目に見えるのは白い世界。
 辺り一面に降り積もった雪が、あらゆる物を純白な姿へと変えている。
 見上げれば空。
 陽が傾き、暗くなり始めた空にシリウスの輝きが見て取れる。
 木々の隙間から差し込む夕日に、白い雪が茜色に輝く。
 視界にきらきらと輝きながら舞い降りるものが映る。
 もう一度空を見上げる。
 疎らな雲の合間から雪がちらちらと降ってくる。
(えーと、風花だったっけ?)
 覚え立ての言葉を頭の中で反芻しながら、夕日に輝く雪に魅入る。
 とても幻想的な光景。
 こんな光景が見られただけでも、この日この場所へ来た甲斐が有るというものだ。
 お父さんやお母さん、おばさんや従姉妹、そしてあの不思議な子にも見せて上げたい。
 でもそれは叶わない。
 なぜなら此処は秘密の場所。
 僕と彼女の、二人だけの学舎。
 二人で交わした約束の地。
 その地を風が通り抜け雪が舞う。
 大気中の雪が夕日に輝きながら共に乱舞するその様は、風という物に天が”姿”を与えた様に思え、興奮しながらその姿を目で追った。
 そして更に強い風。
 大気中を舞う小さな輝きが掻き乱され散り散りになって行く。
 そして何かが落ちる音。
 茜色の世界を深紅の雫が染めて行く。
 目に映るのはえんじ色の世界。
 どうすることも出来なくて。
 目の前に広がって行くえんじ色の世界を
 僕は、ただ泣き叫びながら見つめていた。








■第17話 「隔靴掻痒」








「んあ?」
 目が覚めて瞼を開ければ馴染み深い部屋が見える。
 横向きに寝ていたのか、俺の視界に入るのは本棚と机、そして小さなクローゼットだ。
 暑い……が、不快感はない。
 相変わらず過ごしやすい気候と言えるだろう。
 にも関わらず俺は寝汗をかいていたらしい。汗ばむ身体が実に気分が悪い。
「夢……か?」
 俺は額に指を当てつい先程まで見ていたはずの夢の内容を思い出そうとしたが、覚えているのはただ漠然と雪が降っていた事だけで、それ以外の全ては忘却の彼方へと消えている。
「そういえば雪が懐かしいな……ははっ、あれ程寒いのは嫌だったのに、勝手なものだな」
 自嘲気味に笑い、身体にかかっていた布団……というか、タオルケットをどかしてベッドの上で上半身を起こす。
 途端、”ガーンッ!”と大きな音と共に俺の脳天を伝わる軽い痛み。
「いてぇ! ん? 何だこれはっ?!」
 頭をさすりながら見れば、天井から丁度俺の額の真上に金だらいが吊り下げられており、身体を起こした際に俺の頭部がそれに見事にヒットした様だ。
 別段痛いわけではないが、咄嗟の事なのでそれなりに驚いた。
「ったく、真琴の奴めっ!」
 こんな事をするのは真琴以外居ない。
 そう推理をして――というか確信を持って、俺は丁度頭の高さにある金だらいを縛ってある紐を解き両手に持つ。
 その時になって、ふとベッドの上、俺のすぐ横にもう一枚のタオルケットが有る事に気が付く。
 そしてそのタオルケットは盛り上がっており、中に何者かが居る事を物語っていた。
「だ、誰だ? まさかまた舞か佐祐理さん?」
 そうっと片手でタオルケットの端を摘んで持ち上げると、目に付くのは橙色がかった髪の毛。
「なっ! ま、真琴か?」
 俺の横で寝息を立てているのは予想に反して真琴だった。
「何でコイツが此処に?」
 俺が腕を組んであれこれ思案している内に、俺の部屋のドアがノックされる。
「祐一起きる」
「げっ!」
 ドア越しに聞こえてきた声に驚き慌て、俺は意味もなく辺りをキョロキョロと見回す。
(と、取りあえずどうずる?)
「もう起きたからすぐに行くっ! だから……」
 現状に驚き慌てた俺の脳味噌がまともに動作するわけもなく、ただしどろもどろな返答を返すのが精一杯だった。
 しかし、俺の言葉が終わらない内にドアが開くと、向こう側から舞が顔を覗かせた。
 咄嗟に俺はベッドに潜り込み、タオルケットを戻す。
「? ……お早う」
 一瞬怪訝そうな顔をした舞だが、片手を上げ挨拶をする。
「お、おっす!」
 何でいつもいつもこういう時にタイミング良く誰かが現れるのだろうか。
 内心で自分の運の無さを呪いつつ、俺は努めて平然として受け答える。
「祐一、何か隠してる?」
 が、勘の鋭い舞には一瞬で俺の擬態が看破される。
「な、何も隠してないぞ!」
「……」
 如何にも疑わしげな眼差しで俺の部屋の中を見回す舞。
(あのー何もそんな家宅捜索に来た査察官みたいな表情しなくても良いじゃないか)
 部屋の中を隈無く見ていた舞の視線が、やがてベッドの上の不自然に盛り上がったタオルケットへと注ぐ。
「な、何だ?」
 俺は平静を装い舞に問いかける。
「布団の中に何がある?」
 舞の疑問も最もだろう。
 今の俺の姿は、タオルケットを覆ってベッドに寝そべってはいるが、その腹部は金たらいを抱えたままなので不自然な程に膨れ上がっている。
「ああ、ほら」
 俺はそう答えてタオルケットの中から、そうっと金だらいを取り出し舞に見せる。
「……?」
 舞は不思議そうに俺とたらいを見比べる。
「いや、こうやって、たらいを腹に乗せて寝ると健康に良いんだ」
 自分自身でも呆れる言い訳に、内心で(何だよそれ!)と自分にツッコミを入れて舞の様子を伺う。
「……」
 無言の舞の視線が痛い。
「ほら、たらいだと身体との間に空間があるだろ? だから腹に乗せてその上から布団を掛けても蒸れないし、気分が良いんだ」
 無茶苦茶な言い訳だ。
 取り繕えばするほど泥沼な言い訳をしていると思える。
「祐一……」
 俺の目を見ながら舞が口を開く。
 覚悟を決めて俺は舞の言葉を待った。
「……私もやってみる」
「は? そ、そうか……ふぅ」
 舞の言葉に我を失いそうになるが、苦し紛れの言い訳が上手く行った事を悟り、俺はホッとした。
「ところで……祐一は身長伸びたの?」
 次いで舞の口から出た言葉に、俺は再び窮地に立たされる。
 考えてみれば、真琴の身体を挟み込む様にベッドに潜り込んだ為、タオルケット越しに見える俺の身体は、芋虫の様にやたら長く見えるはずだ。
「あ、ああ、伸び盛りだからな。えーと特に朝はよく伸びるんだ」
 自分でも馬鹿馬鹿しい程に苦しいと思う言い訳に、舞の視線が射抜くような鋭い物へ変わる。
「……祐一、大人しく見せる」
 流石に疑いを持ったらしい舞がずんずんと近付いて来る。
「止めろ! これは男の生理現象なんだっ!」
 苦し紛れの言い訳に、タオルケットを掴んだ舞の手が止まり、俺の顔をまじまじと見つめ……
”ビシッ!”
「痛ぇっ!」
 チョップを喰らわせると、顔を真っ赤にして舞は部屋を出ていった。
 過程はともあれ、結果的にチョップ一発で済んだのだから、これは大成功と言って良いだろう。
 最大級の危機は去ったのを確認し、俺は一気にタオルケットを引き剥がすと、その中で寝息を立てている小娘の身体を揺らす。
「起きろ真琴!」
「うーん……あれ? 祐一?」
 名雪とは異なり、真琴は寝起きは良い方だ。まぁ、もっとも名雪と比べるのは甚だ間違いと言えるが。
 手で瞼をこすり大きな欠伸。
 ついで四肢を伸ばして背伸びをしている。
 その暢気な動作に少し怒りが込み上げ、俺は言葉よりも先に手が真琴の頭に伸びていた。
「いたっ! 何するのよ祐一っ!」
 無論手加減はしているが、背伸びをして気分が良いところでちょっかいをかけられた事が余程腹に据えかねたのか、大声をあげて飛び起きる。
「うるさい、何でお前が俺の部屋、しかも俺の隣で寝ているんだ?」
「え? あ、本当……祐一の部屋だ」
 真琴はまるで今初めて自分の居る状況を悟ったかのように辺りを見回す。
「さて真琴。起き抜けに申し訳ないが、質問タイムだ」
「な、何よ」
「お前に拒否権はない。だが答え次第ではお前に肉まんをくれてやろう。では昨夜は何をしていた?」
 そう質問をしながら、俺は背後から両手で真琴の肩を掴んで拘束している。
 少し抵抗しようとしていた真琴だが、肉まんという言葉に大人しくなった。
「え、えーと、昨夜は浩平達とリビングでゲームして……」
「それは夕飯の後だな? それから?」
「みんなが眠くなったから寝る……って言い出したから、真琴も部屋に戻って……」
「ほう?」
「別れ際に浩平と護に質問をしたの」
「どんな質問かな?」
 俺はことさら優しい声色で真琴に尋ねる。
「祐一をぎゃふんと言わせる手段についてよ」
「ほう……で、俺はぎゃふんって言ったのか?」
「そりゃ目が覚めたら……あっ」
 誘導尋問にもなっていない詰問に引っかかる真琴の馬鹿さには呆れるが、そのお陰で共犯者が判明したわけだし、こういう時は役に立つ。
「とりゃ!」
”ゴウンッ!”
 かけ声と共に、俺はベッドの脇に置いたままのたらいを真琴の頭にプレゼントしてやる。
「あうーっ! な、何するのよっ!」
「黙れ! お前の所為でこちとら朝っぱらから命が縮む思いをしたんだぞっ!」
「え? じゃあ上手く行ったの?」
 俺の言葉に目を輝かせる真琴。
 全くころころと表情が変わって面白いヤツだが、今はそんな愛らしい部分を誉められるほど心にゆとりはない。
「馬鹿野郎! こんな稚拙な悪戯で俺が根を上げるか? お前の存在自体が俺の寿命を縮めるんだよっ。それよりも何でお前が隣で寝てるんだ?」
「それは……この仕掛けを作ってたら眠くなっちゃったから……」
 俺は真琴の答えに呆れる。
「何処の世界に、悪戯仕掛けてそのまま標的と一緒に寝る奴がいるんだよ?」
「あうーっ」
 悄げる真琴の姿。それはもう見慣れた姿と言える。

 コイツが俺の前に姿を現してからこっち、こうして何度も真琴の悪戯の標的となっている。
 悪戯自体に大した実害が無いので、俺もあまり気にはしていないし、最近ではそんな悪戯をしてくる真琴の姿に面白みを感じる事もしばしばだ。
 いつものように軽く頭をはたいて俺の折檻は終わる。
「痛っ、もう見てなさいよっ! 今度こそ祐一をぎゃふんって言わせるんだからねっ!」
 真琴も今の折檻がこの場の幕引きだと知っているのだろう。
 俺が手の力を緩めるとすぐにベッドから飛び出し、ドアのところで振り返り声も高らかに宣言すると、脱兎のごとく足早に姿を消したしまった。
「やれやれ……世界は変わろうとも真琴は変わらず……か」
 俺がそう呟いていると、階下から美味しそうな料理の香りが漂ってきた。





§






 リビングに差し込む日差しに、今日も晴天だということが感じて取れる。
 暖かな日差しに包まれたリビングでは、もはや朝の日常と化した賑やかな朝食が始まっている。
 どんなに騒がしい日々だって、毎日続けばその騒ぎが日常となる。
 そう、あの学園祭準備期間の様に。

「おい醤油取ってくれ」
「はい、祐一」
「サンキュー名雪」
「それにしても相変わらず秋子さんの料理は美味しいな」
「全くだ。毎日こんなメシが食えるんだから、俺達は幸せ者だよな」
「あら、北川さんも住井さんも有り難うございます」
 こうして大勢で食事を摂るのも、今となっては当たり前の光景になった。
 世界が変わり果てても秋子さんの笑顔は、真琴の悪戯同様に相変わらずだし、他の面々も相変わらずといったところだ。
 郁未先生や川名・深山両先輩が居なくなって少し寂しくなったとはいえ、やはりこれだけの大人数であるから、一同に集まる朝・晩の食事時はいつも大騒ぎだ。

 こんな光景が日常化すれば、今居るこの世界こそが本来の姿なのでは? という錯覚にすら陥る事もある。
 以前の世界での事を全てを忘れて、今の世界を受け入れればどれほど楽だろうか?
 そんな事を覚えたのは一度や二度ではない。
 舞や佐祐理さんと、適当な廃屋に移り住もうか? なんて事も考えた事がある。
 ――実際に三人で話し合った。
 しかし、ここはあくまで俺達の居た世界とは異なる世界。
 俺達の約束は、その約束を交わした世界で実現させようと誓い、こうして三人揃って水瀬家に残っている。
 ふと、そんな事を思い出し箸を止めて二人の顔を見る。
「はい? どうかしましたか?」
 俺の視線を感じてか、佐祐理さんが微笑みながら首を傾げる。
「……」
 舞は何事も無かったかのように、黙々とご飯を口の中へかき込んでいる。
「いや、何でも……」
「何だ相沢、食欲が無いならオレが食うぞ?」
 ご飯のお代わりをもらいに来たのだろう。俺の背後から北川の声が聞こえてきた。
 茶碗を片手に持った北川が、もう片方の手にしてた箸を伸ばして来る。
 俺の皿に盛られていたウインナーに北川の箸が届く寸前、舞の箸が北川の箸を掴む。
「おおっ! やりますね川澄先輩」
「……駄目」
「おお、舞有り難うな……って、お前が食うな!」
 俺が感謝の言葉を言っている途中に、舞は俺のウインナーを摘むと素早く口に放り込んでいた。
「祐一要らないって言った」
「言ってない!」
 俺が間を置かずに反論すると、舞は箸を加えたまま何やら考えている。
 しばらくして「……そうだった」と一言呟くと、何事もなかったかの様に食事を再開した。
「おい……」
 溜息を付きながらリビングを見回す。
 騒がしい朝食を楽しんでいる皆の姿に、以前の重苦しい雰囲気は無い。
 
 あの夜――ヘリックスでこの世界の実態を目撃したあの夜から数日、俺達は皆一様に変わって行く世界に対してある種の恐怖心を抱いていた。
 しかし、危険性が皆無である事に気が付くと、皆は徐々に今の新しい日常を受け入れ始めた。
 そして今や、この騒々しい日々こそが新しい日常であり、この家に四人しか居なかった頃の事がもう随分前の事に思えてくる。
 折原や住井に至っては、今の状況を嬉々として受け入れており、毎日を面白おかしく過ごしている。
 俺自身、以前の世界での事が夢のように思える事もあるが、俺自身の探求心――好奇心かもしれない――と、そして何より三人で交わした約束が、何とか今の俺を踏み留めている。
 過去の現実を見失いそうになると、俺は決まって庭に視線を移す。
 リビングの窓から庭を見れば、そこにはあの夜、不時着したままの状態で佇んでいる郁未先生のヘリコプターの姿が見える。
 あのヘリックスこそ、以前の世界が存在したという証に他ならない。
 大都市とは言えずとも、大勢の人々が暮らしていたかつての街。
 その街で過ごしたかつての日常を反芻してながら、俺はあのヘリを見つめる。
 キャノピーが太陽光を反射させ、憎たらしい程に白く輝いている。
(そうだ……白い輝き……)
 眩しさに目が眩み、視線をリビングへと戻す。
 慌ただしく食事を摂る野郎共、笑顔で美味しそうに食べている長森や名雪達。
 俺の横では舞と佐祐理さんが、やはり楽しげな表情で食事をしている。
「それにしても、雪が懐かしいな」
 差し込む日差しに目を細めながら、俺は今朝見た夢のイメージを思い出して呟く。
「ん? そうだな……」
 そんな俺の呟きに折原が同意し、他の何人かも無言で頷く。
「祐一は雪が嫌いだったんじゃないの?」
 一枚目のトーストを平らげて満足げな名雪が言う。
「ああ……雪を見ると漠然とした不安を覚えるんだよな。何より寒いのが嫌だったし。しかしこう毎日が暑いと、寒かった日々を懐かしいとは思うぞ」
 俺がお茶を啜りながら答える。
 嘘だ。
 俺の雪に対する感情は、不安等という言葉では当てはまらない。
 本当の理由は判らないが、それは嫌悪・畏怖と言っても良いほどのものだ。
「私は雪大好きですよ。いずれは十メートルの雪だるまを作るのが夢ですから」
 栞は自分の言葉に目を輝かせている。
 恐らく本気で十メートル級の雪だるまを作る気なのだろう。
「うーん、わたしは夏の方が好きだよ」
 そう楽しげに答えたのは長森だった。
「へー、そうなんだ?」
 七瀬が少し意外そうに尋ねる。
「うん。だって、冬だと浩平、全然布団から出てこないし……起こすの大変なんだもん」
「ぐはっ! オレが理由かよ?」
 そんなやり取りに皆の笑い声がリビングにこだまする。
「はいはい、お二人共ご馳走様〜」
 七瀬が呆れた表情で呟きながら、手のひらで首筋を扇いでいる。
「ね七瀬さん、イチゴジャム食べる?」
 テーブルの対面では心底幸せそうな顔をした名雪が、隣の七瀬に大好物のイチゴジャムを奨めている。
「あ、有り難う。でも、あたし今日はご飯だから」
「えーっ、お母さんのイチゴジャムは絶品だよ? ご飯にだって合うんだから」
「……」
「おい水瀬、幾ら何でもそりゃないだろ?」
 言葉を失っている七瀬に変わって折原が言う。
「えーっ? 私このジャムならご飯三杯はいけるよー」
「キモイぞ名雪」
 俺の言葉に頬を膨らませて抗議する名雪。
「好きな物は、何時だってどんな食べ方だって美味しいんだよっ」
「うん。判るよ名雪」
「私もその気持ちよく判りますっ」
 長森と栞が名雪に同意するが、正直三人とも好物に対する執念は偏っているので、彼女達の意見が一般的とは言い難い。
「真琴も肉まん大好きーっ、肉まんでご飯三杯食べられるわよ」
 ――ああ、もう一人いたか。
 どうも姉貴分である名雪の影響を、多分に受けてしまった様だ。
 流石に此処で舞は「私は牛丼でご飯三杯食べられる」とは言わなかった。ってゆーか、それって実質ご飯四杯?
「ねぇねぇ、今日は何するのー?」
 食事の手を休めて、目を輝かせながら真琴が折原達に尋ねる。
 今の状況を最も楽しんでいると思われるのがこの娘だ。
 何せ、人見知りが人一倍激しいくせに、遊ぶことが大好きと来ているから、現状のような時間を気にせず遊べ、赤の他人が居ない世界というのはとってもお気に入りなのだろう。
「そうだな……今日はレースでもするか?」
「レースって言っても倉田先輩のインプレッサと、秋子さんのプレミオじゃ勝負にならんぞ? ボンゴなんて論外だし」
 折原の提案に住井が異議を唱える。
 彼らの会話からも判るが、世界が変わってからは、無免許の者も車を乗るようになっている。
 無論、秋子さんや佐祐理さんから必要最低限の講習は受け、許可の下りた者に限られている。
 ”世界が変わろうとも最低限のマナーは必要”とは秋子さんの言葉だ。
「駄目だよ浩平。人の車なんだから乱暴に扱ったら。それにレースなんて危ないよっ!」
「まったく、お前の言うことは正論だな。んじゃ、今日も学校行くか」
 折原がそう言うと、他のみんなから賛同の言葉が発せられる。
「それじゃ今日も泳ぐ?」
「沢口〜っ。退屈でワンパターンな発想は老化を招くぞ」
「オレは南! ああ、もういい加減もうどうでもよくなってきたよ……」
 住井にからかわれた南は半無きの表情だ。
 南の隣に座っていた澪ちゃんが、一生懸命腕を伸ばして南の頭を撫でている。
「有り難う澪ちゃん。何て優しいんだぁ〜」
 南は半無きから本格的に涙を流し始めた。
 慰められた事が余程嬉しかったのだろう。
「よっし! 今日は学校跡大ドロ警大会だっ!」
「おい住井、今更ドロ警か?」
「何を言うか北川。こういう単純なものこそ盛り上がるんだぞ」
 俺達の通っていた高校は現在水没しており、その大きな池と言ってもよいその水たまりは、水質も良く格好のプレイスポットとなっており、皆は度々(二日に一回は)その場を訪れている。
 校舎の屋上からダイブしたり、日光浴をしたり、校舎内でサバイバルゲームをやったり、池の上をジェットスキーやボートで駆け回る。
 腹が減っても、川名先輩と深山先輩が営む食堂が目の前なので非常に便利らしい。

 自由な世界であるから、皆は気ままに遊びまくっているわけで、学校跡地以外でも色々な事を行っては騒いでいる。
 川で釣りをしたり(不思議と大きな魚が居たりする)、みんなでサイクリングに出かけたり、ローラースケートでレースをしたり、夜になれば花火大会を実施したり、半壊して野外シアターと化したかつての駅前映画館で映画を観たりと、毎日この楽園の様な世界を満喫している様だ。
 ジェットスキーや、ボート、エアーガンに、自転車、ローラースケートといった物は、水瀬家に有った物でなければ、俺達の誰かの物……という訳でもない。
 予定を立て実行しようとすると、気が付けばそこに存在しているのだ。
 当初は俺達以外の別の人間がこの世界に居るのではないか? とも思ったがそんな形跡は無く、食料品同様にこの世界が用意した物と判断した。

「あたし、今日は残るわ」
 食事の手を休めてそう言ったのは香里だ。
「あれ? お姉ちゃん行かないんですか?」
「美坂が残るならオレも……」
「悪いけど静かな処に居たいのよ。遠慮してくれる?」
 北川の言葉を遮る香里。
 哀れな北川は椅子の背もたれを抱きしめながらの之字を書いている。
 その姿は不気味この上ない。
「そんなわけだから、名雪の部屋また借りるわよ?」
「判ったよ。好きなだけ使ってね」
 そう言うと、名雪はイチゴジャムを大量に乗せた三枚目のトーストを頬張る。
 実に幸せそうな顔だ。

「さてと、ご馳走様」
 箸を置き、両手を併せて礼をする。
「どういたしまして」
 別に誰に言ったわけではないが、秋子さんが笑顔で返事をしてくれる。
「ご馳走様〜っと。あ、秋子さん、今日は買い出しは要りますか?」
 食事を終えた折原が秋子さんに申し出る。
「大丈夫ですよ。今日は特に何もありませんから。食事の後は自由にして下さい」
 基本的に昼ご飯は各々が自由に摂る事になっている。
 これは秋子さんの休息と、それぞれ飲食業を営み自活を始めた三人に対しての配慮でもある。
「さて……」
 食事が終わると俺達三人の日常は他の者達とは異なるものへ変わる。
 無論三人とは、俺と舞と佐祐理さんを指す。
 希に皆に付き合って遊ぶことも有るが、基本的に俺達は朝食が終わると、佐祐理さんの作った弁当を持って出掛けている。
「何だ今日も三人でお出かけか?」
「ああ悪いな」
 俺が折原の言葉に頷くと、対面にいた真琴が立ち上がる。
「祐一も佐祐理も付き合い悪いーっ!」
 そう文句を言いながら小走りにやってくると、そのまま佐祐理さんに抱きつく。
「ごめんなさい真琴さん」
 佐祐理さんが心底済まなそうな表情で、頬を膨らませて抗議する真琴の頭を撫でる。
 一緒に連れて行こうと思ったことも有るが、俺達三人のする事は、他の奴等とは異なり遊びに行く訳ではなく、特別に面白い事をする訳ではない。
 この自由奔放な娘が、地味な調査活動に満足する事はあり得ないだろう。
 ともすれば、俺に対しての悪戯に終始するのは目に見えている。
 流石に真面目に調査活動をして居る時に悪戯されるのは鬱陶しいので、こうしていつも折原達に預けているのだ。
「駄目だよ真琴。ほらわたし達と一緒に遊ぼ?」
 長森がことさら優しい口調で言うと、真琴も機嫌を直して彼女の差し出した手に自らの手を重ねる。
『今日も一緒に遊ぶの』
 そんな字が大きく書かれたスケッチブックを澪はニコニコしながら真琴に見せる。
 そんなやり取りの内に、真琴の機嫌も良くなったのだろう、「うん」と笑顔で頷くと澪の手を引いて元気良くリビングを出て行った。
「おい、真琴! 自分の食器くらい片づけて行け! ……ったく」
「それじゃ後片づけしちゃいましょう」
 佐祐理さんが空いた食器を手際よくトレイに載せて行く。
 舞も無言で佐祐理さんを手伝っている。
「長森」
「何?」
 笑顔で隣のテーブルの食器を片づけている長森に、俺は声をかけた。
「真琴の事頼むな」
「うん任せて。わたし、真琴大好きだから」
 笑顔で答える長森。見れば七瀬が少しだけぶすっとした表情で、こちらを見ている。
「おっ七瀬さん、長森さんを巡って強力ライバル出現でご機嫌斜めか?」
 そんな表情を見逃さす、住井が茶化す。相変わらず耳ざとい奴だ。
「うるさいわねっ! 違うわよっ!」
「あはは……わたし、七瀬さんも大好きだよ」
 長森が屈託の無い笑顔で言う言葉に、七瀬は顔を真っ赤にして、乱暴気味に食器をトレイに載せてキッチンへと走っていった。
「うーっ」
「ん? どうした名雪?」
「な、何でもないよ祐一。あははは」
 名雪もまた慌てて食器を持って立ち上がるとキッチンへ向かって行った。
「何だアイツ?」
「さぁ? どうでしょうね。あははー」
 佐祐理さんは笑うだけで何も答えてはくれなかった。

 リビングを出た俺達はそれぞれ準備を済ませると、再びリビングに集まった。
 俺達が準備をしている間に、折原達は既に出掛けた後だった様子で、リビングには舞の姿しかなかった。
「さて、それじゃ行くか? 佐祐理さーん」
 俺が舞に声をかけると、舞が手にした刀を確かめてから立ち上がる。
「あ、待って下さーい」 
 丁度キッチンの中からそんな声が聞こえて、風呂敷包みを抱えた佐祐理さんが姿を現す。
 秋子さんも一緒に出てきたところを見ると、二人で弁当を作っていたのだろう。
「お弁当も出来ましたよー」
 佐祐理さんはそう言って、手にした風呂敷包みを胸の高さまで持ち上げニッコリと笑う。
「おっし、準備オッケー、レッツゴー!」

 玄関の扉をくぐると、少しきつめの日差しに、一瞬目を奪われる。
「行ってらっしゃい。気を付けて下さいね」
 秋子さんの笑顔の見送りを受け俺達は外に出る。
 三人揃って家を出ると、外に停めてあるレオパルドへ乗り込む。
 インプレッサとボンゴは他の者達が使っているのだろう、既にその姿は無い。
「よっし、舞運転頼む」
「……判った」
「佐祐理さんは、舞のサポートと中で例の計算をお願いします」
「はい」
 二人がレオパルドに乗り込むと最後に俺が砲塔上部に登る。
 ハッチを開けて指揮官用キューポラに収まり、砲塔上部のハッチから半身を出した状態で、目の前の装甲表面に紙を張り付ける。
 その紙には、俺達の調査によって徐々に判ってきたこの世界の地図――無論、まだ完成はしていない――が書かれている。
(さて、今日はどうするか……)
「相沢君」
 俺が頭の中で今日の計画を立てていたところ、頭の上から呼ぶ声がかかる。
 見上げればベランダから香里が俺に手を振っていた。
「おっ香里わざわざ見送りか?」
「ええ」
「そうか、サンキュー」
「ねぇ、相沢君?」
「何だ?」
「この世界どう思う?」
「……良くできてると思う」
「出来てる?」
「ああ、巧く作られてるって意味さ。誰が作ったのかは判らねぇけど」
「前の世界に戻れると思う?」
「判らない。だが、俺達は戻る為の手がかりを調べてるんだ」
「そう」
「なぁ香里、お前も一緒に来るか?」
 俺の誘いに香里は一瞬儚げな笑顔を見せ頭を振る。
「ううん遠慮しておくわ。あなた達の邪魔したくないし」
「お、おい香里、俺達は別に」
「ふふっ、冗談よ。あたしはあたしのやりたい事をさせて貰うわ」
「そうか」
「相沢君、私はね……」
 香里の言葉を遮るように、レオパルドのエンジンが咆哮を上げる。
「あ? 聞こえないぞ!」
 俺は大声を出しつつ、手を耳に当てて聞こえないとジェスチャーを送る。
 香里は「何でもない」と言うように、目を伏せて頭を振ると、大げさな程に手を振って俺を見送ってくれた。
 だから俺も大きく手を振って香里に答えた。
 舞の操縦でレオパルドは無限軌道をきしませながら走り始める。
 徐々に水瀬家が小さくなって行く。
 俺達は互いの姿が見えなくなるまで手を降り続けた。





§






 香里はベランダから、騒音と砂埃を巻き散らしながら小さくなって行くレオパルドの姿を見つめていた。
「あたしは……」
 一人呟く。
「あたしは……耐えられないわ。もう」
 それは祐一の耳に届かなかった声。
「こんな出鱈目な世界……」
 吐き捨てる様に呟くと辺りを見回す。
 ――全ては偽りだ。
 木も建物も水も大地も……いや、空気さえもフェイクかもしれない。
 この世界は狂ってる。
 何故みんな平気で受け入れられるのだろうか?
 あの夜、ヘリックスから目撃した光景は、香里のアイデンティティーを粉々に打ち砕いた。
(そうよ、あたしはこんな不条理の塊の様な世界は認めない)
 香里はベランダから名雪の部屋へ戻ると、名雪の机へと向かいノートを開く。
 この世界では全く意味を持たぬ目覚まし時計に囲まれながら、彼女はひたすら自分の考えをまとめるためペンを走らせる。





§






 不快感の無い、程良い暑さ。
 それがこの世界における気候であるが、折原達が水遊びをする時、つまり学校跡地へと向かう時は、決まって普段よりきつい日差しとなる。
 インプレッサとボンゴに分乗して学校跡地へと遊びに行った者達は、住井の提案通り校内全てを使ったドロ警を行った。
 ちなみにジャンケンで決まったチーム分けは以下の通り。
 【折原、澪、名雪、北川、真琴】vs【住井、瑞佳、七瀬、南、栞】
 戦力的にもバランスが取れていた上に、遊びに対して全力で挑む折原と住井が敵味方に別れて居るためか、随分と白熱した勝負となり、参加した者達は午前中で体力の殆どを消費してしまった。

”ビュン・ビュンッ!”
 竹刀が風を切り音を立てている。
 皆が休憩に入ってから、七瀬は一人で抜け出して近くの適当な場所で竹刀を振っていた。
「はぁ……」
 七瀬は思い切り深く溜息を付くと、何度か頭を振って手にした竹刀を握り直す。
「はっ!」
 ことさら大きな声を出し気合いを入れ直すと、両手で上段に構えて素早く振り下ろす。
 一回、二回、三回……まるでビデオのリピート再生の様に、同じ型で竹刀を振り下ろす。
 同じ動きが百回程続いただろうか、七瀬の額に汗がにじみ出て、彼女が腕を振る度に汗が飛沫となって宙を舞う。
「う〜ん……」
 暫く同じ動作を繰り返していた七瀬が、不意に動きを停めると首を傾げる。
「やっぱり、昔の様にはいかないわね〜」
 一度深く空気を取り入れて呼吸を整えると、踏み込みながら上中下段と変化させて連続に技を繰り出す。
 最後の下段は地面すれすれの軌道で振り、地面に有った小石を空中へ放り投げる。
 七瀬は竹刀を振った勢いをそのまま利用し身体を素早く一回転させて中段突きを一閃。
 先程放り上げた小石が、竹刀の先端に見事捕らえ、小石はそのまま遠くへと飛んでいった。
”パチパチパチ……”
 唐突な拍手に七瀬が驚く。
「誰?」
「七瀬さん凄いね。調子はどう?」
「み、瑞佳どうしたの?」
 瓦礫の塀からひょっこりと顔を出していたのは、折原達と一緒に居るはずの長森だった。
「はい。七瀬さんお昼ご飯まだでしょ? 持ってきたよ」
 そう言って近付くと、長森は七瀬に差し入れの入ったビニール袋を差し出す。
「有り難う。えへへ」
 少し照れながら礼を言うと手を差し伸ばす。
「はいこれ。川名先輩のところから貰ってきた奴だけど……良いよね?」
 手渡されたビニール袋から取り出した物は、二つのおにぎりと鯛焼き、そして思った通り牛乳だった。
「な、何だか凄い組み合わせね……」
(これは鯛焼きをおかずにおにぎりを食べろ……って意味かしら?)
 心の中でそんな事を思いつつも、当然好意を寄せている者からの差し入れであるから、本人としてはとびきりの笑顔で礼を言う。
「折原達は?」
 適当な瓦礫の上に腰を降ろし、手にしたおにぎりを頬張りながら尋ねる。
「え? あ、浩平達はまだ学校だよ。今かくれんぼの最中なんだ」
 なるほど、かくれんぼなら体力はあまり使わないだろう。
 長森が隣まで来て同じ瓦礫にちょこんと腰を降ろす。
 そしてもう一つ持っていた紙袋から、自分の分であろう鯛焼きを取りだして嬉しそうに食べ始める。
「ふーん……って、それじゃ抜け出してきたの?」
(それって……わざわざあたしの為に?)
 七瀬はどぎまぎしながら瑞佳の顔を見つめる。
「うんそうだよ。うわっ美味しいね、これ。」
 長森もまた笑顔で答える。
「う、うんそうよねっ。鯛焼きは乙女の必須アイテムよねっ!」
 七瀬は慌てて目を逸らすと、鯛焼きを無理矢理頬張る。
「あ、七瀬さん、慌てたら喉が詰まるよ?」
「むぐっ!」
 長森が心配すると同時に喉を詰まらせる七瀬。
「ほら、もう慌てんぼさんなんだから。はい」
 長森に手渡された牛乳パックのストローを含むと一気に中身を吸い上げた。
「はぁ……助かった。有り難う瑞佳……って、これ瑞佳の?」
 七瀬は自分の牛乳が未だビニール袋に入ったままである事を確認して、驚きの声をあげる。
「え? うんそうだけど……飲みかけは嫌だったかな?」
「ち、違うわよっ、全然オッケーよ! むしろ嬉しい……って、あたしってば何言ってるのかしらね? あはは……」
 長森はそんな慌てる七瀬を笑顔で見ていたが、急に表情を真剣なものに変えた。
「ね、七瀬さん」
「な、何?」
「わたしの事……本気で好きなの?」
「な、な、な」
 突然の質問に言葉を失う七瀬。
 鯉のように口をパクパクとさせながら、食べかけていたおにぎりを思わず膝の上に落とす。
「わたしはね……今朝も言ったけど好きだよ。七瀬さんの事」
「え゛?」
「ねぇ七瀬さん。時間って何かな?」
「はい?」
 唐突な質問の内容に驚く七瀬。
「わたしは、時間というものは最初から存在して無いと思うんだ。そう、時間というものは人間の意識の中だけに存在するんだよ。意識の産物なら時間に関する概念を意識の外に置くことで、時の流れから抜け出せると思うんだよ」
「あは、あはははっ……あたしって馬鹿だから判らないな」
 七瀬は長森の言っている事が理解できず、頭に手を当てながら笑って誤魔化す。
「だから七瀬さんが望むなら、そうする事で永遠に自分の夢を叶える事が出来るの」
「う、うん……」
「そこは七瀬さんにとっての竜宮城。乙姫さまは、わ・た・し」
「瑞佳?」
「七瀬さんが望むなら……わたし、七瀬さんと一緒に竜宮城に行ってもいいんだよ?」
「み、瑞佳? それってどういう……」
 胸が高鳴る。
 自分の心臓の音がうるさいほどに頭に響く。
 何となくだが長森の言葉の真意が判って、七瀬は唾を飲み込み気を落ち着かせる。
「一緒に……」
 長森が口を開いた時、地面の瓦礫を踏む音が背後から聞こえた。
「きゃっ?」
 七瀬は、自分らしからぬ声を上げると後ろを振り向く。
「あ、七瀬さん発見〜」
「な、名雪。驚かせないで」
 姿を現したのは名雪だった。
「え? ご、ごめんね驚かせちゃったかな?」
「ううん、別に良いけど。はぁ〜びっくりした。ねぇ瑞佳? ……ってあれ?」
「どうしたの?」
「あれ、さっきまで瑞佳が居たはずなんだけど……おかしいな」
 見れば七瀬の隣で座っていた筈の長森の姿はなかった。
「え? そうなんだ。でも瑞佳ってさっきまで、わたし達と一緒にかくれんぼしてたけど?」
「嘘っ!?」
 驚き自分の手を見れば、長森から手渡されたビニール袋も差し入れも其処に存在している。
 自分の膝を見れば、食べかけのおにぎりも落ちたままだった。
「嘘じゃないよ。それよりも七瀬さん、今からみんなで釣りに行くんだけど一緒に行こ」
 訝しむ七瀬の手を掴んで名雪は走り始めた。
 七瀬の膝からおにぎりが転がり落ちる。
「ちょ、ちょっと名雪っ! 判ったから手を……」
 そんな七瀬の声がどんどん遠ざかって行く。
 誰もいなくなった空き地の瓦礫――先程まで七瀬が座っていた物――に、白い帽子を深くかぶった幼女が座っている。
 風が靡く。
 砂埃が舞い、風が止むと同時にその幼女の姿も消えていた。





§






 軒先につるされた風鈴が爽やかな音を奏でているが、裏手から聞こえるディーゼル駆動の発電器の騒音が台無しにしている。
 ここは、学校の正面にあった旧川名家の跡地。
 今では川名先輩と深山先輩が営む食堂――通称「みさき屋」――になっている。
「かき氷始めたんですか?」
 みさき屋に入った俺は、むき出しのコンクリートの壁に貼られた『かき氷始めました』と書かれたチラシを見て言った。
「ええ、暑いし、みんなからリクエスト受けてね」
 Tシャツとショートパンツ、そしてエプロンを着けた深山先輩が応じる。
「それにしても、今日も三人で調べ事?」
 深山先輩が、向かい側のテーブルにある椅子を引き寄せて腰をかけると、俺達に笑顔で語りかける。
「ええ。……あれ? 川名先輩は?」
「ああ、あの子なら奥の厨房を罰掃除してるわ」
「罰……ですか?」
 佐祐理さんが遠慮がちに尋ねる。
「ええ、つまみ食いするなっ! ってあれほど言ってるのにした罰」
 深山先輩がそう言うと、店の奥から……
「今回は本当に違うんだよー。信じてよー雪ちゃーん」
 ――という声が聞こえてくる。
 ”今回は”というからには、以前から似たような事は有ったのだろう。
「うるさい! 人がせっかくお昼ご飯に……と握ったおむすびと、おやつ代わりに取って置いた鯛焼き食たんだから、きりきり働きなさいっ!」
 ピシリと言い放ち川名先輩の弁明を切り捨てる。
「うぇ〜っ……本当に違うのに……」
 奥から川名先輩のいじけ声と、キッチンをスポンジか何かで擦る音が聞こえてくる。
「あはは……深山さん厳しいですね」
「そうかしら? 食べ物の恨みってのは恐ろしいのよ。ところで何か食べて行くんでしょ?」
 佐祐理さんに笑顔で答えると、深山先輩は立ち上がり俺達に尋ねる。
「んじゃせっかくだから、かき氷下さい」
「佐祐理も頂きます」
「……かき氷、嫌いじゃない」
 四人掛けのテーブルに着くと、俺達三人は揃ってかき氷を注文した。
「みさきーっ、かき氷三つよ」
 深山先輩が店の奥に声をかけると、奥から「うん。判ったよー」という川名先輩の返事が耳に届く。
 日が傾き始めた頃、休憩がてらに立ち寄ったみさき屋。
 周辺にインプレッサやボンゴの姿が無い所を見ると、どうやら折原達は別の場所へ移動したと思われる。
 尚、この世界に通貨の概念は存在しない。
 故に商品に対する代金も存在しない。
 彼女達や郁未先生がこうして飲食店を経営しているのは、あくまで真似事に過ぎない。

 やがて深山先輩がトレイに三つのかき氷を載せてやって来た。
「はい、お待たせ」
「わぁー綺麗ですね」
「……雪みたい」
 運ばれて来た白く輝くかき氷に感動したのか、佐祐理さんが顔をほころばせる。
 舞も笑顔ではないにせよ、喜びを言葉で表している。
「それじゃシロップは好きなのを選んでね」
 そう言って、テーブルに色とりどりのシロップが置かれる。
「何にする?」
「佐祐理はレモンにしますね」
「……私はメロン。祐一は?」
「うーん、じゃ、俺はイチゴにするかな」
 思わずイチゴを選んだのは名雪の影響だろうか?
 知らずの内に俺もイチゴの魔力に取り憑かれているのだろう。
(おお恐ろしい)
 そんな考えに苦笑しながら、俺はイチゴシロップのビンを手に取り、キャップを開ける。
 わざとらしい程に強烈なイチゴの香りが鼻孔を擽る。
「わぁ〜綺麗ですねー」
「……メロンも綺麗」
 佐祐理さんと舞が自分達のかき氷を彩った、鮮やかな色彩に思わず声を上げている。
「あは、美味しいですね」
「……痛い」
「舞、急いで食べるからだぞ。落ち着いて食え」
 喜ぶ二人に微笑みながら、俺も自分のかき氷にシロップをかける。
 純白の氷が真っ赤な色に染まって行く。
 いや、浸食してゆくと表現すべきだろうか?
 赤く染まって行く氷を見つめている内に、俺の意識はその一点に集中した。
 その瞬間、世界から音と景色が消えた。
 何も聞こえない、何も見えない。
 俺の視界に映るのは真っ赤に染まって行く雪だけ。
 暗闇の中、目の前の赤い雪だけが俺の目に映る。
「……いち!」
「……ういちさん!!」
「相沢君!」
 三人の俺を呼ぶ声と、俺の身体が激しく揺らされた事で意識が突如戻る。
 隣に座っていた舞が心配そうな表情で俺の肩を掴んでいた。
「あ、あれ? うげっ!」
 意識が戻ってみれば、テーブルの上から滴る大量のイチゴシロップが俺のズボンを濡らしてゆく嫌な感触。
「祐一さん、大丈夫ですか?」
「ちょっとどうしたの?」
 佐祐理さんだけでなく、深山先輩までもが心配そうな表情で俺を伺っている。
「い、いや、俺にも良く判らないんですけど……うおっ! テーブルが真っ赤に!」
 俺は深山先輩に非礼を詫びて布巾を借りるとテーブルを拭き、自分のズボンも軽く拭いた。
 一緒になって後始末をしてくれた佐祐理さんや舞に礼を言いながら、真っ赤に染まった布巾を見つめる。
 何だろう? ――この感覚は。
「祐一大丈夫?」
 紅く染まった布巾をぼんやり見ていると、心配そうな表情で舞が俺の肩を揺らす。
「気持ち悪い」
「た、大変ですっ!」
 佐祐理さんが突然大声を出して取り乱す。
 よく見れば涙で目が潤んでいる。
「あ、佐祐理さん違うよ! 体調じゃなくて、その……ズボンがベトベトになって」
 俺は慌てて言葉の意味を伝える。
 そう、糖分を大量に含んだシロップが少し乾いた事で、俺の下半身は不快のワンダーランドと化しているのだ。
「……祐一、佐祐理を泣かせた」
 そんな声が背後から聞こえたと思ったら、首筋にひんやりとした感覚。
「こんな事で一々抜刀するなっ!」
「舞! 佐祐理は大丈夫だから刀を戻して」
 佐祐理さんの一言で刀を鞘に戻す舞。
「ったく」
 佐祐理さんは不用意に泣かないでもらわないと、命が幾らっても足りないない。
「それじゃ祐一脱ぐ」
 考え事をしていた所為か、舞の言葉がよく聞き取れなかった。
「はい? 今何って言った?」
「ズボンを脱いで私によこす」
「じょ、冗談でしょ?」
「私が洗う……」
「何で?」
「佐祐理を泣かした原因がそのズボンなら、おとなしく脱いでよこす」
「何でそうなるんだ?」
 にじり寄りながら間合いを狭めてくる舞に、俺もゆっくりと後ずさる。
「ねぇねぇ。雪ちゃん一体どうしたの?」
「ああ、みさき。今面白い所よ」
「え?」
「相沢君をひん剥くんだって」
「きゃっ、雪ちゃんエッチだよ〜」
 外野が何かとんでもない事を言っている様だが、ツッコミを入れる余裕はない。
「祐一が気持ち悪いと佐祐理が悲しむ。だからその原因を断つ」
 舞にしては先程から随分と饒舌だ。
 それだけ佐祐理さんの事を真剣に思っているのだろう。
「それって、何処かおかしくないか? ねぇ佐祐理さん?」
 溜まらず俺は佐祐理さんに助けを求めるが――
「そうですね。すぐに洗わないと染みが落ちなくなっちゃいますから」
「そうじゃないでしょ佐祐理さんっ!!」
「ふぇっ」
 俺の大きな声に思わず目を潤ませる佐祐理さん。
(マズイっ!)
 身体中の毛穴から汗が噴き出し、耳の後ろ辺りがピリピリとする。
 俺という存在を構成する全ての細胞が、一斉にアラートを発している様だ。
「ちょ、ちょっと待てっ!」
「目標達成までの間、能力解除……まい一号を解放……」
 俺が全速力で走り出すのと、舞がそう呟くのはほぼ同時だった。
 舞の放った魔物が俺の背中を突き飛ばす。
「うおおおおおおおおおっ!?」
 自分の意志とは無関係な急加速に、悲鳴と共に俺の身体は一瞬で池の中に落っこちていた。
 池からはい上がったずぶ濡れの俺に、舞は一言「これでズボンも綺麗になった」とだけ言った。
 佐祐理さんと深山先輩は、二人で顔を見合って苦笑していた。
 舞に色々と言いたいことも有ったが、佐祐理さんに笑顔が戻ったのだから良しとしよう――そう思うことで、俺は無理矢理自分を納得させた。





§






「あうーっ! つまんなーいっ!!」
 水瀬家の浴室に真琴の声が反響する。
”バシャバシャッ!”
 真琴が湯船の中で手を乱暴に動かす度に、お湯が浴室内に激しく飛び散る。
 夕食も終わった今は交代でお風呂に入る時間だ。
「ちょっと真琴〜静かに入ってよ〜」
 髪の毛を洗っていた名雪が文句を言うが、真琴の耳には届いていないようだ。
 真琴は顔半分まで湯に浸かった状態で一生懸命考えていた。
 彼女が吐き出す空気がぶくぶくと泡だっている。
 真琴にとっては祐一への悪戯こそが生き甲斐であり、佐祐理の優しさに包まれる事が何よりの至福な一時なのだ。
 無論、世話好きで佐祐理に似た雰囲気の長森の事も同じくらい好きであるから、彼女と遊ぶ事も大好きだが、他の二つも彼女にとっては欠かせない事であり、それ故に佐祐理とのスキンシップと祐一への攻撃が出来ない事に物足りなさを感じているのも事実だ。
「そうだ。ねぇ名雪? 祐一の嫌がる事って何かな?」
「え? また何か悪戯するの?」
 名雪は髪の毛を洗う手を休め、半ば呆れた声で聞き返す。
「そうよっ! 祐一にぎゃふんと言わせるまで、私の挑戦は続くのっ!」
「そうなんだ。初志貫徹・有言実行、真琴って立派だねっ」
「そ、そう真琴は立派なのっ!」
 意味は理解していないのだろうが、湯船で立ち上がると胸を張って威張る真琴。
 祐一が居れば「胸は全然立派じゃないぞ」とツッコミが入りそうな控えめな胸は、長い間湯に当たって影響でほんのりと桜色に染まっている。
「でも真琴って祐一の事好きなんじゃないの?」
 髪の毛をシャワーで流しながら名雪が尋ねると、誠は驚いたような表情で湯船から身を乗り出した。
「ち、違うわよっ! 何で真琴があんな奴の事好きになるわけ?! 真琴の頭に有るのは祐一への復讐心だけなんだからっ!」
 言葉を荒げ必至に否定する真琴を見て、名雪がくすっと笑う。
 その笑顔を浮かべたままシャワーノズルをフックに戻すと、慣れた手つきで髪の毛を束ねて手拭いで包み込む。
「ふーん。真琴がそう言うなら良いけど、あまり迷惑がかかる悪戯はだめだよ?」
 名雪はそう言うが、迷惑のかからない悪戯というものがあるのかは不明だ。
「うん」
 素直に頷く真琴だが、恐らく名雪の言うことはこれっぽっちも理解していないだろう。
「真琴って返事は良いんだよね。はい、髪の毛洗ってあげるからこっちおいで」
 そう言って立ち上がり真琴を手招きする。
「えへへ。ありがと」
 呼ばれて真琴は嬉しそうにイスへちょこんと腰掛ける。
 名雪は真琴の背後に回り、再びシャワーのノズルを手に取るとバルブを捻る。
 吹き出したお湯の温度を確かめようと手を伸ばしかけた所で、真琴が名雪を振り返りながら口を開いた。
「真琴よりもさ……名雪の方こそ祐一が好きなんじゃないの?」
 真琴の突然の言葉に、名雪は思わずシャワーを真琴に向ける。
「あ、熱いーっ!」
「ご、ごめんね真琴」
 誤りながらすぐにバルブを調整して水温を下げると、真琴の髪の毛に適温となったお湯を浴びせる。
「で、名雪はどうなのよ? 祐一の事好きなんじゃないの?」
 真琴は名雪に再び同じ質問をした。
「ち、違うよ。わたしは……あれっ?」
 慌てて否定する名雪。
「そんなに慌てるなんてー……さては図星?」
 真琴は名雪の態度に含み笑いを浮かべているが、当の名雪自身は真琴の言葉を肯定したわけではなく、好きな人という言葉を聞いて真っ先に脳裏に浮かんだ人物に驚いているのだった。
「違うよっ! もう、あんまりお姉ちゃんからかうと、熱湯かけちゃうよ?」
 そう言ってバルブに手を伸ばそうとする名雪を、真琴は椅子に座ったままで慌てふためく。
「ふふっ。冗談だからじっとしてて。シャンプー目に入っちゃうよ?」
 うって変わって優しい口調で真琴をなだめると、名雪はノズルをフックに戻して真琴の髪の毛を洗い始めた。
「うん」
 真琴は嬉しそうに返事をすると、必要以上に力みながら瞼を閉じる。
「……」
 名雪は無言で真琴の髪の毛を洗いながら、先程自分の脳裏に浮かんだ人物と、その意味する事を考えていた。
 確かに彼女は以前、祐一に対して従兄弟に対する感情以上の気持ちを抱いていたが、彼に舞というれっきとした恋人が出来、さらに佐祐理という二号らしき女性(?)まで現れた事で、諦めにも似た心境へと変わっていた。
 そしてあの運命の夜――世界が豹変する前夜に行った校内探索での出来事が、名雪の心に大きな変化をもたらしていた。
 名雪が真琴の言葉で咄嗟に思い浮かべた人物、それは七瀬だった。
 今一度七瀬の顔を思い浮かべてみると、名雪は自分の鼓動が少し早くなることを感じ、そんな自分に驚いた。
「わ、わたしは……わたしが入る余地はもう無いから。祐一の隣はもう埋まっちゃってるから……」
 誤魔化すように髪の毛を洗う手の力を少し強めて、名雪はそう呟いた。
「ふーんそうなんだ……まぁ良いわ。なら名雪も協力してくれるよね?」
 真琴は名雪の否定の言葉を聞いてちょっぴり安堵し、反面そんな自分の気持ちを心の中で否定しつつ名雪に協力を求める。
「え?」
「だから、祐一をぎゃふんと言わせる作戦よ」
「うーん……わたしが知ってる祐一の嫌がりそうな事って言えば……」
 名雪は手を休めて考えを巡らす。
「言えば?」
「お母さんのジャ……」
「それは真琴も嫌だから無し!」
 最終兵器には違いないだろうが、諸刃の剣な危険なアイテムである。
 一歩間違えれば自分自身が、その洗礼を受ける事になりかねない。
 真琴もそう考えて名雪の意見は却下した。
「そ、それじゃね……あ、紅生姜ご飯がとっても嫌がられたよ?」
「そっか、それねっ!」
「でも朝ご飯は、お母さんと倉田先輩と瑞佳が作ってるし、夕飯は夕飯でお母さんと香里と栞ちゃんが作ってるし……祐一が食べる物だけを特別に作るは難しいよ? それにお昼は、たまに郁未先生の所でも食べるみたいだけど、基本的に倉田先輩の作ったお弁当を食べてるみたいだし。おまけに最近の祐一は、いつも川澄先輩と倉田先輩と一緒に何かしてるから何処に居るのかもわからないよ……いっそ、この昼間に仕掛けた方が良いんじゃないかな?」
「そうだっ! それよ!」
 名雪の言葉に腕を突き出して叫ぶ。
「え?」
「きっと真琴に内緒で面白い事してるのよ! こうなったら祐一達の後をつけて祐一の邪魔をしてやるんだからっ!」
 真琴はイスから勢い良く立ち上がると、両手で拳を握りしめて吠える。
「祐一見てらっしゃい! 明日がアンタの命日よっ」
 真琴の髪の毛から、泡が浴室に舞う。
「大丈夫かなぁ〜」
 自分の入れ知恵で暴走している真琴を、名雪は少し心配そうに見つめていた。





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