(……)
気が付けば目の前には闇が広がっていた。
いや、現実には瞼が下りているだけなのだから、単に視界を遮られているに過ぎない。
という事は、視覚情報が脳に伝達されていない訳ではなく、実際には瞼の裏側を見ている事になる。
ならば目を凝らしてゼロ距離に焦点を合わせる事さえ出来れば、瞼の裏側が見ることが出来るのではないだろうか?
(よっし!)
無意味なことだと判りつつも、目を凝らし自らの瞼の裏側に焦点を合わせてみる。
だが見えるものは暗闇ばかり。
ぼんやりとした色や、にじみの様なものがうっすらと見て取れるが、果たしてそれが毛細血管や皮膚の裏側であるはずもない。
(やっぱり駄目か……ん?)
そこまで考えを巡らせて、俺は初めて自分の意識が戻りかけている事を認識した。
夢と現の狭間にいる感覚は悪くない。
このまま寝て夢の続きを見るか、現に赴き現世を謳歌するか悩む事は、平和な世の中でしか許されぬ最高の贅沢と言っても良いだろう。
この状態だと、夢の中での視覚(現実には感覚)と現からの聴覚による情報が交わって、まるで俺が二つの世界に同時に存在している様で面白い。
それぞれの世界が、俺を手招きして居るかの様な感覚。
(うーん、人気者は辛いよな)
やがて聴覚だけでなく、触覚による臀部・腰・背中を伝わる振動が加わり、夢の世界から送られる視覚的情報が薄れて行く。
どうやら相沢祐一意識誘致コンペションは現に軍配が上がったようだ。
――ブロロロロロロロ……
振動と音。
そしてその音が、自動車のエンジンの音だと気が付き、上半身に突如強い風を受けたところで俺は瞼を開けて目を覚ました。
■第23話「胡蝶之夢」
「はっ!? ……あれ?!」
突然の状況に、俺は慌てて周囲を見回すが、相変わらず辺りは暗闇だった。
だが、完全な闇ではなく、単に太陽の光が無い状態、すなわち夜だっただけだ。
そして景色が風と共に、前方から後方へと流れている。
「祐一涎出てる……」
すぐ隣から聞こえた声に、無意識に手の甲で口元を拭う。
どうやら夜の闇の中、照明が落ちた建物の間を走るオープンカーの後部座席だった。
「あははーっ、祐一さん起きましたか?」
運転席に座る佐祐理さんが、髪を靡かせながら一瞬だけ振り向いて微笑んだ。
あれ?
ふと隣を見る。
「祐一疲れてる?」
俺の横に座っているのは、風を受けて靡く髪の毛を抑えつつも無表情な舞。
「あ……ああ大丈夫だ。舞、佐祐理さんも元気か?」
「はい?」
「?」
俺の言葉に二人は首を傾げる仕草。
これは……どういう事だ?
「相沢、何寝ぼけてるんだ?」
前方から声がかかり視線を向けると、俺の目の前……車の助手席のヘッドレストから、顔を覗かせるように振り向いている折原と目が合った。
「折原……お前無事だったのか!?」
「見ての通り、概ね元気と言える状態だが……何だ、夢でも見てたのか?」
「夢?」
折原の言葉にふと手元を見ると、俺は大量の牛丼弁当の入ったビニール袋を抱えていた。
そして俺が今座っているのは、佐祐理さんのインプレッサの後席。
佐祐理さんが運転し、折原が助手席。舞が俺の隣に座っている。
ああっ!
やっとのことで、今の自分が置かれている状況を認識した。
「夢って……まさか、俺は夜食の牛丼弁当を買って帰る途中で寝ちまったのか?」
「大丈夫ですか祐一さん? お疲れの様ですけど」
佐祐理さんがバックミラー越しに俺を見て言葉をかけてくれる。
「ああ大丈夫…………と言うことは、あの騒動もあの廃墟の世界も、そして月宮の奴も全て夢?」
俺は吐き出すように呟くと、脱力してシートへ深くもたれて夜空を見上げる。
夢の中の世界と変わらぬ月が、夜空に輝いていた。
しかし視線を周囲に戻せば、流れる景色は健全な街並みであり、車には折原、佐祐理さん、そして舞が居る。
当たり前の光景が懐かしくて仕方がない。
「……夢を見てた?」
「ああ、みんなが登場する長〜い夢さ」
舞の問いかけに、俺は心底ホッとした様に答える。
「なぁ、明日は学園祭の初日だよな?」
学園祭――ああ、何と懐かしい響きなんだろう。
俺が誰にという訳ではなく漠然と尋ねる。
「はぁ? お前大丈夫かよ、まだ寝ぼけてるんじゃないのか?」
「明日は学園祭の初日ですよ。早くお店を完成させないと大変ですよ」
「……祐一しっかりする」
三人の答えを聞き、俺はその場で項垂れ震えながら小声で呟いた。
「帰ってこられたんだ……現実の世界に」
一瞬、脳裏をよぎる奇妙な世界での奇妙な生活。
現実ではあり得ない世界から一転し、俺は懐かしい現実、当たり前の世界へと戻ってきたわけだ。
「ふぅ〜」
大きく溜息を付き姿勢を戻すと、再びシートにもたれかかる。
全身で風を受けて夜空を見上げると、暗闇には夢の世界と変わらぬ姿で月が浮かんでいる。
その姿に一瞬、まだ夢の中に居るのではないか? という錯覚に陥るが、頭を振って追いやることにする。
「……祐一、本当に大丈夫?」
舞の手が俺の頭に乗せられ、優しく撫でられる。
恥ずかしいが、その柔らかい手の感触が心地よい。
思わず「舞〜っ!」と叫んで押し倒したくなるが、場を考慮し理性を保ちつつ舞の手を優しく押し戻す。
「はははっ、大丈夫だぞ」
舞を安心させるために、少々大げさな笑い声を上げて答える。
「余程変な夢でも見ていた様だな」
折原の言葉に夢の中での生活を思い浮かべ思わず苦笑する。
「まぁ、確かに変な夢だったぞ。みんなで奇妙な世界で生活するんだけどな、世界そのものは滅茶苦茶なんだよ。この街が亀の背に乗っかって空飛んでるんだぜ? でも、何て言うか……生活そのものは恐ろしくリアルなんだ。まるで本当にあの世界に居た様な気してならない程にな」
だが、そんなリアルな夢の世界も、長森の絶叫と共に崩壊していった。
脳裏に崩壊して行く夢を思い出しつつ、視線を戻して助手席の折原の首筋を見る。
カッターナイフによる傷痕は当然存在しなかったが、その当たり前の事に安堵を覚えた。
「まぁ、夢なんてものは、見ている時はやけにリアルに感じるものだからな」
「そうですねー」
「……」
折原の言葉に佐祐理さんと舞が頷く。
「そう考えれば、こうしてオレとお前が話をしているこの瞬間が、夢の中だって可能性もあるわけだ」
そんな折原の言葉を、俺は笑って一蹴する。
「ははは。そんな事ないだろ。見ている夢を妙にリアルに感じるのは、夢を夢だと認識していないからだろ? 俺が今のこの世界を現実だと認識している以上、夢であるはずがないさ」
「なら夢と現実の境界って何処にあるんだ? 今お前はこの世界が現実だと言ったが、その根拠は何だ?」
「え?」
「お前にとって今この瞬間が現実だと言うその理由は、自分が現実だと思いこんでるからだろ? だったらその逆だって可能なんじゃないか? 人間は意識によって在りもしない”時間”という物を、その精神の中に誕生させた。ならば意識を変えることで時間を無くす事も可能だし、夢を現実だと思うことだって可能さ。さっき”夢は見ている時、夢だと認識していない”……とお前自身が言ったよな? らなば、この瞬間を夢でないとどう証明する?」
「だって周りを見て見ろよ。俺達はちゃんとした街並みの中を、佐祐理さんの車で走っている」
そう言って俺は周囲を見回す。
夜空の下、照明の落とされた真っ黒なビルや建物が並ぶ間の舗装路を、佐祐理さんの運転するインプレッサは進んでいる。
「俺が今さっきまで見ていた夢では、この街はこの様に原型を留めていなかった。それが今はこうして本来あるべき姿で存在している。これが現実でなくて何なんだ?」
「はははっ」
「あははーっ」
俺の言葉に、折原と佐祐理さんが笑い始める。
「何だよ?」
「なぁ相沢、夢ってもんは永遠不変の物か? お前も場面がころころと変わる夢とか見たことあるだろ?」
「夢から覚めれば、其処が必ずしも現実って事はあり得ないんですよー」
俺は呆然としながら二人の言葉を聞いていた。
何故だ?
何故こんな事を話している?
俺は今一度自分自身を納得させる為に周囲の景色を見回す。
「な、何だっ!?」
俺は慌てて声を上げる。
俺達が先程まで走っていたのは、確かに見慣れた街の中――駅前から学校へ向かう途中の一般道路だった筈だ。
しかし今車が走っているのは、明らかに高速道路の様な自動車専用道路だった。
「ここは……一体? 佐祐理さん!?」
周囲の景色も見えず、ただ真っ暗闇の中をひたすら続く一本道の高速道路を、俺達を載せたインプレッサは突き進んでいた。
「なぁ相沢、夢から覚めても別の夢だったって可能性は忘れてないか?」
そう言う折原を見ると、首筋に一本の赤い線が走り……やがて血が流れ出した。
「うわわわわわっ!!」
「あははー、どうしたんですかー」
笑いながら振り向く佐祐理さんの目が紅く光っている。
「逃がさない……って言ったよね?」
確かに顔と声は佐祐理さんのものだが、その口から発せられた言葉が俺を震え上がらせた。
狼狽する俺を見て満足げに微笑むと、先程まで佐祐理さんの顔だったものが、月宮のそれに変わっていた。
「おわぁぁぁぁっ! お、お前はっ!」
俺は想わず悲鳴を上げ、反射的に隣の舞に抱きついた。
「……」
先程からずーっと舞は無言で窓の外を眺めていたが、俺が抱きついた衝撃で姿勢を崩すと、車の中へと倒れ込み――”ゴトリ”と音を立てて首が転がった。
「わぁぁぁぁっ! ま、舞?」
驚きの声を上げながら見れば、先程まで舞であったはずの者は、女子の制服を着ただけのマネキンだった。
表情のない顔が、うつろな視線を中空へ向けて、車の床に転がっている。
「お、折原?」
見れば折原もまた動かないマネキンと化していた。
先程流れ出した血も当然消えて無くなっている。
「瑞佳ちゃんの夢……ボクの夢を壊した責任取って貰うからね。ふふふふふ」
驚く俺を見て、月宮がインプレッサのステアリングを握りながら不気味な笑い声を上げる。
「夢を壊した責任って……それなら俺じゃなくて折原じゃないのかよ?!」
「うーん、……よく判らないけどボクの直感が君を責めるべきだって言うんだよね。だから君には彼の分までとびっきりの悪夢を体験してもらうんだ」
「そんなバカげた理由で……おわっ!」
月宮がアクセルを踏む力を強くした途端、インプレッサは急加速を始めた。
突然の加速に、俺はシートへ押しつけられる形となり、舞だったマネキンが風に吹き飛ばされて道路に転がり落ちた。
俺はたまらずシートの下へ身を隠すと、牛丼弁当の入っていたビニール袋から、一枚の紙が姿を覗かせている事に気が付く。
取り出して見ると、それは一枚のチラシだった。
「これは……」
確かチンドン屋が配っていたチラシ。
その表面には、『大特売! 悪夢が今ならお買い得!』と書かれていた。
「ふざけやがって……」
例えマネキンと言えども舞をバラバラにした上、佐祐理さんの姿に化け、あまつさえ理不尽な恨みでもって人を陥れる月宮に対する怒りが込み上げてきた。
チラシを握りつぶすと、姿勢を戻し運転席の月宮へ向かって吠える。
「俺は女は殴らない主義だが、今回は別だっ!」
俺が後部座席から身を翻して助手席へと飛び移ると、その場に居た折原のマネキンが車の外へ吹き飛んでいった。
バキッ! グシャ!
嫌な音を立てて、折原の姿をしたマネキンが夜の闇へ消えていった。
「あ、酷いんだね〜。仮にもさっきまで親友だったマネキンだよ?」
「うるさい! お前が人のことを言えた義理か?!」
頭の片隅で折原に詫びを入れて、運転席の月宮へ掴みかかる。
「あ、危ない。ボクは運転中なんだよ?」
そう言ってステアリングを少し乱暴に操作すると、車は急激な蛇行運転となり俺は姿勢を崩す。
それでも手足で踏ん張り、月宮の服――学校の制服――の襟を掴む。
「構うか、覚悟しろっ!」
「覚悟するのは君の方だよ。それじゃ頑張ってね」
そう言った途端、月宮の姿が忽然と消えた。
「何っ? おわっ!」
驚く間もなくドライバーが居なくなったことで、高速走行中のインプレッサの挙動が不安定になる。
ふとパネルを見ると、スピードメーターの針は180km/hの部分を振り切っていた。
俺は慌てて運転席に座る。
しかし走行中、しかも最高速度の状態で、いきなり運転を変わるという行為は無理があった。
シートに座る際にステアリングに膝が当たってしまった事で、一気にインプレッサはバランスを崩す事になる。
タイヤがけたたましくスキール音を上げて、車体が横滑りを始める。
俺は高速走行中に急ハンドルを切る事が、如何に危険な事か身をもって知る事となった。
バランスの良い四輪駆動のインプレッサWRXだが、流石にこうなっては素人の俺に制御出来る筈もない。
慌ててパニックブレーキを踏む。
タイヤが悲鳴を上げて急制動がかかり、車重を支えるに必要な摩擦を失ったインプレッサは、その進路を曲げて道路脇のガードレールへ目がけて一直線に突っ込んで行った。
「うぉぉぉぉっマジかよっ?!」
俺が無意識に叫んだ直後、インプレッサはガードレールへ斜め四五度の角度で激突した。
激突の瞬間、スピードメーターは140km/hを指していた。
衝撃でシートベルトをしていない俺の腹部がステアリングにめり込むと、身体の奥から口の中に生暖かい液体が逆流して来た。
「がはっ……っ!」
ガードレールへ衝突しただけでは止まることの無い運動量は、そのままガードレールに車体を擦るようにスピンさせながら数十メートルを走らせる。
その間、アルミ製のボンネットが吹き飛び、ガードレールに擦られた部分から火花が飛び散る様を、俺の視覚はスローモーションで捉えていた。
アスファルトに大量のブラックマークを残して停車すると、俺は身体を引きずる様に運転席から身を乗り出すようにして脱出し、その脇で口内に溜まった液体を吐き出した。
「うぉぇっ……がはっ……」
暗闇に色を見て取る事は出来ないが、恐らくはどす黒い血がアスファルトを汚している事だろう。
痛む全身に、その場でへたり込むと車の惨状に声を失った。
月明かりに映るインプレッサは、もはや鉄屑としか形容の出来ない物体へとなっていた。
「……はぁ……はぁ……っ?」
道路の中央で目の前に広がる惨状にへたり込んでいた俺の周囲が突然明るくなり、けたたましいクラクションの音が俺の耳をつんざいた。
振り向いた俺の目は、大型トラックの物と思われるヘッドライトの灯りを直視して何も見えなくなる。
咄嗟の出来事に動くことも出来なかった俺は、その直後高速で移動してきた巨大な質量の塊にはね飛ばされ意識を失った。
不思議と痛みは感じなかった。
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