一面に広がる麦畑。
夕日に照らし出されて黄金色に輝く大地が、風に揺られて静かに波打っている。
それはいつか見た光景。
かつて、俺は何かに導かれる様にその地を訪れ、一人の少女と出会いを果たした。
そして今、再びその懐かしの地、約束の地が俺の眼前に広がっている。
「よぉ、久しぶりだな」
「よぉ……じゃないでしょ?」
何事もなかったように挨拶をする俺を、半ば呆れた様な表情で少女は迎えた。
麦畑に身体が半ば埋もれているその姿は、初めて出会った時と大差なく当時と変わらぬ服に身を包んでいる。
そして長くストレートに伸びた黒髪と共に、俺がプレゼントしたウサギの耳を象ったカチューシャが風に揺れている。
「元気だったか?」
俺はごく自然に言いながら麦畑へと足を踏み入れる。
脚を撫でる感触が何とも懐かしい。
「うん。それなり……って感じかな」
腕を後ろに組み直し、少しそっぽを向きながら少女は答える。
「そっか、それは何よりだ……よっと」
「な、何するのよー」
俺が近づきウサ耳カチューシャを取り上げて頭を少し乱暴に撫でてやると、少女は少しだけ嫌そうに顔をしかめて笑った。
「わははっ、今の俺とお前じゃこれだけ身長差があるからな。悔しかったらでっかくなってみせろ」
「祐一って子供っぽい……そんな事より、しっかりしてよね?」
少女の呆れた表情が、そこまで言うと真剣なものへと変わる。
「また舞を泣かせたでしょ? 『これからは俺が守る』とか何とか言ってた割に、情けないんだからー」
「うっ、痛いところを……ガキンチョの分際でやるな。でも、仕方なかったんだから許せ」
俺はオーバーなリアクションで中腰にしゃがみ、目線を少女の高さに合わせて微笑む。
「……ま、判るけどさ。でも、舞にはちゃんと謝るんだよ?」
「ああ誠心誠意謝罪させて貰うよ」
手にしたカチューシャを弄びながら俺は答えた。
「うん。本当に舞のこと頼んだよ? あまり私の手を煩わせないでね」
「ああ任せろ! もう約束は破らないからさ」
「どうだか……祐一って忘れっぽいからなー」
俺の答えに少女は明後日の方向見ながら呟く。
随分と信用されていない様子だ。
「安心しろって、一度思い出した事は忘れない。おうそうだ、一つ質問良いか?」
「何?」
「お前は何号だ?」
「ぶーっ、酷い祐一! 人を合体ロボットのパーツか何かと思ってるーっ!」
俺の質問に頬を膨らませて怒る。
「……そ、そんな事は無いぞ。うん、決して」
「今の間は何よ?」
「気にするな、目の錯覚だ。レイリー散乱現象だ」
「はぁ……これだもんなぁ。舞も気苦労が耐えないね」
「そんな事は無いぞ。どちらかと言えば俺の方がいつも驚かされている」
俺は胸を張りながら答える。
「う〜ん、そーだね。確かに舞も変わってる」
「ああ」
俺達はお互いの顔を見合って声を上げて笑った。
風が吹いて麦畑がサーッと音を立てて波打つ。
「じゃあな」
笑い終えた俺が、笑顔のまま少女に言う。
「もう来ちゃ駄目だよ」
すこし心配そうな表情だが、俺がもう一度頭を撫でてカチューシャを頭に付けてやると、にっこりと微笑んだ。
とても優しい笑顔。いつしか取り戻したい表情。
「ははっ善処しよう! じゃあな、え〜と、まい五号?」
「五号は余計だよ! もう……、ばいばい祐一」
手を振るまいの笑顔に見送られ、俺も手を振って答えながら麦畑を後にする。
やがて世界は光に包まれて行き、全てのものがその輝きに溶け込んで行く。
光に消えて行く世界の中、俺は振り向き完全に消えゆくまで、風に波打つ麦畑と、まいの笑顔を見つめていた。
■第15話「一蓮托生」
白い光がその輝きを失い、世界が暗転すると俺の視界は暗闇になる。
視覚よりも先に完全に機能を回復したのは聴覚だった。
「祐一ーっ!」
「祐一さん!」
「祐一!」
「相沢君!」
「相沢ーっ!」
いろんな声色が俺の名前を呼んでいる。
次に嗅覚が回復。
俺が意識を失う前に嗅いだ心地よい香り。
うん悪くない寝覚めだ。
触覚も戻ってきたのか、何やら頭が柔らかいものに包まれており、これまた実に気分がよい。
どうやら意識は戻ったらしい――そんな自覚をしてはいるが、目を開けるのを躊躇っていた。
触覚と嗅覚が伝える心地よさをもう暫くの間味わっておきたいし、何より面白みに欠けると判断した為だ。
(さて、何て挨拶しよう……『やぁ呼んだ?』……駄目だな、イマイチ面白くない。『呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!』……駄目だ、絶対に外す気がするぞ。うーん……よっし!)
俺は決心すると瞼を開き一気に立ち上がり、この場に最も適した言葉を叫んでみた。
「ソロモンよ、私は帰ってきたぁーっ!!」
決まった。
漢の台詞としては、これ以上ない程カッチョええ決め台詞だ。
『…………』
俺としては完璧なカムバック宣言だったがまるで反応がない。
改めて素早く周囲を見回すと、目に飛び込んで来た光景は唖然とするみんなの顔。
やっぱりガンダムネタはマズかったのだろうか?
(あ〜あ、佐祐理さんと名雪、目が真っ赤だ。ん? 七瀬までもが泣いてるのか?)
振り向けば、舞が正座したまま涙目で俺を見上げている。
どうやら、俺は舞の膝枕で気を失っていた様だ。
とするならば……先程、頭上に感じていた感覚は舞の……
(うおっ勿体ねぇ! もっと感覚を味わって……ぐはっ!)
俺の思考は突然腹部を襲った激痛に遮られる。
見れば七瀬がすごい形相で俺を睨みながら、ダッシュハンマーキックを俺の腹に決めている。
あ、パンツ見えてるし。
「……って。な、何しやがるっ!」
「あほっ! みんなに心配かけて何考えてるのよっ!」
「心配って……うおっ!」
「祐一ーっ!」
「祐一さーん!」
俺の名を呼びながら舞と佐祐理さんが両脇に抱きついてきた。
「ど、どうした?」
「モテモテだな相沢」
突然の二人の行動に慌てていると、折原がいつもの調子で悪戯っぽく笑いながら言う。
「何を言って……あ、そっか」
俺はようやく自分の置かれている立場を思い出した。
「おい七瀬」
俺は目の前で未だ、少し涙目で俺を睨んでいる七瀬に声を掛けた。
「何よ?」
「有り難うな。最後まで名雪庇ってくれたよな? 見直したぜ」
「あ、当たり前の事よっ。私は約束は守るわ」
「そうだな……約束は守らないとな」
其処まで言って、俺は舞と佐祐理さんの頭を撫でる。
「舞、まいに怒られたよ」
「……そう」
「ああ、あ、まいから伝言。『人をナンバーで呼ぶな!』だってよ」
「……格好良いのに」
俺の肩に頭を埋めていた舞が顔を上げ、いつもの調子で言う。
「祐一さんっ! 無茶は駄目ですよ。もう自分一人の身体じゃないんですからーっ!」
佐祐理さん気持ちは嬉しいのですが、訊き方によっては誤解を招き兼ねないんですけど?
「あははーっ」
俺は思わず佐祐理さんの真似をして誤魔化す。
「全く……意識が戻ったかと思えば」
香里が呆れ顔で俺を見ている。
「祐一、極悪人だよ」
「えぅー、祐一さん不潔です」
「名雪、栞、何か勘違いしているぞ! 佐祐理さんが言ったのはそう言う意味じゃない」
狼狽する俺に笑顔で抱きついている佐祐理さん、そして無表情ながら嬉しそうな舞。
そんな俺を香里と栞、そして七瀬、名雪が責め立てている。
ふと視線を逸らせば、住井、北川、南、そして折原と長森が少し離れたところで、呆れながらこちらの様子を傍観しているのが見える。
「狸の置物にはねられて大怪我したかと思えば……」
「今度は何事も無かったかの様な、いつもの軽口に……」
「おまけに相変わらずの女難っぷりか……」
「やれやれ、人騒がせな奴だな全く……」
「浩平が言う台詞じゃないよそれ?」
そんな言葉が耳に届く。
どうやら、俺を今の状況から助ける気はないらしい。
ところで俺はどうやって校庭まで降りたのか?
皆から聞いた話を統合するとこうだ。
二階の窓から郁未先生の力に頼ることなく校庭に降り立った舞が、佐祐理の傍らで項垂れる七瀬の悲痛な声を聞き、瞬時に状況を理解して、七瀬によって開け放たれたままの三階の窓へと一気にジャンプ――恐らく魔物の力を借りたのだろう――して校内へ侵入。
その窓のすぐ脇で俺は気を失いかけていたわけだから、正に間一髪、窓から飛び込んだ舞がそのまま持ち前の力と技で、あの狸を木っ端微塵にした。
そして再び舞が校舎から飛び降りて来た時、その背中にはぐったりとした俺が背負われていたという事らしい。
安っぽいディーゼルエンジン音が響き、俺達の横にボンゴ――マツダの一トントラック――が停車した。
「はいはい、お取り込み中申し訳ないけど、みんなそろそろ行くわよ?」
その運転席から郁未先生が手を”パンパン”と叩きながら、俺達全員を呼ぶ。
ナンバープレートの「わ」表記から見て、どうやら学園祭準備用に学校側が用意したレンタカーなのだろう。
「よっし、とりあえず撤退だな」
折原の言葉に皆が一斉に動き出す。
佐祐理さんのインプレッサと郁美先生のボンゴ、それぞれに分乗するべく移動する中、当然のように皆に付いて行こうとする川名先輩を深山先輩が呼び止めた。
「みさき、あなたは帰りなさい」
「うー……」
残念そうに唸り声(?)を上げる川名先輩の腕を掴むと、深山先輩は校門へ向けて問答無用とばかりにスタスタと歩いて行く。
「わっ、人さらいだよっ! 売られちゃうよっ! 誰か助けてよ〜」
川名先輩が手をばたつかせながら、大声を上げて反抗する。
「人を極悪人みたいに言わないでよね」
親友の抵抗を気にせず、深山先輩は校庭を進む。
「やだよー、雪ちゃん後生だよ!」
「さっきの調査で何か異常がある事が確実になった今、これ以上あなたを危険な目に合わせられないのよっ!」
足を踏ん張り腕を振って必至に抵抗している川名先輩は、本気で嫌がっている様に思えた。
だが、深山先輩の行動が目の見えない親友を思っての事なのは明白であり、俺達は口を挟む事も、そして彼女を止める事も出来なかった。
「お願い雪ちゃん……駄目なんだよ……私このままじゃ駄目なんだよっ!」
だが川名先輩の抵抗は続き、その口調はかつて聞いたことが無い程激しいものとなった。
「みさき……」
そんな川名先輩の言動に深山先輩は掴んでいた手を緩めた。
深山先輩の腕を振り払い、親友が佇んでいるであろう方を向いた川名先輩の表情は何時になく真剣で、その目尻には月明かりを反射させる物があった。
「だって雪ちゃん、私今日久しぶりに町に出て……さっきも雪ちゃんと離ればなれになって、心細い思いもしたけど……でもわたし判ったんだよ。いつまでも閉じこもってたらいけない……って」
「……」
川名先輩の独白に、深山先輩だけでなく、その場に居た俺達全員が押し黙り彼女の言葉を待った。
「雪ちゃんや、澪ちゃんや、浩平君には迷惑かけてばかりだけど、わたしも少しずつ変わらないと、一生みんなに頼りきっちゃう……それじゃ駄目なんだよ」
光の映らない瞳に浮かぶ涙に、月の明かりが輝いていた。
「みさき……」
親友の名を呟く深山先輩。
「だから……もう少しみんなと一緒に行かせて? ね? 雪ちゃん」
そんな二人のやり取りを、俺達はただ聞いているしか出来なかったが、暫くして折原が彼女達の元へと進み出た。
「深山先輩。オレからもお願いします」
皆が見守る中、深山先輩に向けて頭を深々と下げ、真剣な表情で折原が懇願する。
「や、止めてよもう。これじゃ私が本当に悪人に見えるわ。判ったわよっ」
照れているのか、狼狽しているのか、深山先輩は顔を赤らめて少し怒った様に言い放った。
「有り難う、雪ちゃん………わっ」
「有り難うございますっ!」
折原が川名先輩の頭を掴んで無理矢理お辞儀をさせている。
そんなやり取りに緊張していた皆の表情も緩み、俺達はいつもの調子を取り戻した。
穏やかな雰囲気が辺りを包んだ瞬間――
突然、中央校舎の最上部の時計に掲げられていた『故障中』の看板が音を立てて崩れ落ち、突如としてチャイムが鳴り響いた。
だが、その音は聞き慣れたメロディではなく、出鱈目な音階――カラオケの音階キー操作を無造作に操作した時の様な感じだ――だった。
しかも夜間の静かな時間に鳴ったものだから、普段よりも数段喧しく感じられる。
「な、何だ?」
「何よ?」
「え?」
「きゃっ」
「こりゃ、えらい近所迷惑だな」
「さ、みんな早く乗って!」
皆が耳を塞ぎながら驚きの声を上げる中、郁未先生の声が校庭に響く。
俺達はまるで何かに追われているかの様に、郁未先生のボンゴと佐祐理さんのインプレッサに分乗すると、そのまま慌てて校外へと逃げ出した。
校門を出て走り去る俺達の耳に、耳障りなチャイムの音が暫く届いていた。
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