<18話前編へ







「も〜う! 祐一の馬鹿っ! 何処行ったのよーっ!」
 不慣れな自転車の運転に疲れたのか、借り物のMTBも真琴自身も道路に倒れたまま空を仰いでいた。
 空は相変わらず青いが、日はやや傾き始めており、地面にひっくり返った真琴の影が少し地面に延びている。
 出掛けるときに背負っていたリュックは、重さに耐えかねた真琴自身が投棄した事で既に無くなっている。
 色々な悪戯グッズを満載したリュックを背負い、意気揚々とレオパルドを追跡したのだが、いくら戦車と言え最大速度六五km/hの出るレオパルドとの距離はみるみる離れて行き、水瀬家を出てものの数分で見失ってしまったのだ。
 おまけに辺り一面瓦礫と化したこの街は、一度方向感覚が無くなると何処も似たような姿に見える為、真琴は自分の居る場所がすっかり判らなく――平たく言えば迷子になっていた。
 真琴の場合、記憶喪失者であり元々この辺りの地理には詳しくない事と、この世界において何処かに遊びに行くにも、いつも折原や長森と一緒で彼らに任せっぱなしだった事が、より状況を悪化させていた。
 仰向けに寝ころんだままの真琴のお腹が”ぐ〜っ”と鳴る。
 おまけに真琴は昼食も摂っては居なかった。
 あれほど荷物が満載されていたリュックだが、困ったことに食べ物は一切入っていなかったのだ。
「あうーっ」
 今や右も左も判らない状況に加え、空腹と、目標である祐一をロストした怒り、そしてその怒りをぶつけようにも辺りには誰も居ない事で、真琴の機嫌は最悪だった。
 真琴の耳にレオパルドの無限軌道の音が聞こえて来たのはそんな時だった。
「あっ! 祐一見つけたっ!」
 怒りに身を任せて真琴はMTBを放ったままレオパルドへと走った。
 普段、祐一達がレオパルドを動かす時、常に砲塔上部のハッチ――つまり指揮官用キューポラから誰かが半身を出して、肉眼で周囲の警戒をしている。
 これは運転席からの視界が、車などと比較して著しく低い戦車で、万が一の事故を防ぐ為の手段であった。
 真琴にとって不運だったのは、この時レオパルド内部に居た者が祐一一人であった事だった。
「祐一ってば出てきなさいよっ!」
 真琴がいかに大声を出してでレオパルドにまとわりつこうとしても、その声は厚い装甲と自身が上げる無限軌道の騒音によって、祐一の耳には全く届いていなかった。
「祐一っ! 聞いてるのっ!? 祐一ってばっ!」
 真琴は走りながら大声を出すが、レオパルドはその速度を落とすことはない。
「えいこのっ! 祐一っ! 真琴が此処に居るんだから気付きなさいよっ!」
 叫き立てながら手近にあった石をレオパルドに向かって投げつける。
 真琴の投げた石は砲塔部分に当たったものの、105ミリ砲の直撃すら耐えるレオパルドの厚い装甲はびくともせず、ただ甲高い音を立てただけで跳ね返りそのまま地面に落っこちた。
 やがて、走る真琴とレオパルドの距離が開いて行く。
「祐一ーっ!!」
 真琴は必至に走り、あらん限りの声を絞り出して祐一の名を叫んだ。
「きゃうっ!」
 アスファルトのヒビにつま先を引っかけた真琴が転ぶ。
「ごほっごほっ……」
 倒れた真琴の身体に、レオパルドが巻き上げる砂埃が容赦なく降り懸かり、彼女の頭のてっぺんからつま先までを汚して行く。
 咳き込む真琴が、上半身を起こすと祐一の乗るレオパルドはみるみる内に遠ざかって行く。
「祐一ーっ!!」
 再び真琴は渾身の力を込めて叫んだ。
 だが、そんな叫びも戦車の中の祐一に届くはずもなく、無情にもレオパルドの姿は小さくなって行く。
「祐一の……馬鹿。何で……気付き……なさい……よ……あれ?」
 真琴は自分の視界が歪んでいることに気が付いた。
「真琴泣いてるの?」
 砂埃で汚れた頬に、涙の雫が尾を引きながら流れている。
「あうーっ、あ、痛っ」
  脚で立ち上がろうとした真琴に痛みにが走る。
「血が出てるよ……あぅー……」
 砂埃と涙で汚れた顔、そして砂埃と血で汚れた脚。
 痛む脚を引きずる様に歩くと、既に殆ど視界から消えたレオパルドを、涙を流しながら見つめていた。
「祐一はまた真琴を置いて行っちゃうの?」
 真琴は不意に自分の口から出た言葉にハッとして、そのまま立ち尽くした。
「え? 私……今何て……」
 風邪が砂で汚れた真琴の髪の毛を靡かせる。
「真琴は……祐一に捨てられたの?」
 擦り剥けた膝から赤い血が脚を伝わり、真琴の靴下を染めて行く事も気にせず、真琴は自分の言葉を反芻していた。
「ぐすっ……ううっ……ゆぅーいちぃー……」
 やがて真琴は意識を失ったかの様にその場に倒れ込んだ。





§






 百花屋に立ち寄り舞と佐祐理さんを回収して水瀬家の前にレオパルドが到着した時、空はうっすらと茜色に染まりつつあった。
「ねぇ祐一、真琴知らない?」
 俺が家の玄関をくぐると同時に、リビングから姿を現した名雪にそんな事を尋ねられた。
「いや、朝の見送りから姿は見ていないぞ」
 俺が靴を脱ぎながら答えると、名雪は少し困った表情になった。
「本当に? 今日会ってない?」
「知らんと言ったら知らん。第一、一日中調べ事をしている俺が真琴に関わる暇はないぞ?」
「一体どうしたんですか?」
 佐祐理さんが不安げな表情で名雪に尋ねる。
「それが、そのね……」
「真琴が帰って来ないんです」
 口ごもる名雪に代わって答えたのは秋子さんだった。
「え? だって確か今日真琴は家に残って……」
「それが……気が付いた時にはもう居なかったんです」
 そう言う秋子さんの表情に普段の微笑みは無く、心配からくる焦りが伺える。
「迷子か? 他のみんなは?」
「誰も真琴の姿を見てない……って言うんです」
 秋子さんの言葉を聞き、俺は急いでリビングに駆け込んだ。
「よぉ相沢、お帰り……」
「おいみんな! 真琴知らないか?」
 北川の言葉を遮って俺は皆に尋ねたが、皆は首を横に振るだけだった。
「真琴は折原達の所に行ったんじゃないのか?」
「ううん、今日は朝食後から真琴の姿は見てないよ?」
 折原の隣に座っていた長森が答える。
「うーん、オレが今朝出掛ける時、真琴ちゃんから『自転車貸してくれ』って頼まれたんだが……」
「それじゃ、あいつ一人で自転車に乗って出掛けたのかよ?」
 折原の言葉に、俺の頭の中を嫌な予感が駆けめぐる。
「今もMTBが一台無いね」
 リビングの窓から外を眺めて南が報告する。
「香里は何か知らないか?」
「あたしも全然気がつかなかったわ。午後に百花屋へ向かった時にはもう、この家には秋子さんしか居なかったし……」
「俺達も気にはなったけど、さっき水瀬さんが、多分相沢達と一緒に帰ってくるだろうって……一緒じゃないのか?」
 住井の言葉に俺は振り向き、背後に立って居た名雪を問い詰める。
「どういう意味だ?」
「ま、真琴は祐一達と一緒に帰ってくると思っただけだよ〜」
 名雪が視線を逸らして答える。
「何でだ? ここ最近は俺達より、長森や折原達と一緒にいる事の方が多いだろ?」
「それが……その……」
 俺の追及に名雪は妙に言葉を濁す。
「名雪、何か隠してるな?」
 俺は両肩を強く掴むと、名雪は表情を強ばらせて、小さく悲鳴を上げる。
「い、痛いよ祐一っ」
 苦痛に歪む名雪の表情に、俺は冷静さを取り戻し力を緩める。
「わ、悪いな名雪。だが、何か知ってるなら教えてくれ」
「あの……昨日の夜なんだけどね。その、お風呂で真琴が『明日祐一にぎゃふんと言わせる!』って……」
「なっ……つまり何か? 真琴の奴は俺に悪戯しようと自転車で俺を追いかけたまま行方不明……って事か?」
「祐一さんっ!」
 俺の言葉に佐祐理さんが声を上げる。
「あの馬鹿ッ! 俺達が乗ってるのは戦車だぞ。自転車で追いつく様なスピードじゃないし、あいつの悪戯程度でどうなる相手か? おまけに下手すりゃ戦車の下敷きだ! ったく、何で止めないんだよ!」
「ご、ゴメン祐一……」
「……祐一っ」
 舞の視線が俺を射抜く。
 ああ、判ってるよ。名雪を責めたって仕方がない。
 日が暮れて夜が来れば、街灯も無いこの世界は何も見えなくなる。
 下手して亀にでも落ちたら、それこそ大変だ!
「名雪、話は後だ。みんな手伝ってくれ、手分けして探したい」
 俺の声に、みんなが声を上げる。
「秋子さんは取りあえず此処に残っていて下さい。ひょこりあいつが戻ってくる恐れもあります」
「はい判りました。皆さん、真琴をお願いします」
 秋子さんの言葉に皆が一斉に頷くと、俺達は外へ飛び出した。

「北川と住井、それから香里と栞は学校方面を頼む」
「OK!」
「任せろ」
「判ったわ」
「判りましたっ!」
「折原と長森、それから南と澪ちゃんは旧駅前方向を頼む!」
「任せておけ」
「うん」
「判った」
『了解なの』
「名雪と七瀬、旧商店街方向の捜索、そして郁未先生にも協力してもらってくれ」
「判ったよ」
「うん、任せて」
「舞、佐祐理さん、俺達は今日通ったルートに沿って探すぞ!」
「はいっ」
「……判った」
「よしそれじゃ……」
「ちょっと待ってくれ。なぁ相沢、真琴ちゃんを見つけたとして、それを他の人間にどうやって知らせるんだ?」
「あ……そっか」
 住井の言う通りだ。連絡手段を決めておかないと、みんな何時までも探す羽目になる。
 なにしろこの世界には、携帯電話などという便利な物は無いのだ。
「あ、それなら……皆さん待って下さい。私に考えがありますー。舞手伝って?」
 俺があれこれ考えてる内に佐祐理さんが何かを思いついたらしく、舞を伴って水瀬家へと姿を消した。
 すぐに二人は包み紙を持って戻って来た。
「はい、皆さんこれを持って行ってくださいー」
 佐祐理さんと舞が皆に手渡したのは、打ち上げ式の花火とマッチだった。
「花火?」
 佐祐理さんから花火を受け取った七瀬が不思議そうに呟く。
「えーと、これを打ち上げて真琴さん発見の合図にしましょう」
「あ、どうも。さすが倉田先輩だね?」
 感心しながら長森が花火を受け取る。
「ああ、この間の花火大会ん時の残りものか……」
 渡された花火を手にして折原が呟く。
「なるほど、それじゃ花火が上がったらここに戻れば良いんですね?」
 受け取った花火を掲げながら栞が言う。
「そういう事だ、だから栞ちゃん、意味もなく点火するんじゃないぞ?」
「そ、そんな事しませんっ。私は分別のある大人ですっ」
 折原の言葉に少し怒った表情で反論する栞。
「よっし、そうと決まれば早いところ真琴ちゃん探しに行こうぜ」
 北川の言葉に皆が頷く。
 全員――当然秋子さんにも渡してある――に花火とマッチが行き渡たのを確認して、俺達はチームごとに捜索へと出掛けた。
 空は既に真っ赤な夕焼け空になっていた。





§






 真琴の捜索が始まってどの程度の時間が過ぎたのだろうか?
 時計が無いこの世界ではそれが判らないが、恐らく一時間程は経過しただろう。
「おーい真琴〜っ!」
「真琴さ〜んっ!」
 うっすらと暗くなった廃墟の街に俺達の声が響き渡る。
「真琴、何処……」
 舞も彼女にしては精一杯の大きな声なのだろう――普段聞くことが出来ない程の声で真琴の名を呼んでいる。
「ったく埒が開かないな。完全に夜になったらお手上げだぞ……」
「そう……ですね」
 瓦礫に足を引っかけて転んだりでもしたら洒落じゃ済まない。
 他の仲間達はどうだろうか?
「くそっ!」
 焦る気持ちだけが先走り、どうにも正常な判断が出来ない自分に苛立ちを覚える。
 足下に有った石をけ飛ばすと、少し先の廃墟に辺り”カツーン”と音を辺りに響かせる。
「……祐一さん」
 そんな俺を見て心配そうに佐祐理さんが呟く。
(何やってるんだ俺、佐祐理さんに余計な心配をかけさせてどうする?)
「祐一、焦っては駄目……みんなも一生懸命探してる」
 俺の内心を察してか、舞にしては長い言葉で俺を励ましてくれた。
「ああ、判ってる。……舞、有り難う」
 俺の言葉に、舞はただ黙って頷いた。
 今日の調査ルートを反対側から巡り、半分を捜索し終えたが、真琴の行方はいまだ知れない。
 だが陽が完全にくれるまでもう時間がない状況では、これ以上時間をかけるわけにも行かない。
「仕方がない、二手に分かれよう」
 二手に分かれた方が効率は良いはずだ。
 幸い、俺達三人はこの街の調査に明け暮れていただけあって地理には詳しい。
 他人なら迷う様な場所でも、大抵の場所は把握できているので、二重遭難の危険性は無いだろう。
「判りました。気を付けて下さいね」
「ああ。舞、佐祐理さんを頼むぞ?」
「……判った。あ、祐一?」
 走り去ろうとする俺を舞が呼び止める。
「何だ?」
「……大丈夫。真琴は私達の大切な友達。絶対に見つける」
 ごく僅かに表情を綻ばせる舞。
 舞にとっては精一杯の笑顔。
 滅多に見せない笑顔に、俺も幾分か落ち着きを取り戻す事が出来た。
「ああ、花火期待してろよ?」
 そう言い残して俺はその場を後にした。


「真琴〜っ!」
 二人と別れて、俺は走りながら真琴の名前を呼び続けた。
 舞の激励のお陰で、自分を見失うほどの焦りは無くなったものの、徐々に長く延びて行く影を見ると、それに比例するかのように焦りも徐々に大きくなってきた。
 更に三〇分程時間が経過しただろうか? いまだに何処からも花火は上がっていない。
 夕日は既に地平線――と呼べるものかどうか悩むが――へと達している。
 そして俺の目に、道路のど真ん中に無造作に横たわるMTBが映った。
「真琴っ!」
 慌てて駆け寄るが、肝心の真琴の姿は見えない。
 辺りを見回す。
 同じ様な景色ばかりで判らないかも知れないが、この街の調査に明け暮れ、地図の作製を続けていた俺には判る。
 此処は今日、俺が一人でレオパルドを走らせていた時に通過した場所だ。
「くそっ、真琴ぉ〜っ、居たら返事しろっ!」
 夕日が地平線へ姿を隠し始め、真横から差し込む赤い日差しが辺りの瓦礫を赤く染め、影の部分は漆黒にに塗りつぶされた様に暗い。
 赤と黒のコントラストの中を、俺は走りながらひたすら大声で真琴の名を叫び続けた。
「真琴〜っ!」
「……祐一……」
 俺の耳に、待ち望んだ声が聞こえたのは、MTBが乗り捨てられていた場所から百メートルほど進んだ辺りだった。
「真琴っ、何処だ? 返事しろっ!」
「あうーっ祐一ーっ!」
「真琴っ!」
 はっきり聞こえた真琴の声に少し安堵し、俺は声のする方向へと駆けた。
「真琴? 何処だ?」
 声のした方向へ行くと、比較的背の高い建築物――雑居ビルだろう――の残骸があった。
「あうー、本当に祐一なの?」
 驚いたことに、真琴の声は頭の上から聞こえてきた。
「ま、真琴っ!」
「グシュッ……う、祐一〜」
 俺が声をかけると、真琴は建物の屋上から顔を出して俺を見て、嬉しいのか悲しいのか判断つきにくい声を上げる。
「ほら真琴、降りてこいっ!」
「あうーっ、そんな事出来たらとっくにしてるわよっ!」
 言葉こそ普段と変わらないが、涙を流しながら言うその口調は、普段の彼女の態度とは明らかに異なり、まるで捨てられた子猫の様に気弱な印象を受ける。
「どうかしたのか?」
「脚……」
「何?」
「脚を怪我してるの……痛いよぉ……」
「だ、大丈夫かっ?!」
「大丈夫じゃないわよっ! だから困ってるんでしょっ! 祐一の馬鹿ーっ!」
「今行くから待ってろっ! え〜と……」
 建物を登ろうと改めて周囲を見回すが、建物に階段は無く、朽ち果てた柱と壁だけが存在しているに過ぎない。
 仕方がない。
(真琴が居るのが屋上で……ビルは四階建……か。よしっ)
 俺は覚悟を決めて廃屋を登る。
 瓦礫を押しのけ、適当な突起物に手を伸ばし、渾身の力を込めて重力に逆らう。
 足場を確保し、次の突起物に手を伸ばす。
 一段、二段、三段、瓦礫をよじ登る。
 ゆっくりだが、確実に真琴へと近付いて行く。
「あうーっ……ううっ……」
 小さな真琴の泣き声も段々はっきりと聞こえてくる。
「真琴っもう少しだぞ……うわっ!」
 真琴に声をかけた直後足場が崩れる。
 咄嗟に手を伸ばして落下は免れたが、バランスを崩して上着を引っ掛けてしまったのだろう、布が破れる音が聞こえてきた。
 一瞬だけ、破れた場所が股間や臀部で無いことを祈ると、気を取り直して登頂を再開する。
 先程よりも慎重に手をかけ、足場を確認し、少しずつ廃ビルをよじ登る。
 やがて真琴の居る屋根の上に登り切ると、流石に俺も息が上がっていた。
「はぁはぁ……真琴、やっと見つけたぞ。ふぅ……」
 夕日に照らし出された真っ赤な世界で、砂埃で真っ黒の真琴に手を差し出す。
「祐一……」
 潤んだ大きな瞳で俺の顔を見つめる姿は、随分としおらしく見える。
「真琴……さぁ」
 笑顔で差し出した手に、真琴も自身の手を重ねようとしたが、直前になって慌てて手を引き――
”かぷっ!”
 噛みついた。
「痛てっ! よせ! どうしたってんだよっ!」
「祐一は、真琴を置いて行ったーっ!」
 真琴は泣いていた。
 怒りながら涙を流していた。
「あうっ……困っている真琴を……置き去りにしてグスッ……祐一なんか大嫌いっ!」
 言葉とは裏腹に、真琴は俺に向かって飛びつくように抱きついて来た。
「お、おい……真琴?」
「祐一……真琴は祐一の事大嫌いだけど……祐一は真琴を捨てないで……お願い……真琴を置いて行かないで……」
「真琴を捨てるって……別に俺は……」
 俺の胸に顔を埋めて、真琴は咽び泣いている。
 普段と異なる弱気な真琴に戸惑いつつも、俺は真琴の望むまま胸を貸し、その間落ち着かせるように頭を撫でてやった。
「なぁ真琴。俺の事憎いか?」
 暫くして俺はそっと真琴に声をかけた。
「憎い」
 胸に顔を埋めたまま間髪入れずに答が帰ってきた。
「でも側に居て欲しいと?」
 苦笑交じりに俺が尋ねると、真琴は黙ったまま強く頷いた。
「ははっ、わがままな奴だなお前……」
 重なった俺達の影が廃ビルの屋上に延びている。
 俺は夕日に目を細めながら、真琴の頭を再び優しく撫でた。
「何でだろう。真琴は祐一が憎くて仕方がないのに……祐一に抱きしめて貰うと何だかとても安心する……」
 俺は答えず、ただ黙ったまま真琴の頭を撫でてやった。
 夕日が真琴の髪の毛を鮮やかな色に染めている。
 俺はそんな夕日に照らし出された真琴の髪の毛を撫でている自分に、どこか懐かしさを覚えていた。
(何だろう……ずっと昔に……)
 思い出せそうで思い出せない嫌な気分に、俺は頭を振って気を落ち着かせる。
「よっし!」
 そう声を出して、真琴の頭を軽く小突く。
「痛っ! 何すんのよ祐一っ!」
 俺の胸から頭を上げると、真琴らしい態度に戻り俺に抗議の声を上げる。
「それだけ元気があれば大丈夫だ。さ、帰ろうぜみんなが心配してるぞ」
 そう言って軽く頭を叩くと、真琴は「うん」と笑顔で頷いてみせた。
「さてと……あ、真琴……」
「ど、どうしたの祐一? 何だか脚振るえてるけど」
「俺……高所恐怖症だった」
「え? それってどういう意味よ?」
「高所恐怖症も判らないのか? 俺は高いところが怖いんだよっ!」
「あはははっ祐一なっさけな〜い!」
「馬鹿野郎、その情けない男に泣きながら抱きついていたのは何処の何奴だ?」
「な、何よっ! 男でしょ! 何とかしなさいよっ!」
「悪いが真琴、こればかりは駄目だ……どうしようもない……くっそ」
 俺は震える脚を宥めつつ再び腰を降ろす。
「どうするのよっ! これじゃ二人とも下に降りられないじゃないのっ!」
「知るかっ! 大体お前こそ脚怪我してどうやってこんな所に登ったんだ?」
「真琴だって知らないわよ。気がついたらここに……」
「あっ! そうだ。肝心な事を忘れていたぞ」
 俺は真琴の言葉を遮って叫ぶと、上着のポケットから打ち上げ式の花火を取り出す。
「何それ?」
「花火だ。お前を発見保護したという合図だ」
「へーっ」
 上着のポケットに手を入れると、入っていた筈のマッチは無くなっていた。
 そしてポケットの中をまさぐる俺の指が外に姿を現す。
「どうしたの祐一?」
 入っていた筈のマッチは無くなっている。
 さっき引っ掛けた時に破れ、落としたんだ。
「何故だぁーっ!」
「何よ急に大声出さないでよ!」
 俺は頭を抱えて蹲る。
「ちょっと、どうしたのよー祐一?」
「なぁ真琴。お前マッチとかライターとか持ってないか?」
「持ってないわよ」
「ったく何でもってないんだよ。お前いつも煙草吸ってるくせに、肝心な時に役に立たねぇな?」
「吸えないっ、吸わないっ、吸えるかっ!」
「久しぶりに聞いたなそのフレーズは」
「真琴がいつ煙草なんか吸ったのよ!」
「前に煙草買った事あるじゃないか」
「あれは祐一が真琴を騙したんでしょっ!」
 俺の軽口に目をつり上げて抗議する真琴。
 やはり真琴にはこういう姿が似合っているな……そう思うのは俺の勝手な解釈なのだろうか。
 真琴をからかって少し気を取り戻せたが、やはり自分の馬鹿さ加減と現状を考えると鬱になる。
「ふぅ……ああ参った」
 脚を怪我している真琴と、高所恐怖症の俺。
 結局、俺達は揃って廃屋の屋根から降りる事が叶わなくなった。
「こういうのも二重遭難って言うのかな……」
 俺は小さく呟いた。

 そして太陽は完全に姿を隠し、闇がこの世界を覆い尽くしていた。



「あうーっ、お腹空いたよ……」
 お腹を押さえて蹲る真琴。
「何だお前、昼飯喰ってないのか?」
 俺が尋ねると真琴は黙って頷いた。
「やれやれ……しょうがないな。お前昼飯も持たずに飛び出したのかよ?」
「うん……」
「そこまでして俺に悪戯したいのかねぇ〜」
 俺がそう言いながら横目で見ると、真琴の身体は少し震えている様だ。
「寒いのか?」
「う、うん……」
「しゃあない、ほら……」
 膝を抱くように縮こまっている真琴の横に座ると、俺は上着を脱いで差し出す。
 一瞬驚いた表情を見せるが、素直に受け取ると上着を羽織り、「えへへ〜」と嬉しそうに声を上げた。
 その後しばらくは二人で並んで黙ったまま夜空を眺めていたが、流石に沈黙が飽きたのか、真琴が口を開く。
「ねぇ祐一、このまま見つからなかったらどうなるの?」
「大丈夫だって。”信じる者は救われる”って言葉を知ってるか? 何事も堅く信じれば願いは叶うという意味だ」
「それが何よ?」
「今の俺達に当てはめるなら、”助かる””何とかなる”と強く思っていれば助かるって事さ。
 お前だってみんなの事好きだろ? 佐祐理さんや舞や、名雪や、秋子さん、長森に折原、住井に北川、香里と栞、澪に南……そして恐らくは郁未先生や川名先輩、深山先輩も、みんながお前の事を探してる」
「う……うん」
「だから信じようぜ? みんなをさ」
 俺の言葉に、真琴は黙って頷いた。
「さて……」
 朽ち果てた廃ビルの屋上に座ったまま、俺はただ夜空を眺めていた。
「ねぇ祐一」
「何だ?」
「何で高いところが駄目なのよ?」
「うーん……何でだろうな。物心付いた頃には既にそうだった様な気がするな」
「ふーん、真琴は高いところ大好きよ」
「そりゃ”馬鹿と煙は高い所が好き”って言うからな」
”ぽかっ”
「誰が馬鹿よっ……痛っ」
 俺の頭を叩いて真琴が勢い良く立ち上がる……が、脚の怪我ですぐに苦痛に表情を歪めて、姿勢を崩す。
「そういう所が馬鹿なんだよ」
 俺がぶっきらぼうに言って手を差し出した時、真琴の立っていた足場が突然崩れた。
「きゃぁっ!」
「危ないっ真琴っ!」
 咄嗟に伸ばした手が真琴の腕を掴むも、俺の居た場所もまた底が抜けた様に崩れた。
 闇雲に腕を動かし鉄骨を捕らえて何とか落下は免れたが、片腕の力だけで長時間二人分の体重を支える事は無理だろう。
「きゃぁっ祐一っ助けてっ! あうーっ!」
「真琴、落ち着けっ!」
 暴れる真琴を必至でなだめながら、俺は何とかして真琴を引き上げようと、腕に渾身の力を込めてみたが、片腕ではやはり無理がある。
 むしろ無駄な体力を使い、状況を悪化させてしまった様だ。
「ま、真琴っ! 届きそうな足場は無いかっ?!」
 高所恐怖症の俺は下を見るわけには行かない。
 見れば確実に気を失うだろう。
「何処もないよー祐一……」
 どうやら完全な宙ぶらりん状態の様だ。
「〜〜っ、真琴ぉ、お、俺の身体を這い……上がれないかっ?」
 身体中から徐々に力が抜けていく。
 こうなったら完全に無くなる前に、せめて真琴だけでも助けたい。
 俺の言葉に、真琴が俺の腕と脚にしがみつき、何とかして這い上がろうと蠢くが、怪我と疲労と空腹と、そして何より恐怖心からうまく身体が動かない。
「む、無理だよ〜」
 二人分の重量を支えている、俺の右腕から力が抜けて行く。
「祐一もう良いよ! 無理しないでよー」
「馬鹿っ! 諦めるな」
 俺にしがみついていた真琴の腕の力が抜けて行くのが判る。
「畜生!」
 汗で真琴の手がズルズルと滑って行く。
「こんな……こんな訳の分からねぇ世界でくたばってたまるかっ! まだ約束も果たしてないのに……くそっ!」
「祐一、真琴もう力入んないよ……ごめんね何時も迷惑かけて……真琴は祐一の事、本当は……」
「真琴!」
 俺が大声を上げると、真琴の手から力が無くなり、汗の影響で俺の手から真琴の腕が滑り落ちて行く。
「真琴っ!」
 俺は叫んで下を見た。
 暗闇に慣れていた目のおかげでだろうか? 落ちて行く真琴がスローモーションで見える。
 でも俺の腕の動きはもっと遅くて、ゆっくり落ちて行く真琴に届かない。
 目が合った。
 真琴は微笑んでいた。

 落ちて行く――
 落ちて行く――
 落ちて真っ赤な――
 白い大地を染めて行く赤――

「もう嫌だっ!」
 何か漠然としたイメージが脳裏を掠め、俺は叫ぶと同時に支えていた方の手を自ら離して、真琴を追ってダイブした。
 地面が高速で迫り気を失いかけるが、意志でそれを押しとどめる。
 真琴が伸ばしていた手に俺の手が再び触れる。
 ありったけの力を込めて、真琴の身体を自分の懐へ引き寄せ衝撃に備える。
(真琴っお前だけはっ!)
 覚悟を決めた瞬間、俺達は見えない何者かに抱かれてゆっくりと地面へ降り立った。
「祐一さーんっ! 真琴さーんっ!」
 自らの脚で地面に立った俺と真琴に佐祐理さんが声を上げて駆け寄って来た。
 そして、いつの間にか俺の横には舞の姿。
「祐一も真琴も無事……良かった……本当に良かった」
 そう言って舞は俺に抱きついてきた。
「あうーっ佐祐理ー苦しいよー」
 ふと隣を見れば真琴が佐祐理さんに抱きしめられて苦しんでいる。
 そんな光景に、俺は自然と笑いが込み上げてきた。
「あはははっはっ」
 急に笑い出した俺に舞が少し驚いた表情をしている。
「有り難うな舞、それから”まい”も……」
 俺がそう言うと、風が靡き見えない何かが、舞の背後の空間へと飛び込んで行った。
「な? 何とかなったろ? 最後まで諦めなければ人間、何とかなるもんだぜ?」
「う……ん」
 俺の言葉に、佐祐理さんの抱擁から開放された真琴が小さく頷いた。
「さて、祐一さんっ!」
 見れば佐祐理さんが怒ってらっしゃる。
「な、何でしょう」
「佐祐理は心配で胸が破裂しちゃいそうでしたっ!」
 そう言いながら俺の真正面に立ち、俺の手を掴んで自分の胸の上に載せる。
「な、な佐祐理さんっ?!」
「ほら……まだこんなにどきどきしてます……」
 服越しに感じる佐祐理さんの心臓の音。
「あははははー、判りましたから手を……」
 乾いた笑いと共に、少し強引に手を引く。
 手の平に感じていた柔らかな感触に未練がないと言えば嘘になるが、ジト目で見ている真琴と射抜くような眼光の舞が居るので自制しておいた方が賢明だろう。
「さ、それじゃ合図を送っておきましょう。舞?」
 胸の前で両手を合わせながら笑顔の佐祐理さんが言う。
「……判った」
 舞が答えると、懐から花火を取り出し地面に置く。
 そして一緒に取り出したマッチで、その導火線に点火した。
「わぁ〜」
 導火線を伝わる火花を嬉しそうに眺める真琴。
 やがて火花が筒の中に消えると”ポーンッ!”と乾いた音と共に火の玉が夜空へと舞い上がる。
 その姿を追って行く俺達の視線の中で、やがて色とりどりの光りが闇夜に輝く。
 そして”ドーンッ!”と大きな音が、辺り一面に響き渡った。





§






「あうーっ」
 俺の背後から真琴の声が聞こえてくる。
 脚を怪我をした真琴を俺が背負って居るのだ。
 怪我そのものは、舞が治療したお陰で既に傷口も塞がり血も停まっている。
 しかし、大事を取って歩かせない方が良いだろう……という佐祐理さんの判断に従い、俺がその任を買って出たという事だ。
 水瀬家へ戻る途上、俺は背中の真琴を尋問し、迷子になった理由が俺への悪戯を仕掛ける為だった事を素直に認めさせた。
「全く……結局は、お前自身の身から出た錆じゃねぇか」
 俺は呆れた口調で言うと共に背中を揺らす。
「あうーっ」
「まぁまぁ、ともあれ無事だったんですからー」
「……」
 星明かりに蒼く輝く廃墟の中を、俺達は列んで――真琴が気になるのか、舞も珍しく俺のすぐ脇を歩いている。
 荒れたアスファルトの路面に、うっすらと三人+一人分の影が伸びている。
「祐一、重くない?」
 俺の耳元で真琴の珍しく遠慮気味な声がする。
「重い! 肉まんの食い過ぎだ」
 俺はいつもの様にからかうつもりで振り向きもせず、そのままの姿勢でぶっきらぼうに言う。
「ばか祐一ーっ! こういう時は気を利かせるもんでしょ!」
 背中から聞こえる抗議を黙殺していたが、真琴はポカポカと俺の後頭部を殴り始める。
 相変わらず痛くはないが、鬱陶しい事この上ない。
「止めろ! 背負ってやってるんだから有り難く思え!」
「ふーんだ、マンガならこういうイベントの時に優しい言葉をかけることが、ヒロインの気を惹くきっかけなのよ?!」
「イベント? 何だよそれ? 俺がお前の気を惹いてどうするんだよ?」
「祐一さん駄目ですよっ!」
 すぐ後ろを歩いている佐祐理さんの、俺を責める声が追いすがってくる。
 真琴に何を言われてもどうという事はないが、佐祐理さんに咎められるのは精神的にダメージがでかい。
「あうーっ」
「真似しないでよっ!」
「……祐一が言っても可愛くない」
 三人に責め立てられれば勝ち目はない。
「ったく、悪かったな。真琴は全然重たくないぞ」
 影を踏みしめて進む己の足を見ながらぶっきらぼうに答える。
「本当?」
 少し嬉しそうな声が背中から聞こえてくる。どうやらアッという間に機嫌を直したらしい。
「ああ、まるで犬や猫みたいだぞ」
「あははー、良かったですねー真琴さん」
「えへへー」
「嘘だ馬鹿、いくら軽いって言っても、お前が犬や猫程度の体重のはずないだろ?」
「……」
 俺の軽口に返事が返ってこないので、不思議に思っていると――
「寝てますよ」
 佐祐理さんが優しい声でそう教えてくれた。
「そっか……」
「流石に疲れてる……祐一は大丈夫?」
 俺と真琴を交互に見比べ、舞が心配げな表情で尋ねて来る。
「ああ、しかしまた舞には助けられたな」
「……気にしていない」
 目線をそらして答える舞。その言葉は本心なのだろうが、守ると約束した俺としては立場無い。
「やっぱり、車で来れば良かったですねーっ」
 佐祐理さんが俺の方を少し心配そうに見ながら言う。
「あ、別に重くないぜ。犬猫程じゃないにせよ……これは本当だ」
 そう言いながら、俺は背中の真琴を担ぎ直す。
 その時の振動に、「うーん……」と寝返りをうつが、起きる気配はない。
「何だか安心しきってますねー。やっぱり祐一さんの背中を気に入ったんじゃないですか?」
 そんな真琴の顔を見つめながら、佐祐理さんが笑顔で言う。
「おい冗談だろ? コイツは俺に隙有らば躊躇無しに攻撃してくる爆弾娘だぜ?」
「愛情の裏返しかもしれませんよー?」
「愛情なら、舞と佐祐理さんでので十二分に間に合ってるよ」
 俺がそう言い終わるとすぐに舞のチョップが脳天に飛んで来る。
 真琴を背負って両手が塞がっている俺に、それをかわすゆとりはない。
”ビシッ!”
「いてっ!」
「あははーっ、そんな事言ったら舞が照れちゃいますよ?」
 いや、もう遅いですって。
「そう言えば、この世界には犬や猫は居ないんだな? 鳥と魚は居たけど……」
「犬さん、猫さん……可愛いのに」
 舞は動物が居ない事が余程つまらないのか、寂しそうな口調で呟く。
「そうだな、以前なら犬猫だけでなく、丘の方まで行けば狐の姿だって見ることが出来たのになぁ〜」
「狐さん?」
 懐かしむように放す俺に、舞が興味を示したのか「狐」という言葉を反芻する。
「ああ」
「そーだよ、舞。ものみの丘に行くと、狐さんが居るんだよ」
「……」
 舞は無言だが、きっと頭の中では丘を駆けめぐる狐達の姿で一杯なのだろう。
「ああ、そう言えば俺昔傷ついた狐を拾って育てた事あるぞ」
「へー、いつ頃ですか?」
 俺の言葉に興味を覚えたのか、佐祐理さんが俺の方を見つめながら尋ねてきた。
「えーと、あれは多分舞と出会った時よりも、少し前くらいかな?」
「……十年前位?」
 舞も静かだが、興味深く尋ねてくる。
「ああ多分」
「ものみの丘でですか?」
「うーん……丘じゃなくて、街ん中だったと思うぞ。
 本来は丘に居た子狐だったんだろうけど、偶々街に出てきた奴だったんだろう。
 随分と衰弱した子狐を見つけて……ま、その時は猫か何かだと思ってたんだけどな。
 家に連れて帰って、暖めてミルクを上げたりしたな」
「……狐さん、どうなったの?」
 舞が少し心配そうな表情で尋ねてくる。
「ああ大丈夫だよ。心優しい少年の尽力で回復して無事野に戻った……はず」
”ビシッ!”
 何故か俺は舞のチョップを受ける。
「いて! 何すんだよ舞」
「憶測で物を言ってはいけない」
 目が真剣だ。狐の安否をそれだけ真剣に思ってるのだろう。
「そんな事言っても、つい最近思い出した事なんだぜ?」
「はへー、そうなんですか?」
「ああ、あの夜の学校……ほら、死にかけたろ? あん時にさ」
「祐一さんの言っていた無くした過去の記憶の一部なんですか?」
「さてどうだか? ま、一部には違わないだろうけどな」
「……狐さんは?」
 舞が再び狐の事を尋ねてくる。
 どうやら俺の記憶よりも狐の方が興味深いらしい。
「うーんそうだな……悪戯ばかりする子狐だったな。秋子さんに内緒で連れて来たから隠すのが大変で……まぁもっとも、今にして思えば多分バレバレだったんだろうけどな」
「クスッ、そうなんですか?」
「そりゃもう夜中に布団の中で暴れるわ、ちょっと出掛けて帰れば部屋ん中滅茶苦茶にするわ……ははっ大変だったぜ。あれでバレない方がどうかしてる」
「子狐さん……抱いてみたかった」
 少し恨めしそうな顔で俺を見つめる舞。
「無茶言うな。お前に合う前だし、子狐を拾った事は秋子さんにも内緒だったんだぞ。それに怪我もしていたし」
「……私に見せれば治してあげた」
「コイツ(真琴)みたいにか?」
 そう言って俺の脇を通って胸の横にある真琴の脚を見る。
 舞の治療によって、膝の擦り剥けた傷とアザは綺麗に無くなっている。
「真琴さんみたい……って言えば、その悪戯っ子の狐さん、性格も真琴さんみたいですねー?」
 そんな佐祐理さんの言葉に、俺が首を精一杯曲げて振り向くと、肩越しに真琴の髪が見て取れる。
 その時、あの廃ビルの屋上で――夕日に照らし出された真琴の髪の毛を見て思い起こした懐かしい思い。
 あれはそう……真琴の髪の毛に、どこか少年時代の俺が腕に抱いて連れていった子狐の毛並みを連想させたんだ。
「真琴か……まこと……まこと……」
「?」
 俺が真琴の名前を呟き始めた事で、佐祐理さんが不思議そうな表情で俺を見ている。
「……まさか」

『私の名前が判ったの! ”沢渡真琴”って言うのよ! 良い名前でしょ?』

 俺は真琴と出会って間もない頃、彼女が自分の名前を思い出した時の言葉を思い返す。
「どうしたんですか急に?」
「……?」
「いや」
 今になって、俺はまた一つ大事な事を思い出した。
 俺が当時保護した子狐に付けた名前。
 それが「沢渡真琴」だった。
 ガキの頃に憧れていた近所のお姉さんの名前を、俺は恥ずかしげもなく保護した子狐に与えたんだ。
 俺が助け、名を与えた狐の真琴。
 そして突然現れた、俺に漠然とした恨みを持つ真琴と名乗る少女。
 同じ名以外に接点のない二つの存在。
 この意味する事は何なのだろうか?
 
 誰が真琴の身分を証明したか?
 いや、誰もいない。
 そもそも、この街はさして大きなものでもない。
 こんな若い娘が行方不明になれば、大ニュースになるだろうし、警察だって馬鹿じゃない。
 戸籍的に存在している人間であれば、その所在はすぐに判明するはずだ。
 では真琴は戸籍上存在しないのではないのか?
 次にガキの頃の俺が憧れた沢渡真琴本人の可能性は? もしくは彼女との接点があるか?
 いや、そんな事はない。
 俺が知る限り彼女に姉妹は居ないし、そもそも彼女は俺よりも五〜六歳も歳が上だ。
 おまけに彼女のいた場所はこの街では無く、俺の実家のある街だ。
 俺の背中で寝息を立てている少女が、偶々「沢渡真琴」と偽名を用いる可能性はゼロでないにせよ皆無に近い。
 この街の住人で、俺が憧れていた「沢渡真琴」の存在を知っている人間は、秋子さんを含めて居ない。
 であるなら答えは一つだ。
 この少女は本当に「沢渡真琴」であるという事。
 そしてその答えが意味する事は、普通であるならば到底信じる事など出来ないものだ。
 しかし、舞や郁未先生の力を目の当たりにし、今こうして出鱈目な世界に生きる俺にとって、それは些細な事と言える。

 導き出した答えを受け入れると、俺の記憶の一部が、まるでジグソーパズルのピースがはまるように蘇ってゆく。
「そっか……真琴は真琴だったんだな」
 俺の呟きに、佐祐理さんと舞の二人が首を傾げる。
「あれ? 祐一さん泣いてるんですか?」
「……祐一」
 二人が両脇から、俺のことを心配げに見つめる。
 恥ずかしく照れくさいが、両手が塞がっている以上、溢れる涙を拭うことも叶わない。
「祐一……」
 舞が手にしたハンカチで、俺の目尻をそっと押さえてくれる。
「済まない。舞、佐祐理さんも有り難う。大丈夫だよ。大事な……とっても大事な、古い友達の事を思い出しただけだから」
「?」

 蘇った俺の記憶を俺はプレイバックさせる。
 あれは多分、十年前。
 完治した子狐を抱いてものみの丘へと向かった俺は、その地にその子を放った。
 俺が帰るまでその狐はずーっと俺の顔を見つめていた。
 風に揺れる草の狭間から見つめる一対グレーの眼差しと、揺れる橙色の毛並み。
 だとしたら……
(なぁ、真琴。お前は俺を恨んでいるのか? 人の温もりを与えた俺を)
「う、う〜ん……」
 俺の背中で寝返りを打つ真琴。次いで欠伸が聞こえて来た。
「真琴、起きたか?」
「うん……あれ? まだ着いてないんだ?」
「真琴さんが寝ていたのはほんの数分ですよー? でもほら、もうすぐですよー」
 佐祐理さんの言葉に、真琴が顔を上げて俺の頭越に先を見つめる。
 暗闇の中、唯一人工の明かりを灯している建物――水瀬家が見て取れた。
 見慣れた我が家も、ちょっとした大冒険を終えた真琴の目には、何とも感慨深く映ったのだろう。
「わぁ」
 嬉しそうな声が俺の耳元をくすぐる。
「なぁ真琴」
「何、祐一?」
「済まなかったな」
「へ?」
 真琴は何の事だか判らずに、きょとんとした表情で俺を見つめ返す。
「何でもない。さぁ我が家へ帰ろうぜ。そして飯だ」
 言い終えると同時に俺は真琴を背負ったまま走り出した。
「あ、祐一さんっ待って下さいー」
 突然駆けだした俺を追いかけて佐祐理さんと舞も走り出す。
「佐祐理さん、舞、家まで競争だ!」
「はい。佐祐理はこう見えても運動は得意なんですから、負けませんよー」
「……祐一、フライングはずるい」
「祐一負けたら承知しないんだからっ、肉まん十個よっ!」
 俺達は笑いながら水瀬家を目指して走った。
 背中にのし掛かる真琴の重さが何処か心地よかった。

 真琴の正体がたとえ何であれ、俺達の関係を崩す必要なんか無い。
 コイツが俺の前に現れた理由が、昔みたいに俺と戯れる事なのであれば尚更だ。
 ――だから俺は
「ったく、てめぇの所為で負けたじゃねぇか!」
 ――態度を改める事はしない。
「何よっ! 自分の力の無さを真琴の所為にするの?」
 ――なぁ? 真琴。
「はぁ〜舞早いねー」
「……私が一番。祐一は最下位」
 ――お前は今幸せか?
「祐一の馬鹿っ!」
 ――俺は
「悔しかったらもっと痩せてみせろっ!」
 ――こんなやり取りが楽しくて仕方がない。




 水瀬家に辿り着いた時、他の皆――郁未先生、川名先輩、深山先輩も含め――は既に戻っており、俺達四人を笑顔で迎えてくれた。
 さぞ心配していたのだろう、長森はうっすら涙を浮かべ、戻ってきた真琴をぎゅっと抱きしめていた。

 その後、俺達は手に余っていた花火を一斉に打ち上げた。
 夜空に煌めく色とりどりの花。
 俺達は歓喜をもって、夜空を彩る美しい花火に魅入った。


 佐祐理さんと長森の間で、秋子さんと名雪から手渡された肉まんを頬張る真琴の姿を見て、俺は心の中で今一度呟いた。




 ――お帰り、真琴。





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