第23話 前編へ










 背中に突き抜けた血塗れの刀が月明かりを鈍く反射させ、腹部から流れ出したおびただしい量の血が、暗い沼の様に広がっている。


 それはいつか見た絶望の世界。


 あの時、まいが助けてくれなかったら。


 舞がまいを受け入れなかったら、彼女は命を落としていただろう。


 そして、俺は舞を追って死んでいたかも知れない。


 郁未先生が駆けつけるのが遅かったら、佐祐理さんも命を落としていたかもしれない。


 俺が見せつけられたのは、ひょっとしたら現実はこうなったかも知れない――という


 沢山ある可能性の中の一つに過ぎない。


 だが、どれだけ現実味溢れていても、それが夢である以上、決して現実ではない。


 それでも、この胸を締め付ける苦しみは、紛れもない本物なんだ。


 泣いているのは、夢の中の俺?



 それとも――





 現実の俺なんだろうか?







§








 何かの音が一定のリズムで耳に届く。
 ただ聞こえると言うよりは、身体全体で感じている、と言った方が正しいだろうか。
 それは誰もが知っている音――生命の鼓動だ。
 そして、その音を認識している事は、俺の身体の感覚が戻ってきた証拠であり、新たなる悪夢の始まりでもあるのだろう。
 何度目かはもう判らない。
 考えるのも面倒くさい。
 それでも目を開けてしまうのは、好奇心旺盛な俺の性分なのだろうか。
 どうやら俺は小さな球状の物体の上におり、周囲は何かぼんやりとしており、はっきりと辺りを見渡す事が出来ない。
 そして何より俺の身体を包んでいるのは大気では無く液体と思わしき物だった。
 まるで濁った水の様に透明度は低いが、不思議と息苦しさは感じられない上に、どちらかというと気持ちが良い。
 ドクン……ドクン……と、先程から身体全体で感じる鼓動もまた、不思議と俺の心を安らかにさせてくれる。
 それは胎児が、母親の中で感じるというそれに近いのではないだろうか。
 少なくとも、今までに体験した悪夢とは違う様だ。
『今のは、だいぶ堪えたみたいだね?』
 頭の中に響く月宮の声。
『思った通り、君は自分の事はどうなっても耐えられるけど……大切な人の危機や不幸には強度のショックを受けるみたいだね』
 頭に響く声を無視して、俺はその場にあぐらをかき、周囲を見回す。
 遠くの方までははっきりとは見えないが、周囲には俺が乗っている物と同じ球体が、数珠繋ぎで二列になり螺旋を描きながら動いている。
 それらは何処までも何処までも果てしなく続いている。
 先程から聞こえる鼓動、そしてこの濁った水が羊水だとするなら、周囲の螺旋状に蠢く球体はDNAだろうか。
 とすれば――此処は生命の源なのか。
(ははっ……)
 表情には出さずに、俺は頭の中で自嘲気味に笑う。
 今の俺はDNAの一粒よりも小さな存在なわけだ。
 これらの中に幾千幾万幾億の可能性が詰まっており、俺という存在もこの中の一つの結果に過ぎない。
『そうだよ』
 まるで俺の頭の中を読んだように月宮が答える。
『人は色んな可能性を持って生まれる。でも人生は一度きり……やり直しなんか絶対に出来ない。どれだけ自分の存在を呪っても、自分の性格や、置かれている境遇を嫌悪しても、それらは決して変えることの出来ないもの』
 目の前に浮かぶDNAの一粒の上に、月宮が姿を現した。
「よいしょ……」
 そう呟いてDNAに腰掛けると、俺に向かって微笑む。
「君は、今『夢で良かった』と思ってるでしょ? 『現実でなくて良かった』って……」
 両脚をゆっくりと揺らしながら、月宮は言葉を続ける。
「こんな辛い思いは嫌だ……幸せな思い出だけ連れて行こう……嫌なことは全部忘れて、そして幸せな記憶だけが存在する世界へ行きたい……って」
「……」
 俺は答えずにただ俯いたまま黙っていた。
 沈黙を肯定と捉えたのか、月宮がゆっくりと続ける。
「そうだよ。それで良いんだよ。夢だからこそやり直しが出来るんだよ。君にとって幸せだった事だけが存在する世界。それは夢の中にしか存在しないんだよ。そうでしょ?」
 月宮の言葉は、甘い誘惑にも似て、俺の中に心地よく溶け込んでくる。
 確かに月宮の言う通りだ。
 俺が先に体験した悲壮な出来事を夢だと判って安堵しているのは、紛れもない事実だ。
 黙ったままの俺に構うことなく、月宮は言葉を続けた。
「ね、こういうの知ってる? ある男の人が夢の中で蝶になって、そして寝ている自分の姿を見るんだよ。そして目を覚ましたとき、本当の自分は蝶が見ている夢の中の存在なんじゃないか? ……って思うんだ」
 胡蝶の夢――彼女が言っているのは枕草子の中の一節の事だろう。
「つまりさ……夢だとか現実だとか何て事は、考え方一つなんだよ。君さえ無茶言わなかったら、ボクは悪夢なんかじゃなくて君の為に素晴らしい夢を創って上げるよ? 他のみんなの様に自分の夢を叶える事が出来るんだよ」
 俺の脳裏に、皆が見ていた夢の光景がフラッシュバックする。
 久瀬、氷上、里村、柚木、川名先輩、香里、郁未先生、佐祐理さん、舞……笑顔のみんな。
 確かに意識の仕方一つで、夢と現実の差は無くなるかもしれない。
 だが、それでも俺は……。
「えーと、それじゃ少し時間を上げるから、よく考えてみて。ボク待ってるから決心が付いたら来てね。ああ、ボクに会いたいって念じてくれればそれで良いから。じゃまた後でね……」
 そんな言葉を最後に月宮を乗せたDNAは、エスカレーターの様に動き出し俺の視界から消えた。
「悪いな月宮……答はもう決まってるんだ」
 深く溜め息を付くと、俺の口から吐き出された空気の塊ががかコポリ……と音を立てて、遙か上を目指して昇ってゆく。
「しかし問題はどうやって、ここから脱出するかだ……な」
「お兄ちゃん……」
 泡を追うように見上げていた俺の背後に、突如声がかけられた。
 思考を中断して振り向くと、新たなDNAの粒の上に白いワンピースを着た一人の幼女が腰をかけていた。
 白い帽子の大きなつばに遮られ、その表情は伺い知れない。
「……君は?」
 誰なのか? そして何故此処に? ――反射的に問いただそうと発した俺の言葉を遮って、彼女が言葉を続ける。
「ねぇお兄ちゃん、どうしても現実へ戻りたい?」
 聞き覚えはない声だが、優しさの中にもどこか寂しさを含んでいる様なその声色に、俺は警戒心を抱く事も忘れて視線を戻すと、幼女に背を向ける形で座り直して口を開く。
「ああ。お兄ちゃんはね……自分が犯した罪を償う為に現実に戻らなきゃいけないのさ。お兄ちゃんの所為で不幸を背負い込んじゃった大切な人が居て、その人にもう一度心から笑って欲しいから……ま、もっともそれだけじゃないんだけど、要するにお兄ちゃんには現実でやり残している事が山ほどあるんだよ」
 小さな子供を怯えさえないよう、俺は務めて優しく語りかけた。
「でもそれって楽しい事だけじゃないよね。現実に戻るって事は、辛いことだって沢山有るんだよ。それでも?」
「現実で結んだ約束は、やっぱ現実で実現させなきゃな意味がないからな。それに人生は山在り谷在りって昔から決まっているし、嫌な事も辛い事も、そして寂しい事も有るからこそ、喜びも一層大きいものになるのさ。楽しい事ばかりじゃ人間は人として成長出来ないんだよ。ははっ……人間ってのは難儀な生き物だよな……って、お嬢ちゃんには難しかったかな?」
「ふーん。でも現実が嫌で夢の世界へ逃げ込む人も居るよ?」
「それは人それぞれだろう。でも俺は夢に逃げ込むほど、まだ現実に絶望はしちゃいない」
「本気でそう思ってる?」
「ああ」
 念を押す様に尋ねてくる女の子に、俺ははっきりと頷いて応じた。
「そっか……ねぇ、お兄ちゃんのさっき言っていた大切な人って、舞お姉ちゃんの事だよね?」
「え?」
 俺は女の子の思いがけない言葉に一瞬そちらを振り向いた。
 相変わらず表情は伺えなかった。
 こんな小さな女の子に自分の心が見透かされた事が気恥ずかしくなり、背を向けて頭を掻いてごまかしていると、再び女の子が俺に問いかける。
「ねぇお兄ちゃん。もう一度聞くよ? 現実に戻りたい?」
「ああ」
 俺は迷わず即答した。
「どんな事があっても?」
 女の子の言う”どんな事”が、現実で起きうる不測の事態を指すのか、それとも現実へ戻る方法に伴う危険な事なのか判断は出来なかったが、俺は自然に頷いていた。
「……それじゃ教えてあげようか?」
 女の子の言葉に、今度は勢い良く振り返る。
 今までのように首だけを動かすのではなく、座ったまま身体ごと彼女の方へと向き直る。
「知っているのか? 現実へ戻る方法を」
「うん。知っているよ……よいしょっと」
 そう言って女の子はぴょんと立ち上がってみせる。
 水中にも関わらず、白いワンピースの裾がふわりと泳いだ。
「あの子の……あゆの夢を叶えてあげれば良いんだよ」
 思いのほか高い難易度に、俺は失望して項垂れてしまった。
「……そんな事言われても、お兄ちゃんにはあいつの夢なんてさっぱり判らないよ。それに判ったとしても、どうやってその夢を叶えるんだ? 俺はあいつの様な特殊能力者じゃないぞ」
「忘れちゃったの? あゆが求めてるものは自分自身だよ」
「あ……」
 女の子の言葉に俺は学校での出来事を思い出した。
 記憶のない月宮は、長森の夢に自己の夢を見出したという。
「そっか……そうだよな。自分に過去の記憶が無いってのは、そりゃ恐ろしい事だもんな」
 過去にどんな事をしてきたか? どんなやつと出会ったか? そんな積み重ねがその人そのものを構築している要素だ。
 もっと簡単に言うならば、思い出がその人の人格を形成しているんだ。
 それらが無いとしたら……何もが信じられなくなるように思える。
「人は嫌な事があると、その事を忘れたくなる……でもお兄ちゃんの言う通り、そんな辛い事、悲しい事だって、その人を形成する大事な思い出だよ」
 女の子は俺に背を向ける形に向きを変え、俺の心を読んだかの様に言葉を紡ぐ。
「そうだよな」
「その事をお兄ちゃんが理解しているなら……きっと大丈夫。『始まりには挨拶を』『そして約束を』……これは舞お姉ちゃんの言葉だったんだね」
「!? 何故その言葉を?」
 女の子は俺の方へと向き直るも、帽子を深くかぶり鍔を両手でしっかりと押さえている。
「君は一体?」
 相変わらずその表情は全く見えない。
 俺の質問を無視して、彼女は言葉を続ける。
「えーと、あゆだけど……あの子も舞お姉ちゃんと同じ。忘れた約束を守ってるだけ。だから現実に戻りたいなら……」
「あいつの夢を成就させるって言っても、そんな事出来るのか? だって当の本人が自分の事を知らないんだぞ」
「夢って人の記憶とか願望とか、その心や頭の中で比重の高いものに多く影響されるんだよ。無意識に自分の中で強く思っている事が夢に出てくるの。あの瑞佳お姉ちゃんの夢があゆの夢なら、あの世界の中にヒントは有ったはずだよ」
「そんなこと急に言われても……漠然とし過ぎて」
「大丈夫。お兄ちゃんならあゆを救ってあげられるよ。うん。私が保証する」
「随分と高く評価してくれるんだな」
「うん」
 表情は伺えないが、女の子がニッコリと微笑んだような――そんな気がした。
 だから、俺も笑顔で答えてみた。
「……判った。やってみるよ」
「そうそう。自分を信じなきゃ何も始まらないよ。誰だって”信じる事”を力にする事は出来るんだよ。ただあゆや舞お姉ちゃんや郁未お姉ちゃんの場合、自分が持っていた力が、たまたまとっても大きな物だったというだけの差」
「舞と同じ……か」
「そうだよ。だから舞お姉ちゃんを救えたお兄ちゃんなら、あゆも救ってあげられるよ」
「ま、そういう事なら理には適っているな。それで現実へ戻れるって言うならやってやるさ。有り難う。え〜と……」
 名前を聞こうとしたが、それよりも早く女の子が俺に声をかける。
「どういたしまして。あ、その変わり一つ約束してくれる?」
「何を?」
 俺の問いに、彼女が俺を手招きする。
 落ちないように四つん這いになって、DNAの上を進み身を乗り出す。
 女の子の乗ったDNAへギリギリまで近付くと、彼女も俺の方を向き直り姿勢を整え、その小さな両手で帽子の両端を摘む。

 そして顔を上げ――


 二つの赤い瞳が俺の顔を捉える。



「責任取ってね」



 そう呟いて帽子が頭から落ちて――



 彼女の顔が露わになる――



 そしてその顔は――
























「月宮……あゆ?! ……おわあああああっっ!」















 彼女の顔を月宮のそれだと認識して叫んだ瞬間、俺は吹き飛ばされた。
 視界の中で、一気に小さくなってゆく幼い月宮。
 最後に見た瞬間、彼女は確かに微笑んでいた。
 その顔は幼いとはいえ、紛れもなく月宮あゆ本人のものだった。


 ――俺はあの表情を見た覚えがある。


 そう確信したと同時に、俺の身体は水中から飛び出す。


 頭上に海。


 足下に空。


 そんな不思議な空間を、俺は凄まじい速度で別の空間へと飛翔した。


 やがて風景が一変し、宇宙の様な暗闇へと辿り着いた。
 しかし、足裏からは地面らしき物がある感覚が伝わってくる。
 思い切って立ち上がってみた。
 二本の脚で暗闇の中に立ち周囲を見回すが、辺りには星の様に小さな光が点々と在るだけで他には何もない。
 俺はゆっくりと歩き出す。
 
 ――月宮が二人?

 行けども行けども周囲の景色に変化はない。

 ――何故?

 そもそも俺は本当に歩いているのだろうか?

 ――俺を悪夢に突き落としたのが月宮であるなら、現実へ戻る方法を示唆したのも月宮だった。

 考えながら前へ進む。

 ――何かが引っかかる。

 同じ様な事が、以前にも有ったはずだ。

 ――それに、何で俺なんだ?

 自分が望む世界を手に入れた長森、そしてその世界を破壊した折原。
 俺は単に時間を稼ぐ手助けをしただけに過ぎないわけだから、月宮の怒りを買うのは俺ではなく折原のはずだ。

 ――であるならば、何故折原でなく俺なんだ?

『何だか判らないけど、君を見ていると何だか腹が立つんだよ』
 確かそんな事を月宮が話していたっけ。
 そんな不確定な理由で人を悪夢に陥れるとは、全く持って迷惑な存在だ。
 だが、その稚拙な思考はまるで真琴の様で――あれ?
 まてよ。
 真琴が俺に対して漠然とした恨みを抱いていたのは、過去に俺との接触が有ったからに他ならない。

 ――と言う事は……ひょっとして俺は月宮とも? 

 俺はまだ思い出せない記憶がある。
 あいつの顔を初めて見た時に感じた、恐怖にも似た奇妙な感覚。
 それは俺とあいつとに何らかの接点が有ったからではないのか?
 殆ど全ての記憶を失った月宮と、一部の記憶を失った俺。
 程度の差はあれ、二人が揃って記憶を失っているのは、偶然では無いのではなかろうか。
 それなら合点がいく。
 数々の疑問を頭の中で反芻していると、やがて景色が変わってゆき、既に聞き慣れた月宮の声が出迎えた。
「来たね、決心はついた?」
 俺が辿り着いたのは暗い部屋の様な場所だった。
 どの程度の広さが有るのかはさっぱり判らない。
 ただ、先程の羊水の中に比べ、ひどく落ち着かない場所には違いない。
「ああ、……此処は何処だ?」
 俺の言葉が少しエコーがかかったように響き渡る。
 ホールか洞窟か、とにかく閉鎖された何かの中だろう。
「瞑想室だよ。もっとも、今から君が行うのは瞑想じゃないけどね。判ってると思うけど、ボクは君を現実へ戻す気は無いよ。でもボクも怖い事は嫌いだし、出来ることなら悪夢なんで見せたくない」
「ああ」
「それじゃ、おとなしくボクの夢で永遠に幸せに過ごすんだね?」
「いや……それは断る」
「え?」
「聞こえなかったのか? 俺はお前の夢を受け入れる事は出来ない。現実へ戻り約束を果たす」
「君って馬鹿?」
 月宮の軽口を無視して俺は続ける。
「もう一度言う。俺は現実へ戻る。そして、その為にお前の夢を叶えてやる」
「は? 君がボクの夢を叶える? ははははっ、君にボクみたいな力が有ったんだ? 郁未お姉さんや舞さんも持っていなかった力を?」
「夢ってものは、逃げ込む場所じゃない……月宮っ! お前は優しすぎるんだよ。俺が憎ければこんな真似しないでさっさと悪夢の無限地獄へ突き落とせば良いんだ。しかしお前はそれをしなかった。こうして俺に都合の良い夢を与えるチャンスまでもよこした」
「うぐっ……ち、違うよっ! ボクは……悪夢が嫌いなだけ」
「だからそれがお前の優しさなんだよ。俺はな、お前自身に導かれて此処まで来た。他ならぬお前自身の願いによってだ」
「し、知らないよっ! ボクはそんな事願ってない」
「なぁ月宮。俺は以前にも同じ様な経験があってな……自分自身の力を受け入れる事が出来なかった悲しい少女の話だ。俺はその力から宿主である少女の事を宜しく頼まれ、そしてその約束を守る為に現実へ戻らなければならない」

 そうか――先程感じた疑問の答え。
 他でもない。
 舞とまいだ。
 何となく俺は判った。
 月宮あゆと名乗る少女は、舞と同じ境遇なんだ――と。
 舞は自分が持つ異能の力が母と自分の立場を危うくし、遠く離れた街へと逃げなければならなくなった。
 己を拒絶し、その力を受け入れる”俺”という存在が現れるまで、
 郁美先生だって多分そうだ。
 月宮もまた、恐らくはこの力故に孤独な存在だったに違いない。

 俺はこの哀れな少女を救うためにも、言葉を続ける。
「お前には人の夢を具現化する力が有る。そしてお前が創ってきた夢を監視していたのも、やはりお前自身だったはずだ。夢が悪夢になった時、その夢を破壊してきたのはお前だった。だが今回は長森の夢と言いつつも、お前はお前自身の夢を創ってしまった。ではその夢を一体誰が監視するんだ? お前は常に第三者でなければいけなかったんだよ。しかしお前は暴走し、自分自身の夢を望んでしまった。その為夢を監視する別の第三者が必要になった。なぁ月宮。お前はもう以前のお前じゃないんだ」
「違う! ボクはボクだ」
「だからお前は自分が判らないんだろ? そんな不確定な自己意識なんてあてには出来ないさ。お前は創造主ではなく、既に俺達と同じ夢の中の登場人物に過ぎないんだよ。郁美先生や舞の様に、強大な力を秘めた危険分子。お前はお前自身にとって驚異な役者なんだ」
「そんなこと無い! その証拠にボクは夢を創ることが出来る! 君にとびっきりの悪夢を見せる事も出来た」
「確かお前の力は”人の夢を具現化する”事だろ。誰かが望んだ夢を、お前の作り出す空間内で現実とする。だが”自分が望む夢”を創ることは出来なかったんじゃないのか? もしも可能であれば、最初から自分の望む夢を作れば、自分の素性もすぐに判明しただろう。しかし、お前はそれをしていない。つまり、お前は他人の願望しか具現化する事は出来ないんだよ。では今は何故俺が望んでもいない悪夢を、俺に見せることが出来たんだ?」
「うぐっ……」
「お前は自分自身の情報を欲っするが故に、多くの人々の夢を創ってきた。その果てに、自分の夢にやっと辿り着き、その夢を具現化するためには、もう一人の自分が必要だったんだよ。つまり、今お前の願望を叶えているのは、お前ではなく、もう一人のお前……という事だ」
「……」
「お前は記憶が戻り始めてるんだ。だがいざその段階になってみると、記憶を取り戻す事が怖くなった」
「ち……」
 違うと言いたかったのだろうか? だが、俺は反論の余地を与えず、一気に畳みかける。
「では何故俺という存在にこだわるんだ? 単に夢を壊されて事に対する報復ならば、夢を壊した張本人の折原に対してすべきだろう? だが、お前は奴ではなく、こうして俺を閉じこめている。それは俺がお前の記憶にとって重要なファクターであると薄々気が付いているからだろう。だから俺を夢の中に閉じこめておきたかったんだ。違うか? それは、お前が自分の事を思い出しかけている証拠だ」
「ちが……う」
「俺達は……昔出会っているんだよ」
 そしてそれは、恐らく俺が舞との約束を破棄するきっかけとなった、俺にとっての空白の六年前の冬だ。
「違うっ!」
「月宮!?」
「違う違う違う違う違う違う違うったら違うよっ! ボクはボクだ。ボクはボクの意思で行動してるんだ! ボクは君の事なんか知らない!」
「聞け月宮!」
「嫌だ。またボクを騙すつもりなんだ。人の記憶が無い事を良い事にして、また適当な事を言って騙すんだ! ボクはもう君の言うこと何か信じない」
「信じろ! 今ならお前は自分が望む夢を見ることが出来るはずだ。他ならぬ自分自身の夢をだ!」
「君の言う事なんか信じられないよっ! ボクと出会ってるって? それなら何でボクの事をはっきりと教えてくれなかったの? 君が知っているボクの事を今すぐ教えてよ!」
「それは……」
「ほら、やっぱり嘘なんだよ。君はボクをまた騙してるんだ」
「違うっ! 俺にも記憶がないんだよっ! この状況で嘘を言うわけにはいかないだろ?」
「もういいよ……」
「月宮ぁっ!」
 俺は叫ぶと同時に、彼女に向かって走り出した。
 月宮が瞑想室と呼んだ空間に俺の声が響き、在るのかどうかもあやふやな地面を蹴って俺は駆ける。
「月宮ぁぁっ!!」
 光源も無い闇の中にはっきりと浮かぶ彼女に向かって、もう一度叫び手を伸ばす。
 
 でも――

 俺の手は彼女に届かなくて――

「良い夢、見てね」
 月宮がそう呟くと同時に、彼女の足下の影が伸びた様に生まれた漆黒の闇が俺に向かってきた。
 周囲の闇よりももっと深い完全な闇が、俺の足下を包み込むと、俺は沼に落ちてるように取り込まれて行く。
 途端、睡魔が襲いかかり、俺の意識が薄らいで行く。
「月宮……俺は……」
 睡魔と闘いながら、俺は必至に言葉を絞り出す。
 しかしその声はとても小さくて、彼女の耳には届かない。
「あはははははは、ははは……ははっはははは……」
 狭くなる視界の中に映る月宮の表情にあるのは、どこか無機質な笑みだった。
「ははは……君が望む夢……見させてもらうからね」
 月宮は表情を変えぬまま、もがきながら睡魔と闘う俺の姿を見下ろしている。
 そう、俺の惨めな姿を見て笑っているのではなく、自分自身に笑っている……そんな表情だ。
「俺の夢はな……元の世界で舞や佐祐理さんや、みんなと面白おかしく過ごすことさ……」
 もはや呟きにもなっていない自分の言葉に、俺の睡魔に侵された脳が思いつく。
(はははっ、それって長森の夢と大差ないじゃないか……彼女の夢は…俺の…夢でもあった……のかもしれないな……はは、俺のやっていた事って……結…局は自分の夢を壊……していただけなの…かも……な。…………馬鹿だな……俺って)
 瞼が鉛の様に重い。
 もう気力や根性では抑えきれない。
 俺は観念して睡魔の浸食を受け入れる。
 薄れ行く意識の中、俺が最後に見たのは、何処か虚ろな笑顔で手を振る月宮だった。
 視界が途切れ目の前に完全な闇が広がる。
 手足の力が抜け、自分という存在が身体ごと溶けて行くような感覚に、身を任せる。
(精々楽しい夢を見させてもらうさ……)
 五感で最後に残っていた感覚――聴覚が近づいて来る月宮の足音と小さな声を伝えていたが、やがてそれらも小さくなって行く。

 闇が俺の五感を包み込む。


 もう何も考えられない。



 考える必要もない。




 おやすみ。









「バイバイ祐一君」

 ――!?


 音が完全に消え去る直前に耳元で囁かれた月宮の言葉に、俺の記憶の中の何かが揺さぶられ、そして世界が光に包まれた。





§






 目を閉じたはずなのに、俺の視界いっぱいに光りが広がっている。
 つまりこれは意識の世界。
 夢を夢だと認識しながら見る奇妙な感覚。
 光りが弱まり次第に辺りの風景が、浮き上がってくる。
 これが、俺が最後に望んだ夢の舞台。
 最後の瞬間、耳に届いた月宮の言葉から咄嗟に俺が思い浮かべた記憶の断片。
「ここは……」
 目の前に広がる光景に、俺の中から何かがこみ上げてくる。
 懐かしさだけじゃない……あの長森の夢の中で、幾度と無く見た漠然とした色彩の夢。
 白、茜、そしてえんじ。
 辺りを見回す。
 一面に降り積もった雪が見える。
 木々も大地も全てが雪化粧で、己を飾っている。
 白は雪。
 そして茜は木々の合間から覗く見事なほどに美しい夕陽。
 長森の夢で見ていた夕陽は、まさにこの夕陽の再現だったのではないだろうか?
 真っ赤な夕陽が、空と雪化粧をした辺り一面の世界を茜色に染め上げている。
 では、えんじは?
 ――キュッ
 雪を踏みしめる音に考えるのを止めて振り返ると、其処には月宮が立ち竦んでいた。
「よぅ」
 軽く手を挙げて挨拶。
「何で……」
 彼女は絞り出すように呟いた。
「……人に出会ったら挨拶だぞ?」
 俺の言葉が耳に届いていないのか、立ち竦んだままの月宮が俺を――いや、俺の背後を見つめている。
「どうして、君がこの場所、この光景を知っているの?」
 両腕を下に伸ばし、拳を震わせて月宮は咽びながらも呟く。
「どうして……この光景が君の夢なの? 最も望んだ場所なの?」
 俺は月宮から目をそらして辺りを見回す。
 月宮の視線の先――俺の背後には、他の場所と比べて少し開けた場所があり、ひときわ大きな木がそびえ立っている。
 ――キュッキュッキュッ
 雪を踏みしめながらゆっくりと歩き、その大木に手を添える。
「むか〜し……恐らく六年前だが、俺は此処で遊んだ事があったんだよ」
 其処まで言って再び月宮を見る。
 先程と同じ場所で、変わらぬ姿勢のまま俺と大木を見つめている。
 彼女の目尻が夕陽を反射させているのは、見間違いではないだろう。
「俺は……元々はこの街の人間じゃない。春と夏と、そして冬に従姉妹の家に遊びに来ては暫く滞在しているだけだった」
 言葉を区切り、月宮と同じ方向へ視線を移す。
 枝の隙間から差し込む美しい夕陽に目を細め、長森の夢の中で見た夕陽を思い出す。
「俺さ、九年前の夏休みにこの街を訪れた時、一人の女の子と出会って、それで彼女と一つ約束をしたんだよ。それは”こっちに居る間、秘密の場所で一緒に遊ぶ”って約束だ」
 夕陽を見つめながら言葉を続ける俺の頭の中で、少しずつ記憶が蘇る。
「だが、俺は馬鹿だった……。もう一人と同じ約束をしてしまったんだ。そしてそれが全ての悲劇の始まりだった」
 俺は再び月宮へ振り向く。
「一人で探検をしてこの場所を見つけた時、俺は第二の秘密の場所にしようにと思った。でもこの場所に招待したのは、本来招くはずだった子ではなく、もう一人の子だった」
 視線を木に戻しながら懺悔する様に呟く。
「ここは……?」
 月宮もまた、木とそして夕陽を見ながら呟く。
「学校さ」
 俺は大木に両手をついて答える。
「学……校?」
 月宮はまるで何かを確かめる様に、ゆっくりと俺の言葉を反芻した。
「昔、この場所に学校を創ったんだ」
 俺の視界はいつしかぼやけていた。
 いつ涙を流したのか、自分でも判らないが、とにかく俺は目の前の光景を見て泣いていた。
「何で……何で君が泣いているの?」
 月宮が悲しさと嬉しさを混ぜ合わせた様な表情で言葉を紡ぐ。
「何でだろうな? 俺にも判らないけど、この光景を見ていたら自然に涙が出てきたんだ」
 止めどなく流れる涙を拭おうともせずに、それでも笑顔で俺は月宮に答えた。
「相沢祐一……君」
 俺の名前を呟きながら月宮が一歩一歩ゆっくりと近付いて来る。
 ――キュッキュッキュッ
 雪を踏みしめる度に音を立てながら。
「月宮……あゆ」
 俺も月宮の名前をゆっくりと口に出して呼んでみる。
 一度俺の名を呼んだ後、彼女は何も言わずに俺のすぐ横まで辿り着き、俺と同じように手を伸ばして木にあてた。
 暫く無言で月宮の横顔を見ていると、視線に気が付いたのか、彼女も俺の事を見つめ返す。
 大きな瞳を潤ませつつも、その表情にあるのは、決して悲しみだけではない。

 茜色に輝く世界の中で――

 大きな木の袂で――

 月宮がおずおずと差し出した手を――

 俺はぎゅっと掴んだ。


 その瞬間、俺の中で記憶の逆流が始まった。

 ――今なら判る。

 六年前俺がこの街から遠ざかった理由も、月宮――あゆの事も。

 彼女の手を掴んだまま、俺の視界は再び光りに包まれたように白くなり、やがてあゆの顔も、周囲の光景も飲み込んでいった。





§






 雪が時折ちらつく冬のある日、舞との約束を果たそうといつもの様に街を進んでいた俺の前に、彼女は突然現れた。
 駅前の歩道を走っていた俺は、曲がり角で女の子に衝突し、その子を弾き飛ばした。
 それが彼女――月宮あゆとの出会いだった。
 必至に謝る俺だったが、彼女の目はどこか暗く、俺の必死の弁明も耳に届いていない様子だった。
 夢や希望を失ったかの様な暗い表情に、俺は俺と出会う前の舞の表情が重なって見えた。
 だからだろう。
 俺は彼女を放っておくことが出来ず語りかけた。
 駅前のベンチに彼女を座らせ、少ない小遣いで買った――舞にあげる予定だった――鯛焼きを分けて食べた。
『……ありがとう』
 小さな声だったが、やっと彼女は口を開いてくれた。
 名前を聞いた。
『月宮――あゆ』
 彼女は恥ずかしそうに呟いた。
 何故恥ずかしがるんだろう?
 尋ねたら、人に名を名乗るのは初めてらしい。
 珍しいと思って、素直にそう言った。
 少し前までは「月宮」という名字しか無かったらしいが、つい最近お母さんから「あゆ」という名前を貰ったらしい。
 不思議に思った。
 普通名前は生まれた時に、親から付けて貰えるものだと思う。
 どうやら、この子の場合はちょっと違ったようだ。
 でも……”あゆ”という名前は素直に良いと思った。
 ゆっくりと打ち解け、俺とあゆは駅前のベンチで鯛焼きを食べながら色んな事を話した。
 あゆの言葉は少なかったが、緊張しているというより、人と話すことに慣れていないといった感じだった。
 お母さんと共に、遠くからこの地へとやって来たらしいが、途中ではぐれ彼女だけがこの場所へとたどり着いたらしい。
 他にもたどたどしい言葉で必至に何かを伝えようとしているが、子供の俺には意味がよく分からなかった。
 だが彼女の話を聞き俺は直感した。
 この子は舞と同じだって。
 彼女の心を支配しているのは間違いなく”孤独感”だと。
 だから俺は自分の事を話した。
 始まりには挨拶を。
 そして親しくなりたくば約束を。
 それらは舞から教えてもらった言葉。
 俺とお前は出会った。
 なら友達だ。
 だから……俺とお前で約束をしよう。
『約束?』
 そうだ、約束だ。
 取りあえず今日のところは、明日また此処で出会うって約束だ。
 乗り気じゃないのか、あゆは首を縦に振らない。
 それじゃあ、とっておきの秘密の場所を教えよう。
 本当は舞に教えるはずだった新しい秘密の場所。そこをお前と俺の友情の証ってヤツにプレゼントしてやる。
『……うん。判った……』
 やっとの事で頷いた彼女に微笑み、指切りをすると俺は立ち上がり、舞との約束を果たすべく麦畑へと急いだ。

 そして翌日。
 俺は駅前のベンチで、あゆと再会し彼女の手を引いて秘密の場所へと向かった。 
 そこは森の中にある大きな木。
 その大きさに驚き、声を上げて喜ぶあゆ。
 木の周囲で、俺達は色々な遊びをして、大いに語らった。
 驚くべき事に、あゆは学校というものを知らなかった。
 だから俺は学校の事を色々と教えた。
 勉強は嫌いだけど、楽しい事もいっぱいある。
 友達もいっぱい居て、毎日が楽しい。
 そんな俺の言葉に、あゆは目を輝かせて聞き入っていた。
『ボクも……学校に行ってみたい』
 行けばいい。
『でもそれは無理なんだ』
 何故?
『判らない……でもボクは……本当は居てはいけない子だから』
 あゆの言葉を聞いて俺の感情が爆発する。
 そんなの知るか! 行けないなら此処で作れば良い!
『え?』
 此処が俺とお前の学校だ。
 大嫌いな授業もなく、嫌な奴も居ない理想の学校。
 どうだ?
『……有り難う。ボク、とっても嬉しいよ』
 あゆの涙交じりの笑顔に、俺は柄にもなく照れた。
 なら早速授業開始だ。
『お昼ご飯は?』
 鯛焼き買ってきたから、また一緒に食べよう。
『うぐぅ〜鯛焼き、暖かい内に食べたい……』
 ったくしょうがない……それじゃ早弁だな。
『早弁?』
 昼休みの前にお弁当食べちゃう事さ。
 本当はいけないんだけど、俺達の学校ならオッケーな事にしよう!
『うん。有り難う祐一君……わっ!』
 あゆの笑顔に、俺は少し恥ずかしさを覚えて……紛らわせる為に雪を投げつけた。
『うぐぅ〜酷いよ〜』
 やっぱり弁当は体育の後だ! 雪合戦開始!
 自分でも無茶苦茶だと思うが、自由に振る舞うのがこの学校のルールなんだから、別に構わないだろう。
 あゆにもしっかりと反撃するように伝える。
 だって体を動かした後の方が、ご飯は美味しいから。
『う、うん……よーし、えいえい!』
 二人で時間を忘れていろんな事をした。
 この子なら……舞とも友達になれそうな気がした。
 そうだ、明日はあゆも一緒に舞の処へ連れて行こう。
 そうすれば秘密の場所を三人で共有できるし、俺がこの街に居ない間も、舞は新しい友達と遊ぶことが出来る。

 子供ながらに良いアイディアだと思った。

 楽しげな未来が垣間見えたと思った。






 でも、そんな願いは叶わなかった。





§






 ボクが物心付いた頃には、もうあの暗い施設の中に居た。
 名前――良く判らないけど、人からは「つきみやさま」と呼ばれていた。
 その意味はよく判らなかったけど、この建物のある場所の名前だったらしい。
 意味の分からない”せっぽう”を聞かされ、暗くて小さな部屋で”めいそう”とかやらされてた。
 そこは日の当たらない大きな建物で、その中には大勢の女の人達が生活していた。
 周りの女の人達は、”せっぽう”や”めいそう”の他に決められた”しゅぎょう”というものもしていたみたい。
 でもボクは特に何もする事はなかったから、一人でその建物の中を勝手に彷徨いてた。
 時々出会う黒い服を着た男の人達は、ボクを恐れているかの様に決して近付かなかった。
 ただ白衣を着て髪の毛を後ろに縛った男の人だけが、時々お菓子をくれた。
 そんな生活を変だとも、退屈だとは思わなかった。
 何故なら気が付いた時には、そういう生活だったから。
 そんなある日、一人の女の人に出会った。
 名前は知らなかったから、ボクは単におばさんって呼んでた。
 他の人達はみんなボクを避けていたけど、お菓子のお兄さんと、このおばさんだけがボクに近付き話しかけてくれてた。
 おばさんは、この建物の外についてよく話をしてくれた。
 一緒にご飯を食べるのが日課になって、ボクは初めて人とのふれあいを”楽しい”と感じるようになった。
 随分経って、白衣を着た一人の男の人がボクに言った。
 いつも薄ら笑いを浮かべている嫌な男の人だ。
 その人が言うに、ボクは”出来損ない”だったらしい。
 そして”危険な存在”なんだって。
 だから”この世から消えなければならない”んだって。
 何のことか判らなかったけど、その日のお昼ご飯の時にその事をおばさんに話したら、おばさんは血相を変えてボクを抱きしめた。
 おばさんは泣いていた。
 そして、ボクはおばさんに連れられて、その建物から出た。

 初めて見る外の世界は、とっても眩しくて、そして綺麗だった。
 昇る朝日に声を上げ、何処までも続く蒼い空に手を伸ばし、流れる川の水の冷たさに驚き、夕陽と夕焼け空に言葉を失った。
 何もかもが新鮮だった。
 何日も何日も二人で歩き、その途中でおばさんは色んな事を教えてくれた。
 この世界にあるいろんなものの事。
 人々の生活の事。
 そしておばさんの事も少しだけ。
 おばさんはボクに名前を付けてくれた。
 「あゆ」
 それがボクの新しい名前だった。
 何でもおばさんが、やがて生まれる子供に付ける予定の名前だったらしい。
 おばさんには、子供が二人いて、お兄ちゃんと妹の二人兄妹だったから、二人の妹になる予定だった子の名前だ。
 でもその子が生まれてくる事はなく、既に生まれていた妹さんの方も、今のボクくらいの年齢の時に重い病気で倒れて、そして死んじゃったらしい。
 その話をした時のおばさんは、何だかとっても悲しそうで、ひたすら何かに謝っていた。
 いつしか、ボクはおばさんの事をお母さんと呼ぶようになった。
 そしてボク達は、お母さんの住んでいた街を目指して歩き続けた。
 外はとっても寒くて歩くのはとっても大変だったけど、お母さんが手を握ってくれていたから頑張れた。
 夜が来て寝る時も、お母さんが抱きしめてくれたから寒さも怖さも耐えられた。
 お母さんが着ていた茶色いコートをボクにかけてくれた。
 お母さんの温もりが残っていて、とっても暖かかった。
 このコートが好きだと言うと、ボクが大きくなったら、くれると言ってくれた。

 ボクは空が大好きで、歩いている途中でもつい見上げてしまい、よく転んだりしてた。
 その度にお母さんに膝を拭いてもらったりしてた。
 ずっと建物の中に居たボクにとって、何処までも青く高い空と絶えず姿を変えて流れる雲は、見ているだけで心が躍った。
 そんな中を自由に飛べたら気持ち良いんだろうな。
 そう話したボクを、お母さんは優しい表情で見ていてくれてた。
 翌日、お母さんは道中に拾った小さな白い羽をボクにくれた。
 ボクがいつの日か空を飛べるようにとの願いをかけて。

 旅を続ける途中、何度かあの暗い建物の中で見た黒い服を着た男の人達の姿を見かける事があったけど、その度お母さんはボクを引っ張るようにして隠れていた。
 ボクはかくれんぼみたいで面白かった。
 でも、その間お母さんはいつも何かにお祈りをする様に、必至で何かを呟きながら、ボクを強く抱きしめてた。
 そんな事が何度かあったけど、やがてボク達は幾つかの町を越えて、比較的大きな街へと辿り着いた。
 その街の公園でボクは”ぶらんこ”の遊び方を教えて貰った。
 揺れる景色、一瞬だけど高くなる景色、そして頬を撫でる風に心を躍らせた。
 暫くして、お母さんは買い物をしてくるからと言い残して、ボクにコートを羽織らせると何処かへと行った。
 ボクは暫く公園で一人で遊んでいたが、ふとお母さんを驚かせようと、その場から少し離れた茂みの中に身を隠して、お母さんが来るのを待っていた。
 しばらくしてお母さんが、ビニール袋を抱えてやって来たから、ボクは口を押さえてじっと近付くのを待った。
 ボクの姿が無い事に気が付いて、驚いたお母さんが持っていたビニール袋を落として急に慌てた様に走り出した。
 だからボクも姿を出そうかと思った瞬間風が吹いて、ボクが手にしていた小さな白い羽が宙を舞った。
 思わず手を伸ばして羽を追って向きを変えた時、自動車の走る音と、何かにぶつかった音が聞こえた。
 すぐに振り向くと、おお母さんの身体が人形のように宙を舞っていて、そしてそのまま倒れて動かなくなった。
 お母さんにぶつかった黒い車は、”その後”急停車した。
 旅の途中で何度か見たあの黒い服を着た男の人達が、お母さんの身体を抱えて車の中に運び込むと、そのまますぐに何処かへと行ってしまった。
 ボクは何が起こったのか判らぬまま、暫く茂みの中で固まっていた。
 お母さんがくれた白い羽は、もう何処かへと飛んでいってしまっていた。
 やがてボクは茂みから出ると、お母さんの残したビニール袋を拾って、待っていた場所へと腰を下ろす。
 そしてそのまま何時間も待って、陽が暮れて夕焼け空になった頃初めて気が付いたんだ。
 お母さんはもう戻ってこないんだ……って事に。
 ボクは初めて泣いた。
 道行く人が、時々ボクを宥めようと近づき声をかけてくれたが、ボクは何も答えられず、ただその場で泣き続けてた。
 日が落ちて闇が訪れると、夜空に月が浮かんでた。
 その月が、何故か紅い色に見えた。
 ボクは懐から、お母さんが「もしもの時に」とくれた封筒を開いた。
 そこにはお母さんからのメッセージと、住所と地図、「由起子へ」と書かれた手紙、そして少しばかりのお金が入っていた。
 お母さんが落としたビニール袋の中には、パンやお菓子や飲み物が沢山入っていた。
 一人で過ごす夜の暗さと、怖さ、そして不安さと、寒さに震えながら、ボクはコートにくるまって一晩中泣いた。
 まだお母さんの臭いは残っていた。

 それでも朝が来ると、ボクは残された物を持って歩き始めた。
 昨日までとは違い一人で、お母さんの住んでいた地へ向かって。

 そして、やっと辿り着いたその街で、ボクは――





『おわっ! だ、大丈夫か? 悪かった。俺も急いでたから……ん?』









 ――祐一君に出会った。


『取りあえず今日の所は、明日また此処で会うって約束だ』


 この場所で会うという約束。


 それはお母さんとの約束と同じ。


『もしも私とはぐれたら、この手紙にある街の、この場所で待っててね。もし私が現れなかったら……その時は地図にある私の妹の家を訪ねて、私の手紙を見せなさい。そこに私の息子もいるはず。きっと貴方を優しく迎えてくれるはずだから――』

 だからボクは待った。
 手紙に記された家には行かずに、駅の前のベンチで、約束の場所でお母さんか、祐一君が来るのを待ち続けた。
 相変わらず一人で過ごす夜は寒かったけど――ボクには何故か、そんな寒ささえも心地よく思えた。


 約束がボクを強くした。


 ボクの中から、何か言いようのない”力”が湧いてきた。


 コートの隙間から覗く月は、いつもに増して紅く輝いていた。




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