一面に広がる麦畑。
 夕日に照らし出されて黄金色に輝く大地が、風に揺られて静かに波打っている。
 それはいつか見た光景。
 かつて、俺は何かに導かれる様にその地を訪れ、一人の少女と出会いを果たした。
 そして今、再びその懐かしの地、約束の地が俺の眼前に広がっている。
「よぉ、久しぶりだな」
「よぉ……じゃないでしょ?」
 何事もなかったように挨拶をする俺を、半ば呆れた様な表情で少女は迎えた。
 麦畑に身体が半ば埋もれているその姿は、初めて出会った時と大差なく当時と変わらぬ服に身を包んでいる。
 そして長くストレートに伸びた黒髪と共に、俺がプレゼントしたウサギの耳を象ったカチューシャが風に揺れている。
「元気だったか?」
 俺はごく自然に言いながら麦畑へと足を踏み入れる。
 脚を撫でる感触が何とも懐かしい。
「うん。それなり……って感じかな」
 腕を後ろに組み直し、少しそっぽを向きながら少女は答える。
「そっか、それは何よりだ……よっと」
「な、何するのよー」
 俺が近づきウサ耳カチューシャを取り上げて頭を少し乱暴に撫でてやると、少女は少しだけ嫌そうに顔をしかめて笑った。
「わははっ、今の俺とお前じゃこれだけ身長差があるからな。悔しかったらでっかくなってみせろ」
「祐一って子供っぽい……そんな事より、しっかりしてよね?」
 少女の呆れた表情が、そこまで言うと真剣なものへと変わる。
「また舞を泣かせたでしょ? 『これからは俺が守る』とか何とか言ってた割に、情けないんだからー」
「うっ、痛いところを……ガキンチョの分際でやるな。でも、仕方なかったんだから許せ」
 俺はオーバーなリアクションで中腰にしゃがみ、目線を少女の高さに合わせて微笑む。
「……ま、判るけどさ。でも、舞にはちゃんと謝るんだよ?」
「ああ誠心誠意謝罪させて貰うよ」
 手にしたカチューシャを弄びながら俺は答えた。
「うん。本当に舞のこと頼んだよ? あまり私の手を煩わせないでね」
「ああ任せろ! もう約束は破らないからさ」
「どうだか……祐一って忘れっぽいからなー」
 俺の答えに少女は明後日の方向見ながら呟く。
 随分と信用されていない様子だ。
「安心しろって、一度思い出した事は忘れない。おうそうだ、一つ質問良いか?」
「何?」
「お前は何号だ?」
「ぶーっ、酷い祐一! 人を合体ロボットのパーツか何かと思ってるーっ!」
 俺の質問に頬を膨らませて怒る。
「……そ、そんな事は無いぞ。うん、決して」
「今の間は何よ?」
「気にするな、目の錯覚だ。レイリー散乱現象だ」
「はぁ……これだもんなぁ。舞も気苦労が耐えないね」
「そんな事は無いぞ。どちらかと言えば俺の方がいつも驚かされている」
 俺は胸を張りながら答える。
「う〜ん、そーだね。確かに舞も変わってる」
「ああ」
 俺達はお互いの顔を見合って声を上げて笑った。
 風が吹いて麦畑がサーッと音を立てて波打つ。
「じゃあな」
 笑い終えた俺が、笑顔のまま少女に言う。
「もう来ちゃ駄目だよ」
 すこし心配そうな表情だが、俺がもう一度頭を撫でてカチューシャを頭に付けてやると、にっこりと微笑んだ。
 とても優しい笑顔。いつしか取り戻したい表情。
「ははっ善処しよう! じゃあな、え〜と、まい五号?」
「五号は余計だよ! もう……、ばいばい祐一」
 手を振るまいの笑顔に見送られ、俺も手を振って答えながら麦畑を後にする。
 やがて世界は光に包まれて行き、全てのものがその輝きに溶け込んで行く。
 光に消えて行く世界の中、俺は振り向き完全に消えゆくまで、風に波打つ麦畑と、まいの笑顔を見つめていた。








■第15話「一蓮托生」








 白い光がその輝きを失い、世界が暗転すると俺の視界は暗闇になる。
 視覚よりも先に完全に機能を回復したのは聴覚だった。
「祐一ーっ!」
「祐一さん!」
「祐一!」
「相沢君!」
「相沢ーっ!」
 いろんな声色が俺の名前を呼んでいる。
 次に嗅覚が回復。
 俺が意識を失う前に嗅いだ心地よい香り。
 うん悪くない寝覚めだ。
 触覚も戻ってきたのか、何やら頭が柔らかいものに包まれており、これまた実に気分がよい。
 どうやら意識は戻ったらしい――そんな自覚をしてはいるが、目を開けるのを躊躇っていた。
 触覚と嗅覚が伝える心地よさをもう暫くの間味わっておきたいし、何より面白みに欠けると判断した為だ。
(さて、何て挨拶しよう……『やぁ呼んだ?』……駄目だな、イマイチ面白くない。『呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!』……駄目だ、絶対に外す気がするぞ。うーん……よっし!)
 俺は決心すると瞼を開き一気に立ち上がり、この場に最も適した言葉を叫んでみた。
「ソロモンよ、私は帰ってきたぁーっ!!」
 決まった。
 漢の台詞としては、これ以上ない程カッチョええ決め台詞だ。
『…………』
 俺としては完璧なカムバック宣言だったがまるで反応がない。
 改めて素早く周囲を見回すと、目に飛び込んで来た光景は唖然とするみんなの顔。
 やっぱりガンダムネタはマズかったのだろうか?
(あ〜あ、佐祐理さんと名雪、目が真っ赤だ。ん? 七瀬までもが泣いてるのか?)
 振り向けば、舞が正座したまま涙目で俺を見上げている。
 どうやら、俺は舞の膝枕で気を失っていた様だ。
 とするならば……先程、頭上に感じていた感覚は舞の……
(うおっ勿体ねぇ! もっと感覚を味わって……ぐはっ!)
 俺の思考は突然腹部を襲った激痛に遮られる。
 見れば七瀬がすごい形相で俺を睨みながら、ダッシュハンマーキックを俺の腹に決めている。
 あ、パンツ見えてるし。
「……って。な、何しやがるっ!」
「あほっ! みんなに心配かけて何考えてるのよっ!」
「心配って……うおっ!」
「祐一ーっ!」
「祐一さーん!」
 俺の名を呼びながら舞と佐祐理さんが両脇に抱きついてきた。
「ど、どうした?」
「モテモテだな相沢」
 突然の二人の行動に慌てていると、折原がいつもの調子で悪戯っぽく笑いながら言う。
「何を言って……あ、そっか」
 俺はようやく自分の置かれている立場を思い出した。
「おい七瀬」
 俺は目の前で未だ、少し涙目で俺を睨んでいる七瀬に声を掛けた。
「何よ?」
「有り難うな。最後まで名雪庇ってくれたよな? 見直したぜ」
「あ、当たり前の事よっ。私は約束は守るわ」
「そうだな……約束は守らないとな」
 其処まで言って、俺は舞と佐祐理さんの頭を撫でる。
「舞、まいに怒られたよ」
「……そう」
「ああ、あ、まいから伝言。『人をナンバーで呼ぶな!』だってよ」
「……格好良いのに」
 俺の肩に頭を埋めていた舞が顔を上げ、いつもの調子で言う。
「祐一さんっ! 無茶は駄目ですよ。もう自分一人の身体じゃないんですからーっ!」
 佐祐理さん気持ちは嬉しいのですが、訊き方によっては誤解を招き兼ねないんですけど?
「あははーっ」
 俺は思わず佐祐理さんの真似をして誤魔化す。
「全く……意識が戻ったかと思えば」
 香里が呆れ顔で俺を見ている。
「祐一、極悪人だよ」
「えぅー、祐一さん不潔です」
「名雪、栞、何か勘違いしているぞ! 佐祐理さんが言ったのはそう言う意味じゃない」
 狼狽する俺に笑顔で抱きついている佐祐理さん、そして無表情ながら嬉しそうな舞。
 そんな俺を香里と栞、そして七瀬、名雪が責め立てている。
 ふと視線を逸らせば、住井、北川、南、そして折原と長森が少し離れたところで、呆れながらこちらの様子を傍観しているのが見える。
「狸の置物にはねられて大怪我したかと思えば……」
「今度は何事も無かったかの様な、いつもの軽口に……」
「おまけに相変わらずの女難っぷりか……」
「やれやれ、人騒がせな奴だな全く……」
「浩平が言う台詞じゃないよそれ?」
 そんな言葉が耳に届く。
 どうやら、俺を今の状況から助ける気はないらしい。

 ところで俺はどうやって校庭まで降りたのか? 
 皆から聞いた話を統合するとこうだ。
 二階の窓から郁未先生の力に頼ることなく校庭に降り立った舞が、佐祐理の傍らで項垂れる七瀬の悲痛な声を聞き、瞬時に状況を理解して、七瀬によって開け放たれたままの三階の窓へと一気にジャンプ――恐らく魔物の力を借りたのだろう――して校内へ侵入。
 その窓のすぐ脇で俺は気を失いかけていたわけだから、正に間一髪、窓から飛び込んだ舞がそのまま持ち前の力と技で、あの狸を木っ端微塵にした。
 そして再び舞が校舎から飛び降りて来た時、その背中にはぐったりとした俺が背負われていたという事らしい。

 安っぽいディーゼルエンジン音が響き、俺達の横にボンゴ――マツダの一トントラック――が停車した。
「はいはい、お取り込み中申し訳ないけど、みんなそろそろ行くわよ?」
 その運転席から郁未先生が手を”パンパン”と叩きながら、俺達全員を呼ぶ。
 ナンバープレートの「わ」表記から見て、どうやら学園祭準備用に学校側が用意したレンタカーなのだろう。
「よっし、とりあえず撤退だな」
 折原の言葉に皆が一斉に動き出す。
 佐祐理さんのインプレッサと郁美先生のボンゴ、それぞれに分乗するべく移動する中、当然のように皆に付いて行こうとする川名先輩を深山先輩が呼び止めた。
「みさき、あなたは帰りなさい」
「うー……」
 残念そうに唸り声(?)を上げる川名先輩の腕を掴むと、深山先輩は校門へ向けて問答無用とばかりにスタスタと歩いて行く。
「わっ、人さらいだよっ! 売られちゃうよっ! 誰か助けてよ〜」
 川名先輩が手をばたつかせながら、大声を上げて反抗する。
「人を極悪人みたいに言わないでよね」
 親友の抵抗を気にせず、深山先輩は校庭を進む。
「やだよー、雪ちゃん後生だよ!」
「さっきの調査で何か異常がある事が確実になった今、これ以上あなたを危険な目に合わせられないのよっ!」
 足を踏ん張り腕を振って必至に抵抗している川名先輩は、本気で嫌がっている様に思えた。
 だが、深山先輩の行動が目の見えない親友を思っての事なのは明白であり、俺達は口を挟む事も、そして彼女を止める事も出来なかった。
「お願い雪ちゃん……駄目なんだよ……私このままじゃ駄目なんだよっ!」
 だが川名先輩の抵抗は続き、その口調はかつて聞いたことが無い程激しいものとなった。
「みさき……」
 そんな川名先輩の言動に深山先輩は掴んでいた手を緩めた。
 深山先輩の腕を振り払い、親友が佇んでいるであろう方を向いた川名先輩の表情は何時になく真剣で、その目尻には月明かりを反射させる物があった。
「だって雪ちゃん、私今日久しぶりに町に出て……さっきも雪ちゃんと離ればなれになって、心細い思いもしたけど……でもわたし判ったんだよ。いつまでも閉じこもってたらいけない……って」
「……」
 川名先輩の独白に、深山先輩だけでなく、その場に居た俺達全員が押し黙り彼女の言葉を待った。
「雪ちゃんや、澪ちゃんや、浩平君には迷惑かけてばかりだけど、わたしも少しずつ変わらないと、一生みんなに頼りきっちゃう……それじゃ駄目なんだよ」
 光の映らない瞳に浮かぶ涙に、月の明かりが輝いていた。
「みさき……」
 親友の名を呟く深山先輩。
「だから……もう少しみんなと一緒に行かせて? ね? 雪ちゃん」
 そんな二人のやり取りを、俺達はただ聞いているしか出来なかったが、暫くして折原が彼女達の元へと進み出た。
「深山先輩。オレからもお願いします」
 皆が見守る中、深山先輩に向けて頭を深々と下げ、真剣な表情で折原が懇願する。
「や、止めてよもう。これじゃ私が本当に悪人に見えるわ。判ったわよっ」
 照れているのか、狼狽しているのか、深山先輩は顔を赤らめて少し怒った様に言い放った。
「有り難う、雪ちゃん………わっ」
「有り難うございますっ!」
 折原が川名先輩の頭を掴んで無理矢理お辞儀をさせている。
 そんなやり取りに緊張していた皆の表情も緩み、俺達はいつもの調子を取り戻した。
 穏やかな雰囲気が辺りを包んだ瞬間――
 突然、中央校舎の最上部の時計に掲げられていた『故障中』の看板が音を立てて崩れ落ち、突如としてチャイムが鳴り響いた。
 だが、その音は聞き慣れたメロディではなく、出鱈目な音階――カラオケの音階キー操作を無造作に操作した時の様な感じだ――だった。
 しかも夜間の静かな時間に鳴ったものだから、普段よりも数段喧しく感じられる。
「な、何だ?」
「何よ?」
「え?」
「きゃっ」
「こりゃ、えらい近所迷惑だな」
「さ、みんな早く乗って!」
 皆が耳を塞ぎながら驚きの声を上げる中、郁未先生の声が校庭に響く。
 俺達はまるで何かに追われているかの様に、郁未先生のボンゴと佐祐理さんのインプレッサに分乗すると、そのまま慌てて校外へと逃げ出した。
 校門を出て走り去る俺達の耳に、耳障りなチャイムの音が暫く届いていた。





§






 結局、決定的な原因を掴めぬまま、俺達は一目散に学校から逃げ出した。
 郁未先生や舞が居る限り、危険は回避出来るかもしれないが、あまりにも不確定要素が多すぎるし、何より行動する人数が多すぎた。
 郁未先生のボンゴと、佐祐理さんのインプレッサに分乗した俺達は夜空の下車を走らせた。
「さて、これからどうしたものですかねーっ?!」
 インプレッサの助手席に座っている俺が、隣を併走するボンゴの運転席へ向かって大声で尋ねる。
「いくら車を飛ばしたところで、昨夜の二の舞だろうしなぁ〜っ!」
 ボンゴの荷台に乗った折原も大声で答える。
「一端退きましょう!」
 運転中の郁未先生は前方を注視しながら俺達に言う。
「何処にですかーっ?!」
「水瀬さん家だろ? 俺達の家にはどうせ辿り着けないだろうし、みさき先輩の家じゃ学校の正面で安心出来ないしな」
 俺の質問に答えたのは郁未先生ではなく、折原の方だった。
「そうね、じゃ倉田さん、良いわね?!」
「了解ですーっ!」
 郁未先生と佐祐理さんがそうやり取りをすると、俺達は揃って車を走らせ、一路水瀬家へと向かった。


『こんばんは! 今晩もお世話になりま〜すっ!』
 折原、住井、北川の声が玄関に響き渡る。
 昨夜よりも大勢の人間が押し掛けてきて、流石の秋子さんも呆れているかと思えば――
「あらあら、いらっしゃい」
 秋子さんはいつもの秋子さんだった。





§






「しっかし……よく入ったものだな」
 俺は少し呆れた口調で感心を表した。
 リビングとダイニングに、総勢十八名もの人間がひしめいているその様は、感心に値するだろう。
 皆が適当な場所に腰を下ろす中、新たに加わった川名先輩と深山先輩、そして澪ちゃん――三名の新加入者が立ち上がり、初対面である秋子さんと真琴に紹介を始める。
 真琴は新たな客に戸惑っているのか、佐祐理さんと舞の後ろに隠れるようにして、声も発さずに様子を伺っている。
「えーと、深山雪見です。演劇部の部長を務めてます。この度はこんな夜分、押し掛けて申し訳ございません。ご迷惑と存じますが、一晩ご厄介になります」
 丁寧な言葉と共に深々とお辞儀をする深山先輩。
 恐らくは演劇で培ったものなのだろうが、礼儀の正しさも去ることながら、その立ち振る舞いも完璧で、まるで佐祐理さんと同じ世界のお嬢様と思えてしまう。
『上月澪』
 澪ちゃんは、いつも持ち歩いているスケッチブックの一ページ目を見せてペコリとお辞儀し、ニコニコと微笑んでいる。
 次は川名先輩の番だが、目の見えない彼女には、言葉が発せない澪ちゃんの挨拶が終わったかどうかの判別が付くはずもない。
「……みさきの番よ」
 深山先輩が隣でぼーっと立ったままの川名先輩に小声で伝える。
「川名みさきです。えーと……お世話になります?」
「何で疑問系なのよっ!? 済みません秋子さん。ほら、ちゃんと挨拶なさい!」
 深山先輩が小声で怒鳴ると、隣の川名先輩の後頭部を掴んで無理矢理お辞儀をさせる。
 さっすが香里に尊敬される先輩だけあって、生真面目な人だ。
「うふふ。何だか面白い子ね。いらっしゃい、雪見ちゃんにみさきちゃん、そして澪ちゃんね。よろしく。私が名雪の母で秋子です。そしてこの子が……あら?」
 そこまで言って秋子さんは真琴の姿がいつの間にか消えている事に気が付いた。
「ほら真琴さん、挨拶しなきゃだめですよー」
 佐祐理さんの優しげな声にたしなめられると、真琴が一瞬彼女の肩越しに顔を出し――
「あうー」
 ――と、挨拶にならない口癖だけを発して、再び佐祐理さんの背中に隠れてしまった。
 そんな真琴の様子を見て、深山先輩が「あはは……ひょっとして、私達嫌われてる?」と川名先輩に呟いている。
「雪ちゃんって怖いからね」
「私を怒らせるのはいつもあなたでしょ!」
 川名先輩の一言に深山先輩が口調を強めてやり返す。
 そんな二人のやり取りを見て秋子さんは、笑顔で「仲良いんですね?」と話しかけた。
「あはは、ま、何て言いますか、腐れ縁って奴でして」
 深山先輩が指で頭を掻きながら少し照れくさそうに答えている。
「演劇部って事は、香里ちゃんの先輩なんですね。それじゃ澪ちゃんも同じですか?」
『そうなの』
 笑顔のままスケッチブックで答える澪ちゃん。
 澪ちゃんや川名先輩の障害に関しては何も触れず、ごく普通の対応をする秋子さんの態度は流石と言うべきだろう。
「あの秋子さん、ちょっと良いですか?」
 川名先輩が少しだけ真面目な顔をすると、秋子さんの居る方向へと手を伸ばし、おっかなびっくり一歩進む。
「あ、はい。どうぞ」
 そんな言葉と動作で全てを把握したのか、秋子さんは立ち上がると川名先輩の前へと進み、彼女の手を優しく取って自分の顔へとその手を導いた。
 笑顔のまま秋子さんは川名先輩に顔を触られている。
「秋子さんって、何だかとっても優しい人ですね。あ、有り難うございます」
 川名先輩はゆっくりと手を秋子さんの顔から離すと、ニッコリ微笑み会釈をする。
 秋子さんもまたいつもの笑顔で「いえいえ」と答えている。
「名雪ちゃん、いいお母さんだね?」
「うんっ!」
 川名先輩の言葉に、ことのほか嬉しそうに頷く名雪。
 ま、名雪にとって秋子さんは自慢のお母さんだ。誉められるのは嬉しいのだろう。
「うふふ。お世辞でも嬉しいわ。みさきちゃん」
「私、目は見えないけど、人を見る目は有る方ですよ。秋子さんからはとっても暖かい雰囲気が伝わってくるから……うん」
 秋子さんの言葉に、川名先輩は頷いて答える。
「それじゃ今度はこの子だね……えーと真琴ちゃんだっけ? この辺かな?」
 川名先輩が今度は真琴の方へと向き、手をゆっくりと伸ばす。
「あ、あうーっ」
 真琴は不安げな表情で、その手から逃れようと身体を引こうとする。
(ったく……アイツの人見知りはどうにもならんのか?)
「こらっ真琴! じっとしてろ」
 真琴の背後に回り、両肩を掴んで動けない様にする。
「きゃっ! な、何よ祐一っ!」
 真琴が驚き声を上げると、何故か目の前の川名先輩までもが驚いた表情をしていた。
「あれ? 女の子だったんだ」
「当たり前でしょっ! 他に何に見えるってのよっ! ひゃっ!」
 声を荒げる真琴の顔に、みさき先輩の手が触れる。
「うーん……」
「な、何よっ」
 俺が身体を掴んでいる為、逃げ出せない真琴は川名先輩のなすがままに、顔面、頭、更に肩とスキャニングされていく。
「もう良いでしょっ! きゃーっ!」
 やがて川名先輩の手が胸の上に置かれると、真琴が悲鳴を上げる。
『おおっ!』
 思わぬ衝撃映像に、野郎共が揃って声を上げる。
「あ、本当だ。女の子だね」
 やがて気が済んだのか、川名先輩はニッコリと笑って、真琴の方に微笑み「ごめんね」と謝った。
「あうーっ」
 俺が身体を解放してやると、脱兎のごとく勢いで佐祐理さんの背後へと回り縋り付く。
「あははーっ大丈夫ですよ、川名さんはとっても良い人ですからね〜」
「……うん」
 佐祐理さんに頭を撫でてもらった事で落ち着きを取り戻したのか、真琴が僅かに頷き返す。
「さ、挨拶も済みましたし、ちょっと遅いけど食事にしましょうか」
 秋子さんがそう提案すると、野郎共が「ひゃっほー!」と、歓喜の声を上げて喜ぶ。
「あ、それなら佐祐理も手伝います。舞、真琴さんをお願いね」
「……判った」
「あたしも手伝うわ」
「あ、お姉ちゃんズルイです。私も手伝いますー」
 佐祐理さん、香里、栞が秋子さんに続いてキッチンへと向かう。
「私も手伝いたいけど、人数多すぎても困っちゃうかな?」
「瑞佳には折原君の監視をお願いするわ」
 長森が少しばつが悪そうに言うと、香里が立ち止まり振り向き様に答える。
「あはは、判ったよ」
「俺ってそんな信用無い?」
『うん』
 その場に居た者が揃って頷いた。
 凹む折原の姿に皆の笑い声が、水瀬家の中で響き渡る。
「うーん……」
「どうしたのみさき?」
「あ、雪ちゃん。あの真琴って子……ううん。何でもないよ」
 皆が笑い声を上げる中、俺の耳に川名先輩と深山先輩の会話が聞こえてきた。
「何よ。途中まで言っておきながら止めないでよもう。はっきり言いなさい」
「うーん。最初犬か猫……ペットみたいな雰囲気がしたんだけど……だから人間の女の子だと判って驚いちゃった。おかしいなぁこれでも人を見る目には自信があったのになぁ」
(ペットか……)
 なるほど、確かに真琴の行動は何処か小動物っぽい雰囲気を持っている。
 川名先輩の所感に、俺は内心同意しながら立ち上がると、一度自分の部屋へ戻る事にした。





§






 ずいぶんと騒がしい夕食を済ませ、俺達は昨夜同様の部屋割りで眠ることになった。
 増えた三人に関しては、俺の部屋に深山、川名の両先輩を追加(舞・佐祐理さんと相部屋)、真琴の部屋に澪ちゃんを追加――という状態だ。 ちなみに俺は他の野郎共と一緒にリビング行きだ。
 流石に疲れたのか、夕食後は何もせずに皆が着の身着のまま疲れたように床についた。
 真琴だけは遊び足りないのか、少しがっかりとしていた様子だったが、今頃は長森辺りに抱きしめられながら気持ちよく寝ている事だろう。

 照明の落ちた暗いリビングで毛布にくるまりながら、俺は色々と考え事をしていた。
 狂った世界。
 俺達の行く末。
 正体の見えぬ黒幕の正体。
 そして垣間見た俺の記憶――判らない事だらけだ。
 どの程度考えていたのだろうか、俺の耳に秋子さんの部屋の扉が開いた音が聞こえて来た。
 やがて廊下を静かに進む人の足音。
 その足音が俺の居るリビングの前で止まると、静かに扉が開き郁未先生が入ってきた。
「相沢君、ちょっと良い?」
 入ってきた郁未先生が小声で俺の名を呼んだ。
「何ですか?」
 俺は返事をしながらソファーから身を起こす。
「ごめんね、寝てたかな?」
 ソファーの傍らへそうっと近付きながら、郁未先生が小声で囁く。
「いえ起きてましたよ。色々と考えてました」
「考えてた?」
「ええ、明日はこの世界はどうなるんだろう? 俺達の記憶はどうなるのだろう? ……って事をです」
「そっか。なら話は早いわね」
「はい?」
「相沢君、もう少し私に付き合ってくれないかな?」
 ずいっと顔を近づける郁美先生。
「い、今からですか?」
 郁美先生のアップに少しドギマギして答えた。
「ふふっ、この世界で時間なんて無意味でしょ?」
 そう言いながら悪戯っぽく微笑む先生につられる様に、俺も笑顔を浮かべて応じた。
「そりゃまぁそうですけど……他のみんなは?」
「う〜ん、今回は危険かもしれないし、人数は最小限の方が良いわ」
「俺は逝っちゃっても良いと?」
 俺が苦笑しながら言うと、先生は表情を真剣なものにして俺を見つめ直す。
「ううん、当然拒否しても構わないわよ? でも相沢君は一緒に来ると思うわ」
「そうですか?」
「ええ。貴方は好奇心旺盛でしょ? それに一度首を突っ込んだ事は最後までやり遂げる子だしね。それにこれは私の勘みたいなものだけど、川澄さんや倉田さんを救った貴方なら、この世界も救えるんじゃないかと思うのよ」
「え? 俺は別に……」
 驚く俺を尻目に、郁未先生は立ち上がり――
「行くなら玄関で待ってて」
 と言い残してリビングを出て行った。
「世界がどうのこうのってのはさておき……この世界の真実には興味あるよな。うん」
 俺はソファーから立ち上がりリビングを見回すと、周囲で寝ている北川、南、住井、そして折原の姿が見えた。
「……」
 起こさぬようにそうっと立ち上がり、制服の上着を羽織ってリビングの扉に手をかける。
「相沢、そのまま一人で行くのか?」
 背後から折原の声がかかる。
 振り向けば、他のみんなも起きて俺を見ていた。
「なぁ相沢、俺達は仲間だろ?」
「相沢一人に格好良い真似させられないよ」
「それに郁未先生と二人きりで深夜のデートなんて、天が許しても俺が許さない!」
 北川、南、住井が笑いながら俺に言う。
「お前等……」
「ま、そういう訳だから、オレ達も一緒に行かせてもらうぜ?」
 傍らまで来ていた折原が、俺の肩に手を置きながら皮肉っぽく笑い――
「それに、オレ達は”逝っちゃっても良い奴等”だろ?」
 そう笑顔で言う。
『それはお前が勝手に決めた事だろっ!』
 後ろの三人が声を揃えて突っ込む。
「ははっ、そうだったな」
 緊張感をぶち壊す友人達の態度に、堪らず俺は吹き出した。
「ここまで来たら一蓮托生だ。オレ達にだってこの世界に生きる者として、真実を知る権利はある。違うか?」
 折原の言葉に、俺達は全員で頷き合った。


 俺達が連れだって外へ出ると、家の前には郁未先生ではない人影が俺達を待ちかまえていた。
「こんばんは。こんな夜中に皆さん揃ってお出かけですか?」
「……」
 まるで俺がこうして来る事を予想していたかのように、舞と佐祐理さんが水瀬家の門前に佇んで居た。
「祐一さん、佐祐理達を置いて行くなんて酷いですよ」
「……祐一、私達はいつも一緒だと約束した」
 そんな二人の言葉に、俺の中で嬉しさが込み上げてくる。
 そうだった。
 俺達は何事も三人で乗り切る事を約束したんだ。
「ああ。そうだな」
 二人に頷く俺を、住井と北川が肘で小突く。
「はいはい、そりゃよござんしたね」
「相沢の外道! 畜生! 人でなしっ!」
 俺達がふざけ合っている背後で扉が開く。
「全く……こんな事だろうと思ってたわよ」
 現れたのは香里だった。
「み、美坂?」
 俺に対する攻撃を止めた北川が驚きの声を上げる。
「真実を知りたいのは、何も貴方達だけじゃないわよ?」
「香里、お前も来るのか?」
 俺は住井のヘッドロックを解き、呆けている北川の後頭部に”御礼”を与えて尋ねると――
「当然よ、ここまで来て途中下車なんて気分悪いわ」
 香里は当たり前のように答えた。
「他のみんなはどうした?」
「名雪と栞はすぐに寝ちゃったわね。真琴の部屋の様子は見てないけど、多分みんな寝たんじゃないかしら? 留美も流石に疲れてたみたいだし」
 住井の質問に香里が腕を組んで答えていると玄関の扉が再び開く。
「お待たせ。あら?」
 郁未先生の言葉に、俺達は一斉に彼女の方へ顔を向ける。
「言っておきますけど、別に相沢君に頼まれたのでも強要されたのでもありません。皆自分の意志で決めた事です」
 香里が代表して郁未先生に言うと、彼女は俺達を見回してから口を開いた。
「……そう。なら何も言うことはないわ」
 少し厳しい表情で短く言うと、郁未先生は俺達の前を通り抜け、路上に停めてあったボンゴの運転席へと乗り込んだ。
「それじゃ行きましょうか? 真実を確かめに」





§






「で、俺達は何処に向かってるんですか?」
 荷台から運転席の方へ身を乗り出して俺は郁未先生に尋ねた。
 ちなみに定員三名の車内には、郁未先生と香里、そして佐祐理さんが乗っている。
「そうね。最初はものみの丘で昨夜のリターンマッチって思ってたけど……止めたわ」
 そんな郁未先生の答えに、俺達はみな首を傾げる。
「もっと確実な方法で、私の疑問の答えを確かめてみる事にするわ」
 少し思案してから郁未先生はそう答えた。
「あの、具体的には?」
 香里がおずおずと質問する。
「そうね、取りあえずは商店街ね」
「商店街……ですか?」
 郁未先生の返答に、佐祐理さんが不思議そうに首を傾げる。
「百花屋でも言ったけど、今私達の回りで起きているこの不可解な現象が世界全体で起きているとは考えにくいの」
 郁未先生に言葉に皆が頷く。
「昨夜、あなた達の殆どが自分の家に帰れなかった。帰れたのは相沢君と水瀬さん、そして川名さん達だけ。その事も併せて考えると、やはり何かこの異変が起きている範囲は限定される事になるわ」
「そうですね」
「やっぱり結界みたいな物があって、その外に出られれば元の世界に戻れる……という事ですか?」
 佐祐理さんと香里が答える。
「そうね、だからその範囲を確かめたいの」
「その為に商店街ですか?」
 俺が尋ねると、郁未先生は少し悪戯っぽく笑うだけで何も答えてはくれなかった。
 俺は首を傾げながら身体を戻して、荷台に乗っている面々――舞、折原、住井、北川、南に向かって、郁未先生の言葉を伝える。

 やがて俺達を乗せたボンゴは、商店街へとたどり着いた。
 昼間の喧噪がまるで夢のように静まり返った道を暫く進むと、車は角を曲がり路地へと入る。
 さらに角を曲がると、そこは通い慣れた商店街から路地を一つ隔てた裏通りだ。
 裏寂れたその通りは日中でさえ人通りは疎らで、夜中といっても良い今の時間は、当然全くの無人と言って良かった。
 かく言う俺も、この街に越してきたばかりの頃に迷い込んだ事があるだけだ。

 郁未先生の運転で俺達が辿り着いたのは、その通りの更に奥まった場所にある、高い壁に囲まれた小汚い倉庫だった。
「お化け倉庫か……」
 折原の呟く声が聞こえた。
「お化け倉庫?」
「ああ、この辺りでは有名なんだ」
「ずーっと前から使われていないんだけど、時々中から変な音が聞こえてきたりするらしい」
「それにこんな外見だろ? だからガキ共の間ではそう呼ばれてるのさ」
 俺の疑問に、住井、北川、南が答えてくれた。
 ナルホド、使われていない大きな朽ち果てた倉庫か。
 確かに街の子供達から”お化け倉庫”と呼ばれるに相応しいい寂れた外観をしている。
「先生……ここには何が?」
 佐祐理さんが尋ねるが、郁未先生は何も聞こえなかったかの様に、一言も発せずに倉庫の前で車から降りる。
 俺達も続いて車から降りると、郁未先生に続いて扉の前に立つ。
 目の前の鉄製の大きな扉の正面に立っていた先生が、片手を掲げて振り下ろすと、その動作の直後に重そうな鉄扉が、音を軋ませ自動扉が如く勝手に開いた。
『お〜っ!』
 俺を含めた野郎共が感心した様な歓声を上げる。
 住井や北川に至っては拍手までしている有様だ。
「さ、みんな付いてきて」
 そう言うと、郁未先生は扉の中へ足を踏み入れて行く。
 俺達は言われるがままに、彼女を追って塀に囲まれた敷地へと入る。
「うわ〜」
「はぇーっ」
「こりゃぁ酷い有様だな」
「前から気にはなっていたが……中はこんなんだったのか」
「何だか凄い寂れてるな」
「あれなんか、何かが爆発した跡みたいね」
 皆が口々に中を見た感想を漏らす中、郁未先生だけは歩みを止めず、一番大きな建物へと向かう。
 その建物は天井が高く、外の物以上に大きな扉――というよりゲートと言った方が適切だろうか?――がある。
 左右へスライドするタイプの扉であり、その中央には大きな錠前が備え付けられていた。
 郁未先生が扉の前に立ち、その鍵に手を触れると”カチャッ”――そんな軽い音と共に、鍵が外れごつい錠前は地面へと落ちていった。
 そのまま郁美先生が首を軽く左右に振ると、今度は倉庫の扉が勝手に左右へと開いて行く。
 扉が完全に開くのを待たずに、出来た隙間から無言のまま倉庫の中へと入って行く彼女を、俺達は慌てて追って行った。
 倉庫の中は真っ暗で、中がどうなっているのか全く判らなかったが、郁未先生は構造を知り尽くしているかの様な足取りで奥へと進んで行く。
 やがて倉庫の隅の方からブレーカーを操作する音が聞こえると、真っ暗だった倉庫の中を照明が照らし出す。
「うわ〜」
「ヘリコプター?」
「うおっ! こ、これはカモフKa−27ヘリックス!」
 照明によって映し出された物体を見て住井が驚きの声を上げる。
「要するにヘリコプターだろ?」
 南が興味なさげに言うと、住井が血相を変えて説明を始めた。
「馬鹿野郎! コイツはロシア海軍で使用されている索敵・対潜・救助と多用途に使用できるヘリコプターでだな、カモフ設計局得意の二重反転ローターを使用する事で機体のコンパクト化に成功した、画期的な艦載ヘリだぞ! 初飛行はソ連時代の一九七四年……」
「ま、それはそれとして、何で、そのロシア製のヘリコプターが此処に?」
 住井のうんちくが長く成りそうなので、言葉を遮って俺が郁美先生に尋ねる。
「……此処はね、私がこの街に来た時、最初に足を下ろした場所なのよ」
「ってことは?」
「じゃ、じゃあこのヘリックスは郁未先生の物ですかっ?」
 俺の言葉を遮るように、住井が興奮気味に尋ねる。
「ま、そうね。正確に言うと私のいた施設の物だけど……今は所有者が居ないし、私の物って事で良いんじゃないかしら?」
 何かを懐かしむかの様に答える郁未先生。
「先生、ヘリコプターなんか操縦できるんですか?」
 北川が挙手して質問をする。
「まぁね。昔色々な事を叩き込まれてるから。あ、あまり詮索はしないでよ? 女の過去はミステリアスな方が魅力的なんだからね。ふふっ」
 先程の愁いを帯びた表情とは売って変わって明るい表情で、ウインクをして郁未先生が答える。
「そう言う事だから、はい、みんな乗って乗って!」
 まるで園児を引率する保母の様に手を叩くと、みんなはヘリへと乗り込んで行く。
 しかし俺の身体はヘリに乗ることを拒む様に動かなくなり、脚はまるで根が張った様に自分の意志とは無関係に動かなくなった。
「あ、あのさ」
 俺が何とか、サイドハッチの手すりに捕まったところで、既に乗り込んでいる連中へ声をかける。
「どうした相沢?」
「何だか顔色悪いわね」
 折原と香里が俺を見て不思議そうな表情で答える。
 はっきり言って自分でも顔色が悪いだろうと思われる程に気分が悪い。
「俺、高所恐怖症なんだけど……」
「それで?」
「それで……って、こんなのに乗って何するんだよ!」
 俺は北川の言葉に、思わず怒鳴り声を上げる。
「相沢、こんな機体に乗れるなんて、一生の内に一度あるか無いかの事だぞ?」
 そう言う住井は、珍しいヘリに乗り込んでご満悦の表情だ。
「そういう問題じゃねぇよ。コイツに乗ったら空飛ぶんだろ?」
「そりゃヘリコプターだもんなぁ」
「そうよね。地面に潜るヘリコプターってのは聞いたことが無いわね」
 しれっと答える折原と香里。
「お前等ひょっとして楽しんでないか?」
 自分でも判る。
 ハッチ横の手すりに掴まったまま及び腰な俺は、さぞ滑稽に見えるだろう。
 しかし怖い物は怖い。
 俺の高所に対する恐怖心はDNAに刷り込まれている情報なのだから、こればかりは仕方がない。
「相沢どうした? 早く乗れよ」
 南までもが俺を急かす。
「祐一さーん、早く乗って下さーい」
 コクピットの方から佐祐理さんが手を振って俺を呼ぶ。
 女神の微笑みが、何故かこの時ばかりは死神のそれに見える。
「……祐一早く乗る」
 舞が躊躇っている俺の手を引っ張り、機体の中へと引きずり込む。
「ま〜い〜っ! こらっ北川、南、何をする〜っ!」
 騒ぐ俺を北川と南が押さえつけると、住井がロープを俺の腰に巻いて機内のフックに引っ掛ける。
 そんな合間にも、コクピットでは郁未先生が発進準備を進めている。
「燃料は…うん、OKね。各部問題なし……と。さ、行くわよ!」
「それでは皆さん出発ですよー。しっかり掴まってて下さいね」
 佐祐理さんがまるでスチュワーデスのように笑顔で振り向きながらみんなに伝える。
「ちょっと待てっ! 俺はやっぱり残る!」
「まぁ待ちたまえ折原君」
 俺が騒ぎたてると、折原がいつもの笑顔で俺に近付いてくる。
「だから俺は高所恐怖症なんだよっ!」
 俺は必死に外へ出ようとするが、身体はさながら犬の様にロープで結ばれている。
「それはさっき聞いた。しかし俺達は一蓮托生だと、先程誓い合ったばかりではないか?」
 折原の言葉に、住井達が”うんうん”頷いている。
「それにほら……」
 折原が顎でしゃくる方向には――
「……」
 俺の事をじっと見つめている舞の姿がある。
「舞……」
 そう呟くと、俺は黙って舞の顔を見つめる。

 ――舞の事頼んだからね。

 そんな、まいの声が聞こえたような気がした。
「判ったよ覚悟は決めた。住井、ロープを解いてくれ、大丈夫だ逃げやしない。それから佐祐理さん……悪いんだけど」
 ロープが解かれた俺は立ち上がるとコクピットへ向い、郁未先生の横に座っていた佐祐理さんに席を替わって貰う事にした。
 ちゃんとしたシートに座っている方がまだマシに思えたからだ。
「来たわね?」
 まだ顔色の悪い俺に郁美先生が微笑む。
「ええ、こうなったら地獄の底まで付き合いますよ」
 精一杯の皮肉を込めて俺は笑いながら答える。
「ふふっ」
 郁未先生が俺の言葉に笑いながらスタータースイッチを入れる。
 と、頭上から――キャビン上部に備え付けられた二基のクリモフ社製のTV−117Vエンジンが轟音を立て始める。
 郁未先生は慣れた手付きで各種計器を読み、最終的な発進準備を整えて行く。
 やがてタイヤをきしませながら、ヘリックスがゆっくりと前進を始め、倉庫の外へと出る。
 二重反転式のローターが高速で回転を始めると、騒音は一層激しくなり、機内の俺達は怒鳴り声を上げなければ会話が出来ない状態になった。
「さ、行くわよ」
「……」
 俺はまるで舞の様に黙ったまま頷いて返事をする事しか出来なかった。
「大丈夫ですよ」
 背後に立った佐祐理さんが、俺の両肩を優しく掴みながら耳元で囁いた。
「あ、ああ。有り難う佐祐理さん」
 そんな俺達を見て微笑むと、ローターの回転数を確認した郁未先生が操縦桿を引き上げる。
 六五トンの質量の塊が重力に逆らって宙に浮く。
 途端、浮遊感が俺の五体を駆け抜ける。
「うお!」
 踏ん張る両脚に思わず力が入る。
「祐一さん」
 耳元で聞こえる佐祐理さんの声と、肩に置かれた手の温もりにに少し緊張が解け、俺は笑顔を――多少ひきつってはいるが――を返す。
 そんなやり取りの間にも、ローターとエンジンの音を盛大に上げながら、俺達を乗せたヘリックスは高度をぐんぐんと上げて行く。
「ひゃっほー!」
「すげぇーっ!」
「やったやったー!」
 後部のキャビンから、住井達が騒ぐ声が聞こえて来る。
 更にヘリは高度を上げて行く。
 飛び立った倉庫もどんどん小さくなり、やがて夜の闇にとけ込んで見えなくなった。
 俺は震える脚を力と精神でねじ伏せながら、眼下で小さくなってゆく街並みを眺めてみた。
 夜間であった事と佐祐理さんの励ましで、高度に対する恐怖心は随分と和らいでいる様だ。
 キャノピー越しに、街灯や民家の灯りが暗闇の中に疎らに輝いている光景を見つめていると、突然、後方のキャビンから酷く音程がずれた歌声が聞こえてきた。
「さらば〜地球よ〜旅立〜つ船は〜♪」
 振り向くと北川がローターの音にも負けない程の大声で、宇宙戦艦ヤマトのオープニングを熱唱している。
 北川……お前歳は幾つだ?
「喧しいっ!」
「酷い歌声ね」
「北川……お前って本当に音痴だな」
 すぐに住井、香里、そして折原から容赦のない文句が飛ぶ。
 香里の言葉が突き刺さったのだろう、北川が項垂れているのが見える。
「あははーっ」
 佐祐理さんも俺の肩に手を置いたまま、楽しげに笑っている。
 目的や状況も忘れ、機内の皆が外の景色から目を離し北川を見て笑っている。
 そんな北川の馬鹿な行動に緊張が和らいだ俺の目に、ただ一人外を注視していた舞の表情が険しくなるのが見えた。
「どうした舞?」
「……みんな見てっ!」
 舞の珍しく大きな声が機内に響き、笑い声がぴたりと止む。
 そんな声に緊迫した一同が恐る恐る外へ目を移し、その眼下に広がる光景を見て声を失った。
「……な」
「……何だよあれは」
「そんな……馬鹿な」
 北川と南、そして住井が、普段のおちゃらけた態度も無くして声を絞り出す。
「な、何なのよこれ……」
 香里は自分自身が見ているものが信じられない様に何度も瞬きをしている。
「なるほど、これじゃ俺達の家には帰れない訳だな」
 折原がそう言う合間にも、ヘリは上昇を続け、俺達の視界に映る光景は一層その範囲を広げていった。
「こ、こんな事って……」
 流石に驚きを隠せないのか、俺の背後から何時になく緊張した佐祐理さんの声が聞こえる。
 俺の肩に置いたままの手に少し力が入る。
 黙って俺はその手に自分の手を重ねるが、その行動は無意識の内に行われたものであり、俺自身、佐祐理さんの言葉にも返事を返せないまま、コクピットのキャノピー越しに見える光景に言葉を失っていた。
「これが、この世界の実体……想像を超えていたわね」
 俺の横、操縦席から郁未先生の呟きが聞こえてきた。
 言葉を失った俺達の眼下に広がる街の光景……それはまさしく病的な物だった。
 飛び立った倉庫、商店街、水瀬家、公園、そして俺達の学校……俺達の住む街の夜景が月夜に照らし出されて青く輝いている。
 しかしその夜景は、ほぼ円形を描いており、その外側は完全な闇――つまり存在していないのだ。
 本来ならば北川や住井達の住む家がある筈の部分は、そっくりそのまま消失している。
 いや、むしろ周囲が存在しないのではなく、街のある一部分が円形に切り取られていると表現した方が正しいだろう。
 周囲は星空で埋め尽くされており、丸い箱庭となった街の一部が、夜の闇――というより宇宙空間の中を飛んでいた。
 有り得ない――。
 何もかもが有り得ない――。
 俺は言葉を飲み込み、眼下に広がる光景を観察し続ける。
 切り取られた街の外周部分は絶壁になっており、その断面からは幾つもの上下水道と思われる部分から水が小さな滝のように、闇の中へと消え落ちている。
 外壁の高さは数十メートルはあるだろう。
 そしてその下には、更に驚くべきモノが存在していた。
「……亀さん」
 舞が驚きとも感心とも思える声を上げた。
 街の一部が宇宙を漂っているだけでも十分に異常なのだが、その街が巨大な亀の背に乗っている光景は、極めつけに異常だった。
 見れば、その巨大な亀は岩で出来ている様で、生き物で無い事は明らかだった。
 だがその馬鹿げた大きさはどうだ。
 上に載せた街の規模から考えて、甲羅の部分だけでも長さ数キロメートル、頭の先から尾の先までならその五割増し程の長さが有るだろう。
「下に行くわよ!」
 郁未先生が声を上げると、ヘリックスはそのまま街を横切りながら高度を落として、亀の尻側から”街の底”へと回る。
「な、何だこれ?!」
 そこでまた俺達は驚きの声を上げた。
 街は亀の甲羅の上に直接載っている訳ではなく、円周上に配置された幾つもの巨大な――それこそ数百メートル程は有ろう石柱によって支えられていた。
 それはまるで、かつての――世界は平坦で端が在り、巨大な亀の上に乗っていると信じられていた時代の――人類が想い描いた世界の想像図にあった物の様だ。
 郁未先生はヘリを甲羅と街の隙間へと進ませると、最高速度の約二八〇km/hのスピードでその隙間を駆け抜けて行く。
 上下に広がるのは一面の岩肌であり、特に上部――街の裏側はやけにゴツゴツとしている。
 やがて石柱の間を通過して反対側――亀の頭部側へと抜けたると、そのまま上昇を始める。
 その瞬間、コックピット横に突き出たキャノピーから後方を見ていた俺の視界を、何か異質な物が掠めた。
「い、今のはっ!? 先生っ街の外周に沿って旋回して下さい! あれは確かに!」
 離れて行く石柱に、何処か違和感を覚えた俺は、高所に対する恐怖も忘れ郁未先生に叫んで進路を指示する。
 俺の声に頷くと、郁未先生はヘリックスを街の外側に沿って高度を落としながら飛ばせる。
「あ!」
「嘘!」
「何て事……」
 皆が驚きの声を絞り出す。
 俺達の眼前に存在する石柱は只の柱ではなかった。
 それは両腕を上に伸ばして物を支えている人の形をしており、そしてその姿は、俺達のよく知った人物を象っていた。
「久瀬ぇっ!」
 物を言わぬ仇敵を見て、俺はそう声を出す事が精一杯だった。
 俺達の住む世界を文字通り支える形で、久瀬は巨大な石像へとその姿を変えていたのだ。
 巨大な久瀬の石像の真横を通過する間、郁未先生はただ無言で奴の変わり果てた姿を見つめていた。
「何だよあれは! 一体どういう事だよ!?」
 そんな住井の問いかけに答える……いや、答えられる者は居ない。
 その合間にも、俺達のヘリックスは街の外周をなめるように跳び続けていた。
「おい見ろっ!!」
 折原の声が機内に響く。
「あっ!」
 別の石柱にも見覚えのある姿を見ることが出来た。
「暫く見かけないと思ったら、こんなところに……」
 南が愕然として声を上げる。
 その石柱は紛れもなく柚木詩子の姿をした石像だった。
「あそこっ! 里村さんも居るぞっ!」
 住井が指さす方向、柚木の隣に列んで里村茜の石像も存在した。
 更には――
「氷上……お前もかよ」
 折原の言葉に彼の視線を辿ると、その先に氷上シュンの石像までもが在った。
「みんな、一体どうしてよっ!」
 香里がキャビンのハッチから半ば身を乗り出して級友や知人達の変わり果てた姿に声をかけていると、ヘリックスのエンジンの動きが急に咳き込む様に途切れ途切れになる。
「うわっ!」
「きゃぁっ!」
「うおっ!」
「何だ!?」
 機内の俺達は突然の振動に驚きの声を上げる。
「ガス欠? そんな……まだ数分しか飛んでいないのに」
 郁未先生が計器を見ながら驚きの声を上げている。
 俺が燃料系とおぼしきメーターを覗き込むと、確かに「E」マーク付近を針が示していた。
「仕方ない、みんな戻るわよっ!」
 キャビンの方を振り返りながら、郁未先生が叫んだ。
「戻るって、あの街にですか?」
「他にある? それとも久瀬君の頭の上にでも降ろしましょうか?」
 住井の問いに冗談っぽく微笑みながら郁未は答えると、最後の燃料を使い一気にヘリを外壁の底から上昇させる。
 街の上空へ戻った時点で完全に燃料を失ったヘリックスは、惰性で暫く跳び続けたが、やがて高度を落としていった。
「駄目ね。とても元の倉庫まではもたないわ。手近な場所に強行着陸するから、みんなしがみついて!」
「マジですか!?」
 郁美先生の言葉に機内の皆は騒然となる。
『うわーーーっ!』
「きゃーっ!」
 佐祐理さんが背後から、椅子ごと俺に抱きついてくる。
 ふとキャビンの方を見れば、舞はこんな時でも慌てずに機内の支柱に掴まり、悲鳴一つ上げていなかった。
 他のみんなは各々騒ぎ喚きながら椅子や支柱にしがみついている。
 俺は佐祐理さんの手に自分の手を重ね悲鳴を飲み込む。
 やがて、コクピットの下部キャノピー越しに、見慣れた一軒家が映り、その庭先がどんどん近付いて行くのが見て取れた。

 ヘリコプターは燃料が切れたり、エンジントラブルでローターが自転出来なくなった場合、そのローター自体が制動装置となりゆっくりと落ちて行く仕組みになっていると聞いたことがあるが、あくまで非常処置であり、それで重力という物を完全に打ち消すことは出来ない。

 俺達の絶叫と共に、ヘリックスは不完全燃焼の音を叫き立てながら、水瀬家の庭へと轟音と共に不時着した。
 不時着と言えば聞こえは良いが、どう見てもこれは墜落だろう。
 俺達が無事で済んだのは、郁未先生が俺達に制動をかけてくれたからに他ならない。
「あ、秋子さんただいま……です」
 俺はヘリから這い出ると、突然の轟音と振動に何事かと家から出てきた秋子さんに向かって挨拶をした。
『今晩もお騒がせしてまーす!』
 続いて野郎共が声をそろえて挨拶をする。
「あらあら」
 突然の轟音と共に帰ってきた俺達を秋子さんは、少しだけ呆れた表情をしたが、いつものように暖かく迎え入れてくれた。
「相沢君? あ、浩平もっ! また何かやらかしたの? 駄目だよ夜中なのに騒いだりしたら」
「な、何事ですかーっ? あ、お姉ちゃん!!」
「何やってるのよ祐一ーっ!」
「貴方達近所迷惑よ?」
「うるさくて眠れないんだおーっ!」
「ねぇ雪ちゃん何が落ちてきたの?」
「ヘリコプターね。どうやらまた折原君達みたいよ」
『乗りたかったの』
 家に残った連中がヘリックスから這い出た俺達を見て、口々に文句を言いながら姿を現す。

 しかし不思議な事に、ヘリの不時着というこれだけの大騒ぎを起こしても、近隣の住人からは何の反応も無く、また警察が来ることも無かった。
 奇妙な程に静まり返った街に気が付くと、不意に月明かりが消えた。
 見上げた夜空には先程まで出ていた月の姿は無く――いや、星々の輝きまでもが消え失せていた。
「え?」
「どうしたの……あれ?」
「急に暗く……」
「空が真っ黒」
 水瀬家の照明以外の光源が存在しなくなり、異変に気が付いた皆がざわめき始める。
「何だ一体……」
 月や星空が消えた夜の闇が、街全体を覆い尽くしたかのような感覚に、俺はより一層の不安を感じずには居られなかった。

 でたらめな世界――

 信じがたい現実――

 それはまるで――

「あれ?」
 誰かが声を上げた。
「うっ……」
 誰かがその場に倒れ込む。
「眠……い」
 誰かが呻き声を上げた。
「うみゅ……」
 周囲の者達が次々に倒れ、寝息を立て始めた。


『うぐぅ……バレちゃったよ』


 そして妙な声を最後に聞き、俺の意識もまたフェードアウトしていった。




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