何もかもが狂っていた。
俺達はいつの間にか、上も下も、右も左も訳が分からなくなった。
ただひたすらに下へ下へと向かって階段を降り、校庭を目指して廊下を駆けた。
しかし行けども行けども、見慣れたはずの校舎はその姿を変え、俺達を混乱に陥れる。
そんな状況に狼狽する俺達を嘲り笑うかのように、今まで校内を照らしていた照明が落ちる。
そして再び闇が訪れた。
■第14話 「乾坤一擲」
「わっ」
突然、照明が落ちたことで名雪が驚きの声を上げた。
ふと見れば何処か心細そうに身体を縮こまらせているのが、窓から差し込む月明かりで見て取れた。
何か声をかけて元気付けてやるか――そう思った俺が実行するよりも早く七瀬が口を開いた。
「大丈夫よ名雪。私が守るから」
(うわっ)
はっきり言ってクサイ台詞だと思ったのだが、きっぱり言い切った七瀬に格好良さを感じたのも事実だった。
「あ……うん」
実際、その言葉を受けた名雪は、表情を嬉しそうなものへと一転させ、視線を自分の手に向けるとほんのり頬を赤らめた。
二人の手は教室を出てからずっと繋がれたままになっており、七瀬が言葉だけでなく繋いだ手に力を篭めて励ましていた事が、名雪の表情から伺い知れた。
なんつーか――
「……なぁ七瀬、ひょっとしてお前って女たらしか?」
思わず本音が飛び出した。
「んなわけ無いでしょっ!」
直ぐに否定する七瀬だが、頬を紅潮させた名雪を見る限り説得力に欠ける。
「七瀬さんに酷いこと言ったら駄目だよっ」
そんな俺の考えを証明するかのように、名雪が咎める様な表情で彼女を弁護する。
勿論二人の手はしっかり繋がれたままだ。
「……何かさ、お前等雰囲気変わったな」
「そんな事ないわ」
「そんな事ないよ」
二人は同時に否定の声を上げると、お互いの顔を見合ってクスクスと笑い出した。
「ま、そんな事より、一体どうしたんだろうな?」
俺は顔を上げて二人から消えた照明へと視線を移す。
周囲はすっかり闇の世界へ戻っており、校舎内全域で電源が落ちていると思われる。
「漏電かしら?」
先程の突発遭遇戦の際に俺も七瀬も懐中電灯を放り出してしまった為、今や俺達の光源は名雪の持つ懐中電灯だけになっており、その電池が切れるのも時間の問題と思われた。
「ヤバイな……急いで校庭に向かうぞ!」
「そうね」
「うん」
二人が頷くのを確認すると、俺達は一路校庭を目指して走り始めた。
|
§ |
「おわっ!」
「きゃぁ!」
目の前の配電盤が、突然火花を散らし煙を上げ、反射的に二人が声を上げる。
その直後に、照明は消え校舎内は再び暗闇へと戻った。
「一体何?」
「わからん」
香里に答えながら北川は、もう一度懐中電灯のスイッチを入れてみるる。
「……こりゃぁダメだなぁ」
懐中電灯で照らし出された配電盤は、至る所が焼けこげており、このまま電気を使用する事は明らかに不可能だった。
「そうね、それにしても……」
そこまで答えて、香里は自分の懐中電灯を廊下の先へと向ける。
その明かりは廊下の先まで灯りは届かず、辺りをぼんやりと照らすだけだ。
「さっきの光景は何だったのかしら?」
「何だか廊下が果てしなく続いていた様に見えたよな?」
二人はお互いの言葉に頷き合う。
「何だかやばそうね。一度外に出た方がよくないかしら? 郁未先生からもそう言われてるし」
「お、おう! そうだな」
「ちょっと待って……あら?」
連絡を取ろうと香里が携帯電話を取り出すが、やはり彼女のものも通話が出来ない様になっていた。
「俺のも駄目だ……どうなってるんだ?」
「これが相沢君の言っていた”反応”ってやつよ……多分ね」
役立たずの携帯を懐に戻しながら応じると、香里は先に歩き始める。
「お、おい美坂?」
「早く校庭に戻りましょう。考えるのはそれからよ」
「判った!」
そう返事をすると、北川は急いで香里に続いて歩き始めた。
しかし暫くして二人は調査のスタート地点である校舎の入り口へと戻ると、そこで新たな驚きに声を上げた。
「何だこれ……」
「嘘でしょ……」
校舎の入り口である中央出入り口にやって来たはずなのだが、そこには外へ通ずる扉はおろか、入った時には有ったはずの下駄箱すら無くなっていた。
いや、正確に言うならば、本来そこに有ったはずの中央出入り口部分がそのままそっくり無くなっていた。
すぐ隣にある二階へ通ずる階段は残っていたが、上へ向かう階段だけでなく、と下へ向かうものも存在していた。
二人は一階を調査していたはずであるから、下へ向かう階段は在るはずがない。
「ど、どうするのよ?」
「どうするって言われてもよ……ってあれ?」
二人が狼狽していると、その階段を降りてくる者が現れた。
「あ、部長に、川澄先輩」
新たに現れた二人の姿を認めて、香里は少し安堵の表情を浮かべた。
「あら? 美坂さんと……北川君? あなた達二人が居るという事は……ここは一階よね? そうよね?」
深山は二人の姿を見ると、彼女にしては珍しく狼狽気味に尋ねてきた。
だが、黙って首を横に振る香里を見ると、傍目にも判るほどに全身で落胆を露わにした。
「い、一体何がどうなっているんですか?」
北川が二人の先輩へ慌てた様子で尋ねるが、二人とも首を横に振り「判らない」と言うだけだった。
「とにかく、先生の指示通り校庭に出ようと思ってるんですが……」
香里の言葉に、深山が溜息をつく。
「ふぅ……実はね美坂さん。私達もそうしようと思って、さっきからずっと階段を降り続けてるのよ」
「え?」
「はい?」
深山の言葉の意味を咄嗟に理解出来なかった美坂と北川は、縋るように揃って舞へと視線を向けるが――
「……」
舞は黙って首を縦に振り、深山の言葉が真実である事を告げた。
「何だってぇっ!」
闇の廊下に、まるでMMR隊員の様な北川の叫び声がこだまする。
すると北川や香里やってきた方向とは反対側の投下の奥から、何かを引きずる様な音と共に、弱々しくすすり泣く女の声が彼等の耳に届いた。
「えうーっ……北川さんですかー?」
「栞なのっ?!」
声の主を把握した香里は瞬時に妹の元へ駆け寄った。
「あ、お姉ちゃん!」
暗闇の中を懐中電灯も持たずに彷徨っていた栞は、姉の姿を確認すると、引きずっていたモノから手を離し、駆け足で香里の腕の中へと飛び込んだ。
「大丈夫なのっ?」
「はい。私は大丈夫です」
「私は?」
香里の問いかけを引き継ぐように、北川が懐中電灯で栞の足下を照らす。
「これ……住井か?」
懐中電灯の明かりを受けて闇に浮かび上がった住井の顔色は何処か病的で、見る者を驚かせた。
「一体何があったの?」
追いついた深山が心配げに住井の顔を覗き込んでから栞に尋ねると、栞はばつが悪そうに口ごもった。
「起きろ住井! おいこらっ!」
北川がしゃがみ込んで、住井の瞼を指で強制的に開き、懐中電灯を当てる。
「う…う〜ん……」
少しだけ反応があるが、完全に目を覚ます気配は無い。
北川と雪見が顔を見合わせて溜め息を付く中、舞が二人を押し退ける様に進み出て、住井の横に膝をついた。
「……」
無言のまま舞は自分の手を住井の額に当てて目を閉じると、何かを念じるように少し眉を寄せる。
「川澄さん、何をしてるの?」
深山がそっと尋ねた直後、住井は急に目を覚まし飛び起きた。
「うおっ!」
「きゃっ!」
まるで電気ショックで蘇生したかの様な突然の動作に、北川と栞が思わず抱き合って驚きの声を上げた。
「や、止めろゴルゴムっ! ……って、あれ? みんな?」
住井は数回瞬きをしてから、自分の置かれている状況が把握出来ていないらしく素っ頓狂な声を上げた。
「だ、大丈夫か?」
意識を取り戻した住井に、北川が声をかける。
「ああ大丈夫だが……って、お前こそ大丈夫か?」
何故か逆に北川を心配する住井。
北川は咄嗟に栞に抱きついた事で、香里に手痛い一撃を見舞われ頬を腫らしていたのだ。
「……住井さん、ごめんなさい」
栞がすまなそうな顔をして、住井に手を差し出した。
「あ、ああもう勘弁してくれよ?」
そう言って手を取ると、住井は起きあがり、服装――コスチュームの軍服に付いた埃や汚れを払う。
「あら、何の話?」
香里が訳が分からないと、栞と住井に尋ねる。
「な、何でもないですよね? 住井さん!」
「そうだな〜」
其処まで言って、住井は栞の耳に口をよせ小さな声で続ける。
「モデルはキャンセルだな」
「えうーっ」
そんなやり取りをした後で、住井は――
「ああ、何でもないぞ。気にするな」
――と笑顔で香里に答えるのだった。
「……それじゃ行く」
住井の意識が戻ったところで、舞が静かに呟く。
一同は頷き、舞の後に続いて再び校庭を目指して廊下を歩き始めた。
|
§ |
階段を下りて校庭を目指していた折原達の耳に、何か人の声の様な物が聞こえてきたのは、校内の照明が落ちて暫く経った後だ。
当初は長森とみさきが気味悪がっていたが、近づくにつれそれが聞き覚えのある声だという事が判った。。
「あ……聞き覚えある声だね?」
「うーん、あれは多分沢口だな」
「たしか澪ちゃんが一緒だよ?」
長森の呟きに折原が記憶から該当する名を呼び上げると、彼の背中に背負われたみさきも応じる。
「そうだったな。よっし行くぞ瑞佳、足下には注意しろよ。それから先輩はしっかり掴まってる事!」
「うん!」
「判ったよ」
二人の返事を確認して折原は声のする方へと走り始め、長森も彼に続いて行く。
暗闇の中を長森の照らす僅かな光源を頼りに、二人(+みさき)は走る。
やがて、問題の声が大きくなり、はっきりと聞こえてくる様にまでなった。
『……うわっうわっうわっうわっ!』
ある教室の前に辿り着くと、その中から叫び声とも似つかない声が響いていた。
「この声って……」
「やっぱり沢口だな?」
長森の呟きに折原が応じると、彼は思いきって教室の扉を開け放った。
次いで長森が懐中電灯で中を照らすと、気を失っている澪を脇に抱えたまま、器用に激しく足踏みをしている南の姿が見えた。
「南君!」
「沢口!」
友人の奇妙な姿に、二人は同時に彼の名を呼んだ。
「え? 何が起きてるの?」
「えっとだなぁ〜沢口が澪を抱えて……」
状況が判らないみさきに、折原が状況を説明している間に、長森は教室の中へ入り南の正面に回る。
「うわっうわっうわっうわっ!」
そんな長森の姿も目に入らず、折原達の声も耳に届いていないのか、南はまるで何か取り憑かれたかのように叫びながら動作を続けている。
「南君っ! 澪ちゃんっ!!」
長森は更に近付くと、手をのばしてそうっと南の肩に触れた。
瞬間――
「うわっっっ!!」
突然一層大きな声を上げて、南はその場で足踏みを止める。
「な、長森さん? ……に折原か?」
長森の顔を見てそう呟くと、南は一気に崩れ落ちる。
「私もいるよぉー」
折原の背中でみさきが寂しそうに呟くが、南はそれには答えられず、汗を垂らしながら肩で呼吸をしている。
「あっ、大丈夫?」
「俺は……はぁ…はぁ、大丈夫だけど……澪ちゃんを」
駆け寄る長森に澪ちゃんを預けると、南はよろよろと立ち上がった。
「一体どうしたんだ?」
折原がみさきを背負ったまま南に近付く。
「はぁ……判らないんだよ。長森さんに触られるまで、俺、自分自身を追いかけて、そして自分自身に追われて……ふぅ」
南は自らを落ち着かせる様に大きく深呼吸をした。
「何だそりゃ?」
南自身が判らないのだから、話を聞いただけの折原に理解出来るはずもない。
「何だろうね?」
折原の背中でみさきが不思議そうに言葉を洩らす。
「と、とにかく校庭に行こうよ。南君は歩ける?」
長森の提案に折原が頷き、南もまた呼吸を整えてから口を開いた。
「ああ、大丈夫。有り難う長森さん。あ、澪ちゃんは俺が担ぐよ」
立ち上がった南が、少し心配そうな表情の長森から澪の身体を預かると、気を失ったままの彼女の身体を背負った。
「くすっ、浩平君とお揃いかな?」
「はは……」
折原から状況を教えてもらったみさきが楽しげに言うと、南は苦笑して応じてみせた。
「よ〜し、では出発だ」
折原がみさきを、南が澪をそれぞれ背負い、長森が懐中電灯で足下を照らしながら教室を出た。
「しかし、いつの間に電気は消えたんだろ?」
真っ暗な廊下に出て南が口を開く。
「え〜と、さっきだよ」
「何だ、気が付かなかったのか?」
「一心不乱だったからね……そう言えば、折原達の方はどうだった? 何か反応は有ったの?」
先程の異常な光景を思い出し南が尋ねる。
「オレ達は特になかったよな?」
「うん」
折原の言葉に長森が頷く。
「わたしは雪ちゃんと突然離ればなれになって道に迷ったんだよ。……まるで今朝の事みたいだよね」
折原の背中からみさきが言う。
「時間と空間がおかしい……か」
折原が百花屋での祐一の話を思い出して呟いた。
長森が持つ懐中電灯の灯りを頼りに、昇降口を目指して廊下を進んでいた一行が目的の場所へたどり着くと、そこには何故か上下へ通じる階段が存在していた。
「お?」
「出口がないよ」
「それに何で下へ通じる階段があるんだ? 俺と澪ちゃんは一階を調査していたはずだけど?」
折原、長森、そして南が驚きの声を上げる。
「うーん、取りあえずこの場合は降りるしか無いだろな」
折原の言葉に皆が頷き、一行はそのまま階段を降りる事になった。
だが何時まで経っても彼等が一階に辿り着くことは無かった。
「ったく、どうなってるんだよっ!」
何度目かも判らなくなった降り階段の踊り場で、みさきを背中から下ろした折原が地べたに座って文句を言う。
彼等がいくら階段を降りても、夢幻回廊の様に新たな階下へ続く階段が姿を現すのだった。
「全くだ。一体なんだろうね」
同じように背負っていた澪をゆっくりと踊り場の地面へ降ろしながら、南が同意する。
ずっと人を背負っていただけあって、二人とも疲労感が表情に出ている。
「どうすればいいかな?」
そんな二人を心配そうに見つめている長森の声に、「う〜ん」と折原は腕を組んで悩み始める。
「おっ澪ちゃん、気が付いた?」
南の声が響く。
「おっ、お目覚めか澪?」
「澪ちゃん大丈夫?」
「気付いたんだね。よかったよー」
やっとの事で意識を取り戻した澪は、折原達の声を聞き、気絶する前と異なる現状を把握しようと、辺りをきょろきょろ見回し、それからあたふたしながらスケッチブックを探し始める。
「ほら?」
南から手渡されたスケッチブックを受け取ると、新しいページを開きペンを走らせる。
『いっぱい居たの』
興奮気味に差し出された字を見て、南が苦笑する。
「もう大丈夫だよ」
安心させるように優しく言って澪の頭を撫でる南。
そんな二人を見て、長森はとても嬉しそうな表情を浮かべている。
「さて、澪も目覚めたし、そろそろ行くか?」
折原が立ち上がりズボンの汚れを払う。
「でも浩平、どうするの?」
現状を思い出し、不安げな表情を浮かべて長森が詰め寄る。
「降りても駄目、当然登っても駄目、要は階段に頼るから駄目なんだろ? だからさ……」
「だから?」
「だから……何だよ? 折原」
「ショートカットをしようと思う」
『はい?』
折原の答えに三人が素っ頓狂な声を上げ、澪は『判らないの』とスケッチブックに書いた。
「簡単だよ、窓から校庭に向かってダイブするのさ」
『えぇぇぇぇっ?!』
しれっと答える折原に三人の声が重なり、澪は口をぽかんと開けたまま”ふるふる”と首を横に振っていた。
|
§ |
「駄目だーっ」
住井がお手上げと言わんばかりに騒ぐと、その場で座り込んだ。
『はぁ〜』
次いで他の者達――深山、香里、栞、北川――の溜息が重なる。
「……」
舞だけは特に動じた様子も無く、また疲れた様子も見せずに、立ったまま項垂れた仲間をじっと見つめている。
彼らはもう随分と校内を彷徨っているが、未だ目的地である校庭へ出ることが叶わずにいた。
どれだけの階段を降り、廊下を行き来したのだろうか?
階段を下ってみれば新たな下層への階段が姿を現し、廊下を進めば廊下が延々と続いた。
かと思えば、突然突き当たりにぶつかり、再び新しい階段が目の前に現れる。
彼らが判っている事と言えば、校庭に面した中央校舎の廊下の真ん中辺りに居るという事だけだった。
流石に心身共に疲れたらしく、溜息と共に皆廊下に座り込んでしまったのだ。
「ったくっ! 俺達の学校って何時の間に改装とか改築したんだろうな?」
「少なくとも、あたしは知らなかったわね……栞、大丈夫?」
住井の半ば投げやりな言葉に、自嘲気味に答える香里の横で、栞が疲れた表情でへたりこんでいる。
「はぁ……ふぅ……大丈夫です。ちょっと疲れただけですー」
そうは言うが、元来身体の弱い彼女にとっては、疲労がピークを過ぎているのは明らかだった。
「みさきは大丈夫かしら……」
深山は壁に寄り掛かった状態で廊下に座りながら、自責の念と共に見失った自分の親友の身を心配していた。
普段は喧しい程に賑やかな住井と北川も、無駄口をはく元気が無くなっているのか、彼らは言葉少なげに項垂れていた。
そんな状況に、舞は悩んでいた。
傍目にはただ無表情で突っ立っているだけにしか見えなかったかもしれないが、舞は仲間をどう元気付けたら良いか必至に考えていた。
やがて何かを決心したのか、声を掛けようと口を開きかけた瞬間、舞の背筋を何かが走った。
それはかつて自らの魔物と闘っていた頃に、感じた感覚に近いものだった。
「……」
舞の射抜く様な鋭い視線が廊下の奥へと向けられた。
そんな舞の表情の変化に気が付いた北川が、彼女の視線を追うように廊下の奥を見つめる。
「川澄さん、どうしたんですか? ……ん?」
暗くて良く判らないが、何か沢山のモノが蠢いている様だ。
北川は既に電池が切れかけている懐中電灯の灯りを廊下の闇へと向け、その弱々しい光源に浮かび上がったモノを見て驚愕の声を上げる。
「な、何だよあれ?」
『きゃぁぁぁぁっ!』
北川の言葉に皆が一斉に振り向くと、栞、香里、そして深山が盛大な悲鳴を上げる。
皆が振り向いた先――廊下の奥から蠢くモノ達。
それらは人の形をしており、ぎこちない動きではあるが二本足で歩き、ゆっくりと皆の元へ向かっている。
「マネキン……か?」
住井が漏らした呟き通り、それらはマネキンだった。
白やベージュをしたプラスチックの表面が、窓から差し込む月明かりを反射して光っている。
物を言わず無言のままゆっくりと迫るマネキン達は、さながら食人鬼の群の様にも思え、見る者を怯えさせるには十分すぎる異彩を放っている。
「これも演出だって言うの?!」
怯える栞を背中に庇いながら、香里が怒鳴る。
「本当……最低の演出ね」
深山が苦虫を噛みつぶす様に言う。
「むむっ、あんなに沢山のマネキン何処に有ったんだ?」
「す、住井さん、変なところに関心してないで下さい。そんな事よりどうするんですか?」
香里の背後で栞が震える身体を自ら抱きしめながら皆に問いかける。
迫り来る彼等が明らかに友好的な団体でない事は確かだ。
「どうするって……」
北川が狼狽しながら口ごもる。
あまりに常軌を逸した光景に、次の行動を決めあぐねていた皆を庇うように、舞が一歩進み出てマネキンの群の前に立ちふさがる。
「……下がって」
「川澄さん?」
音もなくその身を進めた舞の後ろ姿に、深山が思わず声をかける。 「………私が食い止めるから」
皆に背中を向け、迫るマネキン共を見据えたまま舞が静かに言う。
「俺も手伝いますよ」
「お、オレだって!」
男子の面子を守れとばかりに、住井と北川が揃って名乗りを上げるが、舞は一瞬だけ二人の目を見つめるとすぐに向き直り――
「……いい」
と答えた。
「いや、しかしですね……」
「オレ達だけ逃げるってのは」
「危ない……それに邪魔になるから。みんな今すぐ外に」
食い下がる二人に今度は振り向かず、マネキンの群を見据えたまま舞が静かに言う。
そんな合間にも、彼等との距離ははどんどん縮まってきている。
「そんな事言ったって、どうやって外に?」
「いくら階段降りても一階には着かないんですよ?」
香里と栞の言葉に、舞が前方を注視したまま廊下の窓を指さす。
「そっか! 何で今まで気が付かなかったんだ」
慌てて廊下の窓に駆け寄る住井が、窓を開けて下を見る。
彼の視界に月に照らし出された誰も居ない校庭が映る。
「オッケーだ! 外は問題ない」
「どうやら、ここは二階みたいだぜ?」
住井の隣に来た北川が、外を眺めながら皆に伝える。
「ちょ、ちょっと待ってよ、いくら二階っていっても、飛び降りたら怪我じゃ済まないわよ? 私はともかく栞にそんな真似させられないわよ!」
いつもの冷静さを失った香里が慌てふためきながら言う。
「死んじゃいますー」
栞もまた不安を隠さずに狼狽える。
「大丈夫。外には佐祐理と……先生が居る」
皆が窓から眺める校庭に彼女達の姿は見えない。
だが舞はそうきっぱりと言い切った。
言葉も表情も乏しいが、その短い言葉に篭められた絶大な信頼を、皆は感じる事が出来た。
「川澄さん……」
何でそう言い切れるの?――続く言葉を、深山は飲み込んだ。
「……くる」
彼我の距離は既に数メートルまで縮まっていた。
マネキン共の中には、ハンマーや鋸――文化祭の準備に使われていた工具だろう――を持っている者もおり、彼等に敵意が有るのはもはや明らかだった。
アンデッドの様に両手をだらしなく延ばし迫ってくるマネキンの群に、皆の表情が凍り付く。
そんな中でも舞は表情を変えず、雪風を鞘から抜き静かに構えを取る。
窓から差し込む月明かりに、その刃が青白い輝きを放った。
「私が合図をしたら、みんな窓から飛び降りて」
「わかったっ!」
「お、おう」
「やってみるわ」
舞のいつになくはっきりとした口調に、住井と北川、そして深山が半ば反射的に答えるが、それでも香里と栞は「はい」と素直には答えられなかった。
だがそうしている間にも、マネキンの群はもうすぐそこまで迫っていた。
「……護、潤、香里と栞をお願い」
敵と認識したマネキンを見据えたまま、舞は男二人に気落ちしている姉妹を託した。
「任せろ!」
「判った!」
二人の返事を耳にすると、舞は振り返ることなく頷きカウントダウンを始めた。
「三……二……」
舞の見事な黒髪が風も無いのに、フワリと靡き始める。
その間にも住井は栞を、北川が香里を素早く抱き上げ、深山もまた窓辺へと向う。
普段ならば腰に手を回した時点で鉄拳が飛ぶであろう香里も、異常な事態に我を忘れて居るのか、北川にすんなりとその身を預けた。
「一……零っ!!」
舞の叫びと共に、覚悟を決めた住井達は一斉に窓から飛び降た。
「正面目標完全沈黙までの間、能力限定解除。まい一号から三号までを解放」
そう呟いた瞬間、舞の背後の空間が歪み三体の魔物が突如して現れた。
しかし、その魔物達の姿を肉眼で見ることは出来無い。
客観的に見るならば、それらは”ぼんやりとした空気の模様”としてしか認識できないだろう。
彼等こそかつて舞が忌み嫌っていた力――己の分身達。
今、それらは彼女とその仲間を守るための力として行使されようとしている。
「滅!」
雪風を振り上げながらそう叫ぶと、舞は召還した三体の魔物を迫るマネキンの群れに解き放った。
|
§ |
「うわぁぁっ!」
「きゃああああっ」
「いやっ死にたくないですーっ!」
「うおおおっ!」
「きゃあ〜っ!」
飛び降りた五人の背後で、何かが破壊される音が鳴り響き、次いで廊下の窓ガラスが一斉に割れる音が聞こえてきた。
だが重力という地球上にある限り防ぎようのない力の影響を受け、彼等はその音の発生源から急速に離れていった。
迫り来る地面に、住井と北川と深山は着地に備えてそれぞれ姿勢を改める。
北川は腕に抱いた香里の安全だけを考え、彼女の身体をしっかりと抱きしめた。
住井もまた託された少女の身体を必至に案じていた。
深山はただ覚悟を決めて、目を閉じずに接地のタイミングを計っていた。
大丈夫だ、二階から落ちた程度では死にはしない――彼等は皆そう信じて、迫り来る地面を見つめていた。
二秒にも満たない僅かな時間に、彼等は今だかつて無い程の時の流れの遅さを感じただろう。
まるでスローモーションの様に迫る地面――だがそれは気のせいでは無かった。
彼等は現実に、有り得ないゆっくりとした速度で落下をしていたのだ。
「あれ?」
「あら?」
いつまでも来ない落下の衝撃に、恐る恐る目を開けた栞と香里が声を上げる。
「よっ、香里大丈夫か?」
香里の眼前に満面の笑みを浮かべた北川の顔があった。
「なっ、何よ?」
「あれ? うわぁ〜」
同じように目を開けて現状を確認した栞が不思議そうな声を上げる。
「すげぇ……」
住井は栞の身体を抱きしめたまま、感嘆の呻き声を上げた。
五人はゆっくりと地面に落下してゆき、高度数センチという場所で空中へ浮いたまま停止した。
「あははーっ、みなさん怪我は無いですか?」
『倉田先輩!』
「倉田さん」
佐祐理の言葉に、状況が未だに理解できていない皆が、一斉に顔を声の下方向へむける。
「さ、貴方達、いい加減に自分の足で立ちなさい?」
郁未の声が聞こえた途端、五人は地面に落下した。
とはいえ、数センチしか落差は無いので、腰を降ろしただけに過ぎないだろう。
『………』
呆気にとられた五人は顔を上げ、声の主の姿に見入る。
校庭の中央、インプレッサの上に月を背にした郁未先生が立っていた。
その身体は紫色に輝き、髪や白衣が風もないのに靡いていた。
「……あ、ちょっといつまで抱きしめてるのよっ!」
しばらくして我を取り戻した香里が、北川の腕を乱暴に振りほどいて立ち上がる。
「香里の身体の感触が……ぐふぐふ」
北川は自分の腕に残っている香里の感触に酔っているのか、にやついた表情で自分の腕を見つめている。
「気色悪い声出さないでよ……って、川澄先輩は?」
自らが盾となった舞を思い出した香里の言葉に、みんなが一斉に校舎を振り返る。
「川澄さん……大丈夫かしら」
校舎を見上げた深山が不安げに呟いた直後、校舎の一階の窓ガラス窓が勢いよく開き――
「きゃぁっ!」
「うわぁぁぁぁっ!」
「うおおおおっ!」
「わぁっ!」
「…………」
悲鳴と共に中から人影が校庭に落ちた。
しかし地面にぶつかる直前で、ピタリと停止した。
さっきまでの住井達がそうであったように、新たに落ちてきた者達――折原、川名、長森、南、澪が驚いている。
「折原さーん、みなさーん、大丈夫ですかー?」
佐祐理の声に、折原達も状況を把握した様だ。
「郁未先生〜有り難うございましたぁっ!」
折原はそう言って自らの足で立ち上がると、郁未達に向けて親指を立てる。
「あははーっ、みなさんお帰りなさい」
佐祐理さんの明るい声が夜中の校庭にこだまする。
「な? 何とかなったろ?」
折原はそう言いながら、背中のみさきを地面に降ろすと、隣で腰を抜かしている長森に悪戯っぽく微笑んでみせた。
「はぁ……びっくりだよ。もう浩平は相変わらず無茶だよ……でも一階だったんだね」
長森は校庭に座り込んで、胸に手を当てながら呟いている。
「やっと出られたーっ!」
南は自分の足で地面に立つと、両手を突き上げ全身で喜びを表している。
『良かったの』
澪が素早く書いてスケッチブックを南に見せてニッコリと微笑む。
「やっと出られたんだね? 浩平君有り難う。そういえば雪ちゃんは大丈夫かなー?」
みさきが折原の手を借りて立ち上がると、親友の身を案じて呟いた。
「あっ! みさきーっ!」
深山がみさきの姿を見つけると、彼女の元へ名前を呼びながら走って行く。
「あ、雪ちゃーん! 此処だよっ」
声のした方向を向いて、みさきはブンブンと手を振っている。
やがて深山がみさきの元へ辿り着くと、二人は互いの身体を抱きしめ合って無事を確認し合った。
「ふぅ……やれやれ。感動のご対面だな」
そんな光景を見ながら、折原は静かに呟いた。
|
§ |
舞の放った三体の魔物、まい一・二・三号が瞬く間に群がるマネキンの群をなぎ倒して行く。
ネーミングのセンス――舞自身は気にいっているらしい――はともかく、その攻撃力は絶大だ。
それは凄まじく暴力的かつ一方的な攻撃であり、まさに蹂躙と表現すべき状況だった。
廊下の窓や天井の蛍光灯があおりを受け割れて行き、キラキラと月明かりを反射させながら床へと落ちて行く。
一体、マネキンがどれほど居たのか判らないが、それらは次々と魔物に吹き飛ばされ、潰され、粉砕された。
しかし魔物自体は見えないわけだから、傍目にはマネキンが勝手に吹き飛んだり、独りでにバラバラになったりしている様にしか見えない。
夜の校舎で繰り広げられる奇怪なダンスパーティ――そう見えない事もないだろう。
”ヒュン”
魔物に破壊された勢いで飛んできたマネキンの首を、舞は表情一つ変えずに手にした雪風で真っ二つにする。
舞の身体の両側を、綺麗に両断されたマネキンの首が飛んで行き、背後の廊下に”カツーン”という音を立てて転がり落ちた。
『なんでこんな事するの?』
舞の頭に、そんな声が響き渡る。
「……」
舞は答えない。
『どうして? どうしてこの世界を壊すの?』
もう一度、声が響く。
「……誰?」
問い掛けに対して「問い」で応じる舞。
しかし彼女の問いかけにも答えは帰ってこなかった。
その間にマネキンの群は粉々に粉砕され、原型を留めている物は皆無となった。
「………目標は完全沈黙、状況終了」
少し考えてから舞は呟いた。
三体の魔物は一瞬の内に、舞の背後の空間へと流れ込んで行き、その余波で舞の長い髪の毛が、つむじ風を受けたように激しく靡く。
手にしていた雪風を鞘へ戻すと、静寂に包まれた廊下に”キンッ”という音が響いた。
「私は……祐一とその仲間を守る。その為に手段は選ばない」
誰に言うわけでもなくそう呟くと、すっと軽やかに窓枠を乗り越え外へと躍り出た。
舞の姿が消えた廊下に、大量のガラスとマネキンの破片だけが月明かりに反射していた。
|
§ |
「ねぇ祐一、一体どうなってるの?」
名雪の言葉に、俺は「判らねぇ!」としか答えられなかった。
いくら階段を降りても、一階に辿り着くことがない。
時に、廊下を移動して別の階段を使ってみたりもしたが、全く状況に変化は無かった。
「ん? 待てよ?」
俺は廊下にの窓辺に近寄ると、窓の外を眺めてみた。
「三階からの景色よね?」
隣に来た七瀬も一緒になって外を見る。
確かにこうして外と校舎を見れば、自分がいる場所は三階だと思われるのだが、いくら階段を降りても一向に一階に辿り着かない。
「おかしいな……」
月明かりに照らされて校庭が見えるが、佐祐理さんや郁未先生の姿が見えない。
手筈では、どこからでも見えるように、校庭の中央にて待機している筈だった。
「さてどうするか……舞や他の連中も気がかりだし……ん?」
そこまで言って俺は、廊下の先――闇の中で何かが蠢いている音に気が付く。
「名雪! 懐中電灯をっ!」
「え? あ、うん」
俺は名雪から懐中電灯をひったくる様に受け取ると、廊下の先を照らしてみる。
「なっ!」
「何よあれ?!」
「うわっ!」
蠢いていたのは、巨大な――高さ二メートル、幅は一メートルはあろう信楽焼の狸だった。
確か何処かのクラスの装飾品だったと思うが、その焼き物の狸は巨体をズリズリと引きずりながら、少しずつこちらへ向かってきている。
「一体どういう仕組みで動いてるんだ?」
「何だか不気味だよー」
名雪の感想通り、明るい場所で見るには愛嬌もある信楽焼の狸だが、深夜の廊下で見るには不気味な表情と言える。
俺達が驚いて居ると、その巨大狸は突然浮き上がり、頭から猛スピードで突っ込んできた。
「なにぃ?!」
「きゃぁっ」
「名雪っ!」
俺は咄嗟に廊下の端――窓側へ飛び退く。
七瀬もまた隣にいた名雪の身体を抱きしめ、俺とは反対側――壁側へ飛び退いた。
間一髪、空気を裂く音を残して巨大狸はそのまま廊下の闇へと消えていった。
「危ねーな! ったく何なんだよ!」
廊下の端に俯せで倒れたまま、巨大狸がすっ飛んで行った方向を見つめながら怒鳴る。
「相沢っ、無事なの?」
廊下の反対側から七瀬の声が聞こえる。
「ああ、そっちこそ大丈夫か?!」
俺はそう良いながら起きあがると、廊下を横切って名雪と七瀬のもとへと近付こうとした。
「相沢っ!」
突然の七瀬の叫びに、俺は咄嗟に身を伏せる。
廊下に俯せで身を伏せた俺の頭上を、巨大な焼き物の狸が凄まじい速度でかすめて行った。
「祐一ーっ!」
「大丈夫なの?!」
心配げに叫ぶ名雪と七瀬にに、俺は「大丈夫だ! サンキュー七瀬」と答える。
そのまま素早く立ち上がると、名雪と七瀬のもとへと走った。
「何よあれ?!」
「さぁ? 狸には違いないが、あれだけデカイと百キロくらいはありそうだな」
「スピードだって同じくらいありそうよ」
「おまけにこの暗闇か……くそっ」
先程咄嗟に避けた際に、懐中電灯は落として壊れてしまっている。
「こうなったら、仕方がない」
俺はそう言うと、手にしていた木刀を握り直す。
「どうするのよ?」
少し苛つき気味の七瀬が俺に尋ねる。
「叩き割る」
「無理よっ!」
「やって見なきゃわからんだろ?」
そんな会話をしている間に、廊下の奥から物体が飛んでくる気配がした。
その途端、巨大狸が再び猛スピードで闇から現れた。
しかも今度は正確に俺達の居る場所を目がけて、廊下の端をすっ飛んで来た。
「危ねぇ避けろ!」
「名雪こっち!」
「わっ!」
俺の声に素早く反応した七瀬が名雪の手を思い切り引っ張り、そのまま床に転がった。
直後、先程まで俺達がいた場所を、巨大狸が猛スピードで通り過ぎてゆく。
「痛いよー、七瀬さん、鼻打ったよー」
どうやら名雪は盛大に顔面から倒れ込んだ様で、鼻をぶつけた様子だ。
「ご、ごめんね名雪」
「うーっ、酷いよー傷物にされたよー」
「傷物って貴方ね……」
名雪は立ち上がると、頬を膨らませながら鼻をさすり七瀬に詰め寄っている。
「七瀬、名雪、漫才やってる場合じゃねぇ、直ぐに次が来るぞ」
俺が立ち上がりながら言うと、廊下の奥で巨大狸がUターンして飛んでくるのが、窓からの月明かりに光って見えた。
「ちぃっ!」
しかも今度は低い軌道で飛んできている。
今までの様に伏せてかわす事は無理だろう。だからといって、アクションゲームの主人公の様にジャンプして避ける事は不可能だ。
「きゃぁっ!」
「名雪〜っ!」
防ぎようのない現実を瞬時に認識した名雪と七瀬が悲鳴を上げる。
「くそっ!」
俺は半ば無意識に二人の前に飛び出すと、手にした木刀を片手でしっかり握り、峰の部分をもう片方の腕に当てて防御の構えをとる。
直後――
”ガキィィッ”
木刀から伝わる強い衝撃を俺の両脚は受けきる事が出来ず、廊下へ背中をしたたか打ち付けた。
木刀を握ったままの姿勢で後ろ向きに倒れたので、ろくな受け身も取れなかった。
「……っ!」
倒れた衝撃に、ほんの一瞬だけ俺は気を失った。
「祐一ぃーっ!」
「相沢っ!」
名雪と七瀬の声が俺の意識を瞬時に蘇らせる。
俺自身は吹き飛ばされたものの、奴の軌道を変える事には成功し、二人は共に無事で済んだ様だ。
無理矢理軌道を変えられた巨大狸は、天井をこすりながら再び廊下の奥へと消えていった。
”パラパラ……”
狸がこすった所為で天井の破片が埃と共に落ちてくる。
「やべぇな……」
思った以上に厳しい相手だ。
高速で動く物体は、それだけで十分生身の人間には脅威だという事を、嫌と言うほど思い知らされた。
おまけにまともに受けた為、手が痺れてまともに木刀を握れない。
支えにした腕の方もかなり痛む。
折れてはいないだろうが、ひどい打ち身にはなっている事だろう。
だからと言って、今はそんなものに構っている状況ではない。
俺が壁に手を突いて立ち上がると、七瀬と名雪も立ち上がる。
「七瀬、悪いが次はもう防げそうにない、名雪を連れて窓から飛び降りろ。廊下を横断して、窓を開け、飛び降りる! それだけだ。いいか、絶対に躊躇うなよ」
「本気なの?」
「そんな無理だよ! 死んじゃうよ!」
「七瀬、名雪、外には佐祐理さんと郁未先生がいる。あの人達は絶対に俺達の信頼を裏切らない。大丈夫だ」
「判ったわ。いざとなったら、あたしが名雪一人くらい何とかする」
「な、七瀬さん?!」
「よっし、さすが七瀬、漢だぜっ!」
「誰が漢よっ!」
俺の軽口に七瀬はいつもの様に返事を返し、互いの顔を見て俺達は笑った。
「いいな、行くぞ!」
「オッケー、行くわよ名雪」
「えっ? きゃっ!」
俺の合図に七瀬が名雪の腕を引っ張って走り廊下を横切る。
”ビュオオオッ”
奴が風を切る音がすぐそこで聞こえてきた。
「やべぇっ!」
七瀬は今、鍵を開けて窓を開けようとしているところだが、目を閉じてしがみついている名雪に難儀している様子だ。
(間に合わねぇ!)
「畜生!」
俺は自分の窓を開ける作業を止めて、二人の前に立ち最後の力で木刀を握り構える。
七瀬が窓を開け放ち――
「祐一!」
叫ぶ名雪を抱き上げ――
「相沢!」
一瞬だけこっちを見て――
「行けぇっ!」
窓枠に足をかけて――
「死ぬんじゃないわよっ!」
宙に舞った。
「お前もなっ!」
そんな返事をした直後、俺の眼に狸の頭がこれ以上ない程にアップで映った。
俺の木刀が狸の頭突きではじき飛ばされ、俺自身の身体も廊下の壁に吹き飛ばされる。
その瞬間、回りながら弧を描いて飛ぶ俺の木刀、飛び散る鼻血、そして窓から飛び降りる二人の背中と、先程まで二人がいた空間を狸が通過して行く光景が、やけにスローモーションで見ることが出来た。
”ドカッ!”
壁に叩き付けられたところで、俺の目に映っていた光景が、通常のスピードに戻る。
「がはっ」
俺は壁にもたれながら何とか立ち上がる。
口の中が血の味がして気持ち悪い。
息も絶え絶えによろよろと歩き、弾き飛んだ木刀を拾うが上手く握れない。
それでも何とか木刀を掴み、そのまま窓まで行って外を眺める。
飛び降りたはずの名雪と七瀬の姿は無く、無人の校庭が見えるだけだった。
窓から真下を見下ろした事で、俺の足がガタガタと震え始める。
「ははっ、そう言えば俺って高所恐怖症だった。どのみち俺に飛び降りる事は出来なかったかな……」
そんな事をぼんやりと考えていると、こちらへ一直線に飛んでくる巨大狸が、月明かりに照らされて見えた。
立っている力も無くなり、俺は窓と壁に寄り掛かるようにして、ズルズルと座り込む。
ごめんな七瀬、さっきの約束守れそうも無ぇや……ははっ、俺って最後まで約束守らない人間だったな。
ごめん佐祐理さん……。
「ごめん舞……」
俺は目を閉じる事なく、俺に向かってくる狸の頭を見つめていた。
(置物の狸に殺されるなんて、我ながら面白い奴だよな)
やがて、俺の視界いっぱいに狸の頭が広がった。
|
§ |
今回の校内調査に当たって、郁未は皆に何か”反応”が有った場合は深追いせず、手段を問わず校庭へ向かうよう言い伝えている。
ただ、昨夜や今朝の事件を考えると、何が起こるか判らない。
”万が一を考え”郁未が校庭に残ったのはその為だ。
「郁未先生! 次来ます、三階中央!」
佐祐理がインプレッサの運転席で、声を上げる。
既に校庭へ脱出した皆が見守る中、三階の窓が開く。
「捕まってなさい名雪っ!」
叫び声と共に、名雪を抱いた七瀬が血相を変えて飛び降りた。
「きゃぁぁぁぁっ!」
名雪の悲鳴が夜の校庭にこだまする。
すかさず郁未は意識を集中し、二人の身体を優しく包むイメージを思い浮かべ、落下スピードを落とす。
すると、そのスピードは見る見る内に落ちて行き、地面に付く直前で完全に静止した。
「……あら?」
目を開けたまま飛び降りていた七瀬は、落下速度に制動がかかった事で驚きの声を上げるが、名雪は目を瞑り、七瀬の首に回していた腕にぎゅっと力を入れたまま「わぁぁぁぁぁっ!」と叫び声を上げている。
「な、名雪! もう大丈夫よ! ほら、もう地面だから」
「わぁぁっ……え?」
そう言われて、恐る恐る目を開ける名雪。
「わっ本当だ………ぐすっ…ううっ」
安堵したかと思えば、名雪は再び七瀬に抱きついたまま泣き始めた。
「な、名雪?」
「うぐっ……もう…うえっ…七瀬さんあんな無茶しちゃ駄目だよっ!」
「わ、判ったから、ね? それよりも相沢が心配よ!」
「そ、そうだっ、祐一!」
七瀬の言葉にはっとする名雪。
「名雪さーん、七瀬さーん、大丈夫ですかーっ?」
佐祐理の言葉にあたりを見回す二人。
「ひゅーっ、七瀬かっちょええぞ!」
「名雪も留美も無事だったのね。良かった…」
既に脱出して校舎を見ていた折原と香里が声をかけ、他の皆も歓声と拍手で迎え入れる。
「これで、残るは祐一さんと舞さんだけですね」
栞が、心配そうに呟く合間に七瀬は名雪を下ろすと、皆の言葉には答えず、郁未と佐祐理のところへ走った。
「うえっ……祐一…グスッ…」
その場に残された名雪が項垂れ嗚咽を漏らすと、状況の深刻さを悟り皆が静まり返った。
「ちょっと名雪!」
香里が名雪の元へ走り、震える肩を抱き寄せる。
「郁未先生、倉田先輩っ!」
七瀬は叫びながら走る。
「どうしたんですか七瀬さん? 祐一さんは?」
佐祐理がやって来た七瀬に神妙な面もちで尋ねる。
「その、相沢の事なんですが大変なんですっ! あたしと名雪を庇って」
「え……?」
七瀬の言葉を聞いて、佐祐理の表情がさっと固まる。
「ご、ごめんなさい……あたし、あたし達が足手まといに……」
七瀬が涙を浮かべてインプレッサのドアを掴んだまま、その場に泣き崩れる。
それはまるで佐祐理に懺悔するかのようだ。
しかし、佐祐理はそんな七瀬の頭をそっと優しく撫でる。
「大丈夫ですよ七瀬さん。だって舞も祐一さんも、絶対に約束を守る人ですから……だから無事に帰ってきます。そう佐祐理は信じてます。だから七瀬さんも信じていて下さい。あの二人を」
「倉田先輩……はいっ」
佐祐理の言葉に、七瀬は涙を拭いて必死に笑顔を作って微笑んだ。
「あははーっ、それじゃ、みんなで舞と祐一さんをお出迎えしましょーっ」
(この子は……)
不安を余所に気丈に振る舞う佐祐理の姿を郁未は黙って見つめていた。
大親友と想い人の二人が戻っていない――恐らく今この瞬間、もっとも不安に苛まれているのは佐祐理のはずだ。
だが、彼女が二人との間に感じている絆が、その不安を押し殺しているのだろう。
そう思うと、郁未は改めて感嘆するしかなかった。
(この子は、何て強いのだろう)
郁未の視線の先、佐祐理は祈ることもせず、七瀬の頭を撫でながら校舎をじっと見上げていた。
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§ |
俺目がけて巨大な狸が迫ってくる。
防御も、回避も、ましてや攻撃も、おおよそ考えられる行動は全て不可能だと悟る。
その瞬間、時の流れが遅くなった様に感じられ、高速で向かってきているはずの巨大狸が、やたらとスローモーションに見えた。
次いで、脳裏に数々のイメージがフラッシュバックする。
――へぇこれが走馬燈かな?
おや、懐かしいなぁ、小学生時代の名雪か? ははっ、昔っから寝坊助だったんだよなぁ〜
秋子さん、この頃から姿が変わってませんね……一体何者ですか?
押入の奥に隠したテストの答案なんか有ったっけ。まだ見つかって無いのかな?
そう言えば俺って怪我した狐を助けたっけ? 隠れて看病した事あったけど、今は元気かなぁ?
あ、小林に貸した百円返してもらってねーじゃん。
おっ、舞と初めてあった麦畑か、何度見ても綺麗だな。
この頃の舞ってよく笑ってるな。うん、いい感じだ。
『始まりには挨拶を』
『そして約束を』
この声は……麦畑で初めて会った時、舞から聞いた言葉だっけ。
約束……か。
でも、俺っていつも約束をすっぽかして、迷惑かけっぱなしだな。
お? これは……森の中のでっかい木だ。
ああ、そういえばこんな木があったっけな〜。
何で忘れてたんだ? 確か此処って――
「斬っ!」
俺が其処まで考えを巡らせていた時、目の前に影が降りて、次の瞬間迫っていた信楽焼の狸であった物が粉々に砕け散った。
焼き物の破片が宙を舞い、その一部が俺の身体に降り注ぐ。
「痛ぇ……」
その痛みに、自分が生きている事実を認識すると、俺の前に降りた影が揺らぎ、長い髪の毛が波をうつように靡く。
ぼんやりした俺の視界に映ったのは、月明かりに輝く舞の姿。
「また助けられちまったな……」
俺が呟くと同時に、舞が振り返ってるとしゃがんで抱きついてきた。
「ゆーいちーっ!!」
俺を呼ぶ舞の声を聞き、大好きな舞の髪の毛の香りに包まれる。
舞が俺を抱きしめる心地よい感触。
鼻孔をくすぐる舞の髪の香り。
消えゆく意識の中、脳裏に浮かぶいつか見た懐かしい風景。
美しい夕陽。
茜色に染まった雪。
大きな木。
小さな女の子。
『祐一君……』
そして懐かしい声。
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