街のはずれの森の中に大きな木が在った。
その木の下に、僕は街で出会った女の子と、自分達の理想を叶える学校を造った。
宿題も苦手な授業も無く、嫌いな先生もいじめっ子も居ない――気心を許した二人だけの学舎。
そこは二人にとっての楽園となるはずだった。
楽園――二人だけの秘密の学校を染める綺麗な夕焼け。
そして辺り一面に積もっている真っ白な雪。
大気の中を舞う白い妖精達。
でも、風が吹いて妖精達は何処かへ吹き飛ばされた。
そして風が止んだ後、茜色に輝く雪はえんじ色に染まってゆく。
その時より、楽園は永遠に失われた。
いや……そんなものは最初から無かったんだ。
だから――
だから、僕が此処に来る理由も無くなった。
■第19話 「寛仁大度」
ん?
ここ暫く同じ様な夢の中で目を覚ます。
無論目が覚めてしまえば、その光景は忘却の彼方へと押しやられてしまうのだが、漠然としたイメージだけは脳裏に強く残っている。
それは色だ。
茜色と白、そして赤。深い赤――えんじ。
夕日と雪と――えんじは何だろうか?
連日脳裏に残る色彩的なイメージは、常に同じ組み合わせだ。
それはつまり、俺の中でその色彩に対する執着が在るのか……いや、トラウマかも知れない。
ともすればその原因は何だ?
何故、俺はこの色彩にこうも過敏に反応するんだ?
(やっぱり記憶なのか……)
越してきてから舞との約束を、そしてつい先日には真琴の事も思い出せた。
六年前に閉ざした記憶の大部分は思い出せたと思っている。
それでも俺に訴えかけるように沸き上がるイメージは、俺の中で未だ閉ざされている残りの記憶ではないだろうか?
そして、この奇妙な世界の調査を進めるにつれて、俺の見る夢もはっきりとした物になっていく様に思える。
これらは何か関連はあるのだろうか?
(……考え過ぎかな)
連日の夏日な陽気に、単に雪を懐かしんでいるだけだろう。
おぼろげに考えながら、見慣れた天井を未だ焦点の定まらぬ寝起きの目でぼんやりと見上げていた時、突然部屋の扉が勢い良く開け放たれる。
「祐一〜っ!」
元気いっぱいの声と共に俺の部屋へ乱入して来た声の主――真琴がベッドで横になっていた俺の身体目がけてダイブしてきた。
「どへぇっ!」
無防備状態の胸部へ、突如のし掛かってきた質量に俺は思わず声を上げる。
「祐一、変な声出してないで、今日はみんなと遊びに行こうよ〜」
そう言いながら、この失礼極まりない奴は俺の身体にのし掛かったまま――いわゆるマウントポジションの状態で身体を思い切り揺らし始めた。
「ぐ、ぐるしい……」
「祐一ってばー、ねぇ良いでしょ?」
「ぐはっ! ま、真琴っとにかく降りろぉ〜っ!」
俺は声を絞り出して真琴に懇願するが……
「ゆーいちーっ、あそぼーよーっ!」
どうやら全く人の話を聞いていない様子だ。
流石は獣と言ったところか。
先日の一件以来、流石に懲りたのか真琴の悪戯発生頻度は急速に下がっている。
しかし、こうして俺にじゃれついて来る事が増えてきたのだが、真琴の躊躇しない性格と相まって、その手段・時・場所は全くいとわない。
結局のところ、真琴の行動はそれが単なるスキンシップであっても、また悪戯であっても、俺にもたらされる結果に関する限り大差はないのだ。
いや、悪戯であれば反撃も躊躇無く行えたたが、悪意が無い分対処が難しいとも言える。
そんな俺の懸念を余所に、真琴は身体に馬乗りになったまま一層激しく身体を揺すりはじめる。
「わ、わかったから、とにかく降りろ! こんな処他の連中に見られたらどんな解釈をされるか、判ったもんじゃ……」
そこまで言った俺の視界に、真琴が開けたままにしておいたドアの向こうから、部屋に入ろうとしたまま動かない折原の姿が見えた。
「………」
「………」
俺は如何にして深刻な状況を打破するか。
そして折原は――恐らく――状況を如何に利用して祭りに仕上げるか。
二人揃って無言のまま脳味噌をフル回転させている。
互いの脳味噌の処理速度比が『俺>折原』であれば、事態を収集できる手段を講じる事も出来たであろう。
「ねー祐一早くー!」
折原の存在に気が付いていない真琴が腰をくねらせる様にして、再び身体を揺らし始めた。
その時、不覚にも短いスカートから覗く太股に目を奪われ、俺の処理が一瞬遅れる。
ほんの一瞬であるが、百分の一秒を争う事態において、その間は決定的だった。
「……ふむ。いや済まない。どうやら邪魔をしたようだったな」
そう言と、折原の驚愕とも呆然ともとれない微妙な表情で回れ右をする。
その際、奴の口元が不気味に歪んでいるのを、俺は見逃さなかった。
「ちょっと待てぇっ!」
「ん? どうしたの祐一?」
状況が掴めていない真琴は、マウントポジションのまま、きょとんとした表情で俺を見つめ返す。
「いいから早く降りろ!」
「何でよ!」
「何でもクソもあるか、今は一刻一秒を争うのだっ!」
俺は先日からベッドの脇に置いたままになっていた金だらいを、素早く手に取ると躊躇なく真琴の頭へ振り下ろした。
「てええいっ!」
「きゃうっ!」
派手な音と共に真琴は目を回してベッドの上で姿勢を崩す。
俺としてはそのまま床に転げ落ちて貰いたかった。
だが、真琴は俺の身体に重なるように――真琴の胸が丁度俺の顔面を覆うような感じで倒れ込んできた。
「むがっ! えーい、何でこっちに倒れるんだよっ! おい真琴っ早くどけ!」
「あうーっ! 祐一、いきなり何するのよっ!」
俺の身体にのし掛かったまま、真琴が大きな声で抗議をする。
「いいからさっさと俺の上から降りろ。でないと」
真琴の肩を掴みながらそこまで言いかけた時、部屋の入り口から冷気にも似たオーラが漂って来た。
「うおわっ!」
その冷気の正体――というか発生源は見るまでもなく判っていた。
「祐一……」
「あははーっ」
ああ、判っていたさ。
多分こうなるんじゃないかな? って。
(どうせ折原が二人に何か吹き込んだに違いない。そしてあの二人は、真琴の『〜いきなり何するのよっ!』って台詞辺りから聞いていて、大きな勘違いをしているんだな。ならば、その後取る行動は……)
そう考えるのに要した時間は、僅か十分の一秒程度であろう。
神速での回避行動を始めた俺の目に、はっきりとは見えない何か空気の塊の様なモノが迫ってくる様が見えた。
「全く……酷い目にあった」
「あうーっ」
舞の放った魔物の攻撃を、奇跡的に回避して事なきを得た俺が二人に事情を説明し、ようやくの事で納得して貰った。
「あははーっ、佐祐理はてっきり祐一さんが真琴さんを無理矢理抱き寄せているのかと思っちゃいました」
「……祐一は獣」
違う! 真の獣は俺ではなくて真琴なんだっ!――舞の言葉に俺は心の中で精一杯叫んだ。
騒がしい朝食。
連れだって遊びに行く折原達。
調査に出かける俺達。
お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯へ……まるで、昔話のお約束の様に、俺達はこの世界におけるいつもの日常を営み始める。
|
§ |
川名みさきの家だった建物の玄関の上には、現在「大衆食堂」の看板がかかげられている。
皆から「みさき屋」と呼ばれるその店名は、実はオフィシャルの物ではなかった。
折原達が勝手に呼んでいた物が何時しか定着したもので、現在では経営者(?)であるみさきと深山も共に認めている。
かつての自宅の一階部分をそのまま使用した店内は、コンクリート肌がむき出しのままであり、くたびれたテーブルが四つに、スタンド椅子を並べただけの簡素な作りだ。
入り口にも扉はなく、大きなすだれがぶら下がっているだけで、両脇に深山がこしらえた「ラーメン」「おでん」と書かれた赤いノボリが立っている。
店内のコンクリートむき出しの壁には、画用紙に書かれたメニューが列んでいるが、あくまで雰囲気を演出する小道具に過ぎず、さながら学園祭の模擬店と大差ない。
(代金を取る分、学園祭の喫茶店の方が本格的と言えなくもない)
「ねぇ浩平君」
BGMも無い簡素な店内に、みさきの声が響く。
「何だ?」
みさきに声を掛けられた折原が、ラーメンを啜る手を休めて彼女の方を向く。
店内にいる客は彼一人だ。
皆は目の前の学校跡で各々好き勝手に遊んでいるらしく、時折外から騒ぎ声が聞こえて来る。
「最近の夕焼けは綺麗?」
「うーん……そうだなぁ」
椅子に腰掛けたまま、空いた手を顎に当てて少し悩んでから折原は答えた。
「結構良い線いってるな。平均で八五点は堅いな」
「へぇ、夕焼けにうるさい浩平君にしては大盤振る舞いなんだね」
テーブルの向かいに座っているみさきが、驚いたように声を上げる。
「ああ、殆ど毎日すごい夕焼け空が広がっているぞ」
「毎日? そうなんだ……凄いんだね」
みさきがの表情がほんの少しだけ曇るのを、折原は見逃さなかった。
「なぁ先輩」
「何?」
「今日、いつものところで夕焼け見るか?」
折原がテーブルから身を乗り出しながら提案する。
「え? でも私には無理だよ〜」
一瞬嬉しそうな顔をしたみさきだが、すぐに現状を思い出して沈んだ表情になる。
みさきは折原の言う「いつものところ」が、高校の屋上の事を指している事はすぐに理解できた。
そこは、かつて二人が掃除をサボっては無駄話をしたり、夕焼けについて語っていた場所。
二人にとって……いや、みさきにとってはとても大事な場所と言える。
しかし環境が豹変した今の世界で、彼女が自由に動ける場所は、かつての自宅跡であるこの食堂だけであり、水没してしまった学校の屋上へ行くことは叶わない。
「安心しろ、オレが連れて行くからさ。どうだ?」
そんな折原の提案に、みさきは躊躇いがちにも表情を綻ばせて頷いた。
「う、うん。有り難う浩平君……本当に良いの?」
「ああ」
「それじゃお願いするね。うふっとっても楽しみだよ〜」
「おっし、話は決まったな。それじゃ夕方になったら迎えに来るぞ」
折原がそう言うと同時に、入り口から彼を呼ぶ声が聞こえてくる。
「浩平〜もうみんな行くよ」
「早く行こうよーっ!」
『行くの』
見れば真琴と澪を伴った瑞佳が店内へと入ってきた。
見た目が幼い二人を連れた瑞佳は、さながら生徒と引率の先生、もしくは保母の様だ。
「おう、ちょっと待ってくれ」
折原はそう言って残ったラーメンを急いで胃に流し込むと、「ご馳走様」と言って立ち上がった。
「じゃあな、みさき先輩また後で」
折原が手を上げて出て行く。
「浩平? あ、それじゃ失礼します」
間際に折原がみさきに投げかけた言葉に、長森は一瞬考えこむ表情を浮かべるが、すぐに笑顔に戻すと丁寧に挨拶をして後に続いて出て行く。
「みさきバイバイ〜」
真琴は澪の手を引っ張りながら、長森の後を追いかけるように飛び出していった。
おかげで澪は別れの挨拶のページを開く事が出来なかった様で、その何処となく申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「うん、またね」
そんな表情も、スケッチの文字も見えないみさきではあるが、出入り口の方を向き精一杯の笑顔で応じる。
やがて外から騒がしい声が聞こえたかと思えば、車のエンジン音と共に消えていった。
残されたみさきは、手探りで折原の食べ終わったどんぶりを探し、掴んで立ち上がると、慣れた足取りで厨房へと向かった。
「あら? みさき、折原君帰ったの?」
「うん。今、みんなが迎えにきたよ。うわ〜いい匂いだね」
厨房では深山が大きな鍋でカレーを作っている最中だった。
「全部食べちゃ駄目よ?」
エプロンで手を拭きながら、深山が釘を射す。
そうでもしておかないと、食欲旺盛のみさきは一人で全てを食べかねないのだ。
「そんな事しないよー」
「嘘おっしゃい!」
深山は親友の抗議をすっぱり切り捨て、「うーっ」と不満げに唸り声も黙殺する。
「さて、折原君達が別の場所に行っちゃったなら、もう暫くお客さん来ないわね。それじゃみさきは休んでなさい」
「……うん。そうするね」
深山の言葉に素直に頷くと、みさきは階段を登って人が住めるよう改装した自分の部屋へと向かった。
「あれ? 何だか少し嬉しそうね……何か有ったのかしら?」
そんなみさきの背中を見ながら深山は呟いた。
|
§ |
わたしが自分の気持ちに素直になろうと思ったのは何時だろう?
浩平君と同じ屋根の下で暮らせる事は、とっても嬉しい事であったけれども、それ以上に胸が苦しむ事も多かったんだ。
だからわたしは逃げ出した。
雪ちゃんには迷惑をかけたと思う。
『私も流石にこの人数で居候していると気が引けてくるもの。良いわよ別に』
私の親友はそう言って付き合ってくれた。
それは確かに彼女の本心だろうから、その真意はわたしの物とはかけ離れていると思う。
わたしって何時も他人に迷惑をかけちゃうね。
そう思いつつも、雪ちゃんと二人で元々の自分の家に戻って、元通り……とは行かないまでも、何とか私達が住めるような環境にして住む事にした。
無論、わたし達だけではそんな事できないから、浩平君達に手伝ってもらったよ。
わたしの家であった物は確かに壊れて滅茶苦茶だったけど、その構造自体は以前と何ら変わりなく、修復することでわたしは以前同様に比較的楽に家の中を歩き回る事が出来た。
部屋のレイアウトも以前の状態にしてあるから、わたしは慣れた足取りでベッドへ向かい身体を横たえる。
「スゥー……はふぅ〜……」
横たわったまま深呼吸。
落ち着いたところで、学校の姿を思い浮かべてみる。
でも私がこうして脳裏に思い浮かべる学校の姿と、現在のそれとでは格段に差があるらしい。
何でも半ば水没して池になっているとか? すごいよね。
学校だけじゃなく街中不思議な姿へと変貌したらしい世界で、皆は毎日楽しげにはしゃいでいるみたい。
だからわたしも雪ちゃんや浩平君に連れられて、一緒になって遊ぶ事もある。
そういう時、いつも雪ちゃんに手を引かれて外を歩く。
雪ちゃんの目と言葉を通して、わたしは外の世界の情景を浮かべてみるんだけど、理解し難い光景のようでどうも頭にイメージが浮かばないんだ。
それでもみんなは優しいし、何処かにお出かけした時に食べられる秋子さんのお弁当はおいしいし、雪ちゃんは相変わらず厳しいけど、わたしは今の生活も決して悪くは思わない。
ただ残念なのは、大好きな屋上に行けなくなった事だ。
あの場所で風の中、陽の光を全身で感じる事が大好きだった。
でも、今日は浩平君が連れていってくれると約束してくれた。
「少しくらい……良いよね」
自分に言い聞かせて、私は少し眠ることにした。
夢の中なら、わたしは夕焼けを見ることが出来るから。
瞼を閉じてしばらくすると直ぐに眠気がやってきて、わたしはそれを受け容れる。
そして眼前に綺麗な夕焼け空が広がった。
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§ |
少しきつめの日差しを受けて、コンクリートの床に落ちる二人の影の色が濃く見える。
「今日も良い天気だね」
少し強い風を受けて、少しだけ癖のある長い髪の毛がが風に靡く。
その長い髪を片手で押さえながら、長森は横に立つ恋人へと視線を移す。
「ああ。全くだな」
自分の戯言に対して素直に返事をする折原の態度に何か感じたのか、折原の顔をじっと見つめる。
長森の視線に気が付かないのか、折原は腰の高さほどの柵の上で、気怠そうに頬杖したまま遠くを眺めている。
風が折原の長い前髪を靡かせ、普段はあまり見ることが出来ない彼の瞳が垣間見えるが、その瞳はどこか寂しげだ。
「ねぇ浩平?」
「んー、なんだ?」
二人が居る場所は外壁近くにある廃ビルの屋上。
答えながらも折原は、姿勢を変えずに屋上から見える景色――外壁の向こう側に広がる雲海――をぼんやりと眺めたままの答える。
彼らの居る位置は亀の頭付近である為、ビルの屋上から眺めると、まるで白波を掻き分けて進む船に乗っているかの様にも思える程、ダイナミックな光景が見ることが出来る。
「その……浩平はどう思ってるのかな? 今の生活」
横に並び同じ景色を見ながら、長森はそっと言葉を投げかけた。
「ん? そうだなー、悪くないと思うぞ。毎日が日曜日な状態ってのはそう味わえる物じゃないからな。どうした急に?」
「ううん。その……ひょっとしたら寂しくなってるんじゃないかなーって思ったんだよ」
「ま、元々一人暮らしみたいなものだったし、今はむしろ仲間と一緒だからな。寂しさなんて感じる暇もないぞ」
そこで一息ついてから、改めて長森の方を向き言葉を続ける。
「それより瑞佳こそどうなんだ?」
「えーと、今の生活?」
「ああ」
「楽しいよ。みんな一緒だし……」
言葉を区切り折原の目を見つめる。
「なにより毎日浩平と一緒に居られるから……あははは……あれ? 浩平どうしたの?」
頬を染めながら照れ隠しに笑う長森。
そんな長森の言葉に折原が頭を抱えて蹲る。
「お前が恥ずかしい事言うからだっ!」
折原は怒鳴り声を上げながら咄嗟に立ち上がる。
「あははっ。浩平照れてる?」
手を口元に運び瑞佳が微笑む。
「でりゃぁっ!」
折原の照れ隠しチョップが脳天に炸裂。
「痛っ! もぅ〜酷いよ浩平」
そんな抗議の声を上げるも表情は笑顔のままだ。
「ったく、お前がくだらん事言うからだっ!」
「あははっ。でも贅沢言うなら猫が居ないのが寂しいかな?」
「猫ねぇ……お前はホントに猫好きだな……おっ? ありゃ相沢達だな」
落ち着きを取り戻した折原の視界に、遠くを走っているレオパルドの姿が見えた。
「あ、本当だ。相沢君達、毎日何やってるんだろうね?」
砂埃を上げながら走るレオパルドの小さな姿を眺めながら、長森がぼんやりと呟く。
「ん? まぁ何でも良いんじゃないか? 俺達だって好き勝手にやってるわけだし」
「そうだよね。今の世界は自由だもんね……そう言えばさ、浩平さっき川名先輩と……」
長森が表情を幾らか堅くして、みさき屋で感じた事を折原に尋ねようとしたところ、建物の下から他のみんなの騒ぎ声が聞こえてきた。
「ん?」
何事かと折原が屋上から身を乗り出して下を覗くと、凄い勢いで走っている名雪と、彼女を追いかけているらしい七瀬や住井達の姿が見えた。
「何やってるんだあいつら?」
「さぁ……なんだろう。鬼ごっこかな?」
長森もまた気になったのか、自分の言葉も忘れてビルの下で繰り広げられている騒ぎを眺め始める。
上から見ていると、その様子は殆どラグビーだ。
「猫なんだおーっ! みんなで捕まえるおーっ!」
「名雪あなた猫アレルギーでしょっ!」
「水瀬さんこっちだ、こっちに誘い込め! 真琴ちゃんは右から、北川は左から回り込んで沢口は後方撹乱だっ! サーカスフォーメーションA展開急げっ! 」
「オレは南だ。大体後方撹乱って何をどうするんだよ?」
名雪の驚喜と歓喜に満ちた声と、暴走する名雪を止めようとする七瀬、そして煽る住井や困惑する南の声が聞こえてきた。
「ああ、そういう事か……なぁ瑞」
「浩平っ! 猫だって。行こうよっ」
長森は折原の言葉を遮り、珍しく早口で捲し立てると、踵を返してビルの階段へと走り去ってしまった。
「お、おい瑞佳……ふぅ〜やれやれ」
勢い良く走り去った長森の背中を見つめて溜息を付くと、折原もまた彼女を追いかけるように走り始めた。
突然現れた野良猫は、巧みな之の字運動で住井や北川、そして真琴の執拗な包囲網を見事に突破し――もっともやる気のなかった南のカバーエリアを突いた――、更に名雪の猛追をも振り切りってみせたが、横合いから突如参戦した長森によってあっけなく捕らえられた。
抱き上げた猫を笑顔で撫でる長森とは対照的に、名雪は涙と鼻水を流しながらくしゃみを連発していた。
「うぅ〜っ、猫さん触りたいよ〜抱きしめたいよ〜……くちゅんっ!」
名雪は落ち込みながら、半壊しているブロック塀に腰をかけている。
「ほら名雪大丈夫? 全く……だから止めたのに」
隣に座った七瀬が心配そうに名雪にハンカチを差し出す。
「ううーっ……有り難う七瀬さん。くちゅんっ! う〜瑞佳は良いなぁ〜」
「ごめんね名雪。でもこれ以上は触らない方が良いと思うよ?」
『可愛いの』
「わ〜可愛いです〜ふかふかで柔らかいです〜」
長森が抱いている猫を、澪と栞が頭を撫でて喜んでいる。
「ねぇ瑞佳ー、真琴も抱っこするーっ!」
長森の服を引っ張りアピールする真琴。
「うーっ」
先程、周囲の制止を振り切って長森から猫を抱かせてもらった名雪だったが、アレルギー体質がたたり涙と鼻水にまみれる結果となり、他の者が抱きしめる姿を、離れた場所から唸りつつ眺める事しか出来なかった。
「それにしても、流石に陸上部の部長ね。見直しちゃったわ」
「くちゅん! うーっ、幾ら脚が早くたって猫さん抱けないんじゃ意味ないよー」
名雪の言葉に苦笑する七瀬。
「しっかし何だな。この世界には猫も居たんだな」
アレルギーに咽ぶ名雪となだめる七瀬、そして長森から猫を受け取る真琴の姿を見て折原が言う。
「鳥や魚が居るくらいだしな、別に居ても不思議じゃないだろ?」
「結構広いからな、他にも何か居るかもしれないぜ?」
折原の言葉に住井と北川が答える。
「ま、そりゃそうだけどな……何かタイミングが良いんだよなぁ」
そんな折原の言葉だが、最後の方は殆ど呟きだった。
「うぅーっ……やっぱり猫さん抱きしめるんだよーっ!」
そんな言葉と共に突如立ち上がると、名雪は真琴目がけて走り始める。
「ちょっと名雪っ! 瑞佳、澪、栞っ、名雪を止めて。真琴は猫連れて逃げてぇっ!」
七瀬が慌てて名雪を追撃。
「真琴〜猫さんよこすんだぉーっ!」
涙と鼻水を流し顔を真っ赤にした名雪が真琴に迫る。
「な、名雪が怖いよーっ!」
「ふにゃぁーっ!」
そんな名雪の鬼気迫る勢いに、流石の真琴も猫を抱いたまま逃げ出した。
猫も恐怖を感じたのか、抱かれたまま情けない泣き声を上げている。
「待つんだぉーっ!」
「待てない! 待たない! 待つかーっ!」
「名雪さん駄目ですー!」
『目を覚ますの』
逃げる真琴と追う名雪。
その間に割ってはいる栞と澪だったが――
「二人とも退くんだぉーっ!」
名雪の迫力に怯んで、足止めにもならなかった。
相手が女性という事で、野郎共が積極的な直接阻止行動に移れない事が災いして、名雪の暴走はその後数十分、七瀬が名雪を押さえ込むまで続く結果となった。
|
§ |
日も傾いて今日の調査をうち切った俺達は水瀬家へ戻ってきた。
「おわっ!」
水瀬家の玄関を開けて俺は思わず驚きの声を上げてしまった。
「ゆ〜いち〜お帰り〜」
洗面所から出てきた名雪が挨拶をするが、その顔を見て俺は立ち竦む。
「ど、どうしたんだ一体?」
「はえー……大丈夫ですか?」
続いて入ってきた佐祐理さんも心配そうに声を上げる。
「猫さんなんだよ〜」
真っ赤な顔をした名雪の呟きに、俺は状況を把握した。
「まさか猫を触ったのか?」
俺の言葉に頷く名雪。
名雪は昔から大の猫好きにも関わらず、重度の猫アレルギーを持っていたはずだ。
この現状から察するに、猫を撫でた程度ではなく恐らく抱きしめて頬ずりくらいはしたであろう。
『にゃぁ〜』
俺がそんな推測を立てていると、丁度二階のほうから猫の鳴き声と、はしゃぐ長森や栞の声が聞こえてきた。
「猫さん…………っ!」
舞が凄い勢いで二階へ駆け上がって行く。
「お、おい……はぁ」
「あははーっ、舞も猫好きですからね」
「うーっ、みんなずるいよ。私も抱きしめて頬ずりしたいよ……」
「止めておけって、それ以上は流石に辛そうだ」
「名雪はこっち来なさい」
リビングから七瀬が手招きをしている。
その表情は、いつにも増して疲れ気味だ。
「う……うん」
残念そうに階段の上を見てから頷くと、リビングへと歩き始めた。
「あはは……名雪さんも可哀想ですねー」
そんな様子を見て佐祐理さんが苦笑している。
俺は「仕方ないさ」と答えると、着替えの為に二階の自室へと向かう。 階段を上がると、より鮮明に真琴の部屋から猫の鳴き声と、はしゃぐ女の子の声が聞こえてきた。
「ふぅ〜疲れた」
着替えを終えてリビングへ入ると、テーブルでお茶を飲む秋子さんと、リビングのソファーで鼻をかんでいる名雪、そしてその側で漫画を読んでいる七瀬、そして床に座ってテレビゲームをやっている野郎共の姿がみえる。
「お帰りなさい祐一さん」
俺に気が付いた秋子さんがいつもの笑顔で迎えてくれた。
「ただいま戻りました」
秋子さんに答えて改めてリビングを見回すと、折原の姿だけが見あたらなかった。
「あれ? 折原が居ないな……」
「よぉお帰り。そういや居ないな……長森さんと一緒に真琴ちゃんの部屋じゃないのか?」
ゲーム画面を見ていた北川が、俺の方を向いて答える。
「いや、降りてくる時に覗いてみたが、真琴の部屋には猫に取り憑かれた女共が居ただけだったぞ」
「んじゃ、買い出しかな?」
「あら? 私は何も頼んでませんよ」
住井の言葉に秋子さんが答える。
「何だかさ、あいつが行方不明になるって久しぶりじゃないか?」
俺の言葉に、少し間を空けてから皆が一様に頷く。
「……という事は」
「これから一騒動有るって事……だな」
南と北川が呟く。
そう、俺もすっかり忘れていたが、折原の姿が消えている時は、決まって何か騒動が起きる前兆なのだ。
「おいおい、勘弁してくれよ」
「秋子さん夕飯の準備を手伝いにきましたー」
リビングの扉が開いて、栞と長森が入ってきた。
「あれ? 長森……香里じゃないのか?」
「あ、お姉ちゃんは何だか考え事があるって……」
「うん。だから私が代わりだよ」
「あらあら、二人とも済みません」
秋子さんがそんな二人に笑顔で言う。
「ところで猫は?」
「えーとニャーコは真琴ちゃんと澪ちゃんが見てますから大丈夫ですよ」
「ニャーコ?」
栞の言った単語に反応する俺。
「あの猫の名前だよ」
長森が俺の疑問に答えてくれた。
「そりゃまた随分と安易なネーミングだな?」
「うーん、わたしは最初”ミルク”って名前にしたかったんだけど」
「私は”バニラ”が良いって言ったんです」
「真琴は真琴で”肉まん”って名前が良いって言い出すし……」
「聞いていると、単に好きな食い物の名前を言ってるだけじゃないか?」
俺が言うと二人とも少し恥ずかしそうに笑う。
「そうこう論議している内に、浩平が『猫山ネコ夫』とか『キャット播磨灘』とか『猫!猫!猫!』なんて名前付けそうになったの」
「うわぁ」
酷い名前だ……って言うか、最後のは名前か?
「だから手っ取り早く無難な名前でって事に……あれ? 浩平は?」
俺に答えながらリビングを見回した長森が、折原の姿がない事に気が付いた。
「いや、俺達も今さっき気が付いたところなんだが」
「え? ……あ、ひょっとして」
俺が答えると長森は心当たりがあるのか、何かを思い出したようだ。
「秋子さんごめんなさい。わたしちょっと浩平を探してきます」
「あらあら」
「あ、瑞佳さーん……行っちゃった」
栞の言葉が終わらない内に、長森はリビングを出て行ってしまった。
「このパターンって……」
「折原が消えて瑞佳が探しに行く……典型的な騒動の前触れね。はぁ〜」
俺の言葉を七瀬が引き継ぐ。
「でももう日暮れだぜ、真琴ちゃん程には心配ないだろうが、危なくないか?」
「はぁ〜ったく。せっかく戻ってきたばかりなのになぁ……秋子さん」
住井の言葉に、俺はやれやれと溜息を付く。
「了承。行ってらっしゃい。晩ご飯の準備は少し遅くしておきますね」
「済みません。行ってきます」
俺の言葉に、野郎共がやれやれと立ち上がる。
「あ、あたしも行くわ。折原はともかく瑞佳が心配だものね。うん」
七瀬が何か自分に言い聞かせながらソファーから立ち上がる。
「私もいくよっ!」
「名雪は栞ちゃんと夕飯の支度を手伝って?」
七瀬につられるように立ち上がった名雪に、秋子さんからご指名がかかる。
「……うー」
何となく残念そうな名雪。乙女心はフクザツなのだろう。
外に出ると世界は夕日に染まっていた。
真横から差し込む強烈な日差しに一瞬目が眩む。
その瞬間、何か名状しがたき感覚が脳内をかすめる。
――俺は何か思い出そうとしているのか?
「……でさ、どうするんだ?」
住井の言葉で、咄嗟に我に戻る。
「車は……あるわね」
「という事は長森さんは走って出て行ったわけだね」
「折原が消えて、その行く先に心当たりがある様な節だった……」
七瀬と南の言葉に俺は、先程の長森の態度を思い返して答える。
「うーん……」
「下手に動くと通信手段が無いから二度手間になるしなぁ」
「長森さんでしたら、学校の方向へ走って行きましたよー」
俺達が軒先で悩んでいると、前に停まっていたレオパルドの上から、突如声がかかった。
「佐祐理さん?」
「はーい佐祐理ですよ。みなさんお揃いでどうしたんですか?」
「佐祐理さんこそ何してるんですか?」
「はい。佐祐理はこの子を洗って……あ、戦車を洗車って面白いと思いませんか?」
「そんな事より倉田先輩! 瑞佳は学校の方に向かったんですね?」
佐祐理さんの言葉を遮って七瀬が確認を取る。
「はい。佐祐理には気が付かなかった様子でしたけど……」
笑顔で応じる佐祐理さんだが、その表情の中には先の駄洒落を無視された事に対する不満が垣間見える。
「有り難う佐祐理さん! よっしみんな行くぞ!」
『応!』
「はぇ〜……事情は判りませんが、宜しかったら乗っていきませんか?」
そんな佐祐理さんの言葉に、一斉に走り始めようと俺達の動きがピタリと止まる。
「……お願いします」
俺の言葉に続いて皆が一斉に頭を下げた。
そして俺達は戦車に揺られながら、学校跡地へと向かった。
|
§ |
折原がみさきを迎えに来たのは日が傾きはじめた頃だ。
何時なのかは判らないが、とにかく夕方と呼べる時間帯だ。
もっとも、時計が意味を持たないこの世界では時間の概念はない。
「みさき〜折原君が来たわよ〜」
階下から呼ばれる声に目を覚ましたみさきは、急いで身繕いを済ませると一階へと向かう。
流石に住み慣れた家だけあって、その足取りは彼女が盲目である事を忘れさせる程に軽やかだ。
「あ、浩平君来てくれたんだね」
「ああ、約束だからな」
「あら? 二人でデートかしら?」
深山が悪戯っぽく言うと、二人は照れたように顔を紅くして慌てて否定する。
「ち、違いますって。何なら深山先輩も一緒に行きますか?」
「うん。雪ちゃんも一緒に行こうよ」
「何処に行くの?」
「学校の屋上だよ」
みさきがニコニコとしながら答えるが、逆に深山は溜息をつきながら「遠慮するわ」と答えた。
「えーっ?」
みさきが不本意そうな声を出す。
「掃除をサボったみさきを探しに行くみたいだから、何だか気が乗らないわ。良いから行ってきなさい。折原君、みさきをお願いね」
その言葉は友人に対する配慮も含まれているが、彼女の本心である事にかわりはない。
「ああ、任せてくれ。じゃ行くぞ先輩」
「うん。じゃ雪ちゃん行ってくるね」
「気を付けるのよ」
深山の見送りを受け、浩平がみさきの手を引いて出て行く。
夕日に延びる影を踏みしめながらゆっくりと歩く。
それでも二〜三言葉を交わす内に、彼らは学校跡地へとたどり着き、折原は慎重に目の前の池に浮かぶボートへとみさきを誘導した。
「おっし先輩、あと三歩で水だからな、気を付けて……よっと、揺れるぞ」
「わっ揺れるよ」
「ほら、ちゃんと捕まれって……よいしょっと」
「これで良いかな?」
「オッケーだ。よっし、それじゃ強襲揚陸艦オリハラ出航〜、目的地ジャブローだっ!」
かけ声と共にオールを手にして漕ぎ出す折原。
「ジャブローって何処?」
向いに座っているみさきが首を傾げる。 「漢が向かうべき地だ」
きっぱりと答える折原。
「ふーん。そこには何があるの?」
「そうだな……たぶん何でも有るんじゃないかな? 少なくとも託児所は有る」
「そうなんだ。ならレストランも有るよね?」
「ああ、南米料理が腹一杯食えると思うぞ」
「へー、南米料理ってどんなんだろう?」
「たぶんピラニアとかピラルクとかレッドテールキャットとかじゃないか」
「魚料理だね。美味しそうだよ〜。おっきいから食べ甲斐もありそうだよね?」
「……いや、オレとしてはいい加減ツッコミが欲しいところなんだが」
七瀬や香里、それに長森が居れば素晴らしいツッコミが炸裂するのだろうが、所詮ボケ役二人では期待できそうにない。
「うわー、水が気持ち良いね」
みさきはボートから出した手で水面に触れながら、笑顔で語りかける。
「ああ、先輩も泳ぐのは難しいかもしれないけど、水遊びくらい出来るんじゃないか?」
オールを動かしながら折原が答える。
「うーん。でも、やっぱり水は怖いかな」
「そっか。お、もう着くぞ」
「早いんだね」
「ああ、一生懸命漕いだからな……あ、ちょっと揺れるぞ。よっと」
答えながら先にボードから降りると、ロープでボートを固定する。
「じゃ先輩、手を……そう、ゆっくり立って……よっし」
「ふぅ。久しぶりの校舎だよ。ねぇ浩平君、ここは何処になるのかな?」
「うーん、ここは中央校舎の三階にあるバルコニーだ。多分三年の教室のものだと思うぞ。何処のクラスまでかは判らないが」
「へぇー三階なんだ」
「ああ、校舎は傾いてるからな。正門から見て右側は一階部分だけが浸水してるが、反対側は二階まで沈んでる」
「えーと端から何番目の教室?」
「二番目だ」
折原は校舎を改めて見て伝える。
「それじゃ佐祐理ちゃんや舞ちゃんのクラスだね」
「へー、流石だな」
折原が感心した様に答えると、みさきは彼の手を取って「それじゃ行こう」と元気良く言って、教室の中へと入って行く。
「足下気を付けろ? 以前と違って中は荒れ果ててるからな。穴だって空いてるぞ」
そう言うと、折原はみさきより先に歩くようにして先導を始める。
「そう言えば屋上まで競争とかしたよなぁ?」
屋上へ向かう廊下を進みながら、かつての世界を懐かしむかのように折原が言う。
「そうだね。私の二五勝三敗だよ」
「やっぱ、二階と三階じゃハンデ大きすぎるって」
「私は女の子だからそれで丁度良いんだよー」
思い出話をしながら、二人は夕日の射し込む廊下を歩いて行く。
ふと、折原は廊下の窓――既にガラスは無く窓枠だけだが――の外を見つめ、差し込む夕日に目を細める。
外の景色は夕日に溶け込んでよく見えないが、池の畔にあるみさき屋に祐一達のレオパルドらしきシルエットが見えた。
(相沢達かな?)
だが、そう考えたのは一瞬だった。
「浩平君どうかしたの?」
みさきの声で視線を戻す。
どうも折原の歩行速度が、ほんの数歩だけ遅くなった事に、みさきが気が付いた様だ。
「いや……夕日が眩しくてな。さ、早く行こうぜ」
「うん」
答えながら、みさきは繋いだ手の力をほんの少しだけ強くした。
階段を登り、冬場は祐一達の食事場所となっている踊り場を抜け、錆びた扉を開ける。
”ギィ〜ッ”
きしませながら扉が開くと、二人は屋上へ出た。
扉の音と人の気配に驚いたのだろう。屋上で羽を休めていたカモメ達が一斉に飛び立つと、屋上の上にある貯水塔へ逃れて行く。
屋上の半ばまで進むと、みさきは折原の手を解き慣れた足取りで屋上を進む。
やがて手を伸ばして、自分がフェンス脇まで辿り着いた事を確認すると歩みを止めた。
横合いから強い日差しが差し込んでいる事は、その日差しに含まれる熱によって、目が見えないみさきにも感じ取れている。
それだけ強烈な夕日なのだろう。
「すごい夕焼けだね?」
だから、みさきはまるで自分が見たかの様にそっと呟く。
「ああ今日もすごい夕焼けだぞ」
屋上の中央に立った折原が、夕日に目を細めて答える。
「ねぇ、今日の夕焼けは何点?」
フェンスに手をかけ、見えない目で変わり果てた世界を眺めながら、みさきは尋ねた。
「うーん、九四点ってところかな?」
「高得点だけど、随分中途半端なんだね?」
「ああ、単純に夕焼けだけなら、ここ最近の物と比べて少し劣るから八四点。でも今日は先輩と観る久しぶりの夕焼けだからな。十点おまけして九四点だ」
「くすっ。有り難う浩平君」
みさきは笑顔で声のした方へと振り向き答える。
「なんの」
夕日に照らし出された表情に、折原も笑顔で答えてその傍らへと進む。
「ねぇ」
「なぁ」
声が重なり二人が苦笑する。
「浩平君からどうぞ?」
「いや、オレのは単なる下らない話だから、先輩が先に言ってくれ」
「そう? それじゃ……」
みさきはそこで一旦区切って、すこし深呼吸をする。
「今日はありがとう」
「なんの」
「久しぶりにここに来られて嬉しかったよ。本当のことを言うとね、この場所に自由に来られなくなった事がちょっと不満だったんだ。だからとっても嬉しいよ」
「そっか。オレも久しぶりに先輩とこの場所に来られて嬉しいぜ」
「最初に会った時の事覚えてる?」
「ああ確か、オレが哲学書を読もうと屋上に来たら、そこには電波を受信している妖しい女生徒が……」
「うーっ違うよー。わたし電波なんか受信してないよー」
「冗談だ。えーと、お互いに掃除当番をサボりに来たらばったり出会ったんだよな?」
「違うよー。サボったのは浩平君だけだよ」
「嘘言うな! 深山先輩が血眼になって探しに来て散々追及され、オレの素晴らしいアドリブで誤魔化したんじゃないか」
「”屋上から飛び降りた”何て、どう聞いたって嘘っぽいよー」
「ははっ、そうか?」
「うん。ふふっ」 二人はその時の情景を思い浮かべ、声を揃えて笑った。
「ねぇ浩平君」
ひとしきり笑うと、みさきの表情が少し真面目なものになり折原の名を呼ぶ。
「前に……ほら、みんなで夜の学校を探検したよね?」
「随分前の出来事に思えるな」
「あの時、わたし言ったよね。『いつまでも閉じこもってたらいけない』って」
「ああ」
「わたしにとって、この学校は繭。蝶になるには、ここを出て行かなければならないんだよ」
「……」
「外の世界は怖いよ。人に誘導されていても、歩く事だって怖いんだよ。それでも雪ちゃんや浩平君やみんなに支えられて、少し自信が付いたんだ。だからね、私この学校を卒業したら、もっと外の世界に出て行くんだって決めたの」
「先輩は凄い……いや、強いな」
「そんな事ないよ、わたしはみんなの支えがあって、何とか生きて行けるんだよ。わたしってこんなだから、周りにいる人に何時も迷惑かけてるでしょ? でもいつまでも優しさに溺れちゃいけないと思うんだ」
「別に構わないだろう?」
「そうかな?」
「深山先輩にしたって、オレだって特にその事を嫌だと思ったことはないぞ」
「有り難う。でも少しでも自分で出来ること、自分に出来ることを探していこうって思ってるんだ」
「そっか」
「うん。でも、浩平君に会う前は、わたしそんな気持ちになれなかったんだ。だから浩平君が私に外に出る勇気をくれたんだよ」
「オレが? 大した事していないと思うが……」
「ううん。浩平君が気付いてないだけだよ。わたしは浩平君の言葉や行動に、いっぱい勇気付けられたんだ」
「ただ馬鹿をやっていただけだろ?」
「クスッ。そうかも知れないけど、生きる楽しさを教えてくれたのは本当だよ。それに私に分け隔てなく普通に接してくれた男の子も、浩平君が初めてだったから……だから、わたしは浩平君と出会えたこの学校が大好き」
「そうか。実を言うとオレもこの学校は結構気に入ってるぞ」
「うん。いつまでもこの学校に居たい……ってすーっと思ってたよ。時が止まって、雪ちゃんや浩平君と同じ学校で楽しく過ごせたら良いなって……」
「ん? 過去形なんだな?」
「えーとね。当然今でも学校は好きだよ。だからこうして同じ様な毎日を過ごせるのは、わたしにとって夢の様な事……でもね」
そう言って片方の手をフェンスに伸ばし、指を立てて表面を撫でる。
その動作はまるで学校の存在を確かめる様だ。
「宿題とか苦手な授業とか……それに苦手な人や先生も居たけど、そういうのも引っくるめて、私の好きな学校なんだと思うんだ。
確かに校舎は同じみたいだけど、今のこの世界にある学校はただ建物が同じだけ。ただの抜け殻だよ」
「中身のない?」
「うん。中身はみんな何処かに行っちゃったんだね。だからこの世界でどれだけ楽しく過ごせても、からっぽの学校じゃいつまで経っても、わたしは自分自身に卒業できないままなんだよ」
「……」
折原はみさきの言葉に、何かを考える様に目を伏せる。
「今の世界は、そうだね……昔の私、浩平君と出会う前の私の理想に近いかな?」
変わらない世界。
終わらない時間。
不変の世界の変わらない日常。
「えいえんの世界……か」
とても小さな声で呟く折原の頭の中に、絶望に満ちた幼き日に夢見て望んだ世界が思い浮かんだ。
顔を上げて空を見上げると、吸い込まれそうな夕陽に目眩を覚える。
あの絶望に満ちていた時を折原は決して忘れてはいない。
彼の家は、両親と兄妹――四人家族のごく普通の家庭だった。
だが、三人目の子供が流産となった頃から、折原家の普通が狂い始めた。
流産そのものに関しては、まだ子供だった折原浩平や妹の折原みさおにとっては、実感の湧かない出来事だったものの、両親にとって――とくに母親にとっては大きな悲劇だった。
そして追い打ちをかけるように、父親が事故で亡くなった。
それでも母親は悲しみに耐えて、残された子供達の為に一生懸命働いた。
折原も唯一の妹を大切にし、幼いながらも妹にとって良き兄であるように務めた。
だがその妹も、生来の病弱な身体が祟り入退院を繰り返し、やがて医者から「処置無し」の判断が伝えられると、母親の精神は遂に崩壊してしまった。
三度目の悲劇が近づく中、度重なる不幸に何かの呪いを感じた母親は、悲しい現実に目を背けて怪しげな宗教にその身を投じ、娘の死を看取る事なく行方不明となった。
父親の事故死、母親の失踪、そして大切な妹が苦しい闘病生活の末に天に召されると、独り残された幼い少年の心も壊れてしまった。
母方の伯母――由起子に引き取られた折原が、学校にも行かずに部屋で一人籠もりっぱなしになったのも、彼を襲った災厄を考えれば仕方がなかっただろう。
そんな折原を救ったのが、伯母の家の隣人である長森家の長女――瑞佳だった。
(あの時――そう、瑞佳が俺が閉じこもった殻を打ち砕いて救いの手をさしのべてくれた時、俺はえいえんを求めて、あいつと盟約を結んだ)
悲しみや苦しみのない世界。
不変、不滅の世界。
終わらない世界。
即ち――えいえんの世界。
「ねぇ浩平君?」
折原はみさきの声で我に返る。
「外の世界にも楽しいことがある。辛いことばかりじゃないって判ったから。わたしは大丈夫」
そう言って折原の方へと振り向き、笑顔を見せる。
「わたしにその事に気づかせてくれた浩平君に、とても感謝してるんだ」
みさきの言葉は、そのまま長森に対する折原の言葉でもあった。
「オレは……さっきも言ったが何もしてない。全ては先輩自身の強さだよ」
「ううん。もしそうだとしても、わたしの心の原動力は浩平君だよ」
そしてフェンスから手を離すと、ゆっくり屋上を歩き始めた。
折原は黙ってみさきの横に付いて、歩調を合わせる。
「いつか……外の世界も、こうして自由に歩ければ良いね」
慣れた足取りで屋上を歩くみさきが、ニッコリと微笑む。
「先輩が望めば、いつだって好きな場所へ連れて行くぞ?」
「本当に良いの?」
折原の言葉に、みさきは歩を止めて表情を真剣なものにして尋ねた。
「ああ、先輩は大事な……友達だからな」
「そっか……そうだよね。……わっ」
僅か間を置いて再び歩き出したみさきが、足下の段差に躓き姿勢を崩す。
すぐ隣を歩いていた折原が、咄嗟に彼女の身体を受け止めた。
丁度、折原の身体に身体を預けるような形になり、夕陽を受けて屋上に延びていた二人の影が重なる。
「先輩大丈夫か? 言ったろ。今の校舎は前とは違うんだぜ、あちこちガタきてるから気を付けなきゃ……先輩?」
みさきは答えず、軽く握った状態の両手を折原の胸の前に置き、その狭間に頬を埋めている。
そして折原の両腕はみさきの背中と腰にそれぞれ延びて彼女の身体を支えている。
「……わたしね、昔好きな人が居たの」
「え?」
突然の告白に折原が少し驚く。
「その人、同じクラスの男の子だったんだ。当然顔とか容姿とかは判らなかったけど、わたしに親切にしてくれたんだよ。だからちょっと思い上がっちゃって、言っちゃたんだ」
「告白したのか?」
「うん。『好きだよ』って。……でも迷惑だったみたい」
力無く笑ってみさきは続ける。
「そうだよね。わたしみたいな子と付き合えば、それだけその人を縛り付ける事になるもんね。だから、わたしはもう人を好きにならない……って決めてたんだ」
「それも過去形か?」
「うん。でも私は前向きに進む事を決めたから……普通の女の子と変わりないから……だから後悔しない為にも、前に進むんだよ」
校舎の貯水塔からカモメが一羽飛び立ち、泣き声を上げて宙を舞う。
暫く二人とも黙ったまま時が流れる。
「浩平君……わたしね……」
やがて、みさきが折原の胸に顔を埋めたまま口を開く。
「だから……その……わたし……浩平君の事がす」
「あーっ浩平見つけたよ!」
二人の後方から別の者の声が割り込むように響き渡り、みさきの言葉をかき消した。
その声に驚いたのか、貯水塔に居た残りのカモメ達が一斉に羽ばたき、茜色の空に散らばった。
|
§ |
途中で追いついて合流した長森と共に、俺達はみさき屋に居た深山先輩からの情報を得て学校の屋上へと向かった。
”バサバサバサッ”
屋上の扉を開くと、軋む音に次いでカモメ達がの羽ばたく音が聞こえて来た。
「あーっ浩平見つけたよ!」
先頭を進んでいた長森が、屋上に入るなり目標を発見したらしく大声を上げる。
「みんなに迷惑かけたら駄目なん……だよ……」
が、その声は尻窄みに小さくなっていった。
「んげっ!」
「えっ?」
次いで折原と川名先輩の声。
俺達が出入り口で立ち止まったままの長森の背中から顔を覗かせると、夕陽を背に抱き合った折原と川名先輩の姿が目に飛び込んできた。
うおっ、これぞまさに青春スキャンダル! 幼き日に見たビデオゲームの画面が俺の脳裏に蘇る。
こちらを振り返ったまま完全に動作停止――フリーズを起こしている折原。
屋上への出入り口で立ち竦み、微動だにしない長森。
二人が機能停止時間はほんの一瞬だった。
「み、瑞佳!」
予想外の来訪者に驚いた折原が、慌てて腕を放し後ずさると、身体を半ば預ける形になっていた川名先輩は、突然その支えを失いよろめいた。
「わっ」
目の見えない川名先輩はバランスを崩し、何とか体勢を立て直そうと手足を折原の居た方向へと伸ばすが、当の折原自身が姿勢を崩している途中であった事で、二人の足は交錯しもつれ込んでしまう。
なおも体勢を整えようと咄嗟に伸ばした川名先輩の腕は虚しく空を切り、そのまま折原と共に屋上の床に倒れ込んだ。
”ゴチン!”
「痛っ!」
「いたいよー」
お互いの額が強めに当たり、声を漏らす二人。
そして――
そのまま互いが頭を動かした所為で二人の唇が軽く触れ合った。
「うおっ!」
「あっ!」
「うわっ!」
「ふぇ」
「ぐぉっ!」
「あぁ〜」
「わぁ」
その瞬間を目撃した皆が、短く声を上げる。
「あ……」
「わ……」
当事者二人が、自分たちが何をしてしまったのかを理解すると、気まずそうに声を揃え呟く。
そして時は完全に固まった。
誰もが一言も声を出せずにいた。
俺としては、今朝の恨みを晴らすべく何か行動を起こしたかったのだが、何故か声を上げる事は出来なかった。
横にいる佐祐理さんも、笑顔をひきつらせたまま固まっている。
普段なら鉄拳制裁とばかりに飛び出す七瀬も、顔を少し赤らめたまま黙り込んでいる。
あの住井や北川ですら、冷やかしや煽り文句の類を言うことは無く、南に至っては目を閉じて両耳を塞いでしまっている。
その理由は目の前で微動だにしない長森にあった。
当然表情は伺えないが、目の前の背中から”ゴゴゴゴゴゴゴゴ……”という効果音が地鳴りと共に聞こえてくる様だ。
「あのー……ひょっとして瑞佳ちゃん、誤解してますのん?」
沈黙を破り折原が口を開くが、中途半端なボケが空回っている上に、お互いが抱き合ったままの姿では残念だが説得力に欠ける。
「えーと……」
川名先輩が片手でおでこをさすり、もう片方で唇を押さえながら上半身を起こす。
額が少し赤く腫れている様だが、それとは別の理由で頬も赤くなっている。
「あのー……長森サン?」
折原の言葉には答えずに、長森がゆっくりと無言のまま俯き加減で折原達の所へと歩き出す。
茜色に輝く世界で、俺達は固まったまま彼女の行動を注視する。
皆が固唾をのんで見守る中、長森は二人のすぐ横に辿り着いた。
「……瑞佳?」
「瑞佳ちゃん、ごめ……」
折原とみさきが声を絞り出した途端、長森は顔を上げた。
「駄目だよ浩平……ちゃんと川名先輩支えてあげなきゃ」
長森の口から出た言葉は、意外にも川名先輩を思いやる言葉だった。
「あ、ああ……悪いな先輩。大丈夫か?」
「え、う、うん。大丈夫」
「はい、先輩掴まって下さい」
そう言って手を伸ばして、川名先輩の手を取って引き起こす。
「瑞佳ちゃん……有り難う」
「ほら、浩平も」
「あ、ああ」
川名先輩を起こし、今度は折原に手を差し出す長森。
手を掴んだ折原は、長森の助力を受けて立ち上がる。
「……えーと」
「……それじゃ、夕日も観たし帰るか?」
川名先輩は顔を赤らめたまま俯き、折原は少々狼狽え気味だ。
「そ、そうだな。折原も見つかった事だし帰って飯にしようぜ?」
北川が場を取り繕うかのように慌てて発言する。
「あ、ああ、みんな待ってるだろうしな」
「賛成!」
「異議なし!」
「そうよね」
「帰ろう!」
皆も居心地の悪さに耐えられなかったのだろう、俺の言葉に続いて一も二もなく北川の提案に賛同する。
「そうだね。じゃ浩平帰ろ。ほら、ちゃんと川名先輩を先導してあげなきゃ駄目だよ?」
長森は笑顔で答えると、折原の手を川名先輩の手に重ねる。
「お、おう。んじゃ、帰るぜ先輩」
「う……うん」
川名先輩が頷くのを確認して、俺達は屋上を後にした。
帰りのボートの上に居た時間は苦痛以外の何ものでもなかった。
僅か数分の時間が、まるで長時間の精神的な拷問にも等しく思え、早く辿り着くようにと俺達は黙々とオールを漕いだ。
川名先輩とみさき屋で別れると、俺達は全員でレオパルドに乗って水瀬家へと戻ったのだが……
折原と長森が上に乗ったままなので、他の誰もが車内に入る事を望んだ。
中に入ってしまえば外部の音は何も聞こえなくなるからだ。
皆が我先にと乗り込み瞬く間に定員となる。
出遅れた俺だけを残してハッチは閉められた。
閉まる間際に、佐祐理さんの心配そうな声が聞こえた事が、俺への慰めとなった。
そして今、俺は問題の二人と共に風を受けながら戦車に揺られている。
車体後部に座っている為、レオパルドのけたたましいディーゼルエンジンの音と、無限軌道の振動で乗り心地は最悪だ。
折原と長森の二人と一緒に居ることで、居心地は更に劣悪と言える。
何とかしてこの場を和ませようと思ったが、何をどうして良いのか皆目見当もつかない。
脂汗を流しながら状況打破の方法を考えていた時、それまで黙っていた長森が口を開いた。
「ねぇ浩平」
「何だ?」
折原の口調は意外と落ち着いていた。
「わたしは別に気にしてないよ」
「……」
「本当だよ。全然気にしてないから……」
「思い切り気にしてるってーの!」
「だってさ……」
「悪かった。でもマジで俺達は以前と同じように夕焼けについて語ってただけだぞ」
「うん……信じてるけど。でも本当にびっくりしたんだよ? いきなり抱き合ってるんだもん……」
「ありゃ事故だぞ?」
「キスしたもん……」
「あれも事故だっ! 見てただろう?!」
「でもしたもん! 浩平は嬉しそうだったもん!」
「そりゃ事故とは言え、嬉しくないと言えば嘘になるが……いや、ジョークだ」
折原、それ自爆だぞ。
言い争ってはいるが、どうも二人の会話が普段の雰囲気になってきた。
言うなれば軽い痴話喧嘩だな。
戦車に揺られながら、二人のやり取りを眺めながら俺は胸をなで下ろした。
「……で、昼間に先輩と話した時、何か寂しそうだったからさ、前みたいに一緒に夕焼け見ないか? って誘ったんだよ。そしたらさ、先輩何か悩みがあるみたいで色々聞いてたんだ」
「そうだったんだ」
「ああ、何でも好きな人が居るらしいぜ? う〜ん青春だよな」
「へ?」
「あ?」
折原の言葉に俺と長森が揃って素っ頓狂な声をあげる。
「折原……お前、それ本気で言ってるのか? ネタじゃないのか?」
状況も忘れて俺は口を挟んだ。
「失礼な奴だな。オレはいつだって本気だぞ」
「はぁ〜……そうだよね。浩平はいつだって本気だよね。だから変な事だって一生懸命なんだもんね」
折原の言葉に深〜い溜め息を付く長森は、半ば呆れ、もう半分は関心しているかのような口調だ。
「ちょっと引っかかるが、まぁそうだな。うん」
笑顔で頷いてるよこの男……大丈夫か?
鈍感も此処までくれば大したものだが、これじゃ川名先輩が可愛そうだよな。
俺がふと長森さんを見ると、彼女も俺と視線を合わせて呆れた様な表情を返して見せた。
そして苦笑混じりに言う。
「はぁ〜何だか川名先輩に同情しちゃうよ〜」
「何だ、瑞佳にも好きな男が居て悩んでるのか?」
コイツは底なしの馬鹿か? ――俺は心の中で呟いた。
折原がこっちを見て睨んでいる。
ひょっとしたらいつもの癖が出て声に出していたかも知れないが、まぁ良いだろう。事実だし。
「はぁ〜……でも有る意味そうかもよ? だって、わたしの悩みは好きな浩平が馬鹿でしょうがないなぁ〜って事だもん」
「ば、馬鹿とは何だ! それから人前で恥ずかしい事を言うんじゃないっ!」
「だって本当なんだもん。浩平はわたしの事……好きじゃないの?」
「な、何を言ってらっしゃいますか! 何考えてるんだっ」
二人は顔を真っ赤にしてうつむき加減に言い争い始めた。
何ですか? この状況は? ひょっとして俺、惚気られてる?
俺の意識が混濁する間も、二人を包む雰囲気は明らかに変わりつつあった。
「もうーっ、わたしの頭の中、見せられる物なら見せてあげたいくらいだよ」
「何だよそりゃ」
「わたしの頭の中はね……いつも浩平の事で一杯なんだよ。”今何処にいるのかな?”とか”今何してるのかな?”とか、”ちゃんとハンカチちり紙持ってるかな?”とか……いつだって考えてるんだよ」
「う、嬉しい事は嬉しいが、がちょっと心配しすぎの様な気がするぞ。オレは小学生じゃないんだから、ハンカチだの心配せんでいい!」
「だって心配なんだもん……」
(あのー……)
俺は二人とは反対方向を向いて座り込んでいたが、背中越しに二人の会話は聞こえていた。
二人が発するラヴ時空に巻き込まれ、俺は痒くなった首筋を掻きむしる。
その後も止まない二人の会話に耐えられなくなった俺は、両耳を塞ぎ水瀬家に着くのをひたすら待ち続けた。
結局、水瀬家に着く頃には、すっかりいつもの二人に戻っていた。
レオパルドの車内から恐る恐る出てきた皆が面食らった程の変わり様だ。
二人の間に流れる信頼関係や絆は、俺達が思う以上に強く深いのだろう。
何となく羨ましさを覚えながら、並んで水瀬家へと入って行く二人の背中を見送った。
俺達が戻り、全員で普段よりちょっと遅めの食事を摂る。
騒がしい夕食――ニャーコという新たな居候が増えた以外は、いつもと変わらぬ夜だった。
そして夜が明ければ、朝が来て新しい一日が始まる。
それはもはや馴染みとなった日常の始まり。
しかし、俺達が迎えた新しい一日は、水瀬家に息を切らせてやって来た深山先輩の一言で瓦解した。
「みさきが消えたのっ!」
――俺の頭の中で何かが警告を発した。
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