俺達はほぼ同時に目を開け、互いの存在を確認した。
彼女の――あゆの夢は、自分の望んだ学校で、友人と楽しく過ごす事だった。
長森の夢の中に、あゆはかつての自分が思い描いた夢を重ねていたんだ。
『瑞佳ちゃんの夢はボクの夢』
あゆの言葉が脳裡に響く。
そして彼女が望んだ夢は、六年前にこの地に創られていた。
他ならぬ、俺によって。
だが――互いの手を握りしめながら、涙を拭わぬまま俺達は見つめ合い、そして俺達の頬を風が撫でてゆく。
木々の枝や葉に積もっていた雪が舞い散り夕陽に輝く。
そう、風だ。
風が吹いたんだ。
唐突に、強い風が。
俺の記憶。
俺自身が封じ込めた、幼き頃の悲しき記憶。
その記憶が、今俺の脳裡にはっきりと蘇る。
大きな木に登って、夕陽に輝く遠くの景色を眺めていたあゆ。
高い枝から遠くを眺めて、その美しい光景に心を奪われていた。
『祐一君有り難う。こんな素敵な景色を教えてくれて、本当に有り難う』
彼女は何度もお礼を言って俺に微笑んだ。
だが、風が吹いて――
そんな感謝の言葉も――
始まるはずだった新たな友情も――
生まれるはずだった新たな家族も――
そして作り上げた学校も――
全てが幻となってしまった。
目の前で木の上から落下し、頭を地面に打ち付けたあゆ。
どうすることも出来ず、ただ涙を流しながら狼狽えながら、苦しそうに、辛そうに、涙を流すあゆを、俺は抱きしめながら見つめていた。
あゆの身体から流れる赤い液体が、周囲の雪を染めて行く。
真っ白い雪が、赤い……えんじ色に染めて行くのを、子供の俺は泣きながら見つめる事しか出来なかった。
そんな状態にあっても、あゆは俺に微笑んでいた。
苦痛に顔を歪め、苦しみながらも、俺に感謝をしながら笑ってた。
『祐一君はボクと……仲良くなる為に約束してくれた……そう……だよね? だから……ボクからも約束……』
『約……束?』
『全部忘れて』
『全部?』
『うん。全……部』
『君の事も……この場所の事も?』
『そう……ボクの名前も、この学校の事も』
『何で?』
『そうすれば……みんなが救われるから……だよ。はじめからボクは……居なかったの。君とも出会っていない。この学校も……無かったん……だよ。だから悲しむ事なんか何も……ないの』
『あゆ……』
『約束だよ……』
『……』
『バイバイ……祐一君』
それが俺の耳に届いた最後の言葉だった。
広がって行くえんじ色の世界で、俺は動かなくなったあゆの身体を抱き寄せて自分自身の無力さを呪い、余りにも悲しい現実から自己の精神を保つため、俺はあゆとの想い出を心の奥底に封じ込めた。
そして、それが原因となり、以後俺は無意識にこの街を避ける事になった。
舞との約束も破棄して、俺はこの街から逃げ出した。
そんな俺を、両親や秋子さん――周囲の大人達は、何も言わずに見守っていた。
自分で思い出し、悲しい現実を受け入れられる強い心を持つ日が来るまで。
「全部忘れて……ボクの名前もこの学校の事も……はじめからから居なかったって……そうすれば……」
俺の顔を見つめながら、あゆが口を開く。
それはまるで、あの頃のあゆが目の前に居るかの様な錯覚を抱くほど、当時と変わらぬ言葉だった。
「……全てを忘れれば、悲しい事もなくなるって……そう思ってた」
未だ溢れる涙を拭うこともなく、俺を見つめたまま。
「あゆ……」
「でも……やっぱり悲しいよ。誰の心にもボクは残っていない。ボクの事を知っている人は誰もいない。お母さんも、友達も、誰もが当たり前に持っている存在が、ボクには居ない」
答える変わりに、あゆの手を握っていた力を強くする。
彼女を狂わせたのは他ならぬ俺だったんだ。
そして互いがこの地での記憶を凍結した事が全ての不幸の始まりだった。
俺の所為で、折原や長森、郁美先生、舞や佐祐理さん、そしてこの街に住む全ての人々に迷惑をかけた。
ならば――する事はただ一つだ。
「悲しかった……寂しかったよ……」
この哀れな、悲しき夢追い人の心を救ってやる事だ。
「でもやっと見つけたよ……あっ」
俺はあゆの身体を引き寄せ、その小さな身体をそっと抱きしめた。
あゆは抵抗する事もなく、俺に抱かれたまま胸に顔を埋め、ひたすら泣きじゃくった。
「祐一君ーっ!」
「あゆ」
「やっと見つけたよ……ボクの夢……ボクの記憶……僕の……想い出」
想い出の詰まった森の中、俺達二人だけの学校で――
茜色に輝く世界の中、降り注ぐ光の下で――
俺達は互いの存在を確かめるように抱きしめ合った。
どのくらいの時間そうしていたのだろう、俺達はどちらかともなく離れ、適当な場所へ腰を下ろした。
この世界では時間の進み方が遅いのか? それとも止まっているのか? 未だに夕陽が沈む事なく、空や辺りを美しく彩っている。
「この景色がまた見られるとは思わなかったよ」
泣き止んだあゆは、切り株にちょこんと座ったまま俺に微笑む。
「そうだな」
俺が答えると、あゆは嬉しそうに目を細めて「えへへ」と笑う。
「祐一君……久しぶりだね」
「ああ、久しぶりだな」
改めて互いに再会の挨拶を交わす。
「ここがお前の夢の終着駅なのか?」
周囲を見回し、最後にあゆの目を見て尋ねる。
「うん、そうだよ。この夢に辿り着く事が、ボクの存在理由だったんだね」
そう笑顔で答えてから、少し表情を曇らせて言葉を続ける。
「……でも、瑞佳ちゃんには悪い事しちゃったかな? 大切な夢を滅茶苦茶にしちゃった」
「それは、どちらかというと俺や折原の責任だろう。お前は長森の夢を叶えてやっただけさ」
答えながら、落ち込むあゆの頭を少し乱暴に撫でる。
「うぐぅ〜……そうかな?」
「ああ、別にお前が気に病むことはない。それより、謝らなければならないのは俺の方だ」
あゆの頭から手を戻して、俺は地面に手をついて頭を垂れる。
「ゆ、祐一君?」
「悪かった……済まなかった、俺が馬鹿だった為に、お前に言葉では言い表せない程の迷惑をかけた。幾ら謝ったところでお前の過去を取り戻すことは出来ないが……」
「別に祐一君は悪くないよ。だって”忘れて”とお願いしたのはボクの方なんだし……」
「でも……」
俺は頭を上げてあゆの顔を見つめる。
「祐一君は約束を守っただけ。ボクがこんなになっちゃったのは、ボクに未練が有ったから……へへへっ、やっぱり人から忘れられるって寂しいよね……自分でそれを望んでいたのに、いざ誰の心の中からもボクの存在は消えて……ボクの事を知っている人が誰も居なくなった時、ボクはその現実を拒絶……ううん、呪ったんだと思う。その事に対する罰なのかな? ボクが自分の事も判らなくなったのは……だから」
自分の言葉に表情を曇らせて行くあゆを見て、俺の気分はささくれ立った。
「いや違うっ!」
だから、俺は声を荒げてあゆの言葉を遮った。
「え?」
「そうじゃない。再び俺と出会う為の、神様の粋な計らいさ」
「えへっ、そうかな」
「ああ、そうさ。こうして俺達は向かい合って笑ってるんだから」
「うん。そうだね」
あゆが力強く頷く。
「さて、これからどうするんだ? いや、どうなるんだ?」
「何も起きないよ祐一君。」
「?」
「だって、今までの事は全て夢。目が覚めれば全て元通り……祐一君は元通りの生活に戻るだけ」
「今までの生活って……その中にお前は居なかった。それじゃ、お前はどうなるんだよ?」
「ボクは……自分の事を思い出せたから、もう人の夢を作る必要もなくなったから……多分消えるんじゃないかな?」
「消える……って、待てよ! やっと思い出したんだぞ。あの世界で……長森の夢ん中で真琴の事を思い出し、今やっとお前の事も思い出せた。なのにこれでお終いかよ!」
「有り難う祐一君。やっぱり祐一君はあの頃と変わってないね」
「そんな世辞なんかいらねえよ。何でお終いなんだよ! だってこれからだろ? これから始まるんだぜ?」
「だって――」
「――ボクは死んでるんだよ」
風が吹いた。
「……な?!」
そうだ。
何か忘れてると思った。
俺があゆを忘れなければいけないかったのは、あゆが俺の前で息絶えたからだ。
あまりに自然に会話をしているんで、記憶を思い出したにも関わらず、実感が無かった。
自分の間抜けさに身体中の力が抜ける。
「ったく……馬鹿だよお前は、郁未先生や舞と同じくらいの力を持ちながら、風に揺られて木から落っこちたら、『はいお終い〜』……なんて。何でだよ!」
「だって……ボク、祐一君の言うとおり馬鹿だから……」
「ああ、大馬鹿だ! 正当な人生も送らずに途中で蹴躓くなんて馬鹿も馬鹿だ!」
「うぐぅ……あれ? 祐一君また泣いてる?」
「当たり前だっ! 俺はお前に対する償いなんてしていないんだぞ。そうだ、『夢だからやり直しが出来る』ってお前は言ったよな? ならば俺と共にやり直そう。あの時の続きを俺と……俺達と共にっ!」
興奮を隠さず捲し立てると、俺は立ち上がって手を指し出す。
だが、あゆはその手を掴む事なく、首を横に振ってから、少し困った様な表情を浮かべつつ口を開いた。
「駄目だよ……祐一君」
「何故だ?」
「ボクのためにこの世界に残ってくれるのは嬉しいけど、でも……」
「……」
「でも、祐一君を待ってる人は、この世界には居ないんだよ」
あゆの言葉に、俺は目眩を覚え、再びその場に尻餅をついて座った。
「俺は……何も出来ないのかよ……」
その場にある雪を掴んで、乱雑に放り投げる。
「誰も悲しむ必要なんて無いんだよ」
俺の投げた雪が夕陽を受けて輝く様を見つめながら、あゆが呟く。
「だってボクは最初から存在しなかったんだよ? 目が覚めればみんな元通りの生活に戻って、やり直しの効かない現実世界で、それぞれの人生を歩んで行くの。祐一君はさっき言ったよね『現実へ戻り約束を果たす』って。祐一君の生きる世界はここじゃないんだよ」
その言葉はあゆの心の強さを現しているかの様に、はっきりとした口調だった。
「えへへ……夢の中に閉じこめようとしていたボクが言う台詞じゃないね。ごめんねっ」
俺の方を向いて舌を出して笑う。
「なぁあゆ。俺は……馬鹿だから、昔から馬鹿だから、お前よりももっともっと馬鹿者だから、何て言って良いのか判らないけど……俺があの時お前を誘わなければ……」
そうだ、もし俺があゆに声をかけなければ、彼女は死ぬことは無かったのではないだろうか?
涙を袖で拭い、あゆの表情を伺う。
「ううん。そんなこと無いよ。祐一君はとっても優しいから、ボクを放っておかなかった。
鬱ぎ込んでいたボクに声をかけてくれただけでも十分だったのに、ほんの短い間とはいえ、祐一君はボクと友達になって夢を叶えてくれた。そして約束も守ってくれた」
俺は泣きながらあゆの言葉を黙って聞く。
「ボクにあった不思議な力が、ボクの未練を叶えてくれた。肉体は滅んでも、ボクの心だけが残って、そして自分を求めて彷徨っていたんだ。そんなボクに人の夢を叶える力が有ったのは、多分祐一君のお陰だったと思う。祐一君がボクに夢を見せてくれたから、叶えてくれたから、同じ事を他の人にもして上げたかったんじゃないかな? 確かに悪夢ばかりで人に絶望もしたけど……でも、その奥底には希望も残ってた。純粋な夢を持っていた瑞佳ちゃんや、その瑞佳ちゃんを救う為に身を挺した折原君……みんなを救おうとした香里さんや郁未お姉さん。そして祐一君。……だから今はとっても嬉しいよ。だってボクはもう一度夢を叶える事が出来たんだから」
「お前はそれで良いのかよ!」
俺は再び立ち上がり叫んだ。
何処かの木から雪が音を立てて落ちる。
あゆも続いて立ち上がると、大木の前で二人は正面から見つめ合う。
「だって、ボクは夢の中でしか生きられないんだよ。肉体がある訳じゃないし……だから悲しまないで。今度こそ笑ってボクを送り出して」
「そんな事出来るわけないだろっ」
あゆの言葉に、俺は半ば反射的に彼女の両肩を掴んで吠えた。
真っ直ぐ見つめる俺の目線を、あゆは避けることなく真正面から受け止め、そしてゆっくりと切り出した。
「それじゃ、約束を……前とは違う約束をしようよ」
「約束?」
「うん。えーとね……」
「ボクのこと忘れないで下さい。ボクという存在が確かに居たことを、いつまでも覚えていて下さい」
はっきりとした口調で告げるあゆの顔には、今までで最高の笑顔が浮かんでいた。
天使――夕陽を受けて輝くあゆの姿を見て、俺はごく自然にそう思った。
だからだろうか? あゆが背負ったリュックに付いている作り物の羽が、一瞬本物の様に思えた。
「そうすれば祐一君が、ボクが存在していた事の証になるから」
「ああ、いつまでも覚えてる。決して忘れるもんか、もう何も忘れない! 忘れてたまるか!」
俺はあゆの身体を抱き寄せ、両腕でしっかりと彼女の身体を抱きしめる。
「うん。約束だよ……あ、後一つお願いがあるんだけど」
「何だ?」
「祐一君の想い出を分けてくれないかな?」
「俺の想い出? 記憶か?」
「うん。祐一君の想い出を共有する事で、祐一君や瑞佳ちゃんや大勢の友達がいる世界をボクは生きてみたい」
「判った。好きなだけ持って行け。だが、俺の記憶の中には、この街の事はあまり無いぞ」
「大丈夫だよ。瑞佳ちゃんや折原君、そして今までに集めたみんなの夢をボクが統合するから」
「そっか。で、どうやれば良いんだ?」
「目を閉じて、心を開いて……楽にしてくれれば良いよ。眠るみたいに」
あゆの言葉に、俺は素直に目を閉じた。
特に何も考えず、腕の中から伝わるあゆの体温だけを感じていた。
「……有り難う。終わったよ」
「早いんだな」
あゆの言葉に再び目を開ける。
目の前に、あゆの満面の笑顔がある。
「最後の夢……ボクが作る最後の夢……祐一君、見てくれるかな?」
眩い程の夕陽の中で、想い出の俺達二人だけの学校で、あゆの温もりを感じながら俺は力強く頷いた。
「ああ」
「有り難う……祐一君。これでボクはやっと羽ばたけるよ」
俺の腕の中にあるあゆの身体が薄らいで行く。
「……あゆ?」
「本当に有り難う……ボクは……本当に幸せだよ」
目が眩むような光があゆを包み込む。
その光が純白の羽に見えたのは、果たして目の錯覚だったのだろうか?
気が付けば、俺の腕の中に居たはずのあゆの感触、そして彼女の温もりが消えていた。
そして入れ替わるように、俺のすぐ隣――大木の傍らに、二人の子供が並んで座っていた。
「これは……俺とあゆか?」
『なぁあゆあゆ』
『あゆあゆじゃないもん……」
『んじゃ、あゆ助』
『うぐぅ〜……ぐしゅ』
『嘘だよ。泣くな』
『うん……えっと……何? 祐一君』
二人には俺の姿は見えないのだろう。
真横に立つ俺の存在を無視して、幼き日の俺達が話している。
まだ完全に元気の出ていないあゆに、幼き日の俺が一生懸命話しかけている。
それは現実で俺が成し得なかった事。
『お前に紹介したい奴が居るんだ』
『え?』
『女の子でちょっと変わってるけど……でも良い奴だからさ、きっとお前と友達になれる』
『う、うん……でも……』
『任せろ! 俺は後数日でこの街から居なくなるのは話したろ? でももう一人友達がいればお前だって寂しくないだろうからな』
そう、これはあゆが木から落ちなかった世界なんだ。
ひょっとしたらこうなっていたかもしれない世界。
場面が変わる。
俺にとって懐かしい風景。
『おっ、着いたぞ。おーい舞〜っ!』
『祐一? あ……』
『あ……』
あゆと舞はお互いの顔を見あったまま動かなくなってしまった。
二人とも緊張してるのだろう。
『ほらっ!』
動かない二人に見かねた俺が、あゆの身体を少し押して舞の方へと近づけさせる。
舞は舞で、麦畑――と言っても今は冬なので一面の雪原だが――の中で、身を伏せている。
『舞っ! 始まりには挨拶だろ?』
『う、うん……私は……えーと……舞』
『あっ、ぼ、ボクはあゆ』
『えっと』
『あの……』
二人の声が重なり、双方が頬を紅く染めて黙ってしまった。
子供の俺が二人の間に入って、両方の頭を掴み無理矢理お辞儀をさせる。
そして双方の手を取り重ねると、その上に自分の手を乗せた。
『よっし、今日から俺達三人は友達だっ!』
子供の俺が会心の笑顔でそう宣言した。
この瞬間生まれた新たな絆を祝福するかのように、冬とは思えない暖かな風が三人を優しく撫でる。
景色が歪み、再び場面が切り替わる。
『あ、祐一君!』
『……祐一、遅いよ』
『よう、三ヶ月ぶりだな、あゆ、舞……ってあゆ、春だっていうのにまだ鯛焼きか?』
『お前が祐一か?』
『な、なんだこの目つきの悪い男は?』
『俺はこの宇宙を支配する美男子星人で、美男子星からやって来たこの日本で最も格好良い男だ!』
『お兄ちゃんが変な事言ってるよぉー』
『あゆ、浩平は、ほら……頭が弱いから……』
『お前、あゆの兄貴か?』
『な、何故ばれた? お前はエスパーか?』
『そう言うお前は馬鹿だろ? 大体宇宙から来た存在のくせに日本一って何だよ?』
『むむむむむむ……てりゃぁっ!』
『あーっ!』
『お、お兄ちゃん!』
突如俺に襲いかかる折原と思われる子供。
ははっ……あゆが無事で有ればこういう出会いだったかもな。
とっくみあいのケンカを始める俺と折原を見て、狼狽えるあゆと、近くにあった木の枝を掴んで双方の頭を叩く舞。
『二人ともケンカは駄目だよっ!』
腰に手を当て二人に説教をする舞。
その妙にお姉さんぶっている態度が、とっても可笑しかった。
でも、そんな光景を見て俺は自然に泣いていた。
目の前で展開するこの世界では、俺と舞の約束は守られ続け、あゆを交えて新たな絆を育んでいる。
その結果、舞は感情を失うことなく、普通の少女の様に喜怒哀楽の表情がある。
俺は――
俺は取り戻せるのか?
俺が自問する間にも、再び場面が変わる。
『よぉ〜舞〜折原兄妹っ! それに今日は長森も一緒に出迎えか?』
『久しぶりだね祐一』
『おーっす祐一!』
『浩平のお守りだよ。相沢君元気してた?』
『うぐぅ〜ボクお兄ちゃんと一くくり?』
『おっ! 舞の制服姿だ』
『ちょっ……祐一! 女の子をそんなジロジロ見るもんじゃないぞっ』
『なんだよ、お姉さんぶって……』
『だって祐一よりもお姉さんだもん』
『舞ちゃん可愛いよね。ね、祐一君も思うでしょ?』
『あゆ……お前、仮にも年上の舞を捕まえて可愛いは無いだろ?』
『そ、そうかな? でも可愛いよー。ねぇ? 瑞佳ちゃん』
『うん』
『へへっ、ありがとあゆ、瑞佳。でもこの二人はこーんな可愛いの私の魅力が判らないのね』
『だって……』
『なぁ?』
顔を見あって頷く俺と折原。
舞が無言で近づき……手にしていた鞄で二人の頭を叩く
そんな様子を見て、長森は慌て、あゆは心の底から楽しげに笑っている。
心が痛い。
こんな幸せな光景なのに、見ていると胸が、心が鷲掴みにされている様に――たまらなく苦しい。
またもや場面が変わる。
『ねぇ、今日はお母さんが、みんなでご飯たべにおいでって』
『え、本当? やったーボク秋子さんの作るご飯大好きだよ』
『ほほ〜、するとお前は由起子さんの作ったご飯は不味いと?』
『ち、違うよっ!』
『浩平……あゆちゃん苛めたら駄目だよ?』
『ふっふっふ。あゆを苛めるのは兄の特権だから良いんだ』
『うぐぅ〜そんな特権無いよ』
『舞も食べに来いよな』
『うん。有り難う』
夕焼け空の元、伸びる影を踏みながら歩く俺達。
ふざけ合い、冗談を言い合って、ゆっくりと街を歩く。
そんな何処にでもありそうな光景。
『あ、鯛焼き屋さんだ。おじさーん』
屋台のおやじに元気良く手を振るあゆ。
『お、あゆちゃん。相変わらず元気だね。今日は買ってくれないのかい?』
『え、え〜と……』
『おい、あゆ。今食べるとせっかくの秋子さんの手作り料理が食べられなくなるぞ?』
『う、うぐぅ〜……ごめんねおじさん』
迷いを断ち切るかのように突然走り始めるするあゆ。
『そこまでしなきゃ諦められないのか? あいつ……』
『あ、転んだ』
『あゆ大丈夫!?』
『ったく馬鹿が』
『あゆちゃん!』
俺達はみんなで転んだあゆに駆け寄る。
『うぐぅ〜痛いよ〜』
『ったくしょうがない奴だなぁ、ほれ』
俺の差し出す手を握って立ち上がる。
目尻の涙を長森が拭き、それでも泣き顔のあゆの頭を、舞が優しく撫でる。
名雪も心配そうに見ている。
折原だけが罵っているが、それは愛情の裏返しだろう。
口では何だかんだ五月蠅く言っているが、結局あゆの身体を背負って歩き出す。
そんな兄妹の姿を見て、俺達も笑顔のまま水瀬家へと向かう。
そしてまた場面が変わる。
まれでダイジェストフィルムの様に、記憶の断片を編集しているかの様に次々と場面が変わり、その都度俺の目の前には、何気ない日常が映し出されて行く。
友人と共に出かけ――
長森と共にだらしない兄の世話を焼き――
母親となった由起子から叱られしょげる。
それは誰しもが持っている、日常の記憶。
何気ない――何の変哲も無いただの生活。
それこそが彼女の――あゆの望んだ物なのだろう。
やがて高校生となったあゆ達が映し出される。
『ね香里、今度ね従兄弟が引っ越して来るんだよー』
『従兄弟って、夏休みに紹介されたあの男の子? ふーん……まぁ、問題児が我が校に増える訳ね』
『ねぇねぇ名雪ちゃん。祐一君が引っ越してくるんだって? 本当?』
『あ、あゆちゃんお早う。祐一から電話あった? そうなんだ、叔父さんとおばさんの都合で……祐一だけ家に来る事になったんだよ』
『何だと、あの馬鹿がこの街に居着くのか? あゆ、そんな非常事態を何故今まで黙っていた!』
『だ、だって……』
『うむむ……デフコン2だな。住井と相談して万全の迎撃体制を用意しておかなければ……』
『お兄ちゃん、まだこの間の事根に持ってるの? それに住井君に相談するのは止めよ。何するか判らないよ?』
『兄に口答えするなっ!』
『うぐっ。酷いよ〜お兄ちゃんがぶった』
『浩平、あゆちゃん苛めたら駄目だよ』
『何を言うか長森。これは兄妹のスキンシップだぞ?』
『うぐぅ〜こんなスキンシップいらないよぉ』
『はぁ……浩平って相変わらずだね』
『でも仲の良い兄妹だよね。香里と栞ちゃんも負けてない?』
『あたしと栞の関係を、この二人と一緒にしないで欲しいわ』
みんなで通う通学路。
笑顔で溢れる、何気ない登校風景。
『あ、舞ちゃんだ。舞ちゃ〜ん、祐一君が引っ越してくるんだよー』
『おはよ……って、あゆそれ本当?』
『祐一さんってこの間の夏休みに舞に紹介された男の子だよね? あはは〜、良かったね舞。これからは祐一さんと毎日遊べるね』
『うん』
みんなの笑顔が心に重くのし掛かる。
場面が変わる。
『転校生を紹介するぞ〜』
『相沢祐一です』
教壇の横に立ち、素っ気ない挨拶をする俺が居る。
その目線の先に、この世界では”幼なじみ”と呼べる者達が居る。
いつしか、俺はその光景の外側に居た。
まるでテレビを見ているかの様に。
漆黒の空間、宇宙の様に小さな光が僅かに瞬く闇の中で、目の前に映し出されている光景を眺めていた。
目の前に映る光景は夢。
俺や長森、あの世界に居たみんなの夢を汲み上げ、再構成したあゆの望んだ何気ない日常。
覚めない夢。
――それは現実と変わらない。
終わることのない夢。
――だからその中での出来事は現実。
いつまでも続く夢。
――だからそれは永遠。
現実のような夢が永遠に続く世界。
――ひょっとしたらこうなっていたかも知れない、もう一つの世界。
――あゆが折原の妹として存在し、舞も自らを拒絶する事なく、普通の女の子として成長した世界。
――俺があの地を訪れる事を止めなかった世界。
そんな世界が、俺の前から少しずつ遠ざかっていく。
『責任取ってね』
小さなあゆの言葉が俺の頭の中で響く。
「責任……か」
俺は自身に問い掛ける。
あゆの夢を壊した責任――いいや、違う。
そんな事じゃないだろう。
あゆが俺に託したもの――俺とあいつで結んだ約束を守る事。
やり直しの効かない現実の世で、俺は精一杯生き、あゆが見ている夢に負けない笑顔に満ちた世界を作ること。
多分、それこそが俺の責任なんだろう。
「責任重大だな、こりゃ」
「ありがとう祐一君」
苦笑した俺の背後から、突如声をかけられる。
振り向くと、白いワンピースを身に纏った小さな――俺と初めて会った頃のあゆが居る。
「お前も行くのか?」
「うん、ボクもあゆの一部だからね」
「そっか……」
彼女こそ夢の世界を常に傍観してきた第三者。
長森の夢が始まった時から、常に彼女は事の推移を見守っていたのだろう。
しかし、そんな役目ももう終わる。
ニッコリと笑ってから、彼女はゆっくりと話し始めた。
「もう大丈夫だよ。ボクの未練は無くなったから、もう誰も祐一君を縛ったり出来ない。あゆは自分を取り戻したから」
小さなあゆの身体が徐々に闇に溶け込んで行く。
「……そっか達者でな」
「うん……祐一くんも頑張って、自分で夢を叶えてね」
「ああ。必ず」
そうする事が、あゆに対する俺の出来ること。
「うん。安心したよ。後は”現実へ戻りたい”って強く念じて。”どうしてもあの人と逢いたい”って強く思って」
あゆの姿がほとんど見えなくなる。
「……ああ、判った」
「うん。バイバイ」
その言葉を最後に、最後に残ったあゆの力も闇の中へと溶け込んで消えた。
恐らくは自分の元へと戻ったのだろう。
振り返って遠ざかって行くあゆの夢を見る。
距離が離れてしまった為、はっきりと見る事は出来ないが、沢山の友人達に囲まれて幸せな日常を謳歌するあゆの姿が、辛うじて見て取れた。
「さよう……」
俺は言葉を止めて、頭を振る。
「おやすみ、あゆ。良い夢をな……」
最後にあゆの笑顔を見て、彼女の夢に背を向けると、俺は暗闇の中を歩み出す。
途中でもう一度だけ振り返ってみた。
暗闇の中に輝くあゆの夢はどんどんと俺から遠ざかり、やがて星のような小さな光となっていた。
周囲で煌めく星々の光に紛れ、もうどれがあゆの夢なのか見分けることは出来ない。
もしかすると、夜空で輝く星々の光は、人々の夢なのかもしれないな――そんな事を柄にもなく思った。
再び闇の中を歩み出す。
もう振り向く事はなかった。
そして強く念じる。
あの懐かしき北の街の事を。
俺にとって大切な人々の事を。
途端――足下の地面の感覚が無くなり、俺は落下を始めた。
もう阻むものはない。
落ちて行く感覚にただ身を任せる。
暗闇の中に光る蒼い光に吸い込まれるように落ちて行く。
何処までも落ちて行く。
やがて蒼い光は地球となり、俺はそのまま雲を突き抜けて落下する。
高所に対する恐怖心は微塵も感じなかった。
日本が見えた。
極東に位置するちっぽけな島。
俺達の生きる平和な国。
幾層もの雲海を突き抜け大気を切り裂き、俺が暮らす街が急速に近づく。
なじみの街並み、想い出の丘、そして森の輪郭がはっきりと判る程になる。
既に陽は昇っている。
横合いから差し込む日差しに、街の建物の影が延びている。
人々の営みを、人々の呼吸をはっきりと感じる。
俺が向かっている建物の形状までもが鮮明に見えるようになる。
学校だ。
俺は迫り来る校舎を認め、自然に叫んでいた。
「再び俺達の日常を送るため――」
「交わした約束を守るために――」
「現実世界よ、俺は帰ってきたぞ!」
衝突する、という恐怖心は無い。
校舎に激突する瞬間、俺の身体は屋上、そして三階をすり抜けて落下を続け――
そのままレオパルドが中央に鎮座する二年四組の教室へと落下し――
遂に現実へと帰還した。
|