祐一が言った通り翌日は何事もなく朝を迎え、そして未だ気落ちしたままの住人達を余所に、いつも通りの憎たらしいほど良い晴天に恵まれた一日だった。
 青空が見事な夕焼けに染まり、そして綺麗な星空へと姿を変えて、水瀬家で通夜じみた夕食が終わってから更に数刻――時計のある生活をしていれば恐らく日付が変わろうか……という時分だろう――郁未は久方ぶりに白衣に袖を通して学校を訪れた。
 今の世界で暮らし始めて何日経過したのか定かでは無いが、その短くはない日々を過ごす内に、彼女が校医である必要性は失われていた。
 考えてみれば……あれだけ毎日馬鹿騒ぎに徹しているというに今まで怪我人が出なかったという事も、恐らくはこの世界の不思議の一つなのだろう――忘れかけていた白衣の袖の感触を確かめながら、郁未は苦笑いを浮かべる。
 屋上のフェンス越しに月明かりに照らされる眼下の光景を見回してみると、既に見慣れてしまった街の残骸が見て取れる。
 かつての当たり前が、今の当たり前に塗り替えられた世界。
 思わず目を背けるように視線を戻すと、郁未はフェンスに背を預け夜空を見上げる。
 給水塔の向こうに満天の星空が広がっており、そして真円を描く大きな月が浮かんでいた。
(こうして月を眺める事が出来るようになったのは、何時からかしらね……)
 郁未にとって月は忌むべき存在だった。
 何故なら月は彼女の人生を狂わせた宗教組織”FARGO”の信仰対象だったからだ。
 教祖であり、偶像であり、本尊でもあった赤き月。
 不可視の力を授ける哀れな異能生命体達と、深い悲しみを背負ったが故に救いを求める信者達の全てを見届ける者。
 悲劇の傍観者。
 数年前、悲しみに満ちた人々を狂気へと誘うその月を、郁未は粉々に打ち砕いた。
 以後、郁未はそれまでの人生を遠い過去として断ち切り、誰も知る者の居ない北国の街で、新たな人生を歩み始めた。
 しばらく夜空を見上げていた彼女の耳が階段を登ってくる足音を捕らえると、その音に釣られるように、彼女は視線を昇降口へと向けた。
 靴音が次第に大きな物となり、やがてドアが軋む音に掻き消された。
 と同時に、ゆっくりと開いた校舎へ通ずる闇の中から人物の影が浮かび上がり――郁未はフェンスに身を委ねたまま、その影に向かってゆっくりと声をかけた。
「いらっしゃい」
 郁未の声が終わらない内に影は無言のまま屋上へと進み、月明を受けてその姿を露わにした。
「よく来てくれたわね……折原君」
 再び発せられた郁未の声に、折原は僅かに頷くと、ゆっくりと口を開いた。








■第21話「博引旁証」








「一体何の用ですか?」
 折原の開口一番に発せられた台詞は、実に素っ気ない物だった。
 そのニュアンスに普段の明るさは感じられない。
 奴がこの場に呼ばれたことに、ある種の嫌悪感を抱いているのは明らかだった。
「手紙を読んで来てくれたんでしょう? なら用は判ってるんじゃないかしら?」
「”今夜学校の屋上にて二人きりで会いたい”って文だけでその意味が判るほど、オレの頭は良くないですよ」
「つれないわね。こんな美人な先生と夜空の下でおはなし出来るんだから、もっと素直に喜びなさい?」
 折原の皮肉を軽く受け流すと、寄り掛かっていたフェンスから身体を起こし屋上の中央へと歩を進める。
 屋上の中央には丸いテーブルと、椅子が五脚用意されている。
 月明かりの下、郁未先生が静かに席に付くと、テーブルに肘を突きながら両手を組む。
「まぁこちらに来て座って。それから……みんなも出て来て」
 そう呼ばれて、影になっている屋上の隅で様子を伺っていた俺と舞、そして佐祐理さんが中央へと進む。
 舞の表情はいつも通りだが、佐祐理さんの表情は少し緊張気味だ。
 かくいう俺も少々緊張気味だ。
 それというのも、展開次第ではこれからここで何が起こるか判らないからだ。
「よぉ折原」
 そんな心境を表には出さぬよう、軽く手を挙げていつものように気楽に挨拶をするも、折原の方からは返事が返ってこない。
 見れば折原の表情は、まるで俺達がこの場に居ることが予想外だった様に驚きに満ちている。
「相沢……何でお前達が?」
「私が呼んだのよ。今夜この場で相沢君達の調査結果を聞くためにね。さ座って」
 折原の質問に答えたのは俺ではなく郁未先生だった。
 その口調は普段と変わらぬ、落ち着きのある静かな声だった。
「そう言うわけだ。取りあえず最後まで付き合ってもらうぜ……っておい!」
 俺の言葉が終わらない内に、折原が踵を返して校舎へと戻ろうとする。
「ったく、何かと思えば……オレはそんな事に付き合っている暇はないっ!」
「おいおい途中下車か? お前らしくもないぜ」
 俺がそう折原の背中に言葉を投げかけると、足の動きが止まってこちらへ振り向いた。
「郁未先生から何か大事な用事があるとは聞いていたが、『二人きり』で、という話だったはずだ。オレは約束を守らない人間とは話したくない」
 そう言って再び校舎の中へと戻ろうとする折原に、佐祐理さんと舞が追いすがる。
「折原さん、座って下さいませんか?」
「……浩平、座る」
 素早い動きで折原の真横に移動した舞が、抜刀した雪風の切っ先を彼の鼻先へと向ける。
「お、おい……川澄先輩、冗談は……」
「……」
「……ったく、わーったよ。判りましたっ! 座れば良いんだろ?」
 俺達の誠意有る説得(?)に諦めた折原は、既にテーブルに着いている郁未先生の目を真っ直ぐに見据え、溜息を一つついてからテーブルへと進んだ。
 ホッとした様子の佐祐理さんが郁未先生の隣に腰を降ろす。
 屋上の中央へと戻る折原の姿を見て、舞は雪風を鞘に収めると彼の後ろに付いて歩く。
 折原は丸いテーブルの脇に立つと、その表面を指先で”コツコツ”と叩き音を立てる。
「円卓会議ってか? オーケイ良いだろう。座席は五つ、此処にいる人間もぴったり五人だ。参加者は揃ったんだろう? 早速始めようぜ」
 そう言って折原は諦めたように座席へと乱暴に腰を降ろした。
 結果的に折原に促される形で、俺もまた席へと着く。
「さて、何から話すんだ?」
 行儀悪く頬杖を付き、明後日の方向を見ながら折原が言う。
「そうだな……それじゃ、今俺達が置かれている立場ってヤツを再確認してみるところから始めるかな」
 俺が郁未先生の顔を伺ってそう切り出す。
 郁未先生は特に何も言わず、持ってきていたポットからお茶を湯飲みへと注いでいる。
 その横の席で、佐祐理さんも持参したお茶請けを、容器ごとテーブルの中央へと設置した。
 舞は鞘の部分を肩に引っ掛ける形で腕に抱き、ただ黙って座っている。
 深夜の学校屋上で行われる、男女五人による奇妙なお茶会。
 端から見ればさぞ奇妙な光景だろう。
 全員にお茶の注がれた湯飲みが行き渡ると、折原が俺の方に視線を戻して短く言った。
「それじゃ聞こうか?」
「いいか折原、俺は、いや俺達はな、只悪戯に戦車を乗り回して居た訳じゃない。
 郁未先生と連絡を取りつつ、舞や佐祐理さんと協力して……」
 俺は一瞬、二人の顔を見て軽く頷き話を続けた。
「……この世界の構造を調べ、何とかして元の世界へ戻るための算段を立てる為だ」
 俺はそこで一呼吸を置き折原を見る。
「そりゃ、ご苦労だったな」
 折原は相変わらずつまらなそうに片手で頬杖したまま、差し出されたお茶を飲んでいる。
「俺だってそんな面倒な事ほっぽり出して、舞や佐祐理さん達と遊びたかったんだぜ?」
「それならそんな我慢しないで遊べばよかったじゃねぇか」
「ああ、幾度と無くそうしたくなったさ。だが、自分の置かれている立場も見極められずに遊び呆けているお前達ほど、俺は楽天家じゃないんだ。だいたいお前はいつも無茶やって、俺達を騒動に巻き込むんだよ。いつの間にか俺までお前や住井と同系列の人種だと認識されてるし、もうちっとは周囲の迷惑と長森の心労も考えて行動したらどうだ?」
「余計なお世話だ!」
「相沢君、良いから本題に入りなさい」
 俺の悪ふざけに郁美先生が注意を促す。
 見れば舞も俺のことをジト目で見てるし、佐祐理さんなんか少し呆れている様子だ。
 折原の斜に構えた態度に腹を立て、つい愚痴が口から出てしまった様だ。
 仕方がない先へ進もう。
「いいか折原、頭の悪いお前の為に、この優しい俺が順序立てて説明してやろう」
「頭が悪いのはお互い様だっ! ……ったく」
 俺は折原の文句を無視して話を進める。
「まず、そうだな……このテーブルをこの街だと仮定する。いいな?」
 俺はそう言いながらテーブルを表面を、円を描くように手で一撫でする。
「ああ」
 折原が頷いた。
「お前もヘリから見たと思うが、街はこのテーブルの様な円形をしていたわけだ。俺はこの形にも何らかの意味が有ると推測し、この街の測量を始めたのだが、どういう訳か車の計器類はもとより、レオパルドの弾道計算コンピュータまでもが正常に動作してくれず全くアテにならない。それはお前も知ってるな?」
「ああ、知ってるぞ」
 折原自身、この世界では車を運転する事も多い。当然メーター類が正常に作動しない事も知っているだろう。
「どうしてそんな事が可能なのか……という事は、この際無視して構わないだろう。そこで俺……というか佐祐理さんがレオパルドの主砲到達距離を元に測量した結果、この円形の世界の直径は、約三キロメートルだという事が判った」
「時々大砲ぶっ放してたのはその為か……しかし良く計算できたもんだな?」
「はい。住井さんに戦車のカタログスペックを教えて貰いました。あの大砲の初速と質量が判れば、撃ったときの仰角と着弾までの時間でおおよその算出は可能です」
 佐祐理さんがにっこりと微笑みながら答える。
「……なるほどね。そりゃ大したもんだ」
 さして興味がなさ気に答えながら、テーブルの中央に置かれていた茶菓子に手を出す折原。
「そしてそこが学校だ」
 折原が丁度手を伸ばした茶菓子の入れ物を指さして言う。
「この学校はこの円形の街の中心に位置している。この地より同一仰角で放った砲弾は、どの方向へと撃っても街の外壁から殆ど同一距離に着弾している事は確認しているから、まぁ間違いはないだろう。文字通りこの街の……いや、世界の中心と言って良い」
 手にした煎餅を頬張っている折原を横目に確認すると、俺は説明を再開した。
「この学校を中心とした直径約三キロの円形の大地が、巨大な石亀の上に載っかって空を飛んでいる……という実状は、全く常軌を逸脱しているが、これはある種のカムフラージュだと俺は思う。むしろ本当に大事な部分に気づかせない様、虚構をより大げさな虚構で覆い隠している……ま、これはペテンの基本だが、その事によって本当に重要な部分から俺達の目を逸らしているのだと考える。ともすれば重要な部分は別にあるわけで、そしてそれはもっと単純な事だと思える」
「ほ〜ぅ?」
 茶請けの煎餅を続けて頬張りながら、折原は半ば適当に相づちを打つ。
 そんな折原の態度を気にせず、俺は話を続けた。
「何故水瀬家やスーパーマーケット等の幾つかの建物のみに、水道ガス電気は供給され続けているのか? いや、そもそも何処から供給されているのか?」
「ガスも水道も電気も、何一つ請求書は来ませんよー」
 佐祐理さんが笑顔のまま補足。
 見れば舞は全く表情を変えぬまま、折原と共に茶請けの煎餅やあられを黙々と口に運んでいる。
「お前や住井、真琴達がバカ食いしているあのスーパーマーケットの食料品は何故尽きないのか?」
「当然、それらに賞味期限や製造月日は何も記載されてません」
 続けて佐祐理さんが補足。
「お前達が遊びに使っているあの自転車やジェットスキーは何処から来た? いや、そもそも物質的な問題だけじゃない。この世界で雨が一度でも降ったか?」
「いやオレの記憶には無いな」
「では、何故そんな状況にもかかわらず水不足にもならなければ、こんな夏の様な陽気にも関わらず蚊の一匹も飛んじゃいないのは何故だ? そしてこれが一番重要なのだが、この街の住人達は何処へ消えてしまったんだ? それもたった一夜でだ。何故だ?!」
「オレが知るかっ!」
 俺の口調が強くなった事への反発だろうか、折原の口調もやや厳しいものになっている。
 しかし、俺はそんな事は気にせずに更に言葉を続ける。
「そうだ折原、誰も判っちゃいない。だから俺達は悩んだ。しかしどれだけ悩んでも答えは出なかった。……だがそんな疑問に解答を示してくれたのが香里だった。あいつは言った『深く考えるな』ってな。俺は最初その意味が分からなかったが、答えは単純過ぎた」
 俺はゆっくりと頭を振りながら、ズボンのポケットから香里の手紙を取り出す。
「これはな、香里が消える前日に俺に託した手紙だ」
 手にした封筒を折原に見せるように、手で振って見せる。
「……」
 折原は何も言わずに封筒を見つめると、すぐに興味が無くなったかのように視線を逸らす。
「いいか折原。日常生活に不都合が無いという点を除き……否、日常生活に不都合を無くす為に、この世界は実にいい加減に、殆ど言語道断と言って良いほどに出鱈目にできている。こんな世界は物理的にあり得ない。……そう、この”あり得ない”という事を受け容れれば良いだけの話だった。
 だから、もしこんな世界が存在しうるとすれば、それは……」

「………」

 折原だけでなく、皆が黙ったまま俺の言葉に耳を傾けている。


「誰かの願望を具現化した精神世界……すなわち」


 俺はゆっくりと導き出した答えを告げる。




「”夢”の中だけだ」



「ふふっ……くはっはっはっ」
 俺の結論を聞いた折原がふいに笑い出す。
「何が可笑しい?」
「いや、余りにも安直な答えなんでな、思わず笑ってしまった。そうか、そりゃ夢なら何でもアリだよな。ははははっ」
「……」
 折原は暫く笑い続けるが、俺達は全員押し黙ったままだ。
「ははは……はぁ〜。なるほど、で?」
「何だよ?」
「だからさ、この世界が夢だと判って、それでどうするよ?」
「現実へ戻る。お前は戻りたく無いのか?」
「戻りたいさ。だがそんな事言って何が出来るって言うんだ? この世界が夢だとして、誰の夢なのかも判らないんだぜ?」
「……ああ、なるほどな」
「何だよ?」
 今度は折原が俺の真意を掴めずに尋ねてきた。
「折原には判らないのか? この世界が誰の夢か」
「お前には判るのか?」
「ああ判るぞ。……推測に過ぎないが、恐らくは間違いないだろう」
「教えて貰えるんだろう?」
「聞きたいか?」
「ああ、是非聞きたいね」
「ならば『お願いします相沢様』と言ってみせろ」
「……」
 横合いから音も立てずに鞘が振り下ろされ、”ゴツッ”という鈍い音と共に俺の脳天に衝撃。
「痛ぇっ!」
「……祐一、真面目に話す」
 この場に居た舞が初めて口を開いた。
「真剣に話すからお前の真剣は引っ込めてくれ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……済まん舞。冗談だ折原、そんな怖い顔するなって。佐祐理さん笑顔が怖いっす。郁未先生お願いですから髪の毛逆立てないでください」
 どうやら外したらしい。
 駄洒落は三〇を過ぎてからにしよう――そう心に誓うと「ウォッホン!」と、態とらしく咳払いをしてから俺は話しを始める。
「さて話を戻そう。この世界が夢だと仮定すれば、俺の今までの悩みも全て解決する。誰かの想像上の世界であれば、物理的な障害は一切ないからな。まず念頭に覚えていて欲しいのは、この変わり果てた亀の背の上にある街だけが夢の世界ではないという事。この姿に変わる前、つまり学園祭の準備期間の時点で、俺達はすでに夢の世界に居たという事だ」
「そうなのか?」
「ああ、でなければ同じ一日を繰り返すという事の説明が付かない」
「じゃあ消えた連中は何処へ行った? あの時、学校内には大勢の生徒達でごった返していたぞ。それに牛丼屋や百花屋の店員とか外部の人間だって居たはずだ」
「折原、それが重要なんだ。『どうして俺達が誰かの夢の中に居るのか?』そんな理由は考えたところで無駄なので放っておいて良い。問題なのは、お前が言った通り『一体誰の夢なのか?』『この街の人間は何処へ消えたか?』……という二点だ。それが判れば、現実へ戻る為の何らかの手がかりになるだろう」
 俺の言葉に佐祐理さんと舞が頷く。
「まずは『誰の夢か?』という問題点だが、俺達以外の第三者である事はあり得ない。つまり、この世界に居る俺達の中の誰かである事は間違いないだろう」
「何故だ?」
「主の居ない夢は、その存在理由がないからだ。誰かが今のこの状況を望んだからこそ、この世界は存在する。もう一つの問題点である『この街の人間は何処へ消えたか?』という事も併せて考えてみろ。この世界に俺達しか居ない理由は何だ? 当初はこの夢に住まう住人達が気付かれない様、その意識を改竄し、わざわざ外の世界の幻影まで見せて、あたかも元々居た現実の世界だと思わせる程に手の込んだ事をしていたのに、俺達が実体に気づいた途端に世界が一変したのは何故だ? それはこの夢の主にとって、今この世界にいる者以外の存在が取り敢えずは不必要で、取り巻く環境自体は重要視していないからだ。つまり環境はどうあれ、今この世界に居る人間達との生活が、夢の主に取っては重要な問題というわけだ。それならば、今この世界に居る住人の中に主がいると考えるのが普通だろ?」
「第三者が見ている夢に、オレ達が巻き込まれた……という可能性はないと言い切れるのか?」
「俺達にこんなユートピアを与えて、他の誰に何のメリットがある? 食い物には困らず、仕事も学校もない、時間に追われることもなければ、外敵も居ない……それこそ夢の様な世界だからな、自分自身で体験すればいい。では、仮に俺達が第三者の夢に巻き込まれていたとしよう。俺達は何者かが望んだ夢に巻き込まれ、たまたまその繰り返される日が『学園祭の前日』だった……という事になる。しかしそうなると、俺達が世界が変わって現在に至るも、学園祭準備でのドタバタと大差ない生活を続けている理由が思いつかない。
 それに最初に言ったはずだが、この世界の中心に有るのはこの学校だぞ? この世界の根元にはこの学校が深く関わっているはずだ。なら、この学校がこの世界に与えている影響とは何だ? 先にも述べたとおり、俺達の繰り返してきたドタバタは偶然ではなく、あの騒ぎこそがこの夢の主が望んだものだからだ。ならば、第三者の可能性は無くなり、今この世界に存在する俺達の中の誰かが、今の状況を望んだ事になる。
 他にもあるぞ。何故久瀬や里村達だけが石像にっているのか。他に消えた人間は幾らでも居るのに、俺達に関わりのある彼奴等だけがああいう姿になったのは、夢の主が俺達の身内である事の証明だ」
「じゃ、消えた人間は何処に行ったんだよ?」
「この世界が夢ならば、消えた住人達は元の世界、つまり現実へ戻ったと考えるのが自然だろうな」
「それじゃ、茜や氷上達も現実に?」
「それは判らない。だが、消えた理由を考えれば、彼奴等が現実世界に戻った可能性は低いだろう」
「お前、彼奴等が消えた理由が判るのか?」
「まぁ、それは後にしておいてだ……普通に消えてしまった人達が大勢居る中で、わざわざ石像になってこの世界を支えているんだから、単に現実へ戻ったとは考えにくい。恐らくは別の夢の世界を彷徨っているんじゃないかな?」
「それじゃ一体誰なんだよ。オレ達を巻き込んだ傍迷惑な夢の主ってのは?」
「折原、複雑に考えるな。誰の夢かが判りづらいのなら逆……つまり消去法で考えればいい。まずこの世界に居た人間を思い浮かべて見ろ。
 俺、お前、郁未先生、そして舞、佐祐理さん。此処にいる五名に、名雪、秋子さん、真琴、長森、香里、栞、北川、住井、南、七瀬、澪ちゃん、川名先輩と深山先輩を加えた十八名だ。この中で誰が現状で迷惑を被っているか? それを考えればいい。
 まずこの世界の正体を暴くべく奔走していた俺と舞と佐祐理さん、そして郁未先生で無い事は確かだ。
 次に消えてしまった川名先輩と香里もあり得ない。これだけでも、三分の一が消える。
 そして川名先輩の親友であり、保護者とも言える深山先輩の線も薄いだろう。彼女がこのドタバタ劇に巻き込まれて迷惑がっていたのは明かだし、川名先輩が消えた事による心労で倒れたぐらいだからな。
 唯一の姉妹に失踪された栞の可能性も低い。病弱な身体が完全回復していない事も裏付けている。現に夏バテや日射病で何度か倒れているし、彼女の夢なら夏よりも冬を選ぶだろう。何せ一〇メートルの雪だるまを作るのが夢だと、普段から豪語しているくらいだからな。
 北川の線も此処で消える。何せ奴の異常なまでの香里に対する執着は、お前も知っての通りだ。香里の居ない世界を北川が望むとは到底思えない。
 七瀬に関しても可能性は低い。お前等が散々っぱら玩具にしているお陰で、随分と迷惑を被っている様だからな。それにもしも彼女の夢ならば、この世界での七瀬は、それこそ望み通り完璧な乙女になっているだろう。
 南に関しても、七瀬同様にお前や住井に格好の玩具にされて迷惑している。これは以前の世界……言うなれば現実の世界と大差ない。わざわざ自分の夢の中で、そんな状況に甘んじるとは思えないので除外だ。
 次に澪ちゃんだが、彼女はそれなりにこの世界を楽しんでいるものの、障害を抱えたまま……っていうのは、どうも彼女の願望を叶えているとは思えない。これで十二名の可能性が消えて、秋子さん、名雪、真琴、長森、住井、そしてお前の六名にまで絞ることが出来た」
「オレの可能性もあるわけだな? 言っておくがオレは……」
 せせら笑いながら話す折原を制して、俺は言葉を続ける。
「まぁ聞けよ。残った六人は皆この世界での生活を受け入れて居るから、誰もが夢の主である可能性はある。まず真琴だが、”友人知人だけが存在し遊んで暮らせる世界”というのは一見して真琴の理想だと思えるが、思い出して欲しい。俺達が当初繰り返していたドタバタとは『学園祭の前日』であり、俺達は皆学校に泊まり込んでいたわけだ。この時点で既に夢の世界だったとは先にも述べたが、真琴は当然あの馬鹿騒ぎの場には居なかった。アイツの夢ならば、最初から俺達と共にドタバタ騒ぎに明け暮れていたはず。故に真琴でも無い。
 と言うことは、連鎖的に学校に居なかった秋子さんも違う事になる。元々、この二人は俺達によって巻き込まれただけに過ぎないと思われる。あの夜、俺達が揃って水瀬家に泊まった為、なし崩し的にこの世界にまで付き合わされただけだろう。
 次に住井だが……その可能性は非常に高く、最後までもしや? と思ったが、生活や騒動自体を楽しんでは居るものの、この世界が果たしてヤツの願望を満たしているか? と言われればそうは思えない」
「何故だ?」
「あまりこういう事を言いたくはないですけど……、住井さんが好きなのは瑞佳さんです」
 折原の問いに答えたのは佐祐理さんだった。
「ああそうだ。俺自身アイツの口からそれっぽい事を聞いたことがあるから、まぁ間違いはないだろう」
 プール騒動で折原を追いつめた時の呟き、そしてオレの部屋で発した寝言……確かにそう思われる節があった。
「……」
 折原は少しだけ驚いた表情をしていたが、それから再び元の表情に戻ると、湯飲みを口に運んだ。
「とまぁ、そういう訳だ。夢で有ればお前に遠慮する必要など無くなるわけだ。お前を排除し、大手を振って長森と付き合う世界を作る事が出来る。故に住井の線も消える。
 そして折原、お前だが……住井同様に、騒々しい日常はお前の最も得意とするものだが、俺にはこの世界がお前が望んだものには到底思えない。まずお前の親友と言える部活仲間の氷上が石像になっている事。学園祭準備の騒動を繰り返す事よりも、学園祭当日の方が、お前にとっては色々と騒動を巻き起こし易く、また楽しみも多いだろう。そして川名先輩が消えた事は、お前が決して望まぬ事だと言える。以上の理由により、お前がこの夢の主でないと言い切れる」
「……」
 折原は目を閉じたまま何も答えず、黙って俺の推理を聞いている。
 見れば舞と郁未先生も押し黙ったまま、茶を啜り事の推移を見守っている。
「……これで残りは名雪と長森の二人だけだ。共に学園祭前日の段階から、このドタバタ生活を楽しんでいた様子だが、一つ決定的な違いが有った」
「何だ?」
「名雪と長森は二人とも大のネコ好きで知られているが……不幸な事に名雪はネコアレルギー体質だ。お前も知っているな?」
「ああ」
「そしてつい先日、俺達の前にニャーコが現れたわけだが、あの子を抱きしめた名雪は、しっかり鼻水と涙まみれの惨めな姿を晒してくれた。つまりあいつはこの世界においても猫アレルギーを持ったままだった。もしも自分の夢ならばそんなものは無くして、好きなだけ猫に触れる事の出来る世界にするだろう。すると残るは……」
「ちょっと待て、それじゃこの世界は瑞佳の夢だと言うのか?」
「そうだ。今の推理に誤りがあるか?」
「あいつだって、オレが散々っぱら迷惑かけてるぞ。七瀬や沢口同様の理由で瑞佳の夢だとは思えない!」
「やれやれ……お前は普段頭の回転は速いくせに、こういうところは全く鈍感だな。彼女の性格を一番良く知っているのはお前だろ? 長森が他人の……特にお前の世話を焼くことに苦痛を覚えるか? 答えは否だ! いいか折原、よく思い出せ! あの夜、あの学校を探索した夜だ。あの時、この学校に入った者の中で”反応”に遭遇しなかったのは誰だった? そうだ、お前と長森の二人だけだ。レオパルドが教室から消えた時だって、その日の朝に長森が『何処かへ隠す』と言っていたからじゃないのか?。 夏が好きだと言ってはばからない彼女の願いを叶えるように、この世界は連日夏の気候を維持している。先日、俺が難儀していた水道を、彼女はただ手を触れただけで生き返らせた。全てが彼女の願望が叶うように動いている。そして川名先輩が消えたのは何故だ?」
「止めろっ!」
「いいや折原、言わせて貰うぞ。彼女は以前『私の頭の中は浩平の事で一杯だ』と言ったな。当時は単なるノロケだと思って聞いていたが、その言葉が全てを語っている。彼女にとってお前が全てなんだ。お前と抱き合っている川名先輩を見て、お前の恋人であるところの長森はどう思う?」
「アイツは……瑞佳は、そんな事をする女じゃないっ! 長年連れ添って来たんだ。アイツが如何に優しい女か、オレが一番よく知っている。妹を病気で失い、母親に出奔され屍の様だったオレを生き返らせたのは瑞佳だぞ。そんなアイツがただ一時嫉妬を覚えたくらいで、相手を消す筈はない!」
 折原は興奮気味にテーブルを拳で叩く。
 その衝撃で、テーブル上の茶請けの容器と湯飲みが”ガタッ”と音を立てる。
「……そうだろう。俺もその意見には大賛成だ。長森自身が川名先輩達を消した訳では決してないだろう。ただ、一瞬でも長森が覚えた嫉妬がきっかけであった事は確かだと思う。それにな、里村や袖木、そして氷上が消えた理由も恐らくは同じだと思う」
「どういう意味だ?」
「言葉通りだ。お前に好意を寄せている者は他にも居たって事だ。あの学園祭準備の間に、里村達は学校に来ていたと思われる。お前も会っている筈だぜ?」
「覚えは無いな」
「まぁそうだろう。あの頃の記憶は皆曖昧だったからな。しかし澪ちゃんのスケッチブックを見せて貰ったところ、里村達との会話に使用したと思われるページが有った。恐らくは柚木が強引にお前を誘ったとか、そういう事をしでかしたんだと思う」
「そうね」
 そこまで俺が話すと、今でお茶を啜りながら黙って話を聞いていた郁未先生が口を開く。
「今までの話、恐らく大筋に置いては正鵠を得ていると思うわ。この世界が長森さんの夢だと言うことも間違いないでしょう。……でも間違えないで、乙姫が長森さんだったとしても、竜宮城へ太郎を運ぶのはあくまでも”亀”よ。長森さんの願望を具現化し、この世界を創り上げた第三者の存在を必要としているわね」
「そうだ! それこそ誰なんだよっ!?」
「何を言ってるんだ折原?」
「何って?」
「お前だよ。お・ま・え」
「………はい?」
「ったく、箱庭暮らしが長くて耳が腐ったか? だーかーらーお前が”亀”だと言ったんだよっ!」
「………」
 俺の言葉の意味を直ぐに理解出来なかったのか、折原は暫く呆気にとられた表情のまま皆の顔を見回している。
 郁美先生も舞も佐祐理さんも、変わらぬ表情で事の推移を見守るように押し黙っている。
 やがて折原が再び口を開いた。
「相沢……お前オレをおちょくってるのか?」
「いや、俺は至って真面目だぞ」
 そう言いながらも俺は笑いを抑えるのに必至だった。
 もうすぐ今までの俺達の苦労が報われると思うと、自然に頬の筋肉が緩くなる。
「あのなぁ、オレのような一介の高校生がこーんな大それた事できるわけ無いだろっ!?」
 そんな俺の態度に腹を立てたのか、折原が大げさなリアクションで応じる。
「ふははっ、一介の高校生ね。なるほど」
「その凡庸たる男子生徒なら其処に居るわよ。さぁ出てきて」
 溜まらず笑い声を洩らした俺の言葉を引き継いだ郁未先生が、校舎の暗闇へと声を投げかける。
 皆が振り返った先にある昇降口から足音が響いてくる。
「いよぅ、誰だか知らないがご苦労さんだったな」
 そんな事を言いながら校舎の中から出てきた人物を見て、折原だけが酷く狼狽している。
「な、なにっ!?」
 驚きの声と共に姿勢を崩した折原が椅子から転げ落ちる。
 俺達にとっては予定調和の出来事であるため、出てきた者を見たところで驚くには値しない。
 むしろ俺達の計画通りに事が運んだ事の方が驚異と言える。
「こ、これは一体?!」
 椅子から転げ落ちたままの無様な格好で、折原は新たに登場した人物を震える腕で指さしたまま固まっている。
 ――役者は揃った。
 この場に演劇部の面々が居ないのは実に惜しむべき事だが、後は俺達の用意した舞台に姿をさらけ出した、この演出家の正体を追求するだけだ。
「真打ち登場だ」
 現れた最後の役者――折原浩平は口元にいつもの意地悪そうな笑みを浮かべながら月下の舞台へと登場した。





<戻る 次へ>

SSメニューへ