席で自習時間にも関わらず何の行動も起こさないで、同じような姿勢で寝ている折原が少し気になったが、適当な理由で自分を納得させると、祐一はそのまま目を閉じた。
祐一に軽くあしらわれた名雪は、その苛立ちの矛先を親友へと向けようと思ったが、その香里はいつになく反応が鈍い。
何を尋ねてもその返答は上の空、座ったままスカートの裾を抑え何やらモジモジとして落ち着きがない。
真面目に自習する気にもなれない名雪は、結局お約束通り机にひれ伏すと、即座にそのまま眠りについてしまった。
|
§ |
北川は必至だった。
彼は自分が推す美坂香里をコンテストで優勝させる為、何が最も有効か? そして何が自分に出来るか? という事を真剣に考えた。
短絡的に実行委員長である住井へ便宜を図って貰おうと持ち掛けてみたが、流石にこれは一蹴された。
その後、彼なりに思慮に思慮を重ねた末に導き出したものが、ライバルとなりうる女生徒達の評判を落とすというものだった。
そして彼は即座に行動に出た。
その日の内にライバル達の評判を落とすべく文章を作成し、出来上がった怪文書は片っ端から近隣のコンビニで大量にコピーを作成した。
香里へのクリスマスプレゼント代として貯めていたバイト代をも投入し、夜を徹して準備をした怪文書大作戦だったが、まさに実行開始というところで遭遇した雪見の妨害によりあっけなく瓦解してしまった。
彼は悩んだ。
何しろ同じ手を行うにも、彼にはもうコピーを取る資金すら無く、残ったの物と言えば贈賄工作の為に残り少ない小遣いを叩いて購入した大量の「うまい棒」だけだった。
これは委員会のメンバーに対し便宜を依頼したり、他の派閥の構成員を丸め込み支援活動を停止させる為の、いわば北川流”実弾”である。
だが当然そんな物で北川の申し出を受ける者は存在せず、彼の香里支援活動は手詰まりと成りつつあった。
だが彼は単純が故に、諦めるという言葉を知らない男だった。
悔しいかな、うまい棒に賄賂としての魅力が無い事を受け入れると、作戦をライバルの評判を下げるという一点に絞った。
そして文書が駄目ならば口頭による流言飛語を蔓延させれば良いだけの事と考えに至り、そして彼はそれを実行すべくこうして自習中の校内を歩いていた。
「ダーッシュダーッシュ だんだんだだん♪」
北川の歌声と彼の足音だけが廊下に響いている。
彼が進む場所は移動教室や特殊教室が並んでいる棟であり、自習による騒ぎ声はここまで聞こえてこない。
「オレは〜涙を流さない〜 北川だから〜 美坂ラブだから〜 だだっだ〜♪」
口ずさんでいたグレートマジンガーの替え歌と、廊下を進む北川の脚がピタリと止まる。
「……」
彼の視線は廊下の先へと向いていた。
その表情は、普段とは異なりどこか真剣であり、ただ黙って進路上に立ちふさがる影を凝視していた。
北川の眼前に立っているのは一人の男子生徒だった。
二人は廊下の真っ直中で、五メートル程の距離を置き立ち尽くし互いの顔を見合っている。
やがて北川の正面に立っていた男子生徒が口を開く。
「よぉ〜北川。随分ご機嫌じゃないか?」
その言葉こそ親しげだが、その口調には微かな敵意が含まれている。
北川は口元に笑みを浮かべると、両手をズボンのポケットに入れ胸を張って対峙する。
「そりゃそうさ……何と言っても今から美坂の勝利が確実な物へと変わるんだからな」
北川が表情を崩さずに言い切ると、相手の男もまた姿勢を変えずに「くっくっくっ……」と肩を振るわせて笑った。
「笑わせるな北川。お前一人の力で優勝がねらえる程、この度の戦……甘くないぞ」
「それでも美坂が勝〜つ!」
全く根拠が無いが故に、有る意味無敵の論理だった。
「ほぅ……その自信は一体何処から来るんだ?」
「ふん、分かり切った事を聞くな。そんなもんオレの美坂に対する愛に決まってる!」
満面の笑みを浮かべて言い切る北川。その口調は自信に満ち溢れていた。
「なるほど……まぁ例え一方通行であっても、お前のその愛とやらには敬服できるよ。うん、大した物だ」
男は拍手を打ちながら、半ば呆れ、そして半ば感心した様な口調でもって応じた。
「誉めるな誉めるな〜。俺ってそんないい男か? ベストガイか?」
真剣に照れたのか、北川が表情を崩し、片手をポケットから出して頭を掻く。
「いや、そこまでは誉めてないし、誰もそんな事は言ってないんだが……」
「ならば何の用だ? 俺はこれから放送室に行かなければならないんだ。用事がないのなら後にしてくれないか……斉藤よ」
北川の前に立ちはだかった男――同級生の斉藤は、北川の言葉にゆっくりと首を横に振った。
「それは出来ない。なぁ北川……お前のやろうとしている事は単なるテロだ。真のスクールビューティーを決めるこの度の戦には相応しくない」
斉藤は北川の目を見たまま、ゆっくりと話し始めた。
「ん〜? お前、オレが何をするのか知ってる口振りだな」
そう言う北川に、斉藤は懐から再生紙100%の無印良品メモ帳を取りだし、それを北川へと放り投げた。
「こ、これは『潤ちゃんヒミツメモ』! 貴様、これを何処で手に入れた?!」
受け取ったメモ帳を確かめて北川が吠える。
「お前が落としたんだ。馬鹿」
それは斉藤が登校した時だった。
いつもの様に香里へちょっかいをかけた北川が、彼女の鉄拳制裁を受けていた。
それ自体は見慣れた光景だが、どういう訳か香里の機嫌は普段よりも悪かったらいく、北川に対する一撃もいつもより多少力が篭もっている様に見えた。
吹き飛ばされた北川は、そのまま斉藤の机にぶつかりその場で姿勢を崩した。
彼の制服から、問題のメモが落ちたのはその時だった。
その事に気が付かなかった北川はそのまま自分の机に戻っていった。
斉藤はメモを北川へ返そうと拾い上げたが、表紙に書かれた『潤ちゃんヒミツメモ』という文字を見てその気は瞬時に消失、躊躇わずにその中身を調べてしまった。
そして斉藤はそのメモ帳の中に、今回の計画を発見したのだった。
それはライバルの評判を落とすための電波ジャック――校内放送を利用したテロ行為だった。
対象となるのは校内の主立った女生徒全員であり、その中の一人の名前が斉藤に北川の行動を阻止させる原動力となった。
「オレは美坂の為なら何だってする。それがテロだと思われようが、結果的に美坂の優勝の為になるのであれば、外野にどう思われようが構わない!」
叫ぶ北川。その目が如何に彼が本気かを物語っている。
「馬鹿野郎! お前はそれでも良いだろうが、それで美坂さんが喜ぶと思うか? よく考えろよ直球馬鹿」
斉藤も負けずと声を荒げる。
「むっ」
斉藤の珍しい強気な口調に北川は思わず反論を飲み込んだ。
「いいか? 美坂さんの優勝は盤石なものか? 違うよな。もしもそうならお前がこうした行為に及ぶ必要もない。つまりはお前も敵の勢力が強力だという事を知っているんだ。だがな、お前のやろうとしている事は他人の評判だけでなく、お前が支援する美坂さんの評判まで落とす危険性を孕んでいる。そんなのは今の均衡した状態で行うのべき事ではない」
「むむっ」
「美坂さんを支援しようとしている人間は何もお前だけじゃないはずだ。お前がしなければならないのは、そういった確実票の流出阻止と、浮動票の会得だ。今は余計に敵を作るような事……つまりは相手の欠点を付く攻撃は控えるべきだ」
「むむむっ」
斉藤の説得に、北川は唸るかりだった。
「判ったか? だから今は思いとどまれ」
「むむむむ〜っ」
北川は悩んでいた。ポケットから出した手を顎に添えて必至に思考を巡らせている。
「なぁ北川。俺が水瀬さんの支援者だって知ってるか?」
斉藤は北川に近付くと、真剣な表情で自分の属性を語った。
「知らねぇ」
興味なさそうな北川の返事に苦笑すると、斉藤は再び話し始める。
「そっか……まぁいい。とにかくそういう事だ。それで俺の支援する水瀬さんとお前の支援する美坂さんは知っての通り親友の間柄だ」
「ああ」
頷く北川を確認して斉藤は話を続ける。
「ならば我々も共に手を取り合わないか? 彼女達が親友同士である以上、我々も強力体制を取るべきではないかと思うんだ」
「うむむむ……しかし、協力と言っても具体的に何をすればいいのか判らんぞ?」
斉藤は北川の肩に手を回し、耳を寄せると自分の構想を語り始めた。
「簡単だ。まずは不可侵協定だ。互いの対象者に対する一切の精神・物理両面での攻撃の禁止。ああ、無論未来永劫という訳ではない。取りあえずは予選の突破をしなければ話にならないから……せめて明日の予選結果発表までの間でいい。そして互いの持つ情報の交換と、我々以外の勢力に対する防共協定だな。どちらか一方が他勢力より攻撃や妨害を受けた際は協力しそれを撃退する。そしてもしも万が一だが、一方が予選で敗れた場合、生き残った方に支持を移すというのも良いだろう。どうだろうか?」
言い終わって顔を離し、返答を待つ。
北川は腕を組みしばし難しそうな顔をして唸り声を上げていたが、やがてそっと口を開いた。
「……難しすぎてよく判んねぇ。ひとつハッキリ言えることは、オレが保育園時代から目を付けていた美坂に優る女はこの世にはいねぇ! と言うことだ」
北川の返答を聞いた斉藤は心底呆れたように頭を振る。
「ふぅ……お前の馬鹿さにはほとほと呆れたよ」
「うるせぇ! さっきからゴチャゴチャと訳の分からない事ばっか言いやがって……お前は水瀬さんの支援者であり、オレは美坂一筋。つまりオレとお前は敵っつー事だろ?」
そう言うと北川は両手を開手のまま、上半身を倒して姿勢を低く構える。
どうやら間接技を狙っているらしい。
「斉藤。オレは争い事は望まないが、オレの行動を阻止する事は、美坂の覇道をも阻止する事と同じ事。美坂にこの度の必勝を頼まれたからには、オレが退くわけにはいかない。だからお前が引き下がれ」
「そうか……俺とて争い事は極力回避したかったが、お前がそんな事も判らない馬鹿だとは予想外だった。そして俺はお前のやろうとしている事を見逃す事が出来ない……ならば仕方がない」
そう呟いた斉藤が指を鳴らす。
途端――柱や階段の影などから男性生徒がわらわらと姿を現した。
「な、何奴?」
北川の声には答えず、出てきた男子生徒達は斉藤の背後にずらりと並ぶ。その数は四名であり妙に体格が良く、何かしらの運動部に所属している事を伺わせる。
「さて、同志諸君。我々水瀬名雪親衛隊としてこの男を見逃す事はできると思うか?」
『出来ません!』
手を後ろで組み足は肩幅に開き直立不動の姿勢のまま、口を揃えて答える男達。
その一糸乱れぬ言葉に、流石の北川も一歩退いた。
「では再び問う。我々のする事は何か?」
斉藤は人差し指を高く上げて再び背後の者達へ問い掛ける。
『北川潤の身柄を拘束する事であります!』
仲間達の言葉に斉藤は満足げに頷くと、口元を歪めて北川を睨み付けた。
「そういう事だ北川。呪うのなら己の馬鹿さ加減を呪うが良い……捕縛っ!」
『応!』
斉藤の叫びに対して声を揃えて応じると、そのまま隊員達は一斉に北川へと襲いかかった。
「な、何を……ぬおっ! ふんがぁ〜っ!」
得意の逃げ足を駆使して逃げだそうとした北川に、隊員Aが見事なダッシュからヘッドスライディング気味なタックルを慣行し、北川の両足をホールド。
その結果、北川は顔面からその場に倒れ、すかさず巨躯の隊員Bがフライングボディプレスで追い打ちをかける。
踏みつぶされた蛙の様な声を残して北川は沈黙した。
すかさず残った隊員二人が動かなくなった北川をロープで縛ると、簀巻き状態となった北川は全員で担ぎ上げられ、そのまま何処かへと連れ去られた。
「全く……馬鹿が」
そんな光景を眺めながら呟く斉藤の表情は、どこか安堵した様子だった。
北川は正真正銘の猪突猛進馬鹿であり、やると言ったら必ずやる男だ。
彼が止めなければ、北川は放送室を占拠し、多くの女生徒達の評判を下げるべく根も葉もないでっち上げを延々と語っただろう。
当然その中には斉藤が好意を寄せている名雪も含まれている。
その結果起こるのは泥沼の報復であり、今回のコンテストが血で血を洗う様な抗争劇へと化す可能性を秘めていた。
斉藤は彼の崇める名雪のイメージを守っただけでなく、コンテストそのものの存亡を救った事にもなる。
更に付け加えるなら、斉藤は北川にとって命の恩人と言って良かった。
なぜならば、もしも北川が計画通り暴挙に出ていれば、香里は一生彼を許すない程に怒りを爆発させただろうからだ。
だが斉藤がこの場で北川を止めずとも、コンテストを取り巻く状況は、その後泥沼の様相へと変化してゆく事になる。
結果として斉藤が行った行為は、北川の絶対的窮地を救っただけであり、名雪を支援する彼にとっては徒労以外の何物でもなかった。
|
|
第5話後半へ> |