窓から差し込む日差しが、この世界に新しい朝が来たことを伝えている。
学園祭に向けて模擬店としての装飾が施されているばかりか、戦車などという非現実的な物が鎮座しているものの、そこは紛れもなく、現実の二年四組の教室だった。
朽ち果てた姿を見慣れていた所為だろう……多少の汚れはあるが、しっかりとした床や壁は、それだけで俺を安心させてくれた。
見慣れたはずの教室に初々しさを感じて心が踊り、キラキラと輝く光景に――空気中の埃が朝日を受けて輝いているだけだろうが、何とも言えない美しさを感じてしまう。
そしてこの教室――そしてこの学校のある地こそ、俺が仲間達と日常を謳歌し、舞が出会いを果たした大切な場所なのだ。
思わず感慨に耽っていた俺の耳に、寝息やいびきが聞こえてきた。
ふと周囲に目を向けると、模擬店としての姿をほぼ完成させてある教室の至る所で、仲間達が身体を横たえているのが見えた。
その中――窓際の床に敷いた段ボールの上に、寝息を立てている男子生徒の姿がある。
ゆっくりと近付いて伺い見ると、何の悩みもなく気楽そうな寝顔をしている自分の寝顔があった。
途端、俺は自分自身に対して無性に腹立たしさを感じた。
「ったく、人の苦労も知らんとこの野郎は……スヤスヤと気持ちよさそうに眠りやがって!」
俺は怒気を含んだ声と同時に脚を振り上げると――
「起きろこの野郎っ!」
怒りの籠もった必殺の左脚を、眠る自分の脇腹目がけて振り下ろしてやった。
「うぎゃぁっ!」
目の前の俺が悲鳴を上げて飛び起きる。
そして同時に、夢の世界の相沢祐一である俺は意識を失い、その役目を終えて消滅した。
■エピローグ
「うぎゃぁっ!」
まるで何者かに蹴られた様な痛みが脇腹を襲い、一気に目が覚めた。
「痛ぇ……あれ?」
脇腹をさすりつつ上半身を起こして周囲を見回すが、そこに賊らしき姿は見えなかった。
「気の所為……にしては、やけにリアルに痛いんだが……ふ、ふぁ〜あ?」
盛大なあくびをして周囲を改めて見回し、自分が水瀬家の自室ではなく、教室に居るのだという事に思い至る。
「う〜ん」
昨夜は確か遅くまで起きていたわけで、当然ながら寝不足気味のはずなのだが、今感じている身体を包む気怠さは、むしろ寝過ぎた時に感じるものに近い。
上半身を起こした姿勢でぼんやりと朝日を眺めること数十秒――頭脳がじわじわと覚醒してゆき、今の状況を完全に思いだした。
そう、俺は今日から始まる学園祭の準備の為、昨夜も泊まり込んで最後の仕上げを行っていたのだ。
「そっか……今日は学園祭の初日」
俺の呟きに答えるかの様に、窓の外から木を打ち付けている音が聞こえてきた。
恐らく当日になっても準備作業を続けているクラスだろう。
「ふあ〜ぁ」
もう一度盛大なあくびをしてから、頭を掻きながら周囲を見回せば、教室あちこちに仲間達がその身を横たえているのが見えた。
「そっか……そういや、みんなも一緒だったっけ」
俺と同じく遅くまで作業をしていたので、ほぼ全員が着の身着のまま――制服姿で眠っている。
扉近くの床には、だらしなく涎を垂らしながらいびきをかいている北川が横になっている。
教室の中央に鎮座しているレオパルドの脇では、ドイツ軍のヘルメットを抱いた住井が盛大ないびきをかいて眠っており、その横には迷惑そうな表情の南の姿も見える。
少し離れて、普段は教卓がある辺りには、俺と同じ様に敷き詰めた段ボールの上で、毛布にくるまって幸せそうに寝ている名雪と、その腕に抱かれて――恐らく名雪がけろぴーと勘違いしているのだろう――やや苦しげな表情で眠る七瀬が見える。
その横にある並べた椅子の上で静かに寝ているのは……毛布からはみ出ている髪の毛から察するに、香里だろう。となれば、その横で、同じように椅子の上で寝ているのは栞という事になる。
椅子を上手く列べて出来た簡易ベッドに列んで寝ている姿を見ると、改めて彼女達が仲の良い姉妹だという事を再認識する。
そして舞と佐祐理さんはと言えば……俺のごく近くで、美坂姉妹と同様に二人並んで、仲良さげに寝息を立てている。
そんな二人の寝顔を見た俺の顔に自然と笑みがこぼれるが、流石にじっと凝視するわけにも行かないので、今一度視線を動かして教室の奥へと目を向けてみる。
そこには段ボールでこしらえた簡易ベッドの上で眠る長森と、その近くの地べたで寝ている折原の姿が見えた。
普通に寝ている折原がどことなく不思議に――不気味とも言える――思えたので、そうっと近づいて横に立ち、不躾だと思いつつもその寝顔を見させてもらった。
折原は丁度目から下が毛布に隠れて表情は伺い知れないが、長森の方は悪夢を見ているのか、少し苦しげな表情をしている。
寄せられた眉が小さな皺を眉間に刻み、うっすらと開いた桜色の唇からは時折小さな呻き声が発せられ、額や首筋にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「ごめんな。でも、もうそんな顔するなって……夢だから、全部夢だったんだからさ」
そっと呟きながら、俺は静かに長森の枕元に膝をつく。
この北国では今頃――つまり十一月ともなれば、もう冬と言えるほどに気温が下がるが、魘されている長森の身体は寝汗に滲んでおり、そして間近に見る彼女の汗ばんだ白い首筋に、自然と俺の喉がゴクリと鳴った。
「はっ? いかんいかん!」
自分が鳴らした喉の音に驚き、頭を振って煩悩の軍団を追い払う。
そして、はだけた毛布をかけ直す為にそうっと手を伸ばすと――
「う〜ん……浩平……」
毛布を掴んだ俺の手に、長森が頬ずりする様に頭を押し付けてきた。
「おわっ!」
突然の行動にも驚かされたが、手の甲を伝わってくる舞や佐祐理さんにも劣らない申し分無い感触を受けて、俺の脳内に煩悩の大軍団が攻め込んで来た。
「な、な、な、何を俺は考えてるんだっ! な、な、長森は、ほら折原の……えーと、人様の彼女に何をドキドキしてる?! ってゆーかこれは俺の本意ではなく、そのつまり事故。そう事故なんだ。うん、そこに俺の意志は入っていないんだから、これは仕方がないんだ。くっそう……長森瑞佳侮り難し!」
理性に総動員令を発動して踏みとどまると、俺は慌てて手を引き抜いた。
だが、苦しそうな表情で魘され続けている長森を見て、俺は再び彼女へ向けて手を伸ばすと、その頭を出来る限り優しく撫でた。
俺の手を折原のそれと思って安心したのか、長森の表情が次第に安らかなものへと変わる。
そんな彼女の表情を見て、俺はごく自然に顔をほころばせていた。
長森には笑顔が一番似合うな――頭を優しく撫でながら、そんな事を考えた直後。
「!!」
全神経が背後から漂う強烈なプレッシャーを感じ取った。
警告警告警告警告! 非常事態宣言発令! 俺の身体を構成している全ての有機物質が、全員一致で「即刻この場より待避すべきだ」と脳に訴える。
判っている。
判っているのだが、背後からのプレッシャーは俺の神経経路にまで入り込み、脳から各筋肉へ伝わる運動命令をジャミングしてしまう。
それでも、やっとの事で命令を聞いてくれた首をゆっくり動かし、背後を伺い見ると――。
そこには、いつの間にか目を覚ましていたのか、興味深そうに俺を見ているみんなと、笑顔ながらも額にくっきりと青筋を浮かべている佐祐理さん、そして今まさに鞘から雪風を抜こうとしている舞の姿があった。
名雪までもが目を覚ましているのだから、彼女達の放ったプレッシャーの強さが伺い知れるというものだ。
「うわぁぁぁっ! ま、待て二人とも」
「あははははは〜舞〜、祐一さんはそう言ってますけど?」
「……私は……浮気者を討つ者だから」
「待て、絶対に何か勘違いしてるぞ。違うぞ、二人が考えてる様な事はなにもない!」
「あははーっ、祐一さん何を仰ってるんですか? 佐祐理は何も考えてませんよ」
「……祐一、その手は?」
「え?」
舞の言葉に、俺は慌てて長森の頭から手を離して後ずさる。
「う〜ん……あれ? みんなどうしたの?」
流石に周囲の慌ただしさに長森が目を覚ますが、状況が掴めずにきょとんとしている。
たじろぎながら後ずさる俺と、剥き身の雪風を手にジリジリと間合いを詰める舞。
笑顔ながらも目が笑っていない佐祐理さん。
若干怒った表情の七瀬と、まだ寝ぼけ気味の名雪。
呆れ顔の香里と、楽しげな表情で推移を見守る栞。
そしてやけに楽しそうな表情の住井と北川、そして南。
「え? え?」
長森は状況が掴めずに驚いている。
「祐一……覚悟は?」
「だから俺は何もやましい事はしていない!」
俺が後ずさると、床で寝ていた折原に踵が当たる。
同時に、教室の扉が開いて澪と川名先輩を伴った深山先輩が入ってきた。
『お早うなの』
「ねぇ美坂さん、今日の初公演の事でちょっと……って、あら?」
「浩平君お早う〜……わっ、雪ちゃん急に立ち止まらないでよ〜」
澪と深山先輩は、入ってくるなり教室内の状況を見て動きが止まり、二人に続いていた川名先輩は深山先輩の背中に頭をぶつけた様だ。
「おわっ!」
新たに現れた人物に注意が削がれ、後ずさる俺は床に寝ている折原に躓きバランスを崩す。
引っかかった俺の足が、毛布がめくり上げる。
そして教室中のみんなが一斉に声を上げた。
『あーーーーーーーーーーーーーーーっ!』
長森は驚きの表情で固まり、七瀬は肩を振るわせ、栞は何処か恥ずかしそうに顔を赤らめ、冷静な香里までもが驚いている。
他の者達も似たような反応だ。
「あ、貴女達何やってるのっ!?」
「折原ぁ〜っ! 貴様何と羨まし……じゃない、何と破廉恥な事を!」
いち早く立ち直った香里と北川が大声を上げる。
毛布の中で折原は、里村と柚木に両側から抱きつかれたまま眠っていたのだった。
「え? 何? 雪ちゃん、何が起こってるの?」
川名先輩は何が起きているのか判らずに、隣にいる深山先輩に尋ねている。
「あれ? ふぁ〜……お早う〜みんな〜。茜、ほら朝だよ〜」
周囲の声に目を覚ました柚木が、上半身を起こしつつ、何事もなかったかの様にのんびりとした口調で挨拶をする。
流石は究極のマイペース女だ。
「ん……」
柚木の声に反対側の里村も目を覚ます。
「あ、お早うございます。みなさん早いんですね……あっ」
ゆっくりと挨拶をしてから、自分の状況に気が付いたのか、ほんのり頬を赤らめている。
「お早う……って貴女、自分がどういう状況に居るか判ってるの?」
いつもと全く態度が変わらぬ柚木に、香里が声を荒げる。
「見ての通り、折原君と一緒に寝〜て〜た〜の。きゃっ」
「え! 雪ちゃんどうしよう大変だよ!」
みさき先輩が思わず声をあげ、慌てた様子で隣にいる深山先輩にすがってる。
澪があたふたしながらも、必至にスケッチブックにペンを走らせる。
『不潔なの』
驚いているのか、スケッチブックに書かれた文字は震えている。
「お、お、お、折原……あんたって奴は……」
七瀬が興奮のあまりろれつが回っていない。かなり危険な兆候と言える。
だが当の折原と言えば、この騒ぎの中でやっと目を覚まし、寝ぼけ眼のまま上半身を起こした。
そしてみんなが見守る中「ふぁ〜〜っ」と、盛大にあくびをして目を擦りながら周囲を見回す。
「あれ? みんなで何やってるんだ? みさき先輩に深山先輩……澪まで。ん?」
驚いた表情で固まったままの澪に気が付き、彼女のスケッチブックを覗き込む。
「え〜と何々……『不潔』? 何だ澪、風呂にはちゃんと入れよ。お前も女の子なんだから……」
「え? 澪ちゃんが不潔なの? この詩子さんが一緒にお風呂入ったげよっか」
折原の声に、隣の柚木が驚いた声を上げる。
「詩子、それは違うと思います……」
里村が小さな声で柚木をたしなめる。
澪は慌てて頭を横に振って、スケッチブックを脇に抱えると、折原目がけて指さす。
「え?」
そこでようやく、折原は自分の両隣にて同じように上半身を起こしている里村と柚木に気が付いた。
「何っ! あ、あ、あ、あ、あ、あ茜? それに柚木!」
「は〜い、お早う折原君。良い朝ね」
「浩平……お早うございます」
「な、な、な、何でお前等が此処に居るんだー!?」
慌てて飛び起きる折原が、二人を指さして叫ぶ。
「何言ってるのよー。昨夜手伝いに来た私達を自分の寝床に引きずり込んだのは折原君でしょ? もうーエッチ〜」
頬に手を当てつつ身体をくねらせながら、柚木が芝居がかった口調で答える。
「……」
柚木の言葉に里村は頬を染めて俯く。
「い、いや……これは違うぞ?」
折原が慌てて後ずさり、俺と並んで立ち尽くす。
「こ、浩平……」
ようやくの事でフリーズから脱した長森が、自分の恋人を涙ぐんで見つめている。
「瑞佳っ! これは柚木のジョークであって……」
「あら〜私は本気なのにぃ〜」
そう言って柚木が立ち上がって折原に抱きつく。
その瞬間、長森の表情が強ばり、そして七瀬が近くに有ったモップを手にとって、鬼のような形相で前に出た。
「おーりーはーらーっ!」
地獄の底から聞こえてくるような声に、折原が柚木を引き剥がして間合いを取る。
「あははははー、祐一さんも自分の事を心配した方が良いですよ?」
佐祐理さんの声に、傍観者となっていた俺も一気に現実へと引き戻される。
見れば未だに舞が俺を射抜くように睨んでいる。
「折原……」
「相沢……」
俺達は二人で頷き合い
『脱出!』
声を合わせて叫ぶと、徹夜で作った模擬店の内装を倒しつつ、一目散に廊下へと逃げ出した。
「……祐一覚悟」
「よくも瑞佳を悲しませたわね……折原ぁっ! この待ちなさいっ!」
刀とモップを振り回す舞と七瀬に追いかけられながら、俺達は学園祭準備の終わった校内を駆け回る。
二階の廊下を突っ走り、階段を駆け下りて一階の廊下をひた走る。
「よ〜折原ぁ今度は何やらかしたんだ?」
「また相沢が川澄先輩に追いかけ回されてるぜ」
「おい、見ろよ……全くあいつらは元気だよな」
「二人ともがんばれよ!」
「折原〜っ朝っぱらから盛り上げてるな〜」
生徒達が廊下や教室から俺達の姿を見て、楽しそうに声を上げる。
「はぁはぁ……なぁ折原」
「何だこのくそ忙しい時にっ!」
「楽しいか?」
場違いとも思える俺の変な質問に、折原はほんの少し間を空けてから笑顔で俺に答えた。
「んあ? ああ、楽しいぞ。死にそうな程にな。余りに楽しんで、思わず首をカッターでかっ切っりたい気分だよ」
折原の言葉に俺は驚いた顔をするが、その意味に気が付いて自然に顔が綻ぶ。
「あ……あははは。そうだな」
二人で頷き合い声を出して笑う。
直後、七瀬の蹴り飛ばしたバケツが折原の頭を直撃した。
それでも折原は器用に後ろを振り向き、七瀬に文句を喚き立てながら全力疾走を続けている。
「ははははっ!」
そんな様子に、思わず笑いが込み上げてくる。
「何が可笑しいんだ?」
「いや何、お前等は面白いな……と思っただけだ」
「お前もな」
「ん?」
廊下の前方に、見知った顔の男子生徒が突っ立っている。
どうやら高速で近づく俺達に気が付き、腕を振り上げ何か叫び声を上げている。
「な、何だ君たちは! 廊下は走ってはいけないという事も知らないのか? まったく君たちの精神は小学生以下……」
『邪魔だっ!』
俺と折原のダブルラリアットで吹き飛ばされた久瀬が「ぐげぇっ!」と奇妙な叫び声を上げて廊下に倒れる。
「邪魔よっ!」
続く七瀬がそんな久瀬を踏みつぶす。
「……」
舞は一瞥もくれずに無言で通り過ぎた。
「おのれ折原……相沢……」
振り向くと、舞と七瀬の後方で、久瀬は振るえる腕を伸ばしながら声を絞り出すも、そしてバタッと力尽きて倒れた。
舞の視線は未だ怒りに燃えている。
「うわぁっ」
叫んで視線を前方に戻すと、一階の廊下をそのまま全速力で駆け抜ける。
「舞〜誤解なんだって!」
「七瀬、お前の男気はよく判ったからいい加減諦めろ!」
俺に続くように速度を上げる折原が、よせばいいのに七瀬を挑発する。
「誰が男かっ! 絶対に死なす!」
案の定怒りを爆発させ七瀬が吠える。
限界まで速度を上げて二人を引き離し、勢い良くコーナーを曲がる。
上履きがそのグリップの限界を示すように、キュキュキュッと音を立てる。
「おや? お早う浩平。朝からマラソンかい?」
突然声がかかり振り向くと、折原の親友である氷上が居た。
「よっ氷上。マラソンに見えるか?」
折原が足を止めたので、俺も一緒になって急停止した。
「おお、そうだ。出来れば食い止めてくれると助かるんだが……」
折原が後ろを指さしながらそう言うと、氷上が廊下の角から首を出してその先を見る。
「うーん、それは……ちょっと僕には大任だ。無理そうだから辞退させてもらうよ」
氷上が追ってくる二人の修羅の姿を見たのだろう。
少し楽しげな表情で答える。
「そっか、んじゃ今忙しいまた後でなっ!」
「ああ、頑張って。君達の無事を祈ってるよ」
『おう!』
俺達は手を振って氷上に別れると、速度を上げて朝日の射し込む廊下をひたすら駆け抜けた。
周囲の生徒達の笑う声が、何時になく心地よかった。
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