朝が来て目を覚ます。
 たったそれだけの事で、夢は終わり現実の世界が訪れる。
 そこには何も変わらない日常が有るはずだった。

 寝起きの悪い名雪を起こし、真琴と洗面所の優先権を取り合い、秋子さんの美味しい朝食を頂くいつもの朝。
 通学路の途上で、舞と佐祐理さんに合流し、他愛もない話をしながらの楽しい登校。
 教室に入り香里に撃退される北川を見て、何故か南の席にいる柚木に悪態をつき、里村さんと軽く挨拶を交わし、南を慰めて自分の席に着くいつものプロセス。
 予鈴が鳴るまで住井と七瀬とくだらない話で盛り上がり、折原と長森、そして名雪が担任の石橋よりも早く教室に入れるかどうか考えながら、席について始業を待つ……そんな当たり前の光景を望んで瞼を開ける。

 しかし、部屋の窓から覗く風景に、そんな望みが叶わなかったと思い知らされ―― 





 そして新しい日常が始まる。








■第16話「青天霹靂」








 ジュースや缶詰、そして菓子や生鮮食品が並ぶ商品棚の前を、既に商品で山盛り状態のカートが通過する。
 見れば、無人のスーパーマーケットの店内を、数人の男がカートを押しながら目的の品物を探して彷徨っている。
「それじゃ、次行くぞ〜! えーと、完熟ホールトマト一缶、みりん一本、牛乳二本、カップ焼きそば一六……」
 店内にBGMは流れておらず、替わりに商品を読み上げる男の声が店内に響き渡っている。
「それから……コーラペットボトル三本、スイートコーン六、鰯蒲焼き五、シーチキン……って、おーい聞いてるのかよ?」
 レジの上に靴を履いたまま立っている男が、店内を見回しながら声を張り上げる。
「言うのが早いんだよ住井っ!」
 店内でカートを押していた男の一人――北川が、レジで指示を出していた住井に文句を言う。
「なぁ住井、シーチキンってフレークで良いのか?」
 別の場所で指示されていた商品を探していた男――折原が目の前の商品棚に列ぶシーチキンを見て尋ねる。
「ああ、何でも良いんじゃないか?」
 折原の問いに半ば無責任な返事を上げると、住井は再び手にしていた買い出しリストを声を張り上げながら読み上げ始める。
「牛ロース薄切り五〇〇グラム、牛挽肉一キログラム、豚細切れ二キログラム、キャベツ二個、大根二本、玉ねぎ一袋、生卵Lサイズ一パック、コシヒカリ一〇キロ……」
「おーい。コシヒカリは五キロの袋しかないけど、ササニシキじゃ駄目なのかな?」
 南が米の列んだ棚を見ながら住井に質問をする。
「なら二袋持って行けば良いんじゃないか? 後はえーと、薄力粉二袋、スパゲッティー一ダース、卵ふりかけ三ケース、チーズビスケット五個、サフラワーオイル二缶、絹ごし豆腐四丁〜!」
 メモに書いてあった品目を言い終わると、住井は「よっ」と声を出してレジの上から飛び降りる。 レジスターの電源を入れて、他の皆が来るの待つことにする。
 やがて店内から山盛りのカートを押しながら、折原、北川、南の三人がやって来た。

「……一八八円、二五三円、百円、七五三円、三二〇円、四五〇円……」
 南が商品の値段を読み上げ、住井がレジを打つ、北川と折原はレジを打ち終わった商品を次々に大きな段ボール箱へと移している。
「……最後が一二〇円だ」
「オッケー、えーと消費税を含めて合計が三万飛んで四二三円っと」
 南が最後の商品を読み終えると、住井がレシートを打ち出し合計金額を読み上げる。
「さ、早く戻ろうぜ、みんなが待ってるからな」
 最後の商品を箱詰めした北川が、商品で満杯になった段ボールを担ぎ上げる。
「そうだな……あれ?」
 南が答えて、段ボールを担いで北川に続くが、先を進む北川の態度が妙に余所余所しいものに見える。
「ん?」
 そんな北川を不信に思った折原の目に映る四角い物体。
「ちょっと待て北川っ! お前の胸ポケットに入ってる物を出してもらおうか?」
 折原の言葉に出て行こうとしていた北川の身体がビクッと竦む。
「あ、こ、これはさ……」
 後ずさる北川の肩を、素早く背後に回った住井が掴み身柄を確保。次いで近づいた折原が胸ポケットの中身を素早く取り出す。
「チョコレートだね」
 折原が取りだした物体を見て南が呟く。
「うっ、これ前から食ってみたかったんだよ。ほ、ほら、中に明太子が入ってるんだぜ?」
「……」
 必死に弁明を試みる北川を、他の三人が冷ややかな目で見ている。
「なぁ北川、如何なる理由が有ろうとも『食料品の調達は全て秋子さんの指示に従う』という大原則を忘れたわけではあるまいな?」
 折原が手にしたチョコレートを北川の目の前で振りながら静かに言う。
 北川は脂汗をかきながら黙って頷いている。
「いいかっ! この街の食料は、米粒一つからポッキー一本に至るまで全員の共有財産だ! 水瀬も、栞ちゃんも、真琴ちゃんまでもがその協定を守って自分の好物を耐えているというのに……貴様は自ら欲望の為にそれに手を付けたっ! この行為はとても許されざる行為だ!」
 折原の言葉に自らの行く末を把握したのか、北川の顔色はみるみる悪くなってゆく。
「うむ、万死に値するな」
「ああ全く」
 住井と南が折原の言葉に頷く。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 返すから……な? ここは一つ黙っててくれよ。ほら、お前等にも分けてやるからさ」
 そう言ってシャツの中からハートチップス、ズボンのポケットから麦チョコ、ズボンの中――ご丁寧に股間の辺りから――うまい棒を取り出して三人に手渡す。
「……」
「……」
「……」
 手渡されたほんのり温かい菓子を見つめ、三人は言葉を無くす。
「よっし、これでみんなハッピー一件落着〜」
「連行しろっ! 後で人民法廷を開き処罰を決する」
 北川の言葉を遮るように折原が締めくくると、南が北川を後ろから羽交い締めにして、スーパーの外へと連れて行く。
「止めろ〜放せ〜何故だ〜っ! ジャムは、ジャムだけは嫌だ〜っ!」
 小さくなって行く北川の叫び声を聞きながら住井が溜息をつく。
「ふぅ、馬鹿が……」
 呟く住井の横で、折原はレジから打ち出されたレシートを見ながら、小さなメモ帳の様な物にペンを走らせている。
「えーと、三万四二三円借用致しました……っと、よっし!」
 掛け声と共に『水瀬』と書かれた判子を紙面に押し、出来上がった借用書をレジの背後の壁に、慣れた手つきで貼り付ける。
 壁に貼られた大量の借用書が、既に長期間に渡って同じ行為が続いている事を物語っている。
 残った段ボールを抱えると、二人は店の外へと向かった。


「行くぞっ!」
 店の直ぐ外に停めてあったボロボロのボンゴトラックに乗り込むと、折原は声を出して走らせた。
 全開になっている運転席の窓から心地良い風が吹き込んで、彼の髪の毛を揺らしている。
 そんな風に目を細め、無言で流れる景色を見回す。
 夏の深い青空に幾つかの白い雲が浮かんでおり、強めの日差しを受けて、道路や回りの建物が眩しく光っている。
 しかしその道路や建物は、例外なく風化し、朽ち果てた姿をしており、まともな姿をしている物は無い。
 彼等が車を走らせている道路もまた、以前の様に整備の行き届いた状態ではなく、アスファルトの路面には至る場所に凹凸が有り、細かい亀裂が数え切れない程走っている。
 折原が運転席に並ぶメーターに視線を向けるが、溜め息をついてすぐに視線を戻す。
 なぜなら、走行距離メーターはおろか、速度計すら動作していないからだ。
 これはボンゴだけにとどまらず、他の車――佐祐理のインプレッサや、秋子のプレミオも同様の状態である。
 全ての車が走行能力そのものに支障は無いものの、計器類だけが正常に動作していなかった。
 それが何を意味するのか折原には判らなかった。
 故に彼はメーターから目を離す。
 かつては建物であった残骸が並ぶ街並みの中の、整備されずに数年も放置された様な悪路を、レンタカーであったボンゴがのんびりとした速度で進んでいる。
 そして、その廃墟とも言える街の中に、彼ら以外の人の姿は見る事が出来ない。
 
 折原達の乗ったボンゴが悪路に揺れながら進むと、やがて学校の跡地へと辿り着いた。
 かつての高校校舎のあった土地は陥没し、今では大きな池と化している。
 その池の中央、島の様に浮かぶのは、かつて校舎であった建物だ。
 一階部分は全体に渡って完全に水没しており、斜めに傾いた校舎は、正面から見て右側が二階半ばまで水に浸かっている状態だ。
 既に見慣れたかつての学舎の近く、以前の正門前と思われる場所に車を停めると、折原はステアリングの中央を軽く叩き、クラクションを鳴らす。
「みさきアーンド深山せんぱーい!」
 次いで運転席から身を乗り出すようにして大声を上げると、向かいにあるボロボロの家の中から、私服にエプロン姿のみさきと深山が姿を現す。
 その入り口らしきに場所の両脇には、赤地に白抜きで「おでん」「ラーメン」と書かれたのぼりが風に靡いており、その様子は夏の浜辺を彩る浜茶屋に見えなくもない。
「あ、浩平君、来てくれたんだね」
 嬉しそうな表情で、かつての自宅から出てきたみさきは、慣れた足取りでトラックの近くまで歩いて来た。
「折原君、変な呼び方しないでよ、もう……でも、いつも済まないわね。あ、南君有り難う」
 続いて現れた深山が、苦笑交じりに礼を言うと、トラックの荷台に乗っていた南から、食料品・日用雑貨の入った段ボールを受け取る。
「ね、浩平君達、寄って行ってくれるの?」
 みさきが運転席側の窓枠部分を掴みながら、笑顔で尋ねる。
「あ、今日はこれから北川の裁判があるんだ。ごめんな」
「むーっむーっ!」
 折原の言葉に、荷台の北川が何やら声を上げているが、猿ぐつわをされているので何を言っているのかは判らない。
「そうなんだ。とっても残念だよ」
「それじゃな先輩……じゃ深山先輩も、たまにはこっちににも顔出して下さいね、秋子さんからの言伝です」
 言葉通り残念そうに呟くみさきの頭の上を、手の平でポンポンと軽く叩いて深山に声をかける。
『それじゃまた〜』
 荷台の南と、助手席の住井が声を揃えて手を振ると、みさきと深山も笑顔で手を振って返す。
「むーっ! むーむーっ!」
 北川の言葉だけは相変わらずサッパリ判らなかった。


 青く澄んだ空の下、折原達を乗せたボンゴは再び悪路に揺れながら、一路水瀬家へと向かい始める。
 くたびれたディーゼルエンジンから排気ガスを放出しながら、のんびりとした速度でボンゴは進む。
 突如、轟音が轟いた。
 次いで何かが空を切る甲高い音が続き、やがて更に大きな爆発音と共に遠くの建物が崩れて行くのが見えた。
「お、相沢達かな?」
 助手席の住井が窓の外に身を乗り出し――いわゆる箱乗り状態で、崩れて行く建物の方向を見つめながら言う。
「ああ、多分な……おっ噂をすれば何とやらだな、来たぞ」
 進行方向からボンゴの物とは比較にならないほど大きなディーゼルエンジン音が聞こえてくる。
 道路の先は逃げ水でゆらゆらと揺れているが、陽炎の中から無限軌道をきしませつつレオパルドの大きな車体がゆっくりと姿を現す。
 その砲塔は真横を向いており、それは先程建物が崩れた方向と一致している。
 当然このレオパルドは、学園祭用に佐祐理が持ち込んだ物であり、周囲の建物が完全に崩壊しているにも関わらず、以前のままの姿を留めており、こうして実際に動かすことも可能だった。
「あ、みなさーん」
 折原達のボンゴとすれ違い様、砲塔上部のハッチから半身を出していた佐祐理が、手にしていた双眼鏡を片手に持ち直し、折原達に向かって余った方の手を振って挨拶をして来た。
 姿は見えないが、恐らく車内には祐一と舞が居るはずだ。
 祐一達は最近、こうして三人で戦車に乗っては何処に行くでもなく、日がな一日街中を走り時折発砲したりもしている。
 それが何を意味しているのか折原達には判らなかったが、今の世界で誰が何をするのも、倫理や道徳に反する事でない限り自由である。
 彼らの行動が奇異に映ったとしても、それをとやかく言う筋合いは無いのだ。
 大きな騒音と振動を発しつつ、レオパルドはボンゴとは逆の方向へと姿を消して行く。
 折原は前方へ視線を移すと、アクセルを踏む力を強くする。
 ボンゴが加速すると同時に、荷台の方から「ムゴーッ!」と、奇妙な声と何か重たい物が転がる音がして来た。
 恐らく縛られたままの北川だろう。

 崩壊した街の中を、土埃を巻き上げボンゴは進む。
 今の日常が始まってどれ程の歳月が流れたのだろう――変貌した街と動かぬ速度計を交互に見ながら、折原はふと思った。
 しかしすぐに頭を振って自らの疑問を吹き飛ばす。
(ま、考えたところで無駄か……)
 今彼らを取り巻いている世界は、以前の世界とは異なる姿へと変貌している。
 それは、あの夜の翌朝から始まったのだ。





§




 私は私を取り巻く世界で起きた不可思議な事態を、もう一度見つめ直す為、そして迎えた新たな世界に順応してゆく自分自身に警鐘を鳴らす意味も込めて、ここ最近私達の身の回りに起きた異変について整理し、状況を把握するべく筆をとることにしました。

 今の私は”今日という日が一体何月の何日なのか?”そんな単純な事が全く判らない状態にあります。
 当然、異変が発生してから幾日が経過したのか? という事に関しても何ら把握できる事は有りません。

 ただこのような状態――すなわち異変を異変として認識できる前、少なくとも生まれてから一七年の間は、私は住み慣れたこの街で暮らしていたごく一般的な住民であったし、この地にある学校へと通う一介の高校生でした。

 異変が起き始めたと思われる当時は学園祭の直前であり、その初日を控えて私は仲間達と共にクラスの出し物である模擬店(喫茶店)の準備の為、連日学校へ泊まり込んではその作業に明け暮れる日々を送っていました。
 また、私は他に演劇部の掛け持ちも有った為、当時の生活は多忙を極めており、前日の記憶すら曖昧な日々を送っていました。
 今にして思えば、この事自体が今私の置かれている状況のきっかけだったのですが、その事に気付く暇すら無い状況だったのです。

 確かに人間の記憶という物は曖昧な部分が在るかも知れません、しかし前日に起きた事をそれこそ毎日忘れる程に、私はもうろくしている訳でも、自分自身が信じられない訳でも有りません。
 しかし何者かの意志により私達の記憶が操作された事で、私達は学園祭の前日という同じ一日の喜劇を演じていました。
 それが一体何日、何週間、いや、何ヶ月繰り返したのか、私には想像出来ません。
 普通に考えて、『目が覚めたら昨日だった』という事態は有り得ませんし、時間を逆行する事など不可能です。誰しもその様な事が現実に起こるなど夢にも思わないでしょう。
 ですから『同じ一日を繰り返す』という、不可思議な事態を把握する事は、私でも不可能でした。

 しかし、時間とはそれ自身が物理的に存在している物ではなく、あくまで人間の意識内にのみ存在するものです。
 ですから、考え方を変えれば、同じ一日を繰り返すという事も、意識の改革次第では不可能では無いと言えるでしょう。
 つまり我々は、タイムマシン――無論、その様な物が有ったと仮定しての話ですが――に乗り時間渡航の結果『朝目が覚めたら昨日に戻った』…というわけではなく、単に『時間の経過を意識していない』もしくは『意識できなかった』という事で、同じ一日を繰り返していたものと思われます。
 無論、普通に人間社会で生きている限り、意識をその様に改める事など不可能に違い有りません。

 ですが考えてみますと、例えば無人島に一人きりしか居なかった場合、時間という概念は必要なのでしょうか? 結局、時間とは人間社会の産物であり、必ずしも自然の中に初めから存在しているものでは無いのです。
 私達の周りで起きた不可解な出来事とは、まさにこの部分をつき、時間に関する意識を改竄された事に相違有りません。

 この事に最初に気が付いたのは、生徒会長の久瀬先輩でした。
 ですが久瀬先輩は、この異変を本校の保険医だった郁未先生に知らせ、共同で調査を始めるないなや、その姿を消して――否、消されてしまいました。
 無論、彼が自発的に姿を消したのではない事は明らかであり、何者かの手によって何処かへと葬り去られてと考えるのが自然です。
 残った郁美先生と級友の相沢君の提案により、私達は異変の中心地と思われる我々の学校を、人気の絶えた深夜に調査する事にし、そこでこの世界の異変を目の当たりにします。
 確かに何者かが存在し、その者による我々の精神や世界への干渉行為が成されている事はまず間違いないと思われます。
 更にその何者かは、自らの干渉行為が妨害されそうになると、その原因である我々を排除しに来たのです。
 郁未先生と川澄先輩のサポートも有って、私達は皆無事に迷宮と化した学校から出る事は出来ましたが、何者かの正体を知る事も、異変の原因そのものに到達する事も出来ませんでした。

 しかし私達はその後、決定的な瞬間を迎えます。
 あの夜、郁未先生の操縦するヘリコプターから見た衝撃の光景が、私の…いや、私達の人生を大きく変えてしまいました。
 私達の目の前に広がっていた信じがたい光景、それは正に悪夢の様な現実でした。
 自分達の住む街が巨大な亀に乗って空を飛んでいる……こんな馬鹿げた、いえ病的な光景を、それこそ自らの目で見た私ですら受け入れるのを拒もうとしている現実を、他の者がそう易々と信じてくれるとは思えませんでした。
 事実、私の妹である栞ですら、説明をした私の正気を疑ってかかって来た程でした。
 しかしヘリに乗らなかった他の者達も、その異変を直視するまでにさほど時間はかかりませんでした。
 なぜなら虚構に満ちた夜が明け次の日の朝を迎えた時、世界はまるで開き直ったかの如く、その装いを大きく変えてしまったからです。
 目に映る町並み、角店、公園……それらは今までと何ら変わらぬ姿でしたが、決定的な何かが足りませんでした。
 路上からは行き来する車の影が消えており、住宅の庭先に子供達のはしゃぎ声やピアノの音、そして犬の鳴き声が途絶え、商店街にて慌ただしく買い物をする人々の姿も無くなっていました。
 この街に……否、この世界に、あの夜水瀬家に居た我々だけを残して、この街の懐かしい人々は突然その姿を消してしまったのです。
 残った私達は街を調査しましたが、消えてしまった人々の足跡を見つけることすら出来ませんでした。
 まるで最初から居なかったかのように、彼らの足取りはようとして知れず、無人の街だけがただ其処に存在していました。

 更に驚くべき現象が、その後も私達に押し寄せます。
 その後、数日を経ずして「荒廃」という名の時が駆け抜けて行き、私達を包む環境は急速に風化していったのです。
 学校も、公園も、商店街の店達も、ありとあらゆる建物や道路が、まるで数十年も放置された物の様に、朽ち果て荒れ果てた姿へと変わって行きました。
 ただ、奇妙なことに水瀬家と商店街の中のスーパーマーケットだけは、押し寄せる荒廃を物ともせずその勇姿を整えており、スーパーに至っては食料品や日用雑貨等を豊富なストックを誇っており、雑誌や生鮮食品に至るまで新たな商品が何処からともなく入荷され続けるのです。
 更に水瀬家においては、水道・ガス・電気が依然として供給され続けており、そのあまりにも出来過ぎた環境は、まるで家畜やペットの為の飼育小屋の様に、何者かに宛われた小世界に思えて、私は当初奇妙さよりもどこか恐怖心を感じずには居られませんでした。

 一気に風化して寂れた街の中、平然とかつての姿を留めている水瀬家とスーパーマーケット、僅か一夜で消え失せた住人達。
 不思議な事はこれだけではありません。
 我々の住む街が巨大な亀の背中に乗り空を飛んでいるという、おおよそ考えるのも馬鹿馬鹿しい現実。
 これらの意味する処は何でしょうか?
 私にその答えを出すことは出来ませんが、一つだけはっきりしている事があります。
 それはこの世界を作り出した者が、我々の中の誰かに深く関与している存在だという事です。
 今の世界に存在する人間が、あの運命の夜、水瀬家に居た者達だけだという点だけでも、それは決定的と言えましょう。
 他にもあります。
 切り取られたこの箱庭的な世界と、それを載せている巨大な亀。
 この世界を支える様に存在する巨大な石柱。
 その中に私達の良く知る人物を象った石像があり、それらが消えた久瀬さん、級友の里村さん、そしてその親友の柚木さん、やはり我々の知り合いである氷上君である事。
 全てを確認した訳ではありませんが、私達の知らない人物、他の住人達の石像は存在してません。
 何かの意味があって、彼らはあのような姿に変えられたのだとするならば、その意味とは何でしょうか?
 実に判らない事だらけです。
 もっと根本的な問題として、この世界を作った者が何者なのか? その目的は何か? これらの疑問は、現在の時点では全く判断できません。

 ここ暫くこの出鱈目な世界で過ごしてみて判ったことは、あの夜学校内で起きたような事は無く、取りあえずは身の危険が無い事です。

 運命の夜の前日――久瀬先輩から強制的に下校を命じられた夜です――、普段通っていた陸橋が無くなって立ち往生しましたが、あれは既にその先が存在して居なかった為であり、川の向こう側に見えた街並みは、この切り取られた世界をカムフラージュする為の幻影だったと思われます。
 同じ道を通って、私は本来の私の家がある方向へと向かって見ましたが、やはり本来陸橋がある場所は断崖絶壁であり、その先は何処までも空が広がっています。
 当然、私の実家もまたその空の彼方であり、私の両親がどうなっているのか皆目見当も付きません。
 私は誰もいない、朽ち果てた街を歩きながら色々な事を考えました。
 かくも静かな、かくもあっけない終末を一体誰が予想し得たでしょうか?
 人類が過去数千年に渡り延々として築き上げてきた文明と共に、私達の日常は崩壊しました。
 しかしこんな世界であっても、生き残った私達にとって、日常の終焉は新たなる日常の始まりにしか過ぎないのです。

 私達はこの世界で共に生きて行くことを誓い、必然的に水瀬家をその生活の拠点として定めましたが、その中で郁未先生は、旧商店街の百花屋跡を改修して喫茶店を開店させ自活を始めました。
 流石にあの人数で居候を決め込む事が心苦しかったのだと思われます。
 次いで川名先輩が、深山部長と共に学校前の自宅跡へと戻り、一部を修復して食堂をオープンさせます。

 こうして少しずつ、私達はこの世界での生活へと馴染んで行きました。
 実際、実質的な危険が無いと判ると、この世界は実に居心地が良く、他のみんなも各々が好き勝手に毎日を遊び呆ける様になりました。
 かく言う私も、当初病的に思えたこの世界が、実に過ごしやすい環境だという事を認めざるを得ません。
 天候はほぼ毎日晴天であり、まるで初夏の様な程良い暑さに、湿度は低く風も穏やかな日々が続き、学校も無ければ、時間に追われることも有りません。
 今や私達の生活に、時計もカレンダーも意味を持ってはいません。
 衣食住を保証されたサバイバル生活。
 それは一つの理想郷と言えるでしょう。
 しかし、このように都合の良い日々がいつまで続くのでしょう?
 私達の征く道は、一体何処へ通じているのでしょう?
 如何なる先達達が成し得なかった地上の楽園――あの永遠のシャングリラを実現できるのだろうか?
 それとも栄華を誇りながらも一夜にして消えたソドムの様に滅びるのだろうか?
 現時点では判断できませんが、少なくともこの世界における唯一の人類として、私――美坂香里は、正しい道を歩みたいと願わずには居られません.


 ――美坂香里の手記より抜粋。





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