(……)
 気が付けば目の前には闇が広がっていた。
 いや、現実には瞼が下りているだけなのだから、単に視界を遮られているに過ぎない。
 という事は、視覚情報が脳に伝達されていない訳ではなく、実際には瞼の裏側を見ている事になる。
 ならば目を凝らしてゼロ距離に焦点を合わせる事さえ出来れば、瞼の裏側が見ることが出来るのではないだろうか?
(よっし!)
 無意味なことだと判りつつも、目を凝らし自らの瞼の裏側に焦点を合わせてみる。
 だが見えるものは暗闇ばかり。
 ぼんやりとした色や、にじみの様なものがうっすらと見て取れるが、果たしてそれが毛細血管や皮膚の裏側であるはずもない。
(やっぱり駄目か……ん?)
 そこまで考えを巡らせて、俺は初めて自分の意識が戻りかけている事を認識した。
 夢と現の狭間にいる感覚は悪くない。
 このまま寝て夢の続きを見るか、現に赴き現世を謳歌するか悩む事は、平和な世の中でしか許されぬ最高の贅沢と言っても良いだろう。
 この状態だと、夢の中での視覚(現実には感覚)と現からの聴覚による情報が交わって、まるで俺が二つの世界に同時に存在している様で面白い。
 それぞれの世界が、俺を手招きして居るかの様な感覚。
(うーん、人気者は辛いよな)
 やがて聴覚だけでなく、触覚による臀部・腰・背中を伝わる振動が加わり、夢の世界から送られる視覚的情報が薄れて行く。
 どうやら相沢祐一意識誘致コンペションは現に軍配が上がったようだ。
 ――ブロロロロロロロ……
 振動と音。
 そしてその音が、自動車のエンジンの音だと気が付き、上半身に突如強い風を受けたところで俺は瞼を開けて目を覚ました。








■第23話「胡蝶之夢」








「はっ!? ……あれ?!」
 突然の状況に、俺は慌てて周囲を見回すが、相変わらず辺りは暗闇だった。
 だが、完全な闇ではなく、単に太陽の光が無い状態、すなわち夜だっただけだ。
 そして景色が風と共に、前方から後方へと流れている。
「祐一涎出てる……」
 すぐ隣から聞こえた声に、無意識に手の甲で口元を拭う。
 どうやら夜の闇の中、照明が落ちた建物の間を走るオープンカーの後部座席だった。
「あははーっ、祐一さん起きましたか?」
 運転席に座る佐祐理さんが、髪を靡かせながら一瞬だけ振り向いて微笑んだ。
 あれ?
 ふと隣を見る。
「祐一疲れてる?」
 俺の横に座っているのは、風を受けて靡く髪の毛を抑えつつも無表情な舞。
「あ……ああ大丈夫だ。舞、佐祐理さんも元気か?」
「はい?」
「?」
 俺の言葉に二人は首を傾げる仕草。
 これは……どういう事だ?
「相沢、何寝ぼけてるんだ?」
 前方から声がかかり視線を向けると、俺の目の前……車の助手席のヘッドレストから、顔を覗かせるように振り向いている折原と目が合った。
「折原……お前無事だったのか!?」
「見ての通り、概ね元気と言える状態だが……何だ、夢でも見てたのか?」
「夢?」
 折原の言葉にふと手元を見ると、俺は大量の牛丼弁当の入ったビニール袋を抱えていた。
 そして俺が今座っているのは、佐祐理さんのインプレッサの後席。
 佐祐理さんが運転し、折原が助手席。舞が俺の隣に座っている。
 ああっ!
 やっとのことで、今の自分が置かれている状況を認識した。
「夢って……まさか、俺は夜食の牛丼弁当を買って帰る途中で寝ちまったのか?」
「大丈夫ですか祐一さん? お疲れの様ですけど」
 佐祐理さんがバックミラー越しに俺を見て言葉をかけてくれる。
「ああ大丈夫…………と言うことは、あの騒動もあの廃墟の世界も、そして月宮の奴も全て夢?」
 俺は吐き出すように呟くと、脱力してシートへ深くもたれて夜空を見上げる。
 夢の中の世界と変わらぬ月が、夜空に輝いていた。
 しかし視線を周囲に戻せば、流れる景色は健全な街並みであり、車には折原、佐祐理さん、そして舞が居る。
 当たり前の光景が懐かしくて仕方がない。
「……夢を見てた?」
「ああ、みんなが登場する長〜い夢さ」
 舞の問いかけに、俺は心底ホッとした様に答える。
「なぁ、明日は学園祭の初日だよな?」
 学園祭――ああ、何と懐かしい響きなんだろう。
 俺が誰にという訳ではなく漠然と尋ねる。
「はぁ? お前大丈夫かよ、まだ寝ぼけてるんじゃないのか?」
「明日は学園祭の初日ですよ。早くお店を完成させないと大変ですよ」
「……祐一しっかりする」
 三人の答えを聞き、俺はその場で項垂れ震えながら小声で呟いた。
「帰ってこられたんだ……現実の世界に」
 一瞬、脳裏をよぎる奇妙な世界での奇妙な生活。
 現実ではあり得ない世界から一転し、俺は懐かしい現実、当たり前の世界へと戻ってきたわけだ。
「ふぅ〜」
 大きく溜息を付き姿勢を戻すと、再びシートにもたれかかる。
 全身で風を受けて夜空を見上げると、暗闇には夢の世界と変わらぬ姿で月が浮かんでいる。
 その姿に一瞬、まだ夢の中に居るのではないか? という錯覚に陥るが、頭を振って追いやることにする。
「……祐一、本当に大丈夫?」
 舞の手が俺の頭に乗せられ、優しく撫でられる。
 恥ずかしいが、その柔らかい手の感触が心地よい。
 思わず「舞〜っ!」と叫んで押し倒したくなるが、場を考慮し理性を保ちつつ舞の手を優しく押し戻す。
「はははっ、大丈夫だぞ」
 舞を安心させるために、少々大げさな笑い声を上げて答える。
「余程変な夢でも見ていた様だな」
 折原の言葉に夢の中での生活を思い浮かべ思わず苦笑する。
「まぁ、確かに変な夢だったぞ。みんなで奇妙な世界で生活するんだけどな、世界そのものは滅茶苦茶なんだよ。この街が亀の背に乗っかって空飛んでるんだぜ? でも、何て言うか……生活そのものは恐ろしくリアルなんだ。まるで本当にあの世界に居た様な気してならない程にな」
 だが、そんなリアルな夢の世界も、長森の絶叫と共に崩壊していった。
 脳裏に崩壊して行く夢を思い出しつつ、視線を戻して助手席の折原の首筋を見る。
 カッターナイフによる傷痕は当然存在しなかったが、その当たり前の事に安堵を覚えた。
「まぁ、夢なんてものは、見ている時はやけにリアルに感じるものだからな」
「そうですねー」
「……」
 折原の言葉に佐祐理さんと舞が頷く。
「そう考えれば、こうしてオレとお前が話をしているこの瞬間が、夢の中だって可能性もあるわけだ」
 そんな折原の言葉を、俺は笑って一蹴する。
「ははは。そんな事ないだろ。見ている夢を妙にリアルに感じるのは、夢を夢だと認識していないからだろ? 俺が今のこの世界を現実だと認識している以上、夢であるはずがないさ」
「なら夢と現実の境界って何処にあるんだ? 今お前はこの世界が現実だと言ったが、その根拠は何だ?」
「え?」
「お前にとって今この瞬間が現実だと言うその理由は、自分が現実だと思いこんでるからだろ? だったらその逆だって可能なんじゃないか? 人間は意識によって在りもしない”時間”という物を、その精神の中に誕生させた。ならば意識を変えることで時間を無くす事も可能だし、夢を現実だと思うことだって可能さ。さっき”夢は見ている時、夢だと認識していない”……とお前自身が言ったよな? らなば、この瞬間を夢でないとどう証明する?」
「だって周りを見て見ろよ。俺達はちゃんとした街並みの中を、佐祐理さんの車で走っている」
 そう言って俺は周囲を見回す。
 夜空の下、照明の落とされた真っ黒なビルや建物が並ぶ間の舗装路を、佐祐理さんの運転するインプレッサは進んでいる。
「俺が今さっきまで見ていた夢では、この街はこの様に原型を留めていなかった。それが今はこうして本来あるべき姿で存在している。これが現実でなくて何なんだ?」
「はははっ」
「あははーっ」
 俺の言葉に、折原と佐祐理さんが笑い始める。
「何だよ?」
「なぁ相沢、夢ってもんは永遠不変の物か? お前も場面がころころと変わる夢とか見たことあるだろ?」
「夢から覚めれば、其処が必ずしも現実って事はあり得ないんですよー」
 俺は呆然としながら二人の言葉を聞いていた。
 何故だ?
 何故こんな事を話している?
 俺は今一度自分自身を納得させる為に周囲の景色を見回す。
「な、何だっ!?」
 俺は慌てて声を上げる。
 俺達が先程まで走っていたのは、確かに見慣れた街の中――駅前から学校へ向かう途中の一般道路だった筈だ。
 しかし今車が走っているのは、明らかに高速道路の様な自動車専用道路だった。
「ここは……一体? 佐祐理さん!?」
 周囲の景色も見えず、ただ真っ暗闇の中をひたすら続く一本道の高速道路を、俺達を載せたインプレッサは突き進んでいた。
「なぁ相沢、夢から覚めても別の夢だったって可能性は忘れてないか?」
 そう言う折原を見ると、首筋に一本の赤い線が走り……やがて血が流れ出した。
「うわわわわわっ!!」
「あははー、どうしたんですかー」
 笑いながら振り向く佐祐理さんの目が紅く光っている。
「逃がさない……って言ったよね?」
 確かに顔と声は佐祐理さんのものだが、その口から発せられた言葉が俺を震え上がらせた。
 狼狽する俺を見て満足げに微笑むと、先程まで佐祐理さんの顔だったものが、月宮のそれに変わっていた。
「おわぁぁぁぁっ! お、お前はっ!」
 俺は想わず悲鳴を上げ、反射的に隣の舞に抱きついた。
「……」
 先程からずーっと舞は無言で窓の外を眺めていたが、俺が抱きついた衝撃で姿勢を崩すと、車の中へと倒れ込み――”ゴトリ”と音を立てて首が転がった。
「わぁぁぁぁっ! ま、舞?」
 驚きの声を上げながら見れば、先程まで舞であったはずの者は、女子の制服を着ただけのマネキンだった。
 表情のない顔が、うつろな視線を中空へ向けて、車の床に転がっている。
「お、折原?」
 見れば折原もまた動かないマネキンと化していた。
 先程流れ出した血も当然消えて無くなっている。
「瑞佳ちゃんの夢……ボクの夢を壊した責任取って貰うからね。ふふふふふ」
 驚く俺を見て、月宮がインプレッサのステアリングを握りながら不気味な笑い声を上げる。
「夢を壊した責任って……それなら俺じゃなくて折原じゃないのかよ?!」
「うーん、……よく判らないけどボクの直感が君を責めるべきだって言うんだよね。だから君には彼の分までとびっきりの悪夢を体験してもらうんだ」
「そんなバカげた理由で……おわっ!」
 月宮がアクセルを踏む力を強くした途端、インプレッサは急加速を始めた。
 突然の加速に、俺はシートへ押しつけられる形となり、舞だったマネキンが風に吹き飛ばされて道路に転がり落ちた。
 俺はたまらずシートの下へ身を隠すと、牛丼弁当の入っていたビニール袋から、一枚の紙が姿を覗かせている事に気が付く。
 取り出して見ると、それは一枚のチラシだった。
「これは……」
 確かチンドン屋が配っていたチラシ。
 その表面には、『大特売! 悪夢が今ならお買い得!』と書かれていた。
「ふざけやがって……」
 例えマネキンと言えども舞をバラバラにした上、佐祐理さんの姿に化け、あまつさえ理不尽な恨みでもって人を陥れる月宮に対する怒りが込み上げてきた。
 チラシを握りつぶすと、姿勢を戻し運転席の月宮へ向かって吠える。
「俺は女は殴らない主義だが、今回は別だっ!」
 俺が後部座席から身を翻して助手席へと飛び移ると、その場に居た折原のマネキンが車の外へ吹き飛んでいった。
 バキッ! グシャ!
 嫌な音を立てて、折原の姿をしたマネキンが夜の闇へ消えていった。
「あ、酷いんだね〜。仮にもさっきまで親友だったマネキンだよ?」
「うるさい! お前が人のことを言えた義理か?!」
 頭の片隅で折原に詫びを入れて、運転席の月宮へ掴みかかる。
「あ、危ない。ボクは運転中なんだよ?」
 そう言ってステアリングを少し乱暴に操作すると、車は急激な蛇行運転となり俺は姿勢を崩す。
 それでも手足で踏ん張り、月宮の服――学校の制服――の襟を掴む。
「構うか、覚悟しろっ!」
「覚悟するのは君の方だよ。それじゃ頑張ってね」
 そう言った途端、月宮の姿が忽然と消えた。
「何っ? おわっ!」
 驚く間もなくドライバーが居なくなったことで、高速走行中のインプレッサの挙動が不安定になる。
 ふとパネルを見ると、スピードメーターの針は180km/hの部分を振り切っていた。
 俺は慌てて運転席に座る。
 しかし走行中、しかも最高速度の状態で、いきなり運転を変わるという行為は無理があった。
 シートに座る際にステアリングに膝が当たってしまった事で、一気にインプレッサはバランスを崩す事になる。
 タイヤがけたたましくスキール音を上げて、車体が横滑りを始める。
 俺は高速走行中に急ハンドルを切る事が、如何に危険な事か身をもって知る事となった。
 バランスの良い四輪駆動のインプレッサWRXだが、流石にこうなっては素人の俺に制御出来る筈もない。
 慌ててパニックブレーキを踏む。
 タイヤが悲鳴を上げて急制動がかかり、車重を支えるに必要な摩擦を失ったインプレッサは、その進路を曲げて道路脇のガードレールへ目がけて一直線に突っ込んで行った。
「うぉぉぉぉっマジかよっ?!」
 俺が無意識に叫んだ直後、インプレッサはガードレールへ斜め四五度の角度で激突した。
 激突の瞬間、スピードメーターは140km/hを指していた。
 衝撃でシートベルトをしていない俺の腹部がステアリングにめり込むと、身体の奥から口の中に生暖かい液体が逆流して来た。
「がはっ……っ!」
 ガードレールへ衝突しただけでは止まることの無い運動量は、そのままガードレールに車体を擦るようにスピンさせながら数十メートルを走らせる。
 その間、アルミ製のボンネットが吹き飛び、ガードレールに擦られた部分から火花が飛び散る様を、俺の視覚はスローモーションで捉えていた。
 アスファルトに大量のブラックマークを残して停車すると、俺は身体を引きずる様に運転席から身を乗り出すようにして脱出し、その脇で口内に溜まった液体を吐き出した。
「うぉぇっ……がはっ……」
 暗闇に色を見て取る事は出来ないが、恐らくはどす黒い血がアスファルトを汚している事だろう。
 痛む全身に、その場でへたり込むと車の惨状に声を失った。
 月明かりに映るインプレッサは、もはや鉄屑としか形容の出来ない物体へとなっていた。
「……はぁ……はぁ……っ?」
 道路の中央で目の前に広がる惨状にへたり込んでいた俺の周囲が突然明るくなり、けたたましいクラクションの音が俺の耳をつんざいた。
 振り向いた俺の目は、大型トラックの物と思われるヘッドライトの灯りを直視して何も見えなくなる。
 咄嗟の出来事に動くことも出来なかった俺は、その直後高速で移動してきた巨大な質量の塊にはね飛ばされ意識を失った。
 不思議と痛みは感じなかった。






§







「朝ー朝だよー、朝ご飯を食べて学校に行くよー」
 何処か懐かしい声に、意識が次第にはっきりしてゆく。
「朝ー朝だよー、朝ご飯を食べて学校に行くよー」
 再び同じ声。
 手慣れた動作で腕を伸ばし目覚まし時計のスイッチを押すと、どう考えても目覚まし時計には不向きと思われる眠気を誘う従姉妹の声が止まる。
 あくびをして背伸びをすると背骨が音を立てて軋む。
「ふあぁ〜〜〜〜っ……あれ?」
 そこで初めて、俺は自分の寝間着がしっとりと濡れている事に気が付いた。
「うーむー……何だか嫌な夢を見ていた様な気がする」
 何となく身体に大きなダメージを受けたような気がしてならないが、それは夢の中での出来事なのだろう。
 身体の何処にも異常は見あたらない。
 ただ、寝汗に濡れた寝間着が不快なだけだった。
「うげぇ〜キモ悪ぃ〜。さっさと着替えて学校に行かないと……ん?」
 そこまで思考を巡らせて、俺は初めてベッドの両隣がやけに盛り上がっている事に気が付いた。
「ふむ……」
 俺は完全に覚醒した頭脳で現状で考えられる事を想像する。
「まず、この布団の膨らみ具合からして、中身は人間だな。微かに上下に動いているのは中の人間が呼吸をしている事に他ならない」
 人間……?
「となると……誰だ?」
 正直、俺の布団へ潜り込んでくるような人間がこの家に居るとは思えない。
 まてまて祐一。
 こういう時はよっく考えろ。
 俺が床についた時点では誰もいなかった……はず。
 記憶が曖昧ではあるが、寝起きの俺が驚いている事実がそれを証明している。
 とすれば、俺が寝た後に潜入してきた事になるわけであり、それを踏まえれば名雪の可能性は低くなる。
 名雪が俺より後に寝ることはまずあり得ないからだ。
 そしてこの家に居る人間は俺を含めて四人。
 となると、もう答えは真琴と秋子さん……って事になる。
「なーんだ、人の布団に寝てる間に入るなんて、全く二人ともお茶目なんだから…………って、んなこと有ってたまるか!」
 真琴ならともかく秋子さんだぞ? 秋子さん。
 名雪の実母にして、この俺の叔母にあたる秋子さんが何故俺の布団に入る?
 全くその理由が思いつかない。
「もっと論理的に考えろ!」
 自分に言い聞かせて俺はもう一度考える。
 オーケイ、”誰が?”という事ではなく、”可能性”という視点から推測してみよう。
 最も高いのは「夜襲の常習犯」である真琴だろう。
 そうなると問題は真琴と誰の組み合わせか? という事になる。
 『真琴+秋子さん』
 『真琴+名雪』
 ここの家族構成から考えるので有れば、以上の組み合わせしか有り得ない。
 しかし秋子さんと名雪が、俺の布団に入る理由や可能性が無い事は先刻証明済みだ。
 そうだ、つまりこの布団の中に居る人間は、外部の人間なんだ。
 あの人見知り激しい真琴が、外部の人間と一緒に寝る事はあまり考えられない。
 あり得るとすれば、佐祐理さんか、長森、辛うじて舞……と言ったところか。
 だが、長森が夜中に俺の部屋を訪れ、あまつさえ俺の布団で寝る事は未来永劫あり得ない。
 そして佐祐理さんが単独で俺の部屋へ遊びに来る事も禁じ手と言える。
 となれば、真琴の可能性は低くなり、逆に最も可能性が高いのは舞と佐祐理さんの組み合わせとなるわけだ。
「うむ。完璧な推理だ」
 てゆーか、他には思いつかない。
「しっかし二人が遊びに来た記憶は全く無いぞ」
 だが他に俺の布団に入り込もうとする存在を思いつかない。
 という事は、やっぱりこの中に居て寝息を立てて居るのは舞と佐祐理さんに違いない。
 俺の頭脳が論理的な思考の末に導き出した答えだ。信用しなければならないだろう。
「な〜んだ、二人とも積極的だなぁ〜ん。どれどれ」
 自分を納得させて布団をめくる。
 そして髪の毛が布団からにょっきりと顔を出す。
「またまた〜佐祐理さんってば髪の毛が寝癖っすよ〜まるでアンテナみたいに……って、アンテナ!?」
 俺は自分の発した言葉に驚愕し、めくり上げた布団を素早く戻す。
 震える手で、反対側の布団を恐る恐るめくってみる。
 髪の毛が……短い髪の毛がその姿を現す。
 そして――
「な¢▼※〒∋£%#&ん*@§☆デス★⊆≪√∽ポッポー!!!!」
 声にならない声を上げて素早く布団を戻す。
 それはまるで、興味本位で死体袋の中身を見たは良いが、その中身の凄まじさに一瞬で元に戻した人間の行動に似ているかもしれない。
(何だ今のは!)
 俺の視界が一瞬だけとらえた謎の生物の身体。
(落ち着け俺!)
「何故だ?」
 ダメだ、俺の目が捕らえた衝撃映像が脳裏から離れない。
「何故だか知らないが、ベッドの中に居た生物は、北川と久瀬にそっくりなんだが……何故だ?」
 こう言うときは深呼吸だ。
 吸って吐いて、吸って吐いて、吸って吸ってもっと吸って吸って軽く吸って……って吸いすぎだっ!
 はぁはぁ。
 どうも思考能力がおかしくなっている様だな。
「そうとも、でなければ俺の隣で奴等が素っ裸で寝ているはずがない……って裸?」
 自ら発した言葉に、先程一瞬垣間見た野郎の身体が脳裏に浮かぶ。
「ン・ノォォォォッー!!」
 そうだ、疲れてるんだ。
 だから有りもしない物が見えてしまうんだな。
 つまりこれは幻覚。
 幻だ。
 俺は一人で寝たんだ。
 そして今から着替えて学校に行く。
 それだけだ。
 断じて全裸の野郎二人にサンドイッチにされた状態で寝ていたなんて事実は無かった!
 その様な事態を俺は断固拒否する!
 見ればカーテンの隙間から覗く日差しが、今日が晴天だと言うことを告げている。
 そうとも今日もまた何事も無く平穏な一日が始まるのだ。
「よっし!」
 気合いを入れ直してベッドから抜け出そうとした時、布団の中の物体がもぞもぞと動き始める。
「うーん……何だ、もう朝か……相沢お早う」
 人がせっかく事実に目を背けようとした矢先に、北川似の生物が布団から顔をにょっきりと出して微笑む。
 ……って何故に頬が紅い?
「それにしても相沢、昨夜は一段と激し……」
「だっしゃぁっ!」
 盛大な掛け声と共に俺は全体重を乗せたエルボードロップを北川の喉に決める。
 インパクトの瞬間にひねりを加える事も忘れない。
「ぐぼげぇぁっ!」
 必殺の一撃で北川が再び眠りに落ちる。
 口から泡を吹いているから、まず間違いなくレム睡眠状態だろう。
「ふぅ……」
 肌と肌が触れ合う感覚に、一瞬目眩を覚えるも、取りあえずの平和は守られた。
「朝っぱらから騒がしいぞ君たちは……」
 満足げに額の汗を拭っていた俺に、今度は布団の反対側から久瀬がひょっこりと顔を出して呟く。
「全く……ベッドで声を上げて騒ぐのは夜だけにしてくれな……」
「ほわあっちゃぁっ!」
 俺は久瀬の言葉に素早く反応すると、鳥肌でびっしりの身体をジャンプさせて、久瀬の鳩尾にジャンピングニースタンプを決める。
「ぐふぉぅっげっ!」
 必中・魂・気合いの籠もった一撃に、久瀬もまた夢の世界へと戻っていった。
「はぁはぁ、ったく……一体全体どうなって」
 ――コンコン
 俺が現状の理解に務め様とした時、部屋のドアがノックされた。
「はい……ってタンマタンマ!」
 思わず反射的に声を上げてしまった。
 慌ててすぐに制止するも、ドアは開けられてしまった。
「祐一さん朝ですよ……あら?」
 部屋の中に入ってきた秋子さんだが、ベッドの上で寝ている素っ裸の北川と久瀬、そしてその傍らで跪いている俺を見て固まった。
「あ、秋子さん、これはですね……」
「了承」
 いつもと同じ笑顔で秋子さんはそう言うと踵を返す。
「ちょっと待ったぁぁぁっ! 何を了承なんですか?!」
 追いすがろうと立ち上がった俺の両足が押さえつけられる。
「ふっふっふ、秋子さんのお許しは出たからには、この北川潤、地獄の底まで付き合うぜ」
「僕の執念深さは君も知っているだろう? もう放さないぞっ。共に人生を歩んでいこうではないか」
 北川と久瀬が絶対零度に匹敵する台詞と共に、両サイドから俺の足から脚、そして腰へその両手を絡ませつつ抱きついて来た。
 二匹の巨大な蛇が、俺の身体を這い上がってくる様な感覚に、血の気が引いて行く。
 二人の指が俺の寝間着のボタンを外し、生じた隙間から二人の手が進入してくる。
 素肌と素肌が触れ合い、それらが密着している面積が増えて行く。
 俺はもう何も考える事が出来なかった。
 二人の吐息を、両の首筋に感じたのを最後に、俺の意識はプツリと途切れ目の前が真っ暗になり、やがて天地の感覚も失った。





§






「ねえどうだった?」
 そんな声に気が付いて辺りを見回せば、そこは暗闇の中で目の前には月宮が居る。
 自分の身体を確かめるように触るが、特におかしな所はない。
「ねぇ、どうだったかな?」
 意図的に視界から外していたが、月宮が再び声を上げる。
 奴の姿など見たくはないが、困ったことに他に見る物がない。
 周囲は真っ暗闇なのだが、やつの姿だけは妙にはっきりと見て取れるのだ。
 まるで手料理を初めて好きな男に差し出した少女の様に、好奇心に満ちた表情で俺の答えを待っている。
「何がだ?」
 質問の意味は判っていたが、俺は敢えてとぼけてみせた。
「何って……だから、ボクの作った悪夢だよぉ」
「馬鹿野郎っ! あんなくだらない悪夢で俺が根を上げると思ったのか?!」
 有る意味途轍もない恐怖ではあったが、余りにも荒唐無稽過ぎて真実みに欠ける。
 何よりここで認めてやつを調子づかせ、同じ様な悪夢を見せられては堪ったものではない。
「うぐっ……そ、それなら今度はもっと凄いの見せるんだから」
 頬を膨らませて悔しそうな顔をすると、ブツブツと呟きながら悩み始めた。
「うーん、交通事故での肉体的ダメージも駄目、さっきの男ねぶり悶絶地獄での精神的ダメージも効かないとなると……」
(おいおい)
 状況や立場も忘れて、思わず心の中でツッコミを入れる。
 さっきの二つを同列に並べるのは、正直どうかと思うぞ。
(やっぱりこいつはガキだな)
 改めて認識する。
 俺に悪夢が効かないと思わせれば、飽きっぽい子供の様に俺に対する興味も失い、さっさと放り出すかもしれない。
(そうと決まれば……)
「おい、幾らお前が悩んだ所で無駄だぞ」
「え?」
「どれだけ悲惨な体験だろうが、どの様な痛みだろうが、最初から夢だと判っている以上、俺は耐えてみせる」
 そう言い切って不敵に笑ってやる。
「うぐっ……」
 案の定、月宮が半ば悔しそうに、そして困ったような表情になる。
「無駄だ無駄無駄。さっさと俺を解放し、別の人間の夢でも創ってやれって」
「……あ、そっか」
 しばらく唸っていた月宮だが、急に手を叩いて呟くと、俺を見つめて口元を歪める。
「な、何だよ」
「うふふ。うーんと、君は自分が何をされても平気だけど、自分の大切な人が酷い目に逢うことに耐えられないタイプじゃないかな?」
「何をするつもりだ?」
「夢だと判っていても尚、受け入れがたい事態というものは存在するんだよ」
 そう言うと俺の周囲の闇が押し寄せ、俺を取り込んで行く。
「おわっ!」
 底なし沼に沈んでいく様な感覚が身体を包み、睡魔が襲いかかる。
「さーて、それじゃ頑張ってみせてね」
 月宮の愉快そうな声。
「どんな悪夢だって俺は、絶対に耐えて……絶対に現実へ帰る……ぞ」
「あははは、それは無理だよ」
「俺には……現実で果たさなければならない”約束”が……有る……んだ……」
「ふーん……それじゃその約束とやらがご破算になったら……君は耐えられるのかな? 見せてもらうよ。君の約束を……」
 憎たらしい笑みを浮かべた月宮が何かを言っていたが、意識の薄れた俺にはよく聞こえなかった。





§






 落下して行く感覚に心を委ね、何処までも沈んで行く。
 やがて奥底に一筋のぼんやりとした明かりを見つけ、俺の意識は誘蛾灯に群がる羽虫の様に、その明かりへと吸い寄せられて行く。
 やがて周囲の景色が、フォーカスが合うようにはっきりとした物へと変わる。
「ここは……」
 俺の視界に写った光景は、よく見慣れた物だった。
 綺麗に並んだ沢山の机と椅子、そして正面には黒板。
 肌寒さに身を震わせ大きく息を吐くと、窓から差し込む月明かりに、俺の吐く息が白く漂っているのが見える。
 照明の点いていない夜の校舎。
 そうだ……此処は一年生の頃の教室。
 自らの置かれた状況で思い当たるシーンは一つしかない。
 導き出した答えに愕然としつつ、俺は自分の席から立ち上がる。
 足が震えているのか、うまく歩けない。隣の名雪の机に引っかかり、バランスを崩して倒れる。
 リノリウムの床の冷たさが、膝から身体中に伝わる。
 倒れた俺の目に自分の机の中身が映り、俺はその中にあった物を震える手で取り出すと、目の高さに掲げて見る。
 それは月明かりに輝くウサギの耳を象ったカチューシャ。
 名雪から『女の子をより女の子らしく見せる為のアイテム』として貰ったものだ。
 そんな可愛らしいと言えるアイテムを手に、俺の心臓はこれ以上ないほどに大きく鼓動し、寒さにも関わらず汗が全身から吹き出る。
「この状況は……」
 誰もいない真夜中の教室に、俺の震える小さな声が響く。
「そうだ……舞が、あいつが自らの刀で自決をする直前だ……」
 背後に何者かの気配を感じた。
 それは舞が拒絶した、自分の分身である”力”の暴走から生まれた魔物――まい。
 舞の身体でもある、それら五体中の最後の一体。
 そのまいとの最期の闘いが、今まさに始まる直前だった。
 この後、佐祐理さんや俺を傷つけた魔物が、自分自身の力だと知った舞は、自責の念を感じて刀で自らの命を絶つ。
「どうするんだよ……おい」
 俺は酷く狼狽えながら自問する。
 あんな思いをするのはもう嫌だ。
 舞を再び傷つける様な事は絶対にしたくないし、俺自身も恐らくは耐えられないだろう。
「しかし……」
 もし舞の自決を阻止したならどうなる?
 彼女はまいを――自分の力を受け容れる事が出来ないのではないのか?
 自分に刃を突き刺す事は、俺や佐祐理さんに対してだけでなく、まいに対する謝罪も含まれていたのではないだろうか。
 そして自分自身の力――かつて母親の蘇生をもしてみせた力が、自分にも作用する事を信じていたかもしれない。
 ではもし、俺が舞の刀を取り上げてでも、彼女の行動を阻止した場合どうなる?
 舞は自分に咎を残したまま、生き続ける事が出来るだろうか?
「畜生! なぁ、まい……どうすりゃ良いんだよ?」
 俺の問い掛けに答えは帰ってこない。
(結局俺には事の成り行きを見守る事しか出来ないのか……)
 教室の床に尻餅をついたままの姿勢で、カチューシャを胸に抱きしめ俺は震えていた。
 そうこう自問している間に、廊下の方に人の気配を感じ、視線を向ける。
 教室の入り口に、刀を構えて佇む制服姿の少女。
 黒く艶やかな流れるような髪の毛と、日本刀が月明かりに蒼く輝いて見える。
(あの時と同じだ)
 懐かしさが込み上げてくる。
 最後に舞を見たのはいつだったか?
 目まぐるしい環境の変化が立て続けに起こっていた所為で、時間の感覚が麻痺しているのだろうか。
(そう言えば……)
 最後に長森の夢の中で見た時も、今と同じ様に深夜の学校だった事を思い出す。
 俺が教室内で、舞は廊下。
 引っ越して再会した時も、魔物との決着を付けた時も、そして夢の中でも、俺達は出入り口を挟んで互いを見つめ合っていた。
「よう」
 俺は立ち上がりながら舞に声をかける。
 極めて自然に、務めて明るく。
「……」
「なぁ舞。もう止めよう」
 俺の言葉が聞こえないかの様に、舞は雪風を握り直して教室へと一歩を踏み出す。
 その目はこの校舎で再会した時と同じく、俺を見据えてはいない。
 彼女が見ているものは、俺の背後で怯えているであろう傷ついた少女。
 六年前。急に心変わりをし約束を破棄した俺を、何とかして繋ぎ止める為に放った力。
 その最後の欠片を倒し、自らの力と決別するため、舞は踏み込む。
「駄目だ」
 俺は舞の正面に立ち、そして手を広げて舞を制する。
「祐一、退いて」
「止めろ、舞」
 俺は舞を止めるべく、両手を広げたまま歩み出す。
 何も考えず、計算もせず、ただ無意識に、本能の赴くままに。
 それは全て”舞を傷つけたくない”という至極単純な目的の為に、自然に身体が動いていた。
 ゆっくり進み、舞の身体をその腕の中に抱きしめる。
「……祐一、邪魔」
 それでも尚、舞の剣先と視線は俺の背後を見据えていた。
 だから俺は舞の身体を強く抱きしめ、無理矢理にでも彼女の視界を覆い隠した。
「もう良いんだ。魔物なんか最初から居なかったんだよ」
 別に計算もしていない、思い出してる訳でもないが、俺の口から発せられる言葉は、以前の時とほぼ同じだった。
「……」
 俺の腕の中で舞の身体が微かに震える。
「魔物なんかじゃない。あれはお前自身が作り出したものだんだよ。だから、もう終わりにしよう」
 今、この状況が夢か現実かなんてどうでも良い。
 ただ自然に俺の感じるまま言葉を紡ぐ。
「……」
「お前は……俺との約束を守る為、六年間という長い間、たった一人であの遊び場を守ってくれてたんだな」
「……祐一の言っている事は良く判らない」
 舞が初めて俺の顔を見上げて答える。
「終わったんだよ、お前の戦いは」
「……」
「今日からは、あの頃の舞に戻るんだ。俺と一緒に過ごしたあの頃のお前に」
「でもまだ一体、最後の一体が残っている」
「良いんだ。倒す必要なんか無い。刀も必要ない。ただお前が受け入れれば良いだけだ」
「そんな事……急に言われても理解できない」
 舞は再び視線を逸らす。
「俺とお前はずっと前に出会っていたんだ」
「……」
「年に数回、短い間だけど、この場所で毎日のように遊んでいたんだ。まるで長い付き合いの友達の様に」
「……」
「でも……」
 舞の表情が少しだけ崩れる。
「でもあの子は、結局私を置いて逃げた。他の子と同じように……」
「違う、違うんだ舞。あれは別にお前から逃げた訳じゃない。その理由は……」
 そこまで言って俺の記憶が途切れる。
 そうだ理由は……何だ?
「……し、仕方がなかったんだ。あれは本当の別れだった。何かは思い出せないが、ガキの俺にはどうする事も出来ない事情があった」
 一瞬だけ間を置くが、それでも俺は自然に言葉を紡ぐ。
「だから俺達はこうして再会した。あの時と同じ場所でだ。そして互いに惹かれ合って、あの時と同じようにまた仲良くなれたんじゃないか」
「でも……どうすればいいか判らない」
「戻ればいいんだよ。刀を捨ててあの頃の舞に。もうこうして夜に校舎へ来る必要もない」
「……」
 俺の腕の中で、舞は静かに俺の言葉を聞いていた。
 しかし……手は今だ刀を握りしめたままだった。

 舞の刀――雪風という名を持つ日本刀。
 雪のように冷たく、そして美しい刃から放たれる剣風が、その名を示す業物。
 母が持っていた物。
 唯一の肉親だった母から受け継いだ力。
 刀は人の持つ力の象徴。
 そして舞の場合は母との絆でもある。
 その雪風でもって、人が持つべきでない力を断ち切りたかった。
 自分と母を人から遠ざけ、自分から何もかも奪った忌むべき力。
 そんな力との決別を果たしたかった。
 だが、俺が舞から逃げ出したのは、その力が原因じゃない。
 記憶が無くとも、それだけは確かな事だった。
「時間はかかるかもしれない。だがお前には佐祐理さんが居る。信じられる友達が居る」
 俺は慎重に、舞を落ち着かせようと言葉を選ぶ。
「そして俺も居る。お前がこんな目にあわなければならなくなった責任は、俺にある」
 それは本音であり告白だ。
「だから……舞が許してくれるなら、俺はお前の側にいて、お前を……舞を支える事にする。いつまでも、ずーっといつまでもだ。お前が拒絶してきたその力も含めて、俺はお前を好きで居続ける」
 そこまで言って、俺は舞の表情を伺う。
 俺の懺悔の言葉を、舞は表情を変えずにただ黙って聞いていた。
 手にしたままの雪風を見て、俺は言葉を続ける。
「だがもしも俺が許せないのなら、魔物ではなく、俺を斬ればいい……」
「……私は、祐一の事が嫌いじゃない」
「『始まりには挨拶を』……『そして約束を』だろ? だから俺と新しい約束をしよう」
「新しい約束?」
 初めて舞が目に見えて反応を示した。
 俺の腕の中で、舞が俺の顔を見つめる。
「ああそうだ、俺と一緒に……いや、佐祐理さんも一緒に三人で暮らさないか? 食事当番とか掃除当番とか決めてさ、みんなで力を合わせて家族の様に支え合って生きるんだよ。楽しいこともいっぱいあるぞ。三人で色んな所へ出掛けよう。舞が望む場所へお弁当を持ってさ……どうかな?」
「三人一緒に……」
 俺の言葉を噛み締めるように反芻し、やがて舞はその表情を穏やかなものへと変える。
 彼女の目には、俺が提案した三人の生活が映し出されたのだろうか?
 やがて舞はゆっくりと頷き、口を開いた。
「うん……」
 小さい声だが、確かに舞は答えてくれた。
「でも、私は弱いから……刀を捨てた私は弱いから……色々と祐一に迷惑をかける」
「良いんだよ。女の子は弱いものだ。だから……それで良い」
 少し震える舞の身体を抱きしめ、俺は優しく答える。
「そんな未来が、見てみたい」
「そうだろ? なら俺達と一緒に行こう。どこまでも。いつまでも」
「……うん。一緒にいきたい」
「ああ、ああ」
 頷く舞の身体を抱きしめ、俺は何度も頷いた。
 何秒、いや何分そうしていたのだろう、不意に舞の腕が俺の背中に回される。
「舞……」
 左の手の平が俺の背中を優しく包む。
 しかし、右の手は……まだ拳。刀を握ったままだ。
「もう刀を降ろすんだ。お前にはもう要らない物なんだから」
「……でも」
「ん?」
「一緒にいきたい……けど、私はいけない」
「舞?」
「佐祐理や祐一を傷つけたものが許せない。それが私であるなら、私は自分が許せない」
「良いんだ舞! 俺も佐祐理さんも気にしていない!」
「私に佐祐理や祐一と共に歩む資格なんかない」
 一瞬、舞の表情が笑顔になる。
「有り難う……祐一」
 そして、舞は雪風の柄を俺の後頭部へ当てて身体を振り解き、最後に残った自分の分身へと疾走した。
「ま、舞っ!?」
 俺の言葉も追いつけない程の素早さで教室を駆け抜けた舞の身体が宙を舞う。
 振り下ろされる雪風の軌道が、月明かりに青白く輝いた。
 渡し損ねたウサギ耳のカチューシャが俺の手から滑り落ちる。
「何故だっ! 止めろぉぉぉぉっ!!」
 叫び声、そして何かが崩れ落ちる気配。

 舞の力を打ち消す事は、舞自身を傷つける事でもある。
 両手両脚、そして心臓。
 五つの魔物は、それぞれ舞の五体に宿っていたもの――いや、そのものと言ってもいいだろう。
 であるから全ての魔物を倒した時、舞は己の五体全ての機能を失う事を意味する。
 それは俺や佐祐理さんや、学校の生徒達を巻き込んだ事に対する舞の贖罪でもあった。

 俺は駆け寄った。
 嗚咽しながら、顔を滅茶苦茶に崩して、声にならない声を上げながら、動かなくなった舞の元へ向かって。
 滑り込むようにして跪き、舞の身体を抱き寄せる。
「祐一の事は好きだったから……」
 それはいつか聞いた舞の本心。
 彼女が俺に対して初めて「好き」という単語を用いた告白。
 違うのは……表現が過去形である事であり、その意味するところは俺を絶望へと追いやる。
「いつまでも 好きだから……」
「春の日も……夏の日も……秋の日も……冬の日も……」
「ずっと私の思い出が……佐祐理や……祐一と共にありますように」
「舞?」
 そして手が力無く緩み、握っていた雪風が音を立てて床に転げ落ちる。
「舞っ!!」
 身体を強く抱きしめ揺するが、舞が再び目を開くことはなかった。
 アザや擦り傷はあっても、大きな外傷は無い綺麗な身体。
 しかし舞はもう動かない。
 俺達が許すのではない、舞の持っていた罪の意識は、彼女自身が許せなければ意味がなかった。
 だが違う!
 本当に悪いのは舞ではなく俺の方なんだ。
 一方的に破棄した呪いにも似た約束で、舞を縛り付けた俺の方だ。
 舞が苦しむ必要は無かったんだ。
「なのに……」
 動かぬ彼女の身体を抱きしめ、俺は自分の心が壊れて行く感覚を実感する。
 だから俺は強く望む。
 幸せな未来を。
 俺と舞の間で結んだ新しい約束。
 その夢が、約束した事が現実になれば良いのに――と。
 そう強く願う。
 そう信じて、俺は自らが作り出した都合の良い未来絵図へ逃げ込もうとした。
 舞は俺との約束という呪縛から解き放たれ、全快した佐祐理さんと三人で仲むつまじく、いつまでも仲良くくらしましたとさ……めでたしめでたし――

 判ってる。
 現実でない事くらい判ってる。
 全ては俺の夢想。
 俺が望んだ勝手都合の良い夢に過ぎない。
 目が覚めれば、腕の中には動かぬ舞の骸が有って、俺は絶望の中で目を覚ます。
 まいが居ない以上、舞が蘇生する事はあり得ない。
 そんな目の前の現実に、俺の心は打ちのめされる。
 涙で舞の姿が霞み、脱力した俺の腕から舞の身体が床に雪崩れ落ちる。
 俺は両手で顔を覆い、事実から目を背け身体を震わせた。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
 窓ガラスを震わせる程の絶叫を上げると、雪風を広い上げ教室を飛び出し廊下を走った。
 その先にあるものが絶望しかないと知りながら、俺は目と鼻と口から体液を流しつつ走った。
 やがて廊下の突き当たり、非常口へと辿り着く。
 扉を開ける動作すら億劫に感じ、手にした雪風を力任せに振り当てる。
 音を立てて扉が壊れ、俺は自分が居た場所が二階だった事も忘れ、全速力のまま扉を突き破り外へ飛び出した。
 勢い余った俺の身体は、非常階段の手すりを越えて宙を舞っていた。
 重力に導かれながら俺の身体が落ちて行く。
 落下する時に垣間見た風景は、月明かりが雪に輝いている分、校内よりも明るく感じられた。

 そして後頭部に強い衝撃。

 見上げた夜空に、月が浮かんでいた。

 青白い月が次第に紅いものへと変わって行く。

 それを最期に、俺の意識は深淵へと落ちていった。





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