――川名先輩の姿が消えた。
 深山先輩よりもたらされたその報告は、この楽園的箱庭での生活が日常化していた俺達に取って計り知れない衝撃であり、いつもの水瀬家の騒々しいまでに賑やかな朝食風景は一変して騒然となった。
 数日前の真琴迷子騒ぎの時同様に、俺達は捜索チームを組織し、郁未先生にも協力を仰ぎそれこそ全員でもって街中をくまなく調べることにしたが、結局半日経っても彼女の姿を見つけることは叶わなかった。








■第20話「急転直下」









「はぁ〜」
 こんなふうに溜め息を付くのも、今日で何回目だろうか。
 時計が無いので正確な時間は判らないが、日の傾き具合から言って、正午を幾らか過ぎた頃だろう。
 少し遅めの昼食を終えて俺はレオパルドから飛び降りると、その勢いのまま数歩進む。
 頭を掻きむしりながら、俺は乾いた大地に身体を横たえ、大の字になって天を仰ぐ。
 昨日までと同じように照りつける太陽と流れる雲、そして柔らかな風。
「祐一さん」
「祐一元気出す」
 そしてそんな俺を心配してくれる二人。
 何も変わらない物がある一方で、俺達を取り巻く状況は明らかに変化しつつある。
「ああ、俺は大丈夫だ」
 心配させない様、努めて笑顔で答えると、レオパルドの上に敷かれたレジャーマットに座って食後のお茶を飲んでいた二人は、少し安心した様に笑顔を見せてくれた。
 「はぁ〜」
 もう一度、しかし先程のものと比べて小さく溜め息をついていると、横合いから砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
「ん、誰だ?」
 上半身を起こして声を掛ける。
「相沢君。ちょっと良いかしら?」
 現れたのは栞や北川と一緒に捜索に出ていた香里だった。
「香里か……栞と北川はどうした?」
 地面にあぐらをかくように座って尋ねると、香里は俺の傍にある瓦礫に寄りかかるようにして口を開いた。
「栞がちょっとね……具合が悪くなったから一旦家に戻って休ませてきたわ」
「大丈夫なのか?」
「ええ、ただの疲労みたい。今は名雪の部屋で休ませてるから大丈夫。あたしは少し残って栞の看病してたんだけど、その間に北川君は住井君達と合流して一緒に捜索している筈よ」
「そうか……で、何だ?」
 俺は頭を掻きながら香里に尋ねる。
「栞の看病している傍らで考えて……それでちょっと気が付いたんだけど、今回の川名先輩の失踪……どう思う?」
 香里の問いかけに、俺は頭を掻いていた手を停めて彼女の顔を見つめ直し答えた。
「どう思うって……とにかく今は彼女を捜す事が先決だろ? 川名先輩は目が見えないんだぜ、単に迷子に……いや、もしも外壁の外に転落でもしようものなら」
「だからよ。川名先輩は目が見えない。だからこの世界では、元の自分の家だったあの食堂の中以外、決して自分一人では出歩かなかったわ。なのに何故急に居なくなるの?」
「それは……誰かに呼び出されたとか?」
「誰もみさき屋には行って無いし、部長も誰も尋ねて来なかったって言っていたわ。それに郁未先生以外の人はみんな名雪の家に居るのよ。電話とか有れば話は別だけど、通信手段の無いこの世界で呼び出しはあり得ないわよ」
「じゃぁ何か用事が出来たとか?」
「一人で出掛ける用事なんてあるかしら? 以前の世界なら時々姿を消す事は合っても、この世界でそうする事が自殺行為だという事は川名先輩自身も知っているはずよ」
 確かに香里の言うとおりだ。
 この世界において川名先輩が一人で出歩く必然性は全く無い。
「それに川名先輩と深山部長は二階の同じ部屋に寝ていて、今日は先に起きた部長が隣で寝ていた川名先輩の姿を確認しているわ。だから、その後で部長が川名先輩を起こしにもう一度二階に上がるまでの僅かな時間に消えた事になるのよ」
「その間に自発的に起床して一階に降りて……それで何らかの理由が出来て外に出たという可能性は?」
「部長は起きてからずーっと厨房に居たって言っていたわ。階段は厨房に面した場所にあるから、川名先輩が二階から降りてくれば気が付かないはずないわね」
 俺は香里の言葉に、手を顎に添えて考える。
「……それじゃどうやって居なくなったんだよ? 香里、お前何か知ってるのか?」
「いえ何も知らないわ。ただ判るのは、川名先輩は迷子とか失踪じゃなくて消えた……ううん、消されたって事よ」
「何だよ、それじゃまるで久瀬と同じ……!?」
 そこまで言って俺はハッとして香里の顔を見据える。
「もし川名先輩が久瀬先輩と同じ様に消えていたとしたら……」
「まさかっ!?」
 俺は香里の言葉も最後まで聞かずに走り始めていた。
「舞、佐祐理さんっ行くぞ!」
 声を上げ走って戻ると、レオパルドに飛び乗った。
「どうしたんですか?」
 レジャーマットを畳み、昼食の後片づけをしていた佐祐理さんが少し驚いている。
 余程俺が凄い形相をしていたのだろう。
「相沢君待って、a
たしも」
 俺の後を追って走ってきた香里に手を貸し、彼女をレオパルドへと乗せる。
「舞! 久瀬や里村達の石像のあるポイントへ向かってくれっ!」
 ハッチの中に頭を突っ込むと、既に運転席へ座り出発の準備に入っていた舞へ向かって叫ぶ。
「……判った」
 舞の返事が聞こえた後、すぐにレオパルドは勢い良く走り出す。
 香里が髪の毛を手で押さえながら、砲塔に寄り掛かるように立っていた俺の横へやってくると、重苦しい表情で話しかけてきた。
「相沢君、忘れてないわよね? あたし達はこの世界に自らの意志で居る訳じゃないのよ」
「自然現象で無い以上、第三者の存在が関与しているってことだろ?」
「ええ、何者かがこの世界を創り、あたし達を誘ったのは間違いないわ。でもその意味するところは今のあたし達には判らない」
「そうですね。それこそ当人に会って問いたださなければ、その意味は分からないですよね」
 香里の言葉に、佐祐理さんが続ける。
「ええその通りです。でも、何か必然性が有るからこそ、私達はこの世界に居るはずです」
「それなら……消えた人はこの世界に居る必然性が無くなったて事になりますよね?」
 再び佐祐理さんが思いついた疑問を口にする。
「あたしはそう思います。不必要だと思われ、世界から退場した者がどういう末路を迎えるのかは、あたし達がヘリから見た通りね」
「罰を犯した者へのペナルティだとでも言うのか? ああして石像になって文字通り人柱になってこの世界を支える事が? じゃ川名先輩はどんな罪を犯したっていうんだ?」
 香里の言葉に俺も思わず声を荒げる。
「でも、消えた人は他にもいっぱい居ますよね。全員が石像になっていないのは何故でしょう?」
「それは、あたしにも判りません」
「うーん……」
 佐祐理さんの言葉に俺達が揃って悩んでいると、横合いからクラクションの音が聞こえてきた。
 見れば折原と長森、そして郁未先生の乗ったボンゴがいつの間にかレオパルドの横を併走している。
「相沢っ! みさき先輩は見つかったか?」
 折原がボンゴの助手席から身を乗り出し、大声で尋ねてくる。
「わっ浩平危ないよ〜」
 中央に座っていた長森は心配そうに折原の身体を支えていた。
「良いところに来た。今から確かめたい事があるから付き合え! 郁未先生〜っ付いて来てくださーい!」
 レオパルドの上から手振りも添えながら大声で伝えると、郁未先生は了解の合図替わりにクラクションを二度続けて鳴らした。

 俺達が揃って目的地へと辿り着くと、以前同様にレオパルドのウインチを使用して外壁の外側から地面の下を調査する事にした。
 志願した折原によって川名先輩の変わり果てた姿が確認されたのは、その後すぐだった。
『みさき先輩っ! 先ぱーいっ!』
 インカムから聞こえてくるノイズ混じりの折原の悲鳴にも似た呼び声が、周囲に居る者達の心に重くのし掛かった。





§






 川名先輩の石像が見つかった事で、捜索活動は一端打ち切られる事となった。
 信号弾替わりの花火が打ち上げられると、各地に散って捜索活動に従事していた皆が水瀬家へと戻ってきたが、合図を『川名先輩の保護による捜索終了』と思って安堵の思いで帰ってきた者達は、石像となっていた事を知ると一様に表情を曇らせた。
 深山先輩に至ってはその場で意識を失ってしまった程だった。

 捜索が打ち切られたのはまだ日中であったが、流石に誰も陽気に遊ぶ気にはなれなかった様で、家の中はいつになく静かだ。
 舞と七瀬は気を紛らわせる為か、水瀬家の前の空き地で木刀を打ち合い始め、住井、北川、南の三人は屋根の上に登って寝そべりながら、そんな彼女たちの姿をヤジも飛ばさず、ただぼんやりと眺めている。
 真琴は最初状況が掴めて居なかった様子だが、秋子さんの説明を聞いて泣き出してしまった。
 仲良くなった者が消えるという状況を理解し、精神がそのストレスに耐えられなくなったのだろう。
 暫く秋子さんの胸で泣いた後、やはり落ち込みの激しい澪と一緒に部屋に籠もっている。
 心配ではあるが、ニャーコが一緒にいるので寂しさは幾らか和らぐだろう。
 そして、折原は目に見えて落ち込みが激しく、そんな折原を心配そうに慰める長森の姿が見ていて辛かった。
 俺と佐祐理さんと郁未先生の三名は、インプレッサに乗って今一度みさき屋を訪れ、川名先輩の消えた部屋を色々と調べたが、手がかりになるような物は何一つ見つからなかった。
 結局、みさき先輩が石像になった事以外、この世界は全く変わっていなかった。

 日が傾き夕方になると俺達は水瀬家に戻る。
 インプレッサを水瀬家の前に停車させエンジンを切ると、向かいの空き地からは”カツンカツン”と木刀の打ち合う音が聞こえて来た。
「あいつらまだやってるのか?」
「はぇー、舞も七瀬さんも凄いですね」
「ああ、ずーっとやってるぞ」
 俺の独り言だった問い掛けに、頭の上から答えが返ってきた。
「なんだ住井、お前等もずーっと見てたのか?」
「まぁな、他にすることも無いし」
「よ〜う、お帰り」
「何か収穫は有ったかい?」
 住井に続いて北川と南も手を挙げて俺達に声をかけてきた。
「残念だが……」
 俺は視線を戻して首を振り短く答えて、水瀬家の玄関をくぐった。
 佐祐理さんと郁未先生も俺の後に続いて家へ上がる。
 リビングには、秋子と疲れたのかソファーにもたれかかるように名雪が寝息を立てている姿があるだけで、普段とは異なり閑散としていた。
「ただいま。戻りました」
「お帰りなさい祐一さん、佐祐理さんに郁未さんも疲れたでしょ?」
「はい少し。あの……他のみんなは?」
「真琴と澪ちゃんは二階の部屋で寝てますよ。深山さんは私の部屋で寝かせてあります」
「そうですか……あれ? そう言えば折原と長森の姿が見えないな」
 リビングを今一度見回して呟くと――
「折原君ならどっかに出掛けたおー、瑞佳はそれを追っていったんだおー」
 名雪が器用に眠りながら俺の呟きに答えてくれた。
 流石は眠りのプロフェッショナルだ。
「折原君……随分ショックを受けてるみたいね」
 郁未先生の言葉に、俺と佐祐理さんが無言で頷く。
「まぁ長森が付いてるなら大丈夫だと思うが……」
「でも、みんな集まっていた方が良くないですか? こんな事が有ったばかりですし」
 佐祐理さんの言葉に郁未先生が頷く。
「そうね、今日から私も此処でご厄介になるわ。済みませんが、秋子さんよろしくお願いします」
「はい、遠慮しないで下さいね」
 秋子さんがいつもの笑顔で答えると、丁度リビングの扉が開き舞と七瀬、そして住井達が入ってきた。
「はぁ〜疲れたわ」
 七瀬は首に巻いたタオルで汗を拭きながらリビングのソファーに腰を降ろす。
 その振動で名雪の姿勢が一瞬崩れそうになるが、自分の粗暴な行動に気が付いた七瀬が慌てて名雪の身体を支える。
「舞ーお疲れ」
「……ん」
 佐祐理さんの言葉に小さく頷く舞は、肩で呼吸している七瀬とは対照的に、いつもと変わらぬ様子だ。
「あれ? 折原と長森さんまだ帰ってこないんだな」
「川名先輩と仲良かったからね……いつも気にかけてたし」
 住井と南が辺りを見回して俺と同じ事を言う。
「その分落ち込み方も激しいか……こういう時こそ友人としての真価が問われるぜ!」
「北川も偶にはまともな事を言うんだな」
「何を言う相沢。オレはいつだってマジだぞ!」
 俺はまた、ついつい本音を口にしてしまった様だ。まぁ相手は北川だし、言った事も事実なわけで問題はないだろう。
「ま〜そうだな。北川のおちゃらけな性格と、単純明瞭な頭はこういう時役立つ」
「なぁ住井、それって誉め言葉か?」
 俺達に川名先輩を元通りにする事が出来るかは判らないが、少なくとも住井や北川達のお陰で、ムードと気分が幾らか軽くなった気がする。
「ふふっ、それじゃ少しでも皆さんが元気になれるよう、美味しい物を作りましょうね」
 秋子さんの言葉に野郎共が歓喜の声を上げる。
 それは重い雰囲気を払拭する為の演技だったかも知れないが、少しでも明るく振る舞う事が今の俺達には大切だ。
「あ……」
 大げさに喜ぶ俺達を見て、秋子さんが少し困った表情で呟く。
「どうしたんですか?」
「済みません。そう言えば夕食の材料が足りなかったんです」
 俺の質問に申し訳なさそうに答える秋子さん。
 豪華な夕食に期待していた野郎共――舞もだな――が目に見えて落胆する。
「それならあたしが買い物に行ってきます」
「あ、お姉ちゃんが行くなら私も行きます」
 買い物に名乗りを上げたのは、丁度リビングに入ってきた香里と栞だった。
 どうやら栞は体調を取り戻したらしい。
「あらあら、良いんですか?」
「ええ。最近は部屋に閉じこもる事が多かったですし、夕飯の支度も手伝わなくなってましたので……せめて買い物くらいは手伝わせて頂きます」
「それじゃお願いしますね。何でも結構ですので、適当に見繕って来てください」
「はい」
「はーい、アイスも買ってきて良いですか?」
 栞の言葉に頷く秋子さん。
「美坂っ! 女の子だけじゃ危険かも知れない。オレが付いて行くぜ」
 北川が身を乗り出して叫ぶ。
「そう? 有り難う。それじゃお言葉に甘えるわ」
「な、何故だ〜美坂……ってあれ?」
 香里の返答に驚く北川。どうやら奴自身断られると思っていた様だ。
「だからお願いするわ。付いて来てくれるんでしょ?」
「お、おう……任せてくれ! この北川潤、例え身体が細胞一個になろうとも、最期の瞬間まで香里の盾となる事を誓おう!」
「そんな細胞単位で徹底抗戦させなくてもいいわよ。それじゃ行きましょう?」
「行ってきます〜」
 苦笑交じりで答える香里と、笑顔の栞がリビングを出て行き、慌てて北川が追いかけていった。
「よっし任せろ! 頭の上にはアンテナ〜♪ ぱっちりおめめを見開いて〜♪ 大きなお耳で情報キャッチ〜♪」
「な、何よその電波入ってる歌は?」
「えうーキショイですー」
「なっ?! これは警視庁マスコットキャラ”ピーポ君の歌”だぞ? さぁ一緒に唄おう!
 僕らのヒーロー♪ みんなのために買い物だ〜♪ 美坂の安全守るため〜♪ 愛のためにがんばるぞ……」
 そんな北川達の会話も小さくなっていくとやがて聞こえなくなったが、北川の唄う変な替え歌が耳に残って実に不快な気分になった。

 美坂姉妹と北川が戻るちょっと前に、折原と長森は無事帰って来た。
 相変わらず口数は少なく、以前の様な陽気な態度こそ無いが、有る程度折原も落ち着きは取り戻してきた様子だった。
 食事の前に俺達は簡単なミーティングを開いた。
 ミーティングと言っても、郁未先生から「今後は極力単独行動は慎む事」という指示が有っただけで、そのまま夕食となった。
 昨日までの様な賑やかさは無いが、秋子さんと佐祐理さん、そして郁未先生が作った料理はとても美味しく、俺達の中に蔓延している嫌な気分を幾らか払拭出来た。
 北川や住井も少しいつもの調子を取り戻し、食卓に笑顔と笑い声が少し戻った。
 ただ深山先輩は秋子さんの部屋で伏せたままだったし、折原も完全に立ち直る事ができていないのだろう――食事も早々に片づけると、直ぐにリビングから出て行ってしまった。
 折原を心配する長森、その長森を心配する七瀬、そんな七瀬にやきもきしている名雪の姿が、不埒にも少しおかしかった。





§






「ねぇ相沢君」
 夜も更け俺が自室に戻ろうと二階に上がったところで、ふと香里に呼び止められた。
「なんだ?」
「あの……これなんだけど」
 香里は頬を赤らめ、何時になくモジモジとしており妙に歯切れが悪い。
「どうしたんだ?」
「これ受け取って!」
 そう言って俺に押しつけるように差し出したのは封筒だった。
「何だコレ?」
 俺は手にした封筒を廊下の照明にかざしながら尋ねる。
 中は透かしても伺えないが、どうやら手紙が入っている様子だ。
「もうそんな風に見ない出よ。それは、その……ラブレターよ」
「なにぃっ!」
 驚きの余り大きな声を出てしまった。
「もう……静かにして。みんなが起きたらどうするのよ」
 香里が少し怒った――いや困った表情を浮かべて俺の口を手で軽く触れるように押さえる。
 何から何まで全てが予想外の出来事に、俺は馬鹿みたいにただ頷く事しか出来なかった。
「相沢君……実は、あたし今まで言えなかったんだけど……もう、自分に嘘付くの嫌になったから……もう部屋に閉じこもってなんかいないで、正面から向き合って行くことに決めたの」
 香里の思い詰めた表情と、ほんのり紅く染まる頬に、俺の思考は停止し無意識に口がパクパクと開閉する。
「あたし……貴方の事が、す……」
 恥ずかしげに俯きゆっくり告げられる言葉に、俺の喉がゴクリと鳴る。
「す……」
「……」
 生命の危機すら覚えるほどに鼓動が高鳴る中、俺は無言で香里の言葉の続きを待った。
「……スラブ人に見えたの」
「はい?」
 しかし続いた香里の言葉を理解できず目を点にして、片腕を上に、もう片方を下に向けて完璧なハニワポーズ。
「ふふっ」
 そんな俺を見て、香里は込み上げてくる笑いを必至に抑えていたが、やがて楽しそうな顔のまま声を出して笑い始めた。
「あーおかしい。相沢君もそんな顔するのね」
「……っ」
 俺はやっと彼女の真意に気が付き、脱力してその場にへなへなと腰を下ろした。
「うふふ冗談よ。ごめんね、驚いた?」
 悪戯っぽく笑うと香里は俺に頭を下げた。
「ったく……悪質な冗談は止めてくれよ。俺の場合命に関わるんだからさ」
 僅かな不満を感じつつも、俺は安堵感と虚脱感に壁に背をもたれさせたまま力無く応じる。
「そうね。川澄先輩にばれたら首をはねられるかもね」
「冗談で済まない所が恐ろしいな……で、本当は何だ?」
 差し出された手を断り、自分の力で立ち上がると、改めて俺は香里に尋ねた。
「別に何でもないわ。ただ預かって欲しいだけ……というのは無しかしら?」
 俯き加減で上目遣いで俺を見つめる香里に、俺の心臓は再びときめきを覚えた様に激しく鼓動を繰り返す。
(うお〜一度ならず二度までも! 舞ーっ佐祐理さーん、済まなんだーっ!)
 心の中で必至に二人に土下座をしておきながら、表向きは何事もなかったかの様な態度で返事をした。
「OKだ。で、誰に渡せばいいんだ?」
「そうね、明日あたしに会う時に返してくれれば良いわ」
「何だそれ? 何か意味あるのか?」
 香里の申し出の真意が掴めず首を傾げるが、香里は再び悪戯っぽく笑って――
「ふふっ気にしないで。ちょっとしたおまじないだから」
 と答えるだけだった。
「よく判らないがよく判った。んじゃこれは預かっておくぞ」
 無理に問いただしても、どうせはぐらかされるのは目に見えるので、特にそれ以上追求もせず、俺は手にした封筒をポケットへとしまい込んだ。
「ねぇ相沢君?」
「何だ?」
「さっき、あたしにドキリとした?」
 腕を後ろに組み、上半身をやや傾けた姿勢で俺に尋ねる香里。
「な、何を言ってるっ! そんな事あらへんですばい!」
「ふふっ、有り難う。相沢君はこういう時の嘘は下手ね。取りあえずあたしの演技も満更じゃないって事ね。よっし」
「おいおい、いたいけな男子をからかったりするなよな? 結構……その、破壊力あったぞ」
 三度高鳴った鼓動を抑えて俺はが香里に声を掛けると、香里は背を向けて階段へと向かい、その途中で一度振り向き――
「そう? お陰で自信が付いたわ」
 そう笑顔で答えて香里は一階へと降りて行った。
「おーい、寝るんじゃないのか?」
「寝る前に飲み物でも飲みたいのよ。それじゃお休みなさい」
 階段を降りて行く香里の背中に声を投げかけると、香里は振り向く事なくそう答えてきた。
「ああ、お休み」
 最後にもう一度声を掛けてから、香里と別れて自室へと戻る。
 床に敷いてある布団には、既に舞と佐祐理さんが静かに寝息を立てていた。
 ポケットの中の香里からの手紙を確かめて、二人を起こさないようそうっとベッドに入り目を閉じる。
 明日は何事も無い平穏な一日なのだろうか?
 それとも劇的な何かが起きるんだろうか?
 そんな自問をしている内に俺の意識は無くなった。 





§






 夜の廃墟の中、月明かりを受けた人影がゆっくりと進んでいる。
 やがてその影の主は適当な廃屋の中に入ると、中に散乱しているコンクリートブロックに腰を降ろした。
 屋根が完全に無くなっている為、その廃屋からでも夜空を伺うことは出来る。
 緩やかな風が、夜空を見上げる人物の髪の毛を靡かせている。
 風に揺れる自らの髪の毛を手持ちぶさたに弄っていると、地面を踏みしめる音が聞こえてきた。
 視線を夜空から廃屋の入り口に向ける。
「遅かったわね」
 月明かりに輝く髪の毛を掻き上げながら、ブロックに腰をかけていた美坂香里は、廃屋に入ってきた人物を何処か諦めたような笑顔で迎え入れた。
「月夜の下で二人きりなんてとってもロマンチックね」
 再び空を見上げながら香里が呟く様に言う。
「……」
 もう一人の人物は何も答えない。
「こんな出鱈目な世界でも……」
 だが香里は気にする事なく、夜空を見上げたまま呟き続ける。
 真上に浮かぶ月は見事な真円を描いており、夜空においては眩しい程の輝きを放っている。
「月だけは前の世界と変わらない……」
 香里は視線を戻し――
「……そう思わない? 折原君」
 もう一人の人物にそう呼び掛けた。
「……」
 廃墟に現れた人影が無言で香里に近付くと、月明かりの下にその姿を現した。
 それは紛れもなく折原浩平の姿だった。
 だが、彼は何も喋らず、ただ一歩、二歩、三歩……と、ゆっくり香里に近付いて行くだけだった。
 香里も返答を期待してはいなかったのだろうか、特に気に掛ける事もなく、無言のまま立ち上がり夜空へ目線を戻す。
「本当に……綺麗ね」
 廃墟の中で全身に月明かりを浴びて微笑む彼女の姿は、大抵の男なら心を奪われる程の美しさに満ちていただろう。
 だが、折原は全く気に掛けた様子も見せず、無言のまま彼女へと近づいていった。 
 やがて二人の影が重なると、一面を月明かりも飲み込むような闇が覆い尽くした。





§






 目が覚める。
 元の平凡な日常――本来あるべき世界への帰還を期待するが、窓の外には廃墟となった街並みが広がっている。
 それならばせめてこの世界における日常で有って欲しいと願う。
 しかし、そんな俺の願いを嘲るかの様に、今度は香里の姿が消えていた。

「美坂ぁぁぁぁぁっ!!」
 泣き叫ぶ北川の絶叫が辺り一面にこだまする。
「北川さんっ昨日言ってたじゃないですか! 最期の最期までお姉ちゃんを守るって! なのに何でお姉ちゃんが居なくなるんですかっ!」
 乱心気味に北川へ詰め寄る栞と、彼女を慰める名雪と長森。
 そんな状況に、珍しいほどに畏縮した真琴が怯えた表情で俺にすがりつく。
「あうーっ、何で居なくなっちゃうの? ねぇ祐一何でみんな居なくなるの?」
「大丈夫だ。これ以上は好きにさせない……だから安心しろ真琴」
 俺は真琴の頭を撫でながらそう呟いた。
 しかしそうは言ったものの、俺に具体的な打開策は全く思いつかなかった。
 俺の手を握る真琴の手にぎゅっと力が篭められたが、少し強めに握り返す事しか今の俺には出来なかった。


 今回は大規模な捜索隊を編成せず、先遣隊として俺と舞と佐祐理さん、そして郁未先生の四人で石像が並ぶポイントへと向い、他の者は全員水瀬家で待機すつ事になった。
『……香里が居た』
 インカムを通して届く舞の声に、郁未先生が目を伏せる。
「そう……有り難う。ご苦労様、今引き上げるわ。倉田さんお願い」
 郁未先生の言葉に佐祐理さんが「はい」と頷く。
 リモコンを操作すると、ウインチが作動を始めワイヤーを巻き上げ始める。
「先生あの石像は一体……」
「相沢君、川名さんもそうだろうけど、下の石像は恐らく”影”よ」
「影?」
 俺は郁未先生の言葉が判らず聞き返した。
「ええ、この世界から消えた者の影。本人達は恐らくこの世界とは違う、別の世界に居て、その名残みたいな物じゃないかしら」
「それなら香里や川名先輩は本来の世界に戻ったのでしょうか?」
「そうなら良いけど……多分違うと思うわね。さて、私は先に水瀬さん家に戻るわ。また後でお話しましょう」
 そう言い残すと、郁未先生はプレミオに乗り込みクラクションを一回鳴らし、そのまま水瀬家へと走り去った。
「影……」
 ウインチで巻き上げられるワイヤーをぼんやり見つめながら俺は考えていた。
(結局……)
 見てくれは変わっても、この世界はあの学園祭前日と何も変わっちゃいない。
 里村や氷上は判らないが、最初に異変に気が付いた久瀬、独自に調査をして恐らく今回の事件の核心に迫った香里が消えたのは偶然ではないだろう。
 香里の推測通り、この世界を作った何者かが邪魔だと判断したのであれば、次に消えるのは調査活動を続けている郁未先生か俺達のはずだ。
 いや、そうは言い切れない。それでは川名先輩が消えた理由はどうなる?
 彼女がこの世界に……いや、この世界を創った者にとって邪魔だと思われる理由は何だ?
 ヒントは恐らく姿も見せずに消えている里村と袖木、そして氷上にある。
 この四人の共通する事は何だ。
 考えろ祐一!
 この欺瞞に満ちた楽園の創造主、腐った劇の演出家が邪魔だと思うキーワードは何だ?!
 俺は拳でレオパルドの表面を叩く。
 鈍い音を立て手が痛んだ。
「香里……お前は何処に行ったんだ?」
 憎たらしいほどに青い空を見上げて、俺は消えた友人に対して呟いた。



 陽が暮れて昨日以上に静かな夕食も終わると、各々が静かに時を過ごしている。
 あの真琴でさえ大人しくしているのだから、他のみんなの落ち込み具合は相当な物だろう。
 いつも馬鹿ばかりをしていた北川までもが落ち込み、流石に住井も馬鹿な事は起こせなくなった今、水瀬家は全体がまるで通夜でも行われているかのように、何処か湿っぽい雰囲気が漂っている。
「はぁ〜参ったな」
 風呂から出た俺は、渇いた喉を潤わせる為にキッチンへと向かった。
 冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、リビングのソファーへ赴くと、そこには先客の澪とニャーコがソファーに蹲って寝息を立てていた。
「澪ちゃん、風邪ひくぞ……」
 俺が肩を軽く揺するが、もぞもぞと可愛らしく寝返りをうつだけで彼女は目を覚まさなかった。
「うにゃ〜」
 だがニャーコの方は目を覚ましたらしく、トンと軽くテーブルへ飛び移ると、行儀良くお座りをして泣き声を上げた。
「よしよし……お前のお陰で、真琴や澪ちゃんも少しは元気になったよ」
 感謝の気持ちを込めて頭と顎を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて頭を擦り付けてきた。
 ふとテーブルを見ると、その上には彼女が持ち歩いているスケッチブックが無造作に置いてある事に気づいた。
 ニャーコの頭を撫でるのを止めて、失礼だとも思ったが、何気なく手にとってページを開く。
『上月澪』
『こうづきみお』
 最初のページと次にページには大きく彼女の名前が書かれている。
 もう何度も使ったのだろう。
 そのページの端はうっすらと汚れており、皺も激しい。
『うん』
『いや』
『お早うなの』
『さよならなの』
『こんにちはなの』
 よく使う言葉が書かれたページが続き――
『相沢祐一』
 それは初めて出会ったときに俺自身が書いた文字。
『水瀬名雪』
 隣のページには名雪の筆跡による従姉妹の名前。
 この子が出会った色んな人の名前が、数ページに渡って記されている。
 このスケッチブックは彼女の記憶そのものなんだろう。
 そう考えると、こうしてページをめくる事は、彼女のプライベートを覗き見ている様な気がして、自分が人として不出来にも思えて、俺は慌ててスケッチブックを閉じた。
 だがその瞬間、ある文字が目に止まり違和感を感じた俺は、頭の中で目の前の持ち主に詫びを入れつつ、再びスケッチブックを開いて問題のページを確認してみた。
『茜さんも詩子さんもお手伝いなの?』
 この言葉は里村と柚木との会話に使った部分だと思われ、それ自体に別段おかしな部分は無い。
 問題なのは隣のページに続けて書かれている『浩平も行くの』『劇も見に来てなの』という言葉だ。
 その周囲のページも見る限り、このメッセージは明らかに学園祭準備中に使ったものと思われる。
 それはつまり――
「里村も柚木も学校に来ていたんだ……」
 俺は声に出して呟いた。
 この文から察するに、澪と折原は準備期間中にあの二人と出会っている事になる。
 だがあの騒動の最中に、二人の姿を見た者は居なかったはずだ。
「いや待てよ……」
 あの頃の記憶は、一夜明けるたびにリセットがかかったようになっていたから、恐らく二人とも覚えていなかったんだ。
 ならば――
「あいつらが消えた理由は何だ?」
 考えながらスケッチブックを閉じ元の場所に戻すと、リビングの扉が開き南が入ってきた。
「あれ相沢」
「よぅ。どうした?」
「いや……喉が渇いて何か貰おうかと思ってさ」
「んじゃほら……麦茶でよければここにあるぞ」
「ああ」
 俺の言葉に南が軽く返事をすると、誘う様にテーブルの上のニャーコが「うなぁ〜」と泣き声を上げた。
「お前は気楽でいいなぁ。……っと澪ちゃんは寝てるのか?」
 南はニャーコの頭を撫でながら俺の対面――澪の隣に腰を下ろす。
 彼が持ってきたコップに麦茶を注いでやると、南は一気に飲み干した。
「は〜うまいな」
「まったく。……なぁ南、北川はどうだ?」
「うーん、流石にショックだったみたいだね。今は気を失った様に寝てるよ。でも美坂さんまで消えるなんて……この先どうなるんだろ」
「さてな……しかし俺が寝る直前に香里に会ってるから、消えたのは今朝までの間って事になるよな」
「えーとその事なんだけど。実を言うとさ、オレ美坂さんを夜中に見たんだ」
「何?!」
 南の言葉に思わず大きな声を出してしまい、俺の向かいに座っていた澪が目を覚ました。
 うっすら眼を明けて腕を伸ばす。
 まるで”う〜ん”という声が聞こえてきそうな仕草だ。
「眠いのか?」
 俺の質問に寝ぼけた表情のまま”コクリ”と頷く。
「澪ちゃん、上に行って布団で寝た方が良いよ?」
 南の言葉に澪はもう一度頷き、目の前にあったスケッチブックを持って立ち上がる。
「お休み」
「お休み澪ちゃん」
『お休みなの』
 俺と南が揃って声をかけると、澪は慣れた手つきで既存のページを見めくるとペコリと挨拶し、あくびをしながらふらふらとした足取りでリビングを出て行った。
 ニャーコも澪に懐いているのか、そのまま彼女を追い掛けるように付いて出て行った。
 南と二人で澪とその従者の背中を見送り、その姿が見えなくなると俺は再び視線を戻す。
「で?」
「人のプライベートな部分に踏み込む様だから、皆の前では言いたく無かったんだけどさ……」
「ああ」
「昨日の夜更けに、リビングの扉が開いて誰かが入ってきたな……と思ったら美坂さんだったんだよ」
「よく判ったな」
「暗闇に目が慣れてたし、彼女オレのすぐ横に腰を下ろしたんだよ」
「お前の横……って何しに来たんだ?」
「と言っても、オレの方には背を向けてたから、隣に寝ていた折原に用事があったみたいだったね」
「折原に?」
「しゃがんで彼奴の身体揺すりながら、耳元で声をかけてたみたいだね。それで折原を起こして、それから外に出て行った」
「よく折原を起こす事が出来たな」
 俺は心底感心した。
 折原の寝起きの悪さは名雪に匹敵する。
 しかも奴の場合、名雪が天然なのに対して”意地”や”嫌がらせ””ポリシー”がその原動力みたいなもんだから余計に質が悪い。
「それが……その、どうも美坂さん折原に……キ……キスしてたみたいなんだ……あひゃひゃひゃ!」
 自分の言葉に照れているのか、気味悪い笑い声を上げる南。
「ひゃひゃ……で、えーと、そしたら飛び起きてたよ」
「本当かよ? どうもその光景を想い描くのが難しいぞ」
「勿論部屋は暗かったし、背中から見てたわけだからその瞬間を見たわけじゃないよ。でも顔を近づけてしばらくそのままの姿勢が続いて……その後、折原が飛び起きてたから、多分そう思うけど」
「うーん……それに北川が居たろ? アイツの対香里電探装置は相当な物だぞ? 部屋に香里が現れた時点で飛び起きる筈だ」
「北川はその……寝る前にトランプやって、罰ゲームとして例のジャムを食べさせられてた」
「は? そんな事やってたのか?」
「ああ。実はそのゲームを言い出したのは美坂さんなんだよ」
「という事は、最初から北川にジャムを食わせる為に?」
 そこまで用意周到に香里が行動していたというのか?
「そこまでは判らないけど、初っ端で負けた北川はそのままダウンした」
「よくアイツあのジャム食ったな」
「美坂さんが食べさせてくれたから、躊躇わずに口に含んだよ」
「ああ〜なるほど……話が随分逸れたな。で、折原は香里と一緒に外に出たのか?」
「出ては行ったけど直ぐに戻ってきたよ。時計が無いから判らないけど、ほんの数分だと思う」
「そうか……サンキュー南」
「何か役に立ったか? オレ、毎日遊んでばかりで、何か調べ事してる相沢達には申し訳ないと思ってたからさ……」
「気にするなって。さて今の話、舞や佐祐理さん、そして郁未先生には話すかもしれないが、みんな口は堅いから安心してくれ」
「ああ、済まない。それじゃ北川の様子でも見てくるよ」
 南が出て行くと、リビングには俺一人となる。
(しかし北川も不憫だな)
 謎ジャム食べさせられて気を失って、目覚めてみれば好きな娘が消えちゃてるんだからな。
「ふぅ〜」
 この世界になってからというもの、深く溜め息を付く事が俺の癖になってしまったようだな。
 背筋を伸ばして深呼吸。
 何か息苦しさを感じて俺は外へ出る。


 水瀬家の前に停まっているレオパルドの上に寝転がり、夜空を仰ぎながら再び考える。
(香里が折原と?)
 南の事を疑うつもりは無いが、どうにも腑に落ちない。
 ふと視線を横に向けると水瀬家が見える。
 一昨日までは騒ぎ声が絶えること無く聞こえていたが、連日の事件ですっかり静かになっている。
「はぁ〜」
 今一度盛大な溜め息を付きながら、レオパルドの表面を叩く。
「……祐一」
「祐一さん」
 そんな俺に控えめな声がかかる。
「あぁ、どうした二人とも」
「あの……一人で物事を背負い込まないで下さいね」
「祐一……私達は常に一緒」
 俺が上半身を起こすと、水瀬家から出てきた舞と佐祐理さんの姿が目に入る。
「ああ、判ってる。ちょっと外の空気に当たりたかったからさ……みんなは?」
「皆さんお疲れの様子です」
「栞は大丈夫か?」
「……かなり参ってた」
「舞が落ち着かせてくれたので、取り敢えずは大丈夫だと思いますよ。今は郁未先生が看てくれてます」
「そうか」
「……祐一は何か判った?」
「うーん、里村と柚木が学校に来ていた事が判ったぞ。それから香里なんだが、昨夜どうも折原と一緒に外に出ていったらしい」
「それは何ででしょう?」
「うーん、聞くと頃によると逢い引きらしいんだが……」
「はぇ?」
「……浩平には瑞佳が居る」
「いや、俺もそう思った……やっぱり信じ難いよなぁ〜」
 俺はそう言うと、脱力して再び寝そべる。
「その話、真実かもしれないわよ」
 突如頭の上の方から声がかかる。
「あ……」
「郁未先生」
 俺達が振り向いてそう言うと同時に、名雪の部屋のベランダにいた郁美先生が身を翻して宙に舞うと、”カツン”と軽い音を立てて、レオパルドの上に綺麗に着地してみせた。
「相沢君、今の話は本当?」
「ええ、昨夜リビングに寝ている折原に、香里が会いに来た……って」
 身を起こして答える俺に、郁美先生は真剣な表情で一冊のノートを俺に差し出した。
「これは……香里の日誌?」
「はぇーまめですね」
「……綺麗な字」
 俺がノートを開くと、佐祐理さんと舞が両脇からのぞき込む。
 そのノートには、この世界になってからの日常が詳細に書かれていた。
「日記……というより観察記録みたいだな。こりゃ」
「部屋で籠もってる時は、これを書いていたんですねー」
「何々……”三五日目、朝食の席で相沢君と川澄先輩がおかずを取り合い相沢君が勝利。その後川澄先輩の手刀を五発受ける……”って、こんな事まで書くか?」
 適当なページを開いて読んでみたところ、いきなり”ビシッ!”と脳天に舞のチョップが炸裂した。
「痛て! 何だよ舞?」
「思い出したら腹が立った」
 舞さん、それ無茶苦茶です。
「はいはい、昨日のページを見てご覧なさい」
 じゃれ合う(?)俺達を見て郁美先生が呆れた様に言う。
 言われるがままにページをめくり、最後のページを開く。
「え〜と……朝食までは今までと大差ない日常。名雪を起こすのが面倒なのでニャーコを借りる。文字通りネコの手を借りて試したところ、名雪が瞬時に起床。朝食のおかずは……”」
「もっと後ろの方よ」
 郁美先生に促され、どうでも良さそうな部分を飛ばして先を読む。
「”……この世界にとって、正確にはこの世界の創造主とって不必要な存在が消される。私のこの仮説が正しければ、今度は私が消えるはず。なぜなら、私は折原君の事が好きだから……”ってマジか?!」
「あははー、ちょっと意外でしたねー」
「……浩平モテモテ」
「全く……貴方達、ちゃんと読んでる? 折原君が好きだと消されるって事に驚きなさい」
「ええ、驚いてますよ」
 どうやら南の言っていた事は正しかったことになる。
 ならば香里は俺と別れた後にリビングへ行き、折原を誘って外へ出た事になる。
(香里が夜中に逢い引き? しかも公認彼女の居る折原相手にか?)
「うーん、どうもしっくり来ないな。今までそんな素振り見せたことも無かったぞ?」
「祐一さんも結構鈍感なところありますからねー」
「そうか? でも何か引っかかるんだよなー」
「なら相沢君は香里さんが消えた理由は何だと思うの?」
「香里は独自にこの世界の調査をしてましたから……俺達の様な実地調査ではありませんが、恐らくこの世界の核心に迫ったんではないかと。そしてそれがこの世界の創造主の逆鱗に触れた……」
「相沢君が言ったとおり香里さんが核心に近付いたなら、その回答がこのノートに書かれた事じゃないの? それなら川名さんが消えた理由はどう説明するのかしら?」
「川名先輩……そうだな……」
 郁未先生の言葉に俺の頭の中で何かが組み上がって行く。
 もう一度考えてみろ祐一!
 消えたのは久瀬、里村、柚木、氷上、川名先輩、そして香里。
 この中で久瀬に関しては、異変に気付いた事が原因だろう。
 彼奴が消えた翌日に、世界が豹変した事がそれを物語っている。
 では久瀬以外で消えた者の理由は?
 ひょっとしたら、皆同じ理由なんじゃないのか?
 そうだ、香里が消えた理由が違うんだ。
 香里の消えた理由が、この世界の核心に迫った事でないとしたら?
 昼間は判らなかった共通のキーワード。
 里村と柚木は学校に来ていて、その時に折原と出会っている。
 氷上と接点の有る人間は、俺達の中では同じ部活に所属している折原だけだ。
 川名先輩は消える前日、折原と学校の屋上で夕陽を見ていた。
 そして香里は、昨夜俺達に内緒で折原と外で逢っている。
 折原――それがこの世界の禁忌。

 ではこの世界そのものは何だ?
 俺はレオパルドの上で姿勢を変え、あぐらをかく。
「ん? 待てよ……」
 姿勢を変えた時のポケットの感触に、俺は慌ててポケットから手紙を取り出す。
「祐一さん、それは?」
 佐祐理さんが首を傾げながら尋ねる。
「香里から預かっていたものだ」
 震える手で封を切って、中身の紙を乱暴に取り出し広げる。
 中に入っていた実に飾り気のない地味なルーズリーフに、ノートと同じ綺麗に整った書体で香里からのメッセージが記されていた。



  相沢君へ


 私は今夜、自らの仮説を実証する為に実験をしてみる事にするわ。
 もしも私の仮説が正しければ、私もまた川名先輩の様に石像になると思う。
 とても自分の本心とは異なる行動を取るけど、これも演技の勉強だと思えば些細な事。
 どうか相沢君は女を泣かせないようにね。

 それからこの世界の事だけど、以前郁未先生の所で言った通り、私はこの世界は存在していないと思うわ。
 現実には存在していない世界。
 願望を具現化したある種の精神世界。
 もっと簡単な言葉で言えば、人はそれを――



 そこまで読んで俺は震える手で手紙を握りしめた。
 香里のメッセージで、俺の頭の中でバラバラになっていたパズルのピースが埋まって行く。
 ははっ! ばかばかしい。
 こんなにも単純な事だったんだ。
 香里――どれだけ感謝の言葉を用いても、足りないと思うが、今は兎に角「有り難う」と言わせてもらう。
「何が書いてあったんですか?」
「舞、佐祐理さん、郁美先生!」
「何?」
「何ですか?」
「?」
「明日は多分何事もないまま夜が明けるでしょう。そこで郁未先生にお願いがあります」
「何かしら?」
「折原にラブレターを書いて下さい」
「はい?」
「はぇー?」
「?」
 驚く三人をそのままに、俺はレオパルドの上で立ち上がると、拳で手の平を叩き声を上げた。
「さぁ反撃開始だっ!」





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