一二月ともなれば五時には陽が暮れ、六時にもなればすっかり夜となる。
陽が落ちた事で冷たさを増した風が、閉ざされた窓をガタガタと揺らしている。
風が吹く度に家全体が寒さに震えている様にも思え、音がする度に祐一の気分は深く沈んでゆく。
窓から覗く街並みは既に雪化粧となっており、見た目にも寒さを演出してくれている。
「全く……」
憮然とした気持ちで、祐一は制服姿のまま水瀬家にある自室のベッドで横になっていた。
部屋に設けられているヒーターによって、室内の気温は快適な状態にされているが、彼の心中でまでも快適にする事は叶わない様子だ。
ベッドの上に仰向けになったままの状態で深く溜息を付くと、今回の騒動の顛末を振り返った。
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■Beautiful 7days #2 |
『そう言えば、そろそろ第二回の二年四組女子人気投票をやってはどうだろうか?』
そう住井が切り出したのは、今から十日程前の授業中だった。
男子生徒からの反応は好評であり、住井は授業そっちのけで、その企画を実行に移すべく準備に取りかかった。
年頃の男子であれば、クラスに気になる娘が居ても不思議ではないし、そのお目当ての子がどの程度人気があるのか? 客観的に見て誰が最も人気があるのか? そんな事に興味を持つのは至極当然と言える。
しかし、男子生徒からの一方的な見解に基づく”人気投票”というシステムは、その対象者から見れば不快なモノと思えるのも、また事実である。
であるから、こういった類の企画は、非公式に行われる事が常だった。
実際、祐一が属する二年四組では、五月頃にも一度人気投票が男子限定のネットワークを通じて秘密裏に実施された事がある。
名雪、香里、瑞佳、茜そして当時転入してきたばかりの七瀬を加えた五名が複数の票を集め、最終的には僅差で瑞佳が一位となった。
当然この結果は非公開であり、女子の知るところではない。
余談だが、この直後に瑞佳が折原と付き合っている事実が発覚し、しばらくの間各所より折原に対する執拗な精神攻撃が行われた。
閑話休題――
そして今回の企画も、前回同様の規模で行われるはずだった。
ところが、投票を前に――
『今回は美坂の優勝で決まりだぜ!』
『何を言うか! 今は不思議系美少女の時代だ。里村さんに決まっている!』
『何だかんだ言っても、天然美少女に勝るもの無し! 水瀬さんこそが選ばれるべきだ!』
『馬鹿を言うな。例え人様の彼女であろうと、前回の覇者長森さんの魅力に今なお死角は無い!』
『ちょっと待て、誰が七瀬さんを粗暴だと決めた?! フランクに付き合える彼女こそ新たな女王に相応しい!』
――と議論に発展した。
授業中に独自の秘匿通信で飛び交う、男子生徒達の熱き主張。
その声なき叫びは次第にエスカレートし、やがて相手の崇拝対象の欠点を指摘する様な陰湿極まりない攻撃にまで発展する。
複数の派閥間で発生した攻撃的文書の応酬は泥沼の様相を呈し、秘匿通信網の露呈と崩壊の危機にまで発展した。
この危機を解決する為に調停に乗りだしたのが、事の発端者であり、秘匿通信網の生みの親でもある住井だった。
この時に彼が出した調停案こそが――
『いっそ全校生徒に判断してもらおう。ならばその対象となるのは、我がクラスの女子に限る必要は無い。私はここに本校初の”ミス学園コンテスト”を提案する』
というものだった。
授業終了のチャイムが、リアルファイトのゴングになりかねなかった一触即発の状況は、これで回避された。
だがその事によって、単に一クラス内の問題であったこの一件は、学校全体を巻き込んだより大きな騒動へと発展する事になる。
元々お祭り事が大好きな住井は、速やかにこの企画を全校の男子生徒へと通達した。
住井が持つ情報ネットワークは、その迅速性と秘匿性をいかんなく発揮し、コンテストの開催は、僅か三日で男子生徒の八割が知るところとなった。
それだけの広範囲に情報が伝わったにも関わらず、学校、生徒会、そして女子側へ企画が露呈しなかった事は、本校男子生徒のほぼ全員が守秘を全うした事の現れであり、今回の企画が、彼らの待ち望んでいたものであった事を裏付けている。
無論、この学校生徒達が、単にお祭り好きの集団という事も否めない。
その翌日――企画発案から僅か四日後には、生徒会関係者や潔癖性の生徒等、僅かな例外を除いて、男子生徒のほぼ全員がこの計画に荷担する事となった。
この異常ともとれる事態に、もはや後戻りが出来なくなったと悟った実行委員会――住井と折原に代表される二年四組の男子達――は、計画を実行に移した際に起こりうる女子の抵抗、妨害、反乱、サボタージュに備えるべく、更にその規模を拡大していった。
まず、ターゲットとなる女生徒の問題が討議された。
周囲がどれほど盛り上がっても、その対象者が『嫌です……』ではコンテストは成り立たず、例え参加を無理強い出来たところで、やはりコンテストは白け、盛り上がりに欠けると思われる。
もし全ての女生徒がボイコットを決め込めば、コンテストそのものが根底から瓦解し、行き場を失った男子生徒のフラストレーションが、実行委員会の自分たちに向かうのは、火を見るより明らかである。
女生徒による”自主的参加”がコンテスト成功には必要不可欠であった。
委員会の自己保全をも考慮し、対象となる女生徒達の自主参加を促す土台、環境を用意する事が最優先事項とされた。
そこで、手っ取り早く女子をその気にさせるモノとして、賞金を用意する事となった。
全ての女生徒が”学園ナンバーワン”、という肩書きだけで満足できれば無論問題は無いのだが、栄誉だけでこの計画に自主参加したがる――いわば物好きやナルシストは、ごく少数であろうと予想される。
そうと決まれば、実行委員会の行動は早かった。
まず男子生徒に対して、一人あたり五百円のカンパを要請した。
既に計画参加人数が三百名を越えており、計画通り集金が達成できれば、それだけでも十五万円以上のカンパが集まる計算になる。
ところが、翌日集まったカンパの総額は、実行委員会を良い意味で驚かせる結果となる。
集まったカンパの総額は、実に二〇万円以上であったのだ。
計算より多くのカンパが集まった理由は、参加者の中に、計画成功祈願をこめて多額のカンパを行った者が現れた為だ。
喜ぶ委員会の中にあって、唯一人それだけでは心許なさを感じた実行委員長――最高会議議長も兼ねている――住井は、参加者である男子生徒達に対して、商品の提供を打診した。
その結果、小はピアスから大は自転車や高級羽毛布団まで、多くの品物が揃う事となる。
それらは私物や私財であるモノも多かったが、中には自営業の家からの提供品も数多く存在した。
賞品の提供を申し出てくれた商店には、感謝の意味を込めてコンテスト開催中に飾る予定のポスターや、看板、そして横断幕、垂れ幕にその商店名を載せる事とした。
その旨を伝えた処、商店側から『コンテスト優勝者との宣伝契約』という条件の元、更なる商品提供の申し出が有り、委員会の面々を更に驚喜させた。
これに目を付けた住井は、コンテスト自体のスポンサーを探し東奔西走。商店街や駅前にある数々の店舗、商店とその契約を結ぶ事に成功した。
新たな収入であるリベートに、先のカンパとを合わせると、その総額は五十万円に達した。
集金を初めて僅か二日、コンテスト開催が決定されてから計算してもたった六日の事である。
翌日、委員会代表団はその事実を持って、校長室へ乗り込んだ。
今回のコンテストに対する学校側の承認を得るためである。
無論、正規の手段や、普通に直談判したところで、この様な企画を学校側が認める訳は無かっただろう。
だが事態は、既に校内だけの問題では済まなくなっており、コンテストが不発に終わった場合の責任は、結局の処、学校責任者たる校長に降り懸かってくる。
学校周辺の店舗、商店の名が連なった分厚い契約書を見せられて、校長も今回のコンテストを承諾する他なかった。
これにより、女生徒達は『学校が反対するから』『内申に響く』という、実にもっともらしい口実による参加拒否が出来なくなったのである。
逆に言えば、誰もが大手を振って参加する事が出来る地盤が出来たわけでもあり、潜在的ナルシスト――こういった女生徒は非常に多いと思われる――にとっては、選考さえされれば世間的風潮の憂い無く、気楽に出場出来る様になった。
しかも優勝すれば賞金と山のような賞品に加え、ローカルな範囲とは言えCMモデルとして起用されるという、女性にとってのステータスが贈られる。
無論”学園ナンバーワン美少女”という肩書きも付き、校内の……ひいては街の公式アイドルとなる。
かくして、街中を巻き込んだ巨大な計画へと膨れ上がったミスコン企画は、「コードM」や「M計画」の暗号で呼ばれ、その開催へ向けて歩みだした。
参加者の男性生徒達は、半ば病的な程に入れ込み、秘密裏にそれぞれが推薦する女生徒の支援活動準備へと没頭していった。
そんな病的な状況にあって、祐一だけが困惑していた。
なぜならば、全校の女生徒が対象となった以上、彼が懇意にしている舞や佐祐理がその対象となるのは、彼女達の容姿からいって、ほぼ間違いないと思えたからだ。
それは、彼にとってあまり好ましい状況と言えなかった。
その二人を独占したいというエゴにも似た心情が、その理由であるが、その根元には別の意味を持っている。
『卒業したら一緒に住もう』――そう約束する程に、深い絆で結ばれている三人だが、祐一としては、そっと静かに三人で過ごしたい――三人でのんびりと過ごす事が彼らにとっての幸せだと考えていたのだ。
だが、仮に彼女達がコンテストに参加し、注目を浴びることになれば、それだけ祐一に対する周囲からの反応も厳しくなるだろう。
そしてその確立は多分に高いのだ。
「はぁ〜どうなるんだろなぁ」
祐一は呟きながら目を閉じると、今一度深く息を吐き出した。
「祐一〜っ! ご飯〜」
部屋の扉が予告無しで開くと、真琴が彼の名を呼びながら駆け足で入ってくる。
そしてそのまま小動物的な身軽さでもって、ベッドで横になっていた祐一目がけて躊躇い無くジャンプし、インメルマンターンの様な捻りを加えた強烈なダイブを慣行した。
「どぅへぇっ!」
無防備の腹部に真琴の全体重がのし掛かり、全身を伝わる衝撃に、祐一は堪らず叫び声を挙げる。
「ほら祐一。寝てないでさっさと起きなさいよ」
「ぐぐぐぐぐっ……」
馬乗りとなった真琴に、祐一は声すら出す暇も与えられず、彼女のなすがままに身体を揺すられた。
「真琴がわざわざ呼びに来てあげたんだから、感謝しなさい」
「だぁーっ!」
「あうーっ」
祐一は渾身の力を振り絞って、上半身を起こすと、馬乗り状態だった真琴は転がり落ち、ベッドの上でひっくり返る。
「ったく、もっと普通に呼ぶ事は出来ないのかよ?」
「これが真琴の普通なんだから良いの……ん?」
悪びれる様子もない真琴だが、自分の格好が姿勢を崩して転がったままであり、その短いスカートがまくれて、ピンクの下着を祐一にさらけ出している事に気が付く。
「な、何見てるのよ。祐一のスケベ! 変態! バカっ!」
真琴が顔を真っ赤にして、手近に有った雑誌を無造作に投げつける。
「痛ぇっての! 見えたのは不可抗力だし、そもそも俺はお前のパンツ見たって面白くもないっての!」
祐一の言葉に、真琴は思わず目を見開きモノを投げる手を休める。
「祐一の……バカぁっ!」
少しの間を空けると、やがて全身を振るわせて立ち上がり、横に置いてあった祐一の鞄を掴んで、彼の顔面目がけて両腕を振って投げつけた。
どうやら最後の台詞が一番腹に据えかねた様子だ。
真琴が一人の乙女として認知されるには、まだまだ時間がかかりそうである。
「……ったく、酷い目にあった」
まだ痛む顔面をさすりながら祐一が、ダイニングへと入る。
「名雪、秋子さん、祐一連れてきたよ」
その後を真琴が笑顔で続く。
結局あの後、祐一が真琴の機嫌を直す為必要としたものは、一ダースの肉まんと、三冊の漫画を与える事の確約であった。
真琴にとって満足な示談が成立してか、彼女からは先程の怒りが消え失せ、すっかりご満悦な表情だ。
祐一自身も部屋に籠もって居た時に比べ、その表情は明るい。
憎まれ口をたたきながらも、彼は自分の心を覆っていた影を吹き飛ばしてくれる真琴の爛漫さに、少なからず感謝していた。
「真琴有り難うね。二人とも、今ご飯よそうから座って待ってね」
祐一達の姿を見て、秋子と共に夕食の支度をしていた名雪が、炊飯器の蓋を開けて二人の茶碗にご飯をよそっている。
「あ、サンキュー」
礼を述べつつ腰を降ろして名雪から茶碗を受け取る。
「はい。これ真琴の」
「ありがと〜」
祐一の隣に座った真琴が、名雪から茶碗を受け取りと、キッチンから秋子が料理を持ってやってきた。
「それじゃ、ご飯にしましょうね」
『はーい』
秋子の言葉に三人が返事を返す。
今日もまた、暖かな雰囲気に包まれて水瀬家の夕食は始まった。
「ねぇ祐一」
食事が始まり暫く経ってから、名雪が祐一に話しかける。
「何だ?」
名を呼ばれた祐一が、食事の手を休めずに答える。
「例のコンテストだけどさ……」
少し躊躇いがちに話す名雪を見て、祐一は食事の手を休め、箸を置くと彼女の顔を凝視する。
「……どうかしたか?」
「その……やっぱり、男の子から見て可愛い子とか、綺麗な子って……その……」
恥ずかしいのか、名雪の口調は歯切れが悪く、その内容から意味を察する事は出来ない。
「あら? なんのコンテストかしら?」
そんな名雪の口調に、先に彼女が口にした言葉に興味を覚えた秋子が二人に尋ねる。
「いや、その……」
秋子の好奇心に満ちた質問に、今度は祐一が口ごもる。
「ミス学園コンテストだよ」
「あらあら、”ミス”じゃ、私は参加出来ないですね……」
「お、お母さん?」
「……冗談よ」
返答に少し間があった事を祐一は追及したくなったが、余り深く詮索はしない方が良いと感じ、言葉を飲み込んだ。
「あ、真琴が参加したいー!」
「駄目だ」
祐一が真琴の言葉に対して素早く切り返す。
「何でよ! 真琴のウツクシサなら優勝間違いんだから」
「はぁ?」
精一杯の呆れ顔を作る祐一。
「えーとね真琴。コンテストは学校関係者だけが対象なの。だから生徒じゃない真琴は、参加できないんだよ」
「えーっ?!」
名雪の説明を聞いて、真琴が頬を膨らませる。
「そういう事だから諦めろ。お前の美しさとやらは、また別の機会に取っておくんだな」
祐一がそう言いながら、手の平で隣席の真琴の頭を軽く叩くと、真琴は祐一の手に噛みついた。
「それじゃ名雪は参加するのかしら?」
じゃれ合う(?)祐一達を見ながら、秋子が楽しそうに尋ねる。
「え? う〜ん、参加っていうか……ねぇ祐一、コンテストの参加は全校生徒の投票で決まるんだよね?」
「うん?」
名雪に説明を振られて祐一が一瞬少し口ごもる。
祐一にじゃれついていた真琴も、秋子の質問に興味を持ったのか、大人しくなって祐一の言葉を待っている。
そんな秋子と真琴の興味深そうな視線を受けて、祐一は溜息を一回つくと、ゆっくりと口を開いた。
「まず最初は予選だ。校内における全ての女性が対象となるから、教職員も含まれる事になる」
三人は黙って祐一の説明に耳を傾けている。
「投票は女生徒も可能であるから、勿論自分に票を入れても構わない。無記名投票だから秘匿性は保たれるぞ。投票は本人が投票所へ足を運び、直接その場で記入する方式だ。故に棄権者の投票数はそのまま無効票となり、別の者がその浮動票を不正に使用する事は出来ない様になってる。投票結果は今から四日後、つまり火曜日の放課後に発表され、上位五名が本選へ進む。尚、その結果は人権、人間関係、立場等諸々の保護という目的から公表はされないが、女生徒自身から問われれば、その本人の結果のみを伝える事も出来る」
「つまり、予選終了の段階で、自分に何票入ったか知ることが出来るんだ?」
「そういう事だ。例え一票でも入っていれば、校内に自分の事を好きだと思っている人が居る……と判って、良い気分になれるかもしれないが、逆に一票も入っておらず落ち込む可能性だってある」
「うーっ……何だか怖いね」
「予選の段階での結果は、ついつい外見的な部分が多分に重要視されてしまうわけだが、最終的に選ばれる者には内面的な美しさも要求される事となり、本選ではそういった部分を見て貰うため、色々な試験や勝負をしてもらう事になる」
「どんな試験とか勝負をするのかしら?」
秋子が興味深そうに尋ねてくる。
「実は俺も知らないんですよ。住井や折原が考える事だから……妙な期待はしない方が良いと思います。むしろ、ろくな物じゃないと考えておいた方が良いと思いますよ。まぁエンターテイメント性に関しては問題なさそうですけど」
「優勝者には何か商品でもあるのかしら?」
「あ、そうそう凄いんだよ!」
秋子の言葉に慌てて反応したのは名雪だった。
「あら? 何か貰えるの?」
「賞金が50万円だって。イチゴサンデー五百杯食べてもお釣りが来るんだよー。毎日食べても一年以上保つ計算なんだよー」
目を輝かせて答える名雪だが、その基準に祐一は思わず苦笑する。
「随分とすごい金額なんですね」
本当に驚いているのかどうか疑わしい程、普段と変わらぬ態度の秋子。
「ええ。実は賞金以外にも副賞がありまして……これらは本選出場者に分配される予定ですが、とにかく節操が無い程に一貫性の無い賞品が集まってるみたいです」
「漫画もあるのかな? 真琴も出たかったなぁー」
なおも興味を持っているらしい真琴が、残念そうに呟いた。
「止めておけって」
「祐一は乗り気じゃないの?」
「正直あまり乗り気じゃないぞ。折原や住井と違って、俺は平穏を愛する人間だからな」
「そ、そうなんだ?」
祐一に平穏という言葉が似合わないと感じた名雪が、言葉を喉に詰まらせる。
「というわけだから、名雪も覚悟決めておけよ」
「え?」
祐一が目を逸らして呟いた言葉の真意が判らず、名雪が首を傾げる。
「うふふ。祐一さんはね、名雪が本選に残るんじゃないかって言ってるのよ」
理解できなかった名雪に、秋子が優しくも楽しげな声で答えると、名雪は頬を赤らめてしまう。
「ええーっ! そ、そうかな? わたし結構いけてる?」
「……そういう返事をする辺りはいけてないが、まぁ見た感じは悪くないだろ。天然ボケや寝ぼすけっぷりも、人によっては可愛いと言えなくもないしな」
「うーっ。何か喜んで良いのか判らない表現だよ」
「名雪、出るからには優勝よ! 真琴の分まで頑張ってね」
真琴が目を燃やしながら、身を乗り出すと名雪の手をぎゅっと握る。
「えー? わたしが優勝なんて無理だよ」
「何言ってるのよ。この”可愛い真琴のお姉さん”なんだから、優勝出来るに決まってるわ」
真琴が握っていた手に力をこめて力説する。
「う、うん……」
名雪は真琴の言葉の微妙な表現に、難しそうな表情を浮かべる。
「うふふふ」
そんな様子を見て、秋子は楽しげに微笑んでいた。
「はぁ〜」
祐一だけは未だに溜息を付き、これから起こりうる騒動に頭を悩ませていた。
|
§ |
「さて、お姉ちゃん! 作戦会議ですっ!」
姉の部屋にノックも無しで飛び込んだ栞が、開口一番そう叫んだ。
「栞? ノックぐらいしなさい。失礼でしょ?」
机に向かって勉強をしていた香里が、そんな妹の行動をたしなめるが――
「お姉ちゃん、今はノックをする時間すら惜しいんです!」
栞は全く意に介さず、部屋の中央までずかずかと進む。
「……で、何の作戦会議なの?」
面倒臭げに言いながら、目線を机に戻すとノートに再び鉛筆を走らせる。
「お姉ちゃん! そんな勉強なんてしてる場合じゃないですよ。もう、こんなものは没収ですっ」
そう言うと、姉が書き込んでいたノートをひたくる様に取り上げる。
「も〜何するのよ?」
香里が諦めたように栞の方へ振り返る。
「いいですか? 投票結果が出るまで四日……明日と明後日は学校が休みだから、実質的には月曜日と火曜日しかないんですよ。今から対応を練っておかないと、本選で恥をかきますっ!」
「予選、本選って……あなた、コンテストに選ばれるつもりでいるの?」
「当たり前です!」
栞は薄い胸を精一杯張りながら、力強く断言する。
「……なら、頑張りなさい。お姉ちゃんは精一杯応援するわ」
「何を言ってるんですか!? お姉ちゃんも一緒でなければ意味無いです!」
「え? ちょっと待ってよ。あたしも?」
「そうです。美坂の名をこの街における”美人姉妹”の代名詞にするのが、私達の野望……いえ、使命なんです!」
栞が小さな拳をわなわなと振るわせながら力説する。
「あのね栞。自分が出たいと思っても、票が集まらなければ本選には進めないのよ? だから頑張ったところで何も出来ないわよ」
「ちっちっちっちっ……甘いです。お姉ちゃんの考え方は甘すぎます。山葉堂の練乳ワッフルの様に甘いです!」
香里の眼前で、立てた人差し指を揺らしながら栞が叫ぶ。
「如何なる戦いも、勝負を諦め、勝利の為の努力を怠った時点で負けが決まってしまうのです! お姉ちゃんは”可愛い私の姉”なんですから、そんな気持ちでは駄目です!」
「そ、そうかしら?」
栞の普段見せぬ迫力に、圧され気味の香里が思わず頷く。
「そうです! 戦う前から諦めてしまうなんて、神が許してもこの私が許しません。そして、やるからには勝たなければなりません。どの様な手段を用いようともです!」
「そんな事言って、具体的に何をするのよ? まさか選挙活動みたいに、『貴方の一票を』何ていうわけ? 嫌よそんなの」
「私だってそんな事するの嫌です」
「じゃぁ何をするのよ?」
「いいですかお姉ちゃん。要はこの四日の内に、男子生徒の評判を高めれば良いんです」
「随分と簡単に言うけど、評判なんて僅か数日で上げられるものじゃないわよ?」
香里の言葉に、栞は失望した様な溜息をつく。
「はぁ〜、お姉ちゃんは真面目過ぎます。そんな馬鹿正直ではこの戦いに生き残れません!」
「もう……別にあたしは良いわよ。コンテストなんかに興味ないし。あたしなんかよりも可愛い子なら、他にも居るんだし」
「そんなんだから、お姉ちゃんは、”アケミ”とか”高校生のくせにケバイ”とか言われるんです。これは良い機会です。学校では堅物年増女と思われているお姉ちゃんが、実はぬいぐるみが溢れている部屋で、巨大なぬいぐるみを抱きつつ、ピンクのフリルの付いた可愛らしいパジャマで寝ているくらいの可愛い女性だという事を、全校生徒に知らしめるべきです! その為には、お姉ちゃん自身の自覚も必要なんです。この可愛い美坂栞の実姉なんですから、その辺しっかりと認識してもらわないと、私が困るんです!」
「ねぇ栞? さっきから微妙に酷い事いってな……」
「美人はそんな細かいこと気にしちゃ駄目ですっ!」
香里の言葉を遮ると、栞は両手で姉の肩を掴んで力強く揺する。
「わ、判ったわよ。もう……でも、どうせあたしが本選に勝ち残るはずないわよ?」
香里はそう答えると、心底諦めた様に深く溜息をつく。
「大丈夫です。お姉ちゃんには有力なバックボーンが有るんですから、それを利用しない手は有りません」
栞はそう力強く述べると、口元に笑みを浮かべて姉の目をじっと見つめた。
「……強力なバックボーン? 何よそれ……まさか?」
妹の言葉に、香里は脳裏にある男の姿を思い浮かべ、少し嫌そうな表情をする。
栞はそんな姉の態度を見て、目を細めてにっこりと笑った。
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§ |
その日、佐祐理は舞のアパートを訪れていた。
六畳一間のアパートの一室、飾り気の無い簡素な部屋の中央で、ちゃぶ台を挟んで舞と佐祐理は話し合っていた。
「これは舞にとってチャンスだよ」
佐祐理が笑顔ではあるが、普段よりも力の籠もった視線で舞を見ている。
「……別にいい」
だが、舞の方は至っていつもの調子で淡々と答えるだけだった。
全く興味を感じていないらしく、彼女の視線は、ちゃぶ台の上に置かれた湯飲みから立ち登る湯気に向いている。
「駄目!」
そんな舞の態度に、佐祐理はちゃぶ台の表面を両手で叩き、普段の彼女からは想像も出来ない程の大声で反論をした。
ちゃぶ台の上の湯飲みが音を立てて揺れ、舞は佐祐理の勢いに思わず仰け反って目を見開く。
「……佐祐理?」
「舞がどれだけ可愛いくて、どれだけ優しい女の子か判って貰うには、今回のコンテストは絶好の機会です。未だに舞の事を畏怖の目で見る生徒が居ると思うと、佐祐理は居ても立っても居られません! ええ、佐祐理が万全の協力をするから、舞は大船に乗った気で居ていいよ」
佐祐理はそう言って自分の胸を軽く叩いて見せる。
「……」
親友のいつもと異なる態度に、舞はただ頷く事しか出来なかった。
舞が頷いた事で、佐祐理も満足な表情で「うんうん」と頷いている。
「それにね〜舞。優勝出来たら祐一さんが、とっても喜んでくれるよ」
佐祐理が両手の平を胸の前で合わせて、笑顔で言う。
「……祐一が喜ぶの?」
親友の言葉に、舞は表情を少し明るくする。
「うん。自分の恋人が校内一の美少女となれば、祐一さんも大喜び間違いなしだよ〜」
そう答えると、佐祐理はちゃぶ台を横にズラして、座ったままの姿勢で器用にズリズリと進み舞の両手を掴む。
「だから頑張ろ。ね?」
佐祐理の言葉に、舞は先程よりもはっきりと頷いた。
「よ〜し」
そんな舞の返事に、佐祐理は更に満足そうな笑顔を浮かべ、握った両手を上下に振る。
飾り気の無い狭い部屋の中で、手を取り合って(?)喜ぶ美少女二人の姿は、客観的に見るとどこかシュールだ。
「でも……」
佐祐理のなすがまま腕を振られてる舞が、表情を変えずに呟いた。
「ん?」
「佐祐理も優勝すれば、祐一はもっと喜ぶと思う」
舞の言葉に、佐祐理は腕の動きを止めて照れた表情を見せる。
「あははー。優勝は一人しか出来ないんだよ? それに佐祐理はちょっと頭の悪い、普通の女の子だから無理だよー」
彼女のこの台詞は、聞く者によっては謙遜という言葉では、正直割り切れない思いを抱くであろうが、本人としてはいたって真剣にそう感じているらしい。
「でも……佐祐理や祐一が嬉しい事は、私も嬉しい。だから佐祐理が優勝すれば、私も祐一も嬉しいはず」
本気で無理だと思っている佐祐理に対する、舞にとっては精一杯の言葉。
言い終えて気恥ずかしさを感じたのか、舞は頬を赤らめて顔を伏せる。
そんな彼女の態度に感動した佐祐理が、舞の身体を抱きしめる。
「有り難う舞。佐祐理はとっても嬉しいよ」
舞の耳元でそっと囁く。
「……」
舞は黙って頷いた。
「舞が応援してくれるなら、佐祐理も頑張ってみようかなー。あははは……」
照れくさそうに笑う佐祐理の身体を、舞はぎゅっと抱きしめ返す。
「よっし、それじゃ二人で頑張ろう! 祐一さんと、お互いがもっと喜べるようにね」
佐祐理の言葉に、舞は少し力強く頷いた。
祐一の心配も知らずに、件の二人は既にやる気に満ちて、互いに勝利を誓い合っていた。
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§ |
「それにしても、茜がミスコンに乗り気になるなんて……一体どういう風の吹き回し?」
珍しく茜に呼び出され、彼女の部屋に赴いた詩子が、茜から話を聞いて驚きの声をあげる。
「別に……」
ベッドに腰掛けた茜が伏し目がちに答える。
「そんな事ないでしょ? 茜がこんな積極的にイベントに参加する事なんか無かったじゃない。この間の学園祭の時だって、あたしが背中を押して上げて……」
ベッド脇の床に座っていた詩子が、当時を思い出しつつ楽しげに答える。
「詩子がその時に言ってました。『私には押しが足りない』と」
茜の返答に、詩子が感心と驚きが混ざった表情で「へ〜」と声をあげる。
「なるほどね。そういう事なら、この詩子さんが全面的にバックアップして、茜の素晴らしさを校内に広めてあげるわ。そーすれば折原君も、茜の魅力に気が付くでしょ。うん」
そう笑顔で答えると、膝の上に置かれていた茜の手に、自分の両手をがっちり携える。
「でもさ、コンテストに優勝できたからと言って、折原君が茜に振り向くとは思えないわよ?」
「良いんです。その時は、私の自己満足で終わらせますから」
茜の返答に含まれている意味を察し、詩子が少し驚いた表情を浮かべる。
「へぇ〜瑞佳さんにさえ勝てれば良いわけ?」
詩子の言葉に少し間を空けて、茜は頷いた。
「おー。茜って結構執念深いのね?」
「……私は、単にあきらめが悪いだけです」
茜の呟いた言葉は、目の前の親友に対する答えというよりも、まるで自分自身に言い聞かせているかの様だ。
「そうね。茜は昔からそうだもんね。司の引っ越しの時だって、子供だてらに最後まで抵抗して……ふふっ、懐かしいね?」
「ええ」
二人の脳裏に共通の幼なじみの顔が浮かぶ。
しばらくの間、部屋に沈黙の時が流れる。
「それにしても……茜が惚れる男って、なんでこう別の女の子と付き合っちゃうんだろうね〜」
「私に女としての魅力が無いからでしょう……」
目を閉じて諦め口調でそっと呟く。
「んもぉー。茜は可愛いんだから、もっと明るくすれば、男なんか選り取りみどりよ?」
「今更性格は変えられません。それに、男の人と付き合いたいわけじゃないです」
「はいはい。茜は一途だからね。でも楽しそうなイベントね? この詩子さんも参加したいなぁ〜」
そう言って座っていた茜の膝に頬を乗せて、顔を上目づかいでじっと見つめる。
「無理です」
「そんなはっきり言わなくても……およよよ〜、あたしショック」
詩子が妙に演技がかった仕草で、その場にへたり込み、床に指でのの字を書いている。
「……」
そんな詩子を慰める事もせず、茜はテーブルの上に置いてあったカップを取って口に運ぶ。
「茜ってば冷たいー」
詩子は直ぐに立ち直ると、頬を膨らませて講義する。
「そうですね……私は冷たいのかもしれませんね」
カップを戻しながら、茜は少し悲しげな表情を見せる。
「大丈夫。茜が優しい子だって事は、詩子さんが知ってるよ。だから、今度は他のみんなにも知って貰おうね」
珍しく優しげな表情を見せると、再び茜の手に、自分の手を重ねていった。
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「ミスコンか……ううっどうしたら良いの?」
七瀬は一人で、自室の布団の上でゴロゴロと転がりながら、悩んでいた。
既に数え切れない程反復運動を繰り返した結果、自慢の長い髪は乱れ絡まっている。
そんな状態も気にせず、部屋を横断する様に、布団をも越えて部屋の隅から隅へと転がっている。
「これって、あたしが完全無欠の乙女になるために神が与えた試練なのかしら?」
自分に問い質すように、独り言を呟いては回転を止め悩み、そして再びゴロゴロと転がりだす。
「この半年頑張った成果を示すには絶好のチャンスよね。うん」
部屋の隅にあるタンスに行き当たると、その場で再び呟く。
「……でも、当然瑞佳や名雪、それに倉田先輩なんかは、あたしなんかより人気ありそうよね。ううん、あたしなんかが瑞佳に叶うわけないわよ」
自分の導き出した答えに軽いショックを覚え、再び身もだえしながら部屋の中を転げ回る。
乙女を極めんと努力を続けている七瀬にとって、今回のコンテスト開催は彼女の今までの努力が試される事になる。
しかし彼女自身が自分よりも乙女らしいと認めている存在であり、自信の目標であり憧れでもある瑞佳に勝てると思うほど、自惚れているわけでもない。
だが、完璧な乙女を目指す以上、瑞佳に勝つことは避けて通れぬ道。
七瀬を襲うアンビバレンスな衝撃。
再び部屋を横断して端まで転がり壁に突き当たったところで、携帯電話が着信のメロディを奏でる。
「誰だろ?」
乱れた身なりを直しつつ立ち上がると、机の上に置いてあった携帯に手を伸ばす。
「あれ? 広瀬からだ……何かしらね」
意外な人物からの電話に驚きつつ、着信ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし?」
『あ、七瀬? 私だよ〜」
「どうしたの? 広瀬があたしに電話なんて珍しいね」
『まぁね。猫被りの七瀬の事だから、きっと今頃どうやって本選までに、自分の好感度上げるか考えてたんじゃないの?』
「あほっ! そんな事考えてないわよ」
『本当〜? だってあなた未だに乙女目指してるんでしょ? 似合わないからいい加減止めておきなさい』
「あんた喧嘩売りに電話してきたの?」
『違うわよ。ただ必死に似合いもしない乙女を目指してる哀れな子に、アドバイスを……と思ってね』
「やっぱり喧嘩売ってるじゃない」
『まぁまぁ。七瀬ってば、今回のコンテスト本選出場狙ってるでしょ?』
「え? ……そ、そんな事」
『微塵も思ってない何て言わせないわよ』
「うっ……」
電話越しに伝わる広瀬の迫力に、七瀬が口ごもる。
『七瀬って引っ越してきたばかりの時、男子の目を気にして必至に人格作ってたじゃない。今回はああ言うことしない方が良いわよ』
「どういう意味よ?」
『別にぃ〜。ただ、投票権は男子生徒だけのものじゃないって事を言いたいのよ』
「はい?」
『女生徒だって投票権が有るのよ。今から新しい男子の票を獲得するのは難しいけど、女生徒の票なら集める事が出来るんじゃないの?』
「え? でも」
『七瀬って女生徒、特に下級生には結構人気有るのよ。知らなかった?』
「え〜? そ、そうなの?」
『そうよ。だから無理に男子にいい顔しなくたって、票を集める事が出来るって事よ。参考になった?』
「うん……でも、どうしてそんな話を?」
『別に〜。強いて言えば、私がもう七瀬の事を嫌ってないって事を判って貰いたかったかな?』
「私だって別に嫌いじゃないわよ」
『私はね、猫被ってないありのままの七瀬が好きよ』
「え?」
『ううん。何でもないわよ。それじゃ頑張ってね。私も応援してるから……みんなに認められるといいわね』
「うん。有り難う」
『それじゃお休み〜』
「おやすみ」
電話を切ると、七瀬は広瀬の言葉を思い出して首を傾げる。
「うーん……広瀬ってば一体どうしたのかしら?」
呟きながら電話を握ったまま、再び布団に倒れ込む。
「でも……あたしって、下級生の女の子に人気あったんだ。本当かしら? えへへへっ……」
目を閉じると、瞼の裏に中学時代に憧れていた先輩の姿が蘇る。
竹刀を構え凛とした姿の女生徒に、多くの下級生が声援を送っている。
そしていつの間にか、声援を送られている先輩の姿が、自分の姿に変わっている事に気が付き、七瀬は勢いよく瞼を開く。
「ぐわっ! 私ってば何て大それた想像を!」
照れ隠しに頭を枕に沈めて、布団の表面を両手で乱暴に叩いていると、七瀬の手の中で携帯が再び着信メロディを奏でる。
「また広瀬かしら? あ!」
携帯電話に映し出された相手の名前を見て、七瀬が慌てて着信ボタンを押す。
『あ、七瀬さん? こんばんは』
「瑞佳? ど、どうしたの?」
高鳴る鼓動を抑えつつ、彼女としては十分に平常を装って返事をするが、その努力も空しく、彼女の声はうわずっていた。
『えっとね、明日の土曜日なんだけど。暇かな?』
「も、勿論暇よ。うん。間違いなく暇!」
用件も聞かぬ内から、七瀬は声を荒げて答える。既に平常心は地平線の彼方へ飛んでいた。
『そうなんだ。あのさ、よかったら明日買い物に付き合って貰いたいんだけど、良いかな?』
「お、オッケーよ。雨が降ろうが雪が降ろうが、コロニーが落ちてこようが行くわ」
『あはっ。七瀬さんって面白いね。それじゃ正午に駅前でいいかな?』
「うん判った。正午ね」
『有り難う七瀬さん』
「ううん気にしないで。でもどうしたの急に?」
『えへへ。実は、浩平と約束してたんだけど、用事が出来たらしくて……それで、一人じゃ寂しくて……本当に急でゴメンね』
「え?……そ、そうなんだ」
瑞佳の口から折原の名前が出た事で、七瀬の気分は一気に現実へ引き戻された。
『七瀬さん? やっぱり迷惑だったかな?』
「ち、違うの。大丈夫よ。それじゃ明日必ず行くから。あ、折原と違って遅刻なんかしないから安心して」
その言葉が、七瀬にとって精一杯の強がり。
『うふふふ。そうだね。それじゃまた明日ね。お休みー』
そんな含みも気が付かずに、瑞佳は元気な声でそう締めくくった。
「うん、お休み瑞佳」
”ピッ”と短い電子音と共に通話が切断されると、七瀬は布団の上で仰向けになったまま、手にしていた携帯電話を乱雑に放り投げた。
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「ふぅ……美味しくて思わずいっぱい食べちゃったわね〜」
郁未はステアリングを握りつつ、助手席に座っている澪に言葉をかける。
狭いAZ−1のシートに収まった澪は、いつも持ち歩いているスケッチブックを膝に乗せて心底嬉しそうな顔で頷いた。
「それにしても上月さん? 部活を頑張るのもいいけど、体調を崩した日くらいは、大人しく帰らなきゃ駄目よ」
保険医という立場を考え、郁未が口調を幾分かきついものにして注意を促す。
そんな彼女の言葉に、澪は少し落ち込んだ様な表情で小さく頷いた。
最後の授業中に少し体調を崩した澪に、郁未は大事を取って帰宅を奨めたが、頑張り屋の澪は暫く保健室で休んだ後、結局部活動に参加した。
その結果、今度は部活動中に転倒して、脚を軽く怪我してしまった。
保健室に運ばれたばつの悪そうな表情の澪を見て、郁未は溜め息を付いて迎え入れた。
普通の薬品治療に加えて、少しばかり不可視の力での治療も施した事で、怪我そのものは早く治癒できたが、郁未は”今度こそ”大事を取って帰宅を命じた。
丁度、下校時刻も迫っていたので、部長の雪見に断りを入れて澪を預かると、郁未は自分の車で澪を送ることにしたのだ。
その際、郁未の提案で一緒に食事をとる事になった二人は、澪のリクエストに従い回転寿司屋を訪れた。
”食事は一人よりも二人”がモットーの郁未は、こうして時々生徒を食事を誘う事もあり、この事もまた、彼女の人気を根強いものにさせている要因の一つだった。
そして今、胃の中に数々の魚介類を詰め込んだ二人は、車に揺られながら一路澪の家へと向かっている。
「でも……そんな一生懸命なところが、上月さんの良いところなんだけどね」
落ち込んだ澪を励ます様に言葉をかけると、彼女の表情はうって変わって笑顔に戻る。
そんな”ニコニコ”という擬音が聞こえてくるような笑顔に、郁未もつられて顔を綻ばせる。
「それにしても、澪ちゃんって本当に可愛いわねぇ〜」
澪の笑顔を見て、郁未は心から感じた感想を素直に口にする。
ただ、(本当に高校生かしら?)という疑問は、考えることだけに留めておいた。
「……」
誉められた事で照れてしまったのか、澪は顔を真っ赤にして俯く。
「うーん、これは上月さんのファンって結構居るかもしれないわね。この間の学園祭での舞台も凄かったし……ひょっとして、今度のコンテストて優勝なんかしちゃったり?」
冗談っぽく言う郁未に少し怒ったのか、澪がスケッチブックで郁未の肩の辺りを叩く。
「わっ上月さん、運転中運転中!」
郁未が慌てて言うと、澪は自分の行動を自覚し、直ぐに手を止めて頭を下げる。
その後で、澪は車内の狭さと車の振動に手惑いつつも、スケッチブックを開きペンを走らせて郁未にかざす。
『ごめんなさい』
見開かれたページには、振動で乱れてはいるが、大きな文字でそう書かれていた。
「あ〜、そんなに気にしなくても良いわよ」
郁未がそう良いながら、左手を伸ばして澪の頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細めて、嬉しそうな表情を見せる。
「それにしても……あの子達も大したものよね〜。まさか外堀から埋めていって、ミスコンの開催を学校側に認めさせるなんて……どこの世界に、学園祭でも無い平日にミスコンやる学校があるのかしらね」
今回の一件の手際の良さに、郁未は呆れを通り越して感心すら覚えていた。
以前、二年四組の面々に対して、進歩や成長や学習という文字が欠落していると指摘した事が有ったが、むしろ進化してると評価を改める必要がある、とさえ思い始めている。
もっとも、その成長のベクトルは、他の者達とはだいぶ異なる様ではある。
郁未が呟いている間、澪はひたすらペンを走らせていたが、伝えたい事が書き終えたのか、スケッチブックを郁未へ向ける。
自分へ向けられたスケッチブックに気が付くと、郁未は運転の合間を縫ってその内容を読み上げる。
「え、何? 『郁未先生が出れば優勝間違いなしなの』? ……有り難う。でも私みたいなオバサンじゃ、誰も相手にはしないわよ」
苦笑いと共に答えた郁未の言葉を聞いて、澪が”ふるふる”と首を振る。
そして再びペンを走らせ――
『先生は美人なの。格好いいの』
と、大きな字を書き込んだ。
「そっか……ふふふ。有り難うね上月さん。そう言って貰えて先生嬉しいわ」
笑顔で答える郁未に、澪もまた笑顔を返す。
「え〜と、上月さん家はこの先だったわね」
頷く澪を確認して、郁未はAZ−1を進路変更させるべくステアリングを切る。
「それにしても、本選での決着方法って何やらせるのかしらね〜。まさかこの季節に水着審査とか?」
郁未の言葉に澪は恥ずかしそうな表情で俯く。
「あ、上月さん照れてる。ひょっとして自分が本選に選ばれて、水着を着てる処を想像しちゃったのかな〜?」
からかう郁未の肩を、今度は何度もスケッチブックで叩く。
「あ、ごめん、冗談よ。冗談だって〜」
澪のスケブ攻撃を、郁未は心底楽しそうに笑って受け止める。
狭い車内に、郁未の笑い声が響き渡っていた。
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「でね、わたしは雪ちゃんなら結構いい線いってると思うんだよ」
「はぁ?」
親友の言葉に、雪見は思わず素っ頓狂な声を上げて箸を止める。
ここは馴染み深いみさきの家のリビング。
共稼ぎの両親が揃って急な仕事が入ったとかで、夕食もままならない親友を助ける為に雪見はこの家にやってきた。
こうして二人だけで少し遅い夕食を頂いていたのは、以上の様な理由からだった。
簡単な食事程度なら自分で作れてしまう程、自宅内のレイアウトを熟知しているみさきではあるが、こうして家族が居ない時があると、雪見を呼び出して共に食事をする事が多い。
そんな事がよくある所為か、雪見はみさきの家の合い鍵を彼女の両親から手渡されている。
雪見の方も手慣れたもので、みさきに呼び出されては家に上がり込み、勝手に冷蔵庫等を開けて食事を作ったりして世話を焼いている。
端から見れば仲の良い姉妹……と見えなくもない。
そして今、雪見の作った料理を二人でついばんで――みさきに限って言えば、掻き込んでいるといった方が正しい――いるさなか、みさきが口にしたその内容の唐突さに、虚を突かれた雪見がその動きを止めたのだ。
「だから、コンテストの話だよ」
「大食いコンテストなんか有ったかしら?」
雪見の皮肉に、みさきが眉を寄せて不満げな表情を作って「うーっ」と唸り声を上げる。
「違うよ。ミス学園コンテストの事だよ。ほら、雪ちゃんって美人だから、結構人気あると思うんだ」
「はいはい、お世辞ありがと。大体みさきは、中学生の頃までのわたししか知らないじゃない」
そう言い捨てると、雪見は再び食事を再開した。
「そうだけど……当時の雪ちゃんって、絵に描いたような美少女だったし、きっと今は綺麗になってると思うんだよ。しかも演劇部の部長さん。舞台の上でスポットライトを浴び、キラキラと輝く雪ちゃんは、周囲から羨望の眼差しで見られてるはずだよ」
「みさき、あなた変なモノでも拾って食べた? それとも熱でも有るのかしら?」
再び食事の手を休めると、腕を伸ばして向かい側に座るみさきの額に手を当てる。
「酷いよー。せっかく誉めてあげてるのに……それにわたしは、拾った物はちゃんと洗ってから食べるよ」
憮然とした表情で不満を漏らすみさきだが、先程から食事の手は休めていない。
そんな様子にも、もはや動じる事もない雪見は、みさきの言葉を黙殺しつつ、彼女の額から手を戻して食事を再開した。
「……冗談だよ?」
「みさきの場合、冗談じゃないと思えるわね」
「でね、コンテストの話だけど、わたしは雪ちゃんが優勝すると思うんだよ」
「はいはい」
「コンテストに優勝したら、宣伝モデルにも起用されるんだよ。きっと優勝した雪ちゃんは最初こそ、商店街のポスターとか地方CMに出る程度だけど、卒業と同時にローカル放送局のキャスター辺りに落ち着いてTVに進出。やがて有名なプロデューサーの目に止まって東京進出を果たし女優に転向。ついには念願適って大女優になって、わたしの事なんかぱーっと忘れちゃうんだよ」
「あのね……どうしたらそんな突飛な発想が出来るのか、一度みさきの頭蓋骨を切開して脳味噌を調べてみたいわね」
深い溜め息をつくと、喋りながらも食事を続ける親友を、呆れた表情で見つめる。
「でも、雪ちゃんって女優さんになりたいんだよね?」
みさきはそう言うと、初めて食事の手を休め真剣な表情を見せる。
「え?」
そんな彼女の態度の豹変に、雪見は思わず驚きの声を上げる。
「違うの? 昔言ってたよね『わたしは女優さんになるんだ』って」
「それってわたし達が小学生の頃じゃなかったかしら? よく覚えてたわね」
「うん。だってその時の雪ちゃんの顔、とっても輝いていたから……あの時、わたしが言った夢は叶わなくても、雪ちゃんは自分の夢を叶えて欲しいと思ってるんだよ」
みさきの言葉に、雪見は息苦しさを感じる程に驚いた。
子供の頃、誰もが語る将来の夢。
しかし殆どの者が己の限界や、現実の厳しさを知り、それを単なる絵空事、子供の無知で気楽な頭脳が出した、文字通りの夢として片づけてしまう。
(でも光を失ったあなたは、その分あの時の輝きを今でもそのままに覚えているのね。でも、わたしは……)
雪見は目を閉じて、当時の状況を思い出してみた。
お互いが着ていた服、辺りの風景、空の色、そして互いの表情はどんなだっただろうか?
雪見には、そのどれもがぼんやりとしたイメージでしか思い出せない。
「雪ちゃん?」
自分の名を呼ぶ親友の声に、我に戻ると目を開く。
「そうね」
「え?」
「わたしが女優になったら、みさきは嬉しい?」
「うん、すごく嬉しいと思うよ。でも……忙しくなって、わたしとこうして一緒にご飯食べたり出来なくなるんだろうね。それはちょっと悲しいよ」
「そっか……ま、そんな事にはならないから安心しなさい」
優しい声でそう答えると、雪見は料理を口に運び、「美味しいわね」と、嬉しそうに呟いた。
「……うん。雪ちゃんの料理だしね。二人で食べる食事は美味しいんだよ」
みさきは少し複雑そうな表情をしていたが、すぐにまた笑顔で答えると、彼女のすぐ横に置いてある炊飯器を開け、慣れた手つきでご飯をよそう。
「くすっ……みさきは、ご飯なら何だって美味しいでしょ?」
「そうかな? そんな事ないと思うけど」
「そうよ」
二人の間に、ゆっくりと優しい時間が流れてゆく。
笑顔でご飯を頬張るみさきを見て、雪見は再び自分たちの夢を語り合った、あの頃の光景を思い浮かべてみた。
(そう、確か……)
その中で、みさきは雪見に笑顔を向けてこう言っていた。
『わたしはね〜。雪ちゃんのマネージャーになるの。そして一緒に沢山の事をするんだよ』
その時のみさきの声と夕焼け空の色を、雪見ははっきりと思い出していた。
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あとがき |
続く> |