ゆっくりと郁未が、屋上の床に倒れたまま身動きの取れない月宮に近付いて行く。
 彼我の距離が数メートルにまでなったところで、抵抗しようと身をよじっていた月宮の動きが止まる。
「な〜んてね」
 先程まで怯えていた表情が急に明るくなったと思うと、月宮の身体は再び宙を舞った。
 同時に郁美が居た周囲の空間に圧力をかけて圧し潰す。
 郁未の足下にヒビが入り凹んで行くが、既に彼女は飛び退いた後だった。
「やはり擬態ね……」
 呟きながら体勢を整えると、郁美は牽制――イメージングを妨害する為に、空気弾を形成して月宮へと連射する。
 対する月宮の方も、先程の様に不格好な避け方はせず、郁美同様に防壁を展開して空気弾を弾いてみせた。
「ちっ……」
 月宮の動きが変わった事に、郁美は小さく舌打ちした。

 不可視の力を使える者同士の闘いは、基本的にその力量の差が全てだ。
 力で作られたものは、より大きな力で打ち消す事が出来る。
 故にその力が均衡している場合は決着を付けるのが難しい。
 郁未はその事を、FARGOを壊滅時――同じA−CLASS能力者である鹿沼葉子との闘いで、嫌ほど思い知らされている。
 あの時郁未が勝てたのは、葉子が手加減をしてくれたからに他無い。
 しかし、今の相手にそれを期待する訳にもいかない。
 力に差がないとなると、後は精神面での闘いとなる。
 つまり、躊躇した方が負けるのだ。

 月宮は空を舞うようにジャンプを繰り返し、トリッキーな動きで郁美を翻弄しながら、空気弾を放ち、瓦礫や飛礫を飛ばして来る。
 郁美はそれら攻撃を確実に受け止め、同じ様な攻撃を続けていたが、同程度の力で行われる攻撃であるが故に、互いに決め手を欠き、膠着状態となっていた。
「仕方がない……か。それじゃ悪いけど」
 郁未はそう呟くと、精神集中をして目の焦点を月宮の身体に合わせる。
 ”何かを作ってぶつける”といった二段階的な攻撃命令ではなく、”目標の身体を潰す”とか”相手を燃やす”といった、直接相手に作用する力へと切り替える。
 直接反応攻撃――これは郁未が最も忌み嫌う種の使い方だが、同じ力量の力を持つ以上躊躇う事は出来なかった。
 郁美のプレッシャー――加圧攻撃によって、月宮の身体に直接圧力がかけられる。
 途端、月宮は苦しみに表情を歪めるが、それも一瞬の事だった。
「わっ! うぐぅ〜っ……なんの〜っ」
 郁美のかけた力は、月宮にあっさり中和されてしまった。
「嘘っ?」
 驚く郁美に、月宮はにっこりと微笑んでみせる。
 途端、今度は郁美の身体に圧力がかかった。
「くっ……」
 突如襲いかかった圧力に郁美は思わず膝を付くが、すぐに意識を集中し、月宮の放ったプレッシャーをキャンセルさせる。
「へへ、どうかな?」
 郁美が向けた視線の先で、月宮は自慢げに笑っていた。
「貴女は一体……」
 郁美には信じられなかった。
 不可視の力を完全に制御できる人間は、この世に二人――自分の他には、鹿沼葉子だけのはずだった。
 だが、目の前の少女は、明らかに郁美と同様の力を持っている。
 となれば、かつてA−CLASSにその名を連ねた者だろうか? 否、それにしては若すぎる――郁美は自分の考えを否定した。
「もう一度よっ!」
 頭を振って、再び意識を集中。
 郁美は先程より更に力を篭めて、月宮の身体を潰しに掛かった。
 無論、普通の人間が受ければ、身体が車にひかれたカエルの様になる圧殺の力だ。
 しかしそれでも、月宮はあっという間に同程度の力を行使して、郁美の力を打ち消してしまう。
 直接反応攻撃で決着を付けるには、相手に精神集中の暇を与えずにを身体を一気に押し潰すくらいの念は必要だが、その隙が生まれない以上は、結局は先の空気弾や水弾による攻撃と同じ堂々巡りでしかない。
「……くっ!」
「……うぐっ!」
 暫く力比べをしたところで無駄だと判断すると、力を解除して郁未は再び月宮と対峙した。
「……」
 せめて武器でもあれば力を使わず牽制攻撃が掛けられるだろうが、今は無い物を強請っても仕方がない。
 直接打撃に打って出るにも、先程の月宮の予想以上の素早さを考えるに、さして効果は無いと判断出来る。
 ならば――無理矢理隙を作る他ない。
 月宮の注意を逸らすために、彼女の大切にしている物を攻撃する――それが郁美が咄嗟に考えた作戦だ。
 そして月宮が大切にしている物とは、この世界に他ならない。
「ん? もう終わりかな?」
 月宮の小馬鹿にした様な声で、郁美は最後の決断をした。
「いいえ。でも……これで終わらせるわ。悪いけど……全てを破壊させてもらうわ」
「え?」
「どうせ、この世界は現実ではなく夢の世界。長森さんには悪いけど、あなたのような危険な子を野放しにも出来ないから……この夢を完膚無きまでに破壊させてもらうわ」
「ええ〜っ?!」
 驚く月宮を余所に、郁美はリミッタを解除した。
 郁未は常に己の中に眠る力を制御して生活をしている。
 そうでないと不可視の力が暴走し、ふと思い浮かべた事が実現してしまうからだ。
 その精神の深層部分に自ら施したリミッタを解除し、不可視の力を完全に解放する。
 郁未のかざした手の前に眩い光りが収束して行く。
「う、うぐぅ、何……?」
 先程までは余裕の表情をしていた月宮も、郁未と同等の力を持つが故に、いま郁未の前で生成されてゆく光球の正体に気が付き驚きを隠せない様だ。
 郁未が思い浮かべたものは、水素原子の核融合によって生み出されるエネルギー。
 人類がその歴史において作り出したエネルギーとしては最も巨大な五〇メガトンの破壊力――広島型原爆のおよそ二五〇〇倍もの破壊のイメージを思い浮べ具現化したのだ。
「そ、そんな物を放ったら、みんな無事じゃ済まないよっ!?」
「そうね。でもこの世界は夢の世界……現実じゃないもの。それに誰だって自分が死ぬ夢や世界が滅びる夢を見ることは有るわ。それと同じでしょ?」
「うぐぅっ! お姉さんの方が危険思想だよっ!」
「そうかしら、寝言は寝て言うものでしょ? だったら夢の中なんだから何だって有りよ」
 微笑みながら言い返すと、郁未はエネルギーを放つ。
「!」
 だがその不可視の力で作られたエネルギーが発動する直前に、月宮の放ったフィールドがそのエネルギーを取り囲む。
 巨大なエネルギーの爆発は月宮の作った閉鎖空間内で起こり、熱も衝撃波も外へ漏れることは無かった。
 ただ、そのエネルギーが産んだ光だけは、この世界全体をまるで真昼のように照らし出す。
「今っ!」
 五〇メガトンの破壊エネルギーは囮だった。
 相殺する力を作り出す隙を突き、郁美は残された力を酷使して月宮周囲の空間にプレッシャーをかけた。
「うぐぐぐっ……」
 それでも耐えようと力を振り絞る月宮だが、郁美の放った囮の力が余りにも巨大であった為、追撃のプレッシャー発生と、月宮のキャンセラ発生にタイムラグが生じた。
 ほんの僅かな時間ではあるが、拮抗した状況下にあってその差は致命的だった。
 徐々に強まって行くプレッシャーに、月宮の足下にひびが走る。
「うぐっ……ぐぐっ。も、もう駄目っ……だよ」
 やがてその力の差が一定量を超えた時、月宮のキャンセラそのものも打ち消して一気に圧力が襲いかかった。
 重力が乱れ、四〇数キロと思われる月宮の体重は、数十倍にまで膨れ上がり、結果真下の床が円形に状に押し潰れて行く。
 地震の様な振動と共に、音を立て月宮の周囲の床が抜けて崩れ、屋上に大穴が開いた。
「……ふはぁ。今の攻撃が効いてれば良いんだけど……はぁはぁ……はぁ、流石に疲れたわね」
 不可視の力をかつて無いほどに連続して使用した為、郁未の疲労はピークに達していた。
 肩で呼吸をしながら、屋上に開いた穴へと近づく郁美。
 その疲労が、郁美から注意力を失わせていた。
 郁未の足下、小さな黒い染みが現れたと思った瞬間、彼女の身体は広がった漆黒の闇に沈んでしまった。
「えっ?!」
 郁未は驚愕の表情で叫んだが、その声を最後に、彼女が声を発する事は叶わなくなった。
「お姉さんってとっても強いんだね。ボク本気で驚いちゃったよ。でも……」
 あゆは言葉を止め、感嘆の念を込めながら郁未を見下ろしている。
「がはっ……もがっ……」
 郁未は溺れていた。
 月宮を追いつめたと思った瞬間、彼女は突如足下に発生した底なし沼の様な闇の中に没してしまった。
 それは、まるで屋上の床に出来た水たまりの様にも見えるが、当然それならば人が沈むような深さが有るわけではない。
 水面がまるで水槽のガラスの様になっており、中でもがく郁未が必至にその表面を叩いている。
「この世界はボクが造った世界だよ。お姉さんがいくら強くても、どんなに不思議な力を持っていても、その気になれば何時だって無力化出来るんだ……残念だったね」
 月宮の言葉に郁未は自分が踊らされていた事を悟る。
 この夢の世界そのものが月宮のテリトリーであり、彼女こそが絶対者なのだ。
 どれ程絶大な力を持とうと、彼女がそれを封じてしまえば、それで郁美に勝機は無かったのだ。
 無駄だと知りつつも意識を集中し、自分を拘束する空間の破壊を試みるが、郁未の命令に不可視の力が作動する事は無かった。
「もう無理だよ。その中でお姉さんは力が使えない。そういう事にボクがしたから」
 郁未は慌ててガラスのような表面を叩き、外の世界に居る月宮へ抗議するが、月宮は手を後ろに組みつつゆっくりと歩きながら、そんな郁未の姿を見下ろしている。
「ちょっと苦しいかもしれないけど……お姉さんが強すぎるからいけないんだよ? でも大丈夫。直ぐに気持ちよくなるからね」
 閉じこめられた空間を叩きながら、苦悩の表情でもがく郁未を見て月宮が笑い声をあげる。
「あははははははは〜」
 やがて力尽きたのか、叩く郁未の腕が止まる。
「さて、逃げた人達の方もそろそろ良い頃合いだろうからね。それじゃボク行くから、精一杯良い夢見てね」
 笑顔で言葉を投げかけると、月宮はゆっくりと踵を返す。
 密閉された空間に閉じこめられた郁未に襲いかかったのは、息苦しさではなく強烈な眠気だった。
(もう駄目……目を開けて……られ……ない……)
 楽しげにスキップを踏んで、屋上に開いた穴から校舎の中へ消えて行く月宮の背中を最後に、郁未の視界は瞼によって幕を下ろした。
(ごめんね……)
 誰に発したのかも判らぬ謝罪の言葉を最後に、彼女の意識を闇が塗りたくった。





§






 窓から強烈な光が差し込み辺りが明るくなる。
「な、何だ?」
 思わず立ち止まり窓の外に目をやる。
 まるで正午の太陽が目の前にあるかの様に、真っ白に輝く光が窓から差込み校舎の中をも照らしていた。
 その輝きは僅か数秒で収まり、元の暗闇が戻る。
「今のは一体? 郁未先生?」
「相沢、今は急げっ!」
「祐一っ早く行く!」
 先を進む折原と、しんがりの舞が先を急げと促す。
 俺は頭を振って向き直ると、佐祐理さんと並んで再び走り始めた。
「よっし着いたぞ!」
 目的の教室に辿り着いた折原が中へ入った瞬間、頭上から今までとは比較にならない程大きな音と振動が響く。
 いや、振動という言葉では表現出来ないレベルであり、もはや大地震と言っても良いだろう。
 直下型ならぬ直上型と言ったところか。
 巨大な何かが屋上で炸裂したのだろうか、立って居られない激しい揺れに俺達は跪く。
 舞ですらバランスを崩し、片膝を付いている。
 天井にヒビが入り、その構成物が崩れ落ちてくる。
「きゃっ」
 悲鳴を上げて倒れた佐祐理さんを庇うように覆い被さると、俺の背中に天井の破片が落ちた痛みが伝わってくる。
 十数秒くらいだろう、揺れが収まり俺が立ち上がると、背中から破片が転げ落ちる。
「祐一さん……すみません」
 そんな様子を見て佐祐理さんが申し訳なさそうに呟く。
「気にするなって」
 笑顔で佐祐理さんに手を差し伸べると、彼女も少しだけ申し訳なさそうな笑顔で手を掴み立ち上がる。
「舞、無事か?」
「……大丈夫」
 そう答えた舞は、既に立ち上がって周囲を警戒している。
「祐一さん……今の振動、そしてさっきの光……郁未先生は無事でしょうか?」
 佐祐理さんが俺の腕に縋りながら、心配そうな表情で呟く。
「ああ、きっと大丈夫だ。あの人がそう簡単に負けるはずない。それよりも今は脱出が先だ」
 見れば俺達を追っていた生徒達は今だ廊下に倒れたままの様だが、いつ目を覚ますか判らない。
 一刻も早くこの校舎から脱出すべきだろう。
「さて……おい折原、無事か?」
 俺は二人に先がけて教室に入ると、先に入室している折原の名を呼ぶが――
「折……」
 教室内の状況を見るに付け、思わず言葉を失った。
 俺の目に映るのは、天井にぽっかりと開いた穴から差し込む月明かりによって青白く照らしださている崩れたコンクリートの塊だけで、折原の姿は無い。
 時折ぱらぱらと、天候から細かい破片が落ちてくる中、俺は教室の中央へ――瓦礫の山へと足早に進む。
「何だよこれ。おい折原っ返事しろよ!」
 最悪の事態を思い浮かべ、俺は狼狽えながら目の前のコンクリートの塊に手を触れながら呼び掛けた。
「浩平?……」
 続いて教室に入ってきた舞も、教室内の状況に言葉を失い、力が緩んだ彼女の手から雪風が滑り落ちる。
 俺が雪風が教室の床に倒れた音に振り返るのと、佐祐理さんが入り口の外――廊下から中の惨状を見たのはほぼ同時だった。
 目の前の光景を信じたくないのだろう。彼女は両手で顔を覆い隠し、身体を震わせながら叫び声を上げた。
「い、嫌ぁ〜っ!」
 叫んだ後、佐祐理さんは力を失った様にその場で膝を突く。
「佐祐理……さん」
「佐祐理……」
 俺も舞も咄嗟に彼女へ駆け寄る事が出来なかった。
 元気付ける為の言葉すら発せられなかった。
 というのも、これだけの質量が頭から落ちてきて無事で居られるはずがない事を、全員が理解してしまっているからだ。
 だが状況は落ち込む俺達に容赦なく追い打ちをかけてきた。
 廊下で膝立ちのまま呆けている佐祐理さんへ向けて、体勢を整えた数名の男子生徒達が迫ってきたのだ。
「佐祐理さん危ないっ!」
「佐祐理っ!」
 俺が咄嗟に上げた叫びに、舞が我に返ると、そのまま一人の男子生徒に身体ごと当たって行った。
 舞のタックルを受けて吹き飛ぶ男子生徒が、壁に背中を打ち付けてそのまま崩れ落ちる。
 突然の襲撃に、佐祐理さんは慌てて逃げようとするが、脚に力が入らないのだろう、まともに走る事も出来ずにいる。
 そんな彼女を嘲笑うかのように、別の男子生徒が佐祐理さんに簡単に追いつき、両手を伸ばして襲いかかる。
 彼女を救うべく、手を振り上げようとした舞が一瞬その動きを止め舌打ちした。
 どうやら舞は初めて、自分が雪風を落としたままである事に気が付いた様だ。
 俺は教室に残された雪風を拾い上げて彼女達の元へと走った。
 俺が廊下に飛び出した時、一人の男子生徒が必死に逃げる佐祐理さんの背後に迫っていたところだった。
 しかもその手には、物騒な得物――ノコギリが握られている。
 俺の場所からは到底間に合わない。
 舞もまた、素手で三人の生徒と闘っている真っ最中で、佐祐理さんの元へ向かう事を阻まれていた。
「佐祐理さんっ!」
「佐祐理〜っ!」
 俺と舞の絶叫が重なる中、男子生徒の振りかぶったノコギリが、月明かりを反射させ青白く光った。
「きゃぁっ!」
 躓いた佐祐理さんが姿勢を崩し悲鳴をあげる。
 間に合わないと判っていても懸命に駆ける俺の頭の中を、悔しさともどかしさ、そして情けなさが突き抜ける。
「止めろぉぉぉっ!」
 自分の非力さに打ちのめされた俺の眼前で、振り上げられたノコギリが振り下ろされる。


 ――ヒュン。

 風が吹いた。

 ――グチャ。

 そして何かが潰れる音。


 舞の放った魔物が、彼女の行く手を阻んでいた男子生徒達を薙ぎ倒し、佐祐理さんに迫っていたノコギリを持った男子生徒を文字通り粉砕していた。
 名も知れぬ男子生徒の身体があり得ない角度で曲がり崩れ落ち、その頭部が宙を舞っていた。
 へたり込んでいた佐祐理さんの目が見開かれ、目の前の宙を横切る首を凝視している。
 魔物を放った舞は、悔しさに顔を歪めており、その表情は涙を必至に堪えている様にも見えた。
 誰も声を出さない。
 いや、出せなかったのだろう。
 ――カツーン!
 まるで時が止まったかのように静寂が蔓延る中、飛んでいった生徒の頭部が奇妙な音を立てて転がる。
「え?」
 その音につられてその方向を見る。
 廊下の上を転がっている物を見て、俺は驚きの声を上げる。
「マネキン……だと?」
「!?」
「……え?」
 俺の声に舞と佐祐理さんがゆっくりと反応する。
 見れば状況にも関わらず、周囲には一滴の血糊も飛び散っていない事に気が付いた。
 俺達の視線の先で、硬く無機質な作り物の頭部が、月明かりを受けて虚ろな目を中空へ漂わせている。
「あ〜あ、ばれちゃったね」
 突如背後から聞こえてきた。
「お前はっ!」
 素早く振り向くと、教室の中、瓦礫の山の上に月宮が腰をかけて笑っていた。
 恐らく教室に開いた天井の穴から降りてきたのだろう。
 ――と言うことは?
「郁未先生はどうしたっ?!」
 俺は雪風を構えると、声を荒げて叫ぶ。
「うーん。今は自分の事を心配した方が良くないかな?」
 そう言った瞬間、月宮の背後から漆黒の闇が広がって行く。
 飲み込まれる?! ――そう思った途端、俺は横合いから何者かに吹き飛ばされた。
 吹き飛んだ俺の横を黒い闇が尾を引いて飛んで行き、未だに呆然として動けなかった舞と佐祐理さんを覆い尽くした。
 それでも舞は咄嗟に走り出し、今だ倒れたままの佐祐理さんを庇うよう胸に抱きしめていた。
「舞っ! 佐祐理さーんっ!」
 俺は倒れたままの状態で、雪風を掴んだ手に力を込め二人の名前を叫ぶ。
「祐一さん……逃げ……て」
 そんな声を残して舞に抱きしめられた佐祐理さんの姿は、闇の中へすっぽり飲み込まれた。
「祐一……」
 続いて闇に飲み込まれ消えて行く舞の瞳が俺を捕らえた。
 その瞳は微笑んでいる様に見えたが、やがて瞼が落ちるとその顔もそのまま闇の中へと消えていった。
 廊下で蹲ったまま一歩も動けなかった俺は、その様子をただ見つめる事しか出来なかった。
 二人の姿が闇に飲み込まれると闇そのものも消えて無くなり、同時に二人の姿も消えて無くなっていた。
「うおおおおおおおっ!」
 無数のマネキンだけが転がっている廊下に俺の叫び声が響く。
「また、俺は助けられたのか……助けるとか言っておいてこの様かっ! 俺は……また二人を助けられなかったっ!」
 さっき俺を吹き飛ばしたのは、舞の放った魔物だろう。
 だがその魔物も、舞の消滅と共に気配が消えてしまった。
 俺は上半身を起こすと、自分の不甲斐なさを呪い雪風の鞘で床を何度も叩いた。
「さて、今度は君の番だね」
 すぐ背後に月宮の気配。
「お前は……一体何様なんだよっ!」
 俺は泣いていた。
 自分自身の不甲斐なさに、そして再び最愛の人を失った悲しみに。
 立ち上がって振り向くと、涙を拭いもせずに雪風を構える。
「ちょっとそんな物騒な物仕舞ってくれないかな〜」
「五月蠅いっ! お前みたいな悪党をのさばらせておけるかっ!」
「……人を極悪人みたいに言わないで欲しいな。別に命を奪ってるわけじゃないよ。それにあの生徒達が持っていた物だって全部偽物なんだし」
「何だと?」
 月宮の言葉に俺は驚きの声を上げ、先程まで生徒だったマネキン達を見つめる。
 マネキン達が手にしていた物は、確かにプラスチックやビニール製玩具の様なハンマーや刀だった。
「スリリングな展開だったでしょ? こういった事も夢だからこそ出来るんだよ」
 そう言って、月宮はいつの間にか手にしていた金槌を、一瞬にして玩具のハンマーへと変えてみせた。
「夢なら良いのかよ? 何をしても許されるのかよ!? 知らない者とは言え同じ学校の生徒を傷つけたんだぞ」
 俺は怒鳴りながら、佐祐理さんを守るため、反射的に力を行使してしまい、悲しさと悔しさに歪む舞の表情を思い出した。
「畜生、舞や佐祐理さんを戻せ! 俺達を解放しろっ!」
 俺は怒りに肩を震わせながら雪風を振り上げ月宮に詰め寄る。
「あのさ……ひょっとして消えちゃった人達が酷い目に有ってると思ってる?」
 必死の形相で迫る俺に、月宮は呆れたように肩をすくめ、手にしていたハンマーを背後へ放り投げた。
「違うのかよ?」
「ボクはそんな鬼や悪魔なんかじゃないよ」
「……」
「この夢の世界から退場して貰った人にはね、それぞれ夢の世界をプレゼントしてるんだよ。だからむしろ感謝して貰えると思うけどなぁ」
「な……それぞれの夢だと?」
「見てみる?」
 あゆが手を振ると、突然、廊下にあった幾つかの窓が明るくなり、それぞれの向こう側に、異なる景色が見て取れた。
「こ、これは……」
 高級そうなレストランで、折原の向いの席で大量の空き皿を積み上げて行く笑顔の川名先輩の姿。
 隣の窓の向こう側には、笑顔の佐祐理さんと手を繋いで登校する久瀬の姿。
 更に別の窓には公園らしき場所でワッフルを頬張る里村と折原の姿が映っている。
 栞と仲良く登校する香里の姿が映っている窓もあれば、里村と折原の間で、両人と腕を組んで街を闊歩する袖木が見られる窓もある。
「……」
 言葉を失った俺は、ゆっくりと廊下を進み、色々な窓の向こうに広がる光景を見て回る。
 夕焼けの差し込む軽音部の部室で折原とセッションプレイを楽しむ氷上の姿が――
 見たことのない青年と小さな部屋で楽しそうに食事をしている郁美先生の姿が――
 そして、俺と佐祐理さんに挟まれるようにして動物園を歩く舞の姿が見えた。
「……これが消えていった者達が見ている夢。みんなの願望……」
 確かに、どの窓からも皆の笑顔が見て取れる。
 だが何かが間違っている――俺はそう思わずにはいられなかった。
 水鉄砲を持った佐祐理さんが、同じく水鉄砲を持った小さな男の子と手を繋いで歩く光景から視線を逸らし、俺はゆっくりと呼吸を整えてから月宮を見据える。
「……俺は人の夢を覗き見する様な趣味は持ってない」
「そう? そういう割には結構見入ってた様だけど?」
 そう言って月宮が軽く指を鳴らすと、窓に映っていた光景は全て消え失せ、元々の夜空が見えるようになった。
「石像になっている奴等……あれは、お前が夢を与えた者達なのか?」
「うんそうだよ」
 月宮は、俺の質問に屈託無く答えると、そのまま続けた。
「あの石像はね、いわば刑罰の証だよ。瑞佳ちゃんの夢を邪魔してくれた事に対するボクからのね。だから、今頃は新しい石像が三人分出来上がってるはずだね」
「他の人間は全てマネキンかよ……学校に溢れていた生徒も、商店街に居た人間も、百花屋の店員も……俺達以外はみんなお前が創ったエキストラか?」
「よく出来てるでしょ? まぁ、君達がこの夢に気が付くまでは本物の人達も大勢いたけどね。毎日毎日この街全員の記憶を操作するのも大変だったよ。それにあれだけのマネキンを全員をバラバラに動かすのも結構難しいんだよ」
 まるで宝物を自慢する子供のように、無邪気に微笑んでいる。
「それでね、えーと相沢祐一君だっけ? 君にも消えてもらう事にするから」
「俺も邪魔者だって事か?」
「だって、この世界の正体に気が付いちゃったでしょ? そんな人が野放しになったら、この夢に悪影響が出ちゃうからね」
 そう言って月宮は「よいしょ」と声をかけつつ、瓦礫から床に飛び降りる。
「君が消えてくれればこの夢も安泰だよ。残るのは無害な人と馬鹿な男の子ばっかりだし……肝心の折原君に関してはボクが成り代われば、瑞佳ちゃんが喜ぶ折原君を演じてみせるんだ。きっと素晴らしい夢が出来上がるに違いないよ」
 自分の計画に酔いしれているのか、どこかぼんやりとした表情だ。
(くそっ、どうやったらコイツを止められる。郁未先生や舞でも敵わなかったコイツを……)
「んふっ」
 俺が内心で感じている焦燥を感じ取ったのか、月宮が楽しそうに笑みを浮かべる。
「……っ」
 後ずさったのは、全くの無意識だった。
 俺が一歩下がるごとに、月宮は一歩近づいて来る。背後に蠢く漆黒の闇を引き連れて……。
 逃げられないっ! ――俺は自分の無力を実感し、そしてその無力が故に、最後の手段――捨て身の突貫をすべく足を止めた。
 そして、俺が意を決して一歩を踏み出そうとした瞬間。
「なるほど……お前がオレを演じるって? 残念だがそれは無理だな」
 ――廊下に馴染みのある声が響いた。
「え?」
 突然の声に月宮の表情が元に戻る。
「折原っ!」
 まだ一人では無かっ喜びか、それともアイツの無事を知った安堵感からか、自分でも驚く程の大きな声が出てしまった。
 振り向いた先――廊下の向こうから歩いて来るのは、紛れもなく折原浩平だった。
「折原……無事だったのか」
「ああ、だが……間に合わなかった様だな」
 舞と佐祐理さんの姿が無い事に気が付いたのだろう、折原は悔しげな表情をしていた。
「あれれ? 何で折原君が此処に居るの?」
「突然天井が崩れて来たから急いで窓から飛び出したら池の中に落っこちた。んでもって今這い上がって来たところだ」
 見れば折原は頭のてっぺんから靴の先までずぶ濡れの様で、歩いてきた廊下は水で濡れているのだろう、所々が月明かりを反射させて輝いている。
「なんだ……そうなんだ。ちぇーっ」
 月宮はさも残念そうな表情を折原に向け、つま先で廊下に落ちていた石ころを蹴った。
 長い前髪から滴る水も気にしないで、まるで親の敵を見る様に月宮を睨む折原だが、どうも月宮には緊張感が全く感じられない。
「まぁいいや。それじゃ……改めて二人とも消して上げるから、安生してね」
 しかし、口から発せられる言葉は洒落になっていなかった。
「んだと?」
「ふざけるな!」
 二人になった事の心強さからか、先程とはうって変わって俺の声は力強い。
 だが、月宮はそんな俺達の言葉を嘲笑するかのように、口元に笑みを浮かべている。
「うーん、そう言う君達に何が出来るの? ボクが危ないかな? と思っていた郁未お姉さんと舞さんはもう退場しちゃったし、残された君達じゃこの夢を壊す事なんて無理だよ」
「くっ……」
 核心を突かれ、再び現実的な力の差を思いだした俺は口ごもる。
「果たしてそうかな?」
 だが、俺の横に立っていた折原がやけに自慢げに言い放った。
「うぐっ、やけに自信有りげだよ」
「これはな、郁未先生から預かった物でな……」
 そう言って差し出したのは二本のペットボトルだ。
「な、何?」
 俺にはただの液体が入ったペットボトルにしか見えないが、”郁未先生からの預かり物”という部分に月宮は目に見える程に怯んでいる。
「何かあったら使え……って言われてたんだ」
 そう言って両手に持ったペットボトルを勢い良く振り始める。
「う……うぐっ」
「この妖怪変化め、聖なる水を喰らえっ! ゴォォォッド・ウオッシャァァァァッ!!」
 そう叫ぶと月宮目がけてキャップを開けたボトルを向ける。
「うぐぅっ!」
 勢い良く飛んで行く液体に驚き慌てる月宮だが――
「あれ?」
 折原の放った一撃は月宮まで届く事なくその途上で勢いを失い、ただ廊下に染みを作るだけだった。
「……」
 予想外の展開に俺も言葉を失った。
 ペットボトルから飛び出す液体が無くなると、俺達三人の間に何処からか冷たい風が吹き抜けていった。
「どーだ参ったか?」
 何故か胸を張って大威張りな態度を示す折原。
 無言で折原を見つめていた月宮が何度か目を瞬きすると、精一杯きつい表情を浮かべて俺達へと近づいて来た。
「うぐぅーボクを騙したな!」
 キッと折原を睨む月宮の顔目がけて、折原はもう一方のペットボトルを向けた。
「くらえ、スーパーエターナルゴォォォォッド・ウオッシャァァァァァァァァァッ!!」
 先程より仰々しい名前を叫びながら折原が第二撃を放つ。
 だが、今度は月宮も怯むことなく、悠然と歩を進めて俺達との間合いを詰めてくる。
 そして折原の放った液体が、月宮の顔面を捉えた。
「そんな物当たったって痛くも痒くも…………うぐぅーっ痛いよっ! 目がしみるよー!」
 顔に当たった液体が目に垂れてきた瞬間、月宮は目を擦って騒ぎ出した。
「うそ、効いてる?」
「今だっ相沢逃げるぞっ!」
 思わぬ効果に驚く俺は折原の言葉にただ黙って頷くと、先に走りだした折原を追うようにして一目散にその場から逃げ出した。


 少し離れた教室の隅に腰を下ろすと、俺達は少し笑い合った。
「はははっ、上手く行ったな」
「なぁ折原、それって何だったんだ?」
 満足げに笑う折原に、俺は呼吸を整えつつ尋ねた。
「これか? こりゃただのジュースで……え〜とスプライトだな」
 そう言って今だ手に持ったままだったボトルのラベルを見て呟いた。
「先日此処で遊んだ時に、飲みきれずに置いたままになっていた奴を拾ってきただけだ」
「はい? じゃあ郁未先生から貰った……ってのは?」
「ハッタリだ」
 きっぱりと答える折原。
 なるほど……炭酸飲料が目に入れば確かに痛いだろう。
 しかしそれにしたって――
「ハッタリって……失敗したらどうする気だったんだ?」
「まぁ良いじゃないか、取りあえずは逃げる事が出来たんだから」
「そりゃそうだが」
 そうだが――どう考えても無鉄砲な奴だ。
 驚き呆れる俺を無視して折原は続ける。
「それにだ。アイツ、かなりヤバイ奴だが、思った通り思考能力は子供と変わらなそうだ」
「そうだな、その辺りを上手く突けば何とかなるかもな」
「……具体的にはどうする?」
「そうだな……」
 俺は考える。
 現実へ戻る方法を考える。
 舞や郁未先生の力押しでも駄目となると、俺達に残された手段は――
「やっぱり……夢を壊すしかないか」
「壊す?」
「ああ、夢から現実へ戻るには、目を覚ませばいい。普通はな。だが俺達は幾度もこの世界で睡眠を取り、目を覚ましている。だがそれで現実へ戻れるわけじゃない。ならば、その世界……夢をそのものを壊せばあるいは……と思うんだが。 ……と言っても、ははっ、どうやれば夢が壊せるかは皆目見当も付かないけどな」
 俺がそう応じると、折原は急に表情を正して俺をじっと見つめた。
「な、何だよ?」
「……なぁ相沢」
「ん?」
「お前、時間稼げるか? って言うか時間を稼いでくれ」
「何だよそれ?」
 俺は折原の考えが判らずに聞き返した。
「この世界を壊す方法を思いついた」
「マジか?」
「ああ。この世界が瑞佳の夢なら、オレにはそれが出来るはずだからな。だからオレに任せてくれれば何とかする。ただ、その為にはアイツの気を暫く俺から逸らす必要があるんだ」
「舞や郁美先生でも敵わなかったあのイカレた女を俺一人で食い止めろと?」
「そうだ」
「はっきり言うな」
「オレが水瀬んちに戻るまでの時間が稼げればいい」
「だけ……って、それってかなり大変じゃないか?」
「此処から岸まで泳いで一〇分。陸に上がって水瀬家まで全力で走って一〇分。併せて二〇分だな」
 口で言うのは易しいが、いざそれを実行するとなると二〇分という時間は余りにも長い。
「無理だ!」
 俺は反射的に叫んでしまい、慌てて口を塞いだが、遠くから月宮の「あ、そっちだな〜」という声が聞こえてきた。
「馬鹿っ!」
「悪ぃ……でもよ、俺一人でそんな事出来るわけ無いって」
「だが他に思いつく方法はない。頼む相沢。もし失敗すればオレ達……いや、他のみんなも永遠に瑞佳の夢に取り込まれたままだ。オレ一人ならばそれでも良いだろうが、この世界が瑞佳の夢なのならば、つまるところお前達は巻き込まれただけだし、その原因の一端はオレにあるんだ」
 懺悔の響きが含まれている様な折原の言葉の真意は判らなかったが、コイツと長森の二人は幼馴染みだというから、恐らく過去に何かがあったのかもしれない。
 俺達の知らない何かが。
 だが、それを追求する必要は無い。
 理由は何であれ、二人が俺にとっても掛け替えのない親友である事は事実だ。
 そしてその親友が、俺達を救う為の行動を起す上で、俺に助けを請うている。
 ならば、俺の成すべき事も自然に決まる事になる。
「……判った」
 折原の何時になく真剣な眼差しに、俺もまた真剣な表情で頷いた。
「しかし……どうやって二〇分も時間を稼げば良いんだ? 仮に戦うにしても、あの変な闇に襲われれば、ひとたまりもないぜ?」
「おいおい、何も俺は戦えとは言ってないぞ。俺が居ないという事をアイツに気づかせなければ良いだけだ」
「ったく……判った。二〇分だな」
「ああ頼む」
 折原が頷くと同時に、こちらへ近づいて来る月宮の足音が大きく聞こえてきた。
「来たな……それじゃ行くぞ」
「オッケー」
 俺達は二人で頷き合う。
 一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、俺は意を決して立ち上がり、おもむろに叫び声を上げた。
「やい、そこの謎の生命体!」
 俺がずかずかと大股で廊下へ飛び出し、その隙に折原は背の壁にある隙間から裏側の教室へと出て行った。
「うぐっ! 見つけたよ!! それからボクの何処が謎な生命体なんだよー」
「うるさい! ”うぐぅ”と鳴く生物は、俺の知る限りこの世に存在しない」
「うぐぅ〜酷いよ。こんな可愛い女の子捕まえて……もう怒ったからね!」
 さて……後は俺に折原や住井ほどのアドリブの素質があるかどうかだな――覚悟を決めて月宮へと近づく。
「まぁ怒るなって。お前に話があるんだ」
 戦って勝てないならば……対話で時間を稼ぐしかない。
 食いついてくれ――俺は必至に念じながらも、努めて普段の口調と態度を装った。
「ボクの方には話すことなんか無いよ。さっさとこの夢から消えて貰うんだから」
「良いから聞けって。お前にとっても悪い話じゃないぞ。それに俺じゃどう足掻いたってお前には勝てない……違うか?」
「……」
 月宮は疑わしげな表情を向けて立ち止まった。
「いつでも消せるんだら、俺の話を少しだけ聞いてみるのも良いだろ? さっきも言ったけどこれか話す事は、お前の為にもなるはずだ」
「うぐ?」
 月宮は俺の言葉に首を傾げている。
 どうやら興味を持ち悩み始めた様だ。
 ならば後は俺のハッタリが何処まで通用するか――だな。
「お前の望みはこの夢の維持だろ?」
「うん」
 俺の言葉に頷く月宮。
「そしてその理由は、お前自身の存在に関する何かが……お前の失われた記憶を呼び覚ます鍵が、この夢にあると思っているからだったな?」
「う、うん」
 食いついた――二回続けて頷く月宮に、俺はそう確信した。
「俺はその事に心当たりがある!」
「ほ、本当?」
 月宮が表情をぱっと明るくして俺を見つめる姿に心がチクリと痛んだが、此処で流されては全てが水泡に帰する事になる。
 俺は心を鬼にして安っぽい同情を追いやると、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「あ〜あ、本当だ〜」
 間を持たせる為、そして次の台詞を考える為に、スローモーな口調と動作で腰を下ろした。
「まぁ〜お前も座れ〜」
 そう言ってまるで爺さんの様な速度で手招きをするが、月宮は俺の方を見たままじっとして動こうとしない。
 見れば彼女は、俺の手に握られたままの雪風を気にしている様だった。
「……仕方ない。ほら」
 躊躇いがちの月宮を安心させるべく、俺は手にしていた雪風を放り投げた。
 ゴメンな舞――心の中で詫びを入れ、今一度月宮に手招きをする。
 すると、月宮は意を決したようにトテトテと歩いてくると俺の横に腰を下ろした。
「さて、それじゃまず……」
 折原が一刻も早く水瀬家へ辿り着く事を祈りながら、俺はゆっくりと喋り始めた。




§




 夜の水中は、日中のそれと比べて酷く冷たく感じられた。
 陽光が無いという現実的な問題だけではなく、水中を照らす月の明かりが何処か寒々しい色合いをしているから、余計にそう感じるのかもしれない。
 そもそも夜に見る水面というのは酷く不気味なもであり、見る者の心を不安にさせ恐怖感を煽る。
 だがその中を進む折原にそんな感情を抱く暇は無かった。
 ただがむしゃらに水を掻き、足をバタつかせて陸地を目指す。
 元々水泳はそれなりに得意ではあったが、水着で泳ぐのとは訳が違う。
 半袖のポロシャツに短パンという軽装であっても水分をたっぷりと含んだ服は、折原の動きを阻害し、彼の体力と精神力を奪って行く。
 それでも必至に腕を前に延ばし水を掻いて身体を進める作業に没頭する。
 幾度か水を飲む事もあったが、八分程泳ぎ続けて岸にたどり着くと、服の裾を絞ってから数度の深呼吸を行う。
 その際、みさき屋が目に止まった。
 みさきの家だった廃墟を改修し、何とか人が住めるようにしたあばら屋だ。
 そして彼女の「どうせなら、みんなが気軽に立ち寄れる様にレストランとかにしたいなぁ」という願いを叶えるべく、皆で食堂へと造り替えた。
 瞼を閉じた折原の目に、仲間達と騒ぎ立てていた頃の店内の様子が浮かんだ。
 それはつい先日まで続いていた日常的な光景だった。
 折原達と一緒になって料理を口に運び、無邪気に笑うみさき。
 まるで手間のかかる子供に苦労している保母の様な表情の深山。
 住井の悪戯に怒りを爆発させる七瀬。
 そんな七瀬を必至に諫めている名雪。
 おでんを取り合う北川と南。
 幸せそうな笑顔でかき氷を頬張る澪や真琴。
 アイスのおかわりをオーダーする栞。
 そしていつも自分の隣で笑顔を向けて、この世界を満喫していた瑞佳の姿。
「全ては俺の責任か……みさき先輩に辛い思いをさせたのも……みんなをこんな世界に閉じこめたのも……そして瑞佳の心を縛ったのも……全て俺の」
 呟いて目を開ける。
 無人の廃墟へと戻ったみさき屋が月明かりに照らされているだけで、辺りには誰の姿も見ることは出来ない。
 折原の頬で月明かりが反射する。
 果たしてそれが池の水なのか、それとも涙なのかは折原本人にも判らなかった。
「瑞佳……此処はお前が居るべき場所じゃない」
 そう呟きみさき屋から池の中央に浮かぶ校舎へと視線を動かす。
 何の動きも無ければ、水面が風に撫でられる音以外、何も聞こえては来ない。
「悪いな相沢、もうちょい頑張ってくれ」
 折原は振り返ると、濡れた格好のまま水瀬家へと走り始めた。




§




 月明かりの差し込む廊下の片隅で、俺と月宮の奇妙な講義は続いていた。
「……つまりだ、この学校を中心にそえた事が、お前の深層心理の現れなんだ」
「うん」
 俺のでまかせな推測を、月宮は真剣な表情で聞いている。
 記憶が無い者同士、少し同情を感じるが今はそれを気にする事は出来ない。
「お前は多分、学校に憧れて居た。だが、普通の人間は学校へ行くことを当たり前に思っているから、あまり学校そのものに存在意義を覚える者は少ない。だがそうでない者もいる……」
「どんな人?」
 月宮が首を傾げて尋ねてくると、俺は腕を組んで悩む素振りを見せるてからゆっくりと話し始めた。
「うーん、例えば……長期入院などで学校に行きたくても行けなかった者や、学校にたまらなく好きな人間が居た者とかだな」
「うん……」
 俺の言葉を聞き、月宮は両腕で膝を抱え神妙な表情で膝に頬を乗せる様に伏せる。
 その仕草が余りにも寂しく思えて、俺は無意識に彼女の頭を撫でていた。
「あ……」
 小さく驚きの声を上げたが、黙ってそのまま俺の手を受け入れていた。
 月宮の髪の毛は普通の女の子のそれと全く変わりはなく、俺に一瞬危険な存在である事を忘れさせた。
「お前は学校に憧れているんじゃないかな? 長森の夢が友人と楽しく過ごす事……なら、お前の求めるものも同じなんじゃないか?」
「う……ん」
「多分、お前にも友達が居たんだよ。そしてそいつらと過ごした蜜月の日々が、お前の中に残ってるんじゃないか?」
「……そうなのかな? その人を捜せば、ボクの事も判るのかな……」
 寂しそうに呟くその姿は、悪鬼なイメージからは程遠く見える。
 俺は頭を撫でるのを止めて、質問をする。
「なぁ、お前は自分の年齢が判るか?」
「うん……多分だけど……」
「ほう?」
「えーと……十六歳だと思う」
「嘘っ? 俺と同学年?!」
 想像だにしなかった返答に、俺は大声を出した。
「うぐぅ〜酷いよ」
「いや、すまん。何せお前があまりにも若くてピチピチに見えたんでな」
「それって誉め言葉じゃないよね?」
「何を言う。れっきとした誉め言葉だぞ。世の女性は”若く見える”と言えば、みんな喜ぶものだ」
「そっかなー?」
「そうだぞ」
「うん……それはそうと、結局ボクって何なのさ」
「そんなの、俺が判るわけないだろう?」
 つい、本音を言ってしまった。
「うぐっ! 酷いよ祐一君。さっき知ってるって言ったじゃない。ボクを騙したの?!」
 案の定月宮が怒り出した。
 俺は慌てて弁明を始めたが、焦りが思考を阻害して思うように言葉が出てこない。
「だ、だから今、多角的に情報を分析してだな、こうして推理しているんじゃないか」
「そっか……で、結論は出たの?」
「いや、結論を出すには原告側の弁護人が必要なんだ」
 自分でも変な事を口走っている自覚はあるのだが、一度焦燥に見舞われた俺の脳は舌に制動をかける事なく、勝手に会話を推し進める。
「うぐぅ……言ってることが判らないよ」
 月宮が眉を寄せて首を傾げる。
 そりゃそうだ――何せ俺も判ってないんだから。
「日本の裁判ってのは、原告・被告それぞれの弁護人が互いの主張を言い合ってだ、最後に『くらぇーっ!』とか言って、証拠を突きつけるものだぞ?」
「意味不明だよ〜」
「……ああ、つまり俺だけじゃ結論は出せないって事さ」
「それじゃその原告側の弁護人とかいう人が居れば……あれ? そう言えば浩平君が居ないよ?」
 月宮の急な問いかけに、俺の心臓は瞬時に縮み上がる。
「あ、アイツはなら今頃便所だ。何なら見に行くか?」
 だが頭が考えるより早く適当な言い訳が自然と飛び出た。
「え? いいよいいよ遠慮するよ。ボクそんな物見たくないよ」
 俺の咄嗟の言い訳に、顔を真っ赤にして子供っぽく否定する月宮。
 そんな姿を見て、俺は立場を忘れて、微笑ましさを感じてしまった。
「何だ。この程度で恥ずかしがるなんて……やっぱお前の精神年齢は、とても俺と同い年とは思えんなぁ」
「うぐぅぅぅぅっ!」
 精神が緩んだからか、ついつい素直に口にした言葉に、月宮は俺を威嚇するように唸り声を上げる。
 どうやら容姿が幼い事は、月宮にとって大きなコンプレックスの様だ。
「わ、悪い」
 思わず俺は素直に詫びた。
「うぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
「まぁ何だ。人に大切なのは外見じゃない。中身だ」
 そうなだめながら、月宮の頭に手を伸ばしてゆっくりと撫でる。
「うぐぅぅぅっ」
「色んな人間の夢を見てきたお前ならそれが判るだろ?」
「う……」
 俺の言葉と手の感触に、月宮の唸り声が小さくなって行く。
「だろ? ほら、折原なんていつも馬鹿ばっかりやってるけど根は良い奴だし、今だってこうして俺達を現実に戻す為に……あ」
 やべぇ――自分が口にした言葉に気が付いた時には、もう月宮は俺の手を払いのけて立ち上がっていた。
「折原君は何処?! 一体何をしてるのっ?!」
 怒りからだろう、顔を紅潮させて俺に詰め寄る月宮。
 自分の間抜けさに呆れている暇は無い。
 俺は慌てて立ち上がると月宮から距離を取り、真剣な表情で弁明を試みる。
「ま、待て、正直に言おう。確かに俺はお前の事は知らない。だが、先程の話は嘘ではない。それにな、俺も昔の記憶の一部が無いんだ。だからお前の気持ちは少し分かる。これも本当だ」
 だが俺のそんな行為を嘲笑うように、月宮の赤い瞳が輝きを増し暗闇の中に浮かび上がる。
「そんな事関係ないよっ! もう怒ったんだからね。祐一君にはさっさと消えてもらって……」
「よせっ話せば判る!」
 叫んで飛び退き、言葉とは裏腹に先程投げた雪風を拾い上げる。
「そんなの判らないよ」
 呟くように声を出した月宮の背後から、漆黒の闇が俺目がけて広がってきた。
「くそっ!」
 雪風を出鱈目に振り回しても、霧の様な闇がそれで切り裂かれる事もなく、暴れる俺を包み込んで行く。
「これで終わりだね。精々いい夢を見てね」
「〜〜〜〜〜ッッッ!」
 月宮が目を細めて口元を歪めると同時に、強烈な睡魔が俺に襲いかかってきた。
 睡魔――彼女が操り、佐祐理さんや舞、そして恐らくは郁未先生をも飲み込んだ漆黒の闇の正体は、まさにそれだった。
 だがそれが判ったところで、既に睡魔に精神を蝕まれ始めている俺に抗う術は無い。
 思考が鈍り、次いで足の力が急速に入らなくなり、ついにその場で跪いた。
 必至に抗うも、瞼が鉛の様に重くなり、自分の意志とは無関係に下りて俺の視界は暗転する。
 更に手の力もなくなり、雪風が床にに落ちる音が、耳に残音を残しながら大きく響いた。 
「あはははははは。これでこの夢も安心だね」
 月宮の勝ち誇った様な声にもエコーがかかったように頭に響く。
 何とか言い返してやりたい――そう僅かに思うも、そんな意志すらも闇が塗りつぶして行く。
 もう駄目だ。
 俺が意識を手放そうとした瞬間――
「後は浩平君を探し出して……あれっ!? うぐぅ! そういえば彼は何処に行ったの?」
 突如、俺は月宮に肩を揺すられた。
 だが睡魔に襲われている俺が、その問いに答える事は出来ない。
「もうっ!」
 月宮が不満の声を上げた瞬間、先程の眠気が嘘のように消えて無くなり、あれほど重かった瞼も簡単に開ける事が出来た。
 見れば俺を取り囲んでいた闇も消え失せており、跪いた俺の正面に立った月宮が見下ろすように睨んでいた。
「さぁ、これで答えられるよね? 浩平君は何処に行ったの?」
 真っ赤な瞳で俺を威圧するように射抜いている。
 俺は立ち上がって、膝についた埃を払うと、月宮の目を見据え返し、精一杯の嘲笑を含めて口を開いた。
「さてね……ただ言えることは、俺の役目は終わったって事だな」
 例え時計のない生活を続けていたとは言え、過去十七年間で身につけた時間に対する感覚が無くなる訳でもない。
 俺は折原と別れて既に二〇分程度の時間が過ぎている事を確信していた。
「役目? ……うぐっ、まさか?!」
 月宮が驚きの声を上げ、身体を廊下の窓の方へ向けて手を前にかざした。
 すると廊下の窓の向こうに、この街の何処かと思われる場所が写し出されては消えて行き、やがて水瀬家の――真琴の部屋らしき光景が映し出されると、その中に折原の姿が有った。
「あ〜っ!」
 布団で寝ている長森と、その傍らに立つ折原の姿を見て月宮は叫ぶ。
 そして俺は、心の中で叫び声を上げた。
 ――折原、俺達は勝ったぞ!




§






 折原が水瀬家に辿り着いた時、ずぶ濡れだった服は幾らか乾いた状態になっていた。
 息を切らせて玄関をくぐり靴を脱ぎ捨てると、寝ている者を起こさぬよう注意を払いつつも階段を駆け上がって真琴の部屋へ急ぐ。
 非礼と知りつつもノックせずに扉を静かに開け中を覗き込むと、部屋床に敷かれた布団に長森の姿を認めた。
 いつも一緒に寝ていた真琴と澪の姿が無いが、恐らく落ち込んだままの栞や深山と一緒の布団で寝ているのだろう――そう折原はあたりを付け、部屋の中へと静かに身を滑らせる。
 三人分の寝床が用意されている中、彼女は一人で寝息を立てていた。
 普段は狭く感じた部屋がやけに広々と感じたが、今から自分が行う事を考えればむしろ好都合と、折原は考えた。
 彼は部屋を見回し、部屋の主である真琴の机上に在ったある物を手に取ると、枕元に腰を下ろして眠っている長森の身体を軽く揺すった。
「瑞佳……起きろ。瑞佳……」
「うーん……こ、浩平? どうしたの?」
 寝起きの良い長森はすぐに目を覚まし、折原の顔を見て驚きの声を上げる。
「浩平? その……こんな時間に何か用かな?」
 しかし戸惑いを感じつつも、最愛の相手が夜中に忍び込んで来た状況に胸を少しときめかせてもいた。
 彼女は布団から上半身を起こすと、少し恥ずかしそうに胸元を手で隠して闇の中、月明かりに浮かび上がる恋人の顔を見つめていた。
「瑞佳、大切な話があるんだ……」
 片膝をついた折原が長森の両肩に手をかけ、真剣な目で見つめながら切り出した。
「え?」
 いつになく真剣な恋人の表情は、それだけで彼女の心に不安を与え、表情を強ばらせるには十分だった。
「瑞佳……夢を見るのはもう終わりだ」
「夢?」
 長森は咄嗟に彼の言葉の意味が判らなかった。
 だが、心の奥底で何かを揺さぶられる思いは感じていた。
「えいえんなんて、最初から無かったのさ……」
「……浩平、何を言っているの?」
「覚めない夢なんてものは存在しない」
「……覚めない夢?」
「ガキの頃にお前と結んだ盟約は、もう十分に果たされた。瑞佳……いや、長森……」
「浩平っ!?」
 折原は彼女の事を、”付き合う以前”の様に名字で呼びかけた。
 その意味するところは一つしかない。
 愕然として見開かれた長森の目を見つめたまま、折原はことさら優しい口調で言葉を続けた。
「妹の病死と母の失踪、相次ぐ肉親との別離に落ち込むオレに、お前は夢を与えて立ち直らせてくれた。お前のお陰でオレは今まで生きて来られたと言っても過言ではないだろう。本当に感謝している」
「こ、浩平? やだよ……何で? どうしてそんな事言うの?」
 言いようのない不安に苛まれた長森が、上半身を折原の胸に預けるように倒す。
 だが、折原は小刻みに震える長森の身体を抱きしめることなく、両肩に置いたままの手に力を入れ、彼女の身体を引き剥がした。
「こう……へい」
「長森……俺は……」
 涙を浮かべた長森の顔を見つめて、折原が次の言葉を言いかけた時、部屋の窓が突然開くと、その向こう側から何者かが宙を舞うように飛び降りて来た。
「きゃっ、誰?」
「来たか……」
 突然の来訪者に長森は驚きの声を上げるが、折原は落ち着いた表情を崩さず呟いた。
 学校の窓から真琴の部屋の窓へ空間転移をした月宮がふわっと着地する。
 遅れて祐一も窓から飛び出して来たが、月宮の様に着地は上手く行かず、布団に頭から突っ込んだ形で倒れ込む。
「あ、……相沢君? それにあゆちゃん?! ど、どうして此処に居るの?!」
 月明かりに照らし出された二人の姿を顔を確認し、長森が驚いたように声を上げる。
「よう、遅かったな」
「瑞佳ちゃんに何をするつもり!?」
 精一杯目をつり上げて折原を睨む月宮だが、元々の童顔の所為で迫力は無いと言わざるを得ない。
 祐一が「痛ぇ〜」と顔をさすりながら立ち上がり月宮の背後に立つ。
「何もしないさ」
「え? え? 一体何がどうなって……」
 現状が把握できていない長森が、折原と月宮の顔を見比べてひたすら驚いている中、折原が長森の肩から手を離してゆっくりと立ち上がる。
「月宮……オレはこれでも、お前に感謝してる。経緯や理由はどうあれ、オレと長森の盟約を果たさせてくれたんだからな。ありがとう」
 そう言って折原は月宮に向けて微笑んだ。
 かつて自らの妹によく見せた微笑み――今となっては極希に長森にしか見せない優しい微笑み。
 向けられた月宮だけでなく、その背後で推移を見守っている祐一でさえ、吸い寄せられるような優しい微笑みだった。
 月宮は僅かな間だが敵意を失い、頬を染めて口ごもる。
 そんな月宮を一瞥し、折原は再び長森に向き直り優しく語りかけた。
「長森……お前はオレ無しでも十分生きていける。オレは……オレの心は十分癒された。だからお前が、オレに付き合う必要はもう無いんだ」
 そう言って深呼吸をすると、折原は真琴の机から持ち出したカッターナイフを手に取り、そして自らの首に押しつけ一瞬だけ祐一に視線を向けた後――
「いざ現実へ帰還せん……」
 驚き固まる長森を見つめながら、息を吸い込むと同時に手を引いた。





§






 俺は廊下の窓に飛び込んだ月宮を、半ば反射的に追いかけて飛び込んだ。
 校舎を取り巻く池への落下を覚悟していたが、俺が身体に感じたのは水ではなく、布団の感触だった。
 顔面を擦って痛む鼻をさすりつつ立ち上がると、水瀬家の真琴の部屋だと判った。
 そして部屋の中央に立つ折原が、布団で上半身を起こした格好の長森に向かって意味深な言葉を呟き、返す刀で今度は詰め寄る月宮へ言葉を投げかけ始めた。
 その時月宮へ向けられた折原の笑顔を見て俺は驚いた。
 普段の悪戯っぽい笑みではなく、何かこう……心の奥にまで優しさが染み渡るような――見る者を安心させる暖かな笑みだ。
 思わず言葉を失っている間に折原は長森の方を向き、月明かりに反射する何かを手に持って自分の首筋にあてがった。
 直後、まるで何かを託すかの様に、俺と一瞬だけ目を合わせ――
「いざ現実へ帰還せん……」
 その言葉が終わると同時に、奴の首筋から鮮血が吹き出した。
 突然の事で、何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
 ただ、呆然とする俺の目の前で、折原が首から盛大に血を吹き出している。
 その返り血を浴びた長森は、呆然としたまま瞬きもせず差し伸ばしていた手を止める。
 月宮も俺も何も言えず、何も出来ずに、部屋の中央で立ったまま血を吹き出している折原を見つめていた。
 やがて折原の身体が力を失い前のめりに倒れ、差し出されていた長森の両腕に収まるように転がり落ちる。
「こ、浩……平………………」
 やがて掠れた声が発せられる。
「折原〜っ!」
 我に返った俺が声を上げる。
 返り血に染まった長森が、力無く倒れた折原の身体を抱きしめている。
「だめぇっ瑞佳ちゃん! 絶望しちゃ駄目だよ! この世界は全部ゆ……」
 月宮が血相を変え叫びながら駆け寄るが、その叫びは長森の耳に届くことはなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっぁぁっ!」
 長森は両手で動かない折原を抱きしめたまま、目を極限まで見開いたまま絶叫した。

 ――ピシッ!

 その瞬間、長森を中心に全方位へ向けて瞬く間に亀裂が走り、世界を構成しているありとあらゆる物が崩れ始めた。
 まるでコンピュータグラフィクス上に貼られたテクスチャが剥がれるように、あらゆる物が細かく散ってゆく。
「うおぉぉぉぉっ!」
「うぐぅーっ!」
 俺と月宮はまるで爆風で吹き飛ばされたかの様に空中へと放り出された。
 あまりにも突然であった事と、現実味のない光景が幸いし、高所による恐怖も感じる暇もないまま、俺はきりもみ回転をしながら空中を舞っていた。
 俺の周囲には色々な残骸が飛び散っており、小さな物から次々と消滅して行く。
 近くの大きな建物の破片に捕まり、何とか姿勢を整え、俺は眼下に広がる街が崩壊して行く様を見つめていた。
 水瀬家の建物が霧散して行き、庭先のレオパルドや車も吹き飛び、周囲の景色同様に細かくバラバラになる。
 俺のすぐ横で吹き飛んだ郁美先生のヘリが、小さな破片となって四散して行き、その破片もまた更に細かい破片となり霧散していった。
 長森を中心に広がる破壊の波は、大地だけではなく、夜空さえも化粧のように削ぎ落としてゆく。
 つまり空さえも作り物だったのだ。
 学校を中心にした円形の世界ではなく、球状の空間がこの夢の世界だったんだ。
 長森が望んだ幸せな一時を封じ込めた世界。
 月宮の狂った情愛によって創られた永遠の世界は、その主の夢の最重要ファクタである折原が崩壊した事で、長森にとっての悪夢となり、その存在理由を失った。
 ――夢の終焉。
 それは創造主である月宮ですら対処不可能な事態だった。
 月宮は球状世界の中心で、長森の……そして自らの夢の世界が崩壊して行く様を呆然と見つめていた。
 水瀬家が消滅し、商店街の跡地、百花屋と相次いで消滅、、そして世界の中心地であった学校に達する。
 校舎の回りにあった水が一瞬で消滅し、干涸らびた大地が現れるも、次の瞬間にはその大地も剥がれてゆき、その下地部分が姿をさらけ出す。
 崩壊は急速に広まって、街も、亀も、そして空さえも、その表面の化粧が剥がれてゆく。
 もはや重力も天地も存在しない。
 空も大地も無くなり、残るのはワイヤフレームの様な下地だけだ。
 夢が壊れてゆく様を見ていた俺の頭に、大きな建物の破片が勢い良く当たった。
「ぐわっ……」
 打ちどころが悪かったんだろうか、俺の意識は急速に落ちていった。
(ま、次に起きたら現実だ……みんなも無事現実へ戻れたかな?)
 そんな事を暢気に考えながら俺は気絶を受け入れる。
『許さないよ……君だけは、絶対に許さないっ!』
 そんな月宮の声が、俺の頭に響いた。

 ――そして完全にブラックアウト。





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